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Title: 雲形紋章
Author: Falkner, John Meade, 1858-1932
Language: Japanese
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Title: 雲形紋章(Kumogata monshou)
Author: John Meade Falkner
Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)
Character set encoding: UTF-8

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Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the
base text to indicate pronunciation).
Eg. 其《そ》

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 プロローグ

 鉄道駅舎、教育施設、教会堂を建造し、著述家にして古美術商、さらにファークワー・アンド・ファークワー商会の共同経営者であるジョージ・ファークワー准男爵は、自分のことばに重みを持たせようと、事務室の椅子にそり返り、くるりと横をむいた。彼の前にはカラン大聖堂の修復工事に監督として送られる部下が立っていた。
 「それじゃ、行ってきたまえ、ウエストレイ。充分気をつけるんだよ。きみが取り組むのは重要な仕事だということを忘れるな。教会もあそこまで大きくなるとさすがに『その光り、升の下に隠るることなし』(註 マタイ伝から)だ。この国家遺産保存協会とやらは、うちの会社をだしにして自分たちの存在を宣伝しようとしているらしい。アンブリ(聖器棚)とアバクス(頂板)の違いもわからぬ無知蒙昧の輩、ペテン師ども、流行を追うだけのど素人が。あの連中はきっとわれわれの仕事にけちをつけてくる。出来映えがよかろうが、悪かろうが、並だろうが、彼らにとっては同じなんだよ。とにかくけちをつけようと身構えているんだ」
 その声は専門家としての強い軽蔑に満ちていたが、気を静めると、仕事の話に戻った。
 「南袖廊の屋根と聖歌隊席の穹窿天井には細心の注意が必要だ。中央塔にも以前から問題があって、交差部のかなめの基柱は補強工事をしたいのだが、何しろ費用が出ない。中央塔のことは黙っていることにした。なだめるすべもないのに、いたずらに疑いを抱かせるのは意味がないからな。今やってくれといわれているのは取るに足りない作業だが、それだけでもどうやって予算のやりくりをしたらいいのやら。資金繰りのめどがついたら塔に手をつけよう。しかし袖廊と聖歌隊席の穹窿天井は急を要する。鐘は心配しないでいい。鐘枠にがたがきていて、もう何年も鳴らされていないんだ。
 精一杯できるかぎりのことをしたまえ。金銭的にはあまり恵まれたお勤めとは言えないが、最善をつくすことだ。会社に利益なんか一銭もありはしない。しかしあの聖堂は有名だから、いい加減な仕事はできないよ。主任司祭には手紙を書いておいた。愚劣な男で、カラン大聖堂の管理には、貴婦人の小間使いなみにむいていないのだが、とにかく彼にはきみが明日到着すること、もしも先方がきみに会いたいと言うなら、午後聖堂に顔を出すということを伝えてある。浅はかなやつだが、あそこの法定管理者だし、修復費用調達にあずかってなかなか力があったからね。やむを得んが我慢しよう」

 第一章

 英国陸地測量部制作の地図ではカラン・ウォーフ、地元の人には単にカランと呼ばれている場所は、今でこそ海岸線から二マイルほど内陸部にあるが、かつてはもっと海寄りで、無敵艦隊との戦いに六隻の船を送り、その一世紀後にはオランダの攻撃を迎え撃つため四隻の船を送り出した由緒ある港として歴史に輝かしい名を残している。ところがやがてカル川の河口域は沈泥でふさがって港口には砂州ができ、海上貿易の船は他に港を探さざるを得なくなった。その後、カル川の流れはやせ細り、それまでのようにあちらこちらへ縦横に伸びるかわりに身を縮めておとなしい河川に変貌し、しかも河川としても決して大きいほうの部類ではなかった。市民たちは港で生計が立てられないことを見て取ると、塩沢を埋め立てることでなにがしかの代償が得られるかも知れないと考え、海水を防ぐために石の堤防を築き、その真ん中にカル川の流れを海に放出する水路を造った。こうしてカラン・フラットと呼ばれる低地の牧草地ができあがり、自由市民はここで羊を放牧する権利を持ち、海峡のむこう、フランスのプレサレ羊にも負けない美味なマトンを生産するようになった。しかし海は無抵抗にその権利を明け渡したわけではない。南東風や大潮と共に波はときどき堤防を乗り越え、またときにはカル川がお行儀よく振る舞うことを忘れ、内陸部に大雨があったあとなど、昔日のごとく、あらゆる拘束を断ち切って暴れた。そんなとき、上の階の窓からカランの町を眺めた人々は、誰もがこの小さな場所が再び海岸線の方に移動したのではないかと考えた。牧草地は水浸しで、堤防は内陸の湖とそのむこうの海との境界線として、目につくほど幅が広くなかったのである。
