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Title: お目出たき人
Author: Mushanokoji, Saneatsu, 1885-1976
Language: Japanese
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produced from images generously made available by Kindai
Digital Library)



Title: お目出たき人 (Omedetaki hito)

Author: 武者小路実篤 (Saneatsu Mushanokoji)



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Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the
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Eg. 其《そ》

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Eg. 十三|年目《ねんめ》

[#...] explains the formatting of the original text.
Eg. [#ここから3字下げ]
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 お目出たき人 武者小路実篤著


  高島平三郎先生に
  この小冊子を
  千の感謝を以て奉る。


自分は我儘な文藝、自己の爲めの文藝と云ふやうなものヽ存在を是認してゐる。この是認があればこそ自分は文藝の士にならうと思つてゐる。されば自分の書いたものヽ價値は讀者の自分の個性と合奏し得る程度によつて定るのである。從つて自分の個性と合奏し得ない方には自分は自分のかいたものを買ふことも讀むことを要求する資格のないものである。表紙の畵は友人有島壬生馬氏の厚意になつた。厚く御禮する。口繪はクリンゲルのエツチング集インテルメチーの序畵である。(著者)

目次
 お目出たき人…………………………一

   附錄
 二人……………………………………一四九
 無知萬歲………………………………一七四
 生れなかつたら?……………………一八二
 亡友……………………………………一九○
 空想……………………………………一九九


 お目出たき人

    一

 一月二十九日の朝、丸善に行つていろ〳〵の本を捜した末、ムンチと云ふ人の書いた『文明と敎育』と云ふ本を買つて丸善を出た。出て右に曲つて少し來て四つ角の所へ來た時、右に折れやうか、眞直ぐ行かうかと思ひながら一寸と右の道を見る。二三十間先に美しい華な着物を着た若い二人の女が立ちどまつて、誰か待つてゐるやうだつた。自分の足は右に向いた。その時自分はその女を藝者だらうと思つた。お白粉を濃くぬつた圓い顏した、華な着物を着てゐる女を見ると自分は藝者にきめてしまう。
 二人とも美しくはなかつた。しかし醜い女でもなかつた。肉づきのいヽ一寸愛嬌のある顏をしてゐた。殊に一人の方は可愛いヽ所があつた。
 自分は二人のゐる所を過ぎる時に一寸何げなくそつちを見た。さうしてその時心のなかで云つた。
 自分は女に餓えてゐる。
 誠に自分は女に餓えてゐる。残念ながら美しい女、若い女に餓えてゐる。七年前に自分の十九歲の時戀してゐた月子さんが故鄉《くに》に歸つた以後、若い美しい女と話した事すらない自分は、女に餓えてゐる。
 自分は早足で堀にぶつかつて電車道について左に折れて電車にのらずに日比谷にゆき、日比谷公園をぬけて自家に向つた。
 日比谷をぬける時、若い夫婦の樂しさうに話してゐるのにあつた。自分は心私かに彼等の幸福を祝するよりも羨ましく思つた。羨ましく思ふよりも呪つた。その氣持は貧者が富者に對する氣持と同じではないかと思つた。淋しい自分の心の調べの華なる調子で亂される時に、その亂すものを呪はないではゐられない。彼等は自分に自分の淋しさを面《ま》のあたりに知らせる。痛切に感じさせる。自分の失戀の舊傷をいためる。
 自分は彼等を祝しやうと思ふ、しかし面前に見る時やヽもすると呪ひたくなる。
 自分は女に餓えてゐるのだ。
 自分は鶴のことを考へながら自家に歸つた。
     *  *  *  *  *
 鶴は自家の近處に住んでゐた美しい優しい可憐な女である。自分は鶴と話たことはない。月子さんがまだ東京にゐた時分から自分は鶴を知つてゐた。その時分は勿論戀してはゐなかつたが可愛いヽ子供だと思つてゐた。逢ふ度にいヽ感じがして何時でも逢つた暫くは鶴のことを思つてゐた。しかしすぐ忘れてしまつてゐた。處が月子さんが故鄉に歸つてから三年目失戀の苦がうすらぐと共に鶴が益々可憐に見え、可愛らしく見え、鶴に逢はない時は淋しくなつた。
 自分はその時分から鶴と夫婦になりたく思ふやうになつた。鶴程自分の妻に向く人はないやうに思はれて來た。自分の個性をまげずに鶴とならば夫婦になれるやうに思はれて來た。かくて自分の憧れてゐる理想の妻として鶴は自分の目に映ずるやうになつた。
 女に餓えてゐる自分はこヽに對象を得た、その後益々鶴を愛するやうになり、戀するやうになつた。さうして自分の妻になることが鶴にとつても幸福のやうに思へて來た。
 自分が鶴と夫婦になりたいと思つた時に先ず心配したのは近處の人に冷笑されることだつた。話の種にされることであつた。步く度に後ろ指をさヽれることであつた。
 しかし自分はそんなことを顧慮して自分と鶴の幸福を捨てるのは馬鹿氣てゐると思つた。意氣地のない話と思つた。自分は斷じて近處の人を恐れないで見せる。自分は近處の人、口さがなき俥屋の女房《かみさん》。のらくらしてゐる書生、出入りの八百屋、いたづら小僧、さう云ふ人に後指をさヽれたり、惡口云はれたり、嘲笑されたりすることを平然として甘受して見せやうと思つた。
 次ぎに自分は母を恐れた。母は世間を恐れる人だ。近處の物笑ひになることは母には耐えがたいことだ。しかし自分を愛する母は自分の决心一つでどうでもなると思つた。
 母さえ味方にすれば世間を馬鹿にしてゐる父は承知するだらうと思つた。
 かくて自分は鶴を妻にするために出來るだけ骨折らうと思つた。翌年のくれに母を承知させ、その翌年の春に父を承知させ。その夏、間に人をたてヽ鶴の自家に求婚してもらうことになつた。
 自分は其處まで思つたより容易に事が運んだので、十が九までうまくゆくと思つてゐた。その内には自分の家の彼女の家よりもすべての點に於て優つてゐると云ふ自覺も手傳つてゐた。さうして自分はうまくゆく曉を考へて、嬉しき夢と、甘き夢と、くすぐつたい夢を見てゐた。
 始めて逢ふ時のこと、お互に感じてゐたことをうちあける時のこと、最初の接吻の時のこと………そんなことさえ空想することがあつた。友のする風評、近處の人の風評も想像して見た。父や母や兄や姉や姪に對する鶴の態度も想像して見た。すべての想像は華かな、明るい、甘い、さうしてまばゆい氣まりのわるいものであつた。
 間に立つた人は七月の下旬に鶴の家に行つて下さつた。さうして無愛想に『何しろまだ若いのですから、今からそんな話にのりたくありません』とことわられてしまつた。此方の名を云はなかつたのが、せめてものもうけものにして、自分はそのことがあつてからも二度目に鶴に逢つた時は、以前と同じ程度に圖々しく鶴の顏を見る事が出來た。
 その年の秋、鶴の一家は自分の家の近處から、一里程はなれた所に引越してしまつた。引越された當座は何だか自分が求婚したのが氣がついて、不快に思つて引越して行つたやうな氣がして淋しかつた。又彼女に逢ふ機會の少ないのが淋しかつた。自分は氣まりのわるい思ひをして翌年の三月迄每月一度ぐらい何氣なく彼女の學校の歸りに逢ひに行つた。逢えない時には每週一度ぐらい逢ひに出かけたこともあつた。しかしそれ以上逢ひに行く程圖々しくはなれなかつた。
 その三月に再び間に立つ人――その人は川路と云つた――に鶴の家に行つて戴いて、求婚して戴いた。今度はこつちの名を云つた。さうして結婚するのは何時まで待つてもいヽと云つた。自分は鶴を戀してゐた。さうして女に餓えてゐた自分は一日も早く鶴とせめて許嫁《いヽなづけ》になりたかつた。その上にその春鶴は學校を卒業するやうに聞いてゐたから。
 しかし鶴はその春、まだ學校を卒業しないのださうだ。さうして兄が結婚するまではさう云ふ話を聞くのさえいやだと云ふ先方の答へだつたと聞いた。その後一度、偶然に甲武電車で逢つた。それは四月四日だつた。その後鶴には逢はない。
 其後鶴の話はそのまヽになつてゐる。自分には望みがあるやうにもないやうにも思へる。
 自分と鶴の關係はあらまし以上のやうなものだ。
 自分はまだ、所謂女を知らない。
 夢の中で女の裸を見ることがある。しかしその女は純粹の女ではなく中性である。
 自分は今年二十六歲である。
 自分は女に餓えてゐる。
     *  *  *  *  *
 自分はこの餓を鶴が十二分に癒してくれることを信じて疑はない。だから一年近く鶴に逢はないでも鶴を戀してゐる。逢はない爲にか鶴は益々自分の理想の女に近づいてきた。
 だから今の處、この話のきまるまでは何年たとうとも他の女と夫婦にならうとは思はない。
 しかし自分は女に餓えてゐる。鶴以外の若い美しい女は瞬間的に可なりつよく自分をひきつける。又年增の女でも、さう美しくない人でも或瞬間には可なりの力を以て自分をひきつける。
 自然は男と女をつくつた。互に惹きつけるやうにつくつた。之がために自分は淋しく思ふことも、苦しく思ふこともある、しかし自分は自然が男と女をつくつたことを感謝する。互に强くひきつける力を感謝する。もし地上に女がなかつたら。愛し得るものがなかつたら。戀し得るものがなかつたら。さうして我利〳〵亡者許りが集つてゐたら、いかに淋しいであらう。
 女によつて堕落する人もある。しかし女あつて生きられる人が何人あるか知れない。女あつて生れた甲斐を知つた人が何人あるか知れない。女そのものはつまらぬものかも知れない。(男の如く、否それ以上に。)しかし男と女の間には何かある。
 誠に女は男にとつて『|永遠の偶像《エターナル・アイドール》』である。
『アダム』は『イブ』によつて樂園から逐ひ出されたかも知れない。しかし一人で樂園に居るよりはイブと共に樂園を逐ひ出された方がアダムにとつて幸福だつたかも知れない。
 女そのものは知らない、しかし女の男に與へる力は知つてゐる。女そのものは力のないものかも知れない。しかし女の男に與へる力は强い。
 所謂女を知らないせいか。自分は理想の女を崇拜する。その肉と心を崇拜する。さうしてその理想的の女として自分の知れる範圍に於て鶴は第一の人である。
 鶴に幸あれ!
 しかし自分はいくら女に餓えてゐるからと云つて、いくら鶴を戀してゐるからと云つて、自分の仕事をすてヽまで鶴を得やうとは思はない。自分は鶴以上に自我を愛してゐる。いくら淋しくとも自我を犧牲にしてまで鶴を得やうとは思はない。三度の飯を二度にへらしても、如何なる陋屋に住まうとも、鶴と夫婦になりたい。しかし自我を犧牲にしてまで鶴と一緖にならうとは思はない。
 女に餓えて女の力を知り、女の力を知つて、自我の力を自分は知ることが出來た。
 しかし女の柔かき圓味ある身体。優しき心。なまめかしき香《かほり》。人の心をとかす心。あヽ女と舞踏《たんちえん》がしたい、全身全心を以て。いぢけない前に春が來てくれないと困る。
 自分は自我を發展させる爲にも鶴を要求するものである。

      二

 自家に歸るとまもなく晝飯だつた。
 晝飯を一緖に食ふのは母と自分と今年四つになつた姪とである。父は每日會社に出てゐる、兄と義姉は會社の用で外國に行つてゐる。
 姪は祖母ちやん〳〵で一日くらしてゐる。母は春ちやん〳〵(姪の名)で一日くらしてゐる。父が歸れば父の用があるが、父も孫で夢中だ。
 自分も春ちやんが好きだが、春ちやんも自分のことを叔父さん〳〵と云つて懷つくが、とても春ちやんで夢中になることは出來ない。自家で自分だけが愛するものなしに生きてゐるのである。
 晝飯の時春ちやんで賑かだ。何度母や自分は笑つたか知れない。實際見てゐると可愛いヽ。我儘云つてぢれる時や、泣く時は五月蠅が氣嫌のいヽ時は可愛いヽ、しかし笑ふ時も母程夢中にはなれない。他人の子供も可愛いヽが、姪の方が遙かに可愛いヽ、しかし自分の子供はもつと可愛いヽだらう。
 自分は春ちやんを可愛く思ふが、思ひやうがあつさりしてゐる。さうして時々、母殊に父が夢中になつてゐると淡い反感を起す。併しもし自分の子供だつたら、自分も夢中になるであらう。子供を通して自分の妻もよせて四人が夢中になるであらう。
 晝飯は相變らずすぎた。自分は自分の室に歸つた。
 飯食つてゐる時はまだよかつたが、室に歸つたら淋しい氣がした。久しく逢はない、鶴に逢ひたいなと思つた。しかし逢ふのがきまりがわるい。逢つたつて淋しい感じを抱くだけだ。結婚については彼女には少しも力のないことを自分は信じてゐる。
 しかし逢ひたい、どうかはつてゐるか知らんと思ふ。
 その時自分は今日は金曜日だと云ふ事に氣がついた。自分は中々の迷信家だ、人智を信じない自分は運命を信じたくなる。運命に賴り切れるほどには信じてゐないが可なり信じてゐる。從つて可なりの迷信家だ。打ち消しながら信じてゐる。少くも氣にかヽる。
 金曜日は西洋人が忌むと自分は聞いてゐる。それで二三年前から彼女に逢ひたい時でも金曜日だとなるべく逢ひに出かけないやうにしてゐる。しかしそんな迷信はわるいと思つて反つて出かけることもある、しかし一寸いヽ氣がしない。彼女が引越てからは逢ふのには一寸遠くに行かなければならない。從つて金曜日にわざ〳〵出かけるのはいやだ。しかしそれは迷信だ、迷信はよくないと思つて出かけた事もある。さう云ふ時は逢はないと反つていヽなと思ふことさえある。
 まして一年近く逢はない鶴に逢ふのに、わざ〳〵金曜日に行くのはいやだなと思つた。しかし逢ひたい。
 この時、折角今迄逢はなかつたのだから逢はない方が、甘くいつた時にも、まづくいつた時にもいヽと思つた。さうしてとう〳〵逢ひにゆくのをやめた。
 幸あれ!
 自分は何か讀まうと思つてムンチの本をとつて見たがどうも讀む氣になれない。さうして淋しい氣がした。
 自分はどうもたヾの空想家らしく思へていけない。何事も出來ず。これはと云ふ面白いこともせず。さうして天災で若死するやうな氣がする。これも空想だらうと思ふが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬやうな氣がする。
 さもなければ肺病になつて若死するかも知れない氣がする。どうも自分はなが生《いき》しないやうな氣がする。しかしさうかと思ふとなが生出來さうな氣もする、中々死にさうもないと思ふ。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。
 自分は之からの人間だ、大器晚成の人間だ。さう思はないではゐられない人間だ。それが今死んではたまらないと思ふ。しかしいくらたまらないでも死ぬ時が來れば死ぬ。したいことのない人はいヽ、したいことの多い自分は死ぬのがいやだ。
 何しろ自分は戀も味ふことが出來ず、これはと云ふ仕事も出來ず。父たるの喜びも知らず、滅びてゆくやうな氣がしていけない。
 自分はその淋しさをまぎらす爲に外に出た。
 うつとしい曇つた天氣だつた。自分は色彩に乏しい陰氣な町を目的もなく淋しい陰氣な心持で步いた。泣きたくつて泣けないやうな天氣は自分の心持に似てゐる。しかし步いてゐる内に益々淋しくなつて淚ぐんで來た。かうなると自分の人格が一段と高くなつたやうな氣がする。さうして道ゆく人より自分の方が一段と偉いやうな氣がする。すべての人を憐み、すべての人に同情するやうな氣になる。
『なんの爲に貴君逹は生きてゐるのですか。
 國の爲ですか、家の爲ですか、親のためですか、夫の爲ですか、子の爲ですか、自己の爲ですか。
 愛するものヽ爲ですか。愛するものを持つておゐでヾすか』
自分はかう心に云つた。

