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Title: 入れかわった男
Author: Oppenheim, E. Phillips (Edward Phillips), 1866-1946
Language: Japanese
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Copyright Status: Not copyrighted in the United States. If you live elsewhere check the laws of your country before downloading this ebook. See comments about copyright issues at end of book.

*** Start of this Doctrine Publishing Corporation Digital Book "入れかわった男" ***

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Title: 入れかわった男(Irekawatta otoko)
Author: E. Phillips Oppenheim
Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)
Character set encoding: UTF-8

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Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the
base text to indicate pronunciation).
Eg. 其《そ》

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入れかわった男
エドワード・フィリップス・オッペンハイム

 第一章

 大事件の発端となるあの災難は、エヴェラード・ドミニーが小一時間も低木の藪を押しわけ、細く渦巻きながら立ちのぼる煙をめざし、子馬に最後の絶望的な努力をしいて巨大な夾竹桃の茂みを通り抜け、前のめりに頭から小さな空き地へ転落した時点にはじまる。翌日の朝、気がつくと、彼は数ヶ月ぶりにリンネルのシーツに包まれて、キャスターつきのベッドに横たわっており、過酷な太陽と彼のあいだには、涼しげな竹で編まれた屋根があった。彼はベッドの上でわずかに身体を起こした。
 「いったいどこなんだ、ここは?」
 バンダの入り口に胡座をかいていた黒人少年が立ちあがり、何事かをぶつぶつとつぶやいて出ていった。すぐに上背のある、痩せたヨーロッパ人が、一点の染みもないまっ白な乗馬服に身をつつみ、入り口をくぐってドミニーのそばにやってきた。
 「ご気分はよろしいですか?」彼は丁寧に尋ねた。
 「ああ、いいよ」と彼はやや無愛想に答えた。「ここはどこなんだ?それに君は誰だい?」
 新たにあらわれた男はむっとした表情を浮かべた。彼の物腰には威厳があり、口調にはいくぶん非難がこめられていた。
 「ここはイリワリ河から半マイルも離れていない、と言えばおわかりになりますかな。ダラワガ入植地から七十二マイルほど南東です」
 「何だと!じゃあ、ここはドイツ領東アフリカなのか?」
 「その通りです」
 「すると君はドイツ人なんだな?」
 「ドイツ人であることはわたしの誇りです」
 ドミニーは軽く口笛を鳴らした。
 「不法侵入したことは深くお詫びする。ぼくはマーリンシュタインを二ヶ月半前に出発したんだ、土地の者二十名と、貯えをたっぷり持ってね。ぼくらはライオンを追いかけて長い狩猟の旅をしていた。アフリカ人新兵も何名かいたのだが、そいつらが面倒を起こした。ある晩、やつらは食料の貯えを分捕ろうと騒ぎを起こしたんだよ。ぼくは二人ほど銃で撃たざるを得なかった。しかしおかげで他の者がみんな逃げてしまった。いまいましいことにコンパスを持ち逃げされ、思っていた方向から百マイル近くもそれてしまった。飲み物をもらえないかな?」
 「医師の許可があれば喜んで」慇懃な答えが返ってきた。「ここに来たまえ、ジャン!」
 少年が飛び起き、現地の言葉で発せられた二言三言の短い命令を聞くと、垂れさがった葉のとばりを抜けて、別の小屋へと消えた。二人の男は並々ならぬ関心をこめて視線を交わした。ドミニーが笑った。
 「君が何を考えているか、ぼくには分かるよ。君が入ってきたときはぎくっとした。ぼくらは恐ろしいくらいそっくりだな」
 「確かに非常によく似ていますね」と相手は認めた。
 ドミニーは片手を頭の下にあてがい、主人の顔をしげしげと眺めた。容貌の類似は一見して明らかだったが、どこをとっても分があるのは、簡易ベッドの脇で腕組みして立っている男のほうだった。エヴェラード・ドミニーは生まれてから二十六年間、彼の地位にあるごく普通の英国人青年と同じように生きてきた。イートン、オックスフォード、数年間の軍隊生活、すでに負債を抱えた地所をますます望みのない泥沼に陥れただけの都会暮らし。そして数ヶ月のあいだ悲劇に翻弄されたあとは無為徒食の日々。その後の十年間、最初は都会を巡っていたが、ふとアフリカの奥地にさまよいこみ――それからの歳月のことは誰も知らない。十年前のエヴェラード・ドミニーは確かに美男子だった。今や整った顔立ちこそそのままだが、目は輝きを失い、身体から弾力は失せ、口元は締まりがなかった。熱病と不摂生に蝕まれ、いかにも若くして盛りを過ぎてしまった男の風貌だった。しかし目の前の相手は違う。面立ちは彼と同じように整っていて、似てはいるが、いっそう精力的だった。目は燦めき、情熱に燃えている。引き締まった口と顎は、彼が行動の人であることを示し、上背のある身体はしなやかで敏捷だった。体調は万全、精神も肉体も完璧な状態にあり、表情にほんのわずか重苦しさがあったが、威厳を持ち、それなりに満足を感じながら生きている男の風格があった。
 「そうだな」英国人はつぶやいた。「確かに似ている。健康に注意していたら、もっと似ていただろう。でもしなかった。それが問題なのさ。ぼくは逆の方向につっぱしった。自分の人生に見切りをつけようとして、もうちょっとでそれに成功するところだった」
 枯れ草のとばりが一方に押しのけられ、医師が入ってきた。小柄なまるまるとした男で、やはり染み一つない白い服を身につけている。髪は金髪で、厚い眼鏡をかけていた。同国の男がベッドを指さした。
 「病人を診て、必要なことを指示してやってくれないか、先生。飲み物がほしいそうだ。ワインでも何でも身体にいいものをさしあげてくれ。充分回復したら、われわれの晩餐に同席していただこう。では失礼します。報告書を書かなければならないので」
 ベッドの男は頭を巡らし、目にかすかな羨望の色を浮かべて相手の後ろ姿を見つめた。
 「ぼくの命の恩人は何という名前なんだい?」彼は医師に尋ねた。
 医師はその質問が無礼であるかのような顔をした。
 「陸軍少将レオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵様です」
 「そんなに長いのか!」とドミニーはつぶやいた。「総督か何かなのかい?」
 「植民地領陸軍司令官です。特別の任務も受けて、この地におられるのです」
 「ドイツ人にしては、やけに男前だな」ドミニーはよく考えもせず横柄な口をたたいた。
 医師は平然としていた。彼は患者の脈を取っていた。数分後、診察は終わった。
 「最近、ウイスキーを飲み過ぎていませんか?」
 「それが君と何の関係があるのか分からんが」ぞんざいな返事だった。「しかし飲めるときはいつも飲んでいる。この胸くそ悪い気候のなかで誰が飲まずにいられるんだ!」
 医師は頭を振った。
 「対処法さえ間違えなければ、ここの気候は悪くないです。閣下はライトワインとセルツァー炭酸水しかお飲みになりません。ここに来て五年、いや、ここだけではなく、沼沢地にもいらっしゃいましたが、病気一つしたことがありません」
 「ぼくは死にそうになったことが十回以上ある」イギリス人はいささか投げやりな調子で言った。「いつ死んだってかまやしないんだが、そのときが来るまで飲めるウイスキーは飲みつづけるつもりだ」
 「料理人が昼食を用意しています。食事をなさったほうが身体に良いでしょう。今はウイスキーをさしあげるわけにいきませんが、ローリエ入りのホック・アンド・セルツァーなら召しあがっても大丈夫です」
 「持ってきてくれ」彼は勢いよく答えた。「われながらあきれた体質だよ、先生!外の料理のにおいによだれが垂れそうだ」
 「自重さえなされば、あなたの健康状態はまだまだ良好です」医師は元気づけるように断言した。
 「連れの者がどうなったか、聞いていないか?」
 「現地人兵士の死体が川辺に打ちあげられました。それからあなたの子馬が二頭、ライオンの餌食に。では失礼します。昨日の晩、豹に噛まれた現地人の傷を見てやらなければならないので」
 一人残された旅行者はじっと小屋のなかに横たわり、とりとめもなく過去のことを思い出していた。彼は外に目をやり、この野営地用に切り開かれたみすぼらしい一角の向こう、叢林と花をつけた低木の茂みを見た。彼が辿った象の道以外は通行不可能な、得体のしれない場所だった。それから豊満な胸の形に広がる、空のような蒼さの河や、かなたの靄のなかに消えていく山脈に目を転じた。主人の顔が彼を過去へ連れ戻した。何かが心に引っ掛かり、彼は記憶の糸をたぐった。それを思い出したのは、司令官と医師と彼が三人で晩餐の席についたときだった。すばやい夕闇の訪れを告げるかすかな山風に当たれるよう、小さなテーブルが小屋の外に出された。現地人の召使いが周りで竹の団扇をあおいで虫を払い、青白い奇怪な灌木の放つ芳香が毒々しいほどあたりに立ち籠めていた。
 「なんだ、ドゥヴィンターなのか!」彼はいきなり大声を出した。「ジギスムント・ドゥヴィンター!イートンで一緒だったじゃないか、ホロック寮で。ラケッツの準決勝にも出たね」
 「それからモードリン・カレッジ。競漕では五番を勤めていた」
 「なんでこちらのお医者さんは君の名前をフォン・ラガシュタインなどと言ったんだ?」
 「それが事実だからだよ」彼は控えめな口調で答えた。「ドゥヴィンターがわたしの苗字で、イギリスにいたときはその名前で通した。しかし叔父の男爵位と資産を受け継いだとき、新しい肩書きを使わざるを得なくなったのだ」
 「それにしても世間は狭い!ここに来た理由は?ライオンかい?それとも象?」
 「どちらでもない」
 「まさか狩猟のためじゃなくて、純粋に政治的な仕事のためだと言うんじゃないだろうな」
 「もっぱら仕事のためさ。猟銃は必要に迫られたとき以外、ひと月に一回も使わない。アフリカには別の理由できたのだ」
 ドミニーはホック・アンド・セルツァーをごくりと飲んで後ろにもたれた。背の高い草やずんぐりした灌木の茂みの上に蛍があらわれ、澄んだ青紫色の薄闇の中を小さな星のようにたゆたっているのが見えた。
 「なんて世界だろう!」彼は独りごちた。「シギー・ドゥヴィンター、フォン・ラガシュタイン男爵がこんなところで、何のためやら、あくせく仕事に精を出し、誰が敵なのか知らないが、黒人どもに軍事教練をしている。政治のために黙々と働き、ゆくゆくはドイツ領アフリカの総督にでもなるのかい?君はいつも国家を誇りにしていたな、ドゥヴィンター」
 「わたしの祖国は誇るに足る国家だ」彼はおごそかに答えた。
 「ともかく君は真面目にやっているわけだ。何かに真剣に取り組んでいる。ぼくのほうはと言えば――まあ、人生終わったようなものさ。ここの煙が見えなかったら、本当に昨日の晩、終わっていただろうし、それはそれでかまやしない――そこが問題なんだがね。ぼくはこれからもさまよいつづけるよ。たぶん、いつか、どういうふうにか分からないけど、最後が訪れる――ラム酒かウイスキーはもらえないか、ドゥヴィンター――いや、フォン・ラガシュタイン――閣下――どう呼んだらいいんだろう?河のそばで靄が渦を巻いているだろう?酒がないと、あれはマラリアみたいにぼくを苦しめるんだ」
 「それよりももっといいものがある。君の感想を聞かせてくれたまえ」
 主人が椅子の後ろに控えていた当番兵に命令をささやくと、当番兵は糧秣小屋に消え、一本の瓶を手にしてすぐに戻ってきた。それを見た英国人は息を呑んだ。
 「ナポレオンか!」
 「数本送らせたのだ。味の分かる人にさしあげることができて嬉しいよ」
 「うむ、こいつは本物だ!」ドミニーはグラスをゆっくり回しながら言った。「驚いた!昨日の晩、ここに転がりこんだとき、ぼくは三十時間ものも食わず、何日も水しか飲んでなかった。ところが今晩は鶏のフリカッセに、白パンに、高級白ワインに、ナポレオンだ。しかもあしたも同じメニュー――いや、そいつは分からないか。いつ移動するんだい、フォン・ラガシュタイン?」
 「まだしばらくはここにいる」
 「司令部からこんなに離れたところで何をしているんだ?ライオン狩りも象狩りもせずに」客は不思議そうに訊いた。
 「本当に知りたいのなら教えよう。わたしは現地人を集めて教練しながら、あちこちを移動し、君の国の駐在官を大いに惑わしているんだよ」
 「だが何のための教練だ?」ドミニーはしつこく訊いた。「少し前に君たちはイギリスより四倍も多い現地人兵士を抱えていると聞いた。ここに軍隊は必要じゃあるまい。われわれともポルトガルとも喧嘩は起こりそうにないし」
 「わが国のやり方なんだよ」フォン・ラガシュタインはやや教え諭すような調子で言った。「ドイツでは、そしてわれわれドイツ人が行くところではどこでも、おそらく起こるだろうという事態に対してだけでなく、ひょっとしたら起こるかもしれないというような事態に対しても準備を怠らないのだ」
 「軍隊にいた若い頃、戦争に出ていたら、ぼくも一人前の男になっていたかもしれないな」
 「もちろんここに来たことはあるんだろう?」
 ドミニーは首を振った。
 「ぼくが所属していた大隊は本国を離れることはなかった。いつもアイルランドに閉じこもっていた。だからまだ本当にガキの時に軍隊を辞めたんだ」
 しばらくして彼らは椅子を引きずり、さらに暗闇の中へ移動すると、葉巻をくゆらし、素晴らしい香りのコーヒーを飲んだ。医師は患者を診に出かけ、フォン・ラガシュタインは物思いに沈んでいた。その一方で客はあれこれと思い出話にふけりつづけた。
 彼はゆっくりとグラスに手を伸ばしながら言った。「ぼくらの出会いは心理学者の関心をひきつけてやまないだろうね。奇跡のような幸運がぼくらを結びつけ、アフリカのジャングルで人生の一夜を共に過ごす。歳は同じだが、育った場所は何千マイルも離れていて、およそ考え得る限りもっとも異質な人生行路を永遠の闇に向かって走っているというのに」
 「闇といっても君が見ているのは夜明け前の闇だよ。太陽がやがて、ちょうどあのあたりの山の背後から、燃えあがる新世界のようにあらわれる」
 「寓話なんぞで話の腰を折らないでくれ」相手は苛々と文句を言った。「ぼくの比喩は適切じゃないかもしれないが、永遠の闇は確かに存在するんだ。ぼくはいま哲学者のような気分だ。好きなように話をさせてくれ。ぼくという人間は、子供の頃は怠け者で、青年の頃は罪のない遊び人だった。それが悲劇に遭い、それからは放浪者、ゆっくりと堕落していく放浪者になった。何の目的もなく、何の希望や望みもなく、人生をのらくら過ごしている」彼はやや眠そうに話しつづけた。「ただ一つぼくが望むのは、河の向こうの、あの山の麓に埋めてもらうことだ。燃えあがる世界のような太陽が、毎朝その背後から昇ると君が言う場所に」
 「くだらない」フォン・ラガシュタインは反論した。「人生に悲劇があったとしても、君にはそれを克服する時間がある。まだ四十にもなっていないのだから」
 「その一方で君はどうだろう」ドミニーは友人の言葉をすっかり無視して話をつづけた。「君はぼくと同い年だが、十歳も若く見える。筋肉は固く、目の輝きは学生の時と同じだ。君は目的を持って行動している。医者が教えてくれたが、毎朝五時に起き、夕方疲れ果ててここに戻るそうだね。君の時間はすべてあの汚らしい黒人を教練することに費やされている。教練のない時は調査をしたり、本国に送る報告書を指示したり、熱病をばらまく数百万エイカーの沼地でできる限りのことをしている。医者は君のことを崇拝しているよ。しかし他に誰がそのことを知っているというのだ?わが親友は何のためにそんなことをするのだ?」
 「わたしの義務だからだよ」落ち着いた返事が返ってきた。
 「義務か!しかしその義務とやらは祖国でやれないものなのか?人間らしい生活をし、白人の手を握り、白人の女の目を覗きこむことはできないのか?」
 「わたしは自分がもっとも必要とされている場所へ行く。現地人への教練は楽しくはない。平凡な人生の喜びから見捨てられた者として生きていくことは楽しいことではない。しかしわたしは生まれついた星の導きに従う」
 「そしてぼくは生まれついた狐火の導きに従うわけだ」ドミニーは自嘲するように笑った。「ぼくらは月とスッポンだね。君は退屈な奴かもしれない。いつだって真面目くさっていた。しかし高潔な人格者だ。ぼくはごくつぶしさ」
 「わたしたちの差はわが国の青年に植えつけられ、君の国の青年に植えつけられていないものの差だよ。イギリスでは多少金があり、ある程度の名家に生まれた若者は世界を狩猟場か愛の園のように思っている。ドイツの貴族は、どれほど力のある者も、みな仕事を持っている。仕事こそ精神を鍛え、人生にバランスを与えるものだ」
 ドミニーはため息をついた。宝物のように思えた葉巻も指のあいだで冷たくなっていた。芳しい闇のなかで、シェードつきランプによって後ろからかすかに照らし出された彼の顔は、不意に青ざめ老けたように思われた。主人は彼のほうに身を乗り出し、初めて若い頃のように思いやりのこもった調子で話しかけた。
 「悲劇があったとか言っていたね。君だけじゃないよ。悲劇はわたしの人生にも踏みこんできた。たぶん、あんなことがなければ、もっと楽しいところで仕事を見つけていただろう。でも不幸が起きて、今はここにいるというわけなんだ」
 同情の表情が一瞬ドミニーの顔に閃いた。
 「それぞれに苦労があったんだな」彼はうめいた。

 第二章

 翌日の朝、ドミニーは遅くまで眠りをむさぼった。夢も見ずにぐっすりと眠ってようやく目覚めると、彼は野営地の奇妙な静けさに気がついた。医師が彼を見にやってきて、朝の挨拶のあと、すぐにその説明をした。
 「閣下は本国から重要な知らせを受け取り、ダルエスサラームからの使節を出迎えに行きました。三日間は戻りません。戻るまであなたには賓客として留まってほしいとのことです」
 「ご親切なことだ」ドミニーはつぶやいた。「ヨーロッパのニュースは聞いているかい?」
 「存じません」返事は素っ気なかった。「閣下からの言伝ですが、現地人が十人ほどと、子馬も何頭か残っておりますので、河のほとりに沿って南のほうへお出かけになるなら、お供につけさせます。ライオンが相当おりまして、現地人が知っている一、二の場所にはサイがいるかも知れません」
 ドミニーは風呂を浴びて身繕いし、薫り高いコーヒーを飲んでから、ぼんやりとあたりをぶらついていた。彼は午後遅く、医師と共にお茶を飲みながら、こう胸の内を明かした。
 「狩猟には全然興味が持てないんだ。厄介ばかりかけて気がとがめるが、でもどういうわけかフォン・ラガシュタインにはもう一度会っておきたい。君の寡黙な上官に惚れたみたいなのさ。あいつは男らしい男だ。ぼくがなくした何かを持っている」
 「閣下は偉大な方です」医師は熱をこめて言った。「いったん心に決めたことは、必ずやりとげますから」
 ドミニーはため息をついた。「ぼくもきっかけさえあれば、あんなふうになっていたかもしれないんだがな。ぼくらが似ていることに気がついていたかい?」
 医師は頷いた。
 「こちらに到着なさったときから気がついていました。お二人ともよく似ていらっしゃるが、相違点も大きい。お若いときはもっとよく似ていらっしゃったでしょう。時の力がそれぞれの容貌に応分の報いを与えたのですね」
 「そう何度も嫌味を言わなくていい」ドミニーは苛々した。
 「嫌味など言っていません」医師は動ぜず平然と答えた。「本当のことを話しているのです。閣下と同じ精神力をお持ちでしたら、健康やいろいろ大切なものをそのまま維持できたかも知れません。閣下のように、祖国にとって有用な人物になっていたかも知れません」
 「ぼくの健康状態はそんなに悪いのか?」
 「身体に無理なことをなさっています。しかしまだ活力は充分に残っています。数ヶ月自制なされば、見違えたようになるでしょう。では、失礼します。仕事がありますので」
 ドミニーは落ち着きのない三日間を過ごした。河の中の象の群れも、猛獣が野営地にこっそり忍び寄るころ聞こえる異様な猛々しい夜の合唱も、彼の心を動かしはしなかった。狩猟に対する情熱、現実世界に対する最後の接点がしばし失われたかのように思われた。動物を殺したところで、それがどうだというのか?彼の心はそわそわと過去のことばかりを考え、見つけることのできない何かをたえず探し求めていた。夜明けには摩訶不思議な輝かしい変容を遂げて生まれくる薄明を見守り、夜はバンダの外に座って、河向こうの山並みが形を失い、青紫色の暗闇にとけこむのを待った。フォン・ラガシュタインとの会話が彼を動揺させていた。はっきりなぜとは分からなかったが、もう一度彼に会いたいと思った。彼を苦しめることを止めて久しかった記憶が今一度よみがえった。最初の日はいつものやり方でそれを取り除こうとした。
 「先生、ウイスキーを持っているだろう?」
 医師は頷いた。
 「どこかにケースがあるはずです。閣下はあなたの言うものなら何でも与えるよう指示していきました。しかし戻るまでは白ワインだけを飲むようにとのご忠告です」
 「本当にそう言ったのか?」
 「閣下の言葉をそのまま申しあげました」
 ウイスキーに対する渇望は消え、再びあらわれたが押し殺され、夜中にまた舞い戻ってきた。そのせいで彼は顔から汗を垂らし、舌に乾きを感じながら起きていた。彼は代わりにリチウム水を飲んだ。三日目の午後遅くにフォン・ラガシュタインは馬に乗って野営地に帰ってきた。服は破れて湿地帯の黒い泥にまみれ、埃と汚れが顔を厚く覆っていた。勢いよく下馬しようとしたとき、子馬はほとんど倒れそうになった。それにもかかわらず彼は几帳面なくらい礼儀正しく客に挨拶をしようと立ち止まった。二人の男が握手したとき、彼の目に心から満足そうな輝きが宿った。
 「ここにいてくれて嬉しいよ」彼は熱をこめて言った。「風呂を浴びて着替えるあいだ失礼する。少し早めに晩餐にしよう。今日は朝から食べていないのだ」
 「長旅だったのかい?」ドミニーは興味を感じて訊いた。
 「遠くへ旅してきた」相手は静かに答えた。
 晩餐の時のフォン・ラガシュタインはいつもの彼に戻っていた。清潔なシャツの上に、白いダック地の服を隙なく着こなし、髭を剃り、疲労の跡を少しもとどめていなかった。しかし彼の態度には何か違うもの、ドミニーを戸惑わすある変化が見られた。今まで以上に客の話に注意を払うのだが、同時に気持ちは彼からいっそう遠くへ離れ、共感も同情も感じられなくなっていた。彼は奇妙なくらいしつこくパブリック・スクールと大学時代のこと、ドミニーの友人と親戚関係、その後の人生の出来事を話題にした。ドミニーはそれまでの人生遍歴を絶え間なく話すよう促されている気がし、なぜか相手が終始自分の片言隻句に細心の注意を払っていることを意識していた。シャンペンをたっぷりと供応され、ドミニーは秘密の部屋のまさに入り口のところまで饒舌にべらべらと話をした。食事が終わると、彼らは以前のように椅子を外へ持ち出した。物言わぬ当番兵が今まで以上に大きい葉巻を差し出し、ドミニーのグラスはまたもや素晴らしいブランデーに満たされた。医師は四分の一マイルほど離れた現地人野営地に出かけていて、当番兵はなかで忙しくテーブルの後片づけをしている。団扇を動かす召使いたちの黒い影だけがぼんやりと見え、頭上には燦めく星があった。彼らは二人きりだった。
 「ろくでもないぼくの身の上話ばかりしゃべり立ててしまったな。君の仕事やここに来る前のドイツでの暮らしぶりなんかを少し教えてくれないか」
 フォン・ラガシュタインはすぐには答えなかった。奇妙な沈黙が二人の男のあいだを波のように満ち引きした。時折、流れ星が空を横切り、山の端から赤い月がのぞいていた。灌木の静けさは、あらゆる静けさのなかでもっとも神秘的なものだが、それが次第に声にならない情熱をみなぎらせてきたようだった。じきに動物たちは鳴き交わしはじめ、空き地の隅に燃えている火に向かい、じわりじわりと近づいてくる。
 「君」フォン・ラガシュタインがとうとう口を開いた。時間を掛けてじっくり考えぬいたような口調だった。「君はドイツのこと、わたしの祖国のことを聞きたいのだね。たぶん、義務のためだけにこんな未開の地に来たとは思っていないだろう。わたしも悲劇をあとにしてきたのだ」
 ドミニーが束の間感じた同情は、ほとんど苛烈なまでに己を律する、相手の厳しい態度によって押し殺された。喉にしがみつく言葉を引きちぎるような言い方だったが、こわばった顔に傷心や後悔の色などかけらもなかった。
 「国外に追放されてから今日まで、このことを口にしたことはなかった。今晩は弱気になったのではなく、偶然の不思議な力に身をまかせたい気分なんだよ。生まれついた国は違うが、同級生であり大学の親友だったわれわれが、お互い魂に苦悩を抱えてこの野蛮な場所で出会うとは。わたしに何が起きたか話してあげよう。君は君自身の呪いのことを話してくれ」
 「それはできない!」ドミニーはうめいた。
 「いや、話せるさ」仮借のない返答だった。「聞きたまえ」
 一時間が過ぎ、二人の男の声が途絶えた。獣たちの咆哮は焚き火の火が小さくなるにつれ減っていった。そよ風が緩慢で憂鬱な小波のように茂みのなかを通りぬけ、川面を撫でていった。ほとんど夢うつつの状態を最初に破ったのはフォン・ラガシュタインだった。彼は立ちあがるとバンダのなかに消え、タンブラーを二つ手にして、すぐまた姿をあらわした。彼はその一つを、タンブラー用にあつらえた客の椅子のひじ掛けに載せた。
 「今晩はいつもの規則を破ってウイスキー・ソーダを飲むよ。われわれの新たな前途に乾杯しよう」
 「ここでの仕事は終わりなのか?」ドミニーは好奇心から訊いた。
 「わたしは巨大な機械の部品だよ」どことなく曖昧な返事だった。「従わざるを得ないのだ」
 強い感情がわきあがり、ドミニーの顔を歪ませ、一瞬声の調子があがった。
 「こんなふうに生き、死んでいくことに満足しているのか?ここの太陽とは別の太陽が心を暖め、胸を満たす場所に帰りたくはないのか?この原始的な世界はそれなりに素晴らしいが、しかし人間的ではない。人の住むようなところではない。ぼくらには都会の巷が必要なんだよ、フォン・ラガシュタイン。人の流れ、車の騒音、人声のざわめきが周りに必要なんだ。動物なんか糞食らえ!この国に長く住んでいると四つ足で歩くことになりそうだ」
 「君は環境に左右されすぎだ。都会で生活しているとき、君は自然を思う感傷家になるんだろう」
 「どこの都会も文明国もぼくなんかに戻ってきてほしくはないさ」ドミニーはため息をついた。「戻っても何て言われるやら、怖いくらいだ」
 フォン・ラガシュタインは立ちあがった。薄闇のなかで背筋を伸ばしたその姿にはある種の威厳があった。目の前の椅子にぐったりと座っている男の上に聳え立つかのようだった。
 「また会えることを願ってウイスキー・ソーダを飲み干そう、わが学友。明日は君が目を覚ます前に出発しているだろう」
 「ずいぶん早いな」
 「明日の夜までにあの山の向こうに行っていなければならないのだ。これがお別れだ」
 ドミニーは愚痴をこぼし、ほとんど見るに忍びない姿をさらけだした。彼は急に一人になるのが嫌になった。
 「ぼくもすぐ西に向かわなければならないんだ。というか、東でも北でもたいした違いはないんだ。一緒に旅はできないかい?」
 フォン・ラガシュタインは首を横に振った。
 「公務で旅行するのだ。それに一人で行かなければならない。明日、ここから撤収することになるが、君には付き添いをつけて、行きたい方向に道案内させよう。残念だがわたしにできるのはそれだけだ。われわれはここでお別れするしかない」
 「そうか、無理じいはできないな」ドミニーはまだ言い足りなそうな様子だった。「しかし人生の裏街道からも遠く離れた、こんな辺鄙なところで出会い、握手しただけで通り過ぎなきゃならないとは妙な話だ。黒人と動物には死ぬほど飽きてしまった」
 「運命だよ」フォン・ラガシュタインがはっきりと言った。「わたしは行くべきところに一人で行かなければならない。さようなら、君。モードリンの君の宿舎で最後の晩に乾杯したね。あれと同じ乾杯をしよう。あのサンスクリットを研究していた男が訳してくれたじゃないか。『それぞれがその求めるものを手に入れることができますように!』われわれは自分の星を追わなければならないんだ」
 ドミニーはどこか苦々しげな笑い声をあげた。彼は灌木のあいだに点滅している光を指さした。
 「ぼくの狐火だよ」彼はやけっぱちな口調でつぶやいた。「あれについていけば――沼に呑みこまれるってわけさ!」
 数分後、ドミニーは自分の小屋の長椅子の上に身を投げた。不思議なくらい無性に眠くなったのだ。お休みを言いにきたフォン・ラガシュタインは見おろすようにして、意味ありげな視線をしばらくじっと彼に向けていた。客が間違いなく眠っていることに満足し、彼は垂れさがった枯れ草のカーテンを通って隣のバンダに入っていった。そこにはまだ正装したままの医者が待っていた。彼らは声をひそめドイツ語で話した。フォン・ラガシュタインはどことなくいつもの落ち着きを失っていた。
 「万事、命令通り進んでいるか?」彼は問いただした。
 「遺漏はありません、閣下!召使いたちは荷物をまとめていますし、馬の用意をさせるためにワディファンに伝令を出したところです」
 「夜明けに出発することは伝えてあるか?」
 「ご心配なく、閣下」
 フォン・ラガシュタインは医師の肩に手を載せた。
 「外に出よう、シュミット。計画のことで話したいことがある」
 二人は籐の長椅子に座り、医師は相手の言葉を一心に待ちかまえた。フォン・ラガシュタインは頭を巡らして聞き耳を立てた。ドミニーの小屋からは深く規則正しい寝息が聞こえてきた。
 「素晴らしい計画を立てたのだ、シュミット。ベルリンから来た知らせのことは知っているだろう?」
 「閣下から少しだけ聞かせていただきました」医師が彼に思い出させた。
 「その日が来たのだ」フォン・ラガシュタインは言った。声が深い感情に震えていた。彼は一瞬思いに沈み、話をつづけた。「何月決行するか、時期も決まった。ここから召還されるのはわたしに定められた運命を引き受けるためだ。それがどういう運命か、分かっているな?わたしがイギリスのパブリック・スクールと大学に送られた理由を知っているな?」
 「見当はつきます」
 「わたしはイギリスに住むことになる。特殊任務を帯びて。あの国でイギリス人に化けるのだ。その手段はわたしの才覚に任されている。聞いてくれ、シュミット。名案が浮かんだのだ」
 医師は葉巻に火をつけた。
 「聞いております、閣下」
 フォン・ラガシュタインは立ちあがった。規則正しい寝息だけでは満足できず、バンダの入り口まで行き、ドミニーの眠りこけた姿をじっと見つめた。それから戻ってきた。
 「あのイギリス人に聞かれてはまずいことですか?」医師が尋ねた。
 「そうだ」
 「ドイツ語なら大丈夫でしょう」
 「外国語は彼の唯一の才能だよ」と彼は用心深く答えた。「君やわたしと同じくらい流暢にドイツ語ができる。しかしそんなことはどうでもいい。彼はずっと眠りつづけるだろう。ウイスキー・ソーダに眠り薬を混ぜたのだから」
 「そうでしたか!」医師はうなった。
 「イギリスに行って何より肝心なのは誰になりすますかということだ。わたしは決めたよ。あのイギリス人だ。サー・エヴェラード・ドミニーとしてイギリスに戻るのだ」
 「本気ですか!」
 「われわれは驚くほど似ているし、ドミニーはこの八年間か十年間、知り合いの同国人に会っていない。パブリック・スクールや大学の友達なら誰にあっても疑われずにやり過ごす自信がある。ドミニー邸に泊まったこともある。ドミニーの親類は知っている。今晩彼は知っておいて損のないことを何時間もしゃべりまくってくれた」
 「近親者はどうです?」
 「いちばん近い親戚でも従姉妹だ」
 「奥さんはいないんですか?」
 フォン・ラガシュタインは話を中断し頭を巡らせた。バンダのなかの深い寝息が途絶えていた。彼は立って心配そうにそっと入り口に近づき、大の字に寝ている客の姿を見おろした。どう見てもドミニーはまだ熟睡している。ほんのしばらく様子を見たあと、フォン・ラガシュタインは元の場所に戻った。
 「そこが彼の悲劇なのだ」彼は声をさらに落とした。「彼女は気が触れたんだ――どうやら彼が与えたショックのせいで頭がおかしくなったらしい。彼女が唯一の障害とも思われたが、実はいないも同然なのだ」
 「見事な計画ですね」医師は熱をこめてささやいた。
 「素晴らしい計画だよ!シュミット、わが国を見守り、わが国を世界の支配者にしようとしている見えざる偉大な神が、あの男をわれわれのもとに遣わしたに違いない。わたしはイギリスで比類のない地位につく。サー・エヴェラード・ドミニーとして社交界にもぐりこみ――恐らく政界の中枢にさえ入りこめるだろう。嵐が吹きはじめても、必要とあらば、わたしはイギリスに居つづけることができる」
 「もしもあのドミニーがイギリスに戻ったらどうするのです?」
 フォン・ラガシュタインは振り返って質問者のほうを見た。
 「そんなことはあってはならない」
 「そういうことですか!」医師はつぶやいた。
 翌日の午後遅く、ドミニーは付き添いの従者二名とともにライフル銃を肩から斜めにさげ、馬に乗って灌木の中の来路を辿った。小柄な太った医師は彼の姿が見えなくなるまで立ったまま帽子を振って見送った。それから伝令を呼んだ。
 「ハインリッヒ、イギリスの紳士にちゃんとウイスキーを渡したかね?」
 「水筒に他のものは何も入っていません」
 「荷物のなかに水とかソーダ水は入れてないね?」
 「一滴もありません、軍医殿」
 「食料はどのくらい?」
 「一日分です」
 「牛肉は塩漬け肉だね?」
 「塩気がとても強いです、軍医殿」
 「コンパスは?」
 「十度狂っています」
 「従者たちは命令を聞いているね?」
 「完全に理解しています、軍医殿。イギリス人がお酒を飲まなければ真夜中に、ブルー・リバーが折れるあたり、閣下の野営地へ連れて行くことになっています」
 医師はため息をついた。彼は心の底から非情な男ではなかった。
 「あのイギリス人、酒を飲んだほうが苦しまないだろうな」と彼はつぶやいた。

 第三章

 リンカーンズ・インの弁護士ミスタ・ジョン・ランバート・マンガンは助手が差し出した名刺を見てあっけにとられた。驚きはすぐに狼狽と入り混じった。
 「まいったな。これを見ろよ、ハリソン」そう言って、それまで相談をしていた部長に名刺を渡した。「ドミニー――サー・エヴェラード・ドミニーがイギリスに戻ってきたよ!」
 部長は細長い名刺を一目見てため息をついた。
 「これは厄介なお客さんですよ」と彼は言った。
 彼の雇い主は顔をしかめた。「言われるまでもない」彼は怒ったように答えた。「あの地所からはもう一ペニーも出てきはしない。それは知っているだろう、ハリソン。過去半年、アフリカに送った小遣いは木を売って捻出した金だ。そのままアフリカにいればいいものを!」
 「お客様には何と申しあげましょうか?」助手の少年が尋ねた。
 「ああ、お通ししろ」ミスタ・マンガンは不機嫌そうに指示を出した。「いつかは面会しなければならないのだから。この宣誓供述書は昼飯のあとに片づけよう、ハリソン」
 弁護士は依頼人を歓迎するために顔の表情をあらためた。どんなに面倒な相手とはいえ、数代に渡ってこの事務所をひいきにしてくれた大切な一族の代表なのだ。彼は年よりも老けて見える、みすぼらしい、落魄した男に向かって挨拶する心構えをした。ところが腕を伸ばして握手した相手は、りゅうとした身なりといい、整った顔立ちといい、あまり愛想のよくない事務所の敷居をくぐった人間のなかで、もっとも際だった人物の一人だった。一瞬、彼は言葉を失い、訪問者を凝視した。見覚えのある顔立ち――形のよい鼻、やや深く窪んだ灰色の目――がそこにあった。驚きが彼のもてなしに少しだけ誠意を吹きこんだ。
 「サー・エヴェラード!お会いできるとは思いがけない喜びですな――本当に思ってもいなかった!しかしもったいないことをしてしまいましたよ、二、三日前に小切手をお送りしたばかりなんですから。それにしても――失礼な言い方かも知れませんが――お元気そうじゃないですか!」
 ドミニーは勧められた安楽椅子に座りながら微笑んだ。
 「アフリカは素晴らしいところだよ、マンガン」彼の声にはかすかに横風な調子があり、それを聞くと弁護士は今の依頼人の父親の時代を思い出した。
 「こんな言い方を許していただけるなら、アフリカはあなたを見違えるほど変えてしまいましたよ、サー・エヴェラード。そう言えば、最後にお会いしてから十一年は経っていますね」
 サー・エヴェラードは杖の先端で磨き抜かれた茶色い靴のつま先をたたいた。
 「わたしがロンドンを発ったのは」と彼は回想するようにつぶやいた。「一九〇二年の四月だった。だから、そうだね、十一年だよ、ミスタ・マンガン。またロンドンに戻ったのかと思うと不思議な気がする。分かるだろう、こんな気持ち」
 「そうでしょうとも。今思ったのですが――最後の送金は止められるかも知れません。手元に多少お金のあったほうがよろしいでしょうから」彼は自信に満ちた笑顔とともにそうつけ加えた。
 「ありがとう。しかし今のところ必要はない」仰天するような返事だった。「金の話はあとでしよう」
 ミスタ・マンガンは心のなかで自分の顔をつねった。今の依頼人のことは彼が学生の頃から知っている。いろいろなときに訪問を受けたが、金の問題がこんなにあっさり退けられたことはついぞ記憶になかった。
 「というと」彼はとにかく何かしゃべらなければと思って言った。「しばらくこちらにいらっしゃるつもりですか?」
 「アフリカとは縁を切ったということだ」どことなく重々しい返事だった。「こちらに腰を落ち着けるといっても、君の話次第といったところがなきにしもあらずだが」
 弁護士は頷いた。
 「ロジャー・アンサンクのことは安心なさっていいでしょう。イギリスをお発ちになってから、消息は一切不明です」
 「彼の――死体は見つからなかったのか?」
 「痕跡もありません」
 短い沈黙があった。弁護士はドミニーをじっと見つめ、ドミニーは弁護士を探るように見返した。
 「ドミニー夫人は?」ドミニーがとうとう尋ねた。
 「奥様の容態はお変わりないようです」彼は言葉を選んで答えた。
 ドミニーはまたしても短い間をおいて話しつづけた。「問題がなければドミニー邸に落ち着くことになるだろうと思うのだが」
 弁護士はためらっているようだった。
 「申しあげにくいのですが、サー・エヴェラード、お屋敷の状態には相当がっかりなさると思います。手紙に何度も書きましたが、地代の総収入は、ドミニー夫人への分与分を差し引くと抵当利息もまかなえない額なのです。差額を埋め合わせ、あなたに送金するには、周辺の木を売らなければなりませんでした」
 「残念だな」ドミニーは顔をしかめて答えた。「もっと君を信頼して相談するべきだった。ところで、いつ――つまり――わたしの最後の手紙を受け取ったのはいつ頃だったかね?」
 「最後の手紙ですか?」ミスタ・マンガンは鸚鵡返しに言った。「サー・エヴェラード、あなたからは四年以上もお手紙をいただいていません。送ったお金が届いたことは南アフリカ銀行の口座がすぐさま借越になるのでかろうじて分かったのです」
 「それはすまなかった」と、この思いもかけぬ訪問者は言った。「わたしはわたしで一心不乱に仕事をしていたのだ。最近の南アフリカのゴシップを聞いていないとしたら、びっくりするだろうが、マンガン、わたしは大金を儲けたんだよ」
 「お金を儲けたですって?」弁護士は息が止まった。「あなたがお金儲けをなさったのですか、サー・エヴェラード?」
 「驚くだろうと思ったよ」ドミニーは落ち着いて言った。「しかしそれはどうでもいいんだ。今朝、君を訪ねてきたのは、ドミニー邸を抵当にして借りている金を全額、大急ぎで返済する手続きをしてほしいからなのだ」
 ミスタ・マンガンは新しいタイプの弁護士だった。パブリックスクールはハロー、大学はケンブリッジ、バス・クラブ(註 スカッシュの選手権で有名なロンドンのクラブ)に所属してゴルフやローンテニスよりもラケットやファイブスを好んだ。驚いた彼は「ゴッド・ブレス・マイ・ソウル!」と言う代わりに「グレイト・スコット!」と叫び、左目からたいそうモダンな片眼鏡を落として、両手をポケットに突っこんだまま椅子の背にもたれた。
 「三、四年ほど運に恵まれてね」と、依頼人はつづけた。「金鉱、ダイヤモンド鉱、それに土地で儲けたんだ。もう一年向こうにいたら、俗臭芬々たる億万長者になって戻ってきたかもしれない」
 「心からお喜び申しあげますよ」ミスタ・マンガンは何とかそう言うことができた。「驚いたりして失礼しました。しかしわたしの知る限り、ドミニー家の方で、方法を問わず、一ペニーでも稼ぎ出した方はあなたが初めてですよ。それにアフリカに行かれる前のあなたの様子からは――あけすけな言い方をしても許してもらえると思うのですが――そんなことをしようとすることすら予想できませんでした」
 ドミニーは上機嫌で微笑んだ。
 「アフリカ連合銀行に問い合わせれば、わたしの口座が十万ポンドほど貸方残高になっていることが分かるだろう。ついで言うと、その、なんだね、わたしは一級鉱山にも投資しているんだ。ミスタ・マンガン、昼食をつきあってくれないだろうか。アフリカのことはもう話題にしたくないんだけれど、投機の話を少しばかりしよう」
 弁護士は手探りして帽子を探した。
 「助手にタクシーを呼ばせましょう」彼は口ごもるように言った。
 「外に車を待たせてあるんだ」と、この驚くべき依頼人は言った。「出る前にドミニー邸の担保物件をリスト化するように事務職員に指示しておいてくれないか。債務弁済最終期限と償還価値も明記して」
 「ちゃんと指示しておきましょう」ミスタ・マンガンは約束した。「全部合わせても八万ポンドにはならないと思います」
 ドミニーが事務所のなかを通るとき、数名の事務職員が好奇の目つきでじろじろと彼を見た。弁護士は数分後に舗道の上で彼に合流した。
 「どこで食事しようか。わたしが行くクラブはちょっと流行遅れだし。今、カールトンホテルに泊まっているんだが」
 「カールトンホテルのレストランなら申し分なしですよ」ミスタ・マンガンが提案した。
 「一時半まではテーブルを取っておいてくれている。是非あそこで食事しよう」
 彼らは一緒に車で出かけた。帰国した旅行者はずっと窓から混雑する通りを眺め、弁護士は軽い物思いにふけっていた。
 「そう言えば、サー・エヴェラード」目的地が近づいたとき弁護士が言った。「ドミニー邸に行かれる前にちょっとお話しておきたいことがあります」
 「特別な話かい?」
 「ドミニー夫人のことです」弁護士は若干深刻な調子で答えた。
 相手の顔に影がさした。
 「妻はだいぶ変わったのかな?」
 「お身体のほうは大変調子がよろしいようです。しかし精神状態は少しも変わっていません。残念ながら相変わらず激しい思いこみをお持ちです。あなたがイギリスを離れる原因となった思いこみを」
 「分かりやすく言えば」ドミニーは苦々しく言った。「わたしが同じ屋根の下に泊まったりしたら、殺してやるという宣言を撤回してないんだね」
 「奥様の様態はしっかり見守る必要があるでしょう」弁護士は直接質問に答えることを避けた。「しかし、時間が経っても、奥様の不幸な反感が薄れてないことは、一応お話しておくべきだと思いまして」
 「彼女は今でもわたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか?」ドミニーは落ち着いて尋ねた。
 「思っていると思います」
 「他の人もみんな同じように考えているんだろうね」
 「あの謎はいまだに解決していません。あなたが公園で争ったこと、ほとんどふらふらの状態で家に帰ったことはみんな知っています。ロジャー・アンサンクはその日から姿を消し、今日に至るまで行方不明です」
 「わたしが殺したのだとしたら、どうして死体が見つからないんだ?」
 弁護士は頭を振った。
 「もちろんいろいろな説がありますが、ただ、一つの噂だけは覚悟なさっておいたほうがいいでしょう。お屋敷の近隣に住む人々は、ブラック・ウッドの争いのあったあたりに、今でもロジャーアンサンクの幽霊が出没すると、みんな信じています」
 「率直な意見を聞かせてほしい。もしも死体が発見されたら、これだけ時間が経過していても、わたしは殺人罪で起訴されることになるのか?」
 「ご安心なさい。第一に、わたしの考えでは起訴されることはありえない」
 「第二には?」
 「ノーフォークのあの辺りに住んでいる人なら分かりますが、ブラック・ウッドの片隅に放置された死体なんて、人間のだろうが、動物のだろうが、二度と見つかりはしませんよ!」

 第四章

 ミスタ・マンガンはレストランに入る前に小さな応接間で知り合いとしばらく歩きながらおしゃべりをした。一方、食事に招待したドミニーは支配人に話しかけ、通りかかったウエイターにカクテルを注文し、両手を背中に回して大広間に入ってくる男女を観察していた。外国暮らしの長かった人間が同国人を好奇の眼で見ている、そんな様子だった。彼は混雑する広間を通り抜ける若者の一団をよけて一方の側に身を寄せた。そのとき、厚いカーペットを敷き、三段に折れた階段のいちばん上に一人の女性が立っていることに気がついた。二人は目を合わせた。女の視線は知り合いを捜して部屋中をさまよっていたのだが、とたんに強い熱を帯びて釘づけになった。広間をぶらついていた数人の人は、しげしげと男を見る女の視線に特別な意味があるとは知らず、この二人を好ましい、ほとんど魅力的な観察対象のように思った。ドミニーは身長が百九十センチ、生まれながらの階級的特徴を最大限に示していた。さらに半ば軍人的な、半ば運動選手的な身のこなしを見事なまでに回復したようだった。顔は適度に日焼けし、薄い口ひげは上唇のところできれいに刈りこまれている。その色は丁寧に櫛を当てられた頭髪と同じ赤茶色だった。彼に向かってゆっくりと歩き出した女は、少なくともそのときだけは不自然といっていいくらい頬が青ざめていたが、それを除けば肌の色は彼と同じだった。赤みを帯びた金髪が黒い帽子の下で光った。背の高い、ギリシャ風の容姿で、大柄だが粗さはなく、まだ若いのに堂々としていた。小脇に子犬を抱え、反対の手は無地の絹織りの黒いバックを握っていた。バッグはプラチナとダイヤモンドの宝冠で飾られている。広間を取り仕切っていた支配人は彼女が近づいてくるのを見ていつもより丁重に腰をかがめた。しかし彼女の目は注意を惹きつけて止まない男のほうに向けられたままだった。彼女は唇を少し開いて彼のほうに寄っていった。
 「レオポルド!」彼女はためらいながら言った。「どういうことなの。どうして知らせてくれなかったの!」
 ドミニーは軽く会釈した。彼の言葉はあらかじめ用意されていたかのように響いた。
 「失礼ながら、人違いではありませんか。わたしの名前はレオポルドではありません」
 彼女はじっと立ちつくし、慇懃な否認の言葉など聞かなかったように彼を見つめた。
 「よりによって、ロンドンに来ているなんて。どういうことなのか、説明してちょうだい」
 「残念ながら、奥様、今申しあげた通り、わたしはあなたのお知り合いではないのですよ」
 彼女は不思議そうな顔をしたが、まったく納得していなかった。
 「レオポルド・フォン・ラガシュタインではないとおっしゃるの?」彼女は信じられないといったように尋ねた。「わたしを知らないとでも?」
 「奥様、遺憾ながらその通りです。わたしはドミニー、エヴェラード・ドミニーと申します」
 彼女は一瞬、動揺の色を顔に出すまいと、必死に自分を抑えているようだった。彼女は指で相手の袖に触れ、人目を避けて、その小さな部屋の隅に引っぱっていった。
 「レオポルド」と彼女はささやいた。「わたしを訪ねてきても、まずいことはないし、誰からも後ろ指をさされたりしないわ。住所はベルグレイブ・スクエア十七番地。今晩七時に待っている」
 「ですが、奥様」とドミニーは言いかけた。
 彼女の目が急にぎらりと光った。
 「ふざけないで。何を企んでいるのか知らないけど、成功させたければ、わたしを敵に回さないことね。七時に待っているわ」
 彼女は立ち去るとレストランに入っていった。友人から解放されたマンガンは招待主と共に、恭しく案内されたサイドテーブルに席を占めた。
 「さっき話していたのはアイダーシュトルム王女じゃありませんか?」弁護士は興味をそそられて訊いた。
 「あの方は人違いなさったんだよ」とドミニーは説明した。「おかしなことにオクスフォードでわたしの双子の兄弟と呼ばれていた男と勘違いしたんだ。あの頃はジギスムント・ドゥヴィンターといっていたな。もっともそのあとで爵位を得ただろうけど」
 「王女はちょっとした有名人ですよ。ヨーロッパでもっとも富裕な未亡人の一人ですな。ご主人は六、七年前に決闘で殺されたのです」
 ドミニーは慎重に昼食の注文を出したが、ウエイターが英語をうまく話せないので、思わず一言二言ドイツ語を使った。食事相手はにっこりと笑った。
 「ジャングルにいても言葉は忘れなかったようですね」
 「忘れる暇もなかったよ。五年間もドイツ領東アフリカの国境にいて、そこの連中と定期的に取引していたからね」
 「ところで、向こうではドイツとの関係はどうなんですか?」
 「上々だと思うね」彼は何気なく答えた。「問題は一度もなかった」
 「もちろんあなたはまだ聞いてないだろうけど、ここ数年のあいだにイギリス人は二派に分かれてしまいました――ドイツは戦争を仕掛けてきて、わが国をたたきつぶすつもりだと信じている人と、そうでない人と」
 「すると、わたしが帰国したことでそうでない人が一人増えたわけだ」
 「わたしも懐疑派なんですが、それにしても、何のためにドイツが軍隊をあれほど強化するのか、どうして艦隊を増やしつづけるのか、そこがよく分からないのですよ」
 ドミニーはしばらく話を中断してボーイ長とソースについて議論した。しかし数分後には再びその話題に戻った。
 「もちろん、わたしは新聞とアフリカで会ったドイツ人との会話から判断してるにすぎないんだがね。しかしドイツの軍隊に関してはロシアとフランスに問題がある。ドイツの軍隊が強ければ強いほどヨーロッパが戦火に見舞われるおそれは少なくなる。ロシアは革命を避けるには戦争をするしかないと、いつ結論するか分からない。それにフランスがアルザス・ロレーヌをどう思っているかは君も知っているだろう。今のロシアはこれまで以上に軍事力の拡張に関心を持ち、力を入れているとドイツ人たちは言っているよ」
 「おっしゃることが正しいことは疑いを入れません。しかし今そのことを巡って激論が交わされているのです。あなたの今後の計画について話しましょう。たとえば、これから数週間はどうなさるつもりです?もう親戚の方にはお会いになりましたか?」
 「まだ一人も。ご機嫌伺いはどうも気乗りがしないんだ」
 ミスタ・マンガンは空咳をした。「以前ロンドンにいらした頃は慢性的な金欠状態だったことを覚えていらっしゃるでしょう。たぶんそのせいで好意的だったかもしれない人も態度を変えてしまったんですよ」
 「二度と誰にも会わなくたってわたしは全然平気なんだがね」ドミニーは本音を言った。
 「それは無理というものです」弁護士は反論した。「ともかく公爵夫人には会いに行かなければなりません。どんな時もあなたの味方でしたから」
 「公爵夫人はいつも優しかった」ドミニーはためらいがちに認めた。「しかしわたしがイギリスを出る頃は、愛想を尽かしていたんじゃないかな」
 ミスタ・マンガンは微笑んだ。彼はアフリカのジャングルから帰ったばかりの男が注文したとはとても思えない、上等の昼食に舌鼓を打ち、公爵夫人のうわさ話を心から楽しんでいた。
 「公爵夫人は」と彼は言いかけた。
 「なにかね?」
 弁護士は言葉を切った。その目は近くのテーブルの二人組に吸いつけられた。彼はドミニーのほうに身を乗り出した。
 「公爵夫人がいらっしゃいますよ、サー・エヴェラード。あなたの真後ろに、セント・オマール卿と」
 「ここはきっと全世界が集結している場所なんだな」彼らのテーブルに近づいてきた男に握手の手を差し伸べながらドミニーは言った。「シーマン、よく来たね!わたしの友達で法律顧問のミスタ・マンガンを紹介しよう。こちらはミスタ・シーマン」
 ミスタ・シーマンは小柄な太った男で、ごくオーソドックスなモーニングを隙無く着こなしていた。頭は両脇のわずかな毛の房を除いて禿げていた。そのわずかに残された長いブロンドの髪は、光る頭の上を後ろに向かって注意深くなでつけられている。顔はひどく丸々として、顎のところだけが尖っていた。目は鋭く輝き、口は本格的なユーモア俳優の口だった。彼は弁護士と握手をした。イギリス人とはとても思えない熱意のこもった握手だった。
 「ここに来て半時間と経たないうちに、王女様からお近づきを求められるし」彼は声を少しひそめた。「すぐ向こうのテーブルじゃ従姉妹が食事しているのを見つけるし、おまけに今まで十年間いちばんよしみを通じた男と相まみえるとは。もっともわたしたちがいたところは、こことはだいぶ様子が違っていたけどね。そうじゃないか、シーマン?」
 シーマンはウエイターが持ってきた椅子に座った。弁護士はさっそく興味を惹かれた。
 「そうしますと」と彼は新来者に向かって話しかけた。「あなたはアフリカでサー・エヴェラードをご存じだったんですね」
 シーマンはにこりとした。「ご存じだったですって?」彼は鸚鵡返しに言った。最初の言葉で彼が外国人であることが分かった。「彼くらい気心の知れた人間はいませんでしたよ。商売仲間ですな。一緒にずいぶん取引をしました。仕事のパートナーでなかった頃は、サー・エヴェラードにいつもしてやられていましたがね」
 ドミニーは笑った。「幸運というのはたいてい人生の初めか終わりにやってくるものだ。わたしの幸運は遅く来たのさ。シーマン、君はわたしにとって幸運を呼ぶ縁起のいい友達だよ。一緒に商売をしていたときは何もかもうまくいった」
 シーマンは興奮気味だった。彼は側頭部に残されたわずかな髪を掌でなであげ、ぽちゃりとした指を弁護士の肩に置いた。
 「ミスタ・マンガン、聞いてくださいよ。わたしはこの男にある鉱山の支配的利権を売ったんです。四年半所有していたんですが、一ペニーの配当金も生まなかった株です。わたしは額面で売りました。というのも、お金が入り用でしたし、これ以上持ちつづけてもしょうがないと思ったからです。そうしたら五週間のうちに――いいですか、五週間ですよ」彼はくり返した。上品な周囲に合わせて声が上ずらないよう必死に努力しながら。「その株価が額面から十四・五倍もはねあがったんです。今では二十倍ですよ。彼はその株を五千ポンドで買ったのですが、今の株式市場なら十万ポンドで売れます。これがアフリカでの金儲けのやり方ですよ、ミスタ・マンガン。あそこじゃわたしみたいなお人好しが毎日見つかる」
 ドミニーはグラスにワインをついで来客に渡した。
 「さあさあ、良いことがあれば悪いこともあるさ。アフリカで損はしなかったじゃないか、シーマン」
 「ささやかながら儲かったね」シーマンはワイングラスの脚をもてあそびながら認めた。「しかしわたしがこつこつ働くところをこちらのサー・エヴェラードは一歩も動かず、運命に命令して膝の上に宝物をぶちまけさせたんですからね」
 弁護士は熱心に、かつ嬉しそうにこの冗談半分のやり取りに聴き入っていた。彼は口をさしはさむ機会を得た。
 「するとお二人はアフリカで本当に親しい間柄だったのですね?」彼の言葉には奇妙な、ほとんど説明がつかないような安堵の響きがあった。
 「サー・エヴェラードがそう呼ぶことを許してくれるならね。わたしたちは大都市で共に商売をしました。ヨハネスブルグ、プレトリア、キンバリー、ケープタウン。それから一緒に荒野をさまよって金鉱調査をしました。草原地帯を歩き回り、方向を失って何ヶ月もさまよったこともあります。アフリカの低俗な文明だけじゃなく、その紛う方なき驚異も見てきました」
 「で、あなたも引退なさったのですか?」
 シーマンの笑顔は輝かんばかりだった。
 「サー・エヴェラードに素晴らしい富をもたらした取引で、わたしも多少のお金を手にし、イギリスに戻る前に稼ぎ出そうと心に誓っていた額に到達したのです。おっしゃる通りですよ。金儲けからは引退しました。今はわたしの本当のライフワークに再び取りかかろうとしているところです」
 「趣味の話をするつもりなら、昼飯を注文したほうがいいぞ」とドミニーが言った。
 「お二人が入ってくる前にお昼は済ませてしまいました。おつき合いにワインをもう一杯いただこうかな。そのあとでリキュール――なんかどうです?ここでは何でも飲めますな。ミスタ・マンガン、サー・エヴェラードとわたしは渇きと格闘しなければならない場所にいたんです。何ヶ月も薄い水割りのブランデーを何よりの気晴らしとしなければならないところに」
 「先ほどおっしゃった趣味のことをお話しください」弁護士が頼んだ。
 ドミニーがすぐに割りこんできた。「わたしは反対だよ。その話をはじめると今日の午後が潰れてしまう」
 シーマンは両手を突き出し、頭を左右に振った。
 「わたしはそんな無分別なおしゃべりじゃないよ。簡単に一言だけ――どうだい?うむ、それでは」彼は中断を恐れるかのように早口に話しはじめた。「お分かりでしょうが、ミスタ・マンガン、わたしはドイツで生まれ、商売の関係でイギリスに帰化しました。ドイツを愛し、イギリスに感謝しています。人生の三分の一はベルリンで過ごし、別の三分の一はここロンドンやフォレスト・ヒルや都会で過ごし、残りの三分の一はアフリカにいました。わたしは両国間に商業上の敵意や嫉妬が拡がるのを見てきました。そんなものは無用だというのに。しかもそれらはさらに悪い事態を引き起こすかも知れません。わたしはそれを一掃してしまいたいんです。わたしの目的は協会を設立し、大ブリテン島とドイツ帝国のあいだに、もっと友愛のこもった親睦関係とビジネス関係を築くことなんです。ほら、わたしの説明はあなたの時間を無駄にしましたか?わたしだってくだくだしくならずに趣味の話ができるでしょう?」
 「簡潔そのものですよ」とマンガンは認めた。「それにあなたの計画には心から敬意を表します。しかるべき人々を集めることができれば、とても貴重な団体になるでしょうね」
 「ドイツでは有力な人々を見つけました。国家のために生き、国家を愛しているドイツ人はみんな戦争なんて考えるのも嫌です。わたしたちは平和と友情を求め、人間同士の話し合いを求めます」彼は弁護士のコートの袖を軽く叩きながら話を結んだ。「イギリスはわたしたちにとって最高のお得意さんなんですから」
 「あなたの意見がドイツ国民の大多数の意見であればいいのですが」
 シーマンはしぶしぶと立ちあがった。
 「二時半にブラッドフォードの羊毛製造業者と約束があるんです」彼は時計を見ながら言った。「顧問団に加わってくれないかと期待しているんですよ」
 彼は弁護士に向かって仰々しくお辞儀をし、ドミニーには古い友人らしく親しげに頷き、忙しそうに、上機嫌でレストランを出た。
 「しっかりした考え方のビジネスマンですな。彼の協会が成功することを祈りますよ。サー・エヴェラード、あなたも新しいことに関心を持つ必要がありますよ。政治はどうです?」
 「最初のうちは生活に適応するだけで大変じゃないかと思う」ドミニーは肩をすくめて言った。「若い頃の趣味にはもう興味がないし、こっちの友達には植民地帰りと呼ばれそうだな。しかし今後はノーフォークにいて、何もしないわけにもいかないね。もしかしたら議会に行くかもしれないよ」
 「失礼な言い方ですが怒らないでください」相手は思わずそう言った。「十年間で一人の人間がこんなに変わったのは今まで見たことがありません」
 「植民地に行くのは一か八かの賭けだよ。勝ち残って強い男になるか、さもなければ負け犬になるか。わたしはもう少しで負け犬になるところだった。しかし危ういところで態勢を立て直したのだ。あの試練がなければ、今頃は何の役にも立たない男になっていたろうね」
 「こう言ってよければ」とミスタ・マンガンは父親譲りの大げさな調子で言った。「生まれ変わったあなたと初めてお会いしたわけですが、あなたがお金を儲けたことに対してだけでなく、あなたがお変わりになったことに対しても心からお喜び申しあげたい」
 「そして、これから成し遂げようとしていることに対してもね」ドミニーは目に不思議な光を湛えながら、やや硬い面持ちで笑った。
 公爵夫人とそのお相手が立ちあがった。前者は出て行こうとするとき弁護士の姿を認めて、優雅に足を止めた。
 「ご機嫌いかがです、ミスタ・マンガン。レスタシャーのあの厄介な借地人のことは、うまく取り計らっていただいているでしょうね」
 「もうすぐご報告をいたしますよ」とマンガンは彼女に請け合った。「失礼ですが、こちらのご親戚を覚えていらっしゃいますか。外国からお戻りになったばかりのサー・エヴェラード・ドミニーです」
 直前に立ちあがっていたドミニーは手を差し出した。公爵夫人は背の高い、上品な女性だった。ほんのわずか白いものが混じった豊かなブロンド、非常に美しい茶色い目、少女のような顔色の持ち主で、さらに彼女自身が告白した言葉でいうと、おさんどんのような立ち居振舞をするのだが、一瞬、返事もせずに彼をまじまじと見つめた。
 「サー・エヴェラード・ドミニーですって?」彼女はそうくり返した。「エヴェラード?まさか!」
 差し出された手は即座に引っこめられ、ためらいがちな微笑みが唇から消えた。弁護士は二人の断絶のなかに飛びこんだ。
 「わたしが請け合いますよ、公爵夫人」と彼は熱心に言った。「こちらは間違いなくサー・エヴェラードです。数日前にアフリカからお戻りになったばかりです」
 公爵夫人はそれでも信じられなかった。どこまでも気のよい人なのだが、生まれつき頑固なのだ。
 「とても信じられないわ。じゃあ、テストするわよ。わたしたちが最後に会ったのはいつ?」
 「ウースター・ハウスでした」すばやい返事が返ってきた。「お別れを言うためにお訪ねしました」
 公爵夫人は少しひるんだ。目は和やかになり、かすかな微笑が唇の端に浮かんだ。彼女は突然ひどく魅力的な女性になった。
 「お別れを言いに来て、それから?」
 「わたしを試していらっしゃると考えてよろしいですか?」ドミニーは直立の姿勢を取り、彼女の目を見据えた。
 「お好きなように」
 「あのときは今日よりももう少し親切でいらしゃったのに。あなたはこれをくださいましたよ」彼は手帳から小さな写真を引っ張り出した。「そして許可を与えてくれましたね――」
 「なんてことでしょう、そんなもの、おしまいなさい」彼女は大声を出した。「もう一言もおっしゃらないで!大きくなった甥のセント・オマールが勘定を払っているわ。彼に聞かれちゃう。今日の午後の三時半に会いにいらっしゃい。一分だって遅れてはだめよ。ほら、セント・オマール」彼女はそばに立った若い男のほうを振り向きながら言った。「こちらはあなたの親類のサー・エヴェラード・ドミニー。とんでもない人だけど、握手してからついていらっしゃい。仕立屋をもう三十分も待たせてしまったわ」
 セント・オマール卿はかすかに笑って新しく見つかった親戚と握手を交わし、弁護士に向かって気さくに頷くと叔母の後を追ってレストランを出た。マンガンの表情は晴れ晴れとしていた。
 「サー・エヴェラード!」彼は感嘆の声をあげた。「あなたに神様の祝福がありますように!あんなふうに自分のしたことが自分にはね返ってきた女性がいたでしょうか!公爵夫人の赤面なんて――初めて見ましたよ!」