 グレート・サザン鉄道の幹線はこの見捨てられた港の北七マイルのところを走っていて、外部との交通は長年、運送屋の二輪馬車が町と鄙びたカラン街道駅とを往復することで保たれていた。しかしやがてこの古い自治都市から選出された議員、有能で広く信望を集めていたサー・ジョゼフ・カルーがカラン自治体代表団を正式に組織して、交通の便をいっそう改善する必要ありと鉄道会社を説得し、支線が敷設されることになった。ただしその利便性は過去の運送屋と比べてほとんどかわりばえのしないお粗末なものだった。
 聖堂の修復工事がファークワー・アンド・ファークワー商会に委託された当時、鉄道の物珍しさはまだ消えておらず、汽車が到着するとカランの町をぶらつく人が毎日儀式のように集まってきた。しかしウエストレイがやってきた午後は雨が激しく降り、見物人は一人もなかった。彼はロンドンからカラン街道駅まで三等車券を買って旅費を節約し、乗換駅からカランまでは一等車券を買って会社の威厳を保とうとした。だがそんな用心は取り越し苦労に終わった。数名の年老いた駅員が養老院に送られるようにカラン駅に配属されているだけで、他に彼の到着を目撃するものはまったくなかったのである。
 彼はブランダマー・アームズという家族むけ、および商人むけのホテルが、汽車の到着に合わせて乗合馬車を運行していることを知り喜んだ。聖堂のちょうど入り口前で降ろしてくれるというから、なおのこと好都合とこの乗り物を利用することにした。彼はささやかな荷物を中に運びこむと――乗客は彼一人だったから余裕はたっぷりあった――床を覆う藁に足を突っこみ、十分間というもの、砂利道を走る馬車でなければ味わえないがたがたという振動に耐えていた。
 ウエストレイはカラン大聖堂の見取り図をすべて完全に頭に入れていたものの、実物はまだ見たことがなかった。乗合馬車がけたたましい音を立てて市場の中に駆けこみ、四角い広場の南側全面を覆いつくすように聳え立つ聖セパルカ大聖堂をはじめて見たとき、彼は感嘆の声を抑えることができなかった。篠つく雨が通りから歩行者を追い払い、降ろした緑のブラインド越しに乗合馬車の通過をのぞき見る幾人かのピーピング・トムをのぞけば、市場はまるでレディ・ゴダイヴァの行進を待っているかのように少しも人気がなかった。
 沛然と降る雨、屋根の上に砕け散り霧のように広がるしぶき、地面から立ち昇る水蒸気、それらがあらゆるものに目に見えない、けれどもそれと分かるヴェールを被せ、舞台に用いられる紗幕のように輪郭をぼやけさせた。それを通して浮かび上がる大聖堂は、ウエストレイが想像の中で思い描いたどんな姿よりも遥かに神秘的で荘厳だった。馬車はすぐに鉄の門の前に停まった。そこから境内を抜けて北側ポーチまで板石敷きの小道がついていた。
 御者がドアを開けた。
 「ここが聖堂です」と彼は言わずもがなのことを言った。「ここで降りるんでしたら、荷物はホテルにお届けしておきます」
 ウエストレイは帽子を深くかぶると、外套の襟を立て、入り口めがけて雨の中に飛び出した。小道に敷かれた墓石のくぼみに深い水たまりができていて、急いでいた彼はポーチに着くまでに服に水を撥ね散らかしてしまった。巨大な扉口にくぐり戸があり、彼はそこにかかる革の帳《とばり》を横に押しやって聖堂の中に入った。
 まだ四時ではなかったが、空は雲に閉ざされ、建物の中はすでに薄暗くなっていた。聖歌隊席で話をしていたひとかたまりの男たちが入り口の音に振り返り、建築家にむかって進んできた。領袖格は中年を過ぎた聖職者で、ストックタイを首に巻き、若い建築家のほうに歩み寄ると挨拶をした。
 「サー・ジョージ・ファークワーの助手の方ですな。いや、助手のお一人と言い直すべきでしょうね。サー・ジョージは多彩なお仕事をこなすのに、きっとあなた以外にも助手をお使いでしょうから」
 ウエストレイは同意を示すように頷き、聖職者は話しつづけた。「自己紹介しますと、わたしは参事会員パーキンと申します。わたしのことはきっとサー・ジョージからお聞きでしょうが、この聖堂の主任司祭として格別のお付き合いをいただいております。あるときなどサー・ジョージはわたしの家にお泊まりになりましてな。若い方があのように有能な建築家のもとで修業できるというのはまことに誇りに思うべきことですよ。あとで今回の修復工事についてサー・ジョージがお考えになっていることを大まかに、ごく手短に説明しますが、その前に尊敬すべき教区民にしてわたしの――友人である方々を紹介しましょう」その口調には、どこから見ても格下なのに、そんな相手を友人扱いするのは、自分を貶めすぎではないかという疑問がいくらかこめられていた。