      三

 翌三十日の祭日は土曜だつた。この日大久保の友の家で同窓會があつた。晝頃迄雨がしと〳〵と降つてゐたが午後一時頃自分が自家を出て大久保の友の處へ出かけた頃には殆んど傘もいらない程の小降りだつた。自分は傘をさしたり、つぼめたりして四谷まで步いて甲武電車にのつた。
 大久保には鶴が住んでゐる! 鶴の自家《うち》は何處だか知らないが、友の家と百番地ぐらゐはなれた處に住んでゐる。
 自分は滅多に大久保の友を訪はないが、鶴が大久保に引越してから大久保の友の處へゆく時は鶴のことを思はない時はない、電車で一緖になりはしないかと思つて見たり。途中で逢ひはしないかと思つて見たりする。
 可なり待つて電車に乘つたが鶴らしい人はゐなかつた。大久保でおりて友の處へゆく途中の路のわるいのにおどろいた。可なり齒の高い高下駄の齒が沒してしまう處さえあつた。それから見れば市中の道はわるいと云つても知れたものである。
 自分はこのわるい道を鶴が每日學校へ行く時に通つてゐるのだと思つた。この時自分は一昨年のくれに鶴にあつた時のことを思ひ出した。
『走《か》けて御覽なさい』
 と口の中で云つて、微笑んだ。
 一昨年のくれに自分が鶴に逢ひたくつて逢ひに出かけた時だつた。自分は鶴の學校の前までゆくのはいやだから大槪時間を計つて途中まで逢ひに行つて或處までゆくと右に曲つてしまう。その時その曲り角近く來たが鶴の姿は見えなかつた。三十間程でまがる所に來た時、曲り角で四人許りの女學生が立ちどまつて後ろを見てゐた。
 すると向ふから一生懸命で走《か》けてくる人があつた。
 鶴じやないかと自分は思つた。かう思ふのは珍らしいことではない。同じ年恰好の女學生、或は女の人の遠くから來るのを見る時、或は後姿を見る時、いつでも、どんな所でも鶴ぢやないかと思ふ。段々さう思つて見てゐるとさう見える。さうして十が十までちがう。そのくせこりずにさう思ふ。
 しかしこの時、向ふから走《か》けて來たのは鶴だつた。高下駄をはいて夢中で走《か》けて來た。その日は天氣がよかつた。さうして道もよかつた。立ちどまつてゐる人は皆駒下駄だつた。
 鶴は眞赤な顏して走《か》けて來てとまつた、さうして四人におじぎして
『お待ちどうさま』と云つた。この時、自分は鶴と三間とははなれて居なかつた。自分は一寸鶴の方を見て右に折れやうとした。
 すると鶴が何か云つた。すると皆
『あまりお走《かけ》になるからよ』と云ふのが聞えた。その時自分はもうふり向いて居た。その時鶴は高下駄の齒を一つおとしたのをひろはうとしてゐた。
 その時自分は鶴と顏を見合せたと思つた。自分は夢中で三十間許り步いた。さうしてふり向いた時にはもう誰れもゐなかつた。
 この時大久保は道のわるい所だと思つた。それが今になつて思ひあたつたのだ。
 走《か》けて御覽なさいと云つたのは鶴が自分の妻になつて一緖に高下駄をはいて步く時に揶揄《からか》ふ言葉なのだ。永遠に揶揄《からか》ひ得《う》る時《とき》は來《こ》ないかも知《し》れない。しかし空想ではいくらでも揶揄《からか》へる。
 自分が友の所へ行つた時は旣に四五人の人が來てゐた。
 その内に段々來て十五人程になつた。中には三四年ぶりに逢つた人もあつた。もう陸軍中尉で陸軍大學に入つてゐる人もある。學士になつてゐる人もゐる。妻をもつてゐる人、子供を持つてゐる人もある。
 しかし皆集れば六七年前の昔に歸る。皆は六七年前の友である。六七年前の心になり得ない人は互に面白く夢中になることは出來ない。
 自分が友の處へ行つたのは一時半頃だつた。それから十時半過までいろ〳〵のことをして面白く遊んだ。遊んでゐる時には皆六七年前に歸つた。しかし雜談のさいには齡は爭はれないものだ。
 もう五六人集つて、藝者の話にしきりと興味を持て話てゐるかたまりもあつた。その内には今迄そんな話をすることの大嫌ひな人まで入つてゐた。彼等も女に餓えてゐるのだなと思つた。しかし圖々しく馬鹿に興味を持つてゐることを顏に顯はして話をしてゐるのが不愉快であつた。自分はそんな話をぬすみ聞きするのが不快であつた。しかし時々《とき〴〵》聞《きこ》えることを聞えなくすることは出來なかつた。誰とかヾ藝者に惚られたとか、惚れたとか。デパートメントストアとか云ふ言葉がちらつ〳〵[#「ちらつ〳〵」に傍点]と耳に入つた。
 自分はかう云ふ話を聞いてはいくら女に餓えても藝者遊びは斷じてしないでよさうと思ふ。さうして美しい女と夜をたのしむ人を浦山しいとは思へなかつた。
 この前の同窓會の時にも誰が細君をもらつたとか。今に誰がもらうとか、賣約濟だとか、豫約濟だとか云ふ話に花がさいた。今日は誰が父さんになつたとか、嘲笑的に云つてゐる人があつた。
 道學者の自分にはかう云ふ性の問題を戯談にされるのは不快でいけない、嚴肅な問題を坐を賑かにする爲につかわれては困る。
 さうして自分の女に對する考。結婚にたいする考と人々の考の間に非常に違ひがあるやうに思へて仕方がない。夢中で遊んでゐる時はいヽが、雜談の時、皆の口から出る言葉は自分に今後會へくるなと宣言してゐるやうにさえ思へることがあつた。
 彼等はロダンの接吻を見て氣味のわるひ笑ひ方をする男にちがひない。
 しかし大體から云ふと今日の同窓會は大成功だつた。他の同窓會のやうに醉ぱらう人は一人もゐない、顏をほんのりと赤くした人さえゐない。彼等のやうな興味の人間に醉ぱらわれてはたまらない。
 十時過に皆、聲をからして、笑ひすぎて、食ひすぎて、運動しすぎて歸路についた皆面白かつたと云つた。こんな子供らしい樂は外では味えないと云つた。
 電車で四谷までくる間は連があつた。それからわかれて獨り歸つた。雨はもう少しも降つてゐないが、あたりに「もや」がかヽつてゐて、空には雲がかさなつてゐた。その雲がいやにどす黑くつてふちの灰色とでなほすごく見える。雲の足は早く、十七夜の月が時々すごく顏を出す。
 自分は寢靜まつた所々瓦斯燈のついてゐる町の内をこんなことを考へて歸つた。
 自分がもし鶴と結婚が出來たら。同窓會に行つたら、きつと嘲笑する人があるだらう。自分は嘲笑に報ゆるのに眞面目な怒を以てするから自分を揶揄ふことは眞の意味に於て自分と喧嘩することであるから、誰も自分には嘲笑をしない。隨分されてもいヽことがあるやうな氣がするがされない。
 しかし鶴と結婚が出來れば隨分いヽ話のたねになるから、さう云ふ話に馬鹿に興味をもつ人はつい自分を揶揄ふかもしれない。
 その時自分はかう答へる。
『え、見初めて結婚したのです。殘念ながら眞の戀を幾分か知つた僕には貴君のやうに多くの女に興味を持つことは出來ません。何でもござれとはゆきません』
 かう云つて自分は苦虫《にがむし》をつぶしたやうな顏をするだらう。さうして坐はそれが爲に白らけるであらう。しかし自分にはまださう云ふ時に超絕することは出來ない。
 このことに超絕することが出來れば自分はもう道學者じやない。敎育家でもない。さうしてもしその時皆が默つてゐたら自分は話頭をかへるであらう。しかしなほ自分を嘲笑する人があつたら、自分は默つて歸るにちがいないと思つた。かう思つた時自分は微笑んだ。
 十一時半頃|自家《うち》に歸つて、すぐつめたい寢床に入つた。

      四

 二月一日の晚に中野の友が來た。
 この人は自分の今の戀を知つてゐる。今大學の文科に通つてゐて、自分と學習院の時同窓だつた人だ。三十日の同窓會にも來て居た。
 いろ〳〵話をしたが、自分に忘れられない印象を與へた言葉は
『美しい女の人で電車にのつて學校に通つてゐる人はすぐ評判になるらしいね』と云ふ言葉であつた。自分は『さうだらう。皆美しい女に餓えてゐるからね』と云つた。
 さうして鶴も評判されてゐるだらうと思つた。鶴は大久保から電車で學校に通つてゐる。
 友は評判されてゐる二三の女について人から聞いたことを話した。
 自分はその女を知らない。だから評判されても別に何とも思はない。しかし鶴が評判されては困る。女を玩弄物《おもちや》のやうに思つてゐる人々の口の端《は》にのぼるのはいやだ。鶴は華美《はで》な女ではない。さうして粗末な着物を無雜作に着て居る(少くも去年迄は)一寸人目にはつかない女だ。しかし美しい。なんと云つても、どんな風しても美しい。さうして可憐だ。男をひきつける所がある。マリアのやうな顏の形。ビーナスのやうな目。
 餓えたる男の目をのがれることの出來ない女である。鶴はもう少數な人には評判されてゐるにちがいないと思ふ。
 このことは神聖なるものを穢されたやうな氣がする。
 鶴を戀し得る資格のある人は自分一人でありたい。鶴の個性はたヾ自分の個性とのみ夫婦になり得るやうに自分は五年前からどうしてか迷信してゐるのだ。されば自然は自分をして鶴を話しすることもなくして强く戀し得るやうにさせたのだと思つてゐるのだ。
 鶴を戀してゐる人はゐないかも知れない。しかしさう考へ得る程には自分は目出度くない。
 鶴を戀してゐる人があるとする。その人の性格が氣にかヽる。もし眞に鶴を戀して居る眞面目な人があるならば、自分が幸福の時にその人を不幸におとさなければならない。さうしてもし鶴がその人に心があつて、さうして親の命令で自分の處へくるならば鶴にも氣の毒である。自分は平然として鶴と結婚することは出來ない。
 自分は自分の快樂の爲に他人を不幸にしやうとは思はない。自分の戀の爲に他人の戀を犧牲にしたくはない。まして自分の戀してゐる女の不幸を喜ばない。鶴が自分を愛してゐてくれてると思へばこそ、自分の處へくるのが鶴の爲になると思へばこそ、自分は父や母に無理に承知させてまで求婚したのだ。しかしもし自分の處へ來るのを喜ばず、他の人の處――その人は自分より遙かに有望な人で立派な人で身体の丈夫な人であるとする――へ嫁《ゆ》きたく思つてゐるならば自分の求婚は考へものである。
 自分から求婚されなかつたら、もつと幸福だつたらうと思ひながら鶴が自分の處へ來ては困る。
 自分は自分の處へ來ることを一番幸福だと感じてくれる人でなければ、此方からお斷りしたい。自分は生れつきの道學者である。
 さうして自分は極端の個人主義者である。
 自分を他人の爲に少しでも犧牲にすることを喜ばない自分は、他人を自分の爲に少しでも犧牲にすることを耻とする。
 ましてや、愛する故を以て愛するものヽ自由を束縛し意志を束縛するものを心から憎む自分は極端にまで自分の爲に戀人を不幸にさせたくない。
 しかし自分は鶴が他の男を戀してゐると云ふことを知らないのだ。自分を戀してゐてくれると云ふことも大なる疑問であるが、それ以上に鶴が他の男を戀してゐると云ふことは自分にとつて疑問である。
 さうして自惚のつよい自分にとつて自分以上の人格者が鶴を戀してゐると云ふことは大なる疑問である。
 こヽで問題は裏返しになる。もしかしたら自分が押つよく求婚しないために彼女は他の外面的には遙かに自分よりよき人の所へ嫁《か》さないとも限らない。さうしてそれが爲に自分の處へ來た程生の快樂と有難味を知らずに死ぬかも知れない。
 かう思ふと自分は鶴の爲に戰ふ時が來たやうな氣さえする。
 しかし鶴とは一年近く逢はないのだ。自分は鶴と話したことはないのだ。自分はたヾ鶴の心と自分の心とはもう三四年前から他人ではないと云ふことを信じてゐる。しかし勝手に信じてゐるのだ。二三年前からマーテルリンクを愛讀するやうになつてからなほさう云ふやうに思へるやうになつた。
 口ではうそがつける。耳にはうそがつける。しかし眞心はうそをつかない。眞心にはうそはつけない。自分はさう信じてゐる。しかし疑問が入る隙間もない程には信じてゐない。
 かう云ふことを自分は中野の友と外の話をしながら。沈默するとはきれ〴〵に思つた。
 さうして中野の友が十一時近くに電車がなくなるといけないからと云つて歸つたあと、すぐ自分は自分に多大の同情をよせてくださつて、鶴と自分を夫婦にする爲に奔走してくださつた、さうして之からも一生懸命に奔走しやうと云つて下さつた。川路氏に手紙をかいた。
 手紙の前置を書いてゐる内に自分は自分の鶴に對する對度の傲慢なのに氣がついた。
 自分は女に餓えてゐるので今迄はなるべく早く夫婦になれなければせめて許嫁になりたく思つてゐた。しかし考へて見れば鶴はまだやつと十八才になつた許りである。――自分は實は三四年前にもう鶴は十八ぐらゐにはなつてゐると思つてゐた――さうして兄はあるが一人娘である。兩親にとつて可愛いヽ娘を若い内から手ばなして性質もわからない男に一生をたくさせるのは不安であらう。この頃は二十二三でいヽ處へ嫁く人が多い。その方が多い位いだ。自分は自惚れてゐるから、自分をいヽ人だと思つてゐるが、鶴の兩親や兄は――兄は自分を知つてゐるわけだ――自分をのらくらした、だらしのない男としか思ふまい。女に見初めて夢中になつてゐる不快な、男らしくない男としか思へまい。さうして望みのない顏色のよくない男としか思へまい。さう思はれるのが當然だと思はないわけにはゆかない。
 たヾ自分の父が一寸知れてゐるのと、兄が有望なのと、食ふことには困らない位いがとりえなのだ。
 やる所が他にないときまるまでは一寸くれる氣にはなれさうもないやうに思ふ。だから少くももう二三年は自分の話にはのつてくれまい。さうしてその間にいヽ處があつたらやるにちがいない。
 見初めて求婚する人にも自分より資格のいヽ人があるだらう。見初めるやうな馬鹿な眞似をしない有望な人で貰らつてくれる人もあるにちがいない。
 鶴はよし自分を戀してゐてもそれは兩親や兄の命に背く程のものとはどうしても思へない。
 自分はかう思つたらなんだか淋しい氣がした。さうして自分は手紙に次のやうなことをかいた。
『……私は勝手に戀したのです、勝手にもらいたがつたのです。私は之がためにいろ〳〵の人に迷惑をかけました。殊にお急がしい貴君に大變御迷惑をかけました。
 私は事がこヽまで運《はこ》んだことを以てすでに望外の幸と思つております。最も誤解され易い話が誰にも誤解されずにこヽまで運《はこ》んだことを望外の幸と思つております。
 ですからこの話が駄目になりましても、理解して下さつた、同情して下さつた、さうして奔走して下さつた、方々に一生感謝いたす心算《つもり》でおります。さうして感謝のしるしとしてよし今度のことが駄目になりましても少しもまいらず、益々自分の進む方に進んで見ます心算《つもり》です。
 どうかこのことを信じて下さい。信じて下さることは力です。
 しかし私は例のことに就て依然として元のやうな意志を持つております。まだ思ひ切りたく御座いません。一縷の望みのある間、私は思ひ切りのわるい人間で御座います。私はもう一度|貴君《あなた》をわづらはしたく思ひます。
 のりかけた舟と御あきらめを願ひます。それはもう一度先方へ行つて戴いて、此方《こつち》と結婚の話にのれる時がくるまでは此方はまちますから。話にのれる時が來たらどうぞ此方にお知らせ下さい。又もし良緣がおありになつたら御面倒ですがそのことをなるべく早くお知らせ下さい。と云ふことをうまく云つて戴きたいのです。
 私は先方が斷る氣でゐるのに何度も何度も頭をさげて求婚するのは馬鹿氣てゐると思ひます。先方から進んで上げましやう、來ましやう、と云ふ氣がないのに此方《こつち》から頭をさげて是非もらいたいとは思ひませぬ。
 私は自分が勝手に戀し、勝手にもらいたがることによつて例の人を不幸にしたくはありません。私は戀人の喜ぶことこそ望みますが。戀人の悲しむことを望みませぬ。
 私は例の人の誰かと結婚する迄は獨身でゐやうと、兩親が承知しない前からきめておりました。私は何年でも待つことは平氣です。平氣でなくとも勝手に戀した罸として平氣でおめにかけます。
 どうか私の意のある處をおふくみ下されて。私に遠慮なく、例の人の人妻になつた時先方から知らせてもらうやうにおたのみして戴きたいのです。
 誠に御面倒なことをお願ひいたしますが、かうやつてこの話を一|先《まづ》かたづけて戴かないと何だか氣になります。
 かうして戴けば安心して運命に任せることが出來。安心して自分の道をすヽむことが出來ると思ひます。何時も我儘なことをながつたらしく書きます。
 御許し下さい。』
 書きあげて時計を見たら二時少し前だつた。すぐ寢床に入つた。何だか興奮して中々ねむれなかつた、さうしてやヽもすると自分を哀れむ淚がこぼれる。
 自分は男だ! 自分は勇士だ! 自分の仕事は大きい。明日《あす》から驚く程勉强家にならうと自分は自分を鼓舞した。その内にねてしまつた。