 第五章

 ウースター・ハウスは一見したところなんの理由もなくリージェンツ・パークのど真ん中に建てられた、半ば宮殿のような邸宅の一つである。以前、とある公爵が親しい友人の摂政王太子にそそのかされて入手し、その後代々引き継がれ、百万長者街道パークレーンに軒をつらねる無様な邸宅に対して、無言の非難を浴びせつづけた。ドミニーはまず門衛詰め所で革のチョッキとシルクハットの人物にじろじろ見られたあと、立派な石作りの広間で執事に用向きを尋ねられ、革のチョッキを着た別の召使いに案内されて、おそろしくヴィクトリア朝風の居間を通り抜けた。大部屋を出てから、ようやくこぢんまりした婦人の私室に導かれたのだが、その先は温室になっていて、甘い香りを放つ異国の花に埋め尽くされていた。安楽椅子に寄りかかっていた公爵夫人は手を差し伸べ、訪問者はそれを取って唇にあてがった。彼女は横の椅子に座るよう手で示し、もう一度臆面もなく探るように彼を見つめた。
 「あなた、何か変だわ」
 「それは実に不幸なことだと思いますね。帰ってきたらあなたはまったくお変わりないというのに」
 「お上手ね」彼女はうさんくさそうに言った。「でもわたしは変わったわ。もうちっともあなたを愛していないのですから」
 「その心変わりが怖くて、世界の果てからあんなに長いこと帰れなかったんですよ」彼はため息をついた。
 彼女は厳しい目で彼を見たが、いかにもわざとらしい表情だった。
 「いいこと、一つだけお互いはっきり理解しておいたほうがいいと思うの。あなたのことは何でも知っている。弁護士が送っていた毎年二百ポンドのお金が古木を売ったり、彼のポケットから払われていたことも。こちらでどうやって生計を立てるのか、想像もできないけど、ヘンリーが助けてくれるなんて思わないほうがいいわよ。可哀想にあの人ったら講演旅行の旅費すらろくにまかなえないんだから」
 「講演?ヘンリーに何があったんです?」
 「夫はとっても良心的な人なのよ」彼女はもったいぶって答えた。「ロバーツ卿と秘書を従えて町から町へと、国防問題の講演をしているのよ」
 「ヘンリーは変人だったからなあ。でも、さっきのお話ですが、ご心配には及びませんよ、キャロライン。イギリスに戻ってきたのはお金を借りるためではなくて、お金を使うためなんです」
 従姉妹は悲しげに頭を振った。「さっき言おうと思ったんだけど、あなた、ユーモアのセンスもなくしてしまったのね」
 「これは本当ですよ。アフリカはわたしの黄金郷だったんです。向こうでの滞在が終わる頃、思いもよらず大金を手に入れましてね。ドミニー邸を抵当に入れて借りていた金は全額すぐに返済します。ヘンリーから、以前、いくばくかのお金を貸して頂きましたが、その額をさっそく請求書に書きつけてほしいんですよ」
 ウースター公爵夫人キャロラインはしばらく口を開けたまま身動きもせず椅子に座っていた。当然の反応とはいえ、彼女のような女性にはふさわしくない姿だった。
 「あなた、ほんとうにエヴェラード・ドミニーなの?」
 「証拠を見るとどうやらそのようですよ」
 彼はわざと椅子を近くに引き寄せ、彼女の手を取り唇に持って行った。相手の顔が危険なほど近くにあった。彼女は少し身体を引いた――それも突然に。
 彼女は声をひそめた。「エヴェラード、ヘンリーが家にいるのよ。それに――そうね、あなたはエヴェラードに違いないと思うわ。いま、あの人そっくりの目をしたもの。でもずいぶん堅苦しいのね。向こうで軍事教練でもしていたの?」
 彼は頭を横に振った。
 「一日の半分は馬の上で生活してましたから」
 「お金持ちになったというのは本当?」彼女はもう一度不思議そうに訊いた。
 「もう一年向こうにいて、オランダのユダヤ娘と結婚していたら、パークレインに住む資格だってあったでしょう」
 彼女はため息をついた。
 「信じられないくらい素晴らしいわ。ヘンリーはお金が戻ってきて喜ぶでしょう」
 「で、あなたは?」
 彼女は見るからに戸惑っていた。
 「あなた、作法を忘れてしまったのね。それじゃあ熊手で愛情をかき集めるみたいじゃない。いまの台詞は、わたしの方に寄りかかって震えるような声で言わなきゃならないのよ。それなのに、あなたときたら目を鋼みたいにぎらっとさせて、まるで気をつけしているみたいにまっすぐ座っているんですもの」
 「向こうでは滅多に女性にお目にかかれなかったんです」彼は言い訳をした。
 彼女は頭を振った。「あなたは変わったわ。女をくどくときは、第六感がはたらいて、その場にふさわしい調子を使うことができたのに。その場にふさわしい態度とふさわしい言葉をね」
 「少し手を貸していただければ、勘を取り戻しますよ」彼は明るく言った。
 彼女は軽く顔をしかめた。
 「わたしみたいなおばあさんに助けてもらいたくはないでしょうに、エヴェラード。あなたは街で好きなことができるでしょうから。ミュージカルの踊り子といちゃつくこともできるし、美しい人妻と浮気をしたり――ごめんなさい、エヴェラード、忘れていたわ」
 「何を忘れていたんです?」彼は落ち着き払って訊いた。
 「あなたをとうとう外国に追いやったあの事件のこと。あなたの結婚のこと。奥さんはよくなられたの?」
 「あまり変わりはないと思いますね、残念ながら」
 「ミスタ・マンガンは――こっちにいても安全だと思っているのかしら?」
 「なんの問題もないと」
 彼女は真剣な面持ちで彼を見つめた。恐らく彼女は自分がこの厄介者の従兄弟をどれほど好いていたか、今ほど自覚したことはなかっただろう。
 「誰もあなたに文句を言う人なんていないわ。富を手にして生まれ変わったんだもの。あなたの望み通り何でも水に流してくれるでしょう。いつうちの晩餐に来て、親戚一同に挨拶するつもり?」
 「お招きいただければいつでも構いません。あしたはドミニー邸に行こうと思っていましたが」
 彼女は目に新しい表情を浮かべて彼を見た――恐れと同時に賛嘆の念をあらわす表情だった。
 「でも――奥さんは?」
 「向こうにいるでしょうね。仕方がありません。もう逃亡生活から家に戻らなければ」
 「行かないで」彼女は突然、懇願した。「どうして思い切って彼女をよそにやってしまわないの。心の優しいことは知っているけど、自分の未来や仕事のことも考えないと。彼女のためにも、妙なまねをさせないほうが――」
 ちょうどそのとき、会話が遮られたことは歓迎すべきことだったのか、そうでなかったのか、ドミニーには判断がつかなかった。キャロラインは急に口を閉ざし、警戒するように大部屋のほうを振り向いた。長身、白髪の男が、流行遅れの服に鼻眼鏡をかけて、カーテンを持ちあげた。彼は公爵夫人に細い、甲高い声で話しかけた。
 「やあ、キャロライン、邪魔してごめんよ。話し中とは知らなかったんだ。長居はしない。ただ今晩の会合で手助けをしてくれるわたしの若い友人を紹介しておきたくてね」
 「連れていらっしゃいな」と妻は答えた。その声はいつものゆっくりした話し方に戻っていた。「わたしもびっくりさせることがあるのよ、ヘンリー。腰を抜かすと思うわ!」
 ドミニーは立ちあがって、背の高い威厳のある姿を見せ、男が近づくのを待った。公爵はいぶかるように彼を見ながら進み出た。私服を着ているが、いかにも軍人といった若い男が後ろからついてきた。
 「ご期待通り驚くことができなくて申し訳ないが」と公爵は丁重な言葉遣いで白状した。「お顔にはひどく見覚えがあるものの、お会いした時のことを思い出せないのですよ」
 「ほらね、一目で分からなかったのはわたしだけじゃないでしょう、エヴェラード。こちらはエヴェラード・ドミニーよ、ヘンリー。外国で逃亡生活していたのを止めて戻ってきたの。あらゆる意味で生まれ変わってね」
 「いかがお過ごしです?」ドミニーは手を差し伸べながら言った。「誰に会ってもびっくりされるようですね。あなたにまで忘れられていなければいいのですが」
 「なんと!まさか本当にエヴェラード・ドミニーなのかね?」
 「間違いなく本人です」彼は静かにきっぱりと言った。
 「こいつはたまげた!」公爵は握手しながら言った。「わが目を疑うよ!これほど人が変わった例は見たことがない。しかし確かに――なるほど顔の色つやも――鼻も目も――こりゃ間違いない!しかし背が高くなったようだね。それに振る舞いが軍人みたいだ。なんとまあ!アフリカが君を驚くほど変えてしまったんだね。嬉しいよ、エヴェラード!感激だ!」
 「他のニュースを聞いたらもっと喜ぶわよ」妻がにこりともしないで言った。「ところでお友達を紹介してちょうだい」
 「そうだった」公爵は促されて、後ろの若者のほうを振り向いた。「失礼しました、バートラム大尉。妻の親類が思いもかけず戻ってきたもので、つい不作法をはたらいてしまいました。公爵夫人にご紹介いたしましょう。バートラム大尉はドイツから帰国したばかりなんだよ、おまえ。わたしの主張を熱心に支持してくださっている。こちらはエヴェラード・ドミニー」
 キャロラインは夫の弟子と快く握手し、ドミニーは重々しく握手を交わした。
 「バートラム大尉、あなたもドイツがわが国によからぬことを企んでいると、確信している人々の一人なのですか?」夫人は笑みを浮かべながら言った。
 「わたしは一年の滞在を終えてドイツから戻ったばかりです」と若い軍人は答えた。「偏見を持たずあちらに渡ったのですが、帰ってきた今はわれわれが二年以内にドイツと戦争になることを固く信じています」
 公爵は力強く頷いた。
 「その通りだ。わたしは何ヶ月にもわたって毎週三回、集会に来てくれた一握りの頭の鈍いイギリス人にその事実をたたきこんでいるのだよ。上院と報道機関からは敬遠されているがね。全くあきれたことに、イギリス人は金を儲けて、楽しく過ごすことさえできれば、どんなに口を酸っぱくしていさめても、反省ということをしない。ところであなたはアフリカから戻ってきたばかりなんだろう、エヴェラード?」
 「戻って一週間も経っていません」
 「向こうでドイツ人を見たかね?ドイツ領の近くに行ったことは?」
 「数年間、彼らと接触がありました」
 「それは興味深い!もしかしたらあなたの話がわたしたちの役に立つかもしれないよ、エヴェラード。いや、きっと役に立つだろう!教えてくれないか。向こうにはドイツのスパイがいてボーア人を動揺させ不穏の種をまき散らそうとしているんじゃないかね?近い将来、わが国と戦争になることを予想し、植民地で反英運動を煽っているのじゃないかね?」
 「はなはだ残念ですが、わたしはおよそ政治にうとい人間でして。向こうで出会ったドイツ人は誰も彼もとても平和的な印象でした。それにボーア人にしろ他の連中にしろ不平なんか少しも抱いていないようです」
 公爵の顔が落胆を示した。「それは実に驚いた話だな」
 「不満を抱いていそうなのはイギリス人入植者くらいです。わたしがまともに働きはじめたのは数年前からなんですが、戦争後のイギリス人の待遇について妙な噂を聞いたことがあります」
 「サー・エヴェラード、あなたの南アフリカのお話が興味深いのはもちろんなんですが」と若い軍人が言った。「しかしわたしが聞いた話とはおよそ矛盾していると言わざるを得ません」
 「わたしも同意見だ」公爵が勢い込んで賛成した。
 「向こうには今まで十一年間住んでいました。最初は猛獣狩りをして過ごしましたが、最近は蓄財に全精力を傾けていたのです。たぶん、そのせいで、充分に観察眼を働かしていなかったのかも知れません。さっそくあなたがたの会合に参加させていただき、この問題に関する理解を深めたいと思っているんです、公爵」
 堂々たる風采の血縁者はしばらく眼鏡の奥から不思議そうに彼を見ていた。
 「エヴェラード、こんなことを言うのを許してくれよ。しかしこれほど君が変わるとはおよそ信じがたい」
 「エヴェラードの変貌はそれだけじゃないのよ」彼の妻がかすかな皮肉をこめていった。
 退出しようと立ちあがっていたドミニーは、彼女の手の上に身をかがめた。
 「わたしの晩餐会はどうするの?」と彼女は言った。
 「ノーフォークから帰ったらすぐに」
 「本当にドミニー邸に行くのね」彼女はいぶかるように尋ねた。
 「もちろんですとも!」
 彼女の目は再び恐れにおののき、そのあと束の間、感嘆の光を宿した。ドミニーは主人と重々しく握手をし、バートラムに頷いてみせた。公爵夫人が呼んだ召使いがカーテンを一方に寄せて押さえながら立っていた。
 「またすぐお会いしたいと思います、公爵」いとまごいの最後にドミニーが言った。「あなたとちょっとした取引をしたいのですよ。一両日中にミスタ・マンガンから連絡があるでしょう」
 公爵はこの驚嘆すべき訪問者の後ろ姿を見つめた。カーテンがさがると彼は妻のほうを向いた。
 「ちょっとした取引だと?エヴェラードに説明したんだろうね。戻ってきたのはもちろん嬉しいが、今、わたしに経済的援助を求めても全く無駄だということを」
 キャロラインは笑った。
 「エヴェラードは今まで借りていたお金のことを言っていたの。すぐ返済するつもりらしいわ。ドミニー邸を担保に借りていたお金も返す予定よ。どうやらアフリカで一財産こしらえたみたい」
 公爵は安楽椅子のなかに倒れこんだ。
 「エヴェラードが借金を返済する?」彼は肝を潰して言った。「エヴェラード・ドミニーが抵当で借りた金を返すだと?」
 「そういうことらしいわ」
 公爵は気の弱い、しかし片意地な男の最後の避難所にしがみついた。彼の口はねずみ取りのようにがっちりと閉じた。
 「どうも腑に落ちないな」と彼は言った。

 第六章

 ドミニーはその晩、カールトンホテルの自室でシーマンを待ちながらひどく落ち着かない一時間を過ごした。ようやくシーマンがあらわれたのは七時になろうとする頃だった。
 「分かっているのかね?七時にアイダーシュトルム王女のお宅に伺う予定だってことは」
 「そうだってね」とシーマンは答えた。「しかし心配することはないさ。王女は分別もあるし、政治に対して見識のある女性だ。すっかり気を許すことはお勧めできないが、つかず離れず慎重に立ち回ることはできるだろう」
 「何を言っているんだ!王女はレオポルド・フォン・ラガシュタインとしてのわたしとわたしの自由を断固要求しているんだぞ。下手をすればエヴェラード・ドミニーの将来をめちゃくちゃにするかもしれないんだ」
 シーマンは帽子と手袋と杖をサイドボードの上に整然と並べた。隣の寝室を覗いてからしっかりと扉を閉ざし、安楽椅子に座って手足を伸ばした。
 「わたしの向かいに座りたまえ。話をしよう」
 ドミニーはやや不機嫌そうに従ったが、相手は彼の顔色を無視した。
 「さて、君」彼は一方の掌を他方の人差し指で叩きながら言った。「わたしは商売人だから割り切った話し方をするよ。われわれの立場を確認しようじゃないか。今からちょうど三ヶ月前に、われわれはケープタウンのあるホテルで約束の面会を果たした」
 「まだ三ヶ月か」ドミニーはつぶやいた。
 「お互い相手のことは何も知らなかった。わたしが聞いていたのはフォン・ラガシュタイン男爵が献身的なドイツ市民で愛国者だということ、そしてハンガリーで不幸な事件を起こしたが、皇帝の特別な計らいにより、東アフリカで重要な任務に就いているということだけだった」
 「決闘で人を殺したんだよ」ドミニーは相手から視線をそらさずゆっくりと言った。「しかし一方的にわたしが悪いわけではない」
 「決闘はいくらでもある。二人の若者が同じ身分の若い女性の名誉のため、あるいはその人を伴侶にするため闘うことは、決してわが宮廷のしきたりに反することではない。しかしハンガリーきっての名門貴族の令室を愛人にし、さらに彼女をわがものにせんと夫を殺す。夫が自分の名誉を守るためには避けられなかった決闘で。こうなると話は全然違ってくる」
 「王子を殺すつもりはなかった。だいたい顔をつきあわすことだって望んでいなかった。王子は狂ったように向かってきた。猛然と襲いかかろうとして足を滑らせ、わたしが動かさずに構えていた剣の切っ先に突っこんだ」
 「そのことは問題にしないことにしよう。わたしは君のような身分の人間じゃないから、そうした作法を十分理解していない。わたしはただ皇帝陛下の目に映ったとおり、君を犯罪人として見ている。皇帝が君に個人的な犠牲をしいるのは当然だと思う」
 「よかったら教えてくれないか。皇帝はこのうえ何を望んでいるんだ?わたしは神もいない、熱病に取り憑かれた国でうんざりするような歳月を過ごし、わが国の兵力になるよう、現地人の大部隊を育てた。他にも植民地で政治的任務をこなし、それもいつかは実を結ぶ日が来るだろう。わたしはわたしのためにもともと計画されていた仕事をするはずだった。その仕事のためにわたしはイギリスで教育を受けたのだ。ケープタウンで君と協議したあと、なりすますことになった人物になってイギリスに来る。そしてこの国の人にできるだけ好ましい印象を与えるようにする、という段取りだった。しかしわたしは君と会うまで待たなかった。絶好の機会が訪れたから、利用することにしたのだ。イギリスの郷士に変身し、今までのところはけちのつけようがないくらい順調に進展している。それは君も認めるだろう」
 「まったく君のいう通りだよ。君は別人になりすましてわたしとケープタウンで会った。確かに見事な変身だと思ったよ。君のおかげで怖ろしく出費が重なったが、われわれはお金のことで不平は言わない」
 「帰国しても貧乏じゃどうしようもないじゃないか。イギリスの社交界に出て行きようがない。君がわたしの味方になることを望んでいる人々だって、喜んで迎えてくれなかっただろう」
 「その点も不満はない。金はうなるほどある。糸目はつけんよ。同時に忠誠心も出し惜しみしてはならない」彼は厳粛な口調で言った。
 「この場合は忠誠心が問題なのじゃない。エヴェラード・ドミニーはヨーロッパでもっとも情熱的な女性の一人、アイダーシュトロム王女の足下に身を投げ出すわけにはいかないのだ。彼女とレオポルド・フォン・ラガシュタインの情事はまだ人々の記憶に残っている。忘れないでくれ、われわれがそっくりだということがいつ問題になるか分からないんだよ。われわれはここイギリスで、パブリック・スクールと大学を通じて、ずっと友人だった。われわれがよく似ていたことを覚えている人はまだたくさんいる。どんなに完璧な演技をしても、ときには疑惑を抱かれるかもしれない。王女の馬車の車輪にくくりつけられ引っ張り回されたら疑惑どころではなくなる」
 シーマンはしばらく黙っていた。
 「君のいうことにも一理ある」ほどなくして彼は認めた。「たった数ヶ月のことなんだが。君はどうすればいいと思う?」
 「すぐにわたしの代わりに王女に会ってくれないか」ドミニーは強く言った。「わたしはしばらく政治的な理由で世間に対しても彼女に対してもエヴェラード・ドミニーでなければならないのだと教えてやるんだよ。わたしはサー・エヴェラード・ドミニーとして、今日はじめて出会った佳人に、良識の範囲内で友情と賛嘆の念を捧げよう。それで満足するように説得するのだ。わたしは全身全霊で彼女に尽くすよ。しかしたとえ彼女の部屋で二人きりになろうが、客間で会ったときと同じように、わたしは任務が終わるまでエヴェラード・ドミニーなんだということを、忘れてもらっては困るのだ。たぶん君は余計な心配をしているように思うかもしれないが、わたしはそうは思わない。わたしは王女を知っているし、自分を知っている」
 シーマンは時計を見た。「約束は何時だい?」
 「約束じゃないよ。あれは命令だった。七時にベルグレイブ・スクエアに来るように言われたんだ」
 「王女の理解を取りつけてこよう」シーマンは帽子を取りあげながら約束した。「八時に戻ってきたら下で食事をつきあってくれ」
 ドミニーが一時間後、下に降りていくと、友人のシーマンはとっくにレストランの片隅にある小さな離れたテーブルに着いていた。ドミニーは軽い手振りで迎えられ、すぐにカクテルが注文された。
 「君の使い走りをしてきたよ。行ってみて、なるほど、君の不安が少しだけ分かった」
 「王女に会ったことはなかったんだろう?」
 「なかったよ。恐ろしく気性の激しい女性だな」シーマンは唇の端をにやりと歪めてつづけた。「来年の八月頃は、君、王女のお相手で目が回るほど忙しくなるぞ」
 「そのときになれば、何とかなるさ」彼は落ち着き払って言った。
 「さしあたり王女は状況を理解してくれたし、感銘も受けていたようだ。とにかく無分別な真似はしないだろう。今から数時間後に君と彼女は会うことになっている。しかし、道理をわきまえてのつき合いだ。さてさて!王女との会見を終えてここに戻るとき、そろそろ君がここに来たいちばんの理由である人物に会うときが来たと思ったのだが」
 「ターニロフか?」
 「その通り!君は……」ウエイターがカクテルを運んできて、もう一人のウエイターが晩餐の注文を聞いた。その短いあいだ、シーマンは話を中断した。「ロンドン到着後直ちに伝えられることになっていた次の指示のことを、君は今まで慎重に、しかも賢明にも一言も尋ねたことがなかったね。指示は文書で渡されることはない。今、口頭で伝える」
 シーマンは額に手を当て、残りの酒を飲み干した。
 「わたしが受けた命令は、君を絶対的に信頼すべし、大事変が起きるまで、なりかわった男として自然な生活をするよう大いに努めるべし、というものだ」
 「そうだ」シーマンは同意した。
 彼はまるで客筋でも確かめるように、しばらくレストランのなかを見回し、ようやく盗み聞きされる恐れはないと確信して話をつづけた。
 「もし君が自分はスパイだと考えているなら、まずその考え方を捨てなければならない。君はスパイなんかじゃない。わが国の見事なまでに完璧な諜報活動とは少しも関係がない。何を言おうが、何をしようが、完全に自由な個人だ。ドイツを信じてもいいし、恐れてもいい。お好きにどうぞというわけだ。君の伯父の国民兵役推進運動に加わるのもいいし、両国市民の友情と親愛を深めるわたしの努力に協力してくれてもいい。われわれはまったく気にかけないよ。自分で役柄を選びたまえ。サー・エヴェラード・ドミニー、ノーフォク州ドミニー邸の男爵になりきって生活しろ。サー・エヴェラードが進みそうな道を進むのだ」
 「ずいぶん寛大だね」
 「常識で考えてみたまえ」すぐに相手は答えた。「君がどんなに力を尽くしたところで、半年ではどちらの方向にも目につくほどの進展はあり得ないだろう。だから君には一つの任務、それだけに全精力を傾けてもらうことにした。ここでの君の任務にスパイ行為が含まれているとしても、君が注意を向けるべきはイギリスでもイギリス人でもない。全神経をターニロフに向けるのだ」
 ドミニーはぎくりとした。
 「ターニロフ?わたしは彼と組んで仕事をするものだと思っていたのだが――」
 「先入観を捨て去るのだ。ターニロフに対する君の任務は状況が進展するにつれ次第に分かってくるだろう」
 「しかしまだ顔見知りにもなっていない」
 「さっき話そうとしていたのだが、今晩十一時に大使館で会う約束を取りつけておいた。君はその時間に彼に会いに行くんだ。いいかい、忘れるなよ、君は何も知らず、指示を待っているのだからな。もっぱら彼に話をさせろ。特に気をつけなければならないのは、これから何が起きるのか、知っているようなそぶりを一つも見せないこと。彼は現状に満足しきっている。何ら不満を抱いていない。彼を動揺させないよう注意しろ。彼は平和の使節なんだ。君と同じようにね」
 「分かりかけてきたよ」ドミニーは考え込むように言った。
 「君の出番が来たとき全てが分かるだろう。熱心さのあまり忘れないでくれ、われわれの大いなる目的にとって君が有用なのは、イギリス人紳士として君が立場を確立し維持できるかどうかにかかっているということを。ここまではいいか?」
 「わたしのほうは完全に理解した。しかしそちらもしっかりやってくれなければ困る。ベルリンはわたしの失踪のことで東アフリカから半狂乱の連絡を受け取るだろう。腹心の部下にもこの秘密は知らせていなかったから」
 「了解している。シュミットとかいう健気な医者が狂ったように電報を打って政府の金をやたらと浪費している。ずいぶん慕われていたんだな」
 「彼は忠実きわまりない部下だった」
 「それが厄介きわまりない友人になったよ。どうやら現地人が、藪の中で死んだ同名の男を君と勘違いしたらしい。そしてシュミットは君がケープタウンから連絡するはずだったとさかんに強調している。しかしこれはうまく処理した。唯一、本当の危険はこちらイギリスのほうにある。君はその最大の危険との出会いをもうすませてしまったようだね」
 「とにかくわたしはいちばん近い親戚に受け入れられたよ。しかも偶然だが、われわれの未来を見通しているイギリス人を一人見つけた」
 シーマンは一瞬、不安そうな様子をした。
 「誰のことかね?」
 「ウースター公爵、わたしの従姉妹の旦那だよ。今君が話していた男だ」
 小男の顔から緊張が消えた。
 「彼はカピトリウムの神殿を救ったガチョウたちを思い起こさせるよ。頭の悪い、一つの考えに取り憑かれた男だ。こういう狂信者がしばしば真実を発見するのだから妙なものだ。そういえば」彼はチョッキのポケットからメモ帳を取りだしページをめくりながら言った。「公爵様は今晩ホルボーン市庁舎で会合を開くことになっている。いつものように邪魔をしに行ってやるつもりだ」
 「たいした支持者もいないのに、どうして放っておかないんだ?」ドミニーは訊いた。
 「彼とつながりを持っている連中のなかには侮れない人物もいる。それに邪魔しに行けば、わたしのささやかな趣味の宣伝にもなる」落ち着き払った答えが返ってきた。
 「彼ら――われわれイギリス人は変わり者なんだ」ドミニーは考えるように一呼吸を置いたあと、部屋を見回しながら言った。「われわれは桁外れの富を持っていると吹聴し自慢するが、それを守るために自己犠牲を払うことが全くできない。哲学者、歴史家たちが、争う余地のない厳密な演繹法を用い、有無を言わさぬ言葉遣いで、未来に警告を発していてもよさそうなものなのだが」
 「代名詞の使い方が見事だ」シーマンは軽くお辞儀をしながら言った。「今の発言についていうと、イギリス人は――失礼、君の同国人だが――決して不愉快なことには気づこうとしない連中だよ。嫌なことが起きても駝鳥みたいに砂のなかに頭を隠してぬくぬくしているほうが好きなのだ。しかし一般論はさておき、ノーフォークにはいつ行くつもりだ?」
 「二、三日中に」
 「あそこに君が無事収まることができたら、わたしももっと自由に息ができるだろう。街だけでなく田舎でも、君がサー・エヴェラード・ドミニーとして完全に受け入れられて初めて大計画が可能になるのだ。君の、何と言えばいいのかな、家庭における立場はあらゆる点に渡って把握しているんだろうね?」
 「必要なことは全部把握している」彼の答えはどこかぎこちなかった。
 「必要なことだけじゃ充分じゃないんだ」シーマンは苛々と言った。「あの酔っぱらいのイギリス人から話という話をみんな引き出したと思っていたのだが」
 「たいがいのことは話したよ。ただ一つか二つ、どう質問しても答えてくれない点が残った」
 シーマンは怒ったように顔をしかめた。
 「要するに、君は紳士であろうとしたということだな、ドイツ人ではなく」
 「ある階級のイギリス人は、仮に堕落していても、一種の頑固さを失わないんだ。そしてある特定の事柄に関しては決して口を割らない。われわれはあの最後の晩に夜通し語り合った。ワインとブランデーを飲みながら。わたしは辛い思いをしながら自分の追放の話をし、彼の目の前にさらけ出した。しかし聞きながら彼は何かを隠しているとずっと思っていたし、今もそう思う」
 しばらく沈黙があった。わずか数分の間に、二人のあいだにある種の緊張感が漂いだしていた。それとともに二人の個性も際だってくるようだった。ドミニーは今まで以上に貴族の風格をあらわし、シーマンはふてぶてしく貪欲に目的を実現しようとするさもしい陰謀家に見えてきた。やがて彼はテーブル越しに軽く身を乗り出した。細められた目は鋼鉄のように光り、いつもより歯をむき出している。
 「君はあいつの喉元から情報を引っ張り出すべきだった。君の義務は女々し感傷に浸ることではない。君は偉大な大義に身も心も捧げたのだ。君がこの国においてドミニー邸のエヴェラード・ドミニーでありつづけることが、来るべき一大事変のあと、どれほど重要な意味を持つか、とても言葉では表現できない。プロシア貴族が世界で誰よりも個人の名誉を大切にすることはよく知っている。しかし君の階級に属する人間で国家のために嘘をついたり騙したりする覚悟のない者は一人もいない。君もそれに従わなければならないよ。もう一度言おう。君がエヴェラード・ドミニーと認められることがわれわれにとって重要なのはターニロフの一件だけではないのだ。そのあとの計画にも関係しているのだ――いや、この話はもうやめよう。君には分かっていると思うんだ。むきになりすぎたね。十一時までどう過ごすつもりだい?君は世捨て人になってイギリスを離れたわけじゃないからね、サー・エヴェラード。気晴らしの趣味を持たなければならないよ。ミュージック・ホールなんてどうだい?」
 「考えることが一杯でそれどころじゃない」ドミニーは言い返した。
 「それならわたしと一緒にホルボーンに来たらいい。憂さ晴らしになるだろう。入り口で別れて、君は見られないようにホールの後ろに座るんだ。義理の従兄弟の感銘深い熱弁が聞けるよ。偉大にして強欲なドイツが将来脅威となって待ちかまえているだろうと、イギリスの一般人に説いているところをね。どうだい?」
 「行こう」ドミニーは気のない返事をした。「とにかくミュージック・ホールよりはましだ。シーマン、ここでの任務でいちばん難しいのは、やりたくもないのに楽しみごとにふけらなければならないってことじゃないかな」
 相手は握り締めた拳で軽く、しかし苛立たしげにテーブルを叩いた。
 「おい、君は若いんだぞ!まるでわたしら年寄りみたいな言いぐさだな。君の人生は君の手のなかにある。過去の悲しみをぐずぐず引きずってはだめだ。そんな記憶は水に流し去れ。陰気な心持ちくらい人間を狭くするものはない。過去の幽霊がときどきやってきてとりつくのだろうが、しかし忘れるな。その罪の責任を全面的に君が引き受ける必要はないんだ。それに君が望むならいつだって度を過ぎない程度に償いをはじめることができる。そのことは充分話したじゃないか。偉業と快楽は共存する。そうら!わたしはプロパガンダの教授になる前は哲学者だったのさ。よしよし!笑顔になったね。少しはしゃべった甲斐があった。それじゃあタクシーでホルボーンに行こう。とびきり面白いものを見せてあげる」
 市庁舎の玄関に着くと、シーマンの指示で二人は二手に分かれ、別々のドアからなかへ入った。ドミニーは張り出し席の下の奥まったところに座った。そこなら演壇から見られることはなさそうだった。一方シーマンは人目につきやすい前列の長椅子の端に座った。集会は少しも混み過ぎてはおらず、熱狂的過ぎることもなく、極端にどうということは何もなかった。誰も座っていない幾列もの長椅子、荒れ模様の夜空から雨宿りに入ってきたらしい多くの若い男女、集会に参加することは社会的地位のある人間にはふさわしい振る舞いだと考えているらしい、逞しく立派な身なりの商人たち。真剣な関心を持つ者も何人かいたし、そこここには、明らかに少数派ではあったが、熱烈な支持者がいた。演壇には公爵がいて、両側には町のお偉方が並んでいる。著名な軍人、下院議員、誰とも知れぬ近所の住人、そしてバートラム大尉である。ドミニーが隅に席を占めたとき会合はちょうどはじまるところだった。
 まず公爵が立ちあがり、陳腐ながらも熱のこもった言葉で若い友人バートラム大尉を紹介した。話の途中でさっそく立ちあがった大尉は落ちつかない様子で、少なからず厳しい表情を浮かべていた。彼は将校を辞職したので思っていることを自由に話せると説明した。そしてドイツにおける大規模な軍備と国中に拡がる緊張感について話をした。この準備は誰に対するものなのか。疑問の余地はない、ドイツ最大の敵対国に対してだ。しかるにそこにいる何百万もの若者は、この危機に際してさえ土曜日の午後にサッカーやらクリケットにうち興じ、あるいは観戦し、自らの義務を自覚しようとしない。まとまりは悪いがひたむきな演説だった。しかしその結論は夕刊売りの少年の闖入によって中断され、年若い聴衆はほんのいっとき会合を忘れて満足そうにサッカー優勝戦の結果を確かめた。それから下院議員の雄弁が議会演説の名調子でつむじ風のように彼らを襲った。彼は嵐の前の黒雲と冷たい風について語った。歴史をひもとき、偉大な国家も自己防衛を怠たれば崩壊することを指摘した。彼は全国の若者に向かって、女と家庭と神聖な祖国の土を守るために立ちあがれと檄を飛ばしたのだが、ちょうどそのとき眠そうにしていた聴衆の一人がふと目を覚ましたらしく、朗々たる声を張りあげて話に割りこんできた。
 「海軍は何やってんです、先生?」
 演説者は彼一流の壇上での身のこなしを見せ、さっと妨害者のほうを振り向いた。海軍はいかなる時でも期待に違わずその義務を果たすだろう、と彼は断言した。しかし海軍は陸地では戦えない。今、話を遮った若者は自分の義務を果たすために今晩、軍事教練と国民兵役に志願するつもりはないだろうか、云々。有名な軍人は風邪をひいていたため、拍手に合わせてがらがら声を何度か張りあげただけだった。集会の掉尾を飾ったのは公爵だった。彼は有名な軍人を除いた誰よりも真摯で、聴衆のみんなから尊敬のこもった注目を浴びた。二、三の歴史的事例を引用し、男たちには真剣な気構えと市民としての義務感をいっそう育むことを求め、女たちにすらより強い責任感を持つことの重要性を説き、ちょっとした熱狂的喝采がわき起こるなか、彼は座席に着いた。議長に対する感謝決議が提案されようとしたとき、ミスタ・シーマンがその場に立ちあがり、議長に向かって短い発言の許可を訴えた。ミスタ・シーマンとは何度か顔をつきあわせたことのある公爵は厳しい目で彼を見たが、ミスタ・シーマンが聴衆を見回すその笑顔は気さくで愛嬌があったので、彼は許可を与えるほかなかった。シーマンは階段をあがって壇上に立つと、申し訳なさそうに咳払いをしてから公爵にお辞儀をし、満座の視線を一身に浴びた。一言、二言、議長に対するお世辞を述べてから、彼は本題に入った。わたしはドイツ市民です――つまり血に飢えた民族の一人です。(笑い)わたしがここに立っているのは、皆さんよくご存じでしょうが、わたしが英独実業家友好促進同盟の設立者であり幹事でもあるからです。今晩聞かせていただいた発言のなかにはわたしを深く傷つけるものがありました。仕事の関係でわたしはよくドイツに行きます。わたしはドイツ人としての義務を果たすべく、次のことを言いたい。平均的なドイツ人はイギリス人を兄弟のように愛しています。わたしの人生の目的はイギリス人と親交を深めることであり、ドイツはまさにこの瞬間も、北海の向こうから血縁者たちに手を差し伸べ、いっそうの同情と理解を求めているのです。(聴衆から拍手、壇上からは不同意のつぶやき)またこちらの方々がさんざん耳になさったという軍備のことですが(と、バートラム大佐に厳しい視線を向ける)、しばしドイツの国境に目を転じてください。東からは強大な力を持つ宿敵が絶えず圧力をかけてくる。過去三十年間ドイツがどのような政治的困難に直面してきたか、いちいちお話して時間を無駄にする必要はないでしょう。ただ揺るがしがたい事実のみを申しあげます――ドイツが軍備を増強せざるを得ないのは、ロシアという敵があるからなのです。軍事力を行使するとすれば、それはロシアに対してであり、ロシアの挑発に対してです。わたしは微力ながらもわたしを生んだ愛する祖国と、わたしを養子に取ってくれた同じように愛する国の関係改善のために努力しているのです。このような集会は不当で許し難い疑惑を広めるだけであり、わたしの活動を阻害する最大の問題の一つです。壇上に居並ぶ方々が愛国の士であることは疑いをいれません。しかしこの偏見と悪意に満ちた宣伝活動をやめ、わたしの主催する会の後援者になっていただければ、ご自分に対しても国家に対してももっと有益な形で愛国の心を示すことができるでしょう。
 シーマンが議長に向かってした会釈は気さくで、おおらかで、どことなく憂いを帯びていた。公爵はドイツの宣伝活動家がイギリスの愛国集会に侵入するとは憤慨を禁じ得ないと前置きして短く一席ぶったのだが、この望ましからざる外国人が与えた一撃はもう取り返しがつかなかった。集会が解散したとき、国民兵役に賛同した人が一人でもいたかどうか、疑わしかった。公爵はかんかんになって家路につき、シーマンは心から楽しそうに笑いながら、街角でドミニーがつかまえたタクシーに乗りこんだ。
 「約束通り、面白いものを見せてあげただろう?」
 ドミニーは謎めいた微笑を浮かべた。「確かに善意のお偉方を見事にからかってみせてくれたね」
 「奇跡はそれだけに留まらないよ。今晩は、ささやかながら、民主主義の途方もない馬鹿さ加減を示す格好の夜となったのだ。イギリスは有り余る自由によってじわじわと首を絞められ窒息させられつつある。ジャムをたっぷり与えられた子供みたいなものだ。想像できるかね、われわれの愛する祖国でイギリス人が演壇にあがり、ドイツの利益に反するイギリス寄りの宣伝を邪魔されずにとうとうとまくしたてることが許されるなんて。いわゆるイギリス人の自由というのは、よその国の政治的信条を育てるカッコウみたいなものだな。国家は統治されなければならない。連中には自らを統治することはできん。戦争が来たらそういうことがみんな証明されるだろう」
 「しかし国家の歴史において一大危機が訪れたときは、どんな場合であれ、いろいろな意見のあったほうがいいのじゃないかね?」
 「いろいろな意見を言う奴はいつでもいるだろう。イギリスでもドイツでも。この国の問題はそれがことごとくおおっぴらに新聞雑誌を通して表現されることだよ。それぞれの見解に信奉者がいて、政府は分裂している。ドイツでは国家の運命の根幹は秘密裏に決められる。意見を言う連中もいるよ、真面目な頭のいい連中がね。でも彼らのさまざまな意見など誰も知らない。知らされるのは皇帝の口を通してきっぱり語られる結果だけだ」
 ドミニーは珍しく相手の話に興味を示していた。目は輝き、普段は感情をあらさない顔が表情豊かになり、緊張しているようだった。彼はシーマンの腕に手を置いた。
 「聞いてくれ。ここはロンドン、タクシーのなかで二人きりだから、盗み聞きされる恐れはない。君は皇帝に率いられた国家の強みを説くが、皇帝にこの先の仕事をやりこなすだけの力があると本当に思っているのかね?」
 シーマンの細い目が光った。彼は満足そうに相手を見た。額にしわが寄り、絶えず浮かんでいた笑顔が消えた。彼は狡猾な男になった。
 「アフリカの倦怠から回復しつつあるようだな!君は頭を使いはじめた。君が訊くからわたしも答えよう。皇帝はうぬぼれた、口先だけの夢想家だ。性格の破綻した、いつでも目立ちたがろうとする史上最大のエゴイストだ。しかし国民を支配する天才でもある。つまりこういうことだ。皇帝は助言者たちの知力を表現する素晴らしい媒体なのだ。助言者の言葉が皇帝の個性を通じて発せられ、皇帝はそれを自分の言葉と勘違いする。それだけじゃない。それは自分自身の言葉のような響きすらある。彼は自分が輝く鎧に身を包む騎士だと錯覚するだろう。自分をシーザーだと思いこんでいる男の前に全ヨーロッパが腰をかがめる。それがロバの頭なんだと気がついているのは、皇帝の後ろにいるわれわれだけさ。偉大な祖国をそれにふさわしい運命に導くにあたり、彼ほど都合のいい人間はこの世で見たことがないな。都合がつくなら、明日、このことをもう一度話し合おう。今晩、君は他に考えることがある。君はわたしなどにはとうてい入ることを許されない、高貴なお方のお宅に行くことになっているんだ。まだ一時間、着替えと準備の時間がある。十一時にはフォン・ターニロフ王子が君をお待ちかねになっているからね」