 「こちらはミスタ・シャーノール。オルガン奏者で、わたしの指示のもと、礼拝の音楽を演奏しています。こちらはドクタ・エニファー。地元の優秀なお医者さんです。そしてこちらのミスタ・ジョウリフは商売をなさっているんですが、手の空いたときに教区委員として聖堂管理のお手伝いをしていただいています」
 医者とオルガン奏者は紹介を受けて、頷くような、肩をすくめるような仕草をした。それは主任司祭のうぬぼれて尊大ぶった態度に対する侮蔑をあらわし、万が一にも彼らがミスタ・ウエストレイと友達になることがあったとしても、それは決して参事会員パーキンの紹介のおかげではないだろうということを暗に示していた。それとは逆にミスタ・ジョウリフは、自分が主任司祭の友人に数え入れられたことの重みを充分に認識したらしく、恭しく一揖しながら丁寧に「何かあればわたしにおっしゃってください」と言い、謙虚に振る舞うすべをわきまえていて、これから世に出ようとしている若い建築家にいつでも惜しみなく保護の手を差し伸べる用意のあることを明らかにした。
 こうした主役たちの他にもその場には教会事務員と、通りから聖堂にぶらりと入ってきた数名の通行人役がいた。彼らは雨はしのげるし、午後のひとときを無料で楽しく過ごせそうだとご機嫌だった。
 「こちらでお会いすることをお望みじゃないかと思ったのですよ」と主任司祭が言った。「さっそくこの建物のひときわ目につく特徴をご指摘して差し上げることができますからな。サー・ジョージ・ファークワーは、この前お出でになった折、わたしの説明を明快だと言ってにこにこしながら褒めてくださいましたよ」
 すぐに逃れる道はなさそうだったので、ウエストレイは観念し、少人数の一団は濡れた外套や傘の匂いとあいまって独特の雰囲気を醸し出している身廊を歩き出した。教会の空気はひんやりと冷たく、濡れそぼった敷物の匂いがウエストレイの注意を屋根の雨漏りと床のあちこちにできた水たまりにむけさせた。
 「身廊がいちばん古いのです」とこの雄弁な案内人は言った。「ウォルター・ル・ベックによって千百三十五年に建てられました」
 「われわれのお友達はこの仕事を任せるには若すぎて経験不足じゃないかと、どうも不安でならないのだがね。あなたはどう思う」彼は脇をむいてすばやく医者に尋ねた。
 「ああ、あなたが手取り足取り多少指導なされば大丈夫だと思いますよ」医者はそう答えながら眉毛をつり上げて見せてオルガン奏者をにやりとさせた。
 「さよう、ここはすべてル・ベックが建てたのです」主任司祭はウエストレイのほうにむき直りながらつづけた。「崇高だと思いませんか、ノルマン様式の簡素さは。身廊のアーケードは吟味するに値しますぞ。それに交差部のこの素晴らしいアーチを見てください。もちろんノルマン様式ですが、なんと軽々としていることか。それでいて岩のように頑丈で、後代に架構された塔の莫大な重量をしっかり支えている。素晴らしい。実に見事だ」
 ウエストレイは上司が塔に不安を抱いていたことを思い出してランタンを見上げた。すると北側には以前、亀裂に煉瓦を詰めこんだ跡が筋のようについており、南側にはランタンの窓枠の下から細いぎざぎざの割れ目が稲妻を刻印したかのように走っているのが見えた。彼は「アーチは決して眠らない」という古い建築の諺を思い出した。四つの大きな美しい半円形を見上げていると、それらがこう言っているように思われた。
 「アーチは決して眠らない。決して。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」
 「素晴らしい。実に見事だ!」主任司祭はつぶやきつづけた。「大胆なことをやる連中ですな、ノルマンの建築者たちは」
 「ええ、そうですね」とウエストレイは応ぜざるを得なかった。「しかしこの塔がアーチの上に積み上げられるとは思っていなかったでしょう」
 「なに、アーチが不安定だってことかね」オルガン奏者が口をはさんだ。「実はわたしもそんな気がしていたんだよ、何度も」
 「さあ、それはどうでしょうか。われわれが生きているあいだは持ちこたえると思いますよ」ウエストレイはさりげなく、安心させるように言った。塔に関してはいらぬ波風を立てるなと特に注意されていたことを思い出したのだ。しかし頭の上を見ると、天に登ろうとしたギリシア神話の巨人たちではないけれど、ペーリオン山にオッサ山を積み重ねたような気がしてならず、交差部の巨大なアーチに対する不信感は拭いようもなかった。