      五

 翌朝七時頃に起きた。飯食ふ前に昨夜書いた手紙を自分で投凾しに出かけた。さうして投凾する時、幸あれよと心に祈つた。
 自分は祈の餘りきヽめのあるものとは思はない。しかし祈ると祈らない時よりは幾分かの安心を得られる。だから何か心配事や、かうあつてほしいと思ふ時は一寸心で祈る癖がある。
 今日は久々で天氣がいヽ、少し空氣の冷たいのも氣持がいヽ。自分は今日から餘り鶴のことを考へずに勉强しやうと思つた。
 どう考へても鶴のことはどうもならない。そんなことを考へて頭をつからせ。時間を空費するのは馬鹿氣でゐると思ふ。
 自分はもう鶴に對して出來るだけのことをした。之で鶴が人妻にならうとも思ひおくことはないはづだ。かうすればよかつたと未練を殘すこともない。
 さう考へはしたが鶴はどうしてゐるだらう。うまく行つてほしいとすぐ思ふ。さう思ふと近處の人の嘲笑を思ふ。
『鶴、己《おれ》におたより。世間の人がかれこれ云へば二人が益々愛しあふ許りだね』と心に云つた。
 八時半に朝飯だつた。春ちやんは相變らず元氣だつた。三つ四つの子供は身体の工合がよくつて愛してくれる人のわきにゐれば何時でも嬉《うれ》しくつてたまらないやうにはしやいでゐるものだ。自分もそれに見惚《みと》れてゐると自然《ひとりで》に微笑まれる。さぞ父や母は可愛くつてたまらないだらうと思つて二人の顏を見る。
 實際二人は崩《くづ》れさうな顏して笑つてゐる。
 この時自分は不意に鶴のこんなに喜ぶ顏を見たいと思つた。自分はすぐ思ひを顚じた。しかしもう自分は微笑むことが出來なかつた。自分は眞面目な顏して父や母の夢中で笑ふ時も、おつきあいに一寸笑ひ顏を見せるだけで急いで飯を食つた。さうして淋しい心を抱いて自分の室に入つた。
 自分はムンチの本を開いて讀みかけた。しかしどうもおちついて讀んではゐられない。
 一|体《たい》自分は廣義の敎育家にならうと思つてゐるのだ。さうして破懷された殿堂のかはりに新らしき殿堂をたてたく思つてゐる。自分は現代の人の頭《あたま》で罵倒し、心臓でのぞんでゐるものを捜し出して人々に敎へたいと思つてゐる。
 自分はこの重荷の爲に絕えず心を勞してゐる。しかし自分は弱い人間である。さうして才能のない人間である。
 天に憧《あこ》がれながらたよるものなく地面をのたくつてゐる蔦のやうな人間である。賴れるものにぶつかれば何でも賴らうとする人間である。何か今にたよるものを得るだらうと思つてゐる。この點で自分は樂天家である。さうして先づ鶴にたよりたく思つた。しかしそれは不可能らしい。
 自分はこヽで云ひたくないことを云はなければならないと思ふ。自然の秘密《ひみつ》なれと命《めい》ずることを吿白しなければならないと思ふ。それは淫慾についてヾある。自分はこの誰でも持つてゐるはずのこの慾を自然が人をして耻かしいものヽやうに感じさせる力を崇拜してゐる。この耻かしさがなくなる時男女の關係が如何に亂れるだらうかと思ふ時に自分はこの耻かしさを尊敬する。さうして自分はこの耻かしさを通して自然がこの問題をなるべく秘密にせよと命じてゐるやうに思ふ。しかし自分は謹んでこの命に背かうと思ふ。
 自分は誰かと結婚しない間は淫慾に誘惑される時手淫に逃れて行かうと思つてゐる。自分は手淫もせず、女も知らずに立派に生活してゐる人を知つてゐる。又さう云ふ生活の出來得ることを信じてゐる。自分は人間の意志の力。理性の力を知つてゐる。しかし自分は可なり强いストラツグルの結果手淫を正當なものだと信ずるに至つた。後でメチニコフもさう云ふ考を持つてゐると云ふことを友から聞いて力を得た。しかしこのことが後ろぐらい。自分の後ろぐらいことの殆んど唯一のものだ。豪さうなことを考へ、又云ふ時、自分の心の内に『汝、手淫する者よ』と云ふ聲が聞える。自分はこの後《うしろ》ぐらい所をなくす爲にも實は早く鶴と結婚したく思つてゐるのだ。
 自分はムンチの本をおいて、ぢつとしてゐられないので神田に散步がてらに行かうと出かけたら。途中で小石川の友に逢つた。自分の處に來やうと思つてゐる所だと云ふので一緖に自家に歸つた。
 小石川の友は自分と一番舊い友で氣が合つてゐる。しかし趣味がちがう、彼は高等商業學校を三年前に卒業して今三井に出てゐる。彼は何處までも實際家で空想を空な、力のないものと思つてゐる。さうして道德なども虛しきものと思つてゐる。少くも利害をはなれた道德はないと思つてゐる。道德は强者のつくつたもので弱者の荷はせられるものと思つてゐる、さうして弱い人を病人と同一に見てゐる。病人は罪がなくとも苦しむやうに弱者も罪がなくとも苦しむのが當然で、さう云ふ人のことを同情しても始まらないと云ふのが彼の說である。
 彼と自分とはよく議論をする、しかしお互に云ふだけのことを云ふと議論したことをまるで忘れてしまう。
 要するに思想や興味では同じでないが、それ以外の點で相和してゆく仲のいヽ友である。しかしこの頃は時々にきり逢はない。
 その日も何か話てゐる内に道樂についての議論になつた。
 友は冷笑するように
『今になつてもまだ、道樂はわるいものと思つてゐるのかい。開けないね』と云つた。
『道樂する人に自分は同情するが』
『浦山しくも思ふのだらう』
『さうかも知れない。しかし同情もするよ。より處のない女に餓えてゐる男が、慰みの手段として、快樂を得る手段として、女郞買ひに行つたり、藝者買ひに行つたりするのは無理もないさ。しかしいヽことヽは思へないね。第一あヽ云ふ不自然なもの、金によつて操の切り賣する女があるので、女の價値がわからなくなるし、男女交際の必要はなくなるし、女の興味品性は下劣になるし、何しろ道樂者には都合がいヽだらうが、女にとつてはたまらないと思ふね』
『さすがに道學者だけあつて女の聲色を使ふね。しかし健全な男には健全な男の權利があるさ。道樂するものには道樂する權利があるさ。健全な人は病人の眞似をしないで飛びまわる權利がある。道學者の君は道樂してはいけないだらう。しかし健全な人が自然の要求に從つて道樂するのを責める權利はないと思ふね。』
『自然の要求に强いられて道樂するのだらうか、しかしそれはいヽとして、道樂そのものヽ害を君は知らないのだらう』
『知つてゐるさ、しかしさう害はないよ。世の中は道學者の思ふ通りにはゆかない。道樂者が榮え、放蕩しないものが神經衰弱になることなぞはよくあることだ。勿論道樂もしやうによつては滅亡するさ。しかしさう云ふ奴は滅亡していヽ奴なのだ。滅亡する程夢中になれたことを感謝して瞑すべき奴だ。』
『僕の云ふ道樂の害はさう云ふ目に見える害を云ふのじやない。もつと有益につかえるエネルギーや、時間や、金を空費することを云ふのだ。趣味のすさむことを云ふのだ。遊べない時の苦痛を云ふのだ。藝者を戀する時の不安を云ふのだ。家庭の平和のやぶれることを云ふのだ。』
『なーに君、放蕩者はもつと甘く放蕩するよ。たヾ酒のんだり、女とさわいだり、すればいヽのだからね。個人を相手にするのじやなくつて快樂を相手にするのさ。』
『その快樂に夢中になるのだらう。』
『夢中になることもあるだらうが、さう心配なことはないさ。たヾ愉快を得さいすればいヽのだ。瞬間的に愉快を得ればいヽのさ、何にも損せずに愉快な氣持だけを味ふのさ。』
『しかし細君が可哀さうだね。』
『細君を持たなければいヽさ。しかしうまくやれば細君に可哀さうなことはないよ。女は放蕩者の方を君のやうな道學者より歡迎するものさ。第一面白いもの、君のやうなさばけない男は女には嫌はれるにきまつてゐる。女は馬鹿だから自分を尊敬して愛してゐるやうな男は女々しい奴だと思つてしまう。道樂しないやうな男はつぶしのきかない、偏窟な男ときめてしまう。君が女に戀されやうと思つたら、プラトニツクな考をすてなければいけない。何んでも露骨にゆくに限る、さうして氣に入るやうなことをどん〳〵云へばいヽのだ。女はこの耳から入るものを信じるからね。女はよくうそつくくせに他人にうそつかれ易い動物だからね。先づ女の肉體を占領せよ、女の精神はその内にあり、と云ふのが女を得る秘訣さ。君のやうな人間は一生女から戀されることはないね。地球が太陽のまわりを廻つてゐるやうに戀人のまわりを廻つてゐるより仕方がないね。』
『話が大變それたじやないか』と自分は少し耳の痛いことがあつたから話をかへた。
 友は默つて笑つた。さうして言葉をあらためて
『例のことはどうなつた』と聞いた。友は自分の鶴を戀してゐることを知つてゐるのだ。
 自分は昨夜、大久保の友の來て話たこと、昨夜の手紙のことを話《はな》した。
 友は少しも笑はなかつた。さうして自分が話し終つた時に、
『うまくいくといヽね、うまくいけば君程幸福な人はない。君なんかは道樂をする資格のない人だ』と云つた。こう云はれると自分も
『しかし僕だつて道樂をしたくないことはない。自分は女に餓えてゐる。華な快樂に憧がれてゐる』と云ひたくなる。
『さうだらう。しかし面白いこと許りじやないよ』と友は笑つた。
『さうだらうね。僕もそれが怖いのだ。さもなければ例の人がゐなかつたら遊んでゐるかも知れない。さうしてひどいめに逢つたらう。今逢つてゐる時分かも知れない。』
 二人は笑つた。議論は何處かへ飛んでしまつた。
 友は晝前に歸つた。
 翌三日の朝、川路氏から返事が來た。貴君のお心はよくわかつてゐる。お父さまと御相談して全力を盡すからすべてのことを任せて戴きたい、と云ふ意味のことが書いてあつた。
 勉强しやう〳〵!
 幸あれ!

      六

 自分は自分の目的に向はうとあくそくしつヽ。鶴と夫婦になりたく思ひつヽ相變らずに日を送つてゐた。
 二月十三日は鶴の誕生日である。自分は自分の誕生日の六月十一日をよく忘れることがあるが、鶴の誕生日は川路氏が學校で聞いてきて下さつた以後忘れたことはない。二月十三日は土曜日だつた。この日、用があるやうな顏をして十一時半頃に晝飯を食ひ、鶴に逢ひに出かけた。何だかかう胸がしめられるやうな、嬉しいやうな、耻かしいやうな、心配なやうな感じがする。
 ダンテもかう云ふ感じを持つたことがあるだらうと思ふと氣丈夫だ。しかし鶴をビアトリスに比較するのはいヽとして自分をダンテに比するのは少しひどすぎる。しかし自分が賤しいだけに自分は鶴と結婚が出來るかも知れない。こんなことを步きながら考へた。
 自分はお目出たいから鶴の話も大槪はうまくゆくと思つてゐる。さうしてその時自分に一年ぐらい逢はなかつた時の鶴の心、自分に今日逢つた時の鶴の心を聞くのを樂しみにしてゐた。又その時鶴が自分に今日逢つたことを忘れてゐやうものならお可笑しなものだとも思つた。
 その内に鶴に逢ふ機會のあり得る道に逹した。鶴の學校の生徒のぞろ〳〵とつれだつてやつてくるのに逢つた。道は一直線ではない。一町許り先きで少し右に曲つてゐる。其處まできり見えない。そこ迄には鶴らしい人は見えない。しかしいつ鶴がその角から出てくるか知れない。自分は鶴がどんなになつてゐるだらう。今日はきつと逢ふだらうと思ひながら、目に注意をあつめて、向ふからくる女學生を一々注意しながら步いて行つた。折れてゐる所にくると二町程さきが見える。其處を折れると見えるだらうと思つた。
 自分は胸をおどらせながら其處を過ぎた。女學生が二十人許、二三人づヽ一かたまりになつて、話ながらくる。最後にくる四人づれの内に鶴はゐはしないかと思つた。自分が今迄鶴に逢つた時は大槪三四人と連だつてゐた。
 しかし近づくに從つてちがつたことがわかつた。ちがうと落膽《がつかり》する、しかし安心もする。角からは間をおいて女學生のかたまりが顯はれる。話しながら此方にひきつけられるやうに步いてくる。しかし段々數はへつてくる。さうしてその内に鶴は居なかつた。とう〳〵角に來た。其處で道が二つにわかれてゐる。鶴に途中で逢えば自分はきつと右にまがる。逢はない時でも左の道を一寸見て鶴が見えても見えないでも右にまがる。左にゆくと鶴の學校の前を通るのだ、それがなんだかこわいのだ。この時も左を一寸見て、右に折れやうと思つた。しかし左の道を見て鶴が見えなかつた時、思ひ切つて左に折れた。
 自分はなるべくゆつくり步いた。しかしもう學校の門から出てくる人は殆んどなかつた。三人許りあつたが、その内二人は自分の反對の方へ行つた。此方に來たのも鶴に少しも似てゐない人だつた。
 自分はその内に學校の前を通つた。通り過ぎる時一寸學校の内を見た。誰も居ない。自分は淋しい氣がした。鶴は病氣か知らんと思つた。それ以上に鶴が自分に逢ふのをいやがつて道を變へてゐるのではないかと思つた。そんなわけはないと思ふがなんだかさう云ふ風に思へるのだ。
 自分は最も近い路を撰んで歸路についた。今度は淋しい、なさけない、さうして腹立しいやうな氣がした。もし鶴が自分の妻になつたら、明治四十〇年、鶴の十七回目の誕生日に自分に逢はなかつた故をもつて自分から小言を頂戴するにちがいないと思つた。
 鶴はその時何と答へるであらう。
 自分は自家に歸つても何だかなさけないやうな腹立しい氣がして仕方がなかつた。自分は室に入つてルードヰヒ・フオン・ホフマンの畵でも見て自分の氣分をなほさうと思つた。ホフマンの本を捜したが見えない。自分は益々腹が立つた。呼鈴を强く押した。
 書生が來た。自分は
『こヽに置いておいたかう云ふ本を見なかつたか』と云つて同じシリースの本を見せて机のわきを指した。
 書生は『存じませんが』と云つて捜し出したが中々見つからない。自分は益々腹が立つた。
『本をさがす程癪にさわることはない。之から一切本はなぶらないで置いておくれ』と云つた。書生は『はい』と云つて捜して居る。自分はかう云つて見てゐたが、見て居ても仕方がないと思つたので、本を手あたり次第にとつては外の處へ投げるやうに置いた。自分が大變憤つてゐるので書生はあはてヽゐる。自分は怒ることは滅多にないのだ。自分は手あたり次第に本をのけてゐたら、捜してゐる本がとんでもない處から出て來た。考へて見ると自分の置いた所にあるのだ。
『あつたよ』と自分は云つた。書生は安心したやうに本をかたづけだした。『かたづけなくつていヽよ』と自分は云つた。さうして書生が去る時、無愛想に『御苦勞さん』と云つた。
 書生が居なくなると自分の八つあたりに罪のない書生に怒つたのが腹が立つた。この頃の自分の怒りつぽくなつたのに腹が立つた。
 女に餓えてゐるので心が荒《すさ》んだのだと思つた。さうして自分の人格の低いに腹が立つた。しかし自分の心は荒《あら》だつてゐる。自分はホフマンの本を開けて見たが、ホフマンの感じのいヽ淸い靜かな美しい繪も自分の心を慰めるわけにゆかなかつた。自分はホフマンの本を閉ぢてクリンゲルの繪を見た。グライナーの繪を見た、その力强い繪は自分の荒だつてゐる心をいヽ方に導いた。自分は全身に力を入れて室の中を步いた。
 鶴が自分の妻にならなくとも、戀の味ひを味ふことが出來なくとも自分は自分の心を荒まさずに見せる。自分はすべてのこと超絕しなければならない。
 勇士〳〵! 自分は勇士だ!
 かう心に叫んだ。さうしてやヽともすると女々しい感じが心に流れこむのをふせいだ。