 第七章

 カールトン・ハウス・テラスの大使官邸では晩餐会に引き続き小さな歓迎会が催された。大使のターニロフ王子は最後の客である妻の従姉妹アイダーシュトルム王女に別れを告げていた。彼女は王子を脇に引き寄せた。
 「大使、今晩ずっとお話したいと思っていたのです」
 「わたしもです、ステファニー。まだ時間は早い。ちょっと座りましょうか」
 彼は長椅子に彼女を導こうとしたが、彼女は頭を振った。
 「十一時半に約束がおありですわね。邪魔をしたくありませんわ」
 「じゃあ、ご存じなんですね」
 「今日、カールトンのレストランでお昼をいただいたとき、応接間でレオポルド・フォン・ラガシュタインと鉢合わせしました」
 大使は何も言わなかった。まず相手の言いたいことをみんな聞いてやろうとしているようだった。しばらく間をおいて彼女はつづけた。
 「話しかけたら、人違いだと言ったのですよ。よりによってわたしに向かって!わたしの人生で最悪の瞬間でした。あんなに苦しい思いをしたことはない。あんな苦しみはもう二度といや」
 「さぞつらかったでしょうね」王子は同情をこめてつぶやいた。
 「今晩、ある男がわたしを訪ねてきました。最初はドイツの卑しい中産階級の一人だと思ったのですが、あとで正体が分かりました。その男の説明によると、レオポルドはこの国で諜報活動に携わっているのだそうです。今の名前は彼が教えてくれた通りサー・エヴェラード・ドミニー、アフリカで長いこと行方不明になっていたイギリス人男爵になりすましているのだと言うのです。あなたはこのことをご存じ?」
 「今晩サー・エヴェラード・ドミニーが訪ねてくることは知っています」
 「彼はあなたのもとで働くことになっているのね?」
 「とんでもない」と王子は憤慨して言った。「わたしはこのスパイ組織を好ましく思ってはいないのです。わたしを育てた外交術の流派は、そんな浅ましい手段を用いたりしません」
 「とにかくレオポルドは今晩ここに表敬訪問にくるのね」
 「今、書斎でわたしを待っていますよ」
 「彼に一言伝えてほしいの。先ほどのシーマンという男は、今わたしとレオポルドが親交を結ぶことは、それがどういう形であろうと賢明ではないと言いました。わたしは彼の言い分を全部聞きました。そのときは、わたしは態度を明らかにしませんでしたが、今は考え直しました。必要に対しては妥協しましょう。サー・エヴェラード・ドミニーとのおつき合い、それで満足しましょう。でも必ずおつき合いはさせていただくわ」
 「わたしはフォン・ラガシュタインがどんな任務をおびてこちらに来ているのかさえ知りません。しかし、彼の正体を完全に隠すために、あなたとのおつき合いは望ましくないと政府が考えているなら――」
 彼女は彼の腕に指をのせた。
 「お黙りなさい」命令だった。「わたしは政府の人間ではありません。ドイツ人でもない。オーストリア人ですらないのです。わたしはハンガリア人、あなたたちの利益を図るのにやぶさかではないけれど、それをわたしの人生に優先させるつもりはありません。協定は結びますが、屈服はしません。協定の内容はレオポルドと話し合います。ああ、後生だから、わたしの願いを聞いて!」声の調子が急に変わった。「お昼のあの短いひとときからわたしはずっと夢のなかだった。わたしの心を鎮めることができるのはたった一つ。彼と話をしなければならない。これからどうするか彼と決めなければならない。助けてくれるわね?」
 「あなたとサー・エヴェラード・ドミニーがおつき合いなさるのは、もちろん、少しもおかしなことではありません」
 「わたしを見て」彼女は懇願した。
 彼は振り返って彼女の顔を覗きこんだ。美しい瞳の下には黒い隈があり、弧を描く口はどこか痛々しかった。彼女は一晩中、その第二の天性ともいうべき威厳を崩さずにいたが、にもかかわらず彼は彼女の容貌に対して一度ならず同情的な声を聞いたことを思い出した。
 「苦しんでいらっしゃるのですね」彼は優しく言った。
 「わたしの眼は焼けるように熱い。身体の中では火が燃えさかっています。なにがあろうとレオポルドと話をしなければなりません。フレーダがわたしに、まだ帰らないで一時間ほどおしゃべりをしようと誘ってくれました。車は待たせてあります。彼にわたしを家まで送るようおっしゃって。ああ、わたしだってごく普通の女なのよ。それにわたしを木や石みたいに扱っても何の得にもならないわ。今晩なら人に見られず彼に会える。お断りになるなら、別の手段に訴えます。わたしは何一つ約束はしません。通りで遇ったら、面と向かって嘘つき呼ばわりしたり、偽者呼ばわりしないとも限らない。レオポルド・フォン・ラガシュタインと呼びかけて――」
 「どうかお静かに!」彼は懇願した。「ステファニー、あなたは興奮していらっしゃる。わたしはまだあなたのお願いに対して返事をしていませんよ」
 「聞き入れてくれる?」
 「いいでしょう。この話が終わったら、若者をフレーダの部屋に連れて行って紹介します。あなたはそこにいてください。彼もあなたを家まで送り届けると申し出ることができるでしょう」
 彼女は不意に身をかがめると彼の手にキスをした。計りしれない安堵が彼女の顔にあらわれた。
 「これ以上は引き留めません。フレーダが待っている」
 大使は物思いにふけりながら官邸の裏手にある書斎に入っていった。ドミニーが彼を待っていた。
 「お会いできて嬉しいよ」大使は手を差し伸べながら言った。「最初の五分間はあなた本人に向かって話をしたい。そのあとはあなたの新しい人格を尊重しよう、イギリスにいるあいだは」
 ドミニーは無言のまま一礼した。主人はサイドボードを指さした。
 「さあ、あなたの横に葉巻と煙草がある。サイドボードにはウイスキーとソーダが。そちらの椅子に掛けて楽にしたまえ。アフリカに行っても、ちっとも変わらないね。初めて会ったときのことを覚えているかい、ザクセンで?」
 「よく覚えております、大使」
 「あの頃の皇帝は宮廷でおもてなしするのがお上手だった。イギリスの田舎のパーティーに出ているような気分になったよ。しかし昔話はやめておこう。あなたは、もちろん、知っているだろうね、あなたがいま、こちらでしていることを、わたしは少しもこころよく思っていないことを」
 「そのようにうかがっています、大使」
 「お互い遠慮なく意見を交換しようじゃないか」王子はそう言って葉巻に火をつけた。「あなたがこの国に張りめぐらされた諜報網の一部であることはよく知っている。もっともわたしはそんなものの必要を露ほども認めていない。これは目的を達成する方法の問題にすぎないがね。わたしはあなたがわたしと同じ目的でこちらに来たものと確信している。つまり皇帝がご自身の口から、御本心として話してくださった目的、ドイツとイギリスのあいだに友好の絆を築くという目的だ」
 「それが可能だとお考えですか?」
 「必ず可能だと信じている」真剣な答えだった。「こちらでの仕事がどのような性格のものになるのか知らないが、しかしわたしの信念を披露する機会が持てたのはよかった。思うに、ドイツ政府はこちらの有力政治家の何人かを誤解し、不正確な情報に基づいて判断している。わたしの周囲にいるのは平和を熱心に、真摯に求める人ばかりだ。この国にはドイツとの戦争を望むような政治家は一人としていない、わたしはそう確信するようになった」
 ドミニーはじっと耳を傾けていた。思いがけないことを聞かされたような様子だった。
 「ですが、大使、わが国の立場から見るとどうでしょう。あなたもわたしも知っての通り、ドイツでは大勢の人が、イギリスとの戦争は避けられないと考えています。誰もがドイツこそ世界最大の帝国にならなければならないと信じています。わたしたちの友人の一人がかつて言ったように、ドイツはイギリスという獅子の首に足をかけて、その地位に昇りつめなければならないのです」
 「それは時代遅れの考え方だよ」大使が熱をこめて言った。「あなたがどうしてこちらに送られてきたのか、その理由がやっと分かった。そういう時代は過ぎ去ったのだ。この世界には大英帝国とドイツが共存できるだけの充分な余裕がある。近い将来、ロシアが瓦解するのは間違いないだろう。領土拡大を図るなら東に目を向けなければならない」
 「それは確定済みの方針ですか?」
 「当然だよ!それがここでのわたしの任務の核心なのだ。わたしが受けた命令は平和の命令だ。イギリスの政治家を観察し、イギリスの見解を理解すればするほど、自分の努力が成功するという自信があふれてくる。だからこそシーマンが大きく関与している諜報活動は、わたしにはときどき賢明でもないし不必要だと思われるのだ」
 「わたしの任務もですか?」
 「それがどういうものなのか、まだ明らかにされていない。しかし、もしわたしが考えるように、わたしの任務と密接に関連しているなら、きっとその内容は平和をめざすものになるだろう」
 ドミニーはいとまごいをしようとして立ちあがった。
 「そのうち分かるときが来るでしょう」彼は低く言った。
 「もう一つだけ、少々個人的なことで話がある」ターニロフの口調が変わった。「アイダーシュトロム王女が今、二階にいらっしゃるのだ」
 「この官邸にですか?」
 「あなたと話をしようと待っている。わたしたちの友人シーマンが今晩、王女を訪ねていった。王女は現状を受け入れるつもりらしい。しかし一つだけ条件をおっしゃたのだ」
 「条件とは?」
 「わたしにサー・エヴェラード・ドミニーを紹介してほしいというのだよ」
 ドミニーは動揺を隠そうともしなかった。
 「大使、申しあげるまでもないでしょうが、どのような形であれ、王女とわたしが交渉を持つことは、こちらでのわたしの立場を非常に困難なものにする危険があります」
 大使はため息をついた。
 「よく分かっている。シーマンもわたしも説得しようとした。しかし、あなたもたぶん知っての通り、王女はたいそう意志の強いお方だ。またこちらで大変な影響力を持っていらっしゃる。それにベルリンの王宮がうるさく要求してくるのだよ、ハンガリーの貴族である彼女を手を尽くしてなだめろと。もちろん、わたしが政治的な観点からしかしゃべっていないことことは理解してくれ。あなたがお亡くなりになった王子と不幸な関係にあったという事実を無視はできないが、しかし現状に鑑みれば、あなたもより大局的な立場に立つことを忘れはしないと思うのだ」
 訪問者はしばらく黙っていた。
 「王女はこちらで待っているのですね?」
 「妻と一緒にいるよ。あなたに家まで送ってほしいとのことだ。妻もあなたと旧交を暖めることを望んでいる」
 「この件については大使のご判断に従います」ドミニーは決心した。
 ターニロフ王女は国際的な教養を持つ芸術家だったが、しかしそれでいて素晴らしく魅力的な女性だった。彼女は夫が連れてきた訪問者をひどく愛らしい小部屋で迎えた。ごく簡素なノルマン王朝風の部屋だった。彼女はどことなく気まずいその場の雰囲気を和らげようと一生懸命だった。
 「ロンドンにお迎えすることができて、こんなに嬉しいことはありませんわ、サー・エヴェラード・ドミニー」と彼女は握手しながら言った。「これからはちょくちょくいらしてくださいね。わたしの従姉妹を紹介しましょう。あなたに興味を持っていますのよ。包み隠さず申しあげますとね、あなたが彼女の親しい友達によく似ていらっしゃるからなの。ステファニー、こちらはサー・エヴェラード・ドミニー。こちらはアイダーシュトルム王女」
 ステファニーは従姉妹が立ちあがった椅子に座ったままドミニーに手を差し出した。ドミニーは深く、慇懃な一礼を返した。彼女が着ていたのはなんの飾りもない黒一色のガウンだった。見事なダイヤモンドが首の回りに輝き、ハンガリー風のティアラがやや額にかぶさるようにつけられていた。彼女の態度と声には、まだ幾分、このような状況に対する憤懣がこもっていた。
 「今朝、間違ったことをしつこく申しあげたこと、許してくださいね」と彼女は言った。「人違いとは、とても信じられなかったものですから」
 「他の人からも似ていると言われます。自分がノーフォークの男爵でしかないことが悔やまれますね」
 「以前、ヨーロッパの王室に出入りなさったことは?」
 「一度もありません」
 「旅行なさらないわりにドイツ語が素晴らしくお上手ね」
 「外国語だけは、ろくに勉強しなかった学生時代から得意でした」
 「ノーフォークに埋もれて人生を送るつもりじゃないでしょうね、サー・エヴェラード?」ターニロフ王女が尋ねた。
 「最近はノーフォークとロンドンの距離がとても近くなりました。それにここ数年、孤独はもう充分すぎるほど味わってきました。時にはこちらへ来ようと考えております」
 「いつかお食事にいらしてください」と王女が言った。「アフリカの話をしてくださいな。夫がとても聞きたがっています」
 「ご親切にありがとうございます」
 ステファニーがゆっくりと立ちあがり、優雅に身をかがめると、女主人の両頬にキスをし、王子に向かって手を差し出した。王子はそれに唇を当てた。それから彼女はドミニーのほうを振り向いた。
 「家まで送っていただけますか?」と彼女は訊いた。「そのあとわたしの車でお好きなところへいらっしゃればいいわ」
 「喜んで」ドミニーは承諾した。
 彼も別れの挨拶をした。玄関で召使いから帽子とコートを受け取ると、車に乗りこみ、彼女の横に座った。発車すると彼女は電気のスイッチに触れた。車は暗闇に包まれた。
 「言葉をもて遊ぶのはもうたくさん。レオポルド、やっと二人きりになれたわね!」
 彼女がもたれてきたとき、宝石の燦めきと柔らかな目の輝きが彼をとらえた。彼の声は、自分の耳にも、とげとげしく不快に響いた。
 「違いますよ、王女様。わたしの名前はレオポルドではありません。わたしはエヴェラード・ドミニーです」
 「まあ、あなたがとても頑固なのは知っているわ」彼女は優しくいった。「とっても頭が固くて、あなたの麗しいお国のために忠義を捧げている。でもあなたにも人間の心があるでしょう、レオポルド。祖国に押しつけられた義務と同じくらい大切な、人間としての義務があることは分かっているでしょう。わたしがあなたに何を望んでいるか、あなたから何を引き出さなければならないか、お分かりでしょう。さもなければわたしは屈辱と惨めさにまみれて地獄に堕ちてしまう」
 彼は急に喉がひからびたように感じた。
 「いいですか、そのときが来るまで、わたしは世間に対してもあなたに対しても、二人きりでいるときも大勢といるときも、エヴェラード・ドミニーでなければならないのです。わたしに与えられた任務を果たすには、一つの方法しか、ただ一つの方法しかないのです」
 彼女は突然声を殺して嗚咽した。
 「待ってちょうだい。すぐ返事をするから。手を握らせて」
 彼は固く握りしめていた指を開いた。彼女の熱い手が情熱的にそれを掴み、引き寄せ、もう一方の手の指もそれにからみついた。彼女はしばらくそのまま座っていた。
 「レオポルド」やがて彼女は話をつづけた。「分かるわ。わたしが二人の愛をうっかり漏らしはしないか、それが心配なのね。もっともだわ。あなたも知っているように、わたしはひどく衝動的だし、感情的だから。でも自分を抑えることもできるのよ。二人きりになったときのわたしたちがお互いにとってどういう存在であるのか、世間の人に知らせることはないわ。不注意な真似はしない。誓って。他の人がいるときは、あなたの注意を惹くそぶりさえ見せない。わたしと会うことも好きなだけ避けたらいい。わたしもあなたがいいと言うときしかお招きしない。でもこんな扱いは嫌よ。戻ってきたと言って。ほんのちょっとだけ、その嫌らしい仮面を脱ぎ捨ててちょうだい」
 彼女の両手は彼の手を強く引き寄せ、彼女の唇と目は彼に向かって懇願した。彼はじっと座ったままだった。
 彼は断固として言った。「何があろうと、そのときが来るまで、わたしはエヴェラード・ドミニーなのです。あなたがレオポルド・フォン・ラガシュタインに対して抱いているお気持ちにつけこむわけにはいきません。彼はここにいないのです。アフリカにいるのです。たぶん、いつか、あなたのもとに戻ってきて、あなたの思いをかなえてくれると思います」
 彼女は彼の手を放り投げた。彼は相手の目が炎のように自分の目に食い入るのを感じた。それは強い詮索のまなざしのようだった。
 「あなたをじっくり見させてちょうだい」彼女は声を荒げた。「確かめさせてちょうだい。ただのひどい心変わりなの?それとも偽者なの?胸のなかが冷たくなっていく。あなたはわたしが今まで待ち望んでいた人なの?わたしが唇を与え、名誉を犠牲に捧げた人なの?夫を殺し、わたしを捨てた人なの?」
 「わたしは追放されたんです」こみあげる感情に彼の声も震えていた。「それはご存じでしょう。この計画に関しては別ですが、わたしはまだ追放を解かれていないのです。わたしは罪の償いをしているのです」
 彼女は疲れたように席にもたれ、目を閉じた。車が鉄の門扉を通り抜け、彼女の家の玄関前に停まると、とたんにドアが開いて、召使いが急ぎ足に出てきた。彼女はドミニーのほうを振り返った。
 「しばらく寄っていかないこと?」
 「御訪問の許可をいただければ、喜んでまた参ります」彼は堅苦しく答えた。「よろしければ、ノーフォークから帰り次第、連絡をさしあげましょう」
 彼女は悲しげな微笑みを浮かべて手を差し出した。
 「うちの者にあなたをお好きなところへ連れて行かせるわ。それから覚えておいて」彼女は声をひそめてつけ加えた。「わたしは負けを認めません。お話はこれが最後じゃありませんからね」
 彼女はお仕着せ姿の人目を惹く家令兼召使いにかしずかれ、豪華な正面扉を堂々と通り、ロンドンでも数少ない大邸宅の一つのなかに消えた。ドミニーがカールトンに戻ると、ラウンジでは楽団が音楽を奏で、大勢の人がまだ椅子に座っていた。そのなかでもシーマンはひときわ目立つ恰好をしていた。こざっぱりしたディナー服に身を包み、新しい友人を作ろうと誘いかけるように丸ぽちゃの顔を輝かせていたのである。彼はドミニーを熱烈に迎えた。
 「いや助かった」と彼は声をあげた。「独りはもうたくさんだよ!顔見知りが一人もいないんだからな。わたしの舌は運動不足でひからびてしまった。話はしたいが、相手がおらん。山奥の一軒家にでも住んでるような気分だ」
 「わたしでよければ話をさせてもらうよ」ドミニーはかすかに顔をしかめてそう言うと、時計を見て急いでウイスキー・ソーダを注文した。「最初に言っておくべきことがある」彼は声をひそめた。「この計画を脅かす、いちばん危険なものを見つけた」
 「何のことだ?」
 「女だ。アイダーシュトルム王女」
 シーマンは肌身離さず持っている葉巻に火をつけ、短い太い足を組んだ。しゃれたコートシューズを履いていた彼は、自分の小さい足先を満足そうにちらりとながめた。
 「驚いたね。そのことはわたしもよく考えたが、特に問題にはならないと思う」
 「じゃあ、君はわざと問題に対して目を閉ざしているに違いない。さもなければ王女の気性や性格を知らないんだ」
 「どっちも分かっているつもりだよ。それでもたいした問題になるとは思わない。イギリス貴族として君には文句なくアイダーシュトルム王女と友達づきあいする権利がある」
 「君は人情の機微を察する人間だと思っていたがね!」ドミニーは嘲るようにいった。「少しは人間性というものを理解していると思っていたが。ステファニー・アイダーシュトルムはハンガリー生まれのハンガリー育ちだ。あの民族に生まれついても自己抑制とは縁がない。まさか本気で思ってはいないだろうね、あれだけ長いこと苦しんできて――それも生やさしい苦しみじゃない――今頃ふぬけた友達関係で満足するだろうなんて?率直に言おう、シーマン。彼女はそんなことでは満足しないと今晩はっきり言ったのだよ」
 「君ら二人の個人的な関係は――」とシーマンは言いかけた。
 「そんなことじゃない!」相手は話を遮った。「王女は衝動的で、情熱的で、疑いもなく原始的で、おまけに野性味たっぷりの女だ。陰謀だの政治的必要だのと彼女に説いても、これっぽっちも意味はない」
 「それにしてもだな」とシーマンが言い返した。「君が国家から重要な任務を与えられているということは、ちゃんと理解できるだろう?」
 ドミニーは首を横に振った。
 「彼女はドイツ人じゃない。それどころか他の多くのハンガリー人と同じように、ドイツもドイツ人も嫌っているのだと思う。彼女が関心を持っているのは、わたしとの個人的な問題だけだ。わたしは残りの人生をことごとく彼女に捧げるべきだと、そう思っているんだ」
 「君が明日ドミニー邸に行くのは正解だったかもしれないな。わたしが一つ策を練ろう。何とか彼女をなだめるよ」
 消灯の時間だった。二人の男はややしぶしぶといった感じで立ちあがった。ドミニーは妙に寝る気がしなかったが、それと同時に友人を追い払いたくて仕方がなかった。彼らは一緒に暗くなったホテルの広間に入っていった。
 「その件に関してはできるだけのことをしよう」とシーマンは約束した。「わたしの考えでは、君が最大の問題にぶつかるのは明日だよ。ドミニー邸で何を相手にしなければならないか分かっているだろう」
 ドミニーの顔はこわばり、重々しくなった。
 「覚悟はできている」
 シーマンはそれでもためらっていた。
 「覚えているかい、ケープタウンで君の計画を話し合ったとき、君は写真を――ドミニー夫人の写真を見せてくれたね」
 「覚えているよ」
 「もう一度見てもいいかな?」
 ドミニーはかすかに震える手でコートの胸ポケットから革のケースをつまみ出し、なかからすり切れた写真を取り出した。二人の男はまだ明かりの灯っている電灯の一つの下で、肩を並べて写真を見た。その顔は少女の顔、ほとんど子どものような顔だった。大きな目には奇妙な、訴えるような光が満ちている。同じ表情が唇にも認められた。どこか頼りなげな感じ、強い存在に対して愛と庇護を求めるような表情だった。
 シーマンは小さくうめいて顔を背け、こう言った。
 「もしもわたしに普通の人間の、普通の感情がほんのしばらく戻ってくるとしたら、その写真の女性を相手するより、君のお姫様を一ダース相手にした方がましだと思うだろうな」

 第八章

 「先祖代々のお屋敷が見えてきましたよ」車が草の生えた並木道の最初のカーブを曲がり、ドミニー邸が見えてきたときミスタ・マンガンが言った。「しかも実に立派なお屋敷だ!」
 相手は返事をしなかった。ほんの少し前から嵐が吹きはじめ、彼はまるで寒気がするかのように、帽子を目深にかぶり、コートの襟を耳まで立てたのだった。屋敷がはっきりと見えてきた。正面玄関の両側には大きな主室の窓がある。エリザベス朝風の古めかしい赤煉瓦造りの壁は南の大庭園に面し、石の土台に支えられ、風雨に傷んださえない裏手は沼地と海に面していた。ミスタ・マンガンは愛想良く会話をつづけた。
 「建物は、どうにかこうにか、雨風が吹き込まないよう管理してきました。木はそれほど減ったようにはお感じにならないと思います。できるだけ敷地の外縁から伐採しましたから」
 「ブラック・ウッドからも切ったのかい?」ドミニーが振り向きもせず訊いた。
 「いいえ、一本も。そりゃそうですよ。木こりが誰一人、森に近づこうとしないんですから」
 「じゃあ、あの噂はまだ消えてないんだね?」
 「村人たちは信じこんでいますよ。ロジャー・アンサンクの幽霊を見たという人間が少なくとも十人はいます。神様に誓って夜中に彼の叫び声を聞いた、というのが二十人以上」
 「幽霊は今でも真夜中に庭園や外のテラスをうろつくのか?」
 弁護士は躊躇した。
 「幽霊は森から出てきて、ドミニー夫人の窓の下のテラスにたたずむようです。もちろん根も葉もない噂ですよ。でもお屋敷のどの召使いも門番も、雇われて一ヶ月以内に辞めてしまうのです。そうでなければとっくの昔にミセス・アンサンクを解雇するよう申しあげていたんですが」
 「ということは、まだドミニー夫人にお仕えしているんだね?」
 「他に誰もお屋敷にいつかないという、ただそれだけの理由なんですが。奥様はお屋敷を出ることをきっぱりと拒否なさっています。ここだけの話ですが、今のままではもういけないと思うんです。差し支えなければ、晩餐の後で話し合いませんか。ほら、庭園の木はそのまま残してあります」彼は満足そうに話しつづけた。「ここは春になるときれいですよ。実は五月にこちらに参りまして、一晩泊まったのですが、あんなキンポウゲは見たことがありませんでした。牛は牧草地で膝まで草に埋もれていましたし、お屋敷の森のブルーベルが見事に花を咲かせていました。今年の春、フランクニーの絵の愛好家たちが総出でやって来て、ここに散らばっていたんですよ」
 「古い壁が何カ所か崩れ落ちているね」壁に囲われた家庭菜園を見ていたドミニーは顔をしかめた。
 ミスタ・マンガンは一瞬驚いた。
 「あの壁は確か二十年前から崩れていましたよ」
 ドミニーは頷いた。「忘れていたよ」と彼はつぶやいた。
 「実を言いますと、修復費用を捻出するために絵を一枚か二枚売ってはどうだろうと手紙に書いて送ったのですが、うまい具合にあなたからお返事がなかった!どう修理するかお決まりになったら、さっそく職人をここに呼びましょう。ただ残念ですが」ちょうど鉄の門扉をくぐり、屋敷正面すぐ手前のカーブにさしかかったとき、彼はこうつけ加えた。「お出迎えする召使いのなかに見知った顔はあまりないでしょうな。庭師のラヴィボンドがいますが、ほとんど覚えていらっしゃらないでしょう。それから猟場管理人のミドルトンくらいですかね。彼は猟に関してはまったくかけがえのない男ですよ。お屋敷のなかで働いている連中は新顔ばかりです。ミセス・アンサンクを除いて」
 そのとき、車は巨大なポーチの前に停まった。歓迎する人の姿はどこにもなく、ベルを鳴らして、ようやく数日前に町から派遣された召使いにドアを開けてもらった。召使いの後ろには茶色い綿ビロードのコートをはおり、コール天のズボンとすね当てを着用した初老の男が立っていた。白い頬髭を生やし、羊皮紙のように浅黒い肌を見せ、長いトネリコの杖にずしりと体重をかけていた。六人ほどいる新米女中たちが、さらにその後ろに控えていた。別の男があらわれ、荷物を手に取った。ミスタ・マンガンがその場を仕切ることになった。
 「ミドルトン」と彼は老人の肩に手を置いて言った。「こちらがお戻りになったご主人だよ。サー・エヴェラードは、君がここにいると聞いてとても喜んでいらっしゃる。それから君もだ、ラヴィボンド」
 老人はドミニーが伸ばした手を両手で握り締めた。
 「お戻りになって、嬉しゅうございます、旦那様」彼は奇妙なくらいじろじろと相手を見つめた。「ところが、歓迎の言葉が喉に引っ掛かって、すらすらと出てこんのです」
 「そんなふうに思っているとは残念だな、ミドルトン」ドミニーは快活に言った。「わたしが戻ると何が困るんだね?」
 「困るなんてとんでもねえ、旦那様。お帰りになったのは、嬉しいんです――少なくともわたしらにとっては。ただ、旦那様にとってはどんなもんなんでしょうか。そこが引っ掛かるんで」
 ドミニーは今まで以上に胸を張り、小集団に向かって威厳をみなぎらせた。
 「一日か二日、一緒にキジ狩りにでもいけば考えも変わるだろう、ミドルトン」彼はなだめるように言った。「君はあまり変わっていないね、ラヴィボンド」彼は後ろに隠れるようにしていた男に向かって言った。晴れ着を着て、ひどく窮屈そうな、落ちつかなげな様子だった。
 「おかげさまで、旦那様」彼は少しもじもじしながらそう言い、手を額に持っていった。「しかし旦那様には、お変わりないとは申せませんなあ。外国にいらして、肉がついて、お顔がきびしくおなりだ。こんなことを言っちゃあなんですが、旦那様とは分かりませんでしたよ」
 「こちらはパーキンス」ミスタ・マンガンが再びしゃしゃり出てきて紹介をつづけた。「ロンドンで雇った執事です。それから――」
 突然、奇妙な沈黙が訪れた。新しい主人の風貌をひそひそと噂していた女中の一団は急に口がきけなくなった。すべての目が同じ方向を向いていた。玄関ホールの片隅からいつの間にか出てきたのであろう、一人の女が不意に彼らの前に立った。痩せこけた身体、簡素な黒い服、髪をひっつめにし、首のまわりには白いカラーすらつけていない。面立ちはほっそりと長く、顔の造作は異様に大きい。目は怒りに満ちていた。話し方はごくゆっくりだったが、北部独特の抑揚がいくらか混じっていた。
 「このお屋敷にあなたの居場所はありませんよ、エヴェラード・ドミニー」彼女は行く手を塞ぐかのように彼の前に立った。「昨日の晩、思いとどまるよう、手紙を書きましたが、いやに急いでお出でになりましたのね。ここは人殺しが来るようなところではありません。お引き取りください、もとの隠れ家に」
 「何を言うんだね!」マンガンが喘ぐように言った。「許し難いことだ!」
 「弁護士様と言い争うために来たのではありません」女が言い返した。「わたしは彼に話をしに来たのです。わたしの顔を見ることができますか、エヴェラード・ドミニー。あなたはわたしの息子を殺し、奥様を狂人に変えてしまった」
 弁護士がそれに答えようとしたが、ドミニーが手を振って押しとどめた。
 「ミセス・アンサンク、ただちに仕事にお戻りなさい。それからよく覚えておくことだ、ここはわたしの家なのだから、わたしが好きなときに出入りできるということを」
 彼女はしばらく口がきけなかった。相手の断固とした口調にあっけにとられたのだ。
 「家はあなたのものかもしれません、サー・エヴェラード・ドミニー」彼女は脅すように言った。「でも一カ所、あなたも怖くて入れない場所がある」
 「何を言っているのか、分かっているのかね」彼は冷たく答えた。「さあ、すぐ妻のところへ戻って、わたしが到着したことを伝えたまえ。お部屋に伺う許可をひたすらお待ちしていると」
 女は不快な、耳障りな笑い声をあげた。その目はいぶかしげにドミニーを見据えている。
 「お勇ましいこと。肝が据わってお帰りになったようね。お顔を見せてくださいな」
 彼女は光がよく当たっているほうへ一、二歩移動した。額にゆっくりと皺が寄っていった。見れば見るほど自信がなくなった。
 「あなたの顔には何かが欠けている」彼女はつぶやいた。
 ミスタ・マンガンはここぞとばかりに口を挟んだ。
 「そんなことはどうでもよろしい、ミセス・アンサンク」彼は怒気をこめて言った。「一言忠告させてもらうが、ご主人には敬意をもって応対したまえ」
 女はまた激高した。
 「敬意!息子を殺した男にどんな敬意を抱けというのです?敬意とはね!わたしの言いつけに逆らってここに留まるつもりなら、きっと奥様から敬意の意味を思い知らされることになるでしょうよ」
 彼女は踵を返して姿を消した。誰もが一斉に荷物のまわりで忙しく立ち回り、しゃべりはじめた。ミスタ・マンガンは依頼主の腕を取って玄関ホールを抜けた。
 「サー・エヴェラード」と彼は心配そうに言った。「こんなことになって本当に残念です。あの女の無愛想なことは予想していましたが、これほど不埒な振る舞いに出るとは思いも寄らなかった」
 「妻がそばにいることを許しているのは、今でも彼女だけなんだね?」ドミニーはため息をつきながら尋ねた。
 「そのようです。しかし、明日の朝、医者のハリソン先生に相談しましょう。ここにいたいなら、態度をすっかり改めること、それをきちんと理解させなければなりません。あんな非常識な言葉は聞いたことがない。夕食のあと、わたしが直々に彼女に言っておきます――この書斎ならくつろげるでしょう、サー・エヴェラード」ミスタ・マンガンは海側の豪奢な一室のドアを開けた。「目が覚めるような眺めですよ、窓の外は。木を何本か切りましたから。パーキンスがシェリーを用意してくれたようですな。こちらではまだカクテルを飲む習慣がないので、あなたがつくっていかなければならないでしょう。一つだけわたしに感謝していただけることがあるんですよ、サー・エヴェラード。お金に困ったことは一再ならずありましたが、地下のワインは一本も売らなかったのです」
 ドミニーは弁護士がついだシェリーのグラスを受け取ったが、飲もうとはしなかった。しばらくのあいだ、物思いにふけっている様子だった。
 「マンガン」と彼はやや唐突に言った。「このあたりでは、みんな、わたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか」
 弁護士はデカンターを置いて咳払いした。
 「正直に答えてくれたまえ」ドミニーが強く言った。
 ミスタ・マンガンは相手に合わせることにした。依頼主のことが徐々に分かりはじめていた。
 「この近辺でそう信じていない人は一人もいないと思います、サー・エヴェラード。争いが起きて、あなたが彼を打ちのめしたと」
 「くどくどと質問をするようだが許してくれ。アフリカに逃亡して最初のうちは、それまでの人生のすべてを忘れ去ろうと必死になっていたんだ。本当にみんなそう信じているんだね?」
 「その俗説はほぼ事実と合致してるようです」依頼主が思った以上に理性的に振る舞うのを見て、マンガンは再びデカンターを取りあげた。「不幸のはじまりとなってしまいましたが、あなたがこのお屋敷にお出でになった頃、ミス・フェルブリッグは牧師館で一人住まい同然の暮らしをしていらっしゃった。叔父様が急死なさいましたからね。一緒にいたのは家政婦のミセス・アンサンクだけでした。ロジャー・アンサンクが結婚前の奥様に夢中だったことは、近所に知れ渡っていて、ミス・フェルブリッグはたいそう迷惑に思っていました。ドミニー夫人はあの若者に気がある振りなど一度も見せなかったと思いますが」
 「違う意見の人はいなかったのかい?」
 「一人もいませんでした」彼は断言した。「でも、あなたがきて、ミス・フェルブリッグと恋をし、彼女をさらっていってしまったとき、誰もがこれはひともめあるぞと感じていたんです」
 「ロジャー・アンサンクは頭が変だった」ドミニーは慎重にそう言った。「最初から狂人みたいに振る舞っていた」
 「次第次第に狂気に陥っていく、ユージン・アラム(註 ブルワーリットンの小説の主人公)みたいな田舎教師ですね」マンガンは同意した。「そこまではみんなの意見は一致しています。謎めいてくるのは彼が休暇から帰ってきて、結婚の知らせを受け取った、そのあとのことです」
 「それから起きたことは実に単純なんだよ。わたしたちはある晩、ブラック・ウッドの北の端で出くわした。彼は狂ったように襲いかかってきた。わたしのほうが少し力が勝っていたのだろうな。しかし屋敷に戻ってきたとき、腕が折れていて、血まみれで、意識を失いかけていた。残酷な運命のいたずらで、ほとんど真っ先に出遭った人間が妻だったのだ。彼女にはショックが強すぎた。彼女は気を失い――そして――」
 「以来、正気を取り戻していらっしゃらない」と弁護士が話を結んだ。「おかわいそうに!」
 ドミニーは窓の前に立ち、両手を後ろで組みながら言った。「なんとも辛いのは、その瞬間から妻がわたしに対して狂的な殺意を抱くようになったことだ――正当防衛以外の何物でもなかったのに。だからわたしは国を出たのだ、マンガン――ロジャー・アンサンク殺しで捕まるのが怖かったからじゃない。裁判があれば、いつでも出廷しただろう。わたしをズタズタにしたのは別のことなんだ」
 「そうでしょうとも」マンガンは同情するようにつぶやいた。「実を言えば、逮捕など絶対にありえませんでしたがね。ロジャー・アンサンクの死体は今日に至るも発見されていないんですから」
 「もしも発見されていたら――」
 「謀殺ないし故殺罪で起訴されたでしょう」
 ドミニーは窓のそばを離れ、シェリーのグラスに唇をつけた。思い出のなかの悲劇はもうどこかへ行ってしまったようだった。
 「死体がなくなったから、ブラック・ウッドには今でも幽霊が出るなどという噂が生まれたんだな」
 「その通りです。ご存じのように、もともと変な噂のある場所ですし。実際、暗くなってから庭園を横切って森の方に歩いていく村人はいないでしょうね」
 ドミニーは時計を見て、マンガンを従え部屋を出た。
 「晩餐のあとで西アフリカの迷信の話をしてあげよう。ここの噂が子供だましに思えるよ」

 第九章

 「お宅のワイン貯蔵庫には心から祝福の言葉を申しあげます、サー・エヴェラード」その晩、客はポートワインを口にしながらそう言った。「これほどの七十年代ものは実に久しぶりです。しかも、わたしがロンドンから寄こした新しい雇い人――パーキンスですが――彼によると、これがまだたっぷり残っているそうですよ」
 「じっくり寝かしてあったからね」
 「夕食の前に貯蔵庫のリストを調べてみました。すると四十七年ものと四十八年もの、さらにそれより古いビンテージワインも数本お持ちじゃないですか。放っておく手はありませんよ」
 「明日の晩、一本飲んでみよう。暇があれば、半時間くらい一緒に貯蔵庫を見て回るのもいいかもしれない」
 「そしてもう半時間はミセス・アンサンクとの面談に費やしたいですな」ミスタ・マンガンは憂慮するように言った。「とにかく、ドミニー夫人のお世話係として彼女が適任とは到底思えません。ここに到着したらすぐ、この件についてお話しようと決めていたんですよ、サー・エヴェラード」
 「ミセス・アンサンクはミスタ・フェルブリッグの家政婦で、妻の子どもの頃の乳母だったんだよ。どのような欠点があるにせよ、ドミニー夫人には献身的につくすと思う」
 「奥様には献身的かも知れませんが、あなたにとっては敵だと思います。このまま何事もなく済むとは思えません。ミセス・アンサンクは、それがフェアな闘いだったかどうかは別にして、あなたが息子を殺したと思いこんでいる。ドミニー夫人もそう信じている。そして争いのあとのあなたを見て、正気を失ってしまった。ドミニー夫人には、不幸な過去と何のつながりもない人をあてがったほうがずっといい」
 「明日、ハリソン先生に相談しよう。君が一緒に来てくれて本当に助かるよ、マンガン」彼はほんの少しためらってから話をつづけた。「昔の雰囲気にもう一度馴染むことはなかなか難しい。それどころか」彼はテーブル越しにちらりと妙な視線を投げかけた。「わたしがあの頃と同じ人間だということさえ信じられない」
 「わたしはあなた以上に信じられない思いを何度も味わいましたよ」
 「ずばりどういうところが変わったと思うのか、教えてくれないか」ドミニーは熱心に尋ねた。
 「柔軟性とでもいいますか、あるいは性格的なだらしなさとでもいうべきかもしれませんが、それがなくなったようですね。昔を振り返ると、今のあなたからはほとんど想像もできないことが幾つもあるんです。些細な例ですが」彼はうっすらと笑みを浮かべて、主人の口をつけていないグラスのほうに頭をかしげた。「わたしが知っているドミニー家の方と違って、あなたはポートワインをお飲みにならない」
 「ポートワインはもとから好みじゃないよ」
 弁護士は眉をつりあげて彼を見た。
 「ポートワインはもとから好みじゃない」彼は呆然として相手の言葉をくり返した。
 「好みじゃなくなったと言うべきだったね」ドミニーは急いで説明した。「ジャングルではとにかく怖ろしいほどアルコールを飲んだ。するとワインに対する嗜好が萎えてしまうんだ」
 弁護士は主人の見事な褐色の顔色と澄み切った目をうらやましそうに見た。
 「お酒なんか一度も飲んだことがないような顔をなさっていますよ、サー・エヴェラード」彼は正直に言った。「十年か十五年前の噂が信じられません」
 「ドミニー一族の体質なんだろう」
 新しい執事が音もなく部屋のなかに入ってきて、主人の椅子に近づいた。
 「書斎にコーヒーを用意いたしました、旦那様。猟場管理人のミスタ・ミドルトンがつい先ほどおいでになり、お休み前に旦那様と一言お話したいとのことです。たいそう落ち着きのない、心配そうな様子でした」
 「すぐ書斎に来させたまえ。君もコーヒーにするかね、マンガン」
 「もちろんですとも」弁護士は立ちあがりながら同意した。「素晴らしいご馳走でしたよ、あのワインは。ロンドンのレストランには望むべくもない一品ですな。ポートワインは寝かしてある場所から運び出してはいけないんですよ」
 二人は実に豪華だが、暖房不足で壁が少しいたんでいる広間を通って書斎に入り、赤々と燃える薪を前にして安楽椅子に座った。パーキンスは音をたてずにブランデー入りのコーヒーを差し出した。彼が部屋を出るや、とたんにためらいがちなノックの音がし、ミドルトンのどことなくおどおどした姿があらわれた。
 「なかに入ってドアを閉めたまえ。どんな用事だい、ミドルトン。パーキンスから話があると聞いているが」
 男は躊躇しながら前に進んだ。見るからに困ったようなそわそわした様子で、話が切り出せないでいるようだった。顔には雨粒が光り、綿ビロードのコートにも長く尾を引くような雨の跡がついていた。白髪は風にあおられて乱れていた。
 「今晩は荒れ模様だね」ドミニーが言った。
 「ここに来たのは、これ以上荒れた夜にならないようにするためなんで、旦那様」老人はしわがれた声を出した。「お頼みしたいことがあるんですよ。旦那様のためにも。今晩、カシの間でお休みじゃないでしょうね?」
 「そうしてはいけないかい?」
 「奥様の部屋の隣じゃありませんか」
 「だから?」
 老人はいかにも動揺していたが、主人はわざとのように、助け船を出さなかった。彼はマンガンのほうを見て、ぶつぶつと独り言を言った。
 「遠慮せずに言いたいことを言いたまえ、ミドルトン」ドミニーが促した。「ミスタ・マンガンは三代にわたってこの屋敷の事務弁護士を勤めてこられた。わたしの一族の歴史はすべてご存じだ」
 「打ち解けられないのは、旦那様のほうなんですよ、まったくの話」ミドルトンはどうにでもなれといわんばかりに話しつづけた。「一回り大きくおなりになって、お声も厳しくなったような気がするんです。思っていることを言いたいんですが、なんだか気後れしちまって」
 「辛い経験をしたからね、ミドルトン。変わっても不思議はないさ!気にしないで男同士で話をしよう」
 「旦那様があの晩、ふらふらしながら家に戻ってきたとき、最初に出っくわしたのがわたしでした。片腕をだらんと垂らし、血がお顔とお召し物を伝い、目に赤い炎がともっていましたよ――人殺しの炎ってやつでさ。奥様がヒステリーを起こすのが聞こえました。狂ったように笑ったり泣いたり。それからは、ああ神様!ずっとそのままでいらっしゃる」
 二人の男は黙っていた。ミドルトンは激しく興奮し、大きな声を出していた。一呼吸間をおいたのは、明らかにただ息を継ぐためだった。話はつづいた。
 「奥様がナイフをつかんで、あなたに向かってきたとき、わたしはおそばにおりました。覚えていらっしゃるでしょうが、奥様を背中から取り押さえて、あの晩、二つめの悲劇が起きるのを防いだのはわたしなんで。それから奥様が夜中に旦那様の部屋に忍びこんで、一センチ差で喉を刺しそこね、次の朝、お医者様を呼びに行ったのもわたしでした。奥様が旦那様に向かって声を振り絞り、脅かすのが聞こえました。あれは狂った女の脅しでしたよ、旦那様。奥様は今も気が触れてます。奥様がナイフをお持ちになったら、この屋敷のなかにゃ旦那様が安全でいられるところはありません」
 「凶器を持たせないように注意しなければならないね」ドミニーは静かに言った。
 「無駄なことですよ」ミドルトンはあざ笑うように言った。「おそばにアンサンクがいるんですから!奥様はあの晩の恐ろしさに頭が変におなりになったが、アンサンクは憎しみのあまり変になっているんです。それにですよ」老人は声をひそめ、目をぎらぎらさせた。「ロジャー・アンサンクの幽霊があの二人の窓の下にやってきて、一週間に一度はかならず旦那様の血を求めてうなり声をあげるんです。今晩ここにお泊まりになるなら、旦那様、屋敷の反対側に小部屋が用意してありますから、そちらでお休みくださいまし」
 ミスタ・マンガンは夕食後の落ち着いた表情を失っていた。顔は歪み、コーヒーは冷たくなりかけていた。今の話は、ときどき彼のもとに届く曖昧な手紙や噂とはずいぶん異なっていた。彼は物質主義者として、そうしたものをとことん軽蔑し無視してきたのだが。
 「警告してくれてありがとう、ミドルトン。しかしドアには鍵がかかるだろう?」
 「カシの間に鍵をかける?」話にならないといった調子だった。「そんなことして何の役に立つんです?あの部屋の壁は三方が二重になっていることはよく知っていらっしゃるでしょう。このわたしですら知らない秘密の入り口があるんですよ。今晩、カシの間にだけは泊まっちゃいけません、旦那様。あの二人が静かにしているのは、あの部屋で旦那様をしとめようとしているからです」
 「どういうことなんだい、ミドルトン」弁護士が訊いた。彼は無関心を装うとしたが、失敗していた。「ロジャー・アンサンクの幽霊の叫び声を聞いたっていうのは」
 老人は辛抱強く振り返った。
 「そのままの意味ですよ、先生。ほとんど毎週、家の周りをうろつくんで。ミセス・アンサンクを除けば、たまにわたしが泊まるくらいで、もう何年も屋敷に寝泊まりする召使いはいません。女中のなかには村から来ているのもいますが、しかし彼らは夜になる前に帰りますんで。それから朝まで、生きている人間は一人もここに来やしません――百ポンドやると言っても断られます」
 「叫び声と言ったね?」ミスタ・マンガンが訊いた。
 「怪我をした犬の鳴き声によく似てます」ミドルトンは平然と説明した。「犬みたいといっても、わしらが聞いた感じではちょっぴり人間ぽいところがあるんですがね。先生も、たぶん、今晩か明日の晩あたりお聞きになるでしょう」
 「じゃあ、君は聞いたことがあるんだね、ミドルトン」主人が尋ねた。
 「そりゃ、もちろんですよ、旦那様」老人は驚いたように答えた。「この十年間、ほとんど毎週ですよ」
 「起き出して正体を確かめたことはないのかい?」
 老人は頭を振った。
 「あれが何かくらいちゃんと分かってまさあ、旦那様。わたしは幽霊なんか探しに行きたくはありませんや。誰でも知ってるように、幽霊のなかにはこの世をうろつくやつらもいますからね。ロジャー・アンサンクの幽霊は毎週ブラック・ウッドとあの窓のあいだを行き来しているんです。でも幽霊なんか見たくもありませんや。縁起でもねえ。ベッドのなかで寝返り打って、耳を押さえます。ブラインドだってあげたことはありません」
 「ミドルトン、ドミニー夫人は、この――何ていうか――霊の出没を怖がっているんだろうか?」ドミニーが訊いた。
 「そいつはわたしには分かりません。奥様はいつも愛らしくて、お優しいし、誰にも分けへだてなく親切なお言葉をかけてくださります。しかし奥様の目には今でも浮かんでいるんです、旦那様がよろよろとお屋敷に戻ってきたあの晩にともった恐怖が。その恐怖はまだすっかり消えてはいないようです。奥様は恐怖を抱いていらっしゃる。でもそれがあなたと再会することへの恐怖なのか、ロジャー・アンサンクの幽霊に対する恐怖なのか、そこのところは分かりません」
 ドミニーは急にこの話題を切りあげてしまいたいという、おかしな衝動にかられたようだった。彼は優しい言葉で、しかしやや唐突に、老人を引き取らせることにし、使用人部屋に通じる廊下まで、ずっとキジ狩りの話をしながら老人を送った。戻ると、客は二杯目のブランデーを飲み干し、こっそり額の汗をぬぐっているところだった。
 「あれこそ長生きしすぎた使用人の逸品ですな。わたしが中世のドミニー家の者なら、やつの首に石を結びつけて、うんと深い井戸に放りこんでやります。それがいちばんいいあしらい方だろうと思いますよ。まったくこっちまでぞっとしてしまった」
 「気がついていたよ」ドミニーは軽く笑いながらいった。「わたしにとっても確かに楽しい会話じゃなかったね」
 「お化けの話は幾つか聞いたことがありますが、十年間も毎週やってきて叫び声をあげるというのは、そうあるもんじゃない」
 ドミニーはしっかりした手つきでブランデーを注いだ。
 「怠慢だぞ、マンガン。この家から悪霊を祓い清めておくべきだったのに。君とわたしとで、まず悪魔祓いをしなければ、せっかく集めてくれた聡明な女中たちが明日にはいなくなってしまう」
 ミスタ・マンガンはしだいに人心地がついてきた。ブランデーと燃えさかる薪の暖かさが身体のなかに染みこんできた。
 「ところでサー・エヴェラード」彼は少ししてから尋ねた。「今夜はどこで寝るつもりです?」
 ドミニーは悠然と手足を伸ばした。
 「どう考えても一カ所しかないじゃないか。誰も失望させるわけにはいかない。カシの間で寝るよ」

 第十章

 悪夢がゆっくりと現実の恐怖に変わっていった。その最初のもつれた瞬間に、ドミニーはアフリカに戻って、敵に喉元を押さえつけられている自分を見ていた。それから目覚めた記憶がどっとばかりに押し寄せてきた――広大な屋敷の静けさ、自分の身体が横たわる、黒い樫材の四柱式寝台、そのまわりで謎めいた衣擦れの音をたてる重い垂れ布、そして喉を軽く突き刺す命に関わる何か――そうしたものが非現実のカーテンを押しのけてきた。彼はほとんど呆然とするしかない自らの状況を鋭く、痛いほど理解した。彼は目を開けた。物怖じしない、冷ややかな心の男だったが、恐怖に動きを封じられ、麻痺したようにじっと横たわっていた。火を灯されたばかりの蝋燭の明かりが、喉元に突きつけられた千枚通しのような短剣を照らし出している。彼はぎらぎらする細い鋼鉄を魅入られたように見つめた。すでに皮膚は破れ、血が数滴パジャマの襟にしたたっていた。命を奪う凶器を持つ手――小さくて細い、ひどく女性的な手が、ベッドの垂れ幕の背後から湾曲しながらのびている――姿の見えない何者かの手。彼は枕の上に身体をずらそうとした。手は彼のあとを追い、柔らかな白い袖口がかいま見えた。彼はそのままの体勢で横たわっていた。右腕の筋肉が、その残忍な手に飛びかかろうと、緊張していた。すると声がした――ゆっくりした、女らしい、実に不思議な声だった。
 「動いたら命はありません。じっとしていなさい」
 ドミニーは完全に意識を取り戻し、脳は活発に動きはじめた。死を逃れようとする熟練ハンターのように狡智を振り絞って、彼は可能性を探った。しぶしぶ彼は観念せざるを得なかった。どれほどすばやく動こうとも、隠れた敵がその言葉通りのことをするなら、細い短剣が首に突き刺さることは避けられない。彼はおとなしく横になっていた。
 「どうしてわたしを殺そうとするのだ?」緊張した声で彼は尋ねた。
 返事はなかった。しかしなぜか相手がじっと見つめていることは分かった。腕の突き出た垂れ布のあたりが、ほんのわずか開いた。隙間を通して誰かが彼のほうを見ていた。助けを呼ぼうと思ったが、またもや見えない敵に心を読まれた。
 「静かになさい」と声は言った――子どもが発したとしか思えないような声だった。「ささやき声より大きな声を出したら、命はないわ。顔を見せてちょうだい」
 裂け目がさらに少しだけ広がった。彼は希望を感じはじめた。短剣を持つ手は震えだし、垂れ布の背後から荒い息づかいが聞こえた――驚いたか、あるいは恐怖したときの女の息づかいだった――そして次の瞬間、残酷な凶器を握った手は垂れ布の陰に引っこみ、女は笑い声をあげはじめた。あまりにも突然のことで、彼は動くことも、その状況を利用することもできなかった。最初は静かな笑い声だったが、やがて場違いな陽気な調子に、ややヒステリックな嗚咽が混じりだした。
 彼は催眠術にでもかけられたようにベッドに寝ていた。初めのうちは、悪い夢を見て金縛りにあったかのように手足が言うことをきかなかった。笑い声が絶え、壁をこするような音がし、蝋燭が不意に消された。それから彼の神経は元に戻りはじめ、手足が動かせるようになった。彼は垂れ布から離れるようにベッドの反対側へにじり寄り、拳銃と懐中電灯を置いた小テーブルの方へそっと移動した。それらをひっつかむと、右手に銃を構え、大きな部屋の暗闇に向かって電灯の小さな円い光りを当てた。再び恐怖のようなものが彼をつかんだ。ベッドの脇に立っていた人影は消えていた。見たところどこにも隠れる場所はない。強力な電灯が部屋の隅々を照らし出したが、彼以外、部屋には誰もいなかった。そのことに気がつくや、背筋がぞっとし、平静さを失った。しかし喉の傷のかすかな痛みは、この訪問が少しも超自然的なものではないことを示す、説得力のある証拠だった。部屋のあちこちに置かれた六つあまりの蝋燭に火をつけ、懐中電灯を置いた。彼は額から汗がしたたっていることを恥じた。
 「秘密の通路だ、言うまでもない」彼はしばらく身をかがめて隣室と彼の部屋を隔てる鍵のかかった折りたたみ戸を調べた。「考え直してみると、不必要に危険を冒したのかもしれないな」
 ドミニーが窓辺に立ち、北海の灰色のうねりを眺めていると、パーキンスが朝のお湯とお茶を持ってきた。彼はスリッパをつっかけ、部屋着に腕を通した。
 「いちばん近いバスルームを探して風呂の用意をしてくれ、パーキンス。部屋の配置をすっかり忘れてしまったよ」
 「かしこまりました、旦那様」
 彼は主人のパジャマについた血を見て、一瞬動きを止めた。ドミニーは目を下に向け、部屋着をかき合わせて首を隠した。
 「今朝ちょっとした事件が起きたんだ」彼は何気なく言った。「夜中に幽霊は出たかい?」
 「何も聞いておりません、旦那様。ロンドンから来た若い女中ですが、わたしがこちらに来て最初の晩に聞いたものを彼らも聞いたなら、引き留めるのは難しいと思います」
 「身の毛もよだつってやつかい?」ドミニーは笑いながらいった。
 パーキンスは表情を変えなかった。しかしその口調は主人の不真面目を暗黙のうちに非難していた。
 「あの叫び声くらい恐ろしいものは聞いたことがありません。わたしは神経質ではないのですが、あれにはひどく動揺させられました」
 「人間かね、それとも動物?」
 「両方が混じり合ったような声でした」
 「アフリカの森のはずれで一夜を明かしてごらん。野生動物の交響楽だよ。どれも血が凍りそうな声だ」
 「わたしはボーア戦争で南アフリカに行きました。そのあと、主人について猛獣狩りにも行きました。アフリカにもいないと思いますよ、一昨日の晩、わたしが聞いたような不気味な叫び声を出す動物は」
 「調べる必要があるな」
 「廊下の突き当たりのバスルームに、もうお風呂の用意ができています。よろしければご案内します」
 一時間後、下に降りると、小さい方の食事室で弁護士が彼を待ち受けていた。その部屋は東向きで、海に面しており、天井が高く、大きな窓があった。壁のところどころに手入れの行き届いていないタペストリーが掛けられ、部屋のなかに色あせた栄光の面影を漂わせていた。ミスタ・マンガンは予想に反してぐっすり眠ったらしく、上機嫌だった。サイドボードに並ぶ銀皿の列が彼をいっそう朗らかな気持ちにさせた。
 「昨晩は幽霊はお出ましにならなかったんですな?」そう言いながら彼はテーブルについた。「ロンドンに住んでいると、この水を打ったような静けさがすばらしく感じらられますね。実を言うと、枕に頭を載せてから、ついさっき目が覚めるまで物音一つ聞こえませんでした」
 ドミニーは大盛りの皿を持ってサイドボードから戻ってきた。
 「わたしもたっぷり休んだよ」
 マンガンは片眼鏡をはめて、主人の喉元を見つめた。
 「切ったのですか?」
 「カミソリを持つ手が滑ったんだ。アフリカにいるあいだに使い方が下手になった」
 「えらい傷になってますよ」ミスタ・マンガンは不思議そうに訊いた。
 「パーキンスが新しい安全カミソリを持ってきてくれる。さて、今日の予定なんだが、君のほうで構わなければ、午後の二時半に出かけようと思って車の用意をしておいた。朝のうちは静かに屋敷のなかを見て回ろう。ミスタ・ジョンソンは近くの農家に泊まっている。途中で彼を拾っていこう。それから土地管理人のリーズに一緒に来るよう伝えておいた」
 マンガンは頷いて賛意を示した。
 「いや、まったく、修理やら何やら、彼らの要求をまじめに聞いてやれるのは嬉しいですな。ジョンソンのところがいちばんひどかったんですよ、可哀想に。ロンドンのわたしの事務所まで来てうるさく責め立てるのも一人二人いました」
 「借地人にはもう不自由な思いはさせないつもりだ」
 ミスタ・マンガンはおかわりをしようとサイドボードのほうへ向かった。
 「ノーフォークの借地人を満足させることは不可能ですよ。でも、最近は、文句が出るのも当然というケースがあることは認めなければなりません。ウェルズの近くに八百エーカー近い土地を耕している男がいるんですが――」
 話は中断した。ノックの音がしたのだ。普通のノックの音ではなく、規則的な、ゆっくりとしたノックで、それが三回くり返された。
 「入りたまえ」ドミニーが大きな声で呼びかけた。
 ミセス・アンサンクが入ってきた。朝の硬い光りのなかで前よりさらに峻厳な、人を寄せつけない姿に見えた。彼女はテーブルの端に来て、座っているドミニーに向かい合った。
 「おはよう、ミセス・アンサンク」
 彼女は挨拶を無視した。
 「伝言がございます」
 「聞かせてくれ」
 「奥様が、今すぐお部屋に来ていただけないかとおっしゃっています」
 ドミニーは椅子の背に凭れ、あからさまに敵意をむき出す女の顔にじっと視線を注いだ。彼女は長く伸びた朝の光のなかに立っていた。顔の皺、引き締められた口、冷たい、鋼鉄のような目が、どれもはっきりと浮かんで見えた。
 彼は相手の反応を試すつもりでこう言った。「どんなものかな。今妻に会うことが望ましいとはとても思えないのだが」
 使いの者を動揺させようとしてそう言ったのなら、結果は期待はずれだった。
 彼女は軽蔑をこめた口調でこう言った。「心配はご無用と、奥様から特に強く申しあげるように言われました」
 ドミニーは負けを認め、コーヒーをもう少し注いだ。他の二人は、どちらも彼の指が震えていることに気がつかなかった。
 「それは優しい心遣いをいただいた。君の後からすぐ行くとお伝えしてくれ」
 ドミニーはさっそく呼び出しに応じ、地味ながらも趣味の良い大部屋に招じ入れられた。色あせた白と山吹色の壁、つやつやと輝くシャンデリア、みすぼらしいが値のつけられないほど貴重なルイーズ・カーンズの家具。驚いたことに、ミセス・アンサンクはいつの間にか姿を消していた。彼は会いにきた女性と初めから二人きりにされたのだった。
 彼女は長椅子に座って、彼が近づくのを見ていた。女?どう見てもまだ子どもだった。青白い頬、大きな不安そうな目、額から後ろに流した髪。自分は強い人間ではなかったのか、大いなる大義にこの身を捧げたのではなかったか。喉元におかしな感情がこみあげ、靄がかかったように目の前がぼやけた。彼女はあまりに脆く、どこまでも愛らしく、痛ましかった。一度見たら忘れられないその目には常に不思議な光りが宿っていた。いや、それともそれは光りの欠如だろうか。彼の口から挨拶の言葉は出てこなかった。
 「わたしに会いにいらしたのね、エヴェラード」彼女は途切れ途切れに言った。「とても勇敢なのね」
 彼は彼女の手を取った。数時間前には短剣を握りしめ、彼の首に突きつけていた手である。それから蝋のようなその指に口づけをした。それは命なきもののように彼女の脇にだらりと落ちた。彼女は手を持ちあげ、彼の唇が触れたあたりを軽くこすりはじめた。
 「言いつけに従って来たよ。心を弾ませてね」
 「心を弾ませて!」彼女はぞっとするような薄笑いを浮かべた。「言葉遣いが上手になったようね、エヴェラード。この屋敷でお休みになったのに、まだ生きていらっしゃる。わたしは約束を破りました。どうしてからしら?」
 「あなたに命を狙われるほどの価値はない人間だから」
 「おかしなことを言うわね」彼女は記憶を探った。「聖書のどこかになかったかしら。『命には命を』とか。あなたはロジャー・アンサンクを殺したわ」
 「あれ以来、自分を守るために何人も人を殺したよ。殺すか殺されるか。ときどき男はそんな状況に追いこまれる。あれはロジャー・アンサンクが――」
 「あの人のことはもう話したくありません」彼女はごく静かに断言した。「一昨日の晩、彼の霊が窓の下からわたしに語りかけたの。地獄に来い、そして一緒に暮らそうと。考えただけでもぞっとする」
 「さあさあ、別の話をしよう。どんな贈り物を買ってあげたらいいのか、教えてほしいな。お金持ちになってアフリカから帰ってきたんだから」
 「贈り物?」
 彼女の顔はほんの一瞬、おもちゃを与えられた子どものように輝いた。期待を秘めた笑顔は愛くるしく、あの妙にうつろな表情が目から消えた。しかし彼が次の言葉を発する間もなく、すべてが元に戻ってしまった。
 「聞いて。大事なことなの。あなたを呼んだのは、どうしてか分からないけど、昨日の晩、急にあなたを殺したいと思わなくなったからなの。あんなにかたく決心していたのに。今はその気持ちがすっかり消えてしまった。もう自分が何を考えているのか分からない。椅子をもっと引き寄せなさいな。いえ、わたしの隣に来たらいいわ。ほら、長椅子のこっち側へ」
 彼女はスカートを寄せて、場所を空けた。座ると彼は手足におかしな震えが走るのを感じた。
 「たぶん誓いを守ることはないわ。もう破ってしまったんですもの。あなた、お顔を見せて。変な気持ちだわ。あんなに長い月日が経ったのにまだ――夫がいるなんて」
 ドミニーは毒々しいまでに甘く澱んだ空気を吸いこんでいるような気がした。何もかもが現実離れした感触を持っていた――部屋も、この子どものような女も、彼女の美しさも、ゆっくりとつかえながら話すさまも、彼女が語る異様なことどもも。
 「わたしは変わったかな?」
 「びっくりするくらい変わったわ。前より力があふれているし、ハンサムになったかもしれない。でも、お顔から何かがなくなっている。なくならないと思っていたものが」
 「君はずっときれいになったよ、ロザモンド」彼は用心深く言った。
 彼女は寂しそうに笑った。
 「きれいになっても何の意味もなかったわ、エヴェラード、あなたがわたしの粗末な家に来て、わたしを愛し、わたしにあたなを愛させ、陰気なロジャーからわたしを奪ってからは。学校の生徒たちがあの人のことを陰気なロジャーって綽名していたことを覚えている?でもそんなことはどうでもいい。エヴェラード、あなたがわたしを置き去りにしてから、わたし、お庭の外に出たことがないのよ。知ってる?」
 「これからは違うよ、君が望むなら」ドミニーは急いで言った。「行きたいところに行けるようになるんだ。車を買って、町に別邸だって建ててあげる。うんと有能な医者を連れてきて、君をもう一度丈夫にしてもらう」
 彼女は大きな目をあげて、哀れみを乞うように彼を見つめた。
 「でもどうしてここを離れられるというの?」彼女は悲しそうに尋ねた。「毎週一回、ときによるとそれ以上、彼がわたしに呼びかけてくるというのに。わたしが行ってしまったら、彼の霊がここを飛び出して、わたしを追いかけてくる。わたしはここにいて、手を振ってやらなければならないの。そうしたら彼は向こうへ行ってしまうから」
 ドミニーはまたもや例の奇妙な、予想もしていなかった感情がこみあげてくるのを意識した。もう自分の気持ちすら分からなくなっていた。今まで胸がこんなふうにときめいたことはなかった。眼までかっと熱くなった。彼は新奇なものを探して世界中を旅したが、結局この異様な、色あせた部屋のなかで、心を病む女と並んで座っているときにそれを見いだしたに過ぎなかった。それでも彼は静かにこう言った。
 「もっと親切な人がいる、楽しいところへ君を送らなければならないな。きっと音楽や美しい絵を見るのは好きだろうね。君が考えこまないように気をつけないといけないな」
 彼女は途方に暮れたようにため息をついた。
 「あなたを殺したいなんていう気持ちが、血のなかから消えてしまえばいい。そうしたらすぐにでもあなたに受け入れてもらえるのに。他の夫婦は憎み合いながらも一緒に暮らしている。どうしてわたしたちもそうできないの?わたしたち、もしかしたら憎むことすら忘れてしまうかもしれない」
 ドミニーはふらつく足で立ちあがり、窓のほうへ歩み寄って、それを開け放ち、しばらく外に身を乗り出していた。新たにつけ加わったこの要素は彼にショックを与えた。そのあいだ、彼女は平然と彼を見ていた。
 「どうなの?」彼女は得体のしれない薄笑いを浮かべた。「おっしゃって。昨日の晩、あなたを震えあがらせた手を、妻の手として握ってくださる?」
 彼女は柔らかな温かい手を差し出した。彼が指に力をこめると、彼女の指も力がこもった。彼女は楽しそうに彼を見、彼は再び見知らぬ国にさまよいこんで、方角が分からくなった男のように感じた。
 「君にはうんと幸せになってほしい」彼の声はかすれていた。「でもまだ身体が丈夫になってないね、ロザモンド。焦って決めることはないさ」
 「わたしがあなたに優しくしようとするから驚いているのね。でもそうしちゃいけない理由がある?急に心変わりしたわけは分からないでしょうけど――でも変わったのよ。この短い時間のあいだに、本当のことが見えたの。あなたを殺しちゃいけない理由があるの、エヴェラード」
 「どんな理由だい?」
 彼女は秘密を隠している子どものように、嬉しそうに頭を振った。
 「あなたは頭がいいから、自分で考えてご覧なさい。どきどきしてきたわ。しばらく座をはずしてくれないかしら。ミセス・アンサンクを呼んでちょうだい」
 解放されることになって、彼は不思議な安堵を感じた。しかし、さらに不思議なことに、そこには残念に思う気持ちも含まれていた。彼は彼女の手を放さずにいた。
 「今晩も寝ながら歩き回るつもりなら、短剣は置いてきてほしいな」
 「言ったじゃない」彼女は驚いたように言った。「わたしは気が変わったの。あなたは殺さない。寝ながら歩き回ったとしても――ときどき夜がとても長いことがあるわ――わたしが求めるのはあなたの死ではないのよ」