 「そんなことはありませんよ、あなた」主任司祭はこのとんでもない誤解に寛大な笑みを浮かべて言った。「このアーチなら心配には及びません。ここではじめてお会いしたときにサー・ジョージがこうおっしゃったんですよ。『主任司祭さん、カランには四十年お住まいとのことですが、塔が動いたような形跡はありませんでしたか』わたしはこう言い返したんです。『サー・ジョージ、費用の支払いを塔が倒れるまで待っていただけますかな?』はっ、はっ、はっ!冗談がお分かりになったようで、それ以後塔の話は出たことがありません。サー・ジョージはきっとあなたに周到な指示をお与えになったのでしょうな。さて、サー・ジョージに聖堂の中を直々に案内して差し上げた栄誉に免じて、どうか南袖廊のほうへお進みいただけませんか。サー・ジョージがどこよりも緊急に修復すべきとお考えになったところをご覧にいれましょう」
 彼らは袖廊に移動した。その途中で医者がウエストレイを引き留め話しかけてきた。
 「死ぬほどうんざりすると思うよ、あいつの無知とうぬぼれには。あいつの話など聞き流しておけばいい。ただきみには機会がありしだいさっそく頼んでおきたいと思っていたことがあるんだ。修復工事がどう行われるのか、費用がどれだけ限られているのか知らないが、ともかく床だけは衛生的にしてくれないか。この石をほじくり返して、その下に一フィートか二フィート、セメントを流しこんでくれ。死者が生者に毒を吹きかけるのを放っておくことくらいひどい話もないだろう?この床のすぐ下には何百という墓があるに違いない。それにまわりの水たまりを見てくれ。非衛生きわまりないじゃないか」
 彼らは南袖廊にいて、主任司祭がちょうど屋根の破損を指さしたところだった。それは実際、示されるまでもない有様だった。
 「ここはブランダマー側廊とも呼ばれています。長年ここに埋葬されてきた貴族の一族の名を取りましてね」
 「彼らの地下納骨所はきっと恐ろしく非衛生的な状態ですよ」医者が口をはさんだ。
 「ブランダマー家は聖堂全体の修復を引き受けるべきだよ」オルガン奏者が苦々しく言った。「まともな心ある人間ならそうするだろう。彼らはクロイソス王のように金持ちで、一ポンドをなくしても、普通の人が一ペニーをなくしたときより惜しいとは思わない連中だ。衛生うんぬんという話なんかどうでもいいさ。今のままだって充分用は足りる。床を掘り返したって、黴菌が出てくるだけだ。建物には手をつけなくてもいい。屋根の雨漏りを直して、オルガンに百ポンドが二百ポンド、金をつぎこんで欲しい。それがわれわれの望んでいることだ。ブランダマー家がけちのしわんぼうでなければ、それくらいやってくれてもよさそうなものだが」
 「失礼だがね、ミスタ・シャーノール」と主任司祭が言った。「世襲貴族というのは大切な制度だから、そういう方々の批判はごく慎重にしなければならないと思うね。でも同時に」彼は弁明するようにウエストレイのほうを振りむいて言った。「友人の意見には一抹の真実があるかも知れません。ブランダマー卿が気前よく修復費用を出してくれはしないかと期待していたのですが、今までのところ音沙汰なしです。もっともお返事が遅れているのはずっと外国にいらっしゃるせいだと思いますがね。卿は昨年おじい様から地位をお継ぎになりました。お亡くなりになった先代はこの聖堂にあまり関心をお持ちではありませんでしたし、実はいろいろな面でひどく変わった性格の持ち主でした。しかしこんなことを蒸し返しても仕方がありませんな。ご老体はお亡くなりになったのですから、お若い御当主からよい知らせがあることを祈るしかありません」
 「若くはないですよ」と医者が言った。「まあ、八十五で死んだおじいさんに比べれば若いでしょうが、少なくとも四十にはなっているはずですから」
 「まさか。いや、そうなのかな。彼のご両親が亡くなったのはわたしがカランに赴任した最初の年のことでした。覚えているかね、ミスタ・シャーノール――コリサンド号がパリオン湾で転覆したときのことを」
 「ああ、よく覚えてますわい」と教会事務員が割りこんできた。「結婚なすったときのことも。わしらが鐘を鳴らしておったら石工の爺さんのパーミターが聖堂に飛びこんできて『おまえら、やめんか。鐘を打つな。この古い塔が倒れるぞ。ぐらぐら揺れて、ひび割れたところから埃が雨のように降っている』と言うんでさ。それで聖堂を出ました。中止になったのは好都合でしたがね。なんたってロンドン・ロードの牧草地では飲めや歌えやの祝宴が開かれとって、わしらも行きたくてしょうがなかったですから。今度お告げの日(註 処女マリアの受胎告知を祝う三月二十五日)が来りゃ、あれから四十二年経つことになります。感心しねえって頭を振るやつもいましたよ。ピールを中断するのは命や幸せの中断につながるってね。でも、しょうがねえじゃねえですか」
 「その後、塔の補強をしたのですか」とウエストレイが訊いた。「今もピールを鳴らすと異常な動きがありますか」