       七

 二月十五日の晚に自分は母から母方の叔父の病氣は矢張癌だと云ふ事を聞いた。叔父は元來は人のいヽ人だつたが頑固なことの好きな奇行家で公鄉華族で伯爵だつた。世の中を馬鹿にしたやうな處が父と氣があつて二人は仲がよかつた。
 叔父の奇行は隨分ある。自分は未だに夏休に避暑に三浦三崎へ自家の人と行つてゐた時に、叔父がきて素裸で步きまわつてゐたことを覺えてゐる。或日の朝當時十一二の自分は叔父と一緖に朝飯前に漁師の親方の處へ行つたことがある。その時叔父は素裸で褌《ふんどし》さえしてゐなかつた。さうして裸と云ふことを意識してゐないやうに平氣で步いてゐた。顏知つてゐる人にあふとあたりまえに挨拶してゐた。親方の處へ行くと、今日は大禮服で來たと云つてすまして坐敷に通つて平氣で話してゐた。ついて居た自分も平氣だつたのが今思ふとお可笑しい。叔父は寒中でもよく水を浴び、海岸へ行くと海へ入つた。さうして人を馬鹿にしたやうなことを傍若無人に振舞つた。又酒をよく飮んだ。之等のことが豪傑崇拜時代の自分には豪く思はれた。
 叔父が或時甲府に行つた。まだ甲府まで汽車の出來ない時の事で行く途中ある町の旅館に泊つた。待遇が面白くなかつたとかで宿帳に新平民とつけた。
 甲府へ行つた處が伯爵樣でもてた。それから警察でどうしてか、ある町の宿帳に新平民と書いてあつたのを見て待遇がわるかつたのだと大いに驚き、その待遇の惡かつたのを譴責した。叔父はそれを聞いて氣の毒だと云つて歸りに又その宿屋に泊つたさうである。
 會社をたてヽ失敗したことや、支那の革命黨員と交際《つきあひ》して探偵にあとつかれたことなぞもあつたさうだ。
 身体の馬鹿にいヽ人で自分は甞つて叔父の病氣にかヽつたことを知らない。太つては居なかつたが、かつちりした身体で、丈夫だと自分も許し、他人《ひと》も許してゐた。それでよく遊びよく酒をのんだ。三年前にある醫者が叔父の顏を見て酒の毒のまわつてゐる顏しておいでだから用心しないといけませんと叔母に吿げたことがあるさうだ。
 その叔父が二三ケ月前から步きまわつてはゐたが血色が大變わるくなつて段々|瘠《や》せて來た。さすがの叔父も心配して醫者に見てもらつたが、中々わからなかつた。癌じやないかと云ふ心配が叔父にも叔母にもあつた。僕逹にもあつたが誰も公然とさう云つた人はなかつた。醫者はものがよく食べられるのと、通じのいヽのとでさうではないだらうと云つた。しかしどうも面白くはかどら[#「はかどら」に傍点]ない。血色は次第にわるくなつて耳などはまるで血の色がなくなつた。皆ひそかに心配してゐた。父や母はもしかしたら死病に叔父がとつつかれたのかも知れないと話しあつてゐた。
 所が二月六日の晝叔父が赤十字病院に見てもらいに行つた處が、さすがに辛棒强い叔父もヽう身体を動かすのが容易でないのでそのまヽ入院することになつた。便や血の檢査した結果、腎臓に癌が出來たのだらうと云ふことになつたのださうだ。
『癌になつてはたまりませんね』と母は父に云つた。父は『たまらんね』と考へこむやうに云つた。自分もたまらないなと思つた。叔父はまだ四十五六である。
 十六日に母は何氣《なにげ》なく叔父を見舞つた。さうして歸つてきてもしかしたら來月中もつまいと云つた。自分は十八日の朝蜜柑と林檎を持つて見舞に行つた。叔父はまだ癌と云ふことを知らない。
 自分は靑山行の電車に乘つて靑山一丁目で赤羽橋行にのりかへた。天氣が馬鹿にいヽので可なり暖かヽつた。もう春も近いなと自分は思つた。赤羽橋行きにのつた時空いた席が一つあつた。自分は其處に腰《こし》かけた。さうして前に腰かけてゐる女をよく見た。三十許りの女でもう色のさめた女だ。目のまわりがどす黑くなつてゐる。なんだか荒んだ生活をして來た女のやうな氣がした。みなりは中以下でそろつて居ない。しかし顏は惡くはなかつた。殊に尻の下つた弓形《ゆみなり》の眉毛と目尻の上つた大きい目とがよかつた。かたく結んだ口もよかつた。瓢簞なりの顏の形が少し氣になつたが、五六年前はさぞ美しかつたらうと思つた。自分は見てゐる内にその唇に自分の唇の引きつけられるのを覺えた。自分は接吻の甘きを夢で知つてゐる。しかしそれは溫和しい食ひしんぼな子供が他人の庭の甘さうな柿の實を見るぐらいの程度だ。鶴が居なくとも結婚したいとは夢にも思はない。
 自分は叔父の死病にかヽつてゐるのを見舞ふために來たのだ。それなのにこんな呑氣なことを考へてゐた。赤十字病院下でおりて自分は急いで病院に行つた。
 病院の廊下を步きながら藥の香《にほひ》をかぎ、看護婦の白い姿を見ると病院だなと思ふ。さうして今更に叔父の病氣のことを思つた。しかし自分は叔父の病室の内にねてゐる姿を想像することは出來なかつた。たヾ病氣とか、死とか云ふ無形のものヽ姿を思ひ浮べた。
 自分の行つた時叔母は用があつてゐなかつた。
 附添人の許を得て自分は病室に入つた。
 叔父は二三週間前に逢つた時とは見ちがへる程やせてゐた。さうして苦しさうに仰向きに寢《ね》てゐた。その顏は骨張つてゐた。その色は黃味がヽつてゐた。
 自分もそれを見ると叔父は死ぬなと思つた。叔父は仰向ながら自分の方を見て『よく來てくれた』と禮を云つた。
 さうして手を出してそのたるんだ皮をつまんで見せて、こんなに痩せたと苦笑した。
 自分はこの時『イワン、イリヰッツの死』を思ひ浮べた。その主人公の死病にかヽつた時皆が口から出まかせの慰めを云つて反つて主人を不快にさせたこと。さうして若い忠僕が眞實を云つて反つて主人公に慰安を與へたことを思ひ出した。しかしその忠僕のやうな誠心を以て叔父を愛することの出來ない自分は心に責められながら、なるべく本當らしく叔父の氣やすめを云ふより外仕方がなかつた。
『時候さえよくなつたら、いヽでしやう。なほりかけたら瘠《や》せたのはすぐとり返しがつくでしやう』
 と云つた。叔父は
『瘠《や》せたのはかまわないが何にも食ひたくないので困る』と云つた。
 叔父は死にはすまいかと思つてゐるにちがいない。しかしまだ生《い》きられるとも思つてゐるにちがいないと思つた。自分はそれを見てたまらないなと思つた。
 見て居る内になんだか氣の毒なやうな、どうかして上げたいやうな氣がした。さうして死と云ふものを今更に感じた。いづれは自分も死なヽければならないのだ。自分は長く其處に居て氣やすめを云つて居るのがつらくなつた。希望ある言葉が叔父の口から出る度に自分はなさけない氣がした。
『櫻の咲く時分には本復の祝でもしてさわごうかね』と叔父は苦笑して元氣らしく云つた。さうして自分の返辭を待つやうに自分の方を見た。自分は叔父が自分の答によつて自分が叔父のなほることを信じてゐるか、なほらないことを信じてゐるかをさぐつてゐるやうに思へた。
 自分はたヾ笑《わら》ひながら『え』とのみ云つた。なまじつかの言葉は氣やすめとしか映じまいと自分は思つたのだ。
 三十分許り叔父の處にゐて、元氣さうにあいさつして室を出た。たまらないなと思つた。
 自分は夢で死の恐怖を知つてゐる。世の中に自分にとつて死の恐怖程いやなものはない。死ぬ程恐ろしいものはない。叔父はこのいやな恐ろしいものと、每日〳〵顏を合せてゐると思ふとたまらないなと思ふ。しかし人は死ぬ瞬間までも、もしかしたら助かるかも知れないと空想し得る力を與へられてゐる。空想は現實によつて破られるかも知れない。しかし新らしい空想はヒドラの足のやうに切られても切られても生ずるものだ。これがよく人間にとつて唯一の隱遁塲《かくれば》になる。叔父は恐らくこの逃げ塲《ば》に時々逃げ込むだらうと思ふ。さう思ふと自分の今日逃げ塲を大きくする爲に力を出來るだけつくしたことをよかつたと思つた。
 病院の門を出て病院について右に曲つた頃には初春の日光と香りとが自分の心を滿した。叔父によつて狹められた自分の心はせい〳〵してきた。道學者の自分は一寸すまぬやうに思つたが、これも自然の仕業と思つた。
 自分は死ぬ時は鶴の看護を受けたいと思つた。鶴の看護を受ければ若死してもさうひどくはまいらないやうな氣がした。
 鶴のことはどうなつたらう。うまくゆくか知らん。うまくいつてほしいと思つた。この時叔父のことを思つた。さうして心にせめられるよりも、今鶴のことを考へるのは緣起がわるいと思つた。
(叔父は三月の二十日にこの世を去つた)

      八

 叔父を見舞つた日から又數日過ぎた。
 一日として鶴のことを考へない日はなかつた。自分には鶴と一緖になつて始めて全人間《ホールのにんげん》たることが出來るやうに思へた。何かかくにつけ、讀むにつけ、見るにつけ鶴が居たらと思ふ。嬉しい時も淋しい時も悲しい時も、美しいものを見る時も、甘味《うま》いものを食ふ時も鶴と一緖だつたらと思ふ。
 自分はよき父と、よき母と、よき兄と、よき義姉と、よき姪と、よき友を持つてゐる。『君程仕幸な人はない』とよく友は云ふ。自分もさう思ふ。しかし自分は更に愛するものと、賴つてくれるものを望む。自分は女に餓えてゐる。
 自分は『この上例の人と夫婦になれたら末恐ろしい』と一二年前に麻布の友に話したことがあつた。しかし末恐ろしい程の幸福を正道を踏んで味つて見たい。自分の運命を犧牲にすることなしに味つて見たい。
 自分は五年前からこの幸福に憧がれてゐる。さうして鶴も自分を戀してゐてくれるやうに思つてゐる。自分が鶴を戀してゐるやうに鶴も自分を戀してゐるやうに思つてゐる。さうして自分が鶴と夫婦になれた時のことを夢みてゐるやうに鶴も自分と夫婦になれる時のことを夢みてゐるだらうと思つてゐる。
 それにしても川路氏から何とか云つて來さうなものだ。
 自分は不安を感じながら樂しみにして、希望に燃えて川路氏から何とか云つてくるのを待つてゐた。もう川路氏は鶴の處へ行つて下さつたヾらう。何とも云つてこないのは面白くない返事だつたからかも知れない。いや用があつてまだ行つて下さらないのだらう。それとも鶴の自家で最後の决斷を與へる爲に返事をおくらしてゐるのかも知れない。お目出たい自分にはどうもその方がほんとのやうに思へる。
 あれは三月二日の晚のことだつた。待ちに待つた川路氏から手紙が來た。自分は、『幸あれ』と心に祈りながら不安と希望に燃えながら封を切つた。さうして讀んだ。自分は腹が立つた。
 鶴の父に川路氏は逢つていろ〳〵話して下さつたのだが、先方は依然として、鶴のまだ若いこと、鶴の兄のまだ嫁《よめ》をもらはないことを云つて、今その話はきめたくないと斷つたさうである。さうして他からも醫學士とか何十萬圓の金持の息子とかからも結婚を申し込んで來たが此方と同じ答へで斷つてゐると云つたさうである。川路氏はもつとつつこんで云はうと思つたけれども反つてそれが爲に話をやぶるやうなことがあつてはいけないと思つて、曖昧にして歸つて來られたさうである。
 川路氏は手紙に、なほ他の方法で骨折る心算だが時期をまつ方がいヽと思ふと書き加へてあつた。
 自分は全身に力を入れた。さうして自分は勇士である、勇士であると鼓舞したが、やヽともすると淚が出てくる。もう駄目になつたのだ。とりつく島もないのだと思はないではゐられなかつた。十時頃床に入つた。さうして泣いた。
 しかし何時のまにか寢ぐるしい眠りに入つた。一時頃目が覺めた。自分をあはれむ情が强く起った。自分はたまらないので起きて日記をつけた。
三日
 一時頃目覺む。
 自分は悲しく思つた。餘りだと思つた。はがゆく思つた。どうかしたいやうに思ふ。自分は淚ぐんだ。
 自分は足かけ五年前から一日も彼女のことを忘れたことはない、これは自業自得である。この罪は自分にあつて他人にあるのではない。しかし自分は自分を憐まないではゐられない。かくまで目出たく出來てゐる自分を憐まないではゐられない。
 彼女を戀し始めたのは三十〇年九月である。それから滿三年半たつてゐる。この間自分は何時でも彼女と結婚したい、結婚しなければいけないと思つてゐた。
 さうしてその裏には彼女の爲にもそれがいヽことだと信じてゐた、彼女もそれを望んでゐるやうに思はれた。
 馬鹿だ〳〵かくまで自惚れる自分は馬鹿にちがいない。
 かくて自分は母や父を無理に賛成さした、それまでに十九ケ月を要した。自分はかくまで苦んでゐるのだ。
 かくて自家の人を始めとして川路氏や友に非常な同情を得たのである。同情をかち得る身はたまらないものである。自分は平氣な顏をしてゐる、又平氣な時が多い、しかしこの爲に何度泣いたか、何度胸がせまつたか、何度不安になつたかわからない。
 この憐な自分に本人の鶴がいさヽかの同情をもたないならば自分はこの緣談をこちらからお斷りしたく思ふ。
 緣談に冷淡なのは父であらう。しかし鶴がどうかしてくれるならば鶴の父ももつとどうにかなつたらう。
 鶴は自分のことなんか、なんとも思つてゐないのだらう。
 鶴がなんとも思つてゐないならば自分は鶴を妻にすることを好まない、多くの人をわづらはしてまで鶴の夫になりたくない。それ程お目出度い男になりたくない。
 勝手になれである。
 鶴に自分の妻になることが幸福でなければ、自分に鶴の夫となることが幸福なわけはない。
 自分を夫にもつことをいやがるやうな女、そんな女は妻にしたくない。そんな女を妻にして喜ぶ程自分は肉慾許りの男ではない。
 鶴の心が見たい。
 鶴はもう自分のことを知つてゐるはづだ。知つてゐながら僕の不安な狀態にゐることに向つて、いさヽかも同情せずこの不安の狀態から救はふとすら思はないならば、鶴に自分の妻たるの資格はないのだ。
 たヾ鶴が自分を愛し自分を憐れんでゐるが、鶴自身の力のないことを知つて默つてゐるならば鶴は憐な人間である。
 自分には鶴はこの憐な人間のやうにも思はれる、さう思はれる限り、自分はこのことを思ひ切らない。
 かくてこそ思ひ切らないことが男らしく自分には思へ、思ひ切らないことがいヽことのやうに見えるのである。
 この思ひ方がまちがつてゐるならば自分は思ひ切つて見せる。
 彼女の心が見たい。
 彼女の心は見ることは出來まい、彼女はとらわれてゐる女であらう。父と兄に自分の運命をたくしてゐる女であらう。それをいヽことに思つてゐる女であらう。
 情の動くまヽに自分の身を任すことを罪惡としか思へない女であらう。
 かヽる女に自我はない。
 自我のない女に自分の心の内の秘密を人にもらすだけの勇氣はない。自分にきく機會がないが、他の人に聞いてもらつても駄目だらう。
 しかし聞いてもらいたい、かう云ふ問題について女は可なり大膽である。女の一生はこの問題できまるのだから。しかしよし聞くことが出來ても力なき鶴の答はオヽソリチーのないものだらう。
 時期をまつより他はない、不安をつヾけるより他はない。
 しかし不安な狀態をつヾけるのはいやなものだ、もうつヾけすぎた。
 鶴が自分を愛してゐるか、愛してゐないかヾ知りたい、それを知れば思ひ切るのも切りいヽし、不安をつヾけるのもつヾけ甲斐が出來るわけだ。(夜、二時十分)
 自分は日記にこれだけ書いたら少しは頭が休まつたやうに思つたので寢やうとした、しかしまだ興奮してゐる、自分は又おきた、目出度しと云ふ題をつけて次の新体詩を泣ながらかいた。
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『思ひ切れ〳〵
 今となつて彼女のことを思ひ切らざるは
 餘りに女々し
 多くの男に戀さるヽ女
 汝のことのみ思ふはずなし

 思ひ切らず〳〵
 我思ひ切らず

 女々しき汝よ
 思ひ切らざるにあらず
 思ひ切れざるなるべし
 男なる汝よ
 男らしく思ひ切れ
 汝を愛せず、汝の爲をはからぬ
 女を思ひ切れ

 我を愛せず?
 我が爲をはからず?
 そを我は眞に知るまで
 思ひ切らず〳〵
 思ひ切れざるに非ず
 思ひ切らざるなり。

 汝三度求婚して
 三度とも彼女の父よりていよく斷られたるに
 なほ彼女が汝を愛しつヽありと思ふか

 我れは思ふ〳〵
 彼女の父の言葉
 我をしてしか思はさヾる爲には
 餘りによわし

 目出度き哉
 甚もつて目出度き哉
 我は目出たし
 目出度し
 汝の思ひおるよりも
 更に目出たし
 我、彼女を見すてることを
 見す〳〵彼女を不幸におとすことヽ思ひおる也
 されば我、思ひ切らず
 思ひ切らざるを以てほこりとす

 我たヾ驚く
 云ふべき言葉を知らず

 さなり〳〵
 汝の忠吿をきかんには
 我餘りに目出たし
 目出たし〳〵
 目出たき故に他人と自分を苦しめる程
 目出たし
[#ここで字下げ終わり]