 第十一章

 ドミニーは夢のなかをさまようように部屋を出た。階段を降りて自室に戻ると、帽子と杖をつかみ、見る間に庭を覆いつくさんとする海霧のなかへ踏み出した。氷のように冷たい蒸気の雲には、北極の寒気がありったけ詰めこまれている。しかしそれにもかかわらず彼の額は熱く、脈は燃えるようだった。壁に囲まれた庭の裏門を抜けると、広々とした沼地があった。あちらこちらに水路が走り、潮が満ちると海水が舐めるように舌を伸ばしてくる。彼はおぼつかない足取りで海のほうへ進み、舗装していない石だらけの道に出た。そこでしばらくためらい、周りを見回していたが、直角の方向に向きを変えた。やがて小さな村に着いた。乾燥した赤煉瓦造りの古い家々、こぎれいな狭い庭、背の高い楡の木に囲まれた教会、そして道が交差するところには三角形の芝地があった。一方の側には、低い、わらぶき屋根の建物が見えた。ドミニー・アームズという居酒屋である。反対側には古ぼけた四角い石の家があり、真鍮の表札がかかっていた。近づいて名前を読み、ベルを鳴らすと、応対に出たやせた女中に医者との面会を求めた。しばらくすると若々しい見かけの中年男が診療所にあらわれ、一礼した。ドミニーは一瞬あっけにとられた。
 「ハリソン先生にお目にかかりたいのですが」
 「先生は数年前に引退なさいました」丁寧な答えが返ってきた。「わたしは先生の甥です。スティルウェルと申します」
 「先生はまだこの近所にお住まいだろうと思っていたのですが。わたしはドミニーです。サー・エヴェラード・ドミニー」
 「そうじゃないかと思っていました。伯父はわたしとここに住んでいます。実を言いますと、伯父はあなたを待っていたのですよ。伯父は一人の患者さんだけを引き続き診ているんです」スティルウェル医師は重々しくつけ加えた。「誰のことかはお分かりでしょう」
 訪問者は礼をした。「妻のことですね」
 若い医師はドアを開け、客に先に入るように身振りで勧めた。
 「この家の裏に伯父の小部屋があります。ご案内しましょう」
 彼らは気持ちのいい、白い石の廊下を通って、小さな部屋のなかに入っていった。フランス窓からは石畳のテラスとテニス用の芝生コートが望めた。肩幅が広く、日焼けしていくぶん深刻な表情を浮かべた白髪の老人が窓のほうから後ろを振り返った。彼はそれまで窓に向って毛鉤の箱を調べていたのだった。
 「叔父さん、古いお友達をお連れしました」
 医師は、待ちわびていたという目でドミニーを見やり、挨拶するように前に進み出たが、ぴたりと立ち止まると、疑わしそうに頭を振った。
 「確かに古い友人とよく似ているが、どうやらあなたは別人のようだ。お目にかかったことはまだないと思うが」
 束の間、やや緊張した沈黙が流れた。ドミニーはぎこちなく前へ進み出ると手を差し出した。
 「どうしたんです、先生。そんなに変わっているはずありませんよ。確かに試練の月日が続きましたが――」
 「まさか今話している相手がエヴェラード・ドミニーだというんじゃないだろうね」医師が口を挟んだ。
 「まぎれもなくわたしです!」
 医師は冷ややかに握手を交わした。長年かかりつけの医者を勤めてきたにしては、名門一族のあるじに対して気持ちのこもっていない歓迎の仕方だった。
 「名乗ってくれなければ、君だとは分からなかった」
 「しかし、ここにいるのは間違いなくわたしです。相変わらず趣味に打ちこんでいるようですね、先生」
 「毛鉤釣りをはじめたのは、狩りを止めてからだよ」
 またもや気まずい沈黙が流れた。若いほうの男がその隙間を埋めようとした。
 「釣りと猟とゴルフ。暇つぶしがなかったら、わたしたちみたいな哀れな田舎医者はいったいどうしたらいいのでしょう」
 「それならあとでお誘いをさしあげましょう。狩りといえばドミニー家の人間が今でも得意とするところですから」
 「楽しみに待っていますよ」即座に返事が返ってきた。
 再び毛鉤の箱の上にかがみこんでいた伯父は不意に振り返った。
 「アーサー、回診に行きなさい。サー・エヴェラードはわたしと二人きりで話をしたいだろうから」
 「たしかにお話があるのですが、しかし専門家としての意見をお聞きしたいのです。別に――」
 「とっくに出かける時間なんです。それじゃわたしは失礼します。ところでサー・エヴェラード」彼は声をひそめて、相手を軽くドアのほうに引っぱっていった。「伯父が少々無愛想だとしても大目に見てやってください。伯父はドミニー夫人に献身的に尽くしています。ときどき心配しすぎじゃないかと思うのですが」
 ドミニーは頷いて、部屋に戻り、医師を見た。流行遅れのズボンを穿いた医者はポケットに両手を突っこみ、つくづくと彼のほうを見ていた。
 「とても信じられんな、あんたが本当にエヴェラード・ドミニーだなんて」彼の話し方はいささかぞんざいだった。
 「でも、残念ですが、本物と認めざるを得ないでしょう」
 老人は品定めするように彼を見ていた。「今の君とわたしが記憶している数年前の君は全然一致しない。酒に溺れて見る影もないと聞いていたが」
 「世間は嘘つきだらけです。少なくともそのうちの一人とお会いになったようですね」ドミニーは穏やかに答えた。
 「不摂生の跡さえない」
 「わたしの一族は頑健にできているんです。ワインを二本、平気で空けるような人間が代々名を連ねていますから」訪問者は無頓着に言った。
 「イギリスを逃げ出してから肝も据わったらしいな。昨日の晩は屋敷に泊まったのかね?」
 「他にどこで寝たらいいんです?ついでに言うと、自分の寝室で寝たんですが、その報いを受けましたよ」ドミニーは顎をあげて喉元の傷を見せた。「別にどうということはないんですが」
 「当然だよ。わたしに相談もせずに屋敷へ行くなんて、そんな権利は君にない。あんなことが起きたあとだ、奥様に会う権利だってあるものか」
 「わたしの家庭問題に厳しい意見をお持ちのようだ」
 「君の過去を知っているからだよ」彼はそっけなく答えた。
 ドミニーは勧められもしないのに、安楽椅子に腰掛けた。
 「先生はいつもわたしに厳しかった。ですが、今は純粋に専門家としてお話していただけませんか」
 「わたしが厳しかったのは、君がいつも自分勝手なけだものだったからだ。この世でいちばん優しい女性と結婚しておきながら、悪い癖を直そうともしなかった。そして別の男の血に手を染め、ふらふらと家に帰り、彼女を怖がらせ、正気を失わせた。それから自分の罪を償おうともせず、十年以上も家を離れていた」
 「それはちょっと一方的すぎる見方じゃないでしょうか。もう一度お願いします。余計な話はさておいて、専門家としての見解をお聞かせ願えませんか」
 「ここはわたしの家だ。それに君のほうがわたしに会いに来たんだ。わたしは好きなことを言うよ。それが嫌なら出ていくがいい。ドミニー夫人のためでなければ、ここの敷居をまたぐことだって許さなかっただろう」
 ドミニーは口調を和らげた。「それでは妻のために、わたしに対するその徹底した非難の気持ちを忘れてもらえませんか。わたしがここに来た目的はただ一つ。妻の健康を回復するために、あなたと一緒にできることがないか、教えてもらうためなのです」
 「君とわたしが協力するなんてとんでもない」
 「お手伝いいただけないのですか?」
 「わたしが手伝っても何の役にも立たん。奥様の身体はあらゆる手段を尽くして治療した。今はすっかり健康を回復している。あとは君次第だ。君一人にかかっている。あまり期待はしていないがね」
 「わたしにかかっている?」ドミニーは驚いて相手の言葉をくり返した。
 「貞節はあらゆる善良な女の第二の天性だ。ドミニー夫人も善良な女であり、その例に漏れない。彼女の頭が枯渇しているのは、心が愛を必死に求めているからだよ。もしも彼女に君の後悔と改心を信じさせることができたら、もしも過去の償いが可能で、十分にそれがなされたなら、その場合はどうなるか分からない。君は金持ちになったそうじゃないか。昔のだらしない、勝手な君から考えると奇跡みたいな話だ。有名な医者を呼んでくることもできるだろう。治すことはできないかもしれないが、彼らに数百ギニーを払えば、君の良心は安らぐかも知れん」
 「その人たちに会ってくれますか。誰を呼んだらいいのか教えてください」ドミニーは嘆願した。
 「馬鹿なことを!わたしは現役を退いたんだ」にべもない返事だった。「わたしは誰にも会わないよ。もう医者じゃないんだ。一村人になったんだ。ドミニー夫人には古い友人として会いにいくんだ」
 「どうしたらいいのか教えてください。専門家を呼んでもだめなのですか?」
 「今のところ何の意味もないな」
 「あのいとわしいミセス・アンサンクのことはどうです?」
 「本気でやるつもりなら、あの女の処分は君の仕事の一部だ。彼女は奥様から太陽を隠すように立ちはだかっている」
 「じゃあ、どうして今まで彼女を放っておいたんです?」
 「一つには、他に代わる人がいなかった。それにドミニー夫人は、君こそ彼女の息子の殺人犯だと信じこみ、一種の罪の償いとして彼女を保護してやるべきだと、とんでもない考えに取り憑かれたからだよ」
 「二人のあいだに情愛はかよってないとお考えですか?」
 「これっぽっちもありはせん。ただドミニー夫人が優しくておとなしすぎるものだから――」
 医者はふと言葉を切った。訪問者の指が首を撫でていたからだ。
 「それは別だ」医師は荒々しく言った。「まさしくそこに彼女の心の病が残っているんだ。わたしの見るところ、ミセス・アンサンクはそこにつけこんでいる。そう言えば、ドミニー家に臆病者はいなかったな。君が勇敢さを取り戻したのなら、ミセス・アンサンクを追い出し、ドアを開け放って寝たまえ。一晩でもいい、ドミニー夫人がナイフを持って君の部屋に入ることなく過ごすことができれば、彼女は、いつかは、あの狂気から解放されるだろう。できるかね?」
 ドミニーが躊躇していることは手に取るように分かった――そして動揺していることも。医師はあざ笑った。
 「やっぱり怖いか!」
 「先生がご想像なさっているのとは別の意味でね。妻はもうわたしの命を狙ったりしないと約束してくれたのです」
 「じゃあ、君さえその気になれば、彼女を治してやることができる。それができれば、君は、人もうらやむ素晴らしい人生の伴侶を得ることになる。しかし君が楽しみにしていたこと、たとえば、町に別邸を建てたり、競馬やヨットに打ち興じたり、スコットランドでライチョウ狩りをしたり、そういうことは全部、あきらめろ。少なくともしばらくのあいだは、すべての時間を奥様に捧げなければならない」
 ドミニーは椅子のなかでそわそわした。
 「これから数ヶ月は無理です」
 「無理だと!」
 医師は鸚鵡返しに言った。まるで感嘆と軽蔑をこめて、その言葉を口のなかで転がしたかのようだった。
 「わたしはもう以前のような怠け者ではないのです」ドミニーは顔をしかめて言い訳した。「今は、お金儲けには、いろいろな責任が伴ってくるんですよ。これから数ヶ月のうちに、ドミニー家の地所を担保にして借りていた金をみんな返す予定なのです」
 「君が時間をどう使おうと、わたしの知ったことではない。わたしが言いたいのは、ただ、奥さんが治るとすれば、それは君のやる気にかかっているということだ。さあ、こっちへ来てごらん。窓の明かりの差すところへ。君の顔を見せてくれ」
 ドミニーは軽く肩をすくめて求めに応じた。太陽は出ていなかったが、白い北極光が揺れ動いていた。それは赤茶けた髪にちらほら白髪が混じっていることや、きれいに刈りこまれた口ひげにも同じものがほんのわずか混じっていることを示した。しかし落ち着き払った目にも、引き締まった男らしい日焼けした顔にも、どことなく傲慢な唇にも、衰えは全く見られなかった。医師は鉤針の箱を再び取りあげ、ドアのほうを顎でしゃくった。
 「君は奇跡だ。しかしわたしは奇跡が嫌いだ。一両日中にドミニー夫人を訪ねるよ」

 第十二章

 ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。帰宅した時間は遅かった。しかしドミニーは別世界の住人のように見えて、客に対するもてなしをおろそかにしなかった。ミスタ・ジョンソンと管理人のリースはワインのマグナム瓶が開けられるのを生まれて初めて見たようだった。ミスタ・ジョンソンは咳払いをして、グラスを掲げた。
 「サー・エヴェラード、借地人を代表してあなたの健康に乾杯を唱えたいと思います。借地人のなかには苦労の絶えなかった者もいます。しかし白人らしく耐えてきました。彼らとわたしの気持ちをこめて乾杯させてください。これからもお元気な姿を見せてくださいますように」
 ミスタ・リースもそれに和し、グラスはたちどころに乾され、また満たされた。
 「ご承知でしょうが、サー・エヴェラード、今日お約束なさったことには一万から一万五千ポンドの費用がかかりますよ」と代理人が言った。
 ドミニーは頷いた。
 「今晩寝る前に、ウェルズにある君の銀行の不動産口座に二万ポンドの小切手を送る。そのための金はもう用意してあるのだ。そうだ、君に持って行ってもらおうか」
 代理人と管理人は半時間後、大きな葉巻をくわえ、心地よいさざ波のような暖かさが血管を駆けめぐるのを感じながら、車の後部座席に寄りかかっていた。二人ともおとぎの国へでもさまよいこんだような気分だった。全く信じられないようなことが起きた、と彼らは思った。
 「奇跡だね」ミスタ・リースは言った。
 「現代の夢物語だよ」小説好きのミスタ・ジョンソンはつぶやいた。「おや、屋敷に客が来たようだね」一台の車が彼らの横を走り抜けたとき、彼はそうつけ加えた。
 「しかも裕福そうな紳士だ」とミスタ・リースが言った。
 「裕福そうな紳士」とはオットー・シーマンだった。彼は小さな旅行かばんを手にして大いに恐縮しながら屋敷にあらわれた。
 「ノリッジに行っていたんだよ、サー・エヴェラード。そこでずっと商売をやっているんだが、お客さんの一人に対応する必要ができてね。早く片づいたし、ここが三十マイルしか離れていないことが分かると、居ても立ってもいられなくなった。泊まっちゃ都合が悪いというなら、遠慮無く――」
 「とんでもない。部屋はいくらでも空いている。火を起こして、昔ながらのあんかを入れればいいだけさ。ミスタ・マンガンは覚えているかい?」
 二人は握手し、シーマンは遠出で渇いた喉を潤すために飲み物を受け取った。晩餐前のベルが鳴っても、彼はしばらくその場に残っていた。
 「彼はいつ帰る予定だ?」
 「明日の朝、九時」
 「じゃあ、それまで黙っていよう。あまり君につきまとっているように見られてもいけない――本当は来たくなかったのだが――緊急の用件があってね」
 「マンガンには早めに寝てもらうか」
 「わたし自身、早起き鳥なんだよ。昨日は徹夜したし。話は明日でいい」彼は疲れたように答えた。
 その日の晩餐は楽しくなごやかなものになった。ミスタ・マンガンはとりわけ上機嫌だった。過去十五年間、ドミニー家に関係した話はことごとく貧窮の匂いを放っていた。実際、帳尻を合わせるために彼は一方ならぬ苦労をしいられたのである。怒鳴りこんできた借地人との不愉快な話し合い、不満を抱く抵当債権者との公式会見、そんな嫌な仕事をこなしても、歳の終わりに得る利益は目を剥くほど少なかった。新しい事態は至福境といってもいいくらいだ。そこに仕上げの一筆を加えたのが、パーキンスだった。彼はデカンターを二つテーブルに置きながらこんなふうに祝賀の言葉をささやいた。
 「旦那様、五十一年もののコックバーンの大箱がありました」彼は弁護士にも聞こえるようにそっと耳打ちした。「味見なさりたいのではないかと思い、二本ほどお持ちしました。ミスタ・マンガンはなかなかの通でいらっしゃるようですし。コルクは申し分のない状態のようです」
 「これからはペルメル街の堅苦しい高級クラブには行けなくなるな」ミスタ・マンガンはため息をついた。
 シーマンはその晩、まだ宵のうちだというのに、ひどく眠いといって部屋に引き取り、屋敷の主人とマンガンが二人きりでポートワインを飲むことになった。ドミニーは主人役としてよく気のつくほうだったが、そのときはどことなくぼんやりした様子だった。観察力の鋭くないミスタ・マンガンでさえ、主人からある種の厳しさ、ほとんど傲慢といってもいい話し方や態度が、一時的に消えてしまったことに気づいた。
 彼は一杯目のワインを飲みながら言った。「サー・エヴェラード、由緒ある一族が、いわば再興を遂げることになり、わたしがどれだけ嬉しく思っているか、とても言葉にできません。しかしこう言っては何ですが、最後の締めくくりに一つだけやることが残っていますな」
 「何だい、それは?」ドミニーはぼんやりした声で尋ねた。
 「ドミニー夫人の健康を回復することです。覚えておいででしょうか。わたしはあなたが結婚なさったとき、奥様とお近づきになる特権を得た、数少ない人間の一人なんですよ」
 「今朝、結婚以来、ずっと彼女を診ている医者に会ってきたよ。彼もわたしと同意見で、妻が完全に治る見こみがないわけじゃないと話していた」
 「では、勝手ながら、その希望に乾杯させてください、サー・エヴェラード」
 二つのグラスはきれいに乾されてテーブルに置かれた。ただドミニーのグラスは脚が二つに折れてしまった。ミスタ・マンガンは気遣いを示して残念そうに言った。
 「こういう古いグラスは非常にもろくなりますな」彼は感心しながら自分のグラスを見つめていた。
 ドミニーは返事をしなかった。脳裏に奇妙な幻が浮かんでいたのだ。彼は部屋の陰からステファニー・アイダーシュトルムが両腕を伸し、昔の誓いを果たすように呼びかけているのが見えたような気がした。そしてその後ろには――
 「君は人を愛したことがあるかい、マンガン」
 「わたしですか?さあ、どうでしょう」世間を知り尽くした男も突然の質問にいささか驚いた。「愛なんて今どき流行らないんじゃないでしょうかね」
 ドミニーは思いに沈んだ。
 「そうだろうね」と彼は言った。
 その夜、荒涼とした灰色の海のかなたから嵐が吹き出した。その到来を告げる風がごうごうと沼地を渡り、ドミニー邸の格子窓を揺るがし、煙突のあいだや、いくつもある屋敷の角で悲鳴をあげ、泣き叫んだ。黒雲が陸地に垂れこめ、土砂降りの雨ががたつく窓枠と窓ガラスを叩いた。ドミニーは寝室の大きな蝋燭に火を灯し、部屋着をしっかりまとうと、安楽椅子に腰をおろし、横にある読書灯の向きを調節して、本を読もうとした。ほどなく本が彼の指から滑り落ちた。彼は急に緊張し、油断なく注意を払った。ベッドの左側の羽目板を一つ一つ目で数えた。聞き覚えのあるカチリという音が二回くり返された。とたんに暗い空間があらわれた。それから女が身体を低くかがめながら部屋のなかに入ってきた。蛾が蝋燭の半円形の光に惹かれるように、彼女はゆっくりと彼のほうに向かってきた。髪は少女のように後ろに垂らしている。彼女をふわりと包む白い半透明の部屋着は、ふとボンド・ストリートの一流商店街を思い起こさせた。
 「怖くはないでしょう?」彼女は案じるように尋ねた。「ほら、手には何も持ってないのよ。もうあんな気持ちには二度とならないと思うわ。昨日の晩、わたしが持っていた短剣を覚えている?今日、井戸に捨てちゃったの。ミセス・アンサンクがとても怒っていたわ」
 「怖くはないさ。ただ――」
 「まあ、わたしを叱るつもりじゃないでしょうね。わたし、嵐が怖いの」
 彼は背の低い椅子を一つ、小さな光の輪のなかに持ってきてクッションを置いた。彼女はそこに沈みこみながら、不意に彼のほうを見上げて微笑んだ。得も言われぬ愛らしい、こぼれるような笑みだった。ドミニーは一瞬、心臓をナイフでひと突きされたような気がした。
 「ここで休んだらいい。何も怖がることはない」
 「わたし、ちゃんとわかっている。この嵐はわたしたちの生活の一部なのね。私たちが生まれるとともにやってきて、わたしたちが死につかまるときは世界を揺さぶるんだわ。怖がってはいけない。でも、わたしはずっと悪い病気にかかっていたのよ、エヴェラード。今もエヴェラードって呼んでいいかしら?」
 「もちろんだよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」
 「だってあなたは、ちっともエヴェラードらしくないんですもの。何かがなくなって、何かがつけ加わったわ。同じあなたじゃない。何なのかしら?アフリカで辛い目にあったの?向こうで人生がどういうものか、学んだのかしら?」
 彼は椅子に凭れて、しばらく彼女を見ていた。椅子はわずかに暗闇のなかへ押しやられていた。彼女の髪は鮮やかな光沢を放ち、そのせいで彼女の肌は今までになく白く、きめ細かく見えた。目は輝いていたが、訴えるような、子供が傷つけられることを恐れるような表情があった。長いあいだ邪な情熱に振り回されていたとはとても思えないほど彼女はひどく幼く、ひどく華奢だった。
 「向こうでいろいろなことを学んだんだ、ロザモンド」彼は静かに言った。「正しい行いと悪い行いの区別も少しは学んだ。人生の情熱は、ただ一つをのぞいて、いつかは燃えつきるということも」
 彼女は部屋着の飾り帯をひとしきり指で弄んでいた。彼が今語ったことは、彼女の理解と興味の外にあるかのようだった。
 「わたしのことはもう恐れることはないのよ、エヴェラード」そういう彼女はどこか哀れだった。
 「ちっとも恐れてなんかいないさ」
 「じゃあ、どうして椅子をもっと引き寄せて、わたしの近くに来ないの?」彼女は目をあげて尋ねた。「風の音が聞こえる?わたしたちに向かって猛り狂っている。怖いわ!」
 彼は彼女の横に移動し、その手を優しく取った。指に力を入れると、彼女の指もすぐに反応した。彼が語りかけたとき、その声はほとんど自分のものとは思えなかった。かすれた、押し殺されたような声だった。
 「あんな風に君を傷つけさせたりはしない。いや、他の何ものにも手を出させはしない。君を護るためにわたしは帰ってきたのだから」
 彼女はため息をつき、疲れた子供のように微笑んだ。頭をクッションのなかにさらに沈めると、同時に彼女は目を閉じた。
 「そのままでいてちょうだい。何かとっても新しいことがわたしに起ころうとしている。安らかだわ。今までこんなに甘い、安らかな気持は感じたことがない。どこにも行かないで、エヴェラード。手を放さないでね、このまま」
 蝋燭は蝋燭立てのなかで燃えつき、風はいっそう猛々しく唸りをあげた。嵐の雲を割って朝日が差しはじめる頃、風はようやく収まった。いつの間にか青白い光りが部屋のなかに入ってきていた。女はまだ寝入っていたが、その指は相変わらず彼の指をしっかりとつかんでいるようだった。寝息は変わることなく微かで、規則正しかった。絹のような黒いまつげは白い頬の上でじっとしている。唇は――完璧な形の唇は――静かな線を描いて休らっていた。彼は、なぜか分からないが、この眠りのなかに新しいものが存在していることに気がついた。目はしょぼつき、手足は痛んだが、彼は座ったまま夜を過ごした。タペストリーで飾られた壁を小さな背景として、夢が次から次へと立ちあらわれては消えていった。彼女が目を開けて彼を見たとき、眠りについたときに見せた、あの同じ微笑みが彼女の唇をほころばせた。
 「とってもくつろいだ気分。気持ちがいいわ。わたし、夢を見たのよ。素敵な夢」
 火は消えていて、部屋は寒かった。
 「さあ、部屋に戻らないと」
 彼女はごくゆっくりと指を放し、腕を差しあげた。
 「抱いていって。まだ半分眠っているの。もう一回寝たいわ」
 彼は彼女を持ちあげた。彼女の指が首の回りにまといつき、彼女の頭は満足のため息とともに後ろにのけぞった。彼は折りたたみ戸を開けることができず、彼女を抱いていったん廊下に出てから、彼女の部屋に入った。そして乱れていないベッドの上に彼女を横たえた。
 「寝心地はいいかい?」
 「とっても」彼女は眠そうにささやいた。「キスして、エヴェラード」
 彼女の手は彼の顔を引き寄せた。彼は唇を額に押しつけた。それから毛布をかけてやると、逃げるように部屋を出た。

 第十三章

 シーマンの愛想のいい顔に陰りがあった。その日の朝、ミスタ・マンガンが出発したあと、オーバーコートに身をくるみ、主人と二人でテラスを散歩しているときのことだ。彼はいささか唐突に思っていることを相手にぶつけた。
 「さっそくわたしが訪ねてきた目的について話そう。君にとっては素晴らしいニュースだ。しかしその前に……」
 「決行のときが来たのか?」ドミニーは怪訝そうに訊いた。「しかし、君も知っての通り、わたしはここでまだ足場も固めちゃいないんだよ」
 シーマンは冷淡な口調で説明した。「その足場固めについて一言言っておく。ケープタウンで出会ってから、われわれはずいぶんお互いを見てきた。君はわたしがどんな情熱と目的を持って生きているか知っている。息抜きいうのは、身体がひからびてぼろぼろにならない限り、人間には必要なものだが、その息抜きにうち興じているわたしの姿も多少は見ている。だから分っていると思うが、仕事の必要を離れたときのわたしは実は感傷的な男なんだよ」
 「それは認めるよ」ドミニーはぼんやりと言った。
 「君は大事業に乗り出した。君が本部から指令を受け取ったちょうどそのときに、ドミニーというイギリス人が君のキャンプにやってきた。これはまさしく天の配剤だった。君が練りあげた計画はわれわれ全員の賛成を得た。君は君の最終的な目的を達成するために、実にユニークな立場に置かれることになる。さて、わたしの言うことをよく聞いて、誤解しないようにしてくれ。計画を進める上で肝心なのは情け容赦のなさだ。目的達成に一歩でも近づくことができるなら、ありとあらゆるためらいも慎みも踏みにじる価値がある。しかし目的にとって役に立たない行為は醜いだけだ。わたしは幻滅を感じる」
 「いったい何の話だ?」
 「わたしは寝ているあいだも片耳だけはそば立てているんだよ」
 「それで?」
 「今朝早く、君が部屋を出るのを見た。ドミニー夫人を抱えて」
 ドミニーの日焼けした顔にかすかな青みがさし、目がぎらりと金属のように光った。一度か二度、急いで呼吸を整えてようやく声を出すことができた。
 「それが君と何の関わりがあるのだろう?」
 シーマンは相手の腕をつかんだ。
 「いいかね、われわれは固く結ばれている。ブラフは通用しない。わたしは君が他人になりすますのを手伝うためにここにいる。財産、地位、人柄といった点に関して。ちなみに君は今、それらを順調に回復しつつある。さらに君がありきたりの色恋にふけることに、わたしは少しも干渉しない。だが、これだけははっきり言っておく。いくら美しいからといって、心を病んでいる夫人を騙したり、かりそめの夫の地位につけこんだりするのは、国家にとってよほど利益になるという場合を除いて、プロシアの貴族が取るべき行いでは断じてない」
 ドミニーの怒りは表面にあらわれることなく燃えつきてしまったようだった。彼は相手の言葉にほんのわずかの憤りさえ示さなかった。
 「心配しなくていい、シーマン。微妙な立場だが、わたしは名誉を重んじる人間としてふるまう」
 「それを聞いてほっとしたよ。今朝のことは、わたしを不安に陥れようとしてわざとやったのだな」
 「君の率直な忠告は尊重する。実は昨日の晩、ドミニー夫人が嵐を怖がって、わたしの部屋に入ってきたのだ。安心してくれ。わたしは立場をわきまえ、尊敬と同情を持って彼女に接した」
 「ドミニー夫人は奇妙な具合に予定を狂わせるかもしれない」シーマンは考えこむように言った。
 「どんなふうにかね?」
 「近所の人が共通して彼女に持っている印象があるね。彼女がただ一つのことに取り憑かれているということ、つまり君を憎んでいるということだ。彼女は君がこの家で再び一晩を過ごすことがあれば、君を殺すと誓いを立てた。君は大胆な男だから、当然、そんなことは無視した。しかし次の日の朝、寝間着に血がついていたそうじゃないか」
 ドミニーはゆっくり眉毛をつりあげた。
 「ずいぶん召使いたちに歓迎されているんだな」思わず嫌味を言った。
 「われわれのためにも、君のためにも必要なことだ」そっけない返事が返ってきた。「話をつづけると、正気を失った人というのは、一度思いこむと、実に執念深いものなのだよ。昨日の晩の彼女には少しも君を殺そうという様子がなかった。彼女の愛想のよすぎる態度はわれわれの計画をあやうくしかねない。分かるかね」
 「どういうふうに?」
 「君の正体が疑われたとする。いや、その可能性が日ごとなくなってきていることは認めるが、もしも疑われるようなことがあれば、ドミニー夫人があっさり敵意をなくしてしまったことは、君が、君の主張する人物とは違うという強力な推定証拠になるだろう」
 「なるほどね。その可能性は大いにある。しかし君のニュースとやらはそんなことじゃないだろう」
 「そうだ。よろしい、聞きたまえ。またとないチャンスが君に訪れたのだ」
 「聞かせてくれ」
 「説明しよう。この二、三日ではっきり悟っただろうが、君の背後には金を湯水のように使う組織がある。戦争においても外交においても、ドイツは目的を達成するためなら金に糸目をつけない。昨日は抵当の返済のために、九万ポンドが君の預金口座に振りこまれた。何ヶ月後か何年後か知らないが、遺産を受け継ぐドミニー家の遠い親戚がその恩恵に浴するわけだ。金は回収しない。そんなものは日常的な出費の一項目に過ぎないんだ」
 「わたしの立場を固めるためとはいえ、実に気前のいいやり方だ」とドミニーは認めた。
 「気前がいいのは、長い目で見れば、それがいちばん安全だからだよ。一文無しで帰国していたら、君に親切な手を差し伸べる人なんか、誰もいなかっただろう。今でこそ完全に消えてしまったが、へたをすれば君への疑いが生まれていたかもしれないのだ。さらに、そのどちらよりも深刻なのは、君が社交界に出られなくなることだ。社交界への進出はわれわれの計画を推し進める上で、絶対必要なことなのだ」
 「そろそろわたしが何をするべきか、もう少しはっきりさせる時じゃないか?」
 「今朝、その話をするつもりだったんだ、このニュースがなければね。しかし、話のついでに言えば、これだけは約束できる。君はそんじょそこらのスパイのような、あざとい仕事をさせられることはない。われわれは別の目的のために君を必要としている」
 「それでニュースというのは?」
 「君の念願が聞き入れられたんだよ。皇帝が君との会見を望んでおられる。じきじきに指示を下したいとのことだ」
 ドミニーはテラスの上で急に足を止めた。彼は相手と組んでいた腕をはずし、呆然と彼を見つめた。
 「皇帝が?わたしはドイツに行くのか?」
 「さっそく出発しよう。個人的には、こういうやり方は賢明だとも必要だとも思わない。しかしわたしに相談することなく決められてしまったのだ」
 「わたしに言わせれば、これは自殺行為だよ。よりによってドイツに行くだなんて、理由をどう説明するんだ?こっちに、まだ、腰も落ち着けちゃいないのに」
 「口実はなんとかなるさ。君の名義で株を買い取った鉱山は、ドイツの資本で運営されているものが多い。そのうちの一つが経営難に陥ったと言っても、誰も不思議には思わない。株主投票が必要な事態をでっちあげるよ。君は悩むことはない。それより、素晴らしいことじゃないか!一日とはいえ、追放の命令が解除されるんだ。もう一度、祖国の空気が吸えるんだぞ」
 「それは素晴らしいな」ドミニーは低く言った。
 「君には未来を予感させる息吹になるだろう。さあ、行動だ。わたしは行動するのが大好きなんだ!時刻表と運転手の用意をしたまえ」
 二人は朝のうちに車でノリッジに向かい、そこからハリッジに行くことになった。ドミニーは旅の服装に着替えてミセス・アンサンクを呼んだ。間もなく彼女が書斎にあらわれた。彼は椅子を差し出したが、彼女は座ろうとしなかった。
 「ミセス・アンサンク、どうして十年間も妻の付き添いで満足してきたのか、理由を教えてくれませんか」
 ミセス・アンサンクはこの唐突な質問に驚いた。
 しばらく間をおいて彼女は答えた。「ドミニー夫人がわたしを必要となさったからです」
 「あなたは自分が妻にとって最上の付き添いであると考えますか?」
 「他の人は誰も受け入れようとなさいませんでした」
 「妻に心をこめて尽くしていますか?」
 ミセス・アンサンクは見るからに頑固な、気性の激しい女だったが、明らかにドミニーの一連の質問に当惑させられているようだった。
 「そうでなければこんなに長くお屋敷にいるでしょうか」
 「わたしには妻があなたを必要とする理由が見いだせない。さらにあなたは、わたしのことを、息子を殺した犯人だと固く信じている人間の一人だ。妻に仕えているのは、キリスト教徒としての振る舞いですか。つまり悪に対して善をもって報いるということですか?」
 「いったい何がおっしゃりたいのです、サー・エヴェラード」彼女は荒々しく訊いた。
 「こういうことです。わたしは妻に健康を回復させてやるつもりです。そのために専門家をここに呼びます。そして何よりしばらく転地療養させようと思う。あなたがそばにいないほうがはるかに妻の回復に期待が持てる、わたしはそう思うのですよ」
 「まさかわたしを追い出そうというのですか?」
 「そうです。まだドミニー夫人には話していませんが、いずれ遠からず妻もわたしの意向に同意してくれるでしょう。あなたの経済的な将来は保証します。毎年三百ポンドの金を支給しましょう」
 女は初めて気弱な態度を示し、震えはじめた。その目に奇妙な怯えが浮かんだ。
 「ここを離れるわけにはいかないのです、サー・エヴェラード。ここにいなければならないのです!」
 「なぜです?」
 「ドミニー夫人はわたしなしではやっていけません」彼女はむっつりといった。
 「それは妻が決めることです。聞くところによると、あなたは妻に、息子さんの幽霊が出るという、くだらない噂を積極的に吹きこんでいる。それにわたしに対する理不尽な憎しみをあおり立ててきた」
 「理不尽ですって?」女は叫んだ。「あなたにそんなことが言えるのですか?両手を血に染めて帰ってきたくせに。あなたさえ邪魔しなければ奥様が愛していたはずの男の血に。それをよくも理不尽だなどと」
 「言うべきことは以上です、ミセス・アンサンク。大事な用があって、二、三日ここを離れなければなりません。帰り次第、今言った方向で改めていきます」女の顔の奇妙な変化を見つめながら彼は言い添えた。「そのあいだのことですが、今朝ハリソン先生に手紙を書きました。午後からこちらに来てもらい、わたしが戻るまでドミニー夫人を直接お世話いただくことになっています」
 彼女は相手を見ながらじっと立ちつくしていた。それから少しだけ近づくと、彼の顔を覗きこむように身を乗り出した。
 「十一年あれば人は変わるもの。でも弱虫が治ったというのは聞いたことがない」
 「これ以上話はありません。これからすぐ妻に会いに行きます」
 車の警笛が鳴りはじめるころ、ようやくドミニーは妻の部屋に入ることを許された。彼女は暖かい紅色のゆるやかなガウンをまとい、彼が来るのを今か今かと待っていたようだった。強い憎しみは白い顔からも、異様なほど穏やかな瞳の奥からも消えていた。彼女は彼に向かって手を差し伸べ、軽く眉をひそめた。子供のような失望が彼女の態度にうかがわれた。
 「お出かけになるの?」
 「すぐ出かけなければならないんだ。君に会うため一時間待ったよ」
 彼女は顔をしかめた。
 「ミセス・アンサンクのせいよ。わざとわたしの持ち物を隠したのだと思うわ。会いたくてたまらなかったのに」
 「ミセス・アンサンクのことで話がある。彼女に出ていってもらって、誰かもっと若い、親切な人に付き添ってもらうというのは嫌かい?」
 それは彼女には考えることもできないことのようだった。
 「ミセス・アンサンクは決して出ていかないわ。彼女はあの声を聞くためにここにいるのよ。一晩中耳をすませて待っていることもあるわ。声が聞こえると、ほっとするの」
 「君は?」
 「わたしは怖い。だってそんなに強くないもの」
 「ミセス・アンサンクは好きじゃないんだね」彼は心配そうに尋ねた。
 「ええ」困惑しながら彼女は答えた。「彼女は怖くてたまらない。でも、そんなことしても無駄よ、エヴェラード。絶対出ていこうとしないわ」
 「わたしが戻ってきたら分かるさ」
 彼女は相手の腕を取って、自分の両手を握り合わせた。
 「あなたが行ってしまうなんて、残念だわ。早く戻ってきてね。そうしてくれるでしょう――あなた?」
 ドミニーの爪が、握り締めた手の肉に食いこんだ。
 「三日以内に戻ってくる」彼は約束した。
 「あのね」彼女はこっそり秘密をささやくように言った。「最近、わたし、気持ちが変わったの。昨日そのことを話したけど、理由は教えなかったわね。もうわたしのことを怖がらないで。わたし、分かったのよ」
 「何が分かったんだい?」彼はかすれた声で尋ねた。
 彼女は声をひそめ、耳打ちするように言った。「わたし、わかったの。あなたの首に短剣を突きつけて、急に殺す気がなくなったあの瞬間に。あなたはときどきあの人そっくりだわ。でもあなたはエヴェラードじゃない。わたしの夫じゃないのよ。別人なのね」
 ドミニーははっと息をのんだ。二人は連れだってドアの方へ歩いた。ミセス・アンサンクがやせ細った、酷薄な顔を、勝ち誇ったように輝かせ、目をぎらぎらさせながら立っていた。彼女の唇はまるでひとりでに動くかのように、女主人の言葉をくり返していた。
 「別人!」

 第十四章

 二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。ドミニーはそれこそ極端に無口になった。過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなかで、シーマンは席から身を乗り出した。
 「里帰りだというのに憂鬱そうだな、フォン・ラガシュタイン」
 「ドイツには二度と帰らないとずっと思っていたからね」
 「いまも過去が忘れられないか」
 「忘れたことなんかないさ」
 列車はどこまでも続く葡萄の丘を走り抜け、平地に出たかと思うと、今度は松林に入った。そのなかほどの地点に開けた空間が広がっていて、窓を閉め切っていても、朽ち木が発する樹脂の匂いがコンパートメントに染み込んでくるようだった。やがて列車の速度が落ちた。シーマンは時計を見て立ちあがった。
 「支度をしたまえ。もうすぐ下車する」
 ドミニーは窓外を見た。
 「しかし、ここはどこなんだ?」
 「目的地から五分以内のところだ」
 「でも家一軒見えないじゃないか」ドミニーは意外そうに言った。
 「皇帝の専用列車が君を待っている。皇帝は今、幕僚たちと軍隊視察に回っていらっしゃる。われわれは光栄にもベルギー国境まで帰路を同伴することを許されたのだ」
 列車はもう停まっていた。髭を生やした制服の鉄道職員がコンパートメントのドアを開け、彼らは切り出したばかりの松材で、最近建てたらしい小さな駅の、狭いプラットフォームに降り立った。列車は彼らが降りるとすぐさま走り去った。彼らの旅は終わったのだ。
 シーマンと鉄道職員のあいだで短い会話が交わされるあいだ、ドミニーは興味深そうにあたりを見回した。駅の周りには、木立や灌木の陰に見え隠れしながら、兵士たちが隙なく非常線を張っていた。彼らは待避線に停まっている列車から、つい先ほど出てきたのだろう。その真ん中に一両だけ、黒地に金の派手な装飾を施し、中央にドイツ王家の紋章をあしらった特別優等客車があった。シーマンは会話がすむと、ドミニーの腕を取って、線路を越え、そちらの方へ彼を導いた。士官がデッキで彼らを迎え、ドミニーに堅苦しい礼をした。ドミニーはそれを面白そうに眺めた。
 「皇帝は今すぐあなたにお会いになります。どうぞこちらへ」
 彼らは列車に乗りこみ、贅沢なカーペット敷きの通路を進んだ。案内役が立ち止まり、小さな休憩室を指さした。そこには数人の男が椅子に腰掛けていた。
 「ヘア・シーマンのお友達がこちらにいらっしゃいます。皇帝陛下はしばらくあとであなたにお会いになります。フォン・ラガシュタイン男爵はこちらへ」
 ドミニーは貴賓車に連れて行かれた。案内役は入り口のところで待つように手で彼を押し止め、自分は数歩前進して、椅子に座っている人物の前で立ち止まり敬礼した。彼は地図の上に身をかがめていた。その地図は将軍の軍服を着た、いかめしい顔の男が広げたものだった。皇帝は足音を聞いて視線をあげ、将軍の耳に何事かをささやいた。将軍はカチリと軍靴のかかとを合わせ、引きさがった。皇帝はドミニーに進み出るよう手招きした。
 「フォン・ラガシュタイン男爵をお連れしました、陛下」若い士官が言った。
 ドミニーはさっと不動の姿勢を取り、ぎこちなく一礼した。皇帝はにっこりと笑った。
 「ドイツ軍人が軍服を脱いでもじもじしているというのも、面白い見物だな。伯爵、行ってよろしい。フォン・ラガシュタイン男爵、座りたまえ」
 「失礼いたします、陛下」ドミニーは威厳に満ちた主人の指さす椅子に腰をおろした。
 「万事遺漏なく進展しているようだな。楽にしたまえ。アフリカでは立派な働きをしてくれたと報告を受けている」
 「陛下のご意志を実現するために全力を尽くしました」
 「君の仕事ぶりがあまりに素晴らしかったので、顧問官が異口同音に進言してきたのだ、間もなくわれわれにとって重大な関心事となる計画に引き戻すように、とな。指令を受けて君はさっそく行動に移ったようだ。イギリスの男爵になりすますことに成功したと聞いているが?」
 「今までのところ順調に進んでいます」
 「アフリカでの仕事も大切だったが、今の任務はそれよりはるかに重要だ。これからしばらく腹蔵なく君と話がしたい。しかしその前にまず乾杯しようじゃないか」
 皇帝は脇にあるマホガニー製の小テーブルから首の長いモーゼルワインの瓶を取り出し、美しいグラスを二つ満たすと、一方を相手に渡し、他方を高く掲げた。
 「祖国のために!」と彼は言った。
 「祖国のために!」ドミニーは唱和した。
 二人は空のグラスを置いた。皇帝は羽織っていた灰色の軍用マントを後ろに押しやった。幾つもの勲章と飾りがあらわれた。皇帝の指はまだワイングラスの脚をもてあそんでいる。しばらく物思いにふけっているような様子だった。厳格で、どこか冷酷な口元は、固く引き締められ、額にはかすかにしわが寄っていた。座っていても背筋は伸び、安楽椅子のクッションに寄りかかることはない。目はややつりあがり、顔の表情がいっそう重々しさを増した。たっぷりと五分は完全な沈黙がつづいた。重大な用件をひとまず横に置いて、全神経をドミニーの計画に集中しているかのようだった。
 「フォン・ラガシュタイン」皇帝はようやく切り出した。「君を呼んだのは君のイギリス滞留について話があったからだ。任務の内容を、わたしから直接聞いてもらおうと思ったのだ」
 「光栄に存じます」
 「君はわがスパイ組織の制限、権威、義務から完全に切り離されていると考えてもらいたい。君に期待しているのは別のことだからだ。なりすます相手になりきってもらいたい。典型的なイギリスの地方郷紳として労働問題やアイルランド問題、国民兵役計画の進展、そしてそのうち連絡が行くだろうが、その他の社会運動について研究してもらいたいのだ。どうやらイギリスはわが国に疑いの目を向けはじめているようだが、論評や小説の形で、そうした疑惑をあおり立てている物書きたちのリストを作ってもらいたい。これはどれも君の本来の任務からすると周辺的なものに過ぎない。そのことはわれわれの畏友シーマンからすでに聞いているだろう。これはターニロフ王子と友情を結ぶためのもの、いや、できれば親交を深めるためのものだ」
 皇帝はいったん言葉を切って、再び窓の外に広がる風景に目を転じた。彼の目は明らかに夢想家の目ではない。しかしそのときは思い悩むような色に満ちていた。
 「大使はわたしをあたたかく歓迎してくれました」
 「ターニロフは平和の鳩だ。オリーブの小枝を口にくわえて運んでいく。わが政治家と顧問官なら、もっと断固とした資質の大使をロンドンに送っただろう。しかしわたしは不賛成だった。ターニロフは愚か者を騙すにはうってつけの男だ。なぜなら彼自身が愚か者だからだよ。自国よりも強大で、文化も進み、よりすぐれた指導者をいただく国家が日一日と忍び寄って来るというのに、海の守りも陸の守りも固めようとしない国にはぴったりの大使だ」
 「イギリスは海軍に全幅の信頼を置いているようです、陛下」ドミニーはためらいがちにそう言った。
 相手の目が光った。唇が嘲るように歪んだ。
 「たわけた連中だ!一旦この剣が鞘を離れ、カレーとブローニュ沿岸の町を押さえ、わが大砲がドーバー海峡を制したら、彼らの海軍など何になろう!島国が威張りくさっていた日々は終わったのだ。イギリスの傲慢な海上制覇が終わったのと同じくらい確実に」
 皇帝は自分のグラスとドミニーのグラスを再び満たした。
 「フォン・ラガシュタイン、数ヶ月後には、なぜターニロフの仲間になれと命令されたか、その理由が分かるだろう。今よりももう少しはっきり君は任務を理解する。その真の狙いは時期を待って明らかにされるだろう。君はどんな時でもシーマンを信じたまえ」
 ドミニーは一礼し、黙っていた。皇帝はまたもやひとしきり思い悩んだあと、こうつづけた。
 「フォン・ラガシュタイン、わたしが君に追放を宣告したのは、公正な処置だった。国民の風紀を正すことは、彼らのためにより強大な帝国を築くという誓いと同じく、わたしの神聖な役目だ。君は第一に、同盟国のもっとも有力な貴族の妻を誘惑し、第二に、そのあとの決闘で彼を殺してしまった」
 「あれは事故だったのです、陛下。王子を傷つける気はさらさらなかったのです」
 皇帝は顔をしかめた。彼は言い訳を一切嫌っていた。
 「逆の形で事故が起きればよかったのだ」と皇帝は鋭く言った。わたしはかけがえのない部下を失うべきだったのだ。しかし現実には君が生き延び、罰を受けた。それでも君のアフリカでの活躍はめざましく、落ち度もなかったという。わたしはこの一回だけ、君に名誉を回復するチャンスをやろうと思う。イギリスでの任務を見事にこなせば、今君が服している追放宣告を撤回しよう」
 「ありがたいお言葉です。報われる希望がなかったとしても、この任務はそれだけで全力を尽くすに値します」
 「よくぞ言った。わが帝国の息子たちは、すべからくその意気で未来を見つめなければならない。思うに彼らも、そしてとりわけ側近の者たちも、わたしに伝えられた神の言葉をそれなりに感じ取っているようだ。長年、わたしは国民のために平和の構築をめざしてきた。しかし天がわたしに示したもう一つの義務を果す時が近づいたのだ。忠誠なるドイツ人は必ずや、みな、わが剣を包む雷光にひれ伏し、それを振るう鉄の意志を共有するに違いない。さがってよいぞ、フォン・ラガシュタイン男爵。休憩室に供回りの者がいるから、そちらへ行たまえ。数分後に出発し、君らをベルギー国境に置いていくことになっている」
 ドミニーは立ちあがり、強ばった一礼をしたあと、カーペット敷きの通路を引きさがった。皇帝はすでに地図の上に身をかがめていた。休憩室のドアの前に立っていたシーマンは、彼をなかに招き入れ、随行員たちを紹介した。一人、片眼鏡をはめ、顔に傷痕のある、操り人形のように奇妙な動きをする若者が、不思議そうに彼をみつめた。
 「数年前にミュンヘンでお会いしましたね、男爵」
 「この国の方とは誰ともお会いしたことがございません」ドミニーはきっぱりと言った。「わたしは皇帝のご命令に従い、過去の記憶と思い出を一切頭のなかから消し去ったのです」
 若者の顔から疑わしげな表情が消えた。そばにいたシーマンはじっと眉をひそめていたのだが、彼を思いやるように頷いた。
 「たいした役者ですね、男爵。ドイツ語まで何となくイギリス人訛りになっていますよ。座って一緒にビールを飲みましょう。もうすぐ昼食が出ます。汽車を降りるまでもう皇帝の御前に呼び出されることはありません」
 ドミニーは慇懃に礼をして、他の人々に加わった。列車はすでに動き出していた。ドミニーは物思いにふけるように窓の外を眺めていた。謁見に呼び出されるのを待っていたシーマンは彼の腕を軽く叩いた。
 「気持ちは分かる。ベルリンから離れていくんだもの、辛いだろうね。でも忘れてはいけない、追放の宣告が取り消される日は遠くないのだ。君は罪の償いにつとめてきた。いいかい、わたしは君の友人や同輩と肩を並べるような人間じゃないが、でも彼らのなかに皇帝と同じ意見の人は一人もいない」
 黒地に白い縁取りをした制服の給仕が笑顔であらわれた。背の高いグラスにビールを注いで運んできたのだ。ドミニーの向かいに座っていた上級士官がグラスをあげて一礼した。
 「フォン・ラガシュタイン男爵に乾杯しよう。もっと早くお知り合いになれなかったことが残念です。近い将来、戦友として、偉業に取り組む同志として、ご帰還のお祝いができることをお祈りします!万歳!」