 「とんでもねえ、旦那。あの前も三十年間鳴らされねえままだったんで。あのときだって鳴らすつもりはなかったんだが、トム・リーチが『鐘紐があるじゃねえか。いっちょう鳴らしてやろうぜ。三十年鳴っていねえんだ。最後に鳴ったのがいつかも思い出せねえ。そのとき弱っていたとしても、たっぷり時間があったからもう回復しているさ。ピールを鳴らしたやつには半クラウン出すぜ』って言うものでね。それでパーミターの爺さんに止められるまで鳴らしたってわけで。それからというものあの鐘は一度も鳴らされちゃおりません。間違いないですよ。あそこに紐がありますがね」そう言って彼ははるか頭上のランタンから垂れ下がり、壁にくくりつけられている鐘紐を指さした。「ありゃあ、礼拝用の鐘を鳴らすためのものですが、それだって大きい鐘じゃねえですからな」
 「サー・ジョージはそういうことをみんな知っていたんですか」ウエストレイは主任司祭に訊いた。
 「いいえ、ご存じじゃなかったでしょう」主任司祭は幾分いらいらした口調で言った。「お話しなければならないほど重要なことではありませんし、こちらにいるあいだはもっと緊急な問題に時間を取られていらっしゃいましたから。今の昔話など、わたし自身もはじめて聞きましたよ。鐘を鳴らしていないのは事実ですが、それは揺れを支える鐘枠が弱っているようだからで、塔自体とは何の関係もありません。わたしの言うことのほうが間違いありませんよ。サー・ジョージがお尋ねになったとき、申しあげたのです。『サー・ジョージ、わたしはここに四十年住んでいますが、この塔が倒れるまでお支払いを延ばしてくださるなら、こんなに嬉しいことはありません』とね。はっ、はっ、はっ!サー・ジョージもこの冗談を聞いて大笑いでしたよ!はっ、はっ、はっ!」
 ウエストレイはピールが中断された話を本社に伝え、自分自身のためにも早期に塔の検査をしようと固く決意して顔を背けた。
 教会事務員は話をしても主任司祭がまともに取り合おうとしないので腹を立てたが、他の人が興味深そうに耳を傾けているのを見て次のようにつづけた。
 「そりゃ、この古い塔が倒れるかどうかなんて、わたしにゃ分かりませんし、この先サー・ジョージがお困りになるような事態も望んじゃいませんや。しかし鐘を途中で止めていいことのあったためしがねえんで。先代のブランダマー卿の場合がそうでした。まずご子息とご子息の奥様をカラン湾でお亡くしになりました。昨日のことのように思い出しますな、わしらは夜通し引っ掛け鉤でお二人を捜したんですが、朝になって潮が差してきたとき、三尋の深さのところに寄り添うように二人の死体を見つけました。それから今度は奥様と仲違いなさり、奥様は二度と口をきこうとしませんでした――ええ、死ぬ日までね。ご夫婦はフォーディングに住んどったんですよ――あそこにでっかい屋敷を構えとりましてね」彼は親指で東のほうをさしながらウエストレイに言った。「二十年間、別々の棟に、まるで自分の家みてえにして住んどったんで。それから孫のミスタ・ファインズと喧嘩なさって、家からも土地からも追い出しておしまいになった。もっともお亡くなりになったときゃ、家も土地もお孫さんに残すしかなかったんですがね。このミスタ・ファインズというのがお若い御当主なんでして。外国を渡り歩いて人生の半分を過ごし、まだお戻りじゃないんですよ。もしかしたら戻らないかも知れませんな。殺されたってことも充分ありえます。さもなきゃ、きっと司祭さんの手紙に返事を書いているでしょうから。そう思いませんか、ミスタ・シャーノール」彼は不意にオルガン奏者のほうを振りむき、片目をつぶって見せた。主任司祭が彼の話を鼻であしらったことへの仕返しのつもりだった。
 「もうよさないか。そんな話はたくさんだ」と主任司祭が言った。「聞き手が嫌がっているじゃないか」
 「彼は口まめな男でしてね」彼はウエストレイの腕を取ると低い声で言った。「しゃべり出すと止まらないのです。サー・ジョージと相談したことは他にもたくさんありまして、われわれがどういう結論に達したのかお話したいのですが、あのおしゃべり男に邪魔されたのが悔やまれますな。視察は明日済ませることにしましょう。今の時期は日暮れが早くて残念です。袖廊の端の窓にはなかなかいい絵ガラスがはめられているんですよ」
 ウエストレイが上を見ると、袖廊の端の大きな窓が鈍く光っていた。光っているといっても聖堂の内部に垂れこめる夕闇に比べれば明るいといった程度である。それは垂直様式の時代に造られた大きなもので、幅は壁一杯に広がり、高さもほぼ床から天井まであった。十一の小さな窓に仕切られ、上部に果てしなく細かい石細工を施したこの巨大な窓は、想像力を揺さぶった。縦仕切りと狭間飾りが外に残っている陽の光を受けて黒く浮かび上がり、建築家は補助アーチや狭間飾りの構造を、見取り図を前にしているかのように、楽々と見て取ることができた。日没は日暮れ時の陰鬱な帳を吹き払う夕陽のきらめきをもたらしはしなかったが、単調な灰色の空はまだ充分に明るく、熟練した目には窓の上部にいろいろな形の古いガラスがびっしり填めこまれているのが見えた。半透明の青や黄や赤が古いパッチワークのキルトのように、彩りよく混じり合っているのだ。