      九

 自分はその翌日、即ち三月四日に鵠沼の東屋に行つた。春休には間があるので客は少なかつた。自分は二階の江の島の見える、日照りのいヽ室を占領した。
 自分はこヽへ來て、勇氣を養はうと思つたのだ。鶴のことはすべて川路氏と運命に任せ、その事に就ては一切考へず、身体と思想を健全にしやうと思つた。自分はこの頃少し神經質になりすぎてゐると思つたのだ。
 本もなるべく讀まずに四日間濱や田圃を步きまわつた。さうして五日目に自家《うち》に歸つた。
 自分はそれからなるべく鶴のことを考へないやうにしたが、やヽともすると考へられてくる。さうして三月の十五六日になると何時の間にか自分と鶴は夫婦になるやうな氣になつた。
 自分はまだ鶴が自分を戀してゐるやうに思つてゐる。それにもまして運命が自分と鶴とを夫婦にしなければおかないやうな氣がする。
『なぜ?』と聞かれても『なぜだか』としか答へられない。自分の頭は理窟ぽいがどうしてかこの不合理なことを信じてゐる。信じ切つては居ないがさう思はれる。
 この自分の氣持は說くことの出來ないものである。しかし一昨年の一月五日に小說風にその說明をしやうとしたことがある。その終りにこんなことが書いてある。
     *  *  *  *  *
 ………彼女が熱烈に自分を戀する故かとも思つた。しかし彼女のそぶりはどうもさう熱烈に自分を戀してゐるやうには見えない。少くも嫌つてはゐないやうだが、愛しても居ないかも知れない。さうして見た處、さう熱烈な女らしくはない。自分が彼女と結婚しないと自棄《やけ》を起して自殺しはしまいかと無理に想像して見るが、どうもさう云ふ女らしくはない。自家の人の命ずる處にゆきさうな溫和しい、どつちかと云ふと昔風な、女らしい女である。どうも之も結婚しなければならない理由になるには薄弱だ。
 どうしても自分が彼女を戀してゐる。さうして彼女と夫婦になりたく思つてゐる。さうしてならないではならないと感じてゐるとしか云へない。
 しかし自分にはかう云ふ感じがたヾ無意味なものとは思へない。思ひたくないからかも知れないが思へない。さうしてかう思つてゐる。
 この事實、往來で時々逢ふ近所の十七八の女、優しくつて、美しくつて、淋しくつて、溫和しさうな、それで可なり快活な女。その女とは話たこともなければ挨拶したこともない。名も知らなければ性質も知らない。たヾ自分が十五六の時から逢つて逢ふ度に互に見かはす、さうして見かはした暫くの間、何時でもいヽ感じのした女。その女を自分は一昨年からほんとに戀し出した。さうして自分はその女と夫婦になりたく思つてゐる、さうして又今迄になく道德的にも夫婦にならなければならないと思つてゐる。
 この事は自分には未だ甞つて經驗したことのないことである。自分は今迄の戀に於て自分は結婚する資格ないものと思つてゐた。しかるに今度の戀は自分に彼女と結婚せよと命じてゐる。
 自分はこの事實の裏に自然の命令、自分の深い神秘な默示があるのではないかと思ふ。この默示は
『汝、彼女と結婚せよ、汝の仕事は彼女によつて最大の助手を得ん。さうして汝等の子孫には自然の寵兒が生れるであらう』
と云ふのだ。
 之が自分の迷信である、どうしてか、さう思へる。さうして運命がお夏さんを戀させて失戀させたのは彼女と自分を結びつけるためではなかつたらうかと。
 自分は今迄下等なことをした。しかし自然の默示には背かなかつたと思つてゐる。さうして近頃になつて自分は自然の默示を幾分か解し得た心算《つもり》でゐる。
 されば自分はこの迷信してゐる默示に從はないことを恐れてゐる。自分はこのことを父にも母にも云はない。云つた處が笑はれるにきまつてゐる。しかし自分一人ではさう思つてゐる。それで父や母の氣嫌を一時そこねてもこの迷信に從はうと思つてゐる。父や母に背くのはいやだ。しかしまだ救はれる。自然に背くのは末恐ろしい。
 自分はこの迷信をほんとの迷信かと思ふ。さうして父や母を喜ばせやうかと思ふ。しかし自分はもしこれが迷信でなかつたら大變と思ふ。
 だから自分は父や母に得手《えて》勝手《かつて》なわからずやの我儘者と思はれても彼女に求婚して斷られるまでは誰とも結婚しないでよさうと思つてゐる。
 自分は出來るだけ自然の默示と迷信してゐることに從つて成功しなかつたら萬止むを得ないが、自分の意志で背きたくないと思つてゐる。
 それに淺はかな人智で自然を試みるのはわるいが、そのことが迷信か迷信でないかを知りたく思つてゐる。
 かく云ふとも『それは君が彼女と結婚したいからそんな理窟をつけるのさ』と云ふ人があれば、自分はたヾ默するより仕方がない。
     *  *  *  *  *
 かヽる迷信を持ち得る自分はいかなる時も鶴と自分とは運命によつて合一されると云ふ希望を持ち得る。
 始めはかう云ふ希望をもたうと知らず〳〵の内に苦心したかも知れない。しかし足掛五年の月日はこの希望を習慣にしてしまつた。いくらこれを否定する出來事が起つても、いくらこれを否定する理窟が立つても、何《い》つのまにか鶴と自分とは夫婦になるやうな氣がする。

      十

 四月一日の朝、自分は早く起きた。天氣がよくつて氣持のいい朝だつた。自分は新聞投入凾を見に行つた。自分の心は一種の興奮をしてゐる。
 四月一日に自分は鶴の學校の卒業式のあることを知つてゐる。一昨年に自分はこの日鶴が紋附を着て學校に行くのを見た。さうして何處へ行つたのか夕方紋附を着て歸つてくるのを見た。自分はその時鶴が學校を卒業したのだなと思つた。その日朝日新聞に鶴の學校の優等生の名が九人程出てゐた。鶴の名はその内になかつた。
 鶴は學問は餘り出來がいヽのじやないな、なまじつか優等生で卒業すると人の注意を惹いて鶴を妻にもらひたく思ふ人が出ないとも限らない。優等生でなくつてよかつたと思つた。しかし鶴は學校が始まると依然と學校に通つた。自分は未だ卒業しなかつたのだな、道理で優等生の内に名がなかつたのだなと思つた。
 その後自分は川路氏から鶴の學校の成績を聞いた。さうして成績のいヽのを得意に思つた。去年の四月一日の朝日新聞にも鶴の學校の卒業生で優等の人の名が十許りのつてゐた。しかし自分は鶴の今年卒業すると云ふことを知つてゐたから別に注意しなかつた。
 今年こそ鶴は卒業するのだ。かう思つた自分は四月一日に早く起きて新聞を見に行つたのだ。未だ來て居なかつた。自分は朝の空氣をすいながら庭を步きまわつた。さうして新聞配逹の鈴の音を聞きおとすまいとした。暫くして鈴の音がした。自分は一種の不安と耻かしさを覺えた。しかしすぐ見に行つた。
 果して出てゐた。さうして鶴の名は第四番目にあつた。さうして卒業生は百三人である。自分は微笑んだ。さうして鼻が高いやうに思つた。
 この時自分の學習院を卒業する時、三十何人の内|終《びり》から四番だつたことを思ひだした。自分はこの偶然の暗合(?)を面白く思つて更に微笑んだ。
 父や母は新聞を讀んだが鶴のことには氣がつかずにゐた。自分は一時頃に母の室に行つて何げなく鶴の優等生で卒業したことを云つた。
 母は『さうかい』と冷淡に云つて、『中々出來ると見えるね』とつけ加へた。自分は『さうと見えますね』と冷淡を裝つて云つた。母は改めて『あのことが早くきまるといヽね。中々いヽ人はないからね、この頃は妾はたヾお前のことだけが氣になるのだ、早くきまるといヽと思つてゐるのだ』と云つた。
 自分は母がこのことに冷淡だと思ふと、このことがきまらないとまいるやうに何げなく見せかけるが、かう云はれると
『僕のことは心配する必要はありません。世の中に自分程心配する必要のない人は少ないでしやう』と安心させるやうな辨解するやうなことを云ふ。
『それでも妾にはいろ〳〵話しておきたいことがあるからね』と母は云つた。かう云はれると自分は嬉しく思ふ。さうして我知らず微笑む。鶴と母との間のうまくゆくことを信じてゐるが。母が鶴をもらうことに始め不服だつたヾけに時々は心配する。今は母がこの話に乘り氣になつてゐると思ふと嬉しい。
 それにしてもうまくゆくか知らん。
 その晚自分は隼町の友を訪ふた。いろ〳〵の話をしてゐる時、友は『昨晚堀出しものをした』と云つた。
『なんだ』と聞くと、
『フイデユスのいヽ繪のあるユーゲンドを捜して來た』と云つて古いユーゲンドを出して見せた。どんな繪かと急いであけて見ると、
 怒濤の内を一艘のボートが走つてゆく。ボートは後半が一寸見えるだけだ。そのボートの上に若い男と女がのつてゐる。女は一心に行手を見ながら全身に力を入れて舵をとつてゐる。結つてない髮は風になびいてゐる、男は全力をもつて漕いでゐる。一言以て云へば二人は死物狂ひで或目的に向つてすヽんでゐる所がいかにも强く顯はされてゐる。
 目的地は何處だ?ツーア ブラウトインゼル(許嫁の島まで)である。
 『いヽだらう』と友は云ふ。
 『いヽね』と自分は云つた。
 しかし自分は之を見てゐる時、自分のことを思つた。自分の戀を思つた。自分の鶴と結婚しやうとしつヽあることを思つた。さうして二人を羨《うらや》ましく思つた。もし鶴がこの繪の女のやうに全力を盡して自分との結婚の爲に働いてくれたら、どんなに嬉しいだらうと思つた。自分は繪を見とれてゐるふりしてこんなことを考へた。
 さうして
『いヽね、中々いヽ、フイデユスは鉛筆畵がいヽね』と自分は今迄考へた末の結論のやうな顏して云つた。
『ほんとに巧いね、氣持がいヽ』と友は云つた。
 自分はなほ繪を見とれながら、鶴が自分を愛してゐなかつたら、自分の努力は滑稽なものだと思つた。さう思ふとなほ二人が羨《うらや》ましい。二人の敵は多いだらう。しかし二人の目的に向つてすヽむ時に疑惑がない。努力すればするだけの結果が顯はれるのだ。互に勵ましてゆくことが出來るのだ。互にたすけあつてゆくことが出來るのだ。互に戀してゐることを信じてゐられるのだ。
 自分は羨ましく思はないではゐられなかつた。
 鶴が自分を眞に愛してゐてくれ、さうして自分と夫婦になるために心から骨折つてくれたならばどんなに嬉しいだらう。それでこそ張合があるのだ。
 自分は默つてフイデユスの繪を下に置いた。さうして友といろ〳〵外の話をした。
 話をしながら時々フイデユスの繪を見た。さうして鶴のことを考へた。
 どうしてゐるだらう。自分のことをどう思つてゐるだらう。まさか、いやな破廉耻な、厚顏《あつかま》しい。ひつこい蛇のやうな人間とは思つてゐまい。などヽも考へた。
 さうして十一時迄友の處に居た。

      十一

 もう一年以上鶴に逢はない、もう一生鶴に逢はないかも知れない。今度逢へれば許嫁《いヽなづけ》としてヾあらう。
 自分はよくさう思ふ。さうして鶴はさぞ大人になつたらう。美しくなつたらうと思ふ。しかしどんなになつたか想像することは出來ない。時には鶴は病氣をしてやしないかと思ふこともある。負傷をしやしないかと思ふ時もある。さうして鶴の醜くヽなつたこと、不具になつたことを想像することもある。その時鶴の前に跪いて私は貴女を愛してゐます、私の妻になつてくれませんか、と云ふことを想像して見る。自分は鶴の美しい顏を愛してゐる。しかしそれにもまして鶴の性格を愛してゐる心算でゐる。
 しかしかう思ふ時、自分は十年前に一人の同年輩の美しき男を戀した時のことを思ひ出さないではゐられない、實に美しい人だつた。多くの學生はその人の心をとることに苦心した。その時自分はその人の不意に醜くヽなることを空想した。さうして多くの人のその人を捨てた時、自分はその前に跪いて私は心から貴君を愛してゐます、と云ふことを想像してその人の醜くヽなるといヽと思つたことがあつた。さうしてその時自分はその人の心を愛してゐると思つてゐた。
 處がその人が齡とると共に醜くヽなつた。齡のせいかも知れないが、醜くヽなると共にその人を戀することが出來なくなつた、さうしてその人の性格の醜い所も氣がつくやうになつた。
 父や川路氏の聞いた所によると鶴はすべての人から評判のいヽ人である。よすぎる程の女である。自分の目に映じた通りに鶴の近處の人も友逹も先生も賞めてゐるさうである。賞める許りである。しかし自分の鶴を戀し得たのは鶴の顏が美しかつたからである。美しい許りではない、美しい點だけで鶴より優つてゐる人は近處にもゐる。しかし醜くかつたら、又十人並以上でなかつたら自分は鶴をかくまでには思ひはしなかつたらう。自分は鶴の顏の醜くヽなる事を恐れてゐる。しかし今となつて鶴が醜くヽならうとも自分は鶴を捨てはしない。その時自分は鶴と結婚が出來たら喜ぶであらう。自分は始めは鶴の顏や姿を愛したらう。しかし今は鶴そのもの、目に見えないものを愛してゐると信じてゐる。しかし鶴の美しいことを望む、切に美しくなることを望む、しかし他の男の注意を惹くことを恐れる。さうしてもう鶴は多くの男の注意を惹いたにちがいない。鶴の父は他からの緣談を斷つてゐると云ふではないか。
 なにしろ鶴がどうなつたか自分は知りたい。處が運命の神はこの願ひを五月十二日に叶へてくれた。
 この日は水曜日で中野の友の休みの日だ。自分は天氣がいヽので不意に八時頃中野の友を訪問することにきめた。さうして直ちに自家を出た。九時頃友の家についた。暫く話してから散步した。靑々した麥畑や、雜木林の中を澄んだ空や、黑い土を見ながら步いた。都會に許り居る自分にはこの半田舎の空氣はなんだか懷かしい。
『僕も家を持つたら中野に來やうかな』と云つた。
『是非來玉へ』と友は云つた。さうして思ひついたやうに『例の話はどうなつた』と云つた。
『相變らずさ、だめとも思ふが、うまくゆくやうな氣もする』と答へた。
『どうかなりさうなものじやないか』と友は云ふ。
『もうするだけのことをしたのだから仕方がないさ』
『甘くゆくやうな氣がするがね』
『僕もさう云ふ氣がするが、駄目な方が本當だらう』
 自分はかう云つた時淋しい氣がした。さうして友のかはりにわきに鶴が居たらと思つた。
 自分は話頭を變へた、さうして十一時半頃まで友の所に居て歸路についた。中野の停車塲まで友は送つて來た。電車は來てゐない。さうして中々來ない。自分は來てくれない方がいヽのだ。自分は中野の友の所へ來る時、歸る時、鶴と電車で同車することを想像しないことはない。さうして電車をまてばまつ程鶴に逢ふ機會の多いやうに思へて嬉しい。
 その内に電車が來た。自分は友と挨拶して電車にのつて眞中より少し後ろに腰をかけた。のつて暫くしてから出た。鶴は停車塲で電車を待つてゐるかも知れないと思つた。しかし今十二時頃だから飯を食つてゐるだらうと思ひ返した。しかし何時ものやうに大久保につくことを樂しみにしてゐた。電車が柏木に着いて一寸止つて柏木を出た。自分の胸はせばまるやうに覺えた。之は珍らしいことではない。さうしてかう云ふ感じを何十度味つたか知れないが、鶴に逢つたことはたヾ一度だつた。それは去年の四月四日である。
 電車が大久保につく時、自分はこわ〳〵プラツトホームを見た。六七人まつてゐる人があつた。その内に若い女が一人ゐた。鶴じやないかと思つてゐる内に電車は益々近づいて止つた。
 鶴だつた! 鶴はこの瞬間に自分に氣がついたらしかつた。後ろから乘らうとした足がこの時ピタツ[#「ピタツ」に傍点]と止つた。鶴は引きかへして前から乘つた。自分と見合つた時、目と目があつた。鶴は赤い顏して目をそむけた。さうして自分の腰かけてゐる右側に腰をかけた。鶴と自分の間には三人の人がゐた。
 自分は鶴の大人になつたのに驚いた。鶴は相變らず粗末な着物を着て薄くお白粉をぬつてゐた。自分は鶴程美しい女を見たことはないと思つた。
 優しい、美しい、さうして表情のある顏、生々した目、紅の口唇、顏色もいヽ、自分は鶴の顏をもつとはつきり見たいと思つた。しかし間にゐる人が邪魔になる。赤い髮の毛が一寸見えるだけだ(鶴の髮毛は赤い)自分のわきには勞働者がゐた。その隣りが軍人で、その隣りが四十許りの女で、その向ふに鶴がゐるのだ。
 自分は向い側の空いてゐる席に鶴の腰かけなかつたのを殘念に思つた。しかしあわてた樣子、自分と顏をあはせるのを氣まりわるく思つて同じ側に腰をかけたことを嬉しく思つた。
 新宿で可なり人がのつた。代々木では殆んど滿員になる程人がのつた。自分は老人か子供を負《おぶ》つてゐる人が來てくれるといヽなと思つた。さうすれば自分は何げなく立つことが出來る。さうして鶴を見ることが出來る。しかし自分の前には男の人のみ立つてゐる。
 千駄ヶ谷で少しおりた。信濃町では五六人おりて、三四人のつた。四谷につく少し前に自分は立つた。鶴の方を見た。鶴と自分の目は逢つた。鶴はすぐ目を轉じた。自分は思ひ切つて鶴の前を通つて止ることにした。電車はとまりかけたが鶴はたヽない。さうして自分に顏を背けてゐる、電車はほんとに止つた。自分は鶴の前を通らうとした。この時不意に鶴は立つた。自分は嬉しかつた。自分の手は鶴の背中にふれた。自分は鶴についで電車を降りやうとした。この時入口のそばにゐた子供をつれた人が立つた。自分は厚顏《あつかま》しくその男をかきのけて鶴のすぐあとに從ふ勇氣がなかつた。自分は鶴と自分の間に二人を入れた。
 自分は電車をおりると二人を逐ひこした。さうして改札口を鶴について出やうとした。しかし鶴は改札口に逹した時一寸後ろを見た。自分を見た。さうして身體を少し右によせて自分に先にいらつしやいと云はぬ許りの態度をとつた。自分は夫の權威を以つてさきに出た。しかし自分の心はあがつてゐた。切符を改札掛に渡さうとして落してしまつた。自分は落ちた切符をたヾ眺めて改札掛の拾ふのを見て、なるたけ落ついて停車塲を出た。出て右に折れて段々を左側のはしを通つて登つた。さうして自分はふり向いた。鶴と又顏をあはせた。一階段を登りおはつてふりかへると鶴は自分の通つたあとを登つてくる。矢張左側のはじを通つて。
 自分は段を上りきる前に又ふり向いた。鶴は靜かに自分の步いた所を步いてくる。自分は登りきつて右に折れて麹町通の方へ行つた。ふり向くと鶴は段々を上りきつて未だ自分のあとをついてくる。自分はもう夢中だ、嬉しい。
『お鶴さん』と聲をかけたい程自分は親しさを感じた。さうしてさう聲をかけても鶴はおどろかないで、
『なに御用?』と笑ふやうな氣がした。自分は足はおそくなつた。自分は電車道をよこぎつて麹町通の左側を通つた。鶴は電車通をよこぎらずに右側を步いてくる。
 自分は何度ふり向いたか知れない。その都度、鶴と顏をあはせた。あはせるとあはてヽ自分は顏を元に戾した。鶴も顏をそむけたやうに思ふ。
 自分は鶴が自分を愛してゐてくれたと思はないではゐられなかつた。自分の心は嬉しさにおどつた。
 眞心は眞心に通ずる。自分が鶴を戀してゐるやうに、矢張り鶴も戀してゐてくれたのだ。
 自分の足はおどつた。自分の足はつい早くなつた。六丁目あたりに來てふり向いた時、最早鶴の姿は見えなかつた。自分は鶴は何處かの商店《みせ》に入つてゐるのではないかと思つたが見えなかつた。しかし自分は嬉しくつてたまらなかつた。自分は自家に急いだ。
 鶴は自分を戀してゐるのだ。鶴は自分の妻になるのだ。二人は夫婦になる運命を荷つて生れて來たのだ。
 なにしろ今日は嬉しい日だ。記念とすべき日だ。鶴も嬉しく思つてくれてるだらう。自分は自家に歸つてこの喜をもらさないではゐられなかつた。母に逢つて今日鶴に逢つてよ。鶴はそれは美しくなつてよ。僕は萬龍より鶴の方が何十倍美しいか知れないと思ひましたよ。と云ひたかつた。母は萬龍を或日見て、美しい〳〵と感心してゐたことがあつた。さうして鶴のことはさう美しいとは云はない。母に三年前自分は鶴の自分の室の窓の前を通る處を見せたことがある。
 何しろ自分はおちついてゐられない。しかし母に打ちあけて云ふのは氣まりがわるかつた。晝飯食つてからもじつとしてはゐられないので神田に行つた。さうして一人鶴のことを思つて微笑《ほヽえ》んだ。
 美しい、美しい、優しい、優しい、氣高い、氣高い、鶴は女だ!
 自分はその夕、麻布の友を訪れて、『鶴に逢つたよ』と簡單に話した。友は『さうかい、そりやよかつたね』と云つた。