 第十五章

 ノーフォーク狩猟の会のいちばん新しい、いちばん人気のある会員、サー・エヴェラード・ドミニー男爵は、ドイツから戻って数ヶ月後のある午後、裏の小山の頂きから屋敷の菜園まで長々と続く森の一角に立っていた。彼の左手には適当な距離を置いて四人の狩猟隊のメンバーが並んでいた。彼の隣にはミドルトンがトネリコの杖をついて立っていて、勢子の近づいてくる音を聞いていた。反対側の隣にはダークグレーのスーツに山高帽という妙に場違いな格好のシーマンが立っていた。年老いた狩猟場管理人は、時が経つとともに心配事などすっかり吹き飛んだのか、低い声でいたって満足そうにおしゃべりをつづけた。
 「このあたりはドミニーの旦那様でないとだめなようですなあ」彼は空高く飛んでいたキジが頭上から落ちてくるのを見ながら言った。「先代の旦那様の時のことでした。あるとき、この場所をウェンダミア卿にお任せになったのです。卿はキジを撃たせたらイギリスじゃ指折りの名手でした。ですが、椋鳥の群れみたいに頭の上を飛んでいるっていうのに、午前中かかっても獲物は数羽、弾がかすって落ちたのだけだったんです」
 「飛び出して急に右よりに身体をひねるんだろう?」再び見事な腕前で鳥を撃ち落としたドミニーは言った。
 「その通りですよ、旦那様。しとめるこつを知っているのは、ドミニー家の方だけですな。あの外国の王子様とかいうお方は、鳥のこたあ随分知っていなさるそうだが、さすがにこのへんは任せられません」
 老人は数歩丘をあがって、高いところから森を抜ける勢子の進み具合を観察した。シーマンが振り返り、いかにも感に堪えないような口調で言った。
 「君は奇跡だよ。キジ狩りの腕までドミニーをまねたみたいだな」
 「覚えているだろう、ハンガリーじゃ、もっと高く飛んでいるのを撃ち落としていた」彼はこともなげに言った。
 「わたしは狩りはやらない」とシーマンは言った。「狩猟のことはさっぱり分からん。しかしこれだけは言える。生まれたときからこの土地に住み着いている老人が、君の射撃をうやまうように見て、銃の持ち方まで昔と変わっちゃいないと思っている」
 「鳥が身体をひねるなんて、土地の人の迷信にすぎないよ。森の端は土地が傾斜しているんだ。だから実際よりも左の方を飛んでいるように見えるだけなのさ」
 シーマンは森の側面をしばらくじっと見ていた。
 「公爵夫人が来る。公爵と同じでわたしを嫌っているようだ。お偉い貴婦人なものだから思ったことをずけずけとぶつけてくる。行く前に一言だけ注意しておこう。アイダーシュトルム王女が午後到着するよ」
 ドミニーは顔をしかめたが、管理人の叫びに応じてくるりと振り向くと、兎を撃ち殺した。
 彼は抗議するように言った。「君は王女の訪問について全部を話してくれたわけじゃなかったのだな」
 シーマンは一瞬考えこむような様子だった。
 「そうだね。全部は話してなかった。これから気をつけよう」
 彼は隣のハンターが獲物を待ちかまえているところへぶらぶらと歩いて行った。そこではミスタ・マンガンがドミニーとはおよそ正反対の射撃の腕を披露していた。数分後、公爵夫人がドミニーの側にやってきた。
 「ヘンリーに、もう見ちゃいられないって言ってやったわ。四十発撃って、兎を一匹怪我させただけなんですもの」
 「ヘンリーは熱心じゃありませんものね。でも少々手厳しすぎるんじゃありませんか。ついさっき大物の雄キジを持ってくるのを見ましたよ。鳥のことは気にしなくても大丈夫。いずれはみんな獲物となって屋敷に来るんですから」
 公爵夫人は革を接ぎ合わせた、ひどくあか抜けた服を着ていた。厚底の靴に脚絆を巻き、小さな帽子をかぶっていた。血色は非常によかったが、なにかむっとしているような感じだった。
 「ステファニーが今日来るんですってね」
 ドミニーは頷いた。彼はじりじりするくらい射程距離の外を飛んでいる一匹の鳩を見つめているらしかった。
 「数日こちらでお過ごしになる予定です。死ぬほど退屈すると思いますけどね」
 「どこで彼女とそんなに親しくなったの?」従姉妹が興味津々尋ねた。
 「初めてあったのは、カールトンホテルのレストラン。イギリスに着いて二、三日後のことです。わたしを別人と勘違いなさいましてね、ありきたりのお詫びを言って別れたんです。その日の晩、今度はカールトン・ハウス・テラスで会いました。ターニロフの友人だったんですよ。それからはしょっちゅう会いました。町にいたのはほんのわずかな期間だったけど」
 「そう」公爵夫人は考えこんだ。「それもまたあなたがあらかじめ用意していたみたいな、驚くべき話の一つね。いったいドイツの大使とどうやってあれほど親しくなったのかしら?」
 ドミニーは大らかに微笑んだ。
 「別にそれほど意外なことじゃないでしょう。鉱山事業の共同経営者ミスタ・シーマンが大使のところへ連れて行ってくれたんです。大使は政治家としても、狩猟家としても東アフリカにとても関心をお持ちなんです。われわれとの会話が面白かったのでしょう、ある程度親しくおつき合いするようになりました。わたしもそのことを誇りに思っています。王子に対してはこの上ない尊敬と親しみを感じていますよ」
 「わたしもよ。あの方は魅力的だと思うわ。ヘンリーは馬鹿か悪党か、どっちかだって言うけれど」
 「ヘンリーは偏見に目がくらんでいるんですよ」ドミニーはちょっといらいらした。「ドイツ人は悪魔としか宴を張らないと思っているんですから」
 「そんなに怒らないで」彼女は彼のコートの袖に軽く手を触れて懇願した。「わたしは王子を高く評価しているのよ。ドイツ人じゃ、あの人だけだわ、この人こそ紳士だとわたしが直感したのは。あら、何をにやにや笑っているの?」
 ドミニーは真剣な顔を彼女に向けた。「にやにやなんかしていませんよ」
 「笑っていたわ」
 「ちょっと変なことを考えただけです。あなたは油断も隙もありませんね、キャロライン」
 「わたしはめったに間違わないの。ステファニーの話に戻るけど」
 「何でしょう?」
 「彼女がカールトンのレストランであなたを誰と見間違えたか知っている?」
 「教えてください」彼ははぐらかすように答えた。
 「レオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵」キャロラインは無表情に言った。「フォン・ラガシュタインはハンガリーで彼女の愛人だったの。夫を決闘で殺してしまい、皇帝がかんかんになって、彼を東アフリカに追放してしまったのよ」
 ドミニーは狩猟ステッキを拾いあげ、銃をミドルトンに渡した。勢子が森を抜けて出てきた。
 「ああ、そう言えば思い出した。彼女はわたしのことをレオポルドと呼んでいた」
 「どうして彼女をここに呼ぶ必要があるのか、わたしにはどうしても分からない」相手はだだっ子のように言った。「また――レオポルドなんて呼ばれるかもしれないじゃない」
 「そうしたら、知らん振りしてやりますよ。でも真面目な話、彼女はターニロフ王女の従姉妹だし、二人はとっても親しい間柄なんです。王女は狩りが大嫌いだから、二人一緒にいたら退屈しないだろうと思ったんです」
 「とんでもないわ!ステファニーはあなたを独り占めしようとするわよ。それが狙いなんだから」
 「つまり、本気でわたしをそっくりさんの代用品にしようと思っているってことですか」ドミニーはわざとぎょっとして見せた。
 「あら、そうだとしても不思議はないわ!それにあの人はすこぶるつきの美人ですからね。わたしは不満ではち切れそうよ、エヴェラード。もう一人、嫌らしい小男もいるじゃない。シーマン。あなたも知っているでしょう、ヘンリーがあの人を見ただけで血相を変えること。彼と一緒に食事をするなんて、うちの主人、夢にも思ってなかったと思うわ」
 「それは本当に残念だなあ。でも大使はシーマンに大変興味を感じていらっしゃるんです。彼が幹事を務める友好促進同盟のせいでね。彼を招待してくれと、大使から特に希望があったんです」
 「でもヘンリーにとっては気詰まりな状況だわ。ロバーツ卿を別にすれば、ヘンリーは実質的に国民兵役運動の主導者ですからね。ドイツは大嫌いだし、ドイツ人を見ると誰彼かまわず不信感を抱くのよ。なのに、こんな小さなハウスパーティーで顔をつき合わせるのがドイツ大使と、ヘンリーが一生懸命もり立てている機運を必死になって眠らせようとしている男なんですもの」
 「それじゃどうしようもありませんね」ドミニーは笑った。「でもそんなヘンリーでもターニロフは好いていますよ。それに時には敵と相まみえるのもいい刺激になります」
 「もちろん主人はターニロフが好きよ。彼が憎んでいるのは、ターニロフが代表しているものなの。でもそんなことはみんな許してあげるわ、ステファニーさえ来なければ。あの女、本当に癇に障りだしたわ。いつもあなた方二人の感傷的な過去を、謎かけみたいにほのめかしたりして。それもあなたが追放された愛人に似ているっていう、それだけの理由で。カールトンホテルであの日顔をつき合わすまで会ったことなんてないのに!」
 「彼女のことはまったく知りませんでしたよ」
 「三ヶ月のうちに過去を作りあげてしまったとしたら、手の早さにかけては、あなた、ただ者じゃないわね」キャロラインは疑わしそうに言った。「よくものこのこ来られるものね。厚かましいにもほどがある。特にここは独身同然の男の家なんだから」
 彼らは次の狩猟場に着き、会話はひとまず中断された。マガモの一群が森の池から追い立てられ、しばらく誰もが忙しかった。ミドルトンは相変わらず感心しながら主人を見ていた。
 「高く飛びあがったカモを撃ち落とす腕は先代に引けを取りませんな、旦那様。キジのあとにカモが出てくると、弾がなかなか当たりません。信じられないくらいすばしこいですから」
 「アフリカに行く前もあんなに上手だったと思う?」キャロラインが訊いた。
 ミドルトンは帽子に手をやり、後ろに立っているシーマンを振り返った。
 「こちらの旦那様にも今朝早く申しあげたんですがね、あの頃よりうまくなっていますよ、公爵夫人。前より冷静で、銃の動きにぶれがありません。ですが、旦那様の射撃はどこに行ったって見分けられまさあ」
 シーマンの目に感嘆の光りがともった。勢子が森から出てきて、撃ち手たちは獲物が集められるあいだ、雑談に花を咲かせた。清々しい風と狩りの喜びがターニロフの顔からいつもの青白い色を吹き払い、彼は気さくで饒舌ですらあった。彼はザクセンに広大な地所を持っていて、公爵に自分の狩りのやり方を説明していた。ミドルトンは角枠の時計に目をやった。
 「まだあと一時間は充分陽がありますよ、旦那様。ウズラ狩りになさいますか、それとも林のなかをさらってみますか」
 「ひとつ提案なんですが」ターニロフが遠慮がちに言った。「ほとんどのキジがあの沼の向こうの陰鬱な森に逃げこんだんですよ」
 一瞬、奇妙な沈黙があった。ドミニーは振り向いて、問題の森のほうを見ていた。まるでその不気味な黒さと密度に見とれているようだった。ミドルトンは持っていた獲物を落とし、ぶつぶつと独り言をいった。
 ドミニーが落ち着いて答えた。「あれはブラック・ウッドと呼ばれているんです。あそこに逃げこんだキジは、ここは禁漁区だと主張しているんじゃないでしょうか。どう思う、ミドルトン?」
 老人はゆっくり頭をめぐらし、主人を見た。どういうわけか、彼の赤銅色の顔から、色という色がことごとくかき消されてしまったように見えた。目は地方の農民にありがちな、魑魅魍魎に対する漠然とした恐れに満たされていた。彼は震える声で言った。昔の恐怖がまた舞い戻ってきたのだ。
 「勢子たちをあそこに送りこみはしないでしょうね、旦那様」彼は口ごもった。「行きたいやつなどおりはしませんが」
 「この土地のタブーに触れてしまったのかな?」公爵が訊いた。
 「旦那様がお話になるでしょうが、このあたりだけの話じゃありません、公爵様。ノーフォークにブラック・ウッドを通り抜けようという勢子は一人もいませんよ。純金をやると言ったって駄目です。やあ、お前たち」
 彼は少し離れて指示を待っている勢子の方を振り向いた。勢子は十二人おり、ほとんどががっちりした体格をしていた。粗末なスモックにズボンという姿で、太い棍棒を手にしていた。
 ミドルトンは彼らに話しかけた。「こちらの紳士のお一人が、金貨を一人一枚出すから、ブラック・ウッドでかりたてをやるやつはいないかとおっしゃっている。――連中の顔をよく見てやってくださいよ、公爵様――どうだ、お前たち」
 誰の目にも明らかだった。提案は彼らの頬から健康な日焼けを奪ってしまった。彼らは居心地悪そうに棍棒をいじくり回した。そのうちの一人が帽子に手をやり、ドミニーに語りかけた。
 「わたしはあれを聞いただけじゃなくて、この目で見たんですよ。あそこに近づくくらいなら、農家をやめます」
 キャロラインが突然ドミニーの腕を取った。その声にはいたたまれない気持ちがこもっていた。
 「ヘンリーったら馬鹿ねえ!エヴェラード、わたしが悪かったわ。ごめんなさいね。うっかりしたの。すぐ彼の口を塞ぐべきだった。主人たら忘れっぽいのよ」
 ドミニーの腕は彼女の指の圧力に一瞬、反応した。それから彼は勢子の方を向いた。
 「誰もブラック・ウッドに行けなんて頼まないさ。ハントの刈り株畑の裏手に回ってくれ。キジを根本に誘いこんで、それから庭園の方に追い出すんだ。われわれは庭園の柵にそって立っている。それでどうだろう、ミドルトン?」
 管理人は帽子に手を触れ、きびきびと歩き出した。
 「わたしも一緒に行ってきます。フラーの曲がり角のところで、鳥どもは急に向きを変えますからな。側面から追い立てることができるかどうかやってみますよ。撃ち手の立ち位置はご存じでしょう、旦那様」
 ドミニーは頷いた。勢子は誰も彼も、いつにないほど急いで目的地に移動した。彼らはブラック・ウッドに背を向けていた。ターニロフが主人に近づいてきた。
 「ひょっとしてわたしがまずいことでも言ってしまったのかな?」
 ドミニーは首を横に振った。
 「お尋ねになって当然の質問をなさっただけですよ、王子。隠す理由もないのでお話しましょう。あの森の近くで悲劇が起きたのです。わたしがイギリスを何年も離れることになった悲劇が」
 「それは申し訳なかった――」
 ドミニーは王子を遮るように言った。「別にその話を避ける気はありません。わたしはあそこである晩、うらみを持つ男に襲われました。取っ組み合いの争いになり、わたしはいささか尋常じゃない格好で家に帰りました。わたしを見て妻はすっかり怯え、それ以来病気になってしまったのです。それはともかく、先ほどのような迷信が生まれ、わたしがずっと疑いの目で見られるようになったのは、わたしと争った男がそのときから行方不明になっているからなんですよ」
 ターニロフはあまりにも物語に惹きつけられ、同時に、主人の語り方に謎めいたものを感じたものだから、つい謝ることを忘れてしまった。
 「そのときから行方不明!」
 「争いがどう決着したのか、わたしははっきり覚えていないのです。襲ってきた男が気を失って地面に倒れたのをそのまま残してきたと思うのですが」
 「それではブラック・ウッドに出没するというのは彼の幽霊なのかね?」
 ドミニーは忌まわしい思いを振り払うように身体をぶるっと震わせた。
 彼は歩きながら、説明した。「王子、そもそもあの森は不快な場所なのです。中心部にさえ泥沼が幾つもあり、はまりこんだら、それまでです。ありとあらゆる害獣が跋扈し、藪のなかには汚らしい昆虫や鳥がいます。あの場所の性格が迷信を助長したのでしょう。今では誰もが固く信じています」
 「地元の人はあそこに幽霊がいると思いこんでいるんだね?」
 「それだけじゃありません。もう何年も人が入りこんだことのない森の奥には、超自然的な悪霊が住み着いていて、夜だけそこから出てきては、わたしの屋敷の窓辺で叫び声をあげるとまで言っています」
 「見た人はいるのかね?」
 「村の人が一人か二人。他にはいないはずです」
 ターニロフは質問をつづけようとしたが、公爵が彼の肘に触れて、彼を一方の側に引き寄せた。まるで沼地からわき起こる霧に注意を引こうとしているかのようだった。
 「王子、その話はドミニー夫人の狂乱とわかちがたく結びついているんですよ。お分かりいただけるでしょう」
 指の先まで外交家である王子は、はっとした様子だった。しかし唇のかすかな笑みは絶やさなかった。
 「自分の軽率を深く恥じます。サー・エヴェラード、アフリカで散弾銃狩りをしたときの話を聞かせてくれる約束でしたね。向こうにウズラのような鳥はいるんだろうか」
 ドミニーは笑った。
 「もう十分もすればミドルトンがウズラを追い立ててくるでしょうが、それが撃てるなら東アフリカのどんな鳥もしとめられますよ、おもちゃのパチンコでね。ヘンリー、もう少し左に立ったほうがいい。ターニロフは門のそば、スティルウェルは左の隅、マンガンがその次、それからエディの順だ。わたしは向こうの樫の木立のほうに立つよ。一緒に行きましょうか、キャロライン」
 歩き出すとき、従姉妹は彼の腕を取り、強く握った。
 「エヴェラード、お見事だったわ。あなたはちっとも取り乱さなかった。単純で、賢明な策だったわね、全部を打ち明けてしまうのは。ほとんど淡々と喋っていたじゃない。他人の話でもしているんじゃないかと思ったくらいよ」
 主人は謎めいた微笑みを浮かべた。
 「そんな印象をお持ちになったとは、不思議だな。実は喋りながらわたしも同じように思ったのです。ちょっとしゃがんでもらってもいいですか。合図の笛を鳴らしますから」

 第十六章

 偉観を誇るドミニー邸の食事室といえども、さすがにその晩は、マホガニー製の大テーブルをぎりぎりいっぱいまで広げなければならなかった。最近閣僚に指名されたジェラルド・ワトソン判事を含む泊まりがけの客のほかに、近隣から州統監や名士たちを数名招待していたのだ。キャロラインは州統監とターニロフに挟まれ、女主人の役をそつなくこなしていたが、身を入れてそうしていたわけではない。彼女の目がテーブルの反対側から長くそらされることはあまりなかった。そこにはステファニーがドミニーの左手に座っていたのである。金髪を美しく結いあげ、豪華な宝石を身につけ、ものうく優雅に振る舞うさまは、ドゥ・ラ・ペ通りの宝飾品を身にまとった近代ハンガリーの王女というより、昔のベニスの宮廷の麗人のように見えた。会話は主に地元の話題をめぐり、当日の狩りのこととか、それに類した事柄が中心になった。公爵が得意の話題をまくし立てることができたのは、ようやく食事も終わりに近づいた頃だった。
 「エヴェラード」彼は主人に向かって少しだけ声を張りあげた。「君はここの借地人に国民兵役の理念を教えこんでいるんだろうね」
 ドミニーはやや曖昧に返事をした。
 「このあたりではあまり快く受け入れられないでしょうね。農村の人々はなかなか頑固なものだから」
 「連中の考え方を変えてやるのは地主としての責務だよ」彼は鼻眼鏡越しに好戦的な視線をシーマンに向けた。彼はテーブルの反対側に座っていた。「いいかね、遠からずドイツと戦争になり、自分たちが何も準備していないことに気づいてあっと驚くのは間違いないんだ」
 彼の隣に座っていた州統監の妻、マデレー夫人はいささか驚いたようだった。恐らく彼女は、その場でただ一人、公爵の奇癖を知らない人間だったのだろう。
 「本気でそう考えていらっしゃるの?ドイツ人はとても文明的ですわ。平和を愛し、家庭とかを大切にしていると思いますけど」
 公爵はうめいた。彼はテーブルの向こうに目を走らせ、ターニロフ王子には聞こえてないことを確認した。
 「マデレー夫人、ドイツはイギリスのように統治されていないのです。戦争になったらそんなものは、あの国の人間にとってどうでもいいんですよ。そりゃ、あなたみたいにびっくりする人も大勢いるでしょう。でも戦争を仕掛けてくるのに変わりはない」
 それまで必死に自分を押さえ、黙っていたシーマンが公爵の挑戦を受けて立った。
 彼はテーブルの向こうから一礼した。「失礼ながら、奥様、公爵が危惧なさるドイツとの戦争は決して起こらないと断言できます。根拠のないことを言っているのではありません。わたしはイギリスに帰化しましたが、生まれはドイツだからです。ロンドンにもベルリンにも同じくらい親友がいます。最近、アフリカに行っていて、そこでこちらのご主人と知り合いになったのですが、それ以外の時はほとんど二つの首都のあいだを行ったり来たりしていました。また独英両市民の友好を促進する会の幹事もやっております」
 「くだらん!ドイツ人は友好など望んではおらん。望んでいるとわれわれに信じこませようとしているだけだ」
 シーマンはちょっと困った顔をした。しかし彼は一歩も譲らなかった。
 「公爵とわたしはこの件に関して昔から敵同士なんですよ」
 「その通り。君は正直な男かもしれないが、シーマン、この件に関しては無知蒙昧の輩だ」
 「たぶん二人ともそれぞれに正しいんでしょうね」とドミニーが口を挟んだ。いかにも育ちのいい主人が、大きく意見の食い違う二人を調停するため、いつものように割って入ったという感じだった。「ドイツに参戦派と非参戦派がいることは論を待たないでしょう。経済成長を第一に考える政治家もいれば、ひたすら征服をめざして軍事的野望に燃える連中もいますよ。わが国ではその両者のバランスを取るのがとても難しい」
 シーマンは感謝の笑みを主人に送った。
 彼はもったいぶるように言った。「ドイツの高官のなかにも友人がいますが、彼らはイギリスでやっているわたしの活動をいつも応援してくれます。皇帝ご自身も、イギリスに友好の機運を高めるわたしの努力を祝福してくださいました。失礼ですが、公爵、あなたがわたしの国に対していつもまき散らしている無分別で根も葉もないご主張、それこそがいっそうの相互理解を妨げているものなのです」
 「わたしにはわたしの見解がある。それはもう確信となっている。これからもずっと弁舌の限りを尽くしてそのことを話すつもりだ」公爵は噛みつくように言った。
 この会話の一部は大使にも聞こえていた。彼は座ったまま身体を少し前に乗り出した。
 「まず個人的見解を申しあげましょう。われわれ両国が戦争をするのはまさしく民族的自殺行為です。筆舌に尽くしがたい、おぞましい犯罪である、これがわたしが熟慮の末にたどり着いた意見です。次にこちらでわたしが代表している国家の立場から、大使の資格において、こうつけ加えましょう。わたしがここに来たのは、平和を築くという、偽りのない、純粋な使命を果すためです。ここでのわたしの仕事は、平和を守り、平和を確かなものにすることです」
 キャロラインは夫に警告するようなまなざしを向けた。
 「腹蔵なくおっしゃっていただいてありがとうございます、王子。公爵は趣味が嵩じて、私的な晩餐の席が演壇とは違うことをときどき忘れてしまうんですよ。もっと本当に面白いことについて議論しましょうよ」
 「これより重要な問題なんかありはせんぞ」公爵はそう断言したが、あきらめて黙ってしまった。
 大使が提案した。「ご主人のキジ撃ちの腕前について話しましょうよ」
 シーマンは右隣の女性に言った。「よろしければ、みなさんイギリスの女性が、ドイツの主婦よりもずっと自由に振る舞っていらっしゃる理由など、教えていただけませんか」
 ステファニーが微かに震える声で主人にささやいた。「あとであなたをびっくりさせるものを渡すわ」
 ドミニーの客は晩餐のあと、いつの間にかそれぞれ自分が好む気晴らしへと移っていった。ブリッジのテーブルが二つ出され、ターニロフと閣僚はビリヤードに興じた。シーマンは居間の古いグランドピアノにむかい、誰もが唖然とする指の運びで黄色い鍵盤から風変わりな曲を奏でて見せた。ステファニーと主人はゆっくりと広間と絵画陳列室を抜けていった。しばらくはドミニーが同伴者の注意をあれこれの絵に向けさせ、それをめぐって話が交わされていた。しかし他の客に聞かれるおそれのないところへ来ると、ステファニーの指は相手の腕を強く握り締めた。
 「二人きりでお話したいわ。誰にも立ち聞きされずに」
 ドミニーはためらうように後ろを振り返った。
 「お客さんは遊びに夢中よ。それにわたしも客の一人なんですからね。ちゃんとお相手していただかなければ」彼女は少しいらいらして言った。
 ドミニーは書斎のドアを開け、電灯を二つつけた。彼女は薪が燃える暖炉のほうへ進み、室内の暗い陰に視線を走らせた。そして再び主人の顔を見つめた。
 「一回、灯りを全部つけてちょうだい。他に誰もいないことを確かめたいの」
 ドミニーは命令に従った。本でいっぱいの棚が並ぶいちばん奥の角が照らし出された。彼女は頷いた。
 「この灯り以外は全部消していいわ。安楽椅子を持ってきてちょうだい。いいえ、この長椅子にする。横にお座りなさいな」
 「真面目な話ですか?」彼は不安そうに尋ねた。
 「真面目だけれど、素晴らしい話よ。聞いてくれる、レオポルド?」彼女は目をあげた。
 彼女は長椅子の端で身体を半ば丸めるようにし、長い指で軽く頭を支え、茶色い目で相手をじっと見つめた。真剣だが優しい気持ちがにじみ出していた。ドミニーの顔は彼女の目の訴えを見て、さらに強ばったように思えた。
 「レオポルド、わたしは数週間前にイギリスを離れたの。獣みたいなあなたに二度と会わない決心をして。出ていく前に、あなたの化けの皮をひんむいてやろうかとさえ思ったわ。ペテン師の食わせ者だって。ドイツなんてわたしには意味がない。人間的な義務を考慮しない愛国主義にどうして共鳴できるものですか。故郷に帰って、ロンドンには戻らないつもりだった。わたしの心は傷つき、とても惨めだった」
 彼女は言葉を切ったが、相手は何の反応も示さなかった。しかし彼女がいつまでも黙ったままなので、何か言わざるを得なくなった。
 「王女、あなたはここにいない人間に向かって話しかけているのですよ。わたしの名前はもうレオポルドではないのです」
 彼女は優しさと苦々しさとが奇妙に入りまじった声で笑った。
 「心配だわ。新しい人間になって、名前だけじゃなく、人間らしさまでなくしてしまったんじゃないかしら。話をつづけますけど、都合があってわたしはベルリンに何日か滞在し、そのためポツダムの王宮に出向かなければならない羽目になったの。そこで驚くようなことを聞いたわ。ウィルヘルムがあなたのことを話してくれたの。心の傷はまだ癒されていないけど、でも彼はわたしに理解させてくれた」
 「こんな話をするのはまずいんじゃありませんか?」彼はうろたえたように言った。
 彼女はその言葉を無視した。
 「わたしはもう一度好意的に王宮に迎え入れられました。そのことはあなたに感謝します。ウィルヘルムは先頃あなたの訪問を受けてとても感心していたのよ。それとこっちの人間になりすました手口に。アフリカでの仕事も口を極めて賞めていた。追放者として送りこまれただけに、なおさら評価しているようね。皇帝はわたしにこうお尋ねになったわ、レオポルド」彼女は声を落とした。「あなたに対するわたしの気持ちは変わっていないのかと」
 ドミニーの顔は相変わらず強ばっていた。彼はあくまで彼女と目を合わせようとしなかった。
 「わたしは本当のことを言いました。どんなふうにすべてがはじまったのか。そしてわたしたちの関係はわたしが死ぬまで続かなければならないことも。決闘の話もしました。介添人が説明してくれたことを話したわ。手首が返り、コンラッドがものすごい勢いで突っこみ、文字通りあなたの剣先に飛びこんでいったこと。ウィルヘルムは理解し、許してくれた。そしてあなた宛にこの手紙を書いてくれたの」
 彼女はポケットから小さな灰色の封筒を取り出した。封印にはホーエンツォレルン王家の紋章が押されていた。彼女はそれを手渡した。
 「レオポルド、読んでみて」
 彼は気乗りのしない指で手紙を受け取ったものの、頭を横に振った。
 「宛名をご覧なさい」
 彼は言われたように見た。のたくるような、奇妙な筆跡で、「サー・エヴェラード男爵へ」とあった。彼は不承不承に封を切り、手紙を取り出した。たった二週間前の日付になっていた。前置きも結びもなく、ただ厚い便せんに二つの文が記されていた。

 貴殿がアイダーシュトルム家ステファニー王女に結婚を申し出ることは、予が望むところである。二人の婚礼には教会からは祝福が、王宮からは承認が与えられるだろう。
             ウィルヘルム

 ドミニーは口がきけなくなったように座っていた。彼女は彼を見ていた。
 「これでもまだ抵抗する気?」どことなくうらみがましい、皮肉のこもった質問だった。「レオポルド、まさかわたしを愛していないというんじゃないでしょうね。あなたはいろいろな面でとても変わってしまった。もう愛情はなくなったの?」
 彼の声は自分の耳にすらがさついて不自然に聞こえた。その言葉には道化者の品のない残忍さがみなぎっていた。
 「現実的に無理だということです。考えても見てください!わたしはここの人にそう呼ばれている人間、この先何ヶ月もその振りをしなければならない人間、エドワード・ドミニー、この家の主人、ドミニー夫人の夫なのですよ」
 「あなたの評判の奥様はどこにいるの?」ステファニーは顔をしかめて訊いた。
 「ここ数ヶ月、療養所にいます。もう回復したも同然です。退院するまでそれほど長くはかからないでしょう」
 「退院させないよう求めるべきだわ」
 「そんなことをしたら、どんな疑いを招くか考えてみてください」ドミニーは強く訴えた。「それに他の人はみんなわたしを妻帯者だと思っている。どうして皇帝の命令をいいことにあなたと結婚などできるんです?」
 彼女は不思議そうに彼を見た。
 「命令に従わないというの?あなたがなりすました冷たいイギリス人のようにそこに座っている気なの?わたしの手に涙をこぼしたというのに。その唇で――」
 「あなたが話しているのは死んだ人間のことです」ドミニーが相手を遮った。「彼はこの大計画が成功して生き返るまでこの世にいないのです。そのときまであなたの愛人は沈黙を守らねばならないのです」
 彼女は怒りを爆発させた。支離滅裂なことを荒々しく口走り、彼の顔を自分の顔に引き寄せた。次の瞬間、彼に打ちかかろうとするかのように拳を握り締めた。彼女はわっとばかりに泣き崩れた。
 「そんなに――そんなにつらくあたることはないでしょう、レオポルド。ああ!あなたの任務は大切だわ。最後までやり通さなければならない。でも皇帝は許可してくれたのよ。何か方法があるはずだわ。秘密裏に結婚することができるはず。そうでなくても、せめて口づけ、抱擁くらいは!わたしの心はあなたの愛に飢えているのよ、レオポルド」
 彼は立ちあがった。彼女の腕が首にしがみついたままだった。その唇は激しく接吻を求め、目の光りは彼の目に食い入った。
 「許してください、ステファニー。そのときが来るまで、たった一度のキスでも名誉を汚すことになるのです。その日まで待ってください。あなたもよくご存じのその日まで」
 彼女は腕をほどき、小さく身震いした。傷ついた目はいぶかしそうに彼を見た。
 「レオポルド、何があなたをこんなふうに変えてしまったの?何が情熱を干上がらせてしまったの?あなたは別人みたい。顔をよく見せてちょうだい」
 彼女は相手の肩に手をかけ、電灯の下へ引っぱっていき、顔を覗きこんだ。暖炉の薪が音を立ててはぜた。閉ざされたドアの外からは、話し声と笑い声がかすかな波音のように聞こえてきた。彼女の呼吸は乱れ、目は相手の顔から仮面を引き剥がそうとしていた。
 「他の人に心移りしたのかしら。アフリカに女はいなかった。噂の奥さん、ロザモンド・ドミニーは美しくて、あなたはとても大切しているそうね。あなたが戻ってから健康も回復して、あなたのことを慕っているとか。まさか――」
 「それは違います。そんなことはしません」
 「じゃ、何を見ているの?言ってご覧なさい」
 彼女の目は部屋を出ていった影のごとき存在を追った。彼は再びほっそりした、少女にも似た姿を見たのだった。訴えるような黒い瞳には愛情を求める光りが宿り、唇は震えている。怯えた子供が彼に向かい、強い男に向かい、保護を求めて甘く訴えている。彼は柔らかい指が手にからみつくのを感じ、長い歳月によって無慈悲に押さえつけられていた感情が奇跡のように蘇る甘い陶酔感を味わった。そばにいる女の情熱が急に安っぽい、わざとらしいものに思え、彼を求める彼女の唇が何かおぞましいものに見えた。ドアに背を向けていた彼は、女の口から怒りのこもった失望の叫びが発せられるのを聞き、ようやく歓迎すべき侵入者のあったことを知った。振り返ると入り口にシーマンが立っていた。まさに天の助けだった。
 「邪魔してまことに申し訳ない、サー・エヴェラード」丸い、にこやかな顔は本当にすまなそうにしていた。「急いでお知らせすべきだと思ってね。ちょっとよろしいですか」
 王女は一言も挨拶せず、後ろを振り返ることもなく、彼らのわきを通り過ぎた。侮辱された女王のような物腰だった。恭しく道を譲ったシーマンの顔にひときわ深い心配の色が浮かんだ。
 「何があったんだい?」ドミニーが訊いた。
 「ドミニー夫人が戻ってきたんだ」彼は落ち着いて答えた。

 第十七章

 これほどいたましいものは見たことがないとドミニーは思った。それは広間の片隅、暖炉の前に立つ女が奇妙に疲れた眼から彼に注ぐ、半ば希望にあふれ半ば不安にさいなまれた真剣なまなざしだった。彼女の横には快活で人なつっこそうな制服姿の看護婦がいた。さらにその後ろには宝石箱を抱えた小間使いがいた。黒いベールをかきあげたロザモンドは片足を炉格子にかけて立っていた。ドミニーが腕を伸ばして急ぎ足に近づいてくると、彼女は表情をがらりと変えた。
 「よく帰ってきたね。うれしいよ」
 「うれしい?」彼女は喜びのあまり声がつまった。「本気で言っているの?」
 気持ちを制している様子は微塵も見せず、彼は自分に差し向けられた唇に触れた。世話を任された見知らぬ子供にでもするような、優しく、敬意に満ちたキスだった。
 「もちろん本気だとも」彼は朗らかに答えた。「しかし連絡もなしに帰ってくるなんて、どうしたんだい?何があったんだい、看護婦さん?」
 「奥様は二晩ほどお眠りになっていないのです。お身体の具合がとてもよろしかったので、かえって病気がぶり返さないかと、わたしたちは心配しました。ですが婦長のクールソンが、奥様のお望み通り、おうちに帰ったほうがいいとだろう判断したのです。ご主人様に電報をさしあげればよかったのですが、残念なことにハリソン先生に出してしまいまして。先生はお出かけ中のようですね」
 ロザモンドはドミニーの腕にしがみつきながら訊いた。「まずかったかしら?わたし、急に戻らなければならないような気がしたの。もう一度あなたに会いたくなったのよ。ファルマスではみんな優しく親切にしてくれたわ。とくにこちらのアリス看護婦は。でもやっぱりうちとは違うもの。あなたは怒ってないでしょう?ここに泊まっている人は気にしないわよね?」
 「もちろんだよ」彼は上機嫌で請け合った。「彼らは君のお客さんだよ。明日は全員と友達になってもらわないと」
 「とってもきれいな人がいたわ」彼女はおどおどと言った。「金髪の方で、ついさっきすれ違ったの。すごく怒っていたみたい。わたしが帰ってきたからじゃないでしょうね」
 「そんなことあるものか。君にはここにいる権利がある。他の誰よりも当然の権利が」
 彼女は長々と満足のため息をついた。
 「ああ、素敵だわ!あなた――エヴェラードって呼んでもいいのよね?――あなたも元気そうね。わたしが願っていたとおりだわ。二階に連れて行ってくれる?看護婦さん、ついていらして」
 彼女は彼の腕に体重をかけて寄りかかり、途中でわざとぐずぐずしさえした。しかし自分の部屋に近づくと、足取りは軽くなった。とうとう廊下にたどり着いたとき、彼女は腕を放して、子供のようにはしゃぎながら部屋のドアに向かって駆けだした。ドアを開け放ったとき、失望の声がもれた。数人の女中たちがなかなか火のつかない薪を相手に悪戦苦闘したり、家具の覆いを取り払っていたのだ。もうもうと煙のこもるその部屋は使えるような状態ではなかった。
 「まあ、がっかりだわ。エヴェラード、どうしましょう?」
 彼は自分の部屋のドアを開けた。暖炉の火はあかあかと燃え、部屋は暖かく、心地よかった。彼女は小さく喜びの声をあげると、暖炉の前の敷物の端に置かれた大きなソファに飛びこんだ。
 「あなたがお休みになるときまでここにいてもいいでしょう、エヴェラード?戻ってきたら、ここに座ってお話してちょうだいね、誰がきているのか、どんな人たちなのか。わたしがどんなによくなったか分からないでしょうね。昔弾いていた音楽をみんな思い出したのよ。ブリッジの腕前も今まで以上にあがったって言われたわ。おもてなしのお手伝いなら喜んでするわよ」
 女中が女主人のブーツの紐をゆっくりと解いていた。ロザモンドは足を持ちあげ、彼に触れさせた。
 「冷たいでしょう。こすって暖めて。夕食はここで看護婦と取るわ。女中さん、誰か一人下に行って用意をさせてちょうだい。ずいぶん新しいものを買い入れたのね、エヴェラード!」彼女は部屋のなかを見回した。「あら、わたしの絵がテーブルの上に!客間に置いてあったのに」彼女の目が急に嬉しそうに光った。「あなたったら!どうしてあれを持ってきたの?」
 「ここに置きたかったんだよ」
 「わたし、もうあの絵みたいにきれいじゃないわ」彼女は切なそうにため息をもらした。
 「そんなことはないさ。君は少しも変わってない。二、三ヶ月したらもっときれいになる」
 彼女はほとんどはにかんだような、いたいけな視線を彼に送った。しかしそこには毅然とした光もあった。
 「あなたのご希望通りになってあげる。あなたにはわたしを好きなように変える力があると思うわ。どうか優しくしてちょうだい」彼女は両腕を彼のほうに伸ばした。「病気が長かったせいだと思うけど、自分がすごく頼りなく感じられるの。わたし、あなたのたくましさが好き。あなたに守ってもらいたい。あなたの手もずいぶん冷たいのね」彼女は不安そうに言い足した。「それに顔色も悪いわ。病気じゃないでしょうね、エヴェラード?」
 「何ともないよ」彼は声に動揺をあらわすまいと必死だった。「ゆっくり話せなくてわるいんだが、お客さんが来ているからね。ちょっと大事なお客さんなんだ。あしたはみんなと挨拶しなければならないよ」
 「そしてあなたのお手伝いをするのね」
 「そう、手伝ってほしい」
 ドミニーは部屋を抜け出し、よろめくように廊下を歩いた。いちばん上の大きな四角い踊り場まで来ると、彼は立ち止まって、軽く目を閉じ、数秒のあいだ立ちつくしていた。下からは楽しそうな甲高い声や、遠くで鳴っているピアノの音や、ビリヤードの玉のぶつかる音が聞こえた。彼は気持ちが落ち着くのを待った。階段を降りようとしたとき、シーマンがあがってくるのが見えた。相手の押しとどめるような仕草に、彼はシーマンがあがってくるのを待った。それから相手の腕を取り、陰になった角の大きな長椅子に導いた。シーマンにはいつもの陽気さがなかった。唇に人当たりのいい微笑みは漂っていなかった。
 「ドミニー夫人はどこにいる?」
 「わたしの部屋だよ。彼女の部屋の用意ができるのを待っている」
 シーマンの態度はいつになく重々しかった。
 「よく分っているだろうが、わたしは君と重要な任務についているにもかかわらず、じつにいい加減な人間だ。おまけに、なんと、悪い癖が一つある。任務を離れているときのわたしは――女に目がないのさ」
 「それで?」
 「君の立場は確かに微妙で厄介なものだ。ドミニー夫人は君を愛しているらしい。二人のあいだにはいろいろな問題があったが、にもかかわらず、ドミニー夫人は間違いなく夫に対する愛を失っていない。君を怒らせるつもりはないが、しかし彼女の気持ちを助長させることは厳に慎んでくれたまえ」
 ドミニーの目が光った。ほんの一瞬、怒りの言葉が唇の上に震えたように見えた。しかしシーマンの態度にはひどく思いやりがこもっていて、少しも不快感を与えなかった。
 「他の女なら、君が今の立場を利用して何をしようと、わたしは肩をすくめて傍観している。しかしたわけ者のイギリス人が妻にした女性、いや、未亡人は、心を病んでいる。いまだに精神に異常をきたしている。きみに深い思いを抱いているのと同時にね。さっき君と廊下を歩いているのを見た。彼女は冷たい雨が長くつづいたあと太陽を求める花のように君に愛を求めている。フォン・ラガシュタイン、君は名誉を尊ぶ男だ。難しいかもしれないが、この場はなんとかうまく切り抜けてくれ」
 ドミニーは心を乱す最初の波からすでに回復していた。相手の言葉に少しも腹を立てていなかった。それどころか今まで以上に思いやりをこめて相手を見ている自分に気がついた。
 「君はわたしが板挟みになっていることを理解してくれているんだね。たしかに悩ましいことこの上ない。もう一つ、板挟みになっていることがあるんだ。アイダーシュトルム王女が皇帝から署名入りの手紙を持ってきた。彼女との結婚を命令する手紙だ」
 シーマンは苦り切った顔で言った。「深刻な側面を無視して、上っ面だけ見れば、こいつはパレロアイヤルの笑劇にうってつけの状況だな。しかしひとまず君は下に行かなければならんね。わたしは言いたくてうずうずしていたことを言ってしまったし」
 彼らはちょうどよいときに下に降りた。近隣から招いた客が帰宅の準備をしていたのだ。ドミニーは別れの挨拶に間に合った。彼らは口をそろえて、ドミニー夫人によろしく伝えてほしいと言った。またすぐ夫人を訪ねてまいります、健康を回復してお戻りになったと聞き喜んでおります。最後の車が行ってしまったとき、キャロラインが主人の腕を取って、奥の間へ引きこみ、大きな薪が燃える暖炉わきの椅子に座らせた。
 「エヴェラード、あなたって本当にひどい人」
 「どうしてですか?」
 「わたしたち女性を深く愛してくれるのは嬉しいんだけど、みんなを相手にするっていうのは行き過ぎじゃないかしら。あなたがイギリスに戻ってきて、起るはずのないことが起きたわ。つまり、奥さんが正気に戻ったってこと。気性の激しいハンガリーの王女様は、あなたを追いかけてここまで来たというのに、今さっき、あなたが奥さんを迎えにしばらくそばを離れたものだから、すっかりおかんむりの体で部屋に入ってしまった。それからわたしとの悲しいささやかなアバンチュール。ああ、わたし、袖にされ、捨てられちゃったのね!エヴェラード、あなたって本当に悪い人」
 「ひどい言われようだなあ。でも波瀾万丈の夜のあと、こうしていられるのはほっとしますね。ゼウスみたいに稲妻を投げつけてこない人が話し相手なんだから。ウイスキー・ソーダを飲んでもかまいませんか?」
 「わたしにも一杯お願い。飲んだら、予定と違って、話の調子が全然狂っちゃうかもしれないけど、喉が渇いたわ。それからトルコ煙草もひとつかみ。何も気にせず、わたしのお相手をしてくれたらいいのよ。あなたのいちばん大切なお客さまは、大好きな仕事を見つけたようよ。ビリヤードルームの隅でヘンリーをつかまえて、あの人の信念を彼に植えつけようとしているわ。ドイツはイギリスに対してごく平和的な意図しか抱いていない、ですって。判事様はお休みになり、エディ・ペラムはミスタ・マンガンとビリヤード。みんな楽しくやっているわ。あなたはわたしの傷ついた虚栄心をなぐさめることに専念してくれたらいいの。もちろん失恋に痛む胸も忘れないで」
 「いつもからかうんですからねえ」
 「いつもじゃないわ」彼女はふと目をあげ、静かに言った。「あの恐ろしい悲劇が起こる前、あなたが最後にダンラッターに泊まっていたとき、あのときはからかったりしなかった」
 「あのときのあなたは、今と違って、優しさそのものでした」
 彼女は思い出にふけるようにため息をついた。
 「素晴らしい一ヶ月だったわ。あのとき、初めてあなたのなかに、今のあなたになる可能性を見たんだと思う」
 「つまりわたしは変わったということですか?」
 彼女は相手をじっと見つめた。
 「ときどき信じられなくなる、あなたが同じ人だなんて」
 彼は顔を背けてウイスキー・ソーダに手を伸ばした。
 「好奇心から訊くんですけど、その理由は何ですか?」
 「まず第一に、言葉遣いが堅苦しくなった。昔はくだけた言い方もときどきしていたけど」
 「他には?」
 「昔は語末のgをはしょっていたわ」
 「あきれた癖ですね。アフリカの奥地で朗読の練習をして直したんですよ。それから何があります?」
 「動作がしゃちほこばっている。ときどき軍服を着ていないことに気づいてびっくりしているみたい」
 「それはみんな些細なことですね。大きな変化はありますか?」
 「大きな変化はとてもいい変化よ。以前はウイスキー・ソーダを四六時中あおって、晩餐の時はワインをがぶ飲みしていたわ。今はほとんど飲まないのね。如才なく主人役をこなすのに」
 「ご婦人方がいないときに、どれだけポートワインを飲んでいるか見せたいですね。他にもいい変化がありますか?」
 「あなたのいいところがみんな表に出てきたみたい。帰国して過去を清算しようとしているのは立派というしかないわ。ねえ、あの男の死体が発見されたら、あなたは殺人で起訴されるの?」
 彼は頭を振った。「そうはならないでしょうね、キャロライン」
 「エヴェラード」
 「何です?」
 「ロジャー・アンサンクを殺したの?」
 燃えている薪の一部が暖炉のなかで崩れた。そして沈黙が訪れた。隣の部屋から玉突きの音が聞こえてきた。ドミニーはかがんで、小さな火箸を使い、燃えている薪をかき集めた。彼は突然手をつかまれた。
 「エヴェラード。ごめんなさい。今晩は疲れているのに、わたしの相手をしてくれたんでしょう?同情してあげるべきなのに、わたしったらとんでもないことを訊いちゃった。どうか忘れてね。昔みたいに話してちょうだい。ロザモンドのお帰りのこととか。本当に治ったと思う?」
 「ちょっと会っただけなのですが、間違いなく回復に向かっているようです。毎週、療養所からくる報告で、病状がぐんとよくなったことは知っていました。身体はひどく弱っていて、目はまだ落ち着きがないんですが、話すことは首尾一貫しています」
 「あの嫌らしい女はどうなったの?」
 「ミセス・アンサンクには年金を与えて辞めてもらいました。驚いたことに、今でも村に住んでいるそうです」
 「幽霊のことは?」
 「ロザモンドがいないときは叫び声一つたてません」
 「もう一つ訊きたいことがあるの」キャロラインは言いにくそうに話し出した。
 その「もう一つのこと」は永遠に口にされることはなかった。奇妙な、劇的といってもいい邪魔が入ったのである。広間の静寂を破って、正面ドアの巨大なベルが鳴り響いた。ドミニーはぎょっとして時計を見た。
 「真夜中じゃないか。いったいこんな時間に誰が来たんだろう」
 本能的に二人は立ちあがった。男の召使いが大きな鍵を回し、かんぬきを引き抜いて、苦労しながらドアを開けた。雪と冷たい風が玄関に吹きこみ、それにつづいて頭からつま先まで雪に覆われ、髪の毛を風に乱され、吹雪との闘いで誰とも見分けのつかなくなった男の姿があらわれた。
 「ハリソン先生!」ドミニーは急いで一歩前に踏み出した。「こんな時間にどうなさったんです?」
 医師はしばらく杖に寄りかかっていた。息が切れ、溶けた雪が服からオーク材の床にしたたっていた。彼らはコートを脱がせ、火の方に彼を誘った。
 「こんな時間に申し訳ない」彼はドミニーが持たせてくれたタンブラーを握った。「ついさっきドミニー夫人の電報を受け取ったんだ。君に会わなければならなかったんだよ――すぐに」

 第十八章

 医師はいつもの傍若無人な口ぶりで、この時ならぬ訪問が内密の話をするためのものだと言った。キャロラインはさっそく席をはずし、二人の男は大広間に取り残された。ビリヤードルームと客間の灯りは消えていた。数人の召使いを除いて、屋敷のなかの人間はみな部屋に引っこんでいた。
 「サー・エヴェラード。今回のドミニー夫人のお帰りにはまったく驚いた。明日の朝、君と話をするつもりでいたんだが」
 「先生の報告を今か今かと待っていたんですよ」
 「いい報告だよ」自信にあふれた返答だった。「知らせを受けていたら、こんなに急に療養所を離れることは許さなかっただろうが、しかしあそこに留め置く理由もない。ドミニー夫人は精神的にも肉体的にも申し分のない健康状態だ。ただ、一つだけ妄想を抱いているが」
 「その妄想というのは?」
 「君が夫じゃないと思っているんだよ」
 ドミニーはしばらく黙っていた。それからどことなくわざとらしい笑い声をあげた。
 「まったくの正気といえるのでしょうか、周りのすべてから現実性を奪うような妄想に取り憑かれているのに」
 「ドミニー夫人は完全に正気だ」医師はぶっきらぼうに言った。「その妄想を追い払うことができるかどうかは、君次第だ」
 「何か助言はありませんか?」
 「あるとも。率直に言うよ。まず、君は幾つかの点で目に見えて変貌した。それがドミニー夫人の妄想を誘発したとしても無理はない。例えば君がイギリスに戻ってきて八ヶ月あまりが経つが、そのあいだ君はまったく人が変わったように振るまいつづけている。悪い癖をことごとく克服したかのようだ。紳士らしく適度にお酒を飲み、荒っぽい気性を押さえ、自分の人柄を唯一の武器に名士や実力者たちを自分のまわりに集めている。十年以上も前にイギリスをすたこら逃げ出したエヴェラード・ドミニーからは考えられんことだ」
 「妻の病状を弁護なさっているみたいですね」
 「奥様に弁護なんか必要ない」医者はぞんざいに返事した。「彼女は我慢強い、貞節な女性だ。残酷な病に苦しんでいるが、それは、うんと思いやりのある言い方をすれば、君のいい加減さ、無思慮によって引き起こされたものだ。善良な女性はみんなそうだが、寛容は彼女の第二の天性だ。今、彼女は人生において自分が収まるべき場所に収まりたいと願っているのだ」
 「しかし妄想があるかぎり、つまり、わたしが夫ではないのだと真剣に思っている限り、そんなことは無理でしょう?」
 「それこそ君とわたしが直面しなければならない問題だよ」医師は厳しく言った。「まだ妄想に取り憑かれている奥様が、君のところに喜んで戻ってきたという事実は、わたしには説明もつかないし理解もできない。しかし今晩ここに来たのは、君に一つの責任を与えるためなのだ。完全な回復に至るには、奥様にはあと一歩が必要なのだということを忘れてはいけない。その一歩が踏み出されるまで、君には恐ろしく困難な、しかし避けられない務めがある」
 ドミニーはしばらく歯をきつく食いしばっていた。膝に手を当てて、身体を乗り出したとき、医師の鋭い灰色の目が毛むくじゃらの眉の下で光った。
 ドミニーは静かに言った。「ということは、妄想が消えない限り、帰国以来つづいているわたしたちの状況はまったく変わらないということですね」
 「そうだ。ややこしいことになったが、われわれは、というより、君はそれに対応していかなければならない。他の妄想はことごとく消えてなくなった。それは約束できる。ロジャー・アンサンクの幽霊や、夜中に聞こえる叫び声や、彼の謎に満ちた死のこと。それらは彼女にとって痛ましい過去の一部であるにすぎない。君の命を奪おうとしたこともちゃんと意識しており、ひどく後悔している。しかし今度の症状こそ本当に危険なのだ。君に対して情熱的な愛情を捧げているようだが、その実、君を夫と信じてはいないのだからな」
 ドミニーは熱気を避けるように、椅子を暖炉から遠ざけた。彼の目は医師の目に釘づけになっているようだった。
 医師は重々しく話をつづけた。「どうしてそんな妄想が生じたのか、分からない。しかしわたしの義務として警告しておくよ、サー・エヴェラード。君に愛情を注ぐことで彼女は大いに回復に向かうだろう。ドミニー夫人はもともと非常に愛情深い女性だ。肉体的健康を取り戻し、人間的な思いやりを十分に受けたことが、おそらくそうした性向を目覚めさせたのだろう。しかも彼女はますます君が好きになりつつあるし、君は夫として立派に振る舞っている。彼女の性向がはぐくまれるのはまったく当然だよ。いいかね、サー・エヴェラード、君の立場はとてつもなく困難な立場だ。しかし困難ではあっても、とにかくやらなければならない義務がある。できるだけ奥さんの愛情をはぐくみつづけたまえ。しかし妄想が残っているあいだ、その愛情はある一定の限度を超えてはならない。ドミニー夫人は善良な優しい女性だ。ある朝彼女が目を覚まし、妄想は残ったまま、しかも良心のとがめに苦しむというようなことになれば、今まで何ヶ月もわれわれが苦労してやってきたことは、みんな無駄になるかもしれない。彼女自身、精神病院で一生を終える可能性も大いにある」
 「先生、ご忠告の一言一言が身に染みました。任せてください」ドミニーは力強くいった。
 医師が彼を見た。
 「信じているよ」そう言って医師は安堵のため息をついた。「それを聞いてうれしいよ」
 「もう一つだけ教えてください」ドミニーは間をおいて言った。「もしもこの妄想がなくなったとしたらどうなりますか。急にわたしが夫であると確信したら?」
 医師の答えに熱がこもった。「その場合はまったく逆を行うことになるだろう。彼女が夫に捧げる愛情を押しとどめないことが大切だ。逆の場合はそれを受け入れないことが大切なようにね。彼女が今の心の状態を維持したまま、君が法的に結ばれた正当な夫であると自覚したとしたら、そのときこそ彼女の新しい人生のはじまりだよ」
 どちらもは語るべきことはすべて語ったという気がした。短い沈黙のあと、医師は最後の一杯を飲みほし、パイプに煙草を詰めて、立ちあがった。ドミニーが車庫から出すように命じてあった車は、もうドアの前に停まっていた。奇妙なことに、彼らはどちらも今まで話していたことに、間接的にも触れたくない気分だった。
 「送ってくれるとはありがたい」医師がしわがれた声で言った。「家を出たときはよかったが、沼地を歩くのは憂鬱だった」
 「来ていただいてとても感謝しています」ドミニーの言葉には明らかに誠意がこもっていた。「一両日中に患者を診に来ていただけますね?」
 「この屋敷に泊まっている連中を追っ払ってくれたら、すぐに来るよ。おやすみ!」
 二人は別れた。なぜだか分からないが、ドミニーはこのぎこちない別れの挨拶で、出遭ったときから彼らのあいだにわだかまっていた反感が葬り去られたような気がした。一人になった彼は薄明かりの灯る大広間をしばらくうろつき回った。奇妙にそわそわした気分が彼に取りついたようだった。消えかけている火のそばにしばらく立ちつくし、白っぽい灰が、煙突から吹き込む風に、落ち着きなく揺さぶられるさまを見つめた。それから広間の別の場所へ行き、新しく取りつけた電灯のスイッチを一つずつ入れ、壁に掛かっているくすんだ油絵を照らし出した。今はなきドミニー家の祖先の顔を見ながら、その生涯について耳にしたことを思い出そうとした。いちばん長く眺めていたのはスチュアート朝時代のしゃれ男の肖像画で、その悪行の数々は、当時の恋愛事件について書き残している人々に格好の材料を与えたのだった。眠そうな召使いが後ろをうろついていたので、とうとう階段を登らざるを得なかったが、それでもちょっとのあいだ廊下をぶらついた。寝室のドアの取っ手を回したときも、指はいやいや動いているようだった。なかに人がいるのに気がついて、彼の心臓は飛びあがった。つかの間、入り口に立ちつくし、それから自分の馬鹿げた想像をふっとあざ笑った。召使いが主人の帰りを辛抱強く待っていただけだった。
 「もう寝たまえ、ディケンズ。今晩はもう用はないよ。明日の朝は狩りに行く」
 召使いは黙って去り、ドミニーは床に就く用意をはじめた。しかし寝る気にならず、シャツとズボンをはいたまま、部屋着をまとい、読書灯を脇に引き寄せると、本を手にして安楽椅子に沈みこんだ。しばらくのあいだ本がさかさまであることに気がつかなかった。持ち直しても文字は彼に何の意味も伝えはしなかった。そのあいだ、女性の顔の不思議な行列がずっと目の前を通り過ぎていった。どこか浮ついた、骨の髄まで感傷的な女友達キャロライン。肉感的な身体と情熱的に光る目を持つステファニー。そしてこの二人の女性のイメージを頭と記憶のなかから完全に消してしまうロザモンド。その真剣な面立ちからはありとあらゆる人生の喜びが輝き出している。彼女はこの前、彼に近づいてきたときと同じように、おののく唇に言葉にならない微かな叫びをのせ、やわらかな瞳には忘れることができない哀訴の表情を浮かべていた。他の記憶は、初めから存在しなかったかのように、ことごとくかすんでしまった。アフリカでの鬱々とした追放の歳月も、危険な人生に伴う日々の緊張も、すっかり忘れさられた。彼は思いも寄らぬ天佑の訪れをしきりに待ち望んでいた。誇りにしていた己の力よりもずっと強い無力感が、蜘蛛の巣のように彼を絡め取るのを感じていた。そのとき、突然、恐れていた狂気が本当に彼を襲ってきたのかと思った。それは彼がもっとも望み、もっとも恐れていたものだった。小さなかちりという音が聞こえ、二つの白い手が羽目板を後ろに開いた。ロザモンドがそこに立っていた。彼女は神秘的な、不思議な光をたたえた眼で彼を見た。唇は感じのよい微笑みに軽く開かれていた。そこには子供のような、いたずらな微笑みが一抹含まれている。彼女は後ろを振り返って羽目板を閉めると、指を一本あげ彼に近づいてきた。
 「眠れないの。ちょっとだけお邪魔してもいいかしら」彼女は小声で言った。
 「もちろんさ。ほら、座ったらいい」
 彼女は安楽椅子のなかで丸くなった。
 「ちょっとだけでいいの」彼女は満足そうにつぶやいた。「あなた、手を出して。まあ、冷たい!あなたも火のそばに来なくちゃだめよ」
 彼は彼女の椅子の肘掛けに腰をおろし、彼女は両手で彼の頭を撫でた。
 「羽目板から出てきたのを見て怖くなかった?」
 「君に何をされようと怖くない」
 「あの馬鹿げた気持ちは本当になくなってしまったの」彼女は熱心に話をつづけた。「ロジャーに何があったにしろ、今は彼を殺したのはあなたじゃないと思っている。今晩、幽霊の呼び声が聞こえても、わたし、怖くないわ。どうしてあなたを傷つけようと思ったのかしら、エヴェラード。ずっとあなたを愛していたのに」
 彼の腕がそっと彼女を包んだ。彼女はその抱擁にためらうことなく反応した。彼女は頬を相手の肩にのせ、彼は毛裏の白い部屋着を通して彼女の腕の暖かさを感じた。
 「じゃあ、どうしてわたしが君の夫じゃないと思うんだい?」彼の声はしわがれていた。
 彼女はため息をついた。
 「ああ、だって、違うんですもの。こんなふうに思っているのは悪いことかしら。あなたは夫にとても似ているけど、全然彼らしくないわ。夫は死んだの。アフリカで死んだの。そんなことを知っているなんて変でしょう?でも知っているのよ!」
 「しかし、そうだとすると、わたしは誰なんだろう?」
 彼女は哀れむように彼を見た。
 「分からない。でもあなたはわたしに優しくしてくれる。あなたがそばにいると思うと幸せなの。療養所がいやになったのは、あなたに会いたかったからよ。つまりあなたが大好きっていうことなのね、きっと」
 「ここにわたしと二人きりでいるのは怖くないかい?」
 彼女はもう一方の腕を彼の首に回し、顔を引き寄せた。
 「怖くない。わたしは幸せなの。でも、あなた、どうしたの?さっきは冷たかったのに、今は額に汗をかいて、手が燃えるみたい。わたしがここにいるのは嫌なの?」
 彼女の唇が彼を求めていた。彼の唇は一瞬だけそこに触れ、それから彼女の両頬にキスをした。彼女は少し顔をしかめた。
 「あなたは本気でわたしのことが好きじゃないのね」
 「わたしが本物のエヴェラード、君の夫だと信じられないのかい?わたしを見てごらん。以前わたしを愛していたことを覚えてないかい?」
 彼女は悲しげに頭を振った。
 「いいえ、あなたはエヴェラードじゃないわ」彼女はため息をついた。そして目を輝かせてこうつけ加えた。「でもね、あなたは愛と幸せと人生をわたしに持ってきてくれた。それに――」
 その直前まで、ドミニーは拷問のような彼女の甘くしつこい要求から逃れられるなら、地震でも落雷でも足下の床の崩壊でも心から歓迎したい気分だった。しかし実際に妨害にやってきたのはかつて経験したこともないような恐ろしいものだった。彼女は半ば彼の腕に抱かれて頭をそらしたまま聞き耳を立てていた。彼も恐怖のあまり一瞬身体が震えたくらいだった。彼らは夜の静けさを破るあのすさまじい叫び声、獣の口に閉じこめられた、苦しみあえぐ魂の叫び声を聞いたのだ。彼らはそのこだまが絶え果てるまで一緒に耳を澄ませていた。それから恐らくもっとも驚くべきことが起きたのだった。彼女は少しも慌てず、怖がることもなくゆっくりと頷いたのである。
 「ほら、帰らなければならないわ。ここに居させたくないのよ。あなたのことをエヴェラードだと思っているに違いないわ。そうじゃないって知っているのはわたしだけなの」
 彼女は椅子から滑り降りると、彼にキスをし、しっかりした足取りで床を歩き、バネに手を触れて、羽目板を抜けた。そんなときですら彼女は振り返って小さく手を振り別れを告げた。彼女の顔には恐怖を示すものは何もなかった。ただ無言の失望が微かにあるだけだった。羽目板は滑るように元に戻り、彼女の姿を見えなくした。ドミニーは気が狂ったように頭を抱えた。