窓の下の方、両脇の小窓は着色されておらず、幽霊のように白いままだった。しかし中間部の三つの小窓は十七世紀の鮮やかな茶色と紫色に満たされていた。この豊かな色のあちらこちらにメダイヨンが挿入されていて、どうやらそれぞれ聖書の一場面をあらわしているようだった。それぞれの小窓の上部、茨の下には紋章が描かれている。中間部分の上部が全体の構成の中心をなしていて、どうやら銀色の楯の表面を、海緑色の波形線が何本か横切っている図像が描かれているようだった。ウエストレイは変わった色使いとガラスの透明感に注意を奪われた。すべてものが薄ぼんやりと見える中で、そのガラスだけはまるで内側から光を放射しているようだった。彼はほとんど無意識のうちに、これは誰の紋章なのかと尋ねようとして振り返った。しかし主任司祭はちょっと前から彼のそばを離れ、ややへだたった身廊のほうから癇に障る「はっ、はっ、はっ!」が聞こえてきたので、彼はサー・ジョージ・ファークワーと支払い延期の話がまたもや夕闇の中で新たな犠牲者に語られたのだと確信した。
 しかし建築家の心の内を明らかに見抜いた者がいた。というのは鋭い声がこう言ったからである。
 「それはブランダマー家の紋章だよ。――|雲形線が楯を六つに等分割し《バーリイ・ネビュリー・オブ・シックス》、銀色《アージェント》と緑色《ヴァート》が交互に重なっている」ますます濃くなる夕闇の中、彼のそばに立っていたのはオルガン奏者だった。「こりゃうっかりした。そんな専門用語を使ったってお分かりにならないだろうね。それにわたし自身、紋章なんてこの一つしか知らないんだ。ときどき思うんだよ」彼はため息をついた。「この紋章のことも知らなければよかったってね。あの楯についてはおかしな逸話が幾つかある。たぶんそれ以上に奇妙な話もまだあるんじゃないだろうか。いいにつけ、悪いにつけ、あれはこの聖堂や、この町に何世紀にもわたって刻みこまれてきた。居酒屋にたむろする連中ならみんな『雲形紋章』のことを自分が着ている服みたいにしゃべってくれるよ。カランに一週間もいたら、あんたもあれとはお馴染みになるだろう」
 彼の声には、その場にふさわしくないある種の憂愁と真剣さがこもっていた。ウエストレイは奇妙な感じがしてオルガン奏者をじっと見つめた。しかし暗すぎて相手の顔の表情は読み取れなかった。しかもその瞬間、主任司祭が彼らに加わった。
 「え、何ですか?ああ、そうです、雲形紋章です。雲形《ネビュリー》というのはラテン語の『ネビュルム』、いや、『ネビュルス』かな、雲を意味する単語から来ていて、あの波打つような帯状の線を指しています。積雲をかたどったものと考えられているんですがね。どうも暗くなりすぎて今晩はこれ以上視察できませんな。しかし明日は一日中ご一緒できますよ。あなたの興味をひきそうなことをたくさんご説明申し上げることができます」
 ウエストレイは暗闇のせいで調査が中断したことを残念に思ってはいなかった。聖堂の空気は刻一刻と冷たくねっとりしてくるし、疲れて腹が減り、しかもひどく寒気がした。彼はできることならさっそく下宿を探し、ホテルの高い宿泊費を払うことは避けたいと思っていた。彼の給料はささやかなものでしかなかったし、ファークワー・アンド・ファークワー社は他の会社と比べて決して部下に気前よく旅費を出すほうではなかったのである。
 彼は適当な下宿部屋はないだろうかと尋ねた。
 「申し訳ない」と主任司祭が言った。「残念ながらわたしの家にお迎えすることができないのですよ。あいにく妻の気分がすぐれないものですからね。わたしはもちろん下宿屋とか下宿屋の経営者なんぞはあまり知らないんですが、しかし、ミスタ・シャーノールが相談にのってくれるでしょう。ミスタ・シャーノールが下宿しているところに空き部屋があるかも知れませんよ。あなたの下宿屋の女主人は尊敬すべきわたしたちの友人ジョウリフさんの親戚だったね、ミスタ・シャーノール。きっと彼女も立派な女性に違いない」
 「失礼ですが、主任司祭」教区委員がはるか高位者にむかって用いることができる、ありったけの憤慨をこめた声で言った。「失礼ですが、親戚なんかじゃありませんよ。名前が同じというだけ、あるいはせいぜいのところ、うんと遠いつながりというだけなんですから。これでもキリスト教的寛容の精神を最大限に発揮して我慢して言っているんですがね、わたしたちの側の親族としてはあんな人がいたって、ちっともうれしくないんで」
 オルガン奏者は主任司祭がウエストレイを同じ下宿に住まわせてはどうかと言ったとき顔をしかめたが、ジョウリフに下宿の女主人をけなされ頭に来た様子だった。
 「あんたの側のどの親族も、わたしの下宿の女主人ほど体裁が悪くはないというなら、大手を振って往来を歩くがいいさ。あんたの売っている豚肉がみんな彼女の貸間くらい上等なら、商売は大繁盛するだろう。さあ、来たまえ」彼はウエストレイの腕を取って言った。「わたしには急に病気になるような連れ合いはない。だからわたしのうちであなたを歓迎してさし上げよう。途中でミスタ・ジョウリフの店に立ち寄って、夕ご飯用にソーセージを一ポンド買っていこうか」