      十二

 自分は五月十二日に鶴に逢つてから愈々鶴と夫婦になれるやうに思つた。さうして鶴と夫婦になれたあとのことを考へた。
 自分は夫婦となつたあと何時迄も幸福にゐられるやうな氣がする。世間の普通の夫婦間のやうに二人の間に面白くないことが起るとはどうしても想像が出來ない。淫慾をつヽしみ。お互にいたわつて感謝しつヽゆくならば不和はおこり得ないやうに思はれる。しかし人々は經驗ある人々はかう思ふ自分の考を若いと云つて、獨身の空想と云つて心から冷笑することを知つてゐる。
 世に自己一個の經驗を笠にきて總ての若者が自分の踏んだ道をその通りふむときめて、先生顏する奴程自分にとつて癪にさわる奴はない。時分は理想的の結婚をし、理想的の家庭をもつて見せ、彼等の鼻をあかしたく思ふ。自分は彼等のやうに細君を玩弄物とは見ない。姙婦の醜くヽなること、ヒステリー的になることを自然と思つてゐる。その苦痛に多大の同情をはらつて見せる。自分は性慾の價値を眞に發揮して見せる。眞の戀を味つて見せる。自分は彼等の見出すことの出來ない禍根を見出して未だ芽の内に枯して見せる。自分と鶴の戀は彼等の戀と全然別種であることを事實によつて證明して見せる。
 男女の眞の戀は種々の形をとるも永遠不滅のものであることを事實によつて證明して見せる。
 しかしもし鶴と自分との禍を生むならば、どうして禍が生れるかを眞にきわめたく思ふ。
 自分は鶴と結婚する爲に他人から嘲笑されるであらう。しかしその嘲笑はやがて羨望になり、更に一轉して尊敬になり、自分の結婚は理想的結婚のある雛形となり得ると信じてゐる。
 何にしろ自分は自分の鶴に對する戀程、智的な運命のことを考へ、自分の仕事のことを考へ、二人の個性のことを考へた戀はないと思つてゐる。さうしてこの戀の成就によつて幾多の事實、かくれたる事實を知ることが出來るやうに信じてゐる。
 自分は今や鶴と自分の夫婦になれることを殆ど疑はないやうになつた。たヾその時間が早いか遲いかヾ問題であると思ふやうになつた。しかしさすがに時々は不安になる。だめなやうな氣がする。しかし又何時のまにかうまくゆくやうに思ふやうになる。さうして別に理由もなく不斷はうまくゆくやうにきめてゐる。
 五月も六月も自分は川路氏からいヽたよりがあるのを空しく待つてゐた。七月も八月も空しく果報を待つた。九月の始めに一寸沼津の千本濱に行つた。――自分は夏中東京にゐた――こヽに一週間許りゐて自家に歸る時なぞは不在に川路氏から鶴の自家でとう〳〵承知したと云ふ返事が來てゐるやうな氣がしてたのしみにして歸つて來た。しかし何にも云つて來なかつた。九月も無事に過ぎた。
 十月の或日自分は氣分のいヽ淋しい秋の氣を深く呼吸しながら庭を步いてゐたら女中が來た。さうして自分に一通の手紙をわたした。
 自分の胸はおどつた。川路氏からの手紙である。
 自分は封を切つた、さうして讀んだ。自分は全身に力を入れた。目から淚がながれた。
 鶴は人妻になつたのである。
 自分は耐えやう、〳〵としたが耐え兼ねて聲出して泣いた。自分はどうしていヽかわからなくなつた。自分は夢中で庭を步きまわつて自分の室に入つて机の上に泣き伏した。
     *  *  *  *  *
 鶴は柏木にゐる金持の長男で、今年工學士になつた人の妻になつたのである。

      十三

 その後自分は鶴のことを空想の倉から出して記憶の倉の中に入れやうと努力した。しかしそれは徒らに淋しい苦しい努力であつて無益《むだ》な努力であつた。時間の手に任せるより仕方がない。
 自分は花をすべてとりさられた花園の内を淋しい心をもつて自分をあざけりながら步きまわつてゐた。
 女に餓えてゐる自分は他日また女を戀し得るかも知れぬ。して今の失戀を祝福する時が來るかも知れぬ。しかし今の自分にはそんな考は何にもならない。たヾ淋しい、情けない。やヽともすると淚ぐむ。
 自分は旅行しやうかと思つた。このまヽゐては身体をこわしはしないかと思つた。しかし自分は自分を勇士と思つてゐる。自分を戀せぬ女が人妻にならうともそは自分にとつて幸なることであらうとも不幸なことではないはずだ。さう云ふ女を妻にしなかつたことは喜ぶべきである。自分は自業自得の失戀の爲に身体をこわすことを恐れるやうな人間ではないはずだ。自分はするだけのことをした以上は運命を甘受するだけの哲人にならなければならない人間だ。
 自分は東京にとヾまることにした。さうして淋しい心をかくして平氣な顏をしてゐた。父や母や川路氏はこれならあんなにまで結婚させやうと心配しないでもよかつたと思はれたにちがいない。
 しかしするだけのことをしなければどうして我慢が出來やう。それがせめてもの慰藉じやないか。最愛の兒を失つた母にとつて出來るだけのことをしたと云ふのが唯一の慰藉じやないか。
 十一月三日の晚に自分は今年工科を卒業した友を訪れた。さうして何げなく鶴の夫のことを聞いた。友はよく知つてゐた。さうして快活ないヽ人だと云つた。立派な身体したいヽ人だと云つた。さうして近頃戀女房をもらつて元氣だと云ふことまでしやべつた。
 自分は何げなく『さうかい』と云つた。友は話したあとで不意に『なぜ聞くのだ』と聞いた。自分は顏のほてるのを覺えた。さうしてやヽともすると淚が出さうなのでよわつた。
『一寸聞きたいことがあつたからさ』とわけのわからないことを云つた。
 友は別に追窮しなかつた。
     *  *  *  *  *
 其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を戀してゐてくれたのだが父や母や兄のすヽめで進まずながら人妻になつたのだと理由もなしに思ふやうになつた。さうしてそれから一月もたつた。今は鶴をあはれむやうな氣分になつた。さうして鶴の運命が氣になりだした。
 自分はこの感じがあやまつてゐるか、いないかを鶴に逢つて聞きたく思つてゐる。
 しかし鶴が『妾は一度も貴君のことを思つたことはありません』と自ら云はうとも、自分はそれは口だけだ。少くも鶴の意識だけだと思ふにちがいない(完)⦅四十三年二月⦆


 附錄(「お目出たき人」の主人公の書けるものとして見られたし)


      二人⦅拙著『荒野』より⦆

 こヽに男と女があつた、二人とも戀を知りそめる年頃である。二人は見たことはあるかも知れない、いや確にある。男の十三、女の十の時二人は往來で逢つたことがある。その時男は可愛らしい女と思つた、女は立派な男と思つた。しかし二人はそのことを忽ち忘れた。夢にも見なかつた。二人の家は相去ること一町半。
 無論二人は話したことはない、名も知らない、第一男は女のこの世にゐることすら知らない、女は男のこの世にゐることすら知らない。しかし二人の間に全く關係はなかつたらうか。意識にのぼらぬあるものが二人の間を結びつけてはゐなかつたらうか。
 男の理想の女として心に描いてゐる女こそ、その女ではないだらうか。男を假りに一郞と名づける、女を靜と名づける。一郞のぼんやり考へてゐる理想の女をつくつて、生きた女としたならば靜が出來はしないだらうか、靜の理想の男を假りに全知全能の神が作つたとしたならば一郞が出來はしまいか。
 二人は畵家ではない、理想の人の顏を想像することは出來ない。二人は彫刻家ではない理想の人の骨格を知らない。二人は詩人ではない理想の人の性質を知らない。しかし二人の意識せぬあるものが戀ひしたふものがある、それは一郞にとつての靜、靜にとつての一郞であつた。
 一郞が何故か知らぬが、何者かにあこがれ淋しい氣がする時、靜も何故か知らぬが、何者かに憧れる氣がして淋しくなる。
 靜が不意に愉快を感ずる時、一郞も理窟なしに愉快になる。二人の間には何ものかあるに違ひない。同じ震動をして音を發するものヽ一つが音を發する時他のものも知らずに音を發する。二人の間は恰もこのやうであつた。
 しかし二人はそのことを知りやうはずはない、全く知らない、不意に淋しくなり、不意に愉快になることを不思議とすら思はない。
 ある日偶然に二人は往來で逢つた。よささうな人と一郞は思つた、よささうな方と靜は思つた。この時二人は戀に落ちたのである。しかし二人はそれを知るはずはない。一郞は靜のことの頭をはなれないのを不思議に思ひ、靜は一郞のことの頭をはなれないのを情けなく思つた。二人は互に忘れやうとした。しかし忘れやうとすればする程思ひ出される。二人は自分のいくぢのないのに愛想がつきた。
 その夜、一郞は靜のことを、靜は一郞のことを忘れやうと思ひつヽ考へて、禁斷の果を味ふやうに不安と喜を感じた。二人は共に嚴格なる家に人となつて戀は耻かしいもの、罪なものと思つてゐる。
 二人は互に名を知らない、住んでる所を知らない。しかも姿を思ひ出さうと思つてもどうしても姿は浮んでくれない。しかし忘れることは出來ない。憧れる心はいや强くなる。以前は何故か知らずに何者かに憧れたが、今は何故かは矢張り知らぬが、憧れるものに目鼻が出來た。憧れるものが意識にのぼつた。
 勿論二人はこのことを正しいことヽは思はなかつた、麗はしいことヽも思はなかつた、當然のことヽも思はなかつた。互に共鳴してゐると云ふことは夢さら知らない。
 其後同じ所で二人は二三度逢つた。逢ふわけである、一郞は何ものかに憧れる時、ひとりでに足が其處に向く、靜もその時そこに我れ知らず足が向くのであつた。しかし意識にのぼらぬあるものが、二人を其處に導くので多くは意識の爲にさまたげられて、二人は十に一つも逢えなかつたのである。
 二人の思ひはいや增さつた。二人は淋しい所を好むやうになつた。二人は一層陰氣になつて思ひに耽るやうになつた。
 一郞はどうしてかく迄自分は女々しいかと、自分を鞭打ち勇氣をつけやうとする。靜は又どうしてこんなにあの方を思つてゐるのだらうと時々自分を責めて忘れやうとする。しかしその甲斐はない、やヽともすると二人は戀しく思ひ、なつかしく思ひ、淋しい感じがして淚ぐまれる。さうかと思ふと、愛してゐるにちがひない、愛してゐらつしやるにちがひないと思はれ、ひとりでに微笑まれることもある。嬉しさうな顏をするかと思ふと、すぐ寂しい情けないやうな顏をする。しかし二人はこのことを人に知られることを恐れた。して耻かしいことのやうな氣がする。
 意識にのぼることならば二人はどうかしてヾも壓へつけることが出來たであらう。しかし二人の戀し、なつかしの情は意識にのぼらぬ所よりくる。『どうしてこんなに』とは二人の自問して自答し能はざる問題であつた。
 一日靜が机に向つてぼんやりしてゐる時、母は心配さうに靜に『お前この頃どうかおしではないか』と聞いた。靜は何氣なく『いヽえ』と云つたが、母の去つた後、一しほ悲しくなつて机に泣き伏した。母に心をうちあければよかつたとも思つた。暫くして不意に心をとりなほし、一人我家を出て例の所へ行く。はからずも一郞に逢つた。二人の目は合つた、はなれた、又合つた、又はなれた。二人は通り過ぎた、二人は夢中に數步步いた。一郞がこわ〴〵ふり返つた時、靜はふり向きたいのを耐えた時であつた。靜は外のものを見るふりしてふり返つた時は一郞の頭の元に戾つた時であつた。
 二人は嬉しさを感じた。しかし互に愛してゐるとは確かには思はれない。二人は心をうちあけた事はない。目と目と語ることを知らない。心と心の語ることはなほ更知らない。二人は嬉しい内に淋しく悲しく感じた。
 かくて一年は過ぎた、二年は過ぎた。
 二人の間は依然として互に戀しなつかしと思ふのみ、相手の自分を愛することは依然として疑問である。二人は二年の間にいく度か目と目で話はしたらう、心と心と話はしたらう、しかし互に相手の名も知らず、家も知らない、心も知らない。