 第十九章

 東の空には依然として黒っぽい灰色の雪雲が低く垂れこめていた。そこに一条のか細い紅色の線が走り、朝の訪れを告げた。風は止み、幽霊でも出そうな気配が静かに薄明のなかに漂っていた。ドミニーは屋敷の裏から外に出て、まだ誰も踏んでいない雪の道をロザモンドの窓の下へと進んでいった。そこに立った彼の唇から小さな驚きの声が漏れた。テラスから踏み段を降り、庭園を抜けてまっすぐブラック・ウッドへ向う足跡がくっきりと残されていたのである。あの叫び声は空耳ではなかった。人間か何かが夜中にブラック・ウッドから出てきて、ここへまたやってきたのである。
 ドミニーはこの発見に異常なくらい興奮し、足跡を熱心に調べ、ついで森の端までそれを追った。ところどころで彼は首をひねった。足跡は人間のものでも、人間が知るどのような動物のものでもなかった。それは森の端の巨大な茨の茂みのなかに消えているようだった。茨にかかっている雪が所々こぼれ落ちていた。小径があるようには見えない。かつてはあったのかもしれないが、長年ほったらかしにされ跡形もなく消えていた。羊歯、茨、灌木、藪が乱雑に育っていたのだが、それらがこんぐらがっていっそう密な下生えを形成していたのである。木はまだたくさん生えていたが、多くのものが風に倒され、朽ちるがままに放置されていた。あたりは沈黙が支配し、聞こえるのは垂れさがった葉からゆっくりと落ちる雪の音だけ。慎重にもう一歩足を踏み出すと、地面が柔らかく沈みこむのが感じられた。足の下から雪を通して真っ黒い泥がしみ出してきた。泥に埋まってしまう前に、彼はかろうじて足を引き抜いた。細心の注意を払い、歩くところを選びながら、彼は時間をかけて森の外周を調べはじめた。
 一時間ほどのち、管理人見習いのヘッグスは、もう一度銃架を確かめ、空のケースをこつこつと叩いて、ミドルトンのほうを振り向いた。彼は暖炉の前の椅子に座って、パイプをくゆらしていた。
 「旦那様の二番の銃が見つかりません、ミスタ・ミドルトン。なくなってます」
 「もう一度見てごらん」年老いた管理人はパイプを口から離して言った。「旦那様は昨日、あの銃をお使いだった。銃架の隅っこにばらばらに置いてあるやつを調べてみろ。どこかにあるはずだ」
 「それがないんですよ」若者は譲らなかった。
 急にドアが開いて、ドミニーがなくなった銃を抱えて入ってきた。ミドルトンはすぐさま立ちあがって、パイプを置いた。驚きのあまりすぐには口がきけなかった。
 「ちょっと一緒に来てくれ」主人が命令した。
 管理人は帽子と杖を取りあげ、あとに従った。ドミニーは足跡の行き着く先、ロザモンドの窓の外の砂利道まで彼を連れて行くと、ブラック・ウッドの方を指さした。
 「これをどう思う?」
 ミドルトンは躊躇しなかった。彼は重々しく首を振った。
 「昨日の晩、何かお聞きになりましたか?」
 「この窓の下で地獄のような叫び声がした」
 「そりゃ、ロジャー・アンサンクの亡霊ですよ。間違いない」ミドルトンは身震いした。「森から出てくると、呼びかけるんで」
 「亡霊はあんな跡を残さないよ」
 ミドルトンは考えこんだ。
 「地元の人の話なんですがね、ロジャー・アンサンクの亡霊は何かでっかい動物に取り憑いていて、餌をもらうためにときどきここにやって来るんだそうです」
 「誰から餌をもらうんだね?」ドミニーは辛抱強く尋ねた。
 「そりゃミセス・アンサンクでさあ」
 「ミセス・アンサンクはもう何ヶ月もこの屋敷にいない。彼女が出て行ってから昨日の晩まで、わたしの知る限り、この幽霊だか獣だかの声は一度も聞いたことがなかった」
 「確かにおかしなことです」
 ドミニーは森のほうまで目で足跡を追い、また逆にたどり直した。
 「ミドルトン、亡霊のことがだんだん分かってきたよ。やつらは足跡を残すだけでなく、餌も必要なんだな。そういうことなら、弾丸を食らわすこともできるかもしれない」
 老人はじわじわとこみあげてくる恐怖にしばらく凍りついたようになっていた。
 「あいつを撃ったりなさらないでしょうな、旦那様」
 「今朝もチャンスさえあれば、そうしていただろうよ。天気がもう少しからっとしてきたら、森のなかに入ってみるよ、ミドルトン。銃を持ってね」
 「そんなことをなさったら、絶対に戻ってこられなくなりますよ、旦那様!」彼は真顔で答えた。
 「やってみるさ。アフリカでは怪しげな場所も藪をたたき切りながら進んだんだ」
 「こんな森は世界中どこにもありゃしません」老人はしつこく食いさがった。「下は隅から隅まで腐っています。上はどこもかしこも毒を放っています。鳥は木の上で死ぬし、トカゲや気味の悪い生き物がうじゃうじゃはっているんです。五十センチもある緑や紫のきのこが生えていて、においを嗅いだだけで毒にあたるんです。森に入るなんて墓に入るようなものです」
 「それでも早急に解明してやるよ、この夜の訪問者の謎は」ドミニーは強い口調で言った。
 彼らは並んで屋敷に戻った。なかに入る直前にドミニーは同伴者のほうに向き直った。
 「ミドルトン、君は今でも昔みたいにときどきドミニーズ・アームズに行って軽く一杯やるのかい?」
 「ほとんど毎晩ですよ、旦那様。八時から九時のあいだです。わたしは規則正しい人間なんで。一日の仕事をつつがなく終えたあとは、人間誰しものんびりする権利がありますからな」
 「そうだね、ジョン。今度あそこに行ったら、わたしが森を探索する予定だと話しておいてくれ。噂を広めてほしいんだ。いいかい?」
 「連中、度肝を抜かれますよ」賛成しかねるといった返事だった。「でも伝えておきますよ、旦那様。きっとえらい評判になるでしょう」
 ドミニーは銃を渡して部屋に帰った。風呂に入って着替えたあと、朝食を食べに下に降りた。彼が入っていくと、急に話し声が途絶えた。それはドミニーも覚悟していたことだった。全員がその日の狩りの見こみについて話しはじめた。ドミニーはサイドボードから食べ物をよそうと、テーブルに座った。
 「最新式の幽霊に眠りを妨げられた人はいないでしょうね」
 「どうやら全員が同じものを聞いたようですよ」閣僚が好奇心もあらわに言った。「身の毛もよだつ、この世のものとは思えない叫び声でした。最近、心霊協会というやつに片っ端から入りまくりましてね。面白い研究ですな」
 ドミニーはコーヒーを淹れながら言った。「調査をなさりたいなら、拳銃持参で一晩一緒にあたりをうろつきましょう。わたしがイートンに入学する以前の子供の頃から、アフリカに行く頃までは、とても上品で品行方正な幽霊がいたもので、それが家門の誇りでもあり、自慢の種でもあったんですがね。しかしこの最新型のお化けは常軌を逸している」
 「いわれでもあるのですか?」ミスタ・ワトソンが心をひかれて尋ねた。
 「あれは以前この辺に住んでいた教師の霊で、彼が命を失ったのは、どうもわたしの責任ということになっているらしいのです。そんなお化けはわたしたち一族にとって誉れにも慰めにもなりません」
 主人があまりにも素っ気なく喋るものだから、誰もがこの魅力に満ちた話題から奇妙なくらい離れる気になれなかった。しかしそれとなくその話に触れようとしたのはターニロフただ一人だった。
 「森で狩り出しをやるのはどうだろう」
 「森の様子はそこに住んでいる幽霊よりも興味深いんじゃないかと思いますね。昨日、勢子たちが、森のなかに入ると聞いただけで震えあがったのを覚えているでしょう?代々あそこは不浄の地とされてきたんです。確かに非常に危険な場所です。今朝、森の外側で膝まで埋まってしまったんですよ。十時半に銃器室に集合しましょう」
 シーマンは主人のあとを追って部屋を出た。
 「君、地元の些細な問題にあまり首を突っこんではいけないよ。もちろん今はのんびり過ごしてもいいんだが。しかしね、君は王女のことを考えてやらないとならない。結局のところ、われわれは彼女のご機嫌を損ねるわけにいかないんだ。ダウニング街にちょっとでも噂が流れてみろ、たちどころにおじゃんだ!」
 ドミニーは親友の腕を取った。
 「いいかい、シーマン、王女のことを考えろと言うのは簡単だよ。しかしこれ以上どうやって彼女に状況を分からせたらいいんだい?ドミニー夫人とは最善の関係を保たなければならないし、王女と人目につくような真似は決してできない」
 「君とドミニー夫人の関係なんか、誰にとっても大したことじゃないのじゃないかな。王女は衝動的で情熱的な人間だが、同時に社会的な名声もあり、外交手腕もある。密かにロンドンで彼女と結婚しても問題はないと思う。まずはエヴェラード・ドミニーの名前で式を挙げておいて、あとで本名で式を挙げ直すのさ」
 彼らは立ち止まって煙草に手を伸ばした。煙草は広間の丸テーブルの上に葉巻の小箱と並べて置かれていた。ドミニーは少し間をおいてから返事をした。
 「王女が君にそうしたいと言ったのか?」
 「そんなところだ」とシーマンは認めた。「もっとも彼女は君のほうからそういう提案を出してほしかったらしい」
 「で、君はどうしたらいいと言うのだ?」
 シーマンは軽く煙を吐き出した。
 「君、わたしは王女のことが少々心配なんだ。君が彼女をどう思っているか、そんなことは訊かないよ。名誉を重んじる男として、君が遅かれ早かれ彼女に結婚を申しこむのは義務であると考えている。それで彼女が落ち着くというのなら、結婚を数ヶ月早めてもかまわないと思う。ターニロフが大使館で手はずと整えてくれるだろう。彼は王女のためなら何でもするし、そうすることで君と彼の関係も強化できる」
 ドミニーは階段のほうに向きを変えた。
 「出発の前にもう一度話し合おう」彼は憂鬱そうだった。
 ドミニーは召使いによってただちに妻の居室に通された。ロザモンドは灰色の毛皮で裏打ちされた、薄い青の愛らしいモーニング・ローブをまとい、ちょうど朝食を終えたところだった。彼女は嬉しそうに小さく歓迎の声をあげると両腕を彼に差し出した。
 「来てくれてうれしいわ、エヴェラード!お出かけになる前にちょっと会いたかったの」
 彼は彼女の指を唇まで持ちあげ、隣に座った。彼女は彼がいることに有頂天になっているようで、昨晩の出来事などなんとも思っていないことが直感的に分かった。
 「よく眠れたかい?」
 「ぐっすり寝たわ」
 彼は勇気を出してその話題を取りあげた。どんな時でもひるむまいと決心していたのだ。
 「じゃあ、夜の訪問者のことを考えて眠れなくなることはないんだね?」
 「全然」彼女はさりげなく話しつづけた。「あなたが本当にエヴェラードだったら、わたし、震えていたわ。だってエヴェラードが帰ってきたら、ロジャー・アンサンクの霊が彼に悪さをするでしょうから」
 「どうして?」
 「もちろんあなたは知らないわね。ロジャー・アンサンクはわたしに恋をしていたの。もっともエヴェラードと結婚する前、彼とは一言も口をきいたことがなかったけど。そこまでは昨日話したわよね?わたしが結婚すると、あの人、可哀想に気が狂いそうになったわ。仕事を辞めて、ここの庭園をうろつくようになった。ある晩、エヴェラードが彼をつかまえて、喧嘩になったの。それから二度とロジャー・アンサンクを見た人はいないわ。近所の人なら誰でも話してくれるでしょうけど」彼女は少しだけ声を落としてつづけた。「エヴェラードはロジャーを殺してブラック・ウッドの近くの沼に捨てたのよ。死体は沈んで、もう絶対見つからないわ」
 「まさかそんなことはしないだろうと思うよ」
 「あら、どうかしら。エヴェラードってひどい癇癪持ちだったの。あの晩、家に帰ってきたときは血まみれだった。怖かったわ。わたしが病気になったのはあの晩からなの」
 「辛い昔の話はもう止めよう。わたしたちのお客さんのことを忘れないようにと思って来たんだよ。いつ下で顔合わせしようか」
 彼女は子供のように笑った。
 「あなた今、『わたしたちの』って言ったわね。まるで本当の夫みたい」
 「そんなこと、他の人に言ってはいけないよ」
 彼女はすぐに同意した。
 「分かっているわ。ちゃんと、ちゃんと気をつける。エヴェラード、あなたのお客さんはとっても頭がいい人たちね。わたしのエヴェラードのお客さんとは大違い。長いこと世間づきあいがなかったからお客さんとお話しできるか心配だわ。看護婦のアリスがお客さんのこと、しきりに感心していたのよ。わたし、テーブルの端に座るのが怖い。キャロラインは女主人役をはずされるのを嫌がるでしょうし。わたし、お茶の時間と晩餐後に降りていくわ。そしてだんだん慣れていく。まだ病気なんだって、簡単に言い訳できるでしょう。もちろん病気なんかとっくに治っているけど」
 「君の好きなようにしていいんだよ」出ていきながら、彼はそう言った。
 その日の午後、いささか疲れを見せながらも、運動と狩りの楽しさに顔を紅潮させて、狩猟隊がどやどやと広間に入ってきたとき、部屋の片隅、お茶が用意された大きな丸テーブルの後ろに、どちらかというと青白い顔色の、ひどく子供っぽい可憐な女性が、保護と同情を求めるような、愛らしい、大きな目を向けて、おどおどと立ちあがるのを見たのだった。ドミニーはすぐに彼女の横に行った。彼が紹介をはじめるや全員が周りに集まってきた。彼女は口数こそひどく少なかったものの、その言葉は素晴らしく自然で優雅だった。
 彼女はキャロラインに言った。「夫のおもてなしをお手伝いいただいて感謝しています。だいぶ良くなったのですが、病気の期間が長すぎて、いろいろなことを忘れてしまい、女主人としてはあまりお役に立てないだろうと思います。でも皆さんにお茶を淹れさせてくださいね。キジを何羽撃ち落としたのかもお聞きしたいわ」
 ターニロフは彼女の横の長椅子に腰掛けた。
 「このややこしい作業はわたしがお手伝いしましょう。この角砂糖ばさみはお一人で持つには重すぎますからね」
 彼女は陽気な笑い声をあげた。
 「でも本当は、わたし、ちっとも身体は弱ってないんですよ。とても重い患いでしたけど、今はまた丈夫になりましたから」
 「それじゃあ、ここに座る理由を別に考えないと。ご主人が撃ち落としたキジのことや、他の人がみんな当て損なったのに、ご主人だけしとめることができたヤマシギのことをお話しましょう」
 「それは楽しみ。お砂糖はいくつ入れます?ホット・マフィンを王女様にさしあげてくださいな。それからそのベルを鳴らしてください。お湯がもっといりますね。みなさん、とっても喉が渇いているでしょう。お会いできてよかったわ」

 第二十章

 ターニロフ王子と主人は腕を取り合って長々と続く樅の木立の裏の、雪に覆われた斜面を登っていった。二人がめざしていたのは小さな旗つきの棒だった。そこが彼らの立ち位置なのである。見渡す限り人影はなかった。他の撃ち手たちは傾斜のきつい、けれども回り道をしないですむ道筋を辿ることにしたのだ。
 「フォン・ラガシュタイン、勝手だが名前で呼ばせていただく。知っていると思うが、わたしには一つ弱点がある。若かった頃は、そのせいで外交官を首になりそうになった。わたしはスパイというものがとにかく嫌いなのだ。それが必要な場合でもね。わたしには君の役割が滑稽に思える。ポツダムには個人的に電報を送って、その旨を伝えておいた」
 「今までのところ、たいした働きもありませんが」
 「いいかね、たいした働きがないというのは、正当化しうるような仕事がないからだよ。これからもそんなものはありはしない。あなたのここでの仕事には何のメリットもない。本当の名前や役割がばれてごらん。イギリス政府に恐ろしく悪い印象を与えるんだよ」
 「わたしは盲目的に祖国に従うしもべです。どうかそのことを忘れないでください。命令に従っているだけなのです」
 「それはたしかに認めるがね。しかし話をつづけよう。わたしがこの国に着任してからもうすぐ一年が経つ。それなりに成果をあげてきたと自負している。わたしが関係してきた閣僚メンバーからは、両国の相互理解をいっそう深めるよう、努力を促す声しか聞こえてこない」
 「確かに今のところ万事順調にすすんでいます」ドミニーが同意した。
 「ダウニング街にはドイツとの平和な関係を望む真摯な、根強い願望があると確信している。いつ議論しても、いつ譲歩を求めても、両国の友情を育みたいという心からの願いに出会うのだ。わたしは自分の仕事に誇りを感じている、フォン・ラガシュタイン。ボーア戦争の頃から比べると、ドイツとイギリスはずっと近しい間柄になったと思う」
 「大使の個人的な人気と国民感情を混同なさってはいませんか?」
 「その点は確信がある」大使は重々しく言った。「わたしがこの国で人気を得たのは、現在の世界政治をもっと健全なものにしたいという気持ちがあるからだよ。いま大いに楽しみながら自分の仕事の成果を回顧録に跡づけているところだ。いつか両国のあいだに平和がしっかりと築かれたとき、出版しようと思っている。そのなかに現政権が真剣に平和を望んでいる証拠を、知り得た範囲で挙げておいた」
 「内々にその回顧録を読ませていただけるなら大変嬉しいのですが」
 「いいだろう」彼は愛想よく返事した。「とりあえずあなたにはこちらでのご自分の役割を考え直していただきたい」
 「わたしの役割は自発的なものではありません。命令に従って行動しているのです」
 「その通りだ。しかし過去半年のあいだに情勢は大きく変わった。フランスの不興を買うことを承知で、イギリスはわが国のモロッコに対する要求に素晴らしく柔軟な姿勢を示している。重要課題を巡って両国が衝突する可能性は今やなにひとつ無くなったのだ」
 ドミニーは考えこみながら言った。「戦争を仕掛けたいという欲求がダウニング街にではなくて、ポツダムのほうにあるとしたら話は別でしょう」
 ターニロフは厳しく言い切った。「われわれがいただく主人は高潔なお方だ。わたしはその御本人から直接お気持ちをたまわったのだ。皇帝は平和と大いなる繁栄を望んでおられる。わが国はとっくにそれを享受する資格がある。産業も商業も国民性も才能も秀でているのだから。そしてそういうものがドイツを世界最大の大国にする武器なのだ。武器をふるうだけで不滅の栄光にたどり着いた帝国など、いまだかつて存在しない。撃ち場に着いたようだな。この狩り立てが終わったらわたしのところに来てくれ。今言ったことはほんの前口上に過ぎないのだ」
 空気は乾燥しはじめ、雪は粉雪になった。女性たちの小隊は勢子が森を抜ける前に撃ち場に着いた。キャロラインとステファニーはどちらもドミニーの隣に並んだ。しかしキャロラインは数分後、ターニロフが銃を構えているところへ行ってしまった。ステファニーとドミニーは図書館での波乱に満ちた対面以来、初めて二人きりになった。
 「モーリスがあなたに話しかけてきた?」やや唐突に彼女は尋ねた。
 「実を言うと、大使と非常に興味深い話をしている最中なんです」
 「わたしのことはしゃべったかしら?」
 「お名前はまだ出てきていませんね」
 彼女はちょっと顔をしかめた。豪華な毛皮にロシア風のターバン・ハットをかぶった姿は雪を背景にくっきりと際立っていた。
 「わたしの名前が出てこないのに興味深い会話とはね!」彼女は皮肉をこめて相手の言葉をくり返した。
 「もうすぐあなたのことが話題になると思います。大使は、今までの話は前口上に過ぎない、もっと重要な用件があるとおっしゃいましたから」
 ステファニーは笑った。
 「モーリスは本当に遠回しね。最初にきっとお小言があるわよ、あなたのひどい仕打ちのことで」
 猟がはじまったため会話はしばらく中断した。ドミニーは忠実なミドルトンをそばに呼んで弾薬の補給を頼んだ。ステファニーは勢子たちが森から出てくるまで待った。
 「あなたの仕打ちは、ひどいなんて生やさしいものじゃないわ。レオポルド、はっきり言えば、わたしの心をずたずたにしたのよ。誇りさえ傷つけた」
 「女性としての観点からしか物事を見ないからですよ」
 彼女は声を低くした。「あなたはどうなの。昔は誰よりも優しくて情熱的だった人が、今は政治という観点からしか物事を見ないじゃない。お国のことをたいそう大事になさっているわね、レオポルド。わたしのことなんかどうでもよくなった?」
 「エヴェラード・ドミニーにとってはどうでもいいことです。時が至れば、レオポルド・フォン・ラガシュタインは、彼が権利を持つすべてのものを手に入れることができるでしょう。信じてください。冷たくされたとか決断が遅いといって不平を鳴らす必要はまったくありません。彼はただ一つのことを考え、ただ一つのことを望んでいるのです。それはこの離別の苦しい歳月にできるだけ早く決着をつけることです」
 彼女の顔から強ばった表情がなくなり、話し方がずっと自然になった。
 「あなた、待つ必要はないのよ。皇帝がお許しになったのですもの。あなたの政治的指導者はそれを支持するどころか、それ以上の気持ちをお持ちなのよ」
 「わたしは危険にさらされています。わたしには何がいちばん安全で賢明であるか、分かっています。二つの男性の役を同時に平然とこなすなど、とてもできやしない。しかし王子はまだ何もおっしゃっていません。まずは王子のお話をうけたまわりましょう」
 ステファニーはやや横柄に顔を背けた。
 「わたしに哀願させようという気なの!今晩、お互いをしっかり理解する必要があるようね」
 小隊は全員そろって別の鳥の隠れ場所に向かった。ロザモンドが一行に加わり、嬉しそうにドミニーの腕にしがみついた。庭園を急ぎ足で歩いてきたので頬が紅潮していた。彼女の歩き方には健康な女が持つ自由な、力強い美しさがあった。ややあって彼女がそばを離れターニロフのそばへ行こうとしたとき、ドミニーは複雑な思いに震えながら彼女を見ている自分に気がついた。ふと誰かが彼の腕を触った。狩猟隊の一人と一緒にそばを通りかかったステファニーが立ち止まって彼の耳にささやいた。
 「演技しすぎると、もっと大きな危険に見舞われるかもしれないわよ。用心深いあなたでさえうっかり見逃してしまうような危険に!」
 ドミニーは次の撃ち場に行く途中でキャロラインに捕まった。彼女は狩猟ステッキをつきながら彼のそばを離れず、容赦なく非難を浴びせはじめた。
 「ねえ、エヴェラード、放蕩者が悔い改めた例としてあなたはわたしが知る最高の例のひとつだわ!立派な社会的地位まで手に入れて。お願いだから、わたしたちみんなを失望させないでちょうだい!」
 「どうもわたしは失望させるのが得意のようですね」ドミニーはやや憂鬱そうに言った。
 「ねえ、あなたは他人の言いなりになることはないのよ。分かりやすく言えばね、ステファニーといっしょになって馬鹿な真似はしないでほしいの」
 「そんなことしようなんてちっとも思っていませんよ」
 「でも、彼女はその気よ!わたしの言うことをよくお聞き、エヴェラード。あの女のことは、わたし、ちゃんと分かっている。彼女は利口だし、素敵だし、いろいろ美点はあるでしょうけどね、どういうわけかあなたにご執心よ。可愛いロザモンドを、まるで生きている権利がないみたいににらんでいるのよ。あなた、被害者みたいな顔をしないで。きっとあなたが彼女をつけあがらせたに違いないわ」
 ドミニーは黙っていた。幸いなことに、次の数分間は忙しさのあまり口をきく暇がなかった。従姉妹は辛抱強く射撃が止むのを待った。
 「さあ、どういう言い訳をするのか、聞かせてもらいましょうか。わたしの見るところ、あなたは奥さんにとっても優しくしているし、彼女もあなたを慕っている。王女と浮気したいのなら、ここではじめるのはまずいわ。彼女にやきもちを焼かせたら、また病気がぶり返すわよ」
 「ねえ、キャロライン、ステファニーとは何もないんですよ。安心してください」
 「彼女が一方的にのぼせているってこと?」
 「彼女の態度を大げさに取りすぎてますよ。かりにあなたが正しいとしても――」
 「あら、むきになって反論することはないわ!」と彼女は彼をさえぎった。「あなたが彼女をたきつけたんだと言ってるわけじゃないの。そんなことはしないと信じているわ。わたしが言いたいのは、奥さんは全快まであとほんのすこしなんだから、よほど注意を払って行動しなさいってこと。ステファニーと睦言をささやきたいなら、ここじゃなくてベルグレイブ・スクエアでおやんなさい」
 ドミニーはキジが旋回しながら落ちてくるのを見ていた。彼の左手がキャロラインの持つ弾薬袋に伸びた。弾薬を取る前に、彼は彼女の指をふとつかんだ。
 「あなたはいい人ですね。わたしは何があろうと、ロザモンドを傷つけるようなことはしませんよ」
 「昔の癖が抜けなくて浮気せずにいられないのなら、いつでもわたしがそばにいます。ロザモンドはわたしなら気にしない。薄茶の髪には白いものがちらほら混じってるんですもの。あら庭園の向こうから執事が来る。伝言でもあるんじゃないの。料理人さえ無事なら、わたし、どんな悪い知らせだって平気だけど」
 ドミニーは憂い顔の執事が雪をかき分け近づいてくるのをじっと見つめていた。パーキンスは外を歩くような格好ではなかったし、少しもそれを楽しんでいる様子はなかった。義務を果たすために黙々と進んでくるのだが、奇妙なことにその姿を目にした瞬間から、ドミニーは彼がなんとなく運命の使者であるように感じられた。しかし彼が主人のそばにようやくたどり着いて伝えた内容は少しも警戒心を抱かせるようなものではなかった。
 「旦那様、ノリッジからミラーというお客様がいらっしゃってます。外国の方で、最近この国に渡ってこられたようです。おっしゃることが分かりにくかったのですが、王女様の女中がドイツ語で話をしてくれました。どうやら旦那様がアフリカでお知り合いになったドクター・シュミットでいらっしゃるか、あるいはドクター・シュミットから言づけを預かってきた方のようです」
 そのとき笛が吹き鳴らされ、ドミニーはくるりと振りむいて銃を構えた。その振る舞いに不自然なところは全くなかった。頭上を飛ぶ雌キジを一羽見逃して、射程距離ぎりぎりのヤマシギを撃ち落とした。パーキンスのほうを振り返る前に、彼は弾をこめ直した。
 「その方は急いでいるのかな」
 「いいえ。旦那様は三時か四時にお帰りになると申しあげましたところ、待つのは全然かまわないとおっしゃいました」
 ドミニーは頷いた。
 「それじゃ、君がもてなしてさしあげたまえ、パーキンス。今日は帰りが遅くならないだろう。たぶんミスタ・シーマンに戻ってもらって話をしてもらうことになる」
 執事はうやうやしく帽子を持ちあげて、屋敷の方へ戻っていった。キャロラインは不思議そうに彼を見ていた。
 「アフリカのお友達がよくここに来るの、エヴェラード?」
 銃身を覗きこみながらドミニーは答えた。「シーマンは一緒に船で帰国したからちょっと違いますが、彼を除けばあの幸運の地から訪問者があったのはこれが初めてですよ。でも、そのうちわんさか来るでしょう。植民地にいた人間はおそろしく結束が固いから」

 第二十一章

 ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーは見たところすこしも警戒心を抱かせるような人物ではなかった。彼は執事の私用の居間で丁重きわまりないもてなしを受け、その歓待ぶりに充分満足しているようだった。ドミニーが入り口にあらわれると、彼は立ちあがって不動の姿勢を取った。軍人らしい挙措がいくつか眼についたが、それがなければ非常に社会的地位のある、隠退した商人としてどこでも通用しただろう。
 「あなたがサー・エヴェラード・ドミニーですか?」
 ドミニーは頷いた。「そうです。以前、お会いしたことがありますか?」
 男は首を横に振った。「わたしはドクター・シュミットの従兄弟です。あなたがお帰りになったあと、ローデシアから植民地に行ったのです」
 「先生はお元気ですか?」
 「従兄弟は相変わらず忙しいのですが、たいへん元気にやっております。あなたによろしく伝えてくれとのことでした。それからこの手紙も」
 男は多少気取った手つきで封筒を取り出した。そこには

 英国ノーフォーク州ドミニー邸 サー・エヴェラード・ドミニー男爵様

とあった。
 ドミニーが封を切っているとき、シーマンが入ってきた。
 「東アフリカで知り合ったドクター・シュミットから伝言を持ってきてくれたんだ。ミスタ・シーマンはわたしと一緒に南アフリカから帰国したのです」
 二人の男は互いの目をじっと見つめ合った。ドミニーは興味をそそられ彼らを見ていた。どちらもまったくの無表情で、まばたき一つしなかった。しかしその瞬間、直感的に危機の到来を感じ取り、ドミニーの感覚は極限まで研ぎ澄まされた。口にもそぶりにも出さなかったが、二人がお互いの正体を見て取ったことが分かった。ありきたりの挨拶が取り交わされた。ドミニーは数行からなる手紙を読み、ふと別の世界に連れ戻されたような気がした。

 親愛なる閣下
 慎んでご挨拶を申しあげます。こちらのその後の様子につきましては、別途、お聞き及びになることもございましょう。
 閣下にはわたしの従兄弟で、この手紙の持参者であるミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーをご紹介いたしたく存じます。従兄弟は閣下にご承知置き願いたいある事情を説明することになっております。従兄弟にはどのようなことでもお話しください。あらゆる点で信頼のできる人物です。
 カール・シュミット(署名)

 「あなたの従兄弟はちょっと謎めいた言い方をしていますね」ドミニーは手紙をシーマンに渡した。「それである事情というのは何のことですか?」
 ルードヴィッヒ・ミラーは小部屋を見回し、それからシーマンを見た。ドミニーは彼の躊躇をわざと誤解した振りをした。
 「こちらの友人は何でも知っています。わたしに対してと同じように話してください」
 男は物語を語るように話し出した。
 「わたしがこちらに来たのは、あなたに警告を与えるためです。ブルー・リバーの川岸、ビッグ・ベンドであなたが殺したイギリス人が、アフリカの別の場所にいるという連絡がありました」
 ドミニーは信じられないといったふうに頭を振った。「そんなことを伝えるために、わざわざここまでお出でになったんじゃないでしょうね。あの男は死んでいますよ」
 「わたしの従兄弟もなかなか信じようとしませんでした。あの男は命を奪うに充分な量のウイスキーを持っていました。それを全部飲み乾すくらい喉はからからで、食料は何もありませんでしたから」
 「わたしが彼を見つけたとき、付き添いに見捨てられ、譫言を言っていた。永遠に黙らせるのは赤子の首をひねるようなものだった」
 「ところがそれが未遂に終わっていたのです。植民地の三つの場所から彼の消息が伝わってきました。必死で海岸方面に向かっていたそうです」
 「自分の名を名乗っているのだろうか?」
 「いいえ。しかし従兄弟からあなたに申しあげるよう念を押されたのですが、いずれにせよ、彼は本名を名乗ったりはしないでしょう。彼の行動はまともではありません。身体もひどく弱っています。気が狂いかけているのは間違いありません。それでも彼が植民地にいる、あるいは数ヶ月前にいたというのは事実です。海岸まで達したら、いつ彼がここに来て、あなたを驚かすかも知れません。わたしはあなたに必要な措置を取っていただき、彼があらわれても不利な立場に置かれないよう、警告を発するために送られてきたのです」
 「妙な知らせを持ってきたものだね、ミラー」シーマンが考えこむように言った。
 「この知らせにはドクター・シュミットもたいへん心配しています。彼は現地人を一人ひとり詰問しました。しかし彼らの話を覆すことはできませんでした」
 「その話が本当で、あの男がこの国に向かっているとすれば、いつここにあらわれるかも分からないということだね」とシーマンが言った。
 「わたしがここに来たのは、その可能性を警告するためです」
 「君自身は現状をどこまで把握しているんだ?」
 男は曖昧に頭を振った。
 「何も存じません。わたしは数年前に東アフリカに行き、モザンビークでささやかな貿易業を営んできました。将校、病院、狩猟家に備品類を提供しているのです。ときどき仕入れのためにヨーロッパに戻らなければなりません。ドクター・シュミットはそれを知っていて、船出する直前に会いに来たのです。最初、彼は長い手紙を書くつもりだったようですが、気が変わったのでしょう。わたしがお持ちしたほんの短い手紙を書いただけで、あとのことは口頭でわたしに伝えられたのです」
 「先生が話したことはみんな覚えていらっしいますか?」ドミニーが訊いた。
 「今申しあげたことがすべてです」一瞬の間をおいて、そういう答えが返ってきた。「ドクター・シュミットはこの件を非常に気にかけています。これに関連して、訳の分からない、謎めいたことが起きていますから」
 「それで君がここにあらわれたのか、ヨハン・ヴォルフ?」シーマンの口調が変わった。
 訪問者は目に微かな驚きを浮かべただけで、一切顔色を変えなかった。
 「ヨハン・ヴォルフですか」と彼は繰り返した。「それはわたしの名前ではありません。わたしはルードヴィッヒ・ミラーです。この件に関しては、お話した以外のことは何も知りません。わたしはただの伝令です」
 「ウィーンで一度、クラクフで二度会っている」シーマンはもの柔らかに、しかし執拗に彼に思い出させようとした。
 もう一人の男はゆっくりと頭を振った。「人違いではありませんか。何年も前に一度ウィーンに行ったことがありますが、クラクフには行ったことがありません」
 「君は誰と話をしているのか、分からないのかね?」
 「ヘア・シーマンというお名前でしたね」
 「とてもいい名前だよ」シーマンは嘲るように言った。「これを見て考えてごらん」
 彼はコートとチョッキのボタンをはずし、セーム革の無地のベストを見せた。その左側には文字と数字が記されたブロンズの飾りがついていた。ミラーは無表情にそれを見つめ、頭を振った。
 「情報局、第十二執務室、合い言葉、時は迫れり」シーマンは声を落としてつづけた。
 相手は何を言われているのか理解できない子供のように薄笑いを浮かべて頭を振った。
 「こちらの紳士はわたしを他人と勘違いなさっていますね。何のお話やらさっぱり分かりませんが」
 シーマンは腰をおろし、何も言わずに数分間、この頑固な訪問者をじろじろと見ていた。両手の指を合わせ、眉間に軽くしわを寄せた。差し向かいに立っていた男は身じろぎもせずこの注視に耐えていた。冷静沈着、まさにドイツの典型的なブルジョア商人だった。
 「こちらに長くご滞在の予定ですか?」ドミニーが訊いた。
 「一日か二日、もしかすると一週間くらいは」彼は何気ない調子で答えた。「ノリッジにおもちゃを製造している従兄弟がいます。わたしはイギリスの田舎が好きなんですよ。休暇はこちらで過ごそうと思っています」
 「ほほう」シーマンが辛辣な声を出した。「雪の降り積もったイギリスの田舎が好きとはな!わたしにもう言うことはないのかね、ヨハン・ヴォルフ?」
 「男爵への用向きはお伝えしました」彼は申し訳なさそうに返事した。「あなたの気分を害したことを残念に思います、ヘア・シーマン」
 シーマンは立ちあがった。ドミニーはすでにドアの方を向いていた。
 「もちろんうちで一泊なさるでしょうね、ミスタ・ミラー。ミスタ・シーマンは明日の朝、もう一度お話がしたいだろうと思うんですよ」
 「泊めていただければこんなにうれしいことはありません、男爵。しかしながらお友達の興味をひくようなことは、もうこれ以上何もありません」
 「君は大きな間違いを犯しているぞ、ヴォルフ」シーマンが怒った。「上司のわたしに対する君の態度は許し難い!」
 「人違いだとお分かりいただけさえすれば!」咎められた男は懇願するように言った。
 ドミニーと共に家の正面側に向かうあいだ、シーマンは険しい顔をしていた。友人の問いに答える声も険しかった。
 「あの男と彼の訪問をどう思う?」
 「どういうことか分からんが、分かっていることもたくさんある。あの男はスパイだ。外務省の切り札ともいうべき男で重大な事件が起きたときにしか起用されない。名前はヴォルフ、ヨハン・ヴォルフ」
 「じゃ、彼の話は?」
 「それは君が誰よりもいちばんよく判断できるはずだよ」
 「その通りだ。わたしは間違いなくあの男の死体をブルー・リバーに投げこんだ。そして沈んでいくのを見た」
 「つまり彼の話は嘘だってことだ。事情は分からないが、われわれはわれわれ自身のスパイ組織から疑いをかけられてしまったんだ」
 広間に入ったとき、シーマンはアイダーシュトルム王女から緊急の呼び出しを受けた。ドミニーはしばらく姿が見えなかったが、やがて濡れた狩猟服を脱いで戻ってきた。彼のあとから召使いがやってきた。銀の盆にメモを載せている。
 「ミスタ・パーキンスの部屋にいらっしゃるお客様から、ミスタ・シーマンに御伝言です」召使いは声をひそめていった。
 ドミニーは小さく頷いて盆からメモを取りあげた。彼はお茶のテーブルから立ちあがろうとしている、客のなかでいちばん若くて、いちばんひょうきんな男のほうを振り向いた。
 「玉突きで勝負だ、エディ。プールは得意中の得意なんだって?」
 「相当な腕ですよ、わたしは」若者は満足そうに笑った。「スヌーカーで黒玉一個ハンディをあげましょう。どうです?」
 ドミニーは彼の腕を取ってビリヤードルームに連れて行った。
 「ハンディはいらない。用意したまえ。わたしがヨハネスブルグで二ヶ月間、どうやって生計を立てていたか見せてやろう」

 第二十二章

 ドミニー邸のその日の晩は、外から新たな客の一団を迎えたという点を除けば、実質的には最初の晩のくり返しに過ぎなかった。晩餐のあと、ドミニーはしばらく席を外し、ロザモンドの腕を取って戻ってきた。彼女はお祝いの言葉をかける近隣の人々に愛らしく応対していた。すぐに彼女の周りに小さな宮廷ができた。晩餐の席に連なったドクター・ハリソンは、その輪の外で彼女の軽やかな、そして時には燦めきさえ見せるおしゃべりに注意深く聞き入っていた。ドミニーは彼女が楽しそうにしているのを見て満足し、ターニロフが身振りで合図するのに応じて、彼と一緒に広間の奥のほうへ歩いていった。
 「さて、ご主人」と王子は熱をこめていった。「今朝話したことは前口上に過ぎないといったが、それを結論まで持って行くことにしよう」
 「是非お願いします」と主人役は小声で言った。
 「わたしが君に理解してもらおうとしてきたことは、わたしの見るところ――ついでに言うと、わたしのような立場に立つといろいろなものが見えてくるものだ――この国とわが国が戦争する恐れはもうないということだ。イギリスは平和を確保するためなら、無理のない範囲でどんな犠牲をも厭わない覚悟だ。イギリスは平和を欲し、平和をめざす。だから平和が訪れる。だから君がこの偽者の役割をすぐに止めた方がずっと良い結果をもたらすのだ」
 「わたしは自分の判断で行動できないのです。大使自身もご存じのように、わたしは命令を受けてここにいるだけです」
 「一緒に抗議しよう。わたしはロンドンに帰りしだい、報告書を書く。思うに事態は急を要している。君とのおつき合いは本当に楽しいのだが、この国で君が偽者を演じていることが分かれば、君との交友がわたしの地位を甚だしく脅かすことになる」
 ドミニーは立ちあがって、勢いよく薪が燃える暖炉の前の敷物の上に立った。大使は心地よい安楽椅子に座って足を組み、とりわけ彼が好む長くて細い葉巻をふかしていた。
 「大使、あなたがおっしゃったことのなかに、たった一つ間違いがあります」
 「間違い?」
 「イギリスは平和を欲する、ゆえに平和が訪れる、と大使は無条件に結論なさいました。わたしはシーマンと同意見です。きっとドイツの軍部が最終的に力を握るでしょう。たとえ今、皇帝が軍部と秘密裡に結託してないとしても、軍部は次第に彼らの意志を皇帝に及ぼすはずです。だからわたしは戦争が起こると思います」
 大使は静かに言った。「わたしがそんな考え方に共鳴したら、この国でのわたしの立場は恥ずべきものとならざるを得ないだろう。わたしが受けた命令は平和のために働くことだ。わたしの責務は皇帝からじきじきに受け承ったものだ」
 ステファニーがやや会話に飽きた様子で、遠くの集団を離れて彼らのほうに向かってきた。美しい目は疲れているようで、動きもけだるそうだった。話し声にもいつもの自信に満ちた響きがなかった。
 「大切なお話の邪魔をしたかしら。それなら向こうに行くわ」
 「大使とわたしの議論が完全に行き詰まってしまいました。友好的ではあるけれど、根本的な意見の食い違いが壁のように立ちはだかっているんです」
 「じゃあ、しばらくつき合ってちょうだい」ステファニーはドミニーの腕を取った。「ドミニー夫人が殿方を独り占めにするから、わたし、寂しいの」
 王子は一礼した。
 「議論は譲れませんが、ご主人はあなたにお譲りしましょう。わたしはビリヤードの相手を探します」
 彼が立ち去ると、ステファニーがその空いたところに座った。
 「ということは、わたしの従兄弟とあなたの話し合いは物別れに終ったというわけね」彼女はそう言いながら、ドミニーが横に座れるように場所を詰めた。
 「けんかはしていませんよ」
 「そうでしょうね。モーリスはあなたがひどく気に入ったみたいだから。以前彼と会ったことがあるかしら。ザクセンで一日か二日会っただけじゃない?」
 「そうです。初めて王子と親しくお話したのはロンドンでした。王子には最大限の尊敬と敬意を抱いています。でも、この楽しいおつき合いも、実はベルリンの友人がそれを望んでいるからという、そのへんの理由が大きいんじゃないでしょうかね。わたしの個人的な意見ですが、あれくらい素晴らしい人格者は、どんな国でも見たことがありません」
 「モーリスは高潔の士ね。わたしが知っている大貴族のなかでも、ちょっとした考え方や行動に生まれの気高さを感じさせる数少ない人間の一人だわ。たった一つだけ心を痛めてるものがあるけれど」
 「何です、それは?」
 「あなたたちの意見が分かれた話題――ドイツとこの国の戦争のこと」
 「王子は理想主義者でいらっしゃる。ときどきどうしてこちらに送られてきたのだろうと不思議に思うことがあります。もっと権謀術数に長けた人間を寄こばよかったのに」
 彼女は肩をすくめた。
 「あのフランスの偉人が言っているでしょう、どんな大使もいつまでも紳士ではいられない――政治的には、って」
 「わたしは外交官じゃないから分かりませんがね」
 「でも、外交官になる資格はいろいろ持っているわ」彼女は皮肉をこめていった。
 「たとえば?」
 「あなたは徹底して無慈悲で、仕事となれば思いやりもいたわりの心もない」
 「そんなことはありません」
 「あした、わたしはロンドンに帰る。とっても惨めな、不幸な女として。幸せをもたらすはずだった手紙も持って行く。命を捨てて得ようとした愛に裏切られたのよ。皇帝の命令を振りかざしても、わたしのすべてを捧げても、幸福は五秒と訪れなかった」
 「わたしがお願いしているのは、ただ猶予をくださいということだけです」
 「六年前のレオポルド・フォン・ラガシュタインだったら、いったいどんな猶予をくれといったでしょう」彼女の口調が突然激しくなった。「猶予をくれだなんて!あの頃の彼は氷山をも溶かすような言葉を使った。ときどき夜中に彼の言葉が浮かんできて、わたしを嘲るの。あの頃の彼には国家なんてなかった。恋人が歩く天国しかなかった。支配者じゃなくて女王しかいなかった。そしてその女王がわたしだった。それが今は――」
 ドミニーは不思議な胸の痛みを覚えた。彼女は相手の表情からいつもの厳しさが消えたのを見て、目を光らせた。
 「今ちょっとだけレオポルドみたいだったわ。普段は彼と似ていないけど。あなたは彼をアフリカのどこかに置き去りにして、偽者になってここに来たんじゃない?」
 「しばらくはそう信じてください」ドミニーは強く懇願した。
 「それが本当だったらどうしましょう」と彼女は突然言った。「ときどきあなただと思えないときがある。レオポルドがよく使っていた言い回しを、あなたの口からは聞いたことがない。西アフリカって魔術師の天国なの?もしかしたらあなたは偽者で、わたしが愛する人はまだ向こうにいるのじゃないかしら――たぶん病気で。あなたはまるで稀代の名優みたいにエヴェラード・ドミニーを演じている。もしかしたらここに来る前はレオポルドを演じていたんじゃない?あなたはわたしのレオポルドじゃない。愛は朽ち果てたりしないもの、あなたが信じさせようとしているみたいには」
 「どうやらようやく分かっていただけたようですね。カールトンでお会いした最初の瞬間から申しあげているように、わたしはあなたのレオポルドじゃないんです。エヴェラード・ドミニーなんです」
 「確かめてみるわ」彼女は急にそう言って立ちあがった。「腕を組んでちょうだい」
 彼女は人々が小さく固まっておしゃべりやらブリッジをしている広間を通り抜けた。シーマンは騙されやすい素人投機家に囲まれて鉱山の講義をしているところだった。彼らはあちらこちらで立ち止まり、短い言葉を交わしたが、ステファニーの指は同伴者の腕を決して放さなかった。彼らは狩りの版画の見事なコレクションが並ぶ廊下を進み、彼女はそれに興味をひかれた振りをした。そして小さな回廊から舞踏室に入った。そこには彼ら以外誰もいなかった。彼女は相手の肩に手を置き、目を見つめた。唇が彼の唇に近づいた。
 「キスなさい、レオポルド――唇に」彼女は命令した。
 「ここにレオポルドはいません。あなたもそう言ったじゃありませんか」
 彼女はさらににじり寄った。「唇にキスなさい」
 彼は彼女を抱き、かがむようにして唇を合わせた。それから彼女は彼から離れて立った。しばらく目を閉じ、再び彼が近づくのを防ぐように両腕をつきだしていた。
 「これで本当のことが分かったわ」
 ドミニーは適当な折を見て、投資先を探す少人数のグループからシーマンを引き離した。
 「厄介なことになったよ」
 「シュミットの密使とやらが何かしでかしたか」
 「いや。今晩は彼に近づかないつもりだ。君もそうしたほうがいい。厄介というのは王女のことなんだ」
 「王女の扱いに関する限り、君はへまをしたと思うね。対内的にも対外的にもなりすますべき人間になりきるという君の一般原則には大賛成だ。それこそがスパイ活動を成功させる秘訣なのだから。しかし例外を設けるときもわきまえておかなければならない。皇帝の命令に従うのは、わたしもどうかと思う。だが一方で、王女にもっと人間的な態度で接するとか、ロンドンの彼女の家を訪ねるとか、君の変わらぬ愛の熱烈な証拠を見せるとか、そういうことをするのは何の問題もないじゃないか」
 「いったんそんなことをはじめたら――」
 「いいかね。王女は世慣れた女性だ。分別がある。それに君たちはしっかり結ばれているのだ。遠慮なく言わせてもらうと、ドミニー夫人を相手にいちゃついているのを見るのは一瞬たりとも我慢ができない。しかし王女となら良心が咎めることなんか何もない。彼女を敵に回すことは絶対に避けたまえ」
 「手遅れだよ。彼女はもう床について、早朝にここを発つつもりでいる。どうやらわたしが西アフリカの魔術を使って彼女の愛人の魂を向こうに残し、彼の身体だけ借りて戻ってきたと考えているようだ」
 「そう考えてくれるなら、苦労はないじゃないか」
 「とんでもない!」ドミニーは憂鬱そうに言った。「彼女は帰る前にさんざんいたずらをするかもしれない。それに万が一シュミットの従兄弟の話が本当で、彼女が向こうに行き、まだ生きているドミニーを見つけたとしてみろ。王女がドイツの生まれじゃないことは知っているだろう。ドイツの未来など、彼女には全然関係ないんだ。実際、ほとんどのハンガリー人と同じように、イギリスのほうに好意を抱いているようじゃないか。イギリス人というのは猫みたいになかなか死なないらしい。ドミニーが生き返って、彼女が連れ帰ったらどうする?君は戦争がはじまるまで、あまりわたしを活用する気はないと言っていたが、慣用句の好きなこの国の言い方を借りれば、そんなことが起きたらせっかくの計画も『水泡に帰してしまう』んじゃないか?」
 「王女はスイートルームに泊まっているのか?」
 「西翼のね。そうだ!君が彼女のところに行って、何とかしてくれないか。この時間ならまだ寝ていないだろう」
 シーマンは頷いた。
 「任せてくれ。君は戻って主人役を務めたまえ」
 ドミニーはまず主人役を演じ、それから夫を演じた。ロザモンドは嬉しそうに一声叫んで彼を迎えた。
 「とっても楽しいわ、エヴェラード!みんな、すごく優しくしてくれるの。ミスタ・マンガンは新しい一人トランプの仕方を教えてくれたのよ」
 「そろそろお休みの時間ですな」ドクター・ハリソンが割りこんできて、ぶっきらぼうに言った。
 彼女は思いきり甘えるようにエヴェラードのほうを振り返った。
 「二階に連れて行ってくださる?ハリソン先生に追い出されるまえに、あなたが来てくれないかとずっと思っていたのよ」
 「遅れていたら、がっかりして胸が潰れただろうな。さあ、みんなにお休みを言いなさい」
 「まあ、まるでわたしが子供みたいなことを言うのね」彼女は笑った。「じゃあ、みなさん、さようなら。厳しい夫がわたしを連れ出そうとしているの。ハリソン先生、いつわたしを診にいらっしゃるの?」
 「診察の必要はない。ここにいるどの女性にも負けないくらい健康なんだから」
 「先生、ちょっと冷たいんじゃない?」彼女はドミニーに不平を鳴らした。「みんなに挨拶できるように広間を通っていきましょう。アイダーシュトルム王女はいらっしゃるの?」
 「残念だけど、お休みになったようだ」部屋を出ながらドミニーが答えた。「頭痛がするとか言っていた」
 「とってもきれいな方ね」ロザモンドは考え込むように言った。「わたしにももうちょっと好意を見せてくれたらいいのに。あなたのことは大好きのようだけど」
 「今はどうも嫌われているらしい」
 「そうかしら!わたしって観察眼がすごく鋭いの。ときどき、あなたを見つめているのを見かけたわ。もちろんわたしはあなたの本当の奥さんじゃないし、あなたはわたしの本当の夫じゃないから、焼き餅を焼くのは馬鹿げているんだけど。そうじゃない、エヴェラード?」
 「ちっともそんなことはないさ。君の夫でないなら、ほかの誰の夫にもなりたくないよ」
 「そんなふうに言ってくれるなんて、わたし、あなたが大好き」彼女は小さなため息をついた。「でも何か間違っているわ。あら、公爵夫人が怖い顔をしている。きっと誰かに悪い札を切られたのね」
 ロザモンドの就寝の挨拶は容易に終わらなかった。とりわけターニロフは彼女をしりぞかせたがらなかった。しかし彼女は上品に言い訳をし、明日の晩はもう少し遅くまで起きていると約束した。ドミニーは二階へ彼女を導いた。ぐずぐずとした彼女の歩みに、奇妙な喜びを感じながら。彼女の部屋のドアまでくると、なかを覗きこんだ。看護婦が安楽椅子で読書をし、女中がその後ろで編み物をしている。
 「ほう、これなら快適だね」彼は快活に言った。「看護婦さん、どうかそのままで」
 ロザモンドは別れをいやがるように、彼の両手をつかんでいた。それから彼の顔を引き寄せ、キスをした。
 「そうね」彼女はどことなく悲しそうに言った。「とっても快適だわ。ね、エヴェラード?」
 「なんだい?」
 彼女は彼の頭を引き寄せ、耳元でささやいた。
 「二分間だけお休みを言いにあなたのところに行ってもいい?」
 彼は微笑んだ。素晴らしく優しい微笑みだった。しかし彼は首を横に振った。
 「今晩はだめだよ。王子は夜更かしが好きだから、下に行って相手をしてやらないと。それにあのいじめっ子のお医者さんには睡眠時間を十時間取るよう言われているからね」
 彼女はがっかりした子供のようにため息をついた。
 「分かったわ」彼女はふと聞き耳を立てた。「あれ、車じゃない?」
 「誰かお客さんが早々にお帰りになるんだろう」そう答えて彼は踵を返した。