 第二章

 扉を開けると建物の中に外気が勢いよく流れこんだ。雨脚はいまだに激しかったが、強く吹き出した風が清々しい潮の香りを含み、聖堂内の息苦しい、朽ち果てた雰囲気とは際だった対照をなした。
 オルガン奏者は深呼吸した。
 「ああ、外に出るとせいせいするな――連中の小うるさい文句から解放されて。もったいぶったろくでなしの主任司祭や、偽善者のジョウリフや、知ったかぶりのお医者様から解放されて!地下納骨所をセメントで固めるなんて、どうして無駄なことに金を使いたがるのだ?病原菌をほじくり返すだけのことじゃないか。おまけにパイプオルガンには一銭も使おうとしない。ファーザー・スミス(註 十七世紀のオルガン制作者)のオルガンには一ペニーも金をかけようとしない。渓流のように清らかで美しい音を出すというのに。まったくひどすぎる!白鍵は痛々しいほどすり減っているし、鍵盤のあいだに溝ができて木肌が見えているんだ。足鍵盤は短すぎてぼろぼろ。いやはや、あのパイプオルガンはわたしにそっくりさ。年老いて、無視され、くたびれきっている。死んだほうがましだよ」彼は半ば独り言のようにしゃべっていたが、ふとウエストレイのほうを振りむいて言った。「不平を並べて悪かったね。あんたもわたしの歳になれば不平を鳴らすようになる。少なくとも、その歳になってわたしくらい貧乏で、ひとりぼっちで、未来に希望がなければ。さあ、こっちだ」
 彼らは暗闇の中に足を踏み出し――とっくに夜の闇が降りていた――水を撥ね散らかしながら、暗い芝生の上を流れる、白い小川のような、輝く板石敷きの道を進んだ。
 「近道しよう。街灯のない小径なんだけど」境内を離れるときオルガン奏者が言った。「そのほうが早く着くし、雨に当たらずにすむ」彼は急に左に曲がって路地に入りこんだが、そこがあまりに狭くて暗いものだから、ウエストレイは彼についていくことができず、闇の中を不安そうに手探りした。小男が戻ってきて彼の腕を取った。
 「先導してあげよう。この道はよく知っているんだ。まっすぐ歩きたまえ。段差はないから」
 家々には人の気配もなければ灯りもついていなかった。曲がり角に街灯がぽつんと一灯、わずかに揺らめく光りを投げかけていたのだが、そこまで来たとき、ようやくウエストレイは窓にガラスがはまっておらず、どの家も空き家であることに気がついた。
 「ここは旧市街さ」オルガン奏者が言った。「もうどの家にも誰も住んじゃいない。時流に流されやすいわれわれは、みんなこの先のほうへ移ってしまった。川から吹いてくる風は湿っぽいし、波止場の風紀はそりゃあ悪いからね」
 彼らは狭い路地を離れ、川沿いに長く延びた波止場らしき場所に出た。右側には使われていない倉庫が四角い正面をむけて、巨大な荷箱のように一列に並んでいる。左側からは係船柱のあいだを流れる川水の音や、岸壁を舐める波の音が聞こえ、東風が川面にさざ波を立てていた。昔の馬車鉄道の線路が今も波止場を貫くように残っていて、二人はつまずかないよう注意して歩きながら、とうとう右側の大倉庫の列が一軒の低い建物によって途切れるところまでやってきた。それは教会か礼拝堂らしく、石の狭間飾りに、縦仕切りで仕切られた窓があり、西の端には鐘塔が建っていた。しかし何よりも目をひいたのは、道路に面した壁面を支える重量感あふれる控え壁だった。煉瓦造りで、地面とそれが支える壁とで三角形を形成している。建物の下には濃い影が落ちていたが、控え壁のあいだのくぼみが他のどこよりも黒々としていた。ウエストレイは同伴者の手が腕を強く握りしめるのを感じた。
 「あきれた臆病者と思われるかも知れんが」とオルガン奏者は言った。「わたしは夜はこの道を通らないんだ。今夜もきみがいなければここには来なかっただろう。子供のときから控え壁のあいだの暗闇が怖くて、今だに恐怖感が克服できない。昔は、あの洞窟みたいな深みに悪魔や鬼がうろついていると思っていたが、今は悪者があの暗がりに隠れていて、道行く人に飛びかかり首を絞めようと待ちかまえているような気がするんだ。寂しい場所だからね、この古い波止場は。夜になると――」彼はことばを切ってウエストレイの腕をつかんだ。「ほら、いちばん端のくぼみに何かいるんじゃないか」
 不意を突かれてウエストレイは思わず身震いし、一瞬、建築家は隅の控え壁の暗がりに男が立っているのを見たような気がした。しかし二三歩近寄ってみると、影を見間違えただけで誰もいないことが分かった。
 「相当神経質になっているようですね」彼はオルガン奏者に言った。「誰もいませんよ。光りと影の具合で錯覚しただけです。これは何の建物なんですか」