      二

 戀に悶えるものにとつて二年は短くはない。一郞は屢々父か母に自分の心をうちあけやうと思つたが、まだ大學にも入らぬ身もて、それに相手が自分を愛してゐることすらわからぬのに、その女の人の性質もしらぬ自分が、話をしたことすらない自分が、どうしてその女を心から愛してゐると親に云へやう。取りあげられずに笑はれるにはきまつた話と、たヾ心に秘して悶えてゐた。
 靜も亦、自分の心を母に打ち明けやうと時々は思つたが、相手の方の名も知らず、性質も知らずたヾ往來で時々逢ふとより外說明のしやうもない人を戀しと云ふはいくら母に對しても氣まりがわるく。それに云つたからとてどうかなると云ふことでもないと思へば一人心に秘して悶えてゐた。
 二人は時々はあてもなく神にお願ひをしてみることもあるが。自分ですら痴情としか思へぬことを、神樣が罸し玉ふことはあらうとも、きヽ玉ふことはないとしか思へない。二人は考へれば考へる程、忘れなければならないと思ふが、もと〳〵意識上のことではないから、忘れることも出來ない。色々のことをして思を外に轉じやうとするが、何時のまにか、二人の知らないあるものは相手を抱かんと捜してゐる。
 二人は胸の悶を慰める爲に快活を裝ふて見るが、悅ぶは親ばかりで。裝ひのとれる時、なほさらさびしい。月の夜は同じく庭を散步して淚を流すこともあるが、一町半程はなれてゐる所に同じ思の人があるとは、夢さら思へない。電話で遠くの人と話すことの出來るのを疑ふ人はないが、意識にのぼらぬものを人は知りやうはずはない。
 二人とてお互に愛してゐないとは思へないのである、しかしそれは痴情の仕業と心得てゐる。得手勝手に無理にさう思つて自分の心を慰めてゐるのだと思つてゐる。くり返し云ふ、目と目と話すこと、心と心と話すことは二人は知らないのである。二人は學校の稽古より外何ものも學ぶことを欲せぬものである。
 二人は逢ふ前には今度逢つた時には向ふの人の自分を愛してゐるかゐないかを見きはめやうと思ふが、偶然に逢ふとびつくりして何もかも忘れてしまう。我に歸つた時は二人の通りすぎたあとである。かくて又一年すぎた。
 靜の齡は十九になつた。母も父も靜の結婚のことを心配する齡となつた。しかし二人の間の有樣は依然として元の通りである。二人はたヾ自分が相手を愛すると云ふことのみ明らかになつて、相手が自分を愛すると云ふことは益々疑問となる許り、考へれば考へる程わからなくなる、末には二人は相手の人のよしあしすら疑ふやうになつた。それに色々と考へれば自分の愚かなることが明らかに目につき、自分で自分を冷笑することすら時々ある。理性の前にこの感情を持てゆく時、二人は赤面して忘れなければならないと思ふ。
 或時靜に緣談がおこつた。靜はたヾそのことを否定した。しかし否定する理窟はなかつた。靜自身も否定する理窟を見出せなかつた。兩親は惡くない緣と思つたが、愛する靜がいやだと云ふのだからその緣談を斷つた。斷つたあと靜は何となく馬鹿なことをしたと思つた。もう少しさきの人を見てからことわつてもよかつたと思つた。靜の斷つた原因は、さきの人がいやだつたからではない、一郞のことを思つてゐたからである。その緣を斷つたから一郞と一緖になれるとは夢さら思はないが、そこにわからぬあるものがあつて思慮もなく靜をして斷らしたのであつた。されば考へると何となく惜しいことをしたやうな氣がする。
 それから三四ケ月たつて又緣談が靜の身におこつた。今度は前より父は進んでゐる。しかし靜は今度も理由なしに氣がすヽまない。父は色々とさきの人の身分のいヽこと、學問のあること、眞面目なことを說いた。靜は父の云ふことを皆な信じて、父のゆけと勸めるのを至當のことヽ思つた。しかし何となくゆきたくない、いやだとも斷言をしなかつたが、靜のそぶりは明らかにゆくことを欲しないと云ふことを示した。それに幸に母が占に見てもらつた所が、年まわりがわるいと云はれたので、母も進まない。遂に母の靜があんなにいやがりますからと云ふので、父も不承々々に承知してその緣談を斷つた。斷つて見ると靜にはなんとなく惜しいことをしたやうに思はれる。さうして一郞のことをそんなにまで考へてゐることが、いかにも愚かに考へられてきた。話したこともなく名も知らず性質も知らぬ男の人を、なぜこんなにまで自分は思つてゐるのだらう。その内に自分も年をとる、あの方も結婚なさる………と考へられてくる。靜は自分を馬鹿だと思はざるを得ない。
 その年の九月、一郞は法科の一回生になつた。
 二人の心はます〳〵あせる。一郞は靜がもう誰かの妻となるべき年になつてゐると思つてゐる。しかし心に思うことを云ひ出す氣にはなれない。二人は前よりもしげく例の通に行くが、二人は今や意識に支配されて例の通に行くのであるから、調が狂つて一郞が失望して門へ入る時、靜がいら〳〵して門を出る時であつたり、靜が泣きたい思をして己が室に入つた時、一郞が靜を見んとて下駄をはく時であつたりして、二人は鶍の嘴のくいちがうやうに、くいちがうことが度々あつた。愛してゐないのだ、愛してゐらつしやらないのだと二人は時々嘆息する。
 かくてその年も過ぎた。

      三

 一郞には靜が自分を愛してゐないとも思へるが、全然愛してゐないとは益々思へなくなる。あのまなざしは必ず自分を愛してゐるに違いないと時々は思ふのである。愛してゐるならば一緖になりたいと云ふことを自分から云ひ出さなければならないと思ふ。さうして云ひ出さないのはたヾ人から笑はれるのがいやだからである。あの女が自分を嫌つてゐるならば云ひ出しても斷られるだけであの女に迷惑をかけるわけはない。それを云ひ出されないのは自分が世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人に笑はれるのを恐れてあの女と自分の幸福を捨てるのは愚かなことであると思ふ。時にはあの女の方から一緖になりたいと云つて吳れるといヽがと一郞は思ふこともある。しかしそれは望めぬことで、望めた時は一郞の理窟がその女の厚顏なのを罵倒する時である。そのことを一郞も知つてゐる。一郞は無風流な男であるが、靜のことを思ふ時新體詩風のものを作ることがある。ある日一郞は偶然に靜に逢つた、その後ろ姿を見送つて自分に夫婦になりたいと云ひ出す勇氣のないことを責めつヽ、我家に歸つて日記に次ぎのことを書いた。
   汝が後ろ姿、あはれ。
   見送りて思ひぬ
   我罪人よ。
   我罪人よ、許してよ
   我が心知らば
   我と共に泣きて
   汝は許さん、いとしの汝よ。
 しかしかく思ふかと思ふと、又一郞は自分をもて、到底彼女の夫たる資格なきものと思ひ、自分をそれ程までに愛するわけはないと思ふ。さうすると今迄、自分があの女と一緖になることが、あの女を救ふことのやうに思つてゐたのが我ながらおかしくなる。そんなに自分を愛するわけはないと常に終りには一人ぎめにきめて、淋しき笑ひを見せる。
 ある日のこと、一郞は今迄にない程淋しく悲しく感じ、机にもたれてと息をついた。その内に目が潤つてくる、淚がとめどもなく流れる、戀しなつかしの情が高まる。今迄にもわけわからずに、よく淋しくなり、一人で泣いたことがあるが、この時程ひどく感じたことはない。一郞は何故か少しも知らない、暫くして淚がとまつた。一郞は人に知らさぬやうに水で顏をふいて例の所に行つて見たが、靜の姿は見えない。常になく自棄になつて我が室に歸つて机に向つてどかつと坐ると、又耐えられなく悲しくなる。氣をまぎらさうと散歩したが、どうも淋しくて仕方がない。耐えに耐えたが、やヽともすると淚ぐむ。さうして靜のことが頭に浮んで追へども去らない。一郞も我れながら愛相がつきた。この時は靜が父と母の勸めに從つて、進まぬ氣と、我儘をすてヽ親を喜ばす爲に身を犧牲にする覺悟を以て、ある人と夫婦になることを承知した時である。夫となる人は靜自身の目より見るも自分にはよすぎる人と思はざるを得ない。無論意識にのぼる所だけでさう信ずるのである。
 その後暫くは二人の悶えの時であつた。靜には幾分か理由があると思へたが、一郞は何故か知らなかつた。
 或朝一郞は何心なく新聞を見ると我胸を射るものがある。戀しと思ふ人の顏が見知らぬ男の顏とならんでゐる。
 一郞は矢張りあの女は自分を愛してゐなかつたのかと數日後悶えの薄らぐと共に思つた。さうして淋しい微笑を見せた。日記をとつて
   彼女嫁す、我が知らざる人に、
   幸あれよ彼女に!
   さはれ。
   むつまじくあれ、彼女夫婦、
   さはれ。
   我祝す、
   さはれ〳〵。
と書くと共に、深き淋しさを感じ、又泣き伏した。
 その時は靜が、夫に淋しき心を秘して微笑んで見せた時であつた。

      四

 その後、數年して一郞も妻をもつ身となつた。一郞の妻は十人の見る所、靜よりも美しく氣高き女であつた。
 今は靜も一郞も、自分の家庭を以て幸福な家庭と思つてゐる。さうだ意識し得る範圍内に於て二人の家庭は共に幸福なる家庭である。靜の夫は靜の信じた通りよき夫であつた。一郞の妻もよき妻である。
 靜は一郞のことを殆んど忘れた。一郞は靜のことを殆んど覺えてゐない。しかし不意に二人は思ひだすことがある、その時二人は若き血に從はなかつたことを常に感謝する。もう暫くたてば二人はお互に思ひ出さなくなるだらう、さうして見ぬ昔に歸るであらう。されど二人の意識にのぼらぬ或者は、依然として共鳴するものヽやうに共鳴するだらう。
 二人は今なほ時々淋しさを感ずるのである。何故か知らぬが何者かに憧るヽことがある。さうして一郞の不意に愉快になる時、靜の不意に愉快になる時であり。靜の不意に悲しくなる時、一郞の悲しくなる時である。二人の心の調べは、依然として調和されてゐる。
 靜は夫を愛し、一郞は妻を愛してゐる。しかし二人の夫婦の間は、意識なしには感情の調和は望めない。二人の夫婦は意識上の夫婦である。意識にのぼることにて夫婦間になくてはならぬことは皆滿されてゐる。幸に二人は意識し得ないものヽ存在を認めないから今の自分を以て滿足してゐる。
 されど、今も二人の感じて知り能はざる或ものは孤獨に泣いてゐる、さうして互に戀ひ慕つてゐる。    (四十年一月)


 無知萬歲

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十八歲許りの若者は机に向つてペンを持つて紙に何か書いて居る、大きな机の上にランプが乘つて居る。
若者の後ろに甲乙の二人の黑い裝束の人が居る、乙は女だ、二人共年は未詳。
若者の机の上に目覺し時計が置いてある、一時の處を指して居る。
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甲、幸福を夢みて居る。
乙、『二人に幸あれ』と書いて居ます。
甲、『二人に幸あれ』とは夫婦になる時を指すのでしよう。しかし夫婦になるのが果して二人の幸福かどうかは靑年にはわかる譯はありません。
乙、『自分は不幸でもいヽ、彼女と結婚したい』と書きました。
甲、さうでしよう、然し不幸が來た時靑年は結婚した事を祝するでしやうか。
乙、その時になつて見なければ分らないでしよう。
甲、この靑年は分るつもりで居ます。
乙、『もし結婚することが出來なかつたらたまらない』と書きました。
甲、たまらなくつても仕方がないと云ふ事は知つて居るでしよう。
乙、知つて居ても書きたくないのでしよう。
甲、靑年は今希望に燃えて居ます、早く未來の來ることを望んで居ます。
乙、二人が夫婦になつた時の事を考へて居るのでしよう。
甲、今はなれると信じて居るやうです。
乙、さう信じて居る者は幸ですね。
甲、この男は今の戀が破れるともう一生戀人が得られないと思つて居ます。
乙、貴君《あなた》は第二の戀をする時があるのですよと今云つたら何と云ふでしよう。
甲、怒《おこ》るでしよう、淋しがるでしよう、不快に思ふでしよう。
乙、きつと夢中で打ち消すでしよう、さうして不幸の運命を自分が持つて居る樣に感ずるでしよう。
甲、その第二の戀も破れて第三の戀をする時があると云つたらどうでしよう。
乙、知らぬが佛です。
甲、一寸先は闇を喜んでいヽ譯です。
乙、その第三の戀も破れて
甲、三十歲の時、今彼が最嫌つて居る世間普通の結婚をするのだと云つたら自殺する程まいるでしよう。
乙、その妻は美しくなくつて强情ぱりだと知つたら
甲、さうして一年目に一人の男の兒をあげること
乙、さうしてそれが二月目に死ぬこと
甲、その翌年に又男の兒を產むこと
乙、さうしてその翌年に夫婦別れをすること
甲、さうしてその翌年に美しい自分より十歲若い妻君をもつこと
乙、その細君が一年目に產で死ぬこと
甲、それから一年目に初めて藝者買をしてそれを妾におくこと、それに一人の男の兒が產れるので翌年は本妻に直《なほ》すこと
乙、その女が亂《みだ》らで役者買をすること
甲、さうして繼兒をいぢめること
乙、憎くもあり、美しくもありて細君に就いて悶えること
甲、それから益々道樂をし出すこと
乙、そうして五十二歲で五人の親としてこの世を去ること
甲、その五人の兒の内二人の女の兒は自分の子でないこと
乙、さうして總領が道樂息子になること
甲、二番目のは病身なこと
乙、三番目の子は彼の死ぬ時五歲のこと
甲、長女は十四
乙、次女は七つ
甲、一家は總て亂らな細君の勝手になり
乙、死ぬ時一家の滅亡を豫期しなければならないこと
甲、さうして三十四五まで文士として相當の位置を占めて居たがやがて人から顧みられなくなり、四十位には老ぼれ扱ひをされること
乙、などを知らないので呑氣なことを書いて居ます。
『自分は餘りに幸福な人間である自分の如きものを愛する女はない樣に思ふが彼女は確かに愛して居る、恐らく彼女と自分は夫婦になれるであらう。
世の中に自分程幸福なものがあろうか末恐ろしい氣がする』
と書いて居ます。
甲、末恐ろしいは唯筆先で書いたのでしよう。
乙、世の中に自分程不幸な人があるだろうかと書く時のあることは夢にも知らないでしよう。
甲、知らないことをこの靑年の爲めに祝しましよう。
甲乙、無知萬歲!
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若者ペンを置きて立ち上がり、
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若者、神樣どうか我等二人に幸を與へて下さい、二人を夫婦にして下さい。
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甲乙互に見かわす。(完)       (四十二年九月)
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 生れなかつたら?

『自分がもし生れなかつたら?』
 かう中田豊男が考へたら頭がむしやくしやしてきた。豊男は自分の生れてきたことは偶然のことを萬を萬乘した程經驗してきたことヽ考へてゐる、豊男には自分の生れたことが奇蹟のやうに思はれるのである。しかし生れなかつた自分を想像することは豊男には出來ないのである、生れぬ前は自分ではない。いや母の腹に宿らぬ前は自分ではない、自分と云ふものはなかつたのだ。これは豊男には當然なことヽ思へるが、どうもさう考へると一種いやな、なさけない感じがする。自分と云ふものヽ存在が必然であつてほしいのだ、自分なる個性は運命によつて明治十八年五月十二日何時何分にこの世の光を見るべく定められてゐてほしいのだ。さうでなければ自分の個性は無意味な、ふとしたはづみに生じたものと思はなければならない。思はなければならないことを知つてゐるが豊男には之が嬉しくなかつた。
 自分の母が父の處へ嫁したのも豊男には偶然に思へる。第一母や父が生れたのも偶然なことを萬を萬乘した程かさねてきたものだ。父方の祖父祖母、母方の祖父祖母の生れたことも偶然のことを萬を萬乘して來たのだ。又之等の人の夫婦になつたのも偶然なことだ。
 豊男は不快ながら父の中にゐた幾億の精虫の内にこの世に生を得たものは一つきりない、その一つが自分の半身だと思はないではゐられなかつた。父母の方にも同じやうなことが云へると思つてゐる。
『自分がもし生れなかつたら自分はこの世にゐない』
 豊男はこんな答を與へて見たがます〳〵頭がむしやくしやした。
『生れない許りではない、自分は宇宙に存在しなかつたのだ。さうして他の人が生れたかも知れない、その方がありさうなことだ』
 かう豊男は答を與へたが、どうも自分の求めてゐる答とは非常にかけはなれた答としか思はれなかつた。豊男はます〳〵じれて來た。
『第一そんなことを考へるのが馬鹿氣てゐるのだ。自分は生まれたのではないか』
 豊男はかう思ひかへして見たがどうももの足りない。
『餘り偶然すぎる』
 かう豊男は獨言したが、なんにもならない。
『人類には意義があるかも知れない、しかし個性には意義はない。生れたつて生れなくつたつて大した差はない。死なうが生きやうが大した差はない。自分が他人だつて大した差はない、自分が生れないで永遠にこの世に生れさうもない他のものが生れたとて親は我が兒と愛するであらう。さうしてその兒は自分の生まぬ子を生み、自分の存在したために生れる自分の子孫の變りに永遠に生れることなき子孫が――個性がこの世に生れるだらう』
 豊男はこんなことを考へて益々頭を亂した。
 とくことの出來ない謎をかけられた者のやうに、こんがらかつた糸を解かうとしてとけない人のやうに、豊男はやけくそを起して
『勝手にしやがれ!』と心に叫んだ。
 しかしまだとけない問題に未練をのこして頭をこんがらかした。
『地球が出來なければ自分は生れなかつたのだ』豊男はもうじつとしてゐられなくなつた。不快でたまらない、室を步きまわつた。
『生れなかつたらこんなことは考へなかつたらう、步きもしないだらう。飯も食はないだらう。呼吸もしないだらう、學校にもゆかなかつたらう。彼女も戀しなかつたらう。苦しみも悲しみも喜びも樂みもなかつたらう。何にもなかつたらう。しかし地球の上は今と同じやうだらう。さうして恐らく彼女は生れてゐたらう。さうして外の男と戀しあつたらう』
 豊男はどうも考へるべからざることを考へてゐるやうな氣がした。さうしてとくべからざる謎を解かうとする自分の僭越な罪の罸を受けてゐる氣がした。
 それで不意に氣をまぎらさうと帽子をかぶつて往來に出た。自分と同じやうに偶然なことを萬を萬乘したほど經驗して生れて來た人に往來で澤山あつた。老人や子供、男や女、美しい人や醜い人。立派な風をした人や粗末な風した人。皆自分の生れて來たことを當然なことだと云ふ顏して步いてゐる。
 豊男はそれを見て同類が多いと思つた。さうして少しは氣がおちついた。しかしまたヾめだ、友の處へ行つたら不在だつた、それで戀人の處へ行つた。
 戀人は自家に居た、豊男の顏を見ると笑つた、豊男も笑つた。この時とけなかつた謎は何處かへ行つてしまつた。豊男は二時間計り我を忘れて戀人と雜談した。
 さうして歸り路に『もし自分が生れなかつたら』と考へて見たが、そんなことはどうでもいヽやうに思はれた。さうしてそんなことを氣にしてゐた自分がお可笑しく思へた。
『生れたから生れたのではないか。生れなかつたら生れないのではないか。そんなことを考へる手間にどうすれば幸福にくらせるかを考へた方がいヽ』かう豊男は心で叫んで微笑んだ。さうして戀人とつくる未來の家庭を夢みて家路を急いだ。
                    (四十二年十月)