 第二十三章

 シーマンはすぐさま王女の部屋へ足を運んだわけではなかった。代わりに召使いたちの居住区へ行き、執事の部屋をノックした。返事はなかった。取っ手を回してみたが無駄だった。鍵がかかっているのだ。隣の部屋から、背の高い、真面目な顔つきをした、地味な黒服の男が出てきた。
 「今晩外国からいらっしゃったお客様をお捜しですか?」
 「ああ。鍵をかけて閉じこもったのかな?」
 「お客様はお屋敷をお出になりました、旦那様」
 「出ていった!もう戻ってこないということか?」
 「そのようです、旦那様。言葉がよく分からなかったのですが、どうも、こちらでの待遇がお気に召さなかったようです。駅まで夕刊を取りに行く車がありましたので、それに便乗して最終列車にお乗りになりました」
 シーマンはしばらく黙っていた。この知らせは彼にショックを与えた。
 「君はここで何をしているのかね?」
 「わたしはレノルズと申します、旦那様。ミスタ・ペラムの召使いをしております」
 「屋敷を出たのに、ここのドアが閉まっているのはなぜだ?」
 「ミスタ・パーキンスが出かける前に鍵をかけたのです。彼はお客様と――たしかミスタ・ミラーとおっしゃったと思いますが――一緒に駅までついて行かれました」
 シーマンはまだ納得がいかないようだった。
 「部屋にはいつもこんなふうに鍵をかけるのか?」
 「ミスタ・パーキンスはいつもそうなさいます、旦那様。なかには葉巻の箱が保管されていますし、ワイン貯蔵庫の鍵や食器棚の鍵もあります。ほかの召使いはミスタ・パーキンスの許可がないとこの部屋を使うことができません」
 「なるほど」シーマンは向きを変えながら言った。「いろいろ教えてくれてありがとう、レノルズ。あとでミスタ・パーキンスから話を聞くよ」
 「お伝えしておきます、旦那様」
 「おやすみ、レノルズ!」
 「お休みなさいませ、旦那様!」
 シーマンは混雑する広間とビリヤードルームをまたもや通り抜け、あちらこちらで短い会話を交わしたあと、南の階段をあがって西翼に向かった。ステファニーはためらいもなく彼を部屋のなかに入れた。寝室につながる私室で、暖炉を前にして椅子に座り小説を読んでいた。
 「王女」シーマンは頭を低くさげて言った。「お発ちになると聞き、一同がっかりしております」
 彼女は本を下に置いた。
 「わたしはこの屋敷で侮辱されたのです。明日出ていきます」
 シーマンは咎めるように頭を振った。
 「王女、差し出がましい口をきくつもりはまったくありません。わたしは一介のドイツ商人に過ぎませんし、名士の方々とおつき合いさせていただいているのも、わが国の利益につながるからという理由があるだけです。しかし今回の件、王女を落胆させた件については、たまたま真実を知っているのです。ご決心を改めていただくことはできないでしょうか。わたしたちの親友は不必要と思われるくらい自分を厳しく律しています。それだけ終わったときの報いも大きくなるからです。それだけあなたの前に膝をつくときの喜びが大きくなるからです」
 「あなたはわたしを説き伏せるために寄こされたの?」
 「直接そうしろと言われたわけではありません。しかしわたしはこの計画において彼の家令のようなものです。わたしが彼をアフリカから連れてきたのです。最初から彼を監督してきたのです。一人より二人のほうが良い知恵も浮かびます。わたしは彼が間違いを犯さないように忠告し、危険な道と安全な道を指摘してやるのです」
「サー・エヴェラードはあなたを重宝しているようね」彼女は静かに言った。
 「そうだといいのですが」
 「彼がイギリスの生活や習慣に見事にとけこんだことは、もちろん気づいていらっしゃいますわね?」
 「彼がこの国で教育を受けたことを忘れないでください。しかし彼の適応力はたしかに見事です」
 「不自然と言っていいくらいだわ。教えてちょうだい、ミスタ・シーマン。あなたは彼を完璧にサー・エヴェラードに仕立てあげることに成功したみたいだけど、あなたにとって彼の本当の価値は何なの?彼はどんな仕事をするの?」
 「彼は大仕事のためにとってあるのです。王女は最近皇帝陛下にお会いになりましたか?」彼はためらいがちに訊いた。
 「あなたのいいたいことは分かっています。ええ、わたしは夏の終わりまでに荷造りして、急いでこの国から逃げなければならない。そのことは承知しています」
 シーマンがおごそかに言った。「そのときなんですよ、サー・エヴェラード・ドミニー、その愛国心を微塵も疑われていない典型的なイギリスの郷紳が役に立つのは。今、われわれに協力している人はほとんどが疑惑の目を向けられることになるでしょう。われわれスパイ組織の要員は水面下でしか行動できません。変化するイギリス人の心理をあらゆる方面にわたって日々報告できる内通者がいればどれだけ有利な立場に立てるか、王女もお分かりになるでしょう。ほかの情報は充分に提供されています。船の設計図、飛行場と港、護衛船の航行力、兵士の召集、こうしたことはスパイ活動の基本です。われわれの友人には何も尋ねることはありません。しかしバークレイ・スクエアの町屋敷からは、時々刻々と変化するイギリスの息づかいがわれわれに伝えられるのです。そこの主人役は政府の閣僚や軍人やこの国の最高の頭脳を接待するのですから」
 「そういうことをこの屋敷の主人に期待しているというの?」
 「そうです。そして必ずそれを手に入れるつもりです。わたしは毎日彼を見ていますが、ますます彼を信頼するようになりました」
 ステファニーは黙っていた。彼女は暖炉のなかを見つめて座っていた。いつものように目ざといシーマンは彼女の変化に気がついていた。そして今までとまるでちがうよそよそしい態度に腑に落ちないものを感じていた。
 「王女、わたしがここに来たのは、心の奥底であなたを愛している男の弁護をするためではないのです。そのときが来たら、彼は自分で理由を説明し、許しを乞うでしょう。わたしはご辛抱いただくようお願いに来たのです。性急なお振る舞いはなさらないよう、こちらでの彼の立場を決して危険にさらさないよう、折り入って頼みに来たのです。わたしはあなたがた女性が与えてくれる楽園のような世界とは縁のない人間です。そこで起きていることの善し悪しなど、とても判断できません。しかしあなたの胸の内に苦々しい思いがわだかまっているように感じられます。心を寄せていた男が、祖国を第一に選んだのですから。わたしはご辛抱をお願いしたいのです、王女。どうかわたしを信じてください。わたしにはよく分かっているのです。レオポルド・フォン・ラガシュタインの意固地な態度は、一歩も引くことを知らない義務感から出ているものなのです」
 「わたしが何をすると心配しているの?」彼女は不思議そうに訊いた。
 「何も心配していません――直接的には」
 「じゃあ、間接的に何かするということ?答えてちょうだい」
 彼は正直に言った。「わたしが心配なのは、この国ではないにしても、どこか世界の片隅で、あなたがあざけりや怒りの言葉を吐き、その結果、たかがノーフォークの男爵にどんなうらみを抱いているのだろうと人々に不審がられることです。あなたがあなたの過去を知っている人の前でそのようなことを口にし、かつまたサー・エヴェラード・ドミニーとレオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵が驚くほど似ていることに気づかれてしまう、そういうことを避けたいのです」
 「分かりました」ステファニーはかすかに唇を開いてほほえんだ。「ミスタ・シーマン、ご心配には及びません。胸の内に秘めてここから持ち去るものを、あなたにも他の誰にも打ち明ける気はありません。二、三日後、わたしはこの国を出ます」
 「ベルリンにお戻りですか――それともハンガリー?」
 彼女は首を振り、女中に合図してドアを開けさせた。それから面会が終わったことのしるしとして手を差し出した。
 「海を渡るつもりです。アフリカへ」
 次の日は小さな驚きが畳み掛けるように襲いかかる日だった。エディ・ペラムの席が朝食時間の終わりになっても空席のままだったことがまず人々の好奇心をかきたてた。
 「真っ白、真っピンクのしゃれ男はどこだ?」判事が尋ねた。「毎朝あいつがどうやってネクタイを結ぶのか不思議に思っていたんだが」
 「帰ってしまいましたよ」ドミニーがサイドボードから振り返って言った。
 「帰った?」全員が鸚鵡返しに言った。
 「こんなことは今までになかったと思いますね。町から呼び出しがかかったんですよ」
 「エディが呼び出されるなんて、まともな用事とは思えないけど!」キャロラインがつぶやいた。
 「奇特な人もいるものだ、真夜中に彼をベッドから引きずり出し、ノリッジから朝食つき列車で町に帰ってこいと言うなんて!」と主人がつづけた。「彼が紫の部屋着を着て、そのことを知らせに来たときは、新手の幽霊でもあらわれたのかと思いましたよ」
 「誰があいつを呼んだんだ?」公爵が訊いた。「仕立屋か?」
 「大切なビジネスがあると言っていましたが」ドミニーが答えた。
 陽気な笑い声がさざ波のように広がった。
 「エディが生計のために働いているなんて」キャロラインがあくびをしながら言った。
 マンガンが言った。「ミスタ・ペラムはチェルシー自動車工場の取締役です。昨年のことですが、ささやかな遺産を受け取られましてね。最初にそのことを知ったのは彼のお気に入りのタクシー運転手だったとか」
 「その関係でエディが帰ったって言うの?」
 「それはまずあり得ません。このあいだわたしに、工場がどこにあるか知っているか、と聞いたくらいですから」マンガンが言った。
 「彼がいないと寂しいわ。猟のあとの彼の服装を見るのがいつも楽しみだったんだけど」
 「ブリッジの腕も悪くはなかったよ」と公爵が言った。
 「この二日間は弾もよく当たっていましたね」マンガンが言った。
 「それに今日は茶色を着るんだって、こっそり教えてくれたのよ。考えてみたら茶色はエディに似合うと思うわ」最後にキャロラインが言った。
 いなくなった若者への哀歌は地元紙の朝刊が届いたために打ち切られた。やがてドミニーは立ちあがって部屋を出た。いつになく物静かだったシーマンが彼のあとを追った。
 「君、聞いているかどうか知らないが、昨日の晩、この屋敷で奇怪な失踪があったんだよ」
 「誰の失踪だね?」ドミニーは煙草を選ぶために立ち止まった。
 「われらが友人ミラー、またの名をヴォルフ、ドクター・シュミットの伝令だよ」
 「消えた?どこかをうろうろしているんだろう」
 「細かい調査は君に任せる。わたしは昨日の晩、彼ともう一度話し合い、いやに秘密めかした行動の理由を探ろうとしたのだ。君の執事の部屋には鍵がかかっていて、ひどく丁重な男――ミスタ・ペラムのそば仕えだったのだが――彼が教えてくれたんだよ、やつは夕刊を買いにいく車に便乗して出て行ったと」
 「調べてみよう」ドミニーは一瞬当惑したように考えこんでからそう決めた。
 「頼むよ。胸騒ぎがするんだ。何がどうなっているのか分からない。理解できないことが起きると、わたしは不安になるんだ」
 ドミニーは下の階に消え、半時間ほどロザモンドのそばにいた。落ち着きを失った客とまた顔を合わせたのは、最初の森の猟場に歩いていく途中でだった。ドミニーが撃ち場を指し示したあと、二人だけで話す機会が訪れた。
 「どうだった?」シーマンが尋ねた。
 「どうやらわたしたちの友人は急に気が変わって帰ることにしたようだね。一階の執事の部屋の隣に小部屋があって、そこにベッドの用意ができていた――というか、いつでもそこで寝ることができるんだ。パーキンスと運転手が駅に行く支度をするのを見るまで、彼は帰るなんてひと言も言わなかったそうだ。それが執事と同行したいと言い出し、ノリッジ行きの列車があると分かると、さっさと二人にお別れをしたそうだ。君にもわたしにも伝言はなかった」
 シーマンは考えこんだ。
 「彼の出発が、われわれに対するある種の不審をあらわしていることは間違いない。彼は何かを突き止めようとしてここに来た。そしてそれを見つけたんだと思う。そんなに落ち着いていられるとはうらやましいな、君。火山の火口に立っているというのに、君はキジ撃ちかね」
 「気分を変えてウズラを撃ってみよう」ドミニーが身体を回転させた。ちょうど一羽の山ウズラが低い羽音とともに後ろの生け垣を飛び越そうとしていたのだが、少し離れたところに、くしゃりと羽毛の塊となって墜落した。
 「見事だ」微かに嫌味をこめてシーマンが言った。「その神経の図太さはうらやましいかぎりだ」
 「別に大したこととは思えないんだがね。あの男はまったく無害だと思うよ」
 「わたしは別のことでも心配がある」
 「他にも問題が起こりそうなのかい?」
 「午後、屋敷に帰ったら、お客さんがまた一人減っているだろう」
 「王女のことか?」
 「王女だ。昨日の晩、一生懸命説得したのだが、どうも様子がおかしかった。しかしとりあえず王女のことは心配しなくていい。彼女は海を渡るらしい」
 「どこへ?」
 「アフリカだとさ!」
 ドミニーは銃に弾をこめる手を止めた。ゆっくりと振り返り、相手の無表情な顔を覗きこんだ。
 「なんだってそんなところへ?」
 「分からない。どうしてヨハン・ヴォルフがここに送りこまれ、探りをいれようとしたのか、分からないのと同じだよ。こっちの首尾は上々だというのに。ひどく胸騒ぎがする。納得のいくことなら、どんなに危険だろうと、怖くはない。しかし納得のいかないことは、わたしを不安にするんだ」
 ドミニーは静かに笑った。
 「深刻になるような危険なんて何もないさ。王女はご立腹だが、われわれのことを人にもらす恐れはない。ヴォルフという男はわれわれのどちらに対しても不利な報告はできないだろう。仕事はちゃんとやっているし、しかも順調にはかどっている。良心に恥じることはしていないと、自分たちを慰めようじゃないか」
 「それはいいが、しかしわたしは心配だ。これ以上ここにいるわけにはいかないな。君とわたしがあまり親しそうにつきあっているのは賢明ではない」
 「そうだな。わたしは一人でも大丈夫だ」
 「王女のことを別にすれば、君の行動はあらゆる点で慎重をきわめていた」
 「王女のことを別にすれば、か」ドミニーは苛立たしそうにくり返した。「いったい君はこの件をどう見ているのかね。こんな仕事の最中にこっそり新婚旅行ができるとでも思っているのか!」
 「なんとか折り合いをつけることはできるはずだよ。他のことは如才なくこなしているんだから」
 「君は王女のことが分かっていないんだ」
 ロザモンドがステファニーの突然の出発のニュースを持って昼食に加わった。全員に宛てたメモやらメッセージも持ってきた。キャロラインは主人に向かって軽く渋面を作って見せた。
 「あなた、大変なことになったわね」と彼女は耳元でささやいた。「でもこれでよかったのよ。ステファニーは好きだけど、危険すぎるわ」
 「そうでしょうか」
 「たいていの殿方はそう思うと思うわ。彼女は一度素敵な情事を体験しているのよ。知っていると思うけど、その結果旦那さんは決闘で殺され、愛人は国外追放になった。でも彼女は愛人が追い出されたからといって、あきらめるような女じゃない。ここにいるあいだ、あなたを愛人の代わりにしようとする様子がありありと見えたわ」
 「せっかくのハウスパーティが葉枯れ病にやられたような気分ですよ」ドミニーは何気なく話題を変えた。「最初にエディ、それからミスタ・ルードヴィッヒ・ミラー、今度はステファニーだ」
 「結局ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーって誰だったの?」
 「太った、亜麻色の髪をしたドイツ人で、アフリカの古い友人から言伝を持ってきてくれたんです。荷物を持たずに杖一本だけで来たんですよ。昨日の晩、下男たちが怒ってました。ベッドを用意させておきながら、消えてしまったので」
 「銀のお皿でも持ち逃げしたの?」
 「なくなったものは何もありません。パーキンスが必死になって半時間ほど全部の数を数えたんです。ミスタ・ルードヴィッヒは不完全な世界を構成する解き得ない謎の一つみたいですね」
 「わたしたちは楽しかったわ」キャロラインは思い出しながら言った。「明日、ヘンリーとわたしは帰る。他の人も帰ると思う。いろいろあったけど、やっぱりここに来てよかったわ」
 「そう言っていただけて幸いです」
 「もうちょっとあなたとお話をしたかったんですけどね」彼女はわざとそう言った。「でも失望の埋め合わせはたっぷりしてもらったわ。あなたの奥さんは大切にしてあげるだけの価値があると思う、エヴェラード。とっても可愛らしいし、物腰もすごく魅力的だわ」
 「そんなふうに思ってもらえて嬉しいですよ」彼は心からそう言った。
 彼女は目をそらした。
 「エヴェラード」と彼女はため息をついた。「あなた、奥さんを愛しているのね」
 それに答えた彼の顔には奇妙な、ほとんど怖ろしいといっていいくらい、さまざまな表情が交錯した。恐れるような、慈しむような、絶望してあきらめかけたような表情だった。普段はゆったり落ち着いた声も、急にこみあげてきた感情に震えた。話し相手はあっけにとられた。
 「わたしもそう思います。自分でも怖いのですよ、彼女を思う気持ちが。それが別の悲劇を起こしそうな気がして」
 「くだらないことを言わないでちょうだい。どんな悲劇が起こるというの?あなたはまっとうな人間に返ったのよ。強くて、頼りがいがあって、ロザモンドみたいな可愛いチャーミングな人を守るのにぴったりの人だわ。それを悲劇だなんて!奥さんを連れて南フランスに行きなさいな、エヴェラード。新婚旅行をやり直すの。どう?」
 「今はまだできません」
 彼女は不思議そうに彼を見つめた。ときどき彼のことがさっぱり分からなくなるときがあった。
 「まだアンサンクの事件が心配なの?」
 彼はわずかにためらった。
 「あの問題の余波がまだ残っています。わたしたちにのしかかる雲のように。そのうち片をつけるつもりですが――それより先に他の面倒が起きるかも知れません」
 「あなたは真面目すぎるのよ、エヴェラード」彼女は当惑した顔つきで彼を見た。「あなたの人生には、人には絶対見せられない、とっても重要な裏面があるみたい。どうしてあの変な小男のシーマンといつも一緒なの?まさかゆすられているとか?」
 「それどころかシーマンはわたしの財産を最初に築いてくれたんですよ」
 彼女は肩をすくめた。
 「わたしも株式取引所で一回か二回か小金を稼いだけど、そのあと仲買人をポケットに入れて持ち歩いたりはしなかったわ」
 「シーマンは気のいい男ですよ。人づき合いが好きなんです。そのうちふらふらとどこかへ行って、何年も姿を見せなくなるでしょう」
 「ヘンリーはね、あなたが英独同盟派として議会に出馬する気なんだろうかって考えはじめたわ」彼女は最後にそんなことを何気なく言った。
 彼らは農夫用の台所でこそこそと話をしていたのだが、入口からミドルトンが非難がましい視線を向けているのに気がつくと、ドミニーは笑い声をあげた。彼は相手を促すように立ちあがった。
 「議会のことは多少考えています。しかし――まあ、ヘンリーが心配することはありません」

 第二十四章

 次の日の朝、ドミニーが苦心して編成した狩猟隊は解散することになった。王子は車に荷物を積みこむあいだ、主人の腕を取って脇に引き寄せ、しばらく話をした。型通りの感謝の言葉を述べたあと、ぐっとくだけた調子で話しはじめた。
 「フォン・ラガシュタイン、先日の話をもう一度思い出してほしいんだが」
 ドミニーは頭を振って後ろをちらりと振り返った。
 「ここでのわたしの名前は一つだけです、王子」
 「じゃあ、ドミニーと呼ぼう。君はすっかり役になりきっているな。わたしは生まれてからずっとイギリス紳士を見ているが、君の演技は実に堂に入ったものだ。しかし聞きたまえ。君を中心とするこの計画に、わたしが賛成していないことは話したね」
 「承知しております」
 「それはわたしの個人的な見解だ。しかしこれから言うのは公務上のことだ。昨晩ベルリンから公文書が急送されてきた。君に関係した内容だ」
 ドミニーの身体がほんの少しこわばった。
 「どんなことでしょう」
 「こういうことだ。わたしがあり得ないと考えている例の破局、あれが生じたときのみ、君は事実上存在が認められる。こうもはっきり書いてあった。いかなる時であれ、君の正体が暴露された場合、君の偽装は君一人が企てたことであり、本国の政治的活動とは一切関係がないとみなされる」
 「そこまでは今までと何の変わりもありませんね」
 「さらに君は戦争の際、極秘のうちにわたしの仕事を継ぐことになっており、そのつもりで君を待遇せよとのことだ。君とは親密に交際し、全幅の信頼を寄せ、不幸な結果が訪れた場合は、未完了の仕事のうち内密につづけられるものをすべて君の手にゆだねるようにと言われた。わたしの言い方はちょっと分かりにくかったかな」
 「よく分かりました。当局はわたしに対する最初の方針を変えたんですね。わたしに一切疑惑がかからないようにし、戦争の際は、イギリス上流階級と親しく交わる、熱烈な愛国的ドイツ人という、たぐいまれな立場に置こうというわけですね。これは忙しくなりそうだ」
 「お互い納得がいったようだね。そういうわけだから、このあとすぐロンドンに来て、わたしの屋敷カールトン・ハウス・ガーデンズで君を歓待する機会を与えてほしいと思う」
 「ご親切にありがとうございます、王子。わたしは、こちらで足場をしっかり築いたら――これはもう大丈夫と思うのですが――さっそくロンドンに赴き、命令を待つよう、指示を受けています。何よりもまず、先日お話に出た回想録を読ませていただければと思います」
 「もちろんだ。そうしてくれればわたしも大いに嬉しい。この国の大臣たちと会見したり、協議したことがありのままに記録されている。平和を望み、平和をめざす気持ちにあふれていて、君を驚かせると思う。さて、次は少々微妙な問題なんだがね」彼はテラスを逆戻りしはじめたとき、急に話題を変えた。「ドミニー夫人も一緒に来るんだろうね?」
 「分かりません」ドミニーは慎重に答えた。「失礼ながら、王子、あなたが彼女のことを深く思いやっていらっしゃることは分かっています。ご安心ください。わたしの立場は微妙なものですが、彼女がエヴェラード・ドミニーの妻だということは決して忘れません」
 ターニロフは心のこもった握手をした。
 「それが聞きたかったのだ。君は他の男とは違うと直感していたよ。しかしわが民族の男のなかにも、情欲や政略のためなら、女性を犠牲にして一顧だにしないという手合いも大勢いるからね。ドミニー夫人は魅力的な方だと思うよ」
 「彼女はわたしが必ず守ります」ドミニーは断言した。
 さらに別れの挨拶があり、そのすぐあとに車が短い列をなして走り去った。ロザモンドもみずからテラスに出て客たち全員に別れを告げた。彼女がドミニーの腕にしがみついたのは、二人ががらんとした広間に戻ったときだった。
 「なんていい人たちなのかしら、エヴェラード!もっと会う機会があればいいのに。公爵夫人はとてもやさしかったわ。それにターニロフ王子みたいに素敵な人は見たことがない。あなたもあの人たちがいないと寂しいでしょう?」
 「ちっともさ。これから猟銃を抱えて牧草地を抜け、荒れ地を歩いてこようかと思っているんだ。一緒に来るかい?それともきれいなガウンを着て、下でお昼ご飯のお相手をしてくれるかい?二人だけで食事をするのは久しぶりだね」
 彼女はどこか悲しそうに首を振った。
 「一緒に食事なんて、したことがないわ。知ってるくせに、エヴェラード。わたしには分かっているの。でもわたしたち、お芝居をつづけていくのよね」
 彼は彼女の手を取りキスをした。
 「好きなだけ芝居をすればいいんだよ、ロザモンド。君の望むことはわたしの望むことなんだから。ほらほら、泣かないで」彼女が背を向けたとき、彼は急いでこうつけ加えた。「忘れないでほしい。今の君には幸せしかない。わたしが誰であろうと、君の幸せだけがわたしの人生の目的なんだ」
 彼女は彼の手を強く握り、それでは足りないと思ったのか、突然両腕を首に回しキスをした。
 「わたしも行くわ。あなたをはなしたくないんですもの。おとなしくしている。十分だけ待ってちょうだい」
 「もちろん」
 彼は銃器室に行き、しばらく暖炉の側に立っていたが、ふと中庭に出た。ミドルトンと二人の勢子が犬を従えて待っていた。しかし彼らのほうに一歩踏み出そうとして彼はぎくりと立ち止まった。驚いたことにシーマンがいた。脇に寄るようにして立ち、召使いたちの部屋の窓をじっと見上げている。
 「やあ、君か!サーズフォードから朝の汽車で帰ったんじゃなかったのかい」
  「二分差で乗り遅れたんだ」シーマンは勢子を一瞥しながら言った。「十一時発のは満員だろうから、午後まで待つことにしたよ」
 「今までどこにいたんだね」
 シーマンは傍らに寄り添い、他の者に話を聞かれないよう場所を移動した。
 「昨日の晩、ヨハン・ヴォルフが急に出発した謎を解こうと思ってね。並木道をちょっと散歩しよう」
 「じゃあ、本当にちょっとだけだよ。ドミニー夫人を待っているんでね」
 二人は細い鉄の門を抜け、屋敷の裏口に通じる道の一つを歩いた。
 「軽率と思わないでくれよ。誰にも知られないように戻ってきて、みんなが出発するまで隠れていたんだから。前にも言っただろう、理解できないことが起きると、わたしは不安になるんだ。しかし、見たまえ、わたしは午前中に、ヴォルフの突然の出発がますます怪しいという証拠をつかんだ」
 「つづけてくれ」
 「今朝、偶然に分ったことがある。ペラムの召使いは勘違いしたか、わざとわたしに嘘を言ったのだ。ヴォルフは君の執事と一緒に駅に行ったりしなかった」
 「どうやってそんなことを探り当てたんだ」
 「そんなことはどうでもいい。肝心なのは、この屋敷の召使いたちが、どういうふうにヴォルフがここから出ていったのか、隠そうとしているということだ。いやいや、黙って聞いてくれ。もう溶けてしまったが、今朝早く雪が降ったのだ。例の鍵が掛かった部屋の窓の外には足跡と小型の車のわだちが残っていた」
 「そこから何を推理したのだ?」
 「この近所にヴォルフの仲間がいる。さもなければ――」
 「うむ」
 「これは突拍子もない仮定だよ。しかし、何もかも理解できないことだらけなのでつい言いかけたのだが――彼は力ずくでさらわれたんじゃないか」
 ドミニーが静かに笑った。
 「ヴォルフはそう簡単に拉致されるような男じゃない。そう考えるべき、どんなにまことしやかな理由があったしてもね!実を言うと、シーマン」彼はロザモンドが並木道に立っているのを見て、急にその場でくるりと向きを変えた。「ヨハン・ヴォルフの一件は重要視するに及ばないと思う。彼がスパイだとしても放っておけばいい。こっちはこっちで落ち度もなく、立派に仕事をしているんだ。君もわたしも上層部に隠さなければならないような秘密はこれっぽっちもない」
 「ある意味でそれは正しいな」とシーマンは認めた。
 「じゃあ、元気を出したまえ。一緒に散歩をしよう。パーキンスが昼食用にあの年代物のバーガンディーを見つけておいてくれるかもしれない。どうかね」
 「散歩はごめんこうむるよ。君が戻るまでここにいるほうがいい」
 「あの男の失踪に興味を示しすぎると、召使いたちが噂をはじめ、かえってまずいことになる」
 「気をつけよう。しかし自分を抑えられないこともあるのだ。わたしはいつも直感に従う。わたしの直感ははずれたことがないんだ。もう君の召使いを問いただしたりはしないが、しかしヨハン・ヴォルフが突然出発した背景には何か謎がある」
 一時頃に戻ってきたドミニーとロザモンドはシーマンの置き手紙を見つけた。ドミニーはロザモンドが火の前で足を暖めているあいだに封を切った。たった数行の手紙だった。

 思いついたことがあり、ロンドンに行く。二、三日したらあちらで会おう。  S

 「本当に帰ったの?」
 「ロンドンに行ったようだ」
 彼女は幸せそうに笑った。「それじゃ、結局二人きりでお昼がいただけるのね。嬉しいわ。願いがかなった!」
 ドミニーの顔はみるみる紅潮したが、それは即座に抑えつけられた。
 「わたしの願いがかなう日は来るのだろうか」そう言う彼の声は奇妙に引きつっていた。

 第二十五章

 六ヶ月後のある朝、ターニロフとドミニーはゴルフコースを一周したあと、冷たい飲み物を手に、ラネラ・ガーデンズのニレの大木の下でのんびりとくつろいでいた。同じ頃、数百万のイギリス人は汗をかきながら昼の新聞の大見出しを呆然と見ていた。
 大使はけだるく満足そうに椅子にもたれた。「ローマが燃えているのに、わたしは竪琴を弾いていると、非難されそうだな」
 「確かにあなたほど事態を楽観視している人はいませんね」ドミニーは静かに答えた。
 「わたしくらい状況を把握している人間はいないからね」
 ドミニーはしばらく黙って飲み物に口をつけていた。
 「ロシアの動員令について最新のニュースを聞きましたか。今朝、街ではとんでもない数字が飛び交っていましたが」
 王子はくだらないとでも言うように手を振った。
 「わたしの信念は外面的な出来事にもとづいているのではない。ロシアが動員令を出すとしたら、それは防衛のためだ。ドイツを攻撃しようと夢想する国は世界のどこにもないし、世界に冠たる国家たろうとするドイツが軍事行動などという手荒な方法でその地位を危うくする真似などするわけがない。セルビアは当然罰せられなければならないが、それに関してはヨーロッパの全国家が原則として一致している。オーストリアが度を超した報復をすることは、われわれが許さない」
 「あなたの意見は少なくとも終始一貫していますね、王子」
 ターニロフはにこりとした。
 「それは舞台裏を知っているからだよ。大使の特権として各指導者たちの心の内をのぞかせてもらったからだ。君は青春を軍隊で過ごしたね。君たち軍人は、自分たちこそドイツで一番重要な人間だと思っている。実はそうじゃないのだ。皇帝が望んでいるのは軍事力とは別物なんだよ。ところで昨日、ステファニーからびっくりするような電報が届いた」
 ドミニーはヒナギクの上で無造作に振り回していたパターを止め、話を聞こうと振り向いた。
 「彼女は帰国の途上ですか」
 「もうすぐサザンプトンに着くだろう。着いたらさっそく会いたいので、どこに行けばいいか教えてくれと言っていた。ひどく重要な情報があるそうだ」
 「アフリカに行った理由を言いましたか」
 「それがさっぱり教えてくれないのだ。考えられることといえば、君の過去に関する情報を集めに行った、ということくらいなのだが」
 「彼女はシーマンにもそう説明したそうですが、そんなことをしても得るものはありませんよ。どれだけ徹底的に調査していただいても、わたしはアフリカで、やましいことなど何一つしていませんから」
 「全くばかばかしいかぎりだ。だが、それにしても君の判断は賢明だったのだろうか。君の役割は分かっているが、皇帝の命令には従ってもよかったのじゃないか。わたしの知るかぎり、仲間内で浮気をし、恋のあだ花を咲かせるのは、この国の社交界では珍しいことではないのだから」
 「みんなが同じようにすねに傷をもっているなら、それもいいでしょう。しかしドミニー夫人に対するわたしの態度はひどすぎました。妻をそっちのけに別の女とつき合ったりしたら、これはもう弁解の余地がない。それにわたしが遂行すべき任務にも影響が出たかも知れません」
 「何度も議論したことだね」大使はため息をついた。「蒸し返すのは止めておこう。おや、見たまえ!ご婦人方だよ!」
 ロザモンドと王女が屋敷からあらわれ、二人の男は急いで出迎えに行った。王女はにこやかな表情を浮かべ、贅をこらした衣装をまとい、堂々と振る舞った。その横に立つロザモンドは、同じように衣装に贅をこらしていたが、より若々しいいでたちで、ほとんどまだ未成年者のように見えた。昼食室にはいると、名士や著名人が小さなグループを作ってあふれかえっていた。社交界きっての人気の会合場所にふさわしく、給仕の赤いお仕着せやら、おびただしい花やら、何ともいいようのない優雅さに輝いていた。ご婦人方は席に着くと、その日、大勢のイギリス人が口にした質問を発した。
 「新しいニュースがございます?」
 ターニロフは多くの人から刺すような、不安な視線を投げかけられるのを感じた。彼は軽やかに微笑んで答えた。
 「何も。ニュースがあるとしたら、きっといいニュースですよ。ついさっきまでサー・エヴェラードと死力を尽くして一騎打ちをしていたんです」
 「戦争か平和かという問題の次に大事なことを教えてちょうだい……結果はどうでしたの?」と王女が訊いた。
 「実力以上の力を出したんだがね。もちろん普通の人間がゴルフでドミニーに勝てるわけがないさ。彼の腕前は誇り高きドイ…」
 大使は言葉を切ってマヨネーズに手を伸ばした。
 「どんなに誇り高きドイツ人も彼にはかなわないよ」彼はそう言って言葉を結んだ。
 お昼は非常に楽しい食事になった。多くの人が快活で美しいドミニー夫人に注目した。ちょうど彼女の写真が新聞にあらわれはじめた頃だった。食後は芝生に出て、ニレの木の下で音楽を聴いたり、ロンドンを脱出できたことを互いに祝福してコーヒーを飲んだり、酒を味わったりした。華やかに着飾った女性や、フラノを纏った男たちが刻々と変化する風景を織りなし、その単調さを打ち破るようにモーニングを隙なく着こなした外交官やフランス人がそこここを歩いていた。そのなかには見知った顔もたくさんあった。キャロラインとその友人たちはテラスから彼らに向かって手を振った。エディ・ペラムは染み一つない白ずくめの格好に、紺青の縁取りをした長めのテニス・コートを羽織っていた。彼は中庭へ行く途中、彼らのところに立ち寄った。
 「自動車商売のほうはどうだい、エディ」ドミニーは目をきらりと光らせて尋ねた。
 「まあまあだね。今は以前ほど熱を入れてやっていないんだ。実を言うとね」彼はあたりを見回し、声を潜め、とっておきの情報を誰にも聞かれないようにして打ち明けた。「僕はついてるよ。先日、ニューマーケットのジア・ムーアの競走馬に出資することができたんだ。額は少ないけど。今は自動車の仕組みのことよりお馬さんのことのほうがちょっぴり詳しくなった気がする」
 「なるほど君ならきっとそうだろう」とドミニーは応じた。若い男は身振りで別れを告げると向こうへ行った。
 ターニロフは不思議そうに彼を見送った。
 「ああいう若者だよ、理解できないのは。戦争になったらどうするんだ?招集されて、たとえば祖国のために戦地に赴くことになったり、国家的な大切な仕事を任されたりしたときは」
 「そのときはそのときで仕事をするんでしょう。勇敢に、一生懸命に、お粗末な仕事をね。イギリス上流階級の若者にありがちなタイプです。極端に脳天気で、全く規律がない。連中も連中の国家も、いざというときは勇気が訓練の代りになると思っているんです」
 ジェラルド・ワトソン判事が階段のところでイタリア大使夫人と話をしていた。やがて彼女が立ち去ると、彼は両手を背中に回し、ゴルフ場の向こうを望み見るようにして芝生を歩いてきた。
 「あの男」とターニロフが呟いた。「最近人が変わったように思う。初めてここに来たときは率直にものをしゃべってくれたのに。今でも独英両国の友好を心から望んでいると信じているが、何かがわれわれのあいだに割って入ってきたようだ。何かは分からない。どういう性質のものかも分からない。けれどもわたしは他人がわたしをどう思っているか、敏感に感じ取れるのだよ。おまけにイギリス人は感情を隠すのが世界一へたな民族だ。ワトソンは君の親戚のウースター公爵にそそのかされたのかな。ノーフォークでは君にもわたしにもとても友好的な態度だったが」
 ご婦人方はそのとき、少し離れた知り合いたちのほうへ移動し話をしていた。二人のすぐ側を通りかかったミスタ・ワトソンはドミニーの挨拶を受けて立ち止まった。しばらくとりとめのない会話が交わされた。
 「相変わらず良いニュースがつづいていますか?」と大使は言った。ありきたりの会話から転換するきっかけは、礼儀から言って自分のほうから差し出さなければならないと考えたのだ。
 「いささかご期待には添えないようです」相手は一瞬ためらってからそう答えた。「六時にダウニング・ストリートに呼ばれているのですよ」
 「わたしが今朝打った急送電報にたいする返事はもう首相にお見せしましたが」とターニロフは言った。
 「ここに来る前に拝見しました」ためらいがちな返事だった。
 「真剣に平和を望んでいる口調だということはお分かりになったでしょう?」ターニロフが心配そうに尋ねた。
 相手は一礼して、身体をまっすぐに起こした。ここ数日の緊張が身体にこたえているのは明らかだった。口のまわりに皺が寄り、目は眠られない夜がつづいたことを物語っていた。
 「こんな時に言葉をもてあそぶのは無意味ですよ。しかし、王子、今ここであえて一言だけ申しあげましょう。あなたの国が望まない限り、戦争は決して起こりません」
 ターニロフの顔は束の間、異様なまでに青ざめた。それは記録に残されていない歴史の一場面だった。彼は立って帽子を持ちあげた。
 「戦争は起こりません」彼はおごそかに言った。
 閣僚は前よりも軽い足取りでその場を去った。ドミニーは、信義に厚く忠実ではあるけれども底抜けにおめでたいターニロフのような人物が、なぜこの重要な地位につけられたのか、その人事の背後にある深謀遠慮を今までにもまして明瞭に理解した。彼は唇の端にかすかな笑みを浮かべて閣僚の後ろ姿を見送った。
 「今のような時局においてこそ」と彼は意味ありげに言った。「わが国の偉大な作家――確かベルンハルディじゃなかったでしょうか――が、島国には外交官という種族は生まれないといった理由が分かってきます」
 「この島を取り巻く海はね」と大使は考え深げに言った。「イギリスに大いなる繁栄をもたらしたが、同時に禍をもたらすかもしれない。機敏すぎる外交官の頭脳は、彼がその利益を守っている国民の心と同じように不誠実なものだよ。わたしはイギリスの政治家の誠意を信じている。その信念は、もうすぐ君に見せるささやかな回想録に書きつけておいた。しかし、こんな話は夏の午後には深刻すぎるな。政治情勢に対するわれわれの意見を世間に表明するため、もう一度九ホール回ろうじゃないか」
 ドミニーは喜んで立ち上がり、二人は最初のティーグラウンドへ歩き出した。
 「ところで、あのにぎやかな友人シーマンはどうしている?きっと忙しくしているだろうが」
 「どういうわけか、今晩ドイツから帰ってくるのですよ。バークレイの屋敷で会うことになっています。まっすぐわたしの所にくるようです」
 
 第二十六章

 当時の日々はすべてのロンドン子に生々しい印象と、強烈な記憶を残した。そののちも、まるで日常から切り離された、異次元に属する日々ででもあるかのように、奇怪な非現実感を伴って心によみがえった。ドミニーもその日の夜のことを長く記憶していた。すなわち、バークレイ・スクエアにある町屋敷の、趣味の良い家具を備えた、くすんだ色の食堂で食事を取った夜のことを。ドミニー邸の壮麗な晩餐室ほど大きくはないが、それでもジョージ王朝風の家具が並んだ立派な一室だった。壁には高名な絵が掛かり、天井も暖炉も見事な造りだった。ドミニーとロザモンドは二人きりで食事をした。テーブルは最小の大きさにまで縮められていたが、それでも二人のあいだには広い空間が広がっていた。パーキンスがおごそかにポートワインを置くと、ロザモンドは立ちあがり、部屋を出て行く代わりに、召使いに向かって、ドミニーのそばに彼女の椅子を移動させるよう命じた。
 「あなたの男友達のまねをするわ、エヴェラード。女性たちが出て行くと、みんなあなたのそばに寄るわね。それからどうするの?お話?わたし、とっても聞き上手なのよ」
 「まずこのポートワインを半分飲むんだ」そう言って彼は彼女のグラスを満たした。「それから桃をむいてくれないか。半分こしよう。そのあとは耳を澄ましてベルが鳴るのを待つ。今晩、お客さんが来るんだ」
 「お客さん?」
 「社交的な訪問じゃないよ。仕事の関係さ。残念だけど、そのせいで今夜は君の相手ができない。客が来るまでせいぜい楽しもう」
 彼女は桃をむきはじめ、やや真面目くさった口調で終始話しつづけた。優雅でひどく魅力的な女性の、絵のように愛らしい姿がそこにあった。華奢な身体つきと芸術的な繊細さがくすんだ背景のせいでいっそうくっきりと浮かびあがった。
 「知ってるかしら、エヴェラード。わたし、ロンドンであなたとこうして一緒にいるのがとても幸せなの。いつも力が湧いてきて、元気になった気分。以前は活字の迷路に見えた本も、今は読んで理解できる。絵の鑑賞もできるし、音楽の感動も分かるわ。前は、どういうわけか、脈絡がなくて耳障りでしかなかったんだけれど。わたしの言うこと、分かる?」
 「もちろんさ」彼は真剣に答えた。
 「ハリソン先生が患者としてわたしのことを誇りに思うのも当然だわ。でも心に鈍い痛みを感じることがよくあるの。だって、誰が何と言ったって、わたしはまだ完全に直っていないんですもの」
 「そんなことはないよ、ロザモンド」と彼は反論した。
 「あら、でも最後まで言わせて」彼女は彼の桃を皿に載せた。「あなたという問題が常にあるのに、わたしが直るわけがないわ。相変わらず解決策は見つからないし。あなたのこと、結婚したエヴェラードと比べることがよくあるの」
 「わたしはそんなに彼より出来が悪いかな」
 「ぜんぜん逆」彼女は涙をためた目で相手を見つめた。「そりゃあ彼のほうがもっとずっと優しかった」彼女は短い沈黙ののちにこうつづけた。「あの人のキスはあなたのキスとは違っていた。それに一緒の時間をもっと大切にしていたわ。でもその反面、いてほしいと思うときにいないことがよくあった。気がふれたみたいに、めちゃくちゃなことをして、わたしなんかすっかり忘れてしまったみたいだった。それがとても怖かったわ。そのせいで精神状態が不安定になったの。血まみれで、ふらふらになって帰ってきた、あの身の毛もよだつような瞬間だって、神経がぼろぼろになっていなければ耐えられたと思う。ほら、あの晩、ロジャー・アンサンクを殺したのよ。だから、あの人、戻ってこられないの」
 「今夜に限ってどうしてそんな話をするんだい、ロザモンド」
 「話さずにいられないの」彼女は自分の指を彼の手に載せ、不思議そうに見つめた。「話さずにいられないのよ。あなたを苦しめると分かっていても。あなたがこんなに気を遣ってくれるなんて素晴らしいわ、エヴェラード。本当よ。だから大好きなの」
 「気を遣っている?」彼は唸った。「気を遣っているか!」
 「あなたは彼とよく似ているけど、すごくちがうところもあるわ」彼女は思いに沈みこむように言った。「ワインはぜんぜんといっていいくらい飲まないし、いつも冷静で真面目な顔をしている。あなたはほかの人が知らない人生を隠し持っているみたいに生きている。わたしが覚えているエヴェラードは行政官や議員なんかにちっとも興味を持っていなかった。競馬やヨット、狩りや射撃、気の向くままに時間をつぶしていた。でも――」
 「でも、なんだい」ドミニーの声はかすれていた。
 「彼はあなたよりわたしを愛してくれたわ」彼女はひどく悲しそうだった。
 「どうして?」
 「分からない」彼女は自分の皿に目をやりながら答えた。「でもそんな気がするの」
 ドミニーは急に窓のところへ行き、外に身を乗り出した。額に汗が浮かび、新鮮な空気が無性に吸いたかった。戻ってきたときも、彼女は依然下を向いたまま、同じところに座っていた。
 「ハリソン先生にそのことを話したのよ」と彼女はつづけたが、その声はほとんど聞き取れなかった。「あなたは見かけ以上にわたしを愛しているのかもしれないっておっしゃったわ。本物のエヴェラードがいつ帰ってくるかも分からないから、抑えているのだろうって」
 「その通りだよ」彼は優しく彼女に思い出させた。「すぐにも戻ってくるかもしれない」
 彼女は彼の手をつかんだ。声が強い気持ちに震えていた。彼のほうに寄りかかり、もう一方の腕を相手の首に回した。
 「でも戻ってきてほしくない!」彼女は叫んだ。「あなたにいてほしいの!」
 ドミニーはしばらく身じろぎもせず、石像のように座っていた。大きく開け放ち、ブラインドをおろした窓から、夏の暮れ方の静けさを破る、新聞売りの少年たちのどら声が聞こえてきた。そのとき、静けさを破るもう一つの鋭い音が聞こえた――外にタクシーの停まる音、正面玄関のベルを断固として執拗に鳴らす音。ドミニーは約束を思い出し、身体に力が戻ってきた。彼の中に燃えあがった火はとたんに鎮められた。波のように押し寄せる彼女の情熱に、彼は限りない思いやりをこめて応じた。
 「ロザモンド、正面玄関のベルは重要な会見への呼び出しなんだ。もうしばらくぼくを信じてくれ。嘘は言わない。ぼくは決して冷たくしているのでも、無関心なのでもない。いつか君に言わなければならないことがある――はじめは思いもよらなかったが、今では夜も昼も心に重くのしかかりだしたことだ。ぼくを信じてくれ、ロザモンド、そして待ってくれ!」
 愛らしくも痛ましい微笑みを小さく浮かべ、彼女は椅子に沈みこんだ。
 「いつも待ってくれって言うのね」と彼女は不平をもらした。「わたし、じっと待つわ。でもこれだけは約束して。あなたはとても親切にしてくれる。わたしの人生を左右する人よ。だからもうちょっとだけわたしを大切にしてほしいの。お願いできる?」
 彼は立ちあがろうとしていた。慈しむように彼女の手にキスをした。声にはすっかりいつもの調子が戻っていた。
 「この世の誰よりも大切にするよ、ロザモンド!」
 明るい灰色のスーツ、パナマ帽、白い花柄のネクタイという格好であらわれたシーマンは、数ヶ月前の落ち着いた都会人らしさを幾分失っていた。旅の疲れでくたくただったのだ。顔のしわが増え、目に奇妙な不安が宿り、目尻に小じわができはじめていた。彼はドミニーの歓迎に熱狂的といっていいような興奮を示した。それから顔つきが変わっていないかと思っていたかのように、まじまじと相手を見つめると、ようやく軽い安堵の仕草とともに安楽椅子に沈んだ。持っていた小さな茶色のアタッシュケースをカーペットの上に置いた。
 「何か知らせがあるのかい」とドミニーが訊いた。
 「うむ」重々しい返事だった。「知らせがある」
 ドミニーは呼び鈴を鳴らした。玄関の化粧鞄とコートを見て、訪問者が駅からまっすぐここへ来たことはとうに推察していた。
 「何を食べる?」
 「ホック・アンド・セルツァーに、できたら氷を入れてくれないか。それからコールド・ミートも。ここに持ってきてくれ。そのあとは君のいちばん大きい葉巻。大変な知らせを持ってきたぞ。気がかりな知らせも、素晴らしい知らせも、驚くべき知らせも」
 呼び出された召使いにドミニーが指示を出した。しばらく二人は他愛のない旅の話をした。注文したものがすべてそろい、ドアが閉められたとき、シーマンはもう待っていられなかった。食欲、渇き、弁舌、なにもかもが促されるように素早く活動をはじめた。
 「われわれは性格的に似たもの同士だ。分かってるよ。だから、まずひどく気がかりな知らせから、いや、いささか恐ろしい知らせから伝えよう。ヨハン・ヴォルフの謎が解けた」
 「南アフリカのシュミットから伝言を伝えに来た男か。忘れかけていたよ」
 「わたしもだ。あの晩、われわれを訪ねてきた本当の理由は今もって不明だ。なぜわたしに対してよそよそしい態度をとったのか、その理由も分からない。実質上、同じ部局の上官だというのに。出だしからして奇怪な事件だが、しかしその結末と比べればなにほどのものでもない。ヴォルフはあの晩、この屋敷を出たあとイギリスの要塞のなかに消えたのだよ」
 「信じがたいな」ドミニーはぼそっと言った。
 「だが事実だ。わが諜報機関のメンバーは、その存在や所在を司令部に一ヶ月以上報告しないでいることを禁じられている。ヴォルフからは一月のあの晩以来、何の連絡もない。一方、彼はこちらで監禁されているという間接的な情報が入ってきた」
 「しかしそれは違法行為だ。前代未聞だ。どんな国家もはっきりした罪状を示すことなく、また裁判にかけることもなく、他国の市民を牢に閉じこめることはできない」
 シーマンは薄気味悪く笑った。
 「一般人の場合は全くその通り。しかしヴォルフはもう何年もマークされていた。ドイツ外務省は、それがなにかの役に立つなら、すぐにも大騒ぎをするだろう。しかし無駄に終わるだけだ。ドイツの監獄には現在、イギリス人が一名か二名拘禁されているが、イギリス外務省は安否を問う価値すらないと考えている。わたしにとってヴォルフの失踪よりもっと気になるのは、彼が君を訪ねてきて、ほとんどその場で逮捕されているという事実だよ」
 「きっとあそこまで跡をつけられていたんだ」
 「そうだ。しかし連中が君の執事の部屋を火箸でこじ開け、ヨハン・ヴォルフを引きずり出し、ノリッジ城だかどこだかの監獄に連れて行ったとは考えられん。ヴォルフの一件でいちばん不安なのは、われわれの把握していないなにかが起きているという点だ。しかしそれをのぞけば気がかりはない。こっちにはヴォルフと同じくらい、いや、もっと優秀な諜報部員が大勢いる。おまけに彼らの力を必要とする時期はとっくに過ぎたのだ。今や君こそがわれわれの期待の星なのだよ、ドミニー」
 「すると、ついに?」
 シーマンはホック・アンド・セルツァーをゆっくりと嬉しそうに飲んだ。
 「決行する」彼はおごそかに言った。「こうなることは分かっていた。ロシアが明日、動員を解除しようと、セルビアの政治家が全員首根っこにロープを巻かれ、よつんばいになってベニスに引き連れていかれようと、結果に変わりはないだろう。命令は発せられたのだ。ドイツ全土が一大軍営と化している。わが上層部が決めた日取りより、ちょうど十二ヶ月早いが、これは絶好の機会、躊躇して逃してしまうにはもったいない機会だ。八月の終わりまでに、ドイツはパリを占拠しているだろう」
 「なるほど大変な知らせだ」とドミニーは呟きながら、しばらく開いた窓のそばに立っていた。
 「わたしはやんごとなき人々のあいだに好意的に迎え入れられたよ。君もわたしも報奨を受ける個人リストの上のほうに名前が載っている。皇帝はアイダーシュトルム王女との結婚を許可したが、君がそれを利用しなかったことを褒めていたよ。『フォン・ラガシュタインは賢明な判断を下した』とおっしゃっていた。『今は結婚式を挙げるときでも、結婚生活に溺れているときでもない。世界がかつて経験したことのない重要なとき、大陸が形をなし、星々がこの世界を見おろすようになって以来、最強の帝国が生まれるときなのだ』皇帝はそうおっしゃった。皇帝のお考えでは、人間にとって最も大切な資質は、一途に目的を達成しようとする意志だ。わたしやターニロフの忠告にもかかわらず、君は自分の目的を追い求めた。君の評価はこれからぐんとあがるぞ」
 やがてシーマンは食事を終え、盆は片づけられた。すぐにまた彼らは二人きりになった。シーマンは葉巻をくわえ、煙をもうもうと吐き出し、自分の言葉に彩りを添えるために、ときどき葉巻を持った手を振り回した。いつもの感嘆すべき注意深さがどこかへ行ってしまっているようだった。彼は初めて相手を本名で呼んだ。
 「フォン・ラガシュタイン。われわれの祖国は偉大な国家だ。これから建設されるのは素晴らしい帝国だよ。今晩わたしは感激のあまり熱に浮かされたような気分だ。指令やいろいろな詳細を伝えなければならないが、それは後回しにしよう。われわれの未来、世界を支配する権利を勝ち取った最強の国家、ドイツの偉大な輝かしい運命について語ろう。ドイツは興奮に湧いていると思うかもしれないが、実はそんなことは少しもない。各人には仕事が割り当てられ、何をすべきか明確に伝えられている。巨大で堅牢な機械のように、われわれは戦争に向かっていく。どの連隊もその駐屯地をこころえ、どの砲兵隊司令官もその砲兵陣地をこころえ、どの将軍も戦闘隊列を正確にこころえている。配給、被服、病院、考えられるありとあらゆる集団が最後の微細な点に至るまで計算し尽くされた行動計画を与えられているのだ」
 「最終的な結果も?」ドミニーが訊いた。「それも確定済みなのか」
 シーマンは震える手で脇に置いてあった小型のアタッシュケースを開け、用心しながら亜麻で裏打ちされた羊皮紙を取り出した。
 「君はこれを見る最初の人間の一人だよ。これは皇帝の夢を示している。未来の帝国の大枠がこれで分かるだろう」
 彼はテーブルの上に地図を置いた。二人の男はその上に身を屈めた。それはヨーロッパの地図で、イギリスと縮小したフランス、スペイン、ポルトガル、イタリアが濃い青色に塗られていた。さらにハンブルグとアテナを結ぶ線、そしてフィンランドと黒海を結ぶ線、この二本の線にはさまれた地域は濃い赤に塗られ、そのあちらこちらにやや色の薄い部分があった。シーマンは地図の上に手を載せた。
 「われらが未来の帝国版図だ」彼はおごそかに、重々しく言った。
 「説明してくれ」
 「大ざっぱに言うと、この二本の線にはさまれた地域は全て新ドイツ帝国の所領になる。ポーランド、クールラント、ルチアニア、ウクライナはある程度の自治権を持つが、実質的にそれは無に等しい。アジアはわれわれの足下にある。大英帝国はもはや世界の供給を独占することはない。ありとあらゆる原材料がわれわれのものとなるだろう。革、獣脂、小麦、石油、脂肪、木材――これらはみな、われわれの取り放題だ。財貨はといえば――インドと中国がある!これ以上何が望めるかね、君」
 「息を呑むね。しかしオーストリアはどうなる」
 シーマンはほとんどせせら笑うようににやりとした。
 「オーストリアは忍び寄る運命の足音にとっくに気づいているだろう。中央ヨーロッパに二つの帝国が居並ぶ余裕はない。ハプスブルク家はホーエンツォレルン家の前に没落しなければならない。オーストリアは身も心もドイツ帝国の一部にならざるを得ないのだ。ほら、さらに南を見たまえ。ルーマニアは属国となるか、征服されるかのどちらかだ。ブルガリアはすでにわれわれのものだ。トルコはコンスタンチノープルを含めて忠誠を誓った。ギリシアはわれわれの側につかなければ、消し去られるだろう。セルビアは地図からなくなる。おそらくモンテネグロも。薄い赤で塗ってある国々、トルコ、ブルガリア、ギリシアは属国になり、機会があり次第、一つ一つ吸収されていく」
 ドミニーの指が北のほうにそれた。
 「ベルギーが消えているね」
 「ベルギーは占領してドイツに隷属させる」とシーマンは答えた。「フランスへの侵攻はここを通って進められる。イギリス制圧にはフランスの港が必要だ。オランダとスカンジナビア諸国は薄い赤に塗られているだろう?ことによるとオランダ、デンマークとは一戦を交えることになるかもしれない。そうなれば併合だよ。まず恐れをなして中立を保とうとするだろうが、それでも最後の銃声が鳴りやんだとき、彼らはわれわれの属国になっている」
 「ノルウェーとスエーデンは?」
 シーマンは地図を見おろし笑った。
 「見たまえ。彼らはわれわれのなすがままだ。ノルウェーは西に海岸があるから、イギリスからの援軍が常に問題になる。しかしスエーデンは完全にわれわれのものだ。数ある属国のなかでも、特にスエーデンを徹底的に従属させるというのが皇帝の計画なのだ。あの国のたくましい男たち、世界最強の兵士たちが、のちのち、戦争が起きた場合に必要なのだ。あの国にはわれわれが求める木材と鉱物資源もある。まあ、説明はこんなところだ。フォン・ラガシュタイン、この国でこの未来図を目にしたのは君が最初だよ」
 「すばらしい計画だ」とドミニーは呟いた。「しかし何百万もの人間がいるロシアはどうするんだい。膨大な数の人間がいるというのに、どうやってあの国のいちばん豊かな土地を奪い、あの帝国の心臓部に突き進もうというのだ?」
 「そこで天才的な策略を使うのだ。ロシアはこれまで十五年間、いつ革命が起きてもおかしくない状態だった。現在、わが国は各都市、田舎、軍隊の内部にスパイを送りこんでいる。われわれはロシアに自由な国家になることを教えてやるのだ」
 ドミニーは嫌悪感に思わず軽く身震いした。シーマンの顔に浮かぶ、サチュロスにも似たにやにや笑いを見て、またもや虫ずが走ったのだ。
 「で、わたしの仕事は?」
 シーマンは自分で酒を注いだ。いつもは控え目なのだが、あわただしい食事のあと、グラスを満たすのはこれが三度目だった。
 「脳みそが疲れているんだ」額に手をやりながら彼は答えた。「疲労困憊だよ。考えがまとまらない。この一週間はえらく興奮させられた。ほとんど君の一日一日の生活に至るまで、すべての計画が練られた。一両日中に説明しよう。ただこのことだけは覚えておいてくれ。イギリスに参戦させないこと、これがわれわれの大きな目標だ」
 「結局ターニロフが正しかったのか!」とドミニーは叫んだ。
 シーマンは軽蔑するように笑った。
 「イギリスに参戦してほしくないといっても、それは友情を求めているからではない。カレー、ブローニュ、ル・アーブルを手中に収めてからのほうが、たたきつぶすのが楽だからだ。その準備は三ヶ月で完了する。そのとき、イギリスに対するわれわれの態度はちょいと変化するだろうがね。さて、帰るか」
 ドミニーは渋々地図をたたんだ。相手はそんなことは無用とばかりに頭を振った。その日、彼も初めて主人役をいつもと違う名で呼んだというのは奇妙なことだった。
 「フォン・ラガシュタイン男爵、この地図は六枚ある。これは君の分だよ。鍵を掛けて、この世の最高の宝物のように保管しておき給え。そして一人のときに取り出して研究するがいい。君に霊感を与え、憂いをはらし、危険に際しては勇気を与えてくれるだろう。君の心を誇りと賛嘆の念で満たしてくれる。持っていたまえ」
 ドミニーはそれを注意深くたたむと、部屋の反対側の小さな金庫にしまった。
 「君のいう通り、最高の宝物として保管するよ」彼は立ち去ろうとする客にそう誓った。それは自分でも驚くくらい熱のこもった言い方だった。

 第二十七章

 それからほんの数時間後にドミニーはカールトン・ハウス・テラスから電話連絡を受けとった。その短いメッセージには毒々しいほど劇的ななにかがあった。さっそく彼は車で街を走り抜けていったが、その途中の光景には、見慣れたなかにもすでに奇妙な変化が認められた。男も女もいつも通りに仕事をしているのだが、どこを見ても明らかに呆然とした空気が漂っているのだ。道行く人はほぼ全員が新聞とにらめっこをしていた。偶然でくわした知り合い同士は立ち止まって意見を交わした。おしゃべり雀たちが冗談のタネにしたり、怖がって見せたりしていた戦争が、陽光に包まれた都会に灰色の手を伸ばしてきたのだ。楽天的な人々さえ、来るべき恐怖を思うと不安に震えあがった。一日か二日で状況はがらりと変わることになる。人々はロシアの何百万という人々の数を数えはじめ、圧倒的な人海に対する崇拝が生まれることになるのだ。それまで観兵式にすら行ったことのない、ごく平和的な株の仲買人や店主までが、ちびた鉛筆と古い封筒の裏で人的資源の計算をし、ドイツとオーストリアは少なくともその三倍の勢力に圧倒されるという、どんな悲観論者をも納得させる結果を得た。しかしこの日の朝に限れば、人々は動転し、計算をするどころではなかった。信じられないことが起きたのだ。長いあいだ議論されていた戦争――神経質な者にとっては悪夢であり、楽観主義者にとってはあざけりの的だったもの――が現実のものとなったのだ。平和と飽満ののんきな日々は突然終わった。黒い悲劇がこの国にのしかかってきた。
 ドミニーは奇妙な胸騒ぎを覚えた。できるだけ知り合いを避けながら、セント・ジェームズ通りを抜け、ペルメル街を進み、カールトン・ハウス・テラスに出頭した。外から見るかぎり、窓辺にフラワーボックスを並べた白い大邸宅は特に混乱の徴候を示していなかった。しかし、なかに入ると控えの間は訪問者でごった返し、ドミニーは彼を待ち受けていたターニロフの個人秘書のおかげで、ようやく大使が忙しく手紙を口述している、内なる聖所に入ることができた。来客が告げられると、彼は即座に口述を止め、秘書を含めて全員を人払いした。それからドアに鍵を掛けた。
 「フォン・ラガシュタイン」彼はうめくような声を出した。「わたしは破滅したよ」
 ドミニーは同情するように相手の手を握った。ターニロフはこの数時間のあいだに何歳も年をとったように見えた。
 「君を呼んだのはお別れを言うためだ。お別れをし、告白をするためだ。君が正しく、わたしが間違っていた。わたしは自分の地所にとどまって、農夫でもやっていればよかったのだ。自分がいつも非難していた連中の手先をつとめていたとは、不覚にも今まで知らなかった」
 訪問者は黙ったままだった。かけるべき言葉がなかった。
 「わたしは平和のために働いてきた。祖国は平和を望んでいると信じて。平和をめざして、同じように平和を守ろうとする立派な人々とともに働いてきた。ところが、わたしがそのために骨を折ってきた人々は、そのあいだずっと、わたしの後ろで顔を蹙めていたのだ。わたしは彼らの道具に過ぎなかった。戦争を防げるものなど、この世に何もなかったということが、いま分かった」
 「少なくとも、あなたが平和のために全力を尽くされたことは誰もが認めるでしょう」
 「それが君を呼んだ理由の一つだ」彼は興奮したように言った。「先日、本のことを話したね。この国に赴任して以来、つけてきた日記だよ。あれを君に見せると約束し、君も最近何度か見せてほしいと言っていた。それを今、渡そうと思う。昨日書きあげたのだ。それを読めばわたしの努力の全てと、それがどのように失敗したかが分かるだろう。わたしのここでの仕事を細大漏らさず、ありのままに記してある。それに対するイギリスの反応も」
 王子は部屋を横切り、壁に並ぶ小型金庫の一つを開け、モロッコ革で綴じた、小さな紙ばさみほどの大きさの本を取り出し、ドミニーのところに戻ってきた。
 「頼む」彼は熱をこめて言った。「じっくりこれを読んで、わたしの指示を待ってくれ」彼は苦々しい口調でこうつづけた。「君ならきっと、わたしがこれを君に預ける理由が分かるだろう。この大使館にも本国のスパイがいないわけじゃない。また、この回想録の存在も知られている。ドイツに着いたとたん、その運命は目に見えている。わたしはドイツ人であり、愛国者だが、祖国に汚点をつけようとする連中に憤りを感じている。だから有効活用できるときが来るまで、回想録を安全なところに保管しなければならないのだ」
 「つまりドイツの政府が変わるまで、ということですね」
 「その通り!その時がくればさっそくわたしの立場は正当だったと認められるだろう。そして名誉ある平和を成り立たせるべく、分別ある国民の前に、新たな対英外交の位置づけが示されるだろう。注意深く読んでくれ、フォン・ラガシュタイン。読み進むうちに、君が仕える党への忠誠心すら一瞬揺らぐことがあるかもしれない」
 「わたしはどんな党にも仕えていません」ドミニーは静かに言った。「祖国があるのみです」
 ターニロフはため息をついた。
 「残念だが、政府の倫理について、いつものように議論する時間はない。君を送り出さなければならない、フォン・ラガシュタイン。君には恐るべき任務がある。心から幸運を祈るよ。わたしはイギリスを出るまで、もう誰にもあわせる顔がない」
 「他にお申しつけになることはありませんか。何かお役に立てることは」
 「ない」ターニロフは悲しそうに答えた。「不自由な思いをさせられることはないようだ。まるで王様のように出発できるよう、手配が進められている。しかし、友よ、今わたしが受けている鄭重で寛大なもてなしは、一つ一つがこの胸に突き刺さってくる。さようなら!」
 ドミニーはペルメル街でタクシーを拾い、バークレー・スクエアに戻った。ロザモンドが子犬をぞろぞろ引き連れ、庭に入ろうとしているところだった。彼はそばに寄っていった。
 「どうだろう」彼は腕を取りながら尋ねた。「二三日、ノーフォークに行くのはいやかい」
 「あなたと一緒に?」彼女はすばやく訊き返した。
 「もちろん!しばらく田舎に引きこもろうと思うんだ。新しい仕事に取りかかるまえに、一つ二つ片づけなければならないことがある」
 「わたしは大歓迎だわ」彼女は勢いこんで言った。「ロンドンは暑くなってきたし、みんなとっても興奮しているんですもの」
 「三時には幌型自動車を寄こすように言っておくよ。屋敷に着くのは九時ごろだろう。パーキンスと小間使いは汽車で来させたらいい。それでいいかな」
 「すてき!」
 彼は彼女の腕を取り、二人はゆっくりと熱せられた小径を歩いた。
 「ロザモンド、みんなが恐れていた時が来たよ。戦争がはじまったんだ」
 「知ってるわ」と彼女は呟いた。
 「この数ヶ月はとても楽しかった。もちろん二人のあいだにはまだ黒いわだかまりがあるけれど。ぼくは本当の夫のように、そして君が本当の妻であるかのように、優しく、思いやりをこめて接してきた」
 「あなた、どこかへ行ってしまうの?」彼女は驚いて叫んだ。「そんなの、いやだわ!あなたみたいに親切な人はいなかったもの」
 「いいかい。君のご主人、エヴェラードのことを考えてごらん。彼は一度だけ、短いあいだだけど、兵役についていたでしょう?おそろしい戦争がはじまった今、彼ならどうすると思う?」
 「あなたがしようとしていることをしたでしょうね」そう答えた声はかすかに震えていた。「もう一度兵士になって、お国のために戦ったでしょう」
 「ぼくも同じだよ――自分の国のために戦わなければならない」彼はきっぱりと言った。「だからこれから一時間ほど、君のそばを離れて、連絡先に電話をしなければならない。お昼ご飯には戻るよ。そのあとはすぐ出発だ。でも、まず最初にいろいろ準備をしておかないと。これから二三日は辛い思いをすることになる」
 彼女は彼の腕にしがみついた。奇妙なくらい彼を放したくないようだった。
 「エヴェラード、ドミニー邸に着いたらハリソン先生に会ってもいいかしら」
 「もちろん」
 「先生と話し合いたいことがあるの。あなたにも訊きたいことがあるわ、エヴェラード。あなたは町にいるときも、田舎にいるときも、同じ人?」
 彼はその質問にいささかぎくりとした。ほとんど悲痛な、深刻な口調で訊かれたからでもある。その質問は精神の錯乱を示唆するように思えたが、しかし彼女の風采はそれを完全に否定していた。黒と白のまだら模様のモスリンのドレス、大きな黒い帽子、パリの靴。ストッキングも手袋も、服装は細部にいたるまで慎重に選ばれ、優雅に自然に着こなされていた。社交上でも驚くべき成功を収めていた。つい先週もキャロラインが彼に近づき、肩を小さくすくめてこう言った。
 「ロザモンドには優しくしようとしてきたけど、でも分かったのはそんな必要がないってこと。お仲間の若いミセスのあいだじゃ、彼女がいちばん人気があるんだもの。あなたにはもったいないような幸運だわ、エヴェラード」
 「放蕩者こそ何とやらって言うじゃないですか」と彼は答えた。
 一瞬余計なことを考えていた彼は、慌てたようにロザモンドの質問に答えた。
 「同じ人かって?」と彼は鸚鵡返しに言った。「そうだと思うけどね。そうは見えないかい?」
 彼女は頭を振った。
 「よく分からない」どことなく謎めいた返事だった。「田舎にいくと、わたしが理性を失いかけた、あの恐ろしい晩のことをときどき思い出すの。あの晩のようなあなたを見たことがない」
 「もしかして、帰りたくないのかな」
 「それがおかしな話なんだけど、わたし、何はさておき帰りたくて仕方ないの。あら、空のタクシーが来たわ」門に近づいたとき、彼女はそう言った。「わたしはなかに入って、ジャスティンに荷造りするよう言ってくる」

 第二十八章

 それから数日のあいだに奇妙な噂がドミニー邸からその近辺に広がった。つまり農場労働者から農場主へ、学校の子供から家庭へ、村の郵便局から近隣農村へと伝わったのである。となりの郡から集まってきた木こりの一団が、発動機と商売道具を駆使して、ブラック・ウッドの北の端の木や茂みを、片っ端からなぎ倒しはじめたのだ。戦争のことなどあっけなく忘れ去られた。作業がはじまった当日から、付近の老若男女、誰もがこわごわ森の外れにやってきて、機械のうなり声に耳をすまし、森の中に通じる大きな木板の橋をじろじろ眺め、何か珍しいものでも見つからないかと、野宿している男たちのテントを覗きこんだ。木こりたち自身はむっつりと喋らず、頭領が初めて口を開いたと思われるのは、ドミニーが到着して次の日、朝早く作業の進展について話をしに来たときだった。
 「小汚ねえ仕事ですぜ、旦那」と彼は本音を打ち明けた。「こんなにどうしようもなく腐った森は見たことがありません。だいたい、手で触っただけで木がぼろぼろに崩れるんですからね。それに五百枚ほど歩み板を敷きましたが、それでも人夫たちはお互い手の届く範囲にいなくちゃならねえんで」
 「何かおかしなものを見つけたかね」
 「今のところは何も。蝮に噛まれねえよう、全員がすね当てを余計に巻いてます。なかにはあっしの腕ぐらい長いやつを巻いているのもいます。それからキノコですよ。触ると、大人も目を回すような匂いを放ちましてね。初日は若い虎みたいな、でかくて獰猛な猫を殺しました。変な仕事ですわい、旦那」
 「どのくらいかかりそうかね」
 「三週間てところですな、旦那。木材を運び出したら燃やしたほうがよろしいですよ。ありゃ、何の値打ちもありません。失礼ですが、旦那、向こうにいる老婦人がいつもうろうろしているんですよ。人夫のなかにはひどく怖がっているのもいます」
 ドミニーは振り向いた。少し離れた庭園の、小高くなったところに、レイチェル・アンサンクが立っていた。色褪せた黒一色の服、青ざめた頬、異様な目つき。その姿は朝の光のなかで見ても嫌悪感を催させた。ドミニーはゆっくり彼女に近づいた。
 「ミセス・アンサンク」と彼は話しかけた――。
 彼女はそれをさえぎり、やせ細った手を森に向けた。
 「あの人たちは何をしているのですか、サー・エヴェラード・ドミニー。あの森をどうしようというのです」
 「冬のあいだに決心したことをやろうとしているんですよ。ブラック・ウッドの木を向う端まで切り倒しているところです。木も藪も一つ残らず。切ったあとは焼いて、それから排水。わたしたちが死ぬころには、あそこにトウモロコシ畑ができているでしょう、ミセス・アンサンク」
 「本気でそんなことをなさるつもり?」彼女はしわがれた声で訊いた。
 「してはいけない理由があるのですか、ミセス・アンサンク」
 彼女は黙りこくり、ドミニーは立ち去った。しかし、その晩、ロザモンドと彼がデザートを味わいながら、不思議な静寂を楽しみ、開いた窓からそっと吹きこむ素晴らしい風にあたっていたとき、パーキンスが面会人の来訪を告げた。
 「ミセス・アンサンクが書斎においでです、旦那様。五分ほど時間をいただきたいとのことですが」
 ロザモンドは小さく身震いしたが、ドミニーが尋ねるように目を向けると、頷いて見せた。
 「お願い、わたしは会いたくない。あなたが行って。――それからエヴェラード!」
 「なんだい?」
 「話してくれないけど、あなたがあそこで何をしているのか、わたし、分っている」その口調は奇妙に熱を帯びていた。「彼女にやめろといわれても、言うことを聞かないで。ねずみ一匹隠れるところがなくなるまで、切って、焼いて、刻んでちょうだい。約束してくれる?」
 「約束するよ」
 ミセス・アンサンクは必死になって激しい動揺を抑えようとしていた。ドミニーが部屋に入ってくると、立ちあがって古風なお辞儀をした。
 「ミセス・アンサンク、どういったご用件ですか」
 「森のことでもう一度お話がございます。わたし、耐えられません。一晩中、斧や人夫たちの叫び声が聞こえるようで」
 「ブラック・ウッドの木を切り払うことが、どうしていけないのですか、ミセス・アンサンク」ドミニーは単刀直入に尋ねた。「不愉快な汚らしい場所に過ぎないじゃありませんか。あそこにあるというだけで、ドミニー夫人の神経をめいらせるのですよ。今までも、さんざん苦しんできたというのに。あんなものは地上からきれいさっぱりなくしてしまうつもりです」
 無理に装っていた恭順の見せかけが、すでに彼女の態度から消えはじめていた。
 「そんなことをすれば不幸が訪れますよ、サー・エヴェラード」彼女は強情に言い張った。
 「今でもあの森からは山ほど不幸がやって来ている」と彼はやり返した。
 「息子の魂をかき乱すつもりですか。あなたがあそこに死体を投げ捨てた男の魂を」
 ドミニーは冷静に相手を見た。得体のしれない悪意がその顔に輝いていた。唇がめくれて、そのあいだから黄色い歯がのぞいている。細めた目にともる炎は憎しみの炎だ。
 「わたしは殺していません、ミセス・アンサンク。あなたの息子はあの森の暗がりからこっそり出てきて、卑怯にもわたしを襲い、格闘になったのです。襲ってきたとき、彼は気がふれていて、狂ったように向かってきました。わたしのほうが力は上でしたが、それでも生きて逃げることができたのは幸いでした。それから彼の身体には指一本触れていません。彼は倒れたところにじっと横たわっていました。森のなかに這っていって、そこで死んだのなら、わたしに責任はない。彼はわたしの命を狙ったのですよ。わたしは何もしてないのに」
 「あなたは息子に不当な仕打ちを与えた」と女は呟いた。
 「それも間違っています。ドミニー夫人への懸想は、彼女にとって迷惑であり、報われるようなものではなかった。彼女が抱いていたのは、ただ恐れです。そのことはこの辺の人ならみんな知っています。あなたの息子は孤独で陰気な生活破綻者だった。われわれのどちらかが殺人を胸に秘めていたとしたら、それは彼のほうであって、わたしではない。それから、あなたについてですが」ドミニーは一息ついて、こうつづけた。「もう復讐は気の済むほどやったでしょう、ミセス・アンサンク。妻を狂気に追いやったのはあなただ。あなたの息子の魂とやらを恐れるようになったのは、あなたがそう吹きこんだからです。帰ってくるのがあと二年遅ければ、妻は今頃、精神病院に送られていたかもしれない」
 「あなたはアフリカでのたれ死にすればよかったのよ!」と女は叫んだ。
 「度が過ぎますよ、あなたの悪意は。わたしの言うことを聞いて、息子さんの魂が今もブラック・ウッドに住み着いているなんて、馬鹿なことを考えるのはやめなさい。どこか違う土地へ行き、年金暮らしをして、忘れることです」
 彼は窓のほうに歩いていった。彼女の目はいぶかるようにその姿を追った。
 「噂を聞きましたよ」彼女はゆっくりと言った。「あちこちであなたの噂がささやかれている。ときどき、わたしも疑ったのです。あなたが喋るたびにね。あなたは本当にエヴェラード・ドミニーですか」
 彼は振り向いて、彼女を正面から見た。
 「それ以外の誰だというのですか」
 「本物じゃないと思っている人が一人います。あなたの奥様ですよ。あなたの傲慢なやり方に接した人から、おかしな話を聞きました。あなたはわたしが覚えているエヴェラード・ドミニーよりも情け容赦がない。あなたが偽者だとしたら、どうなるのでしょう」
 「それを証明しさえすれば、ミセス・アンサンク、少なくともブラック・ウッドの一部はそのまま残ることになるでしょう。ただし、いささか難しいとは思いますがね――失礼だが、呼び鈴を鳴らさなければならない。これ以上、お引き留めする理由もないようだから」
 彼女は不承不承立ちあがった。その態度はふてくされ、反抗的だった。
 「あなたは不幸を招き寄ようとしている」と彼女は警告した。
 「安心しなさい。不幸が来ても、対処の仕方を心得ていますから」
 ロザモンドは村から歩いてきたハリソン医師とテラスに立っていた。
 「いいところに来ましたね、先生。おつき合いしてくれる人がいなかったので、ポートワインを味ききせずに置いてあるんですよ。しばらく二人で話をしたいんだが、かまわないかい、ロザモンド」
 彼女は快く頷いた。医師は主人のあとについて食事室に入り、デザートの片づけられていないテーブルについた。
 「あの老婦人が面倒でも?」医師はもじゃもじゃした灰色の眉の下から鋭い視線を向けてきた。
 「本気で邪魔立てしようと考えているみたいですね」ドミニーは客のグラスをいっぱいにしながら答えた。そして短い間を置いて話しつづけた。「個人的には、今の状況はまえから抱いていた疑いをますます強めるものだと思っています。ご存じのように、先生、わたしはある種の事柄に関しては、徹底した物質主義者です。不衛生な森を切り払ったら、天使のような息子の魂が冷たい世界に放り出されるなどと怯えている、執念深い母親の言うことなど、毛ほども信じていません」
 「君はあそこに何がいると思っているのだ?」医師は直裁に尋ねた。
 「今は言いたくありません。途方もないと思われるかも知れませんから」
 「今日の午後に受け取った伝言には、緊急と書いてあったが」
 「緊急の用件です。是非ともお願いしたいことがあります――今晩、ここに泊まっていただけないでしょうか」
 「何か起きるとでも?」
 「少なくとも用意だけはしておこうと」
 「喜んで泊まるよ」と医師は約束した。「手回り品をいくつか貸してもらえるだろうね。寝るところはドミニー夫人の部屋の近くに頼む。ところで」と彼は言いかけて、口ごもった。
 「先生の忠告、というか、命令はずっと守りましたよ」ドミニーはやや語気荒く相手の言葉をさえぎった。「必ずしも容易ではありませんでした、特にロンドンでは。ロザモンドは妄想から解放されていましたから。――今晩か、あるいは近々起きる事態に、大きな期待をかけています」
 医師は同情するように頷いた。
 「君は正しい方向に向かっていると思うよ」
 ロザモンドはガラス戸を通って、彼らのところに来ると、ドミニーのそばに座った。
 「どうして陰謀者みたいにささやいているの」
 「陰謀者だからだよ」と彼は朗らかに答えた。「ハリソン先生に今晩泊まっていくよう、お願いしたんだ。わたしたちと同じ棟に部屋を取ってほしいそうだ。女中に知らせておいてくれないか」
 彼女は考えながら頷いた。
 「もちろんよ。準備のできている部屋がいくつかあるわ。わたしたちがお客様を連れてくるかもしれないって、ミセス・ミジレイは思っていたんですって。ハリソン先生には気持ちよく泊まっていただけると思うわ」
 「その点は心配していませんよ、ドミニー夫人。できるだけ、あなたの部屋に近いところをお願いします」
 彼女の顔にかすかな不安が浮かんだ。
 「今晩、何か起きるとお考えなの?」
 「今晩か、近いうちにね。用心に越したことはない。怖くはないだろう?先生とわたしが両側から守っているんだから」
 「わたしにとって怖いことは一つしかないわ」彼女はどこか謎めいた返事をした。「最近、とっても幸せだったから」
 ドミニーは普段着に着替えて、太い紐を身体に巻きつけた。ポケットに拳銃、手には仕こみ杖を持ち、夜になってから真夜中過ぎまで、大きなツツジの茂みの陰に隠れて、屋敷とブラック・ウッドのあいだに広がる、ほの暗い庭園を監視した。月は出ていなかったが、晴れた夜で、うっすらとくすんだ闇に目が慣れると、あたりの風景と、そこを動くものの姿がぼんやり見分けられた。待機している数時間のあいだに、アフリカの奥地で身につけた習性が本能的によみがえったようだった。あらゆる感覚が張りつめ、活動をはじめた。どんな夜の声も――ブラック・ウッドに潜むフクロウが、何かに慌てて鳴く声も含めて――一つ一つがはっきりと聞きとれ、その意味も察しがついた。時計を見て、もうすぐ二時になることを知ったとき、はじめて何かが起こりそうな気配を感じた。庭園を横切り、彼のほうに向かってくる、かすかな足音が聞こえた。奇妙な不規則なリズムを持ち、低い丘の向こう側からやってくるらしかった。四つんばいのまま身体を持ちあげ、目を凝らした。視線をある一点、自分と丘のあいだに広がる、何もない庭園の一部分に集中させた。足音は止まり、また動き出した。視界の開けた場所に黒い影があらわれた。動きの不規則な理由はすぐに判明した。それは四つんばいになって動いたかと思うと、次の瞬間には二本足で立ち、また四つんばいに戻るのだ。それがさらに近づいてきたとき、ドミニーは目をそらすことなく杖を脇に置いた。それはテラスに到達すると、ロザモンドの窓の下で止まった。彼がしゃがんでいるところから六ヤードしか離れていない。彼は落ち着いて待った。もうすぐあることが起こるはずだと思っていた。そのとき、風ひとつない夜の静寂を破って、あの聞き慣れた、この世のものとは思えない叫び声が響き渡った。ドミニーは最後のこだまが消えるまで待った。そして上体を屈めたまま数歩飛び出したかと思うと、腕を伸ばした。最後の悪魔の叫び声が八月の夜更けの深いしじまをもう一度破った。その声は新たな恐怖におののくようにかすかに震え、尾を引いて消えた。張りつめた喉の奥で声を粉砕した指が、不浄な命の最後の光をも粉砕してしまったかのように。
 しばらくしてハリソン医師があたふたとあらわれたとき、ドミニーはテラスに座ってさかんに煙草をふかしていた。数ヤード離れた地面には黒いものがじっと動かず横たわっている。
 「何だね、これは」医師は息を呑んだ。
 ドミニーは初めて動揺した様子を示した。声はつかえ、ひび割れていた。
 「そばで見てください、先生。手も足も縛ってあります。ロジャー・アンサンクの魂がどこに隠れていたか、お分かりになるでしょう」
 「何かと思えば、ロジャー・アンサンク本人じゃないか」医師は強くさげすむように言った。「けだものみたいになりおって!」
 召使いたちが列をなして外に走り出てきた。ドミニーはさっそく指示を出した。
 「車庫に電話しろ。誰か一人、ノリッジの病院に向かえ。先生、上に行って妻を看てくれませんか」
 生まれてからずっとつづいてきた習慣が破られた。完全無欠の沈黙せる自動人形パーキンスが思わず勢いこんで質問した。
 「旦那様、あれは何でございます?」
 頭上で窓を開ける音がした。そのとき、パーキンスが退職金を求めたとしても、それは決して戯れに要求したのではなかっただろう。ドミニーは小さな半円形に居並ぶ召使いを見て、声をはげました。
 「これでロジャー・アンサンクの幽霊などというたわごとはお終いだ。ここに横たわっているのは半分けものになり、半分人間のまま残っているロジャー・アンサンクだ。どういうわけか――もちろん狂人にしか分からない理由なのだろうが――彼は今までずっとブラック・ウッドに隠れていたのだ。母親は彼の共犯者で、食べ物を与えていたのだろう。彼は今も生きていたのだ、見るもいとわしい姿で」
 茫然とささやきかわす声が小さく聞えた。ドミニーは淡々とした口調に戻った。
 「おそらく最初はわれわれとこの屋敷に復讐をするつもりだったのだろう。不当な仕打ちを受けたと思いこんで。しかし、この男は、近所に越してきたころから気がふれていた。行動もずっとおかしかった――ジョンソン」ドミニーは体格のいい、迷信に振り回されない常識家の召使を選んで言った。「こいつをノリッジ病院に連れて行く用意をしろ。昼間、わたしが行けないようなら、手紙を送って知らせると伝えてくれ。他の者はパーキンス以外、寝室に戻りたまえ」
 小さく驚きの声をあげながら、彼らは散りはじめた。すると一人が足を止め、庭園の向こうを指差した。信じがたい素早さでやってきたのは,黒ずくめの痩せこけたレイチェル・アンサンクだった。ときどき足元がふらついたが、それでもあっという間に彼らのなかに割りこんできた。よろめきながら、うずくまる人影に駆け寄ると、すとんと膝をついた。手を見えない顔の上に置き、目はドミニーをにらんだ。
 「とうとう捕まえたのね」彼女は息を切らして言った。
 「ミセス・アンサンク」ドミニーの声は厳しかった。「ちょうどいい。息子さんに付き添ってノリッジ病院に行きなさい。二分後には車が来ます。あなたには何も言うことはない。この哀れな生き物をこんな状態で生かしつづけ、わたしが不在のあいだ、その呪われた復讐欲を満たしてやろうとしたことに対しては、あなた自身の良心が十分な罰を与えるだろう」
 「わたしが食べ物を持って行かなければ、この子は死んでいた」と彼女は呟いた。「わたしは張り裂けた女の胸が、絞り出せるかぎりの涙を流し、この子に戻ってくるよう頼んだ」
 ドミニーは反論した。「しかし、あなたは無害な女性に復讐するという卑劣な陰謀に加担した。夜な夜な屋敷に近づいて、この窓の下で、化け物のような叫び声をあげるのを、一言もいさめることなく、やらせつづけた。その忌まわしい目的が何であるか、あなたはよく知っていたはずです――神経の弱った女性を守らなければならない立場だったのに。しかも妻はあなたを信頼していた。あなた方はどちらも悪党だが、あなたは気のふれた息子さんより悪党だ」
 女は返事をしなかった。膝をつき、倒れ伏した影の上に身を屈めたままだった。その影はいまや唇からかすかなうめき声を漏らしていた。車庫から出てきた車のライトが光った。鉄門を通り、数ヤード彼らのほうににじり寄った。
 「なかに運びこめ」とドミニーは命じた。「ジョンソン、出発したら、すぐに縄をゆるめてやれ。抵抗する力はない。病院に着いたら、わたしも行くと伝えてくれ。たぶん今日の日中か、明日になると思う」
 軽くぶるっと身震いしてから、二人の男はかがみこんで仕事に取りかかった。囚われの身となった男は終始、独り言を呟いていたが、暴れることはなかった。レイチェル・アンサンクは彼の隣に席を占めると、もう一度ドミニーのほうを振り返った。すっかり打ちひしがれた様子だった。
 「わたしたちを厄介払いできましたね」彼女はすすり泣いた。「たぶん永遠に。わたしたちのことを悪し様におっしゃいましたが、ロジャーは――悪いばかりの人間ではありません。時には優しくなることだってあるのです。そんなときはまるで赤ん坊みたい。あそこに住み着いたのも風や木や鳥が大好きだったからなのです。正気に戻ったら――」
 彼女は言葉をつづけることができなかった。ドミニーの返事は素早く、思いやりがこもっていた。彼は上の窓を指さした。
 「ドミニー夫人が回復したら、あなたと息子さんのことは許してさしあげます。もし回復しなかったら、あなた方二人が地獄に落ちるよう祈ります」
 車は走り去った。屋敷のなかに戻ろうとした彼は、入り口のところでハリソン医師に出会った。
 「奥さんは今、気を失っている。良い兆候なのかもしれない。あの不自然な落ち着きぶりは気に入らなかったからね。意識不明の状態は何時間も続くよ。さあ、ウイスキー・ソーダを一杯くれないか!」
 朝日が庭園に降り注ぐ頃になって、二人の男はようやく別れることになった。彼らはあたりを見回しながら、しばらく立っていた。ブラック・ウッドからはのこぎりの音が聞こえてきた。人夫の小隊はもうテントから出ていたのだ。倒れる木の音が朝の仕事のはじまりを告げた。
 「あれは継続するんだね」と医師が訊いた。
 「木の株も、藪も、草の茂みも、最後の一つがなくなるまで」ドミニーの口調が急に熱をおびた。「地肌しか残らなくなるまで、あの場所は刈り尽くします。毒々しい沼地は空になるまで水を抜きます。あの汚らしい場所は前から好きじゃなかった。彼女にとって耐えがたい苦痛でしかないと知ったときから。わたしがここの主人でいられるのも、そう長いことではないでしょう、先生――わたしの前途には辛い運命が待ち構えています――しかし、わたしのあとに来るものは、あの呪われた場所の毒気に悩まされることはありません」
 医師は唸った。心のなかで思ったことを、彼は口にしなかった。
 「その通りかもしれないね」と彼は認めた。

 第二十九章

 地獄の業火のような午後の熱気――奇妙なことにそれはドミニーに急接近する嵐を予告するものでもあったが――その熱気がドミニーを書斎からテラスへ向かわせた。隣の椅子にもたれていたのは、真っ白なフラノのスーツを着たエディ・ペラムだった。ブラック・ウッドの謎が解けて五日目のことだった。
 「ここに呼んでくれて感謝するよ」若者はにこやかにそう言い、脇に置いてあるタンブラーに手を伸ばした。「氷さえあれば、こんな天気の田舎は天国だ。しかもロンドンときたらぞっとしない噂なんぞにあふれているからね。奥様の容態はどうなんだい」
 「意識不明のままだよ。しかし医者はこれで良しとすっかり満足している。目を覚ます瞬間が問題だな」
 若者は快方に向かえばいいねと呟き、その話を切りあげた。彼の目は遠くの小さな砂埃に焦点を合わせていた。
 「今日、誰か来るのかい」
 「来てもおかしくないさ」素っ気ない返事がかえってきた。
 若者は立ちあがってあくびをし、伸びをした。
 「ぼくは消えるとするか。おやおや!」彼はふと足を止め、感心したようにこう言った。「その軍服のチュニックは立派な仕立てだね、ドミニー。この国が切羽詰まってひ弱なぼくでもかまわず外地に送り出してくれるときがきたら、君の仕立て屋を訪ねることにしよう」
 ドミニーはにっこりと笑った。
 「これは地元の義勇農騎兵団のいでたちだよ。敵は君を捕まえても、警防団だと思うだろう」
 ペラムが出て行くと、ドミニーはガラス戸を通って書斎に戻った。机の前に座り、何通か手紙を見ていると、数分後、シーマンが部屋に通されてきた。ほんの一瞬、筋肉がこわばり、身体が緊張した。次の瞬間、再会を祝するように伸ばされた訪問者の手に気づき、緊張は解けた。シーマンは汗をかき、大声を出し、興奮していた。
 「やっと会えたね。おい、どうした《ドナー・ウント》!その格好は何なんだ」
 「十三年前にノーフォーク義勇農騎兵団を脱退してしまっていたのさ。でもうまく戻ることができたよ。事態が緊迫してきたからね――」
 「うむ、周到だな」シーマンの重々しい声が彼をさえぎった。「君は期待通りの男だよ。用意周到、やることに抜かりがない。だからこそ」彼は少し声をひそめた。「われわれは世界でもっとも優秀な民族なのだ。何よりもまず一杯やろう。喉がからからだ。まったくなんて日だろう。太陽を隠していた雲にまで地獄のような熱気がこもっている」
 ドミニーは呼び鈴を鳴らし、氷入りのホック・アンド・セルツァーを持ってくるように命じた。シーマンはそれを飲むと安楽椅子に身を投げた。
 「その仕事のせいで国外に行かされる心配はないのだろうね」彼は相手の軍服を顎で示しながら、やや不安そうに尋ねた。
 「今のところは、ね。わたしは少々年がいっているから、先発隊に加えられることはない。今までどこにいたんだい」
 シーマンは自分の椅子を少し引き寄せた。
 「アイルランドだ。ほったらかしにしてすまなかった。だが、まだ君の出番じゃないからね。イギリスがどういう抑留政策を取るのか、ちょっと不安だったので、アイルランド旅行は中止せざるを得なかった」
 「で、イギリスは抑留政策をどうすることにしたんだい」
 「政府はいま協議中だよ」シーマンはくすくすと笑った。「逃げ出さなくちゃならなくなるまで六ヶ月は間違いなく余裕があるな。ところで、どうして田舎のほうに来たのかね」
 「ターニロフが帰国してから、都会がいやになったんだよ。こちらで新兵募集の仕事も頼まれていたし」
 「ターニロフは――例の小冊子を君に預けていったんだね」
 「そうだよ」
 「どこにある」
 「安全なところさ」
 シーマンは額の汗を拭いた。
 「そうでなくちゃ困るよ。焼いてしまえという命令を受けたんだ。あとでさっそくその話をしよう。君から離れているとき、ときどき心配のあまりいらいらすることがある。馬鹿げているようだが、君の手元には――例の地図やら、フォン・ターニロフの回想録やら――世界中でやっているわが国のプロパガンダを台無しにするものがあるからね」
 「どちらも安全なところにしまってある」ドミニーは安心させるように言った。「ところで、君はいつもの用心を忘れていることに気がついているかい」
 「どういうことだ」
 「今、座ろうと腰を屈めたとき、ポケットが拳銃の形にふくらんでいた。分かっていると思うが、君のような名前を持ち、イギリス人といっても帰化しただけの人間が、この時期、小火器を持ち歩くというのは、言い訳の立たない無思慮な振る舞いだよ」
 シーマンはポケットに手を突っこみ、拳銃を机に投げだした。
 「君の言う通りだ。預かっておいてくれ。そいつはアイルランドに持っていったんだ。あの驚くべき国では何が起こるか分からないから」
 ドミニーは何気なくそれをつかんで、自分が座っている机の引き出しにしまいこんだ。
 「これからわれわれが使う武器は狡猾と策略だ。残念だが、君とわたしは、今までのように頻繁に顔を合わせることができない。あと数ヶ月、イギリスをそっとしておきたかったのだが、それができなかったのは、いろいろな意味で不運だった。しかしこうなったからには、それに対処するしかない。君は事実上、誰からも疑われることのない地位を築きあげた。偉大な将軍にお仕えする者のなかでも、君は輝かしい、独自の位置にある。わたしがこれから君に近づくとしたら、それは同情と援助を求める時だろう、先見の明あふれるイギリス人どもに疑われてね!」
 ドミニーは頷いた。
 「今晩は泊まっていくだろう?」
 「そうさせてもらえるとありがたい。この先、何ヶ月も、こんなふうに親しく接触することはないだろう。われらが友人、パーキンスが、この機会を葡萄酒で祝ってくれるかな」
 「つまりドミニー家秘蔵の白葡萄酒とポートワインを、祖国の栄光のために飲もうというわけだね」
 「祖国の栄光か」シーマンは相手の言葉をくり返した。「その通りだ、友よ――あれは何の音だね?」
 家の前の道を一台の車が通った。ホールで人声がし、ドアがノックされ、女の服の衣擦れの音がした。やや慌てたパーキンスが来客を告げた。
 「アイダーシュトルム王女と――紳士の方がお見えになっています。王女は緊急の用だとおっしゃっています」彼は申し訳なさそうに主人に向かって言った。
 王女はすでに部屋のなかに入っていた。そのあとから地味な黒いスーツに白いネクタイをしめ、山高帽を手にした小柄な男がついてきた。男は厚い眼鏡を通して部屋のなかを一瞥した。ドミニーは最後が訪れたことを悟った。彼らのうしろでドアが閉まった。王女はさらに数歩、部屋のなかに進んできた。その手がドミニーに向かって差し伸ばされたが、挨拶のためではなかった。白い指がまっすぐ彼を差した。彼女は連れの男のほうを振り向いた。
 「あの男ですか、シュミット先生」
 「何てことだ、あのイギリス人だ!」とシュミットは言った。
 数秒間、水を打ったような静寂がその場を支配した。四人のなかでいちばん落ち着いていたのはドミニーだっただろう。王女は怒りに顔が真っ青になった。彼女が口をきいたとき、激しい感情が言葉の背後で嗚咽しているように思われた。
 「エヴェラード・ドミニー。わたしの恋人に何をしたの。レオポルド・フォン・ラガシュタインをどうしたの」
 「彼は運命に出会ったのです。わたしを陥れようとしていた運命に。わたしたちは争い、わたしが勝った」
 「殺したの?」
 「殺しました」ドミニーはおうむ返しに言った。「そうせざるを得なかったのです。死体はブルー・リバーの河床に眠っています」
 「そしてここで偽者の生活を送っていたのね」
 「とんでもない。本当の生活を送っていたのです」とドミニーは言い返した。「あなたがカールトン・ホテルで初めて話しかけてきたとき、言ったではありませんか。そのあとも何度も言いましたよ、わたしはエヴェラード・ドミニーだと。それがわたしの名前です。それがわたしの正体です」
 シーマンの声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。しばらく彼は卒中にでも襲われたかのように勇気も気力も失っていた。彼の心は過去をさかのぼった。
 「わたしに会うため、君はケープタウンに来た。そのとき君はフォン・ラガシュタインの手紙をすべて持っていた。身の上も知っていたし、皇帝の命令書も持っていた」
 「フォン・ラガシュタインとわたしは、キャンプでごく親密な会話を交わしたのだ。そちらのシュミット先生がご存じだろう。わたしは自分の生い立ちを話し、彼は彼の生い立ちを話した。手紙や書類は彼から奪い取った」
 シュミットはしばらく両手で顔を覆っていた。肩が震えていた。
 「おいたわしい!」彼はすすり泣いた。「お慕いしていたのに!酔っぱらいのイギリス人に殺されるなんて!」
 「あなたが思うほど酒に溺れてはいなかった」とドミニーは冷静に言った。「不摂生にたたられていたが、ここぞという大事な時に、立ち直れないほどではなかった」
 王女の視線は二人の男のあいだを行き交った。シーマンは悪夢から抜け出そうといまだにもがいているようだった。
 「わたしが、初めて、たった一度だけ疑ったのは」とシーマンは口ごもるように言った。「ヴォルフが消えた夜だった」
 「ヴォルフの来訪はとんだ災難だった。幸い、屋敷に秘密諜報員がいて始末してもらったけれど」
 「彼の失踪はおまえの仕業だったのか」シーマンは愕然とした。
 「もちろん。彼は真相を知っていて、あなたにそれを伝えようとしていたからね」
 「金はどうした」シーマンは目をしばたたかせながらつづけた。「十万ポンド以上あったが」
 「あれは贈り物と解釈したよ。しかしドイツの秘密諜報部が権利を主張して、わたしを訴えるのなら――」
 王女が急に彼らのやりとりをさえぎった。目が燃えるように光っていた。
 「あなた方は二人とも、いったい何なの」彼女はシュミットとシーマンに指を突きつけて叫んだ。「土くれか、泥人形か、知性も勇気もない生き物なの。わたしの恋人を殺し、あなたたちを欺したイギリス人がそこに立っているのに、何もしようとしない。そこであなたたちを嘲笑っているのに、手も出さず、何も言わないなんて!この男の命は神聖で犯しがたいとでも言うつもり?この男は秘密を知っているのではないの?」
 「しまった!」シーマンは突然恐怖に顔を蒼白にしてうめいた。「やつは王子の回想録を持っている!皇帝の地図も!」
 「とんでもない。どちらも外務省に保管してある。のちほど大いに役立つだろうと期待しているんだ」
 シーマンは虎のように飛び出したが、ドミニーが突き出した拳をかろうじてよけると、ごろりと床に転がった。シュミットはじりじりとにじり寄ってきた。袖口から取り出した何かがきらりと光った。
 「二対一よ!」二人が攻撃を躊躇したとき、王女は興奮して叫んだ。「わたしも武器があったらいいのに。さもなければ男だったらいいのに!」
 「王女様」窓のほうから気さくな声が言った。「逆に四対二になりましたよ」
 エディ・ペラムが両手をポケットに突っこみ、ガラス戸のところに立っていた。いつもはぽかんとしている顔が油断なく警戒していた。その後ろから二人の恐ろしく屈強な男が部屋のなかに入ってきた。争いはおろか、揉めることさえなかった。シーマンは驚きのあまり、完全に動転して、あっという間に手錠をかけられた。シュミットは武器を取りあげられた。奇妙な沈黙を最初に破ったのはシュミットだった。
 「わたしが何をしたと言うのだ。なぜこんな扱いを受けねばならないのだ」
 「シュミット先生ですね」エディは快活に訊いた。
 「そうだ」と敵意に満ちた答が返ってきた。「わたしは東アフリカから来たばかりだ。出発したときは、戦争になるとは思ってもいなかった。わたしはこの男の正体を暴きに来たのだ。あいつは偽者だ――殺人者だ。ドイツ人の貴族を殺したのだ」
 「あいつは大逆罪を犯したのだぞ!」シーマンはあえぎながら言った。「皇帝を欺いた!あつかましくも皇帝の御前でフォン・ラガシュタイン男爵になりすました」
 フラノの若者はドミニーのほうを見やり、にやりとした。
 「冗談をおっしゃるつもりはないのでしょうけど、そんなふうに聞こえますね。まずシュミット先生ですが、サー・エヴェラードが偽者だと言って非難する。その理由は、彼が自分の本名を使ったからですか?また彼を殺人者呼ばわりなさるが、相手のほうこそ彼を残忍にも殺そうとしたのですよ――ちなみにあなたもその共犯者ですからね、シュミット。そしてこちらのお友達は、イギリスとドイツの実業家のあいだに友好関係を築こうとする協会の書記をなさっているけど、サー・エヴェラードがドイツに行ってイギリスのためにやったことはけしからんとおっしゃる。でも、フォン・ラガシュタインがここイギリスでドイツのためにやっていると、あなたが信じていたことだって、同じことじゃないですか。ドイツ人というのは、おかしな、頭の悪い民族ですねえ」
 「もう一度訊く」とシュミットが叫んだ。「何の権利があって、わたしを犯罪者扱いするのだ」
 「犯罪者だからですよ」エディは平然と言った。「あなたとフォン・ラガシュタインは東アフリカでサー・エヴェラード・ドミニーを殺害しようとした。それにたった今、あなたがナイフを手に、忍び寄っていくのを見ました。逮捕するのに十分な理由です。シーマン、質問がありますか」
 「ない」苛立たしげな返事だった。
 「聞き分けがいいですね」若者は落ち着いて言った。「昨日、一昨日と、フォレスト・ヒルのお宅と、ロンドン・ウォールの事務所を捜索しました」
 「もう分かった。運はわたしに味方してくれなかったのだな。皇帝には、わたしよりも有能な部下がいる。しかもありがたいことに、めかし屋とうすのろが住むこの島を、握りつぶしてしまう力をお持ちだ」
 「めかし屋とはひどいことを言う」エディは憤慨したように呟いた。「しかし、とにかく、この事件を片づけてしまおう」彼は二人の部下に向かって言った。「外には軍用車輛が待っている。この男たちをノリッジ兵舎の衛兵詰所へ連れて行け。護衛兵をつけて彼らを町に送ることになっている。後ほど、わたしも行くと大佐に伝えてくれ」
 王女は最前座りこんだ椅子から立ちあがった。ドミニーが彼女のほうを見た。
 「王女、お話することは何もありません。しかし、これだけは覚えておいてください。フォン・ラガシュタインは冷酷にもわたしを殺そうとしました。わたしは、やろうと思えば、少しも危険を冒すことなく、彼を殺すことができました。しかし、わたしは正々堂々と渡り合いたかった。命を取るか、取られるか。わたしは祖国のために闘いました。彼が彼の祖国のために闘ったように」
 「わたしはあなたを死ぬまで憎みつづけるわ。あなたはわたしの愛する人を殺したのだから。でも、女とはいえ、わたしは公平に振る舞うことを知っています。あなたはわたしに優しく、礼儀正しく接してくれた。レオポルドに対しても、たぶん、彼があなたに接する仕方以上に、気を配っていたかもしれない。あなたには二度とお目にかかりません。見送りはいりませんから、いますぐこの屋敷を出て行かせてください」
 ドミニーはテラスに出るガラス戸を開け、脇に退いた。彼女は彼に一瞥もくれず姿を消した。エディがそのあと、テラスをゆっくり歩いてきた。
 「いい玉だよ、あの二人は。シーマンは、ついさっき、フォーサイスという青いサージのスーツを着ていた巨漢に百ポンドを渡して、撃ち殺してくれと頼んだんだ。逃げようとしたという口実で」
 「シュミットは?」
 「士官の権利を主張して前部席に座らせろと言うんだ。出発前には葉巻を要求したよ!うまくやったね、ドミニー。きれいに片づいた」
 ドミニーは二台の車が埃を蹴立てて走り去るのを見ていた。
 「エディ、教えてくれないか。一つだけ、ずっと不思議に思っていたことがある。あのヴォルフという男、戦争もはじまっていないし、法も犯していないのに、どうして監禁できたんだ?」
 若者はにやりと笑った。
 「あのときは無理をして容疑をでっちあげなければならなかった。要塞の見取り図、さ」
 「彼は要塞の見取り図を持っていたのか?」
 「ノリッジ城の絵はがきをね」と若者は打ち明けた。「誰にも言っちゃ駄目だぜ。車で帰る前に一杯もらえるかい」
 一日の騒動が終わった。異常な緊張をしいる生活がついに終わり、ドミニーは静かな、しかし湧きあがるような感謝の念を覚えた。しかし彼の心は、二階の寝室で繰り広げられている戦いに、すぐさま占領されてしまった。
 晩餐のとき、老医師が上から降りてきた。彼はドミニーの食い入るような眼差しを受けて、こくりと頷いた。
 「容態はいい」
 「熱も異常もありませんか」
 「幸いにね。肉体的にはほとんど申し分のない健康状態だ。去年の今頃と比べたら、見違えるようだ。目が覚めたら、彼女は自分を取り戻し、妄想からすっかり解放されているか、さもなければ――」
 医師は一呼吸置いてワインに口をつけ、それを飲み干すと、いかにも良い酒だというように、グラスを置いた。
 「さもなければ?」ドミニーは先を促した。
 「さもなければ頭の一部に何らかの障害が残る。良い結果が出ることを祈っているよ。君がこの場にいてくれて本当に助かった!」
 二人はろくに口もきかず、食事を終えた。そのあとは、しばらく、テラスで煙草を吸ってから、足音を忍ばせて二階にあがっていった。医師はドミニーの部屋の前で別れた。
 「一時間ほど奥さんのそばについているが、そのあとは奥さん一人にするよ。何かあったときに備えて君もここにいるね?」
 「います」ドミニーは約束した。
 一分一分がいつの間にか一時間に変わった。ドミニーは大波のような激しい感情に揺すぶられながら、安楽椅子に座っていた。帰国した当初の記憶が痛いほどの切なさとともによみがえってきた。あの頃と同じ、心のなかをかきむしられるような、奇妙な、落ち着きのない、優しい気持ちを再び感じた。この世界という大舞台で役を演じつづけなければならないことは分かっていたが、それが遙か遠いところで起きているような、まるで人間とは違う種族の問題事であるかのような気がした。彼の全存在が狂おしいほど一つのことを期待し、その魔法のような音楽をとらえようとしている、そんな感じだった。しかし長いこと耳を澄まし、じっと待っていた音がとうとう聞こえたとき、期待は凍りついて恐怖に変わったように思えた。彼は少しだけ安楽椅子から身を乗り出した。両手は手もたれをつかみ、目はゆっくりと広がる羽目板の割れ目を見ていた。以前と同じことがくり返された。彼女は屈めた身体を伸ばして、彼のほうに近づいてきた。そのうしろで見えない手が羽目板を閉じた。彼女は腕を突き出し、輝く目にこの世の良きものすべてと愛をあふれさせ、彼のそばにやってきた。あのかすかに夢遊病者めいた様子は消えていた。こんなふうに近づく彼女は見たことがなかった。彼女はまさに本物の、生き生きとした女性だった。
 「エヴェラード!」
 彼は彼女をかき抱いた。最初のキスをしたとき、彼女は頭のてっぺんから足の先まで戦慄が駆け抜けるのを感じた。しばらく彼女は相手の肩に頭をもたせかけていた。
 「まあ、わたし、何て馬鹿だったんでしょう!ときどき、あなたがエヴェラードでないような、夫でないような気がしていたの。でも、今、分かったわ」
 彼女の唇はもう一度、彼の唇を求めた。それは何年も満たされなかった欲求に乾ききっていた。廊下では老医師がほほえみを浮かべ、こっそりと自分の部屋に戻っていった。

後記




*** End of this Doctrine Publishing Corporation Digital Book "入れかわった男" ***

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