 「昔はフランシスコ修道会の寄進礼拝堂だったんだ」とミスタ・シャーノールは答えた。「その後、カランが本格的に港として賑わうようになると、ここで輸入品に物品税をかけていたのさ。今でも保税倉庫と呼ばれているくらいだ。しかしわたしが記憶するかぎりずっと閉まったままだがね。きみは物とか場所が人間の運命と固く結びついている、なんてことを考えるかい。どうもこのおんぼろ礼拝堂はわたしにとって命に関わる場所のような気がする」
 ウエストレイはオルガン奏者の聖堂での振る舞いを思い出し、この人は頭がおかしいのではないのかと思いはじめた。相手はそれを察知して、非難するようにこう言った。
 「とんでもない、わたしは狂ってなんかいないよ――愚かで、間抜けで、ひどく臆病なだけだ」
 彼らはすでに波止場のはずれに達し、明らかに文明の世界に戻ろうとしていた。というのは音楽が聞こえてきたからである。小さなビヤホールから流れてきたのだが、そばを通るとき中から女の歌声が聞こえた。豊かなコントラルトで、オルガン奏者はしばらく足を止めて聞き入った。
 「いい声をしている。歌の勉強をしていたらうまくなっていたのに。どうしてこんなところに来たのだろう」
 ブラインドは下ろされていたが、窓の下には届ききっておらず、彼らは隙間を通して中を覗いた。雨の雫がガラスの外側をしたたり、ガラスの内側は結露していたため、はっきりとは見えなかったが、クレオールの女が部屋の隅の火のそばに座る酔っぱらいたちに歌を歌っていることは分かった。中年の女だったが、甘い歌声で、老人が竪琴で伴奏をしていた。

 どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ
 かれらをここに連れてきて それがだめというのなら
 荒れた海のむこうまで
 さまよう気力はとてもない

 「かわいそうに!」とオルガン奏者は言った。「何か不幸に遭って、あんな浅ましい連中に歌を歌う羽目になったのだろう。さあ、行こう」
 右に曲がって数分歩くと大きな通りに出た。二人の目の前に建っていたのは、かつては立派なたたずまいを見せていただろうと思われる家であった。柱に支えられたポーチがあり、その下には半円形の階段が両開きの戸口までつづいている。正面には街灯が立っていて、雨にきれいに洗われて異常なくらい輝かしい光りを放ち、夜でもその家の落魄した姿を浮かび上がらせていた。廃屋というわけではないが、ペンキのはげた窓枠や、何カ所か漆喰のはげたあら塗り仕上げの正面には「栄光は去れり」(註 サムエル記から)の文字が書き記されていた。ポーチの柱は大理石に似せてペンキが塗られていたのだが、化粧漆喰がはげて薄汚れたまだら模様をつくり、そこから煉瓦の芯が覗いていた。
 オルガン奏者がドアを開けると、そこは石床の玄関ホールになっていて、左右に黒ずんだドアがあった。幅の広い石造りの階段が浅い踏み段と鉄の手すりを備え、玄関から二階へと延びている。板石の上にはすり切れたマットがむこう端まで小道をつくり、さらに階段を登るようにつづいていた。
 「ここがわたしの町屋敷さ」とミスタ・シャーノールが言った。「昔は乗り継ぎ用の馬を交換する宿で『神の手』と呼ばれていたんだ。でもその名前は決して口にしちゃいけないよ。今は個人の持ち家となって、ミス・ジョウリフがベルヴュー・ロッジと命名したんだから」
 彼がしゃべっているときドアが開いて一人の娘が玄関ホールに出てきた。歳は十九歳くらい。背が高く、気品のある容姿の持ち主である。赤みがかった茶色の髪は真ん中で分けられ、あふれるようなそれを後ろで緩くまとめていた。整えているとも自然ともいえない一世代前の結い方だった。その顔は少女時代の丸みを帯びた輪郭を保ち、繊細な輝きも失っていなかったが、未熟さの印象を否定する何かを持っていて、彼女の人生が必ずしも苦難と無縁ではなかったことを暗示していた。彼女は身体にぴったりした黒のドレスを着て、淡い色の珊瑚の首飾りをつけていた。
 「こんばんは、ミスタ・シャーノール。濡れてしまいましたわね。大したことなければいいけど」彼女はすばやく探るような視線をウエストレイに投げかけた。
 オルガン奏者は彼女を見て不機嫌そうな顔をし、怒ったようにうなって「叔母さんはどこだね。話があると伝えてくれ」と言い、玄関につながる部屋の一つにウエストレイを引っぱっていった。
 そこは大きな部屋で、片隅にアップライトピアノがあり、大量の本と手書きの楽譜が散らかっていた。中央のテーブルにはお茶の用意がしてあり、火格子の中では火が赤々と燃えている。その両脇には藺草で座部を張った肘掛椅子があった。
 「座りなさい」と彼はウエストレイに言った。「ここがわたしの応接室だ。もうすぐミス・ジョウリフがきみのためにどういう手はずを整えてくれるか分かるだろう」彼は相手をちらと見て、「廊下で会ったのは彼女の姪さ」と付け加えたのだが、何気ない口調を装うとしすぎて意図していたのとは反対の効果を与えてしまった。ウエストレイは、あの若い女を人に見せたくない、何か理由でもあるのだろうかと思った。
 しばらくして