 亡友

甲、『あいつ』は自分を天才だと思つてゐた。
乙、『あいつ』は八十迄生きる心算でゐた。
丙、『あいつ』は戀人と家庭をつくることを考へてゐた。
丁、『あいつ』は自分を以て一番幸福な人間だと思つてゐた。
甲、『あいつ』は死ぬまぎわまで自分の未來のことを考へてゐたさうだ。
戊、しかしほんとは死ぬと思つてゐたらしい。
甲、どうだか、
戊、いや思つてゐた。自分が鎌倉に見舞つた時、『あいつ』は例の淋しい笑を見せてかう云つた。さすがの僕もこの頃はよく死ぬやうな氣がする、まだ仕事をしない自分をまさか死なしはしまいと思はうとするが、それは何にも益にたヽない。有爲な人が若い内にいくらでも死んでゐる。しかし死ぬ瞬間まで自分は必ず死ぬとは思はないだらう、しかし必ず死なヽいと思つたことはこの病氣になつた以來一度もないと云つた。
丁、それはさうだらう
戊、それで僕はさう云へば僕でもさうだと云つた、さうしたら彼は冷笑するやうに、さうかも知れない、しかし程度がちがう、丈夫な人は死と云ふ問題に痛切にふれることは出來ないやうに出來てゐる、死ぬとか死なヽいとか云ふ問題がさう長く頭を支配することは出來ない、と云つた。
乙、うん
戊、僕はかう云はれた時、あいつを思はず見た、骨と皮になつてゐる、自分もこれは死ぬなと思つた。おそかれ早かれ死ぬなと思つた。
甲、僕逹だつておそかれ早かれ死ぬだらう、
戊、がやすのはよしてくれ玉へ。程度がちがう。自分は仕方がないから話をかへた、さうして今君の望は何だと何に氣なく聞いて見た。
甲、うん。
戊、あいつは又淋しく笑つた。さうして何だと思ふと反對に僕に聞いた。仕事かと聞いた、首を橫にふつた。何だと僕は又聞いた。
乙、うん、
戊、例の人に介抱《かいほ》してもらうことだ、と彼は笑つた、
乙、うん、
戊、それはおれの力にあはないから困ると僕は云つた。さうしたら、君の力にあつても御斷りすると『あいつ』は云つた。『なぜ』と自分はつよくきヽ返した。『肺病だぜ』とあいつは云つた。戀人にかいほしてもらえば接吻もしたくなるからねと彼は笑つた。
丙、悲慘だね、
戊、悲慘と思ふより僕は悲壯に感じた。あいつは言葉の調子をかへて、自分は例の人の自分を愛してゐてくれたかも知らずにこの世をさるのがなんだか淋しい、しかし今となると、まだ自分の戀の成就しなかつたことが例の人にとつて幸ひだつた。しかし自分には不幸だつた。自分は眞の人生の快樂を知らずに死ぬのだからね、とあいつは云つた。
乙、うん。
戊、死なヽいかも知れないじやないか、僕はかう云つた。あいつは冷笑した。有難たう、しかし僕はそれ程目出たくはない。自分で自分のことを樂天家だとも云つた。目出たい人間だとも云つた。しかし自分は君が僕の死ぬことを信じてゐることを知つてゐる。僕は君に僕と云ふものを思ひ出させる爲にしやべりたいだけしやべらうと思つてゐるのだ、實は自分で自分の死ぬことを迷信してゐる、さうあさはかな同情は今されたくない、僕は之でも自分で勇士だと思つてゐるのだ。
乙、うん、
戊、餘り激するといけないだらうと僕は云つた、すると激さヽないやうにする好意があるなら、すなほに僕の云ふことを聞いてくれ玉へと云つた。さうして『あいつ』は色々のことを云つた。その内にこんなことも云つた。
 自分の一番の望みは自分の初戀の女の人と例の人に時々見舞はれることだ。もし何んなら初戀の女の人は夫と一緖に來てくれてもいヽ、例の人は母と一緖に來てくれてもいヽ。自己の名と身体をきづヽけないやうにして自分を時々見舞つてほしいのだ。自分は决して戀人に云ふやうなことは云はないだらう。たヾ無邪気な話がしたいのだ、死と云ふものを忘れて喜びに醉ひたいのだ。君とかうやつて話してゐると氣持がいヽ、時々は夢中になるしかし淋しい、それに理窟ぽくなつていけない、死と云ふものを感じてゐけない、夢中になつて華かに醉ひたいのだ、しかしそれは例の空想だね、出來ないことだ、しかし自分は樂天家だから初戀の人や、例の人が自分の死にかヽつてゐることを聞いて見舞つてくれることはあり得ないことではないやうな氣がしてゐる、と云つて淋しく笑つた。二人に手紙を出したらどうだと僕は云つた。出來ないね、とらはれてゐるのかも知れないが出來ない。それに手紙を出しても來るわけにはゆくまい。たヾ來てくれはしないかと思つてゐるのだ。これが中々の慰藉になるのだ、ハンネレのやうに死ぬ時には二人の夢を見て死ぬかも知れない。とあいつは笑つた。
甲、二人は彼の死ぬまでに彼の處に來たかい。
戊、來るはづがあるものか。
丁、二人の夢を見て死んだらうか。
乙、そんなことがわかるものか。
戊、しかし餘程樂な死だつたさうだ。
丙、しかし隨分それまでに苦しんだらうね。
甲、煩悶もしたらう。
乙、隨分生命に執着してゐた方だからね。
乙、しかし死んでしまえば同じことだね。
戊、同じだらうか。
甲、同じぢやないか。
戊、………さうだね。(完)       (四十二年十一月)


 空想

妹、お兄さん、今度お出しになつた繪の評が今日の新聞に出てゐましたわね。
兄、(一寸驚き)出てゐた。お淸さんはあれを讀んでどう思つて。
妹、妾、嬉しゆう御坐いましたわ。
兄、なぜ、あんなに惡口云つてある評を見て嬉しかつたの。
妹、だつてお兄さんの繪が高尙過ぎてわからないのであんなことを云ふのでしよ、妾あの評を讀んでお兄さんはほんとに豪い方なのだらうと思つてよ。
兄、有難たう。しかし僕にはあの評は心ぼそかつた。
妹、なぜ?
兄、だつてあヽ見えると云ふことはアヽトが下手だからだと思つたので。
妹、だつてお兄さんがあれを出品なさる時、世間の奴、この繪を見てきつと惡口云ふだらう。この繪の價値はわからないだらうからな!、とおしやつたでしよ。
兄、そりや、云つたさ、しかしまるで豫期してゐない所に敵が出たのだからね、僕のあれを出して攻擊されると思つたのはあの點ではなかつた。物好きだ、新らしがつてゐる輕薄だ、才でやつてのけてゐる。そんな攻擊はされる心算はなかつたのだ。僕は寧ろ不器用だ、筆の使ひ方を知らない、色が不快だ、餘りにむきになりすぎてゐる。藝術品じやない。と云ふ攻擊を待ちもうけてゐたのだ、攻擊が前から來てくれたなら自分は得意になつたらう。しかし攻擊は後ろから來たのだ、豫期しない所から來たのだ、批評してゐる人が可なり名のある、公平な人だけに何んだか不安なのだ。ほんとにさう見えるならば自分の精神の力と云ふもの、自分の人格と云ふものが疑はれてくるのだ。
妹、そんなことはありません。あの繪に感心した人があるじやありませんか。
兄、感心してくれたのは親友と素人だ、ひいき目で見る人と、繪のことがわからない人だ。
妹、しかし素人の方が反つてわかるものだとお兄さんは何時かおしやつたではありませんか、反つてとらわれてゐないからつて、
兄、しかし素人はこけおどしにおどされることがあるからね。
妹、あの畵にこけおどしがあつて、
兄、どつか變つた所がこけおどしになつたのだらう。
妹、そんなことはありませんわ、妾、あの批評を書いた人を何時かお兄さんがほめておゐでヾしたから有望な方と思つてゐましたが、あの批評を見て矢張り、普通の方と思ひましたわ、
兄、どうして、
妹、それだつて、あの畵の精神がわからないのですもの。底の力と、表面だけの力の見わけの出來ない人なのですもの、あの繪に何處に輕薄な所があるでしやう。
兄、それはおれだつてないと思ふ。その畵のどの一ハケも僕は全心で書いた。全身の力を筆さきにあつめて書いた。しかしおれの全身の力は存外弱いものかも知れない。
妹、そんなことはありませんわ、それに物好きだとか、新らしいがつてゐるとか云つてゐるのを見ると、おかしくなりますわ、物好きな所が何處にありましやう、新らしがつてゐる所が何處にありましやう。
兄、そりや畵いた時そんな氣は少しもなかつた、他人とかわつた所があると云ふことは知つてゐた、しかし古い新らしいと云ふことは眼中になかつた、自分は自分の個性に最も忠實なものを畵題にとつた、それをかくことに全身の力をそヽぐことの出來る畵題を撰んだ、畵題の古い新らしいは自分の問う所ではなかつた、しかし他人にさう思はれるのは、自分の全身の力が弱いからじやないか知らん。
妹、うそよ、そんなことはありませんわ、批評書いた人のさもしひ心からそんな想像をしたのですよ、妾、中でも『古い畵題をとつて新らしいものと思つて得意になつてゐる作者のお目出たいのが浦山しかつた』と書いてある所を見た時に、妾、書いた人を輕蔑しましたわ。
兄、しかし僕はあれを畵いた時にはそんな氣はなかつた、たヾ夢中でかいたが、出品する時には新しい所があるのを得意にしてゐたのだ。
妹、しかしそれは畵題じやないのでしよ、個性の顯はし方のアヽトにでしよ。よくお兄さんがおしやつてゐらしやるやうに。其處に氣がつかないのですもの、お目出たいわ、
兄、お淸さん見たやうに云へば何でもないが、僕はもう少し批評してゐる人を信じてゐるのだ。それ以上に自分の人格の力を疑つてゐるのだ。
妹、なぜ。
兄、だつて、自分の人格の力があの畵には露骨に注ぎこまれてゐる、注ぎ込み方の批難ならいヽが、その自分の人格の力が露骨に出てゐる作品が、輕薄に見えると云ふのはなさけないじやないか。
妹、先入主があつてきつと感じられなかつたのですよ。
兄、それ程自分はあの批評家をにぶい人とは思へないのだ。
妹、思ひちがいもありますわ、しかしあの批評家は偉い人じやなくつてね、きつと、少くも外面きりわからない人ね。
兄、もしさうならいヽけど。
妹、さうですよ〳〵、お兄さんの作に特色があるのを借り物からくる光だと思つてゐるなんて偉くない證據よ。根本のわかる人じやないのよ、あんな人の批評で自分を疑ふなんてお兄さんに似合ないわ。
兄、しかし僕と利害關係の全くない畵のわかる人が三四人も同じやうな攻擊をするのだもの、さう見えるのがほんとうの氣がしてくる、自分の批判は自惚から來るものと思へてくる。
妹、そんなに色々の人が、今日の新聞のやうな批評してゐるの、なほ面白くつてね、しつかりおしなさいよ、なぜお兄さんはその批評をお見せにならなかつたの。
兄、お淸さんの信用をおとすのがいやだつたから。(笑顏する)
妹、まあ、そんな批評で信用をおとすと思つてゐらつしやるの、又妾をだましてまで妾に信用されたいの。
兄、弱いからね。
妹、ほんとに弱いのね。
兄、しかしほんとは强いのだよ、僕もお淸さんと同じやうに僕の畵を惡口した人を輕蔑してゐるのだよ、しかし自惚からかとそれが心配なのさ。
妹、そんなことはなくつてよ、何人惡口云つたつて妾はお兄さんは最後の勝利を得ると思つてゐてよ。
兄、どうしてさう信じられるのだらう。
妹、妾にもわかりませんわ、しかしきつとさうよ、時がたつとわかるわ、だから今惡口云はれた方が氣持がいヽわ。
兄、僕もさうも思ふのだ、惡口を云はれない時は自分の作が平凡なのだと心細くなることさえある。
妹、どうしてさう他人の批評が怖いの。
兄、僕には僕をはなれて公平に僕をみることが出來ないと思ふから、それに他人相手の仕事だからね。
妹、さうね、しかし眞價はいつかわかるわ。
兄、その眞價が時々心配なのさ。
妹、眞價通りにとられヽばいヽじやありませんか。
兄、さうだね、ほんとにさうだね、しかし眞價を自分は買ひかぶつてゐるからね。
妹、買ひかぶつてゐるのかどうかはわかりませんわ、妾、お兄さんは自身をもつと買ひかぶつていヽと思ひますわ。
兄、お淸さん有難たう、お淸さんがゐるのでどれだけ氣丈夫か知れない。もしお淸さんがゐなかつたら、どんなにさびしいだらう。僕が僕を信じられなくなつた時お淸さんがゐなかつたらどんなに淋しいだらう。僕になにか後《のち》にのこるやうなものが描けたら、それはお淸さんの御陰げだ。
妹、そんなことはないわ。
兄、いヽえ、ほんとうにさうです。
妹、さう思つて下されば有難いわ、妾嬉しくつてよ。
兄、僕はきつと自分の道をわき目もふらずに進んで見ますよ。僕にも成算の希望があるのですから、それに向つて。
妹、いらしやい〳〵、ほんとにいらしやい、妾、お兄さんのやうな人の妹に生れたのが嬉しくつてよ。
兄、(淚ぐむ)餘り嬉しいので淚が出ました。
妹、(淚ぐむ)妾も。
兄、貴女がゐなかつたらどんなに淋しいでしやう
     *  *  *  *  *
 彼はかう書いて來て元氣にはなつたが淚ぐんだ。彼にはかう云ふ妹も戀人もないのである。(完)    (四十三年十月)



 明治四十四年二月十日印刷 發行部數
 明治四十四年二月十三日發行 (自一――至千)

 お|定  著者  武者小路實篤
 め|價    東京市麹町區麹町二丁目二番地
 で|六  發行者 河本亀之助
 た|十    東京市麹町區麹町二丁目九番地
 き|錢  印刷者 藤田千代吉
 人      東京市麹町區麹町二丁目九番地
      印刷所 千代田印刷所
   ――――――――――――
 發行所  東京麹町二の二 洛陽堂



Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

 お目出たき人

原文 磒石(p.19 and p. 20)
訂正 隕石
原文 馬鹿氣でゐる(p. 49)
訂正 馬鹿氣てゐる
原文 己におふたより(p. 50)
訂正 己におたより
原文 書生は(p. 71)
訂正 書生が
原文 失敗 た(p. 75)
訂正 失敗した
原文 密柑(p. 77)
訂正 蜜柑
原文 イリヰツッ(p. 80)
訂正 イリヰッツ
原文 かヽた時(p. 80)
訂正 かヽつた時
原文 笑《わらひ》ひながら(p. 83)
訂正 笑《わら》ひながら
原文 憐れんでゐるか(p. 94)
訂正 憐れんでゐるが
原文 [執にれんが]烈(p. 104)
訂正 熱烈
原文 羹《うらや》ましく(p. 117)
訂正 羨《うらや》ましく
原文 過きた(p. 156)
訂正 過ぎた
原文 斷つなから(p. 162)
訂正 斷つたから
原文 (一寸驚き)、(p. 199)
訂正 (一寸驚き)
原文 豫期してゐたい所(p. 200)
訂正 豫期してゐない所
原文 豫期したい所(p. 201)
訂正 豫期しない所
原文 おの畵(p. 202)
訂正 あの畵
原文 新らしもの(p. 204)
訂正 新らしいもの

文字・フォーマットに関する補足

「こ」の下の横棒と「と」を上下で組み合わせた文字は「こと」に置き換えた。
原文p. 53 から p. 54 にかけて二字分の伏せ字が四箇所あるが、他の版の例にならってこのテキストでも「手淫」の字句を補った。
原文ではpp. 180-181 にかけてト書き以外の部分も急に字下げされているが、他の部分の形式にあわせてこのテキストでは字下げをしていない。
原文p. 190 に一行だけ字下げしたところがあるが、他の部分の形式にあわせてこのテキストでは字下げをしていない。
句読点は原文のそれを維持した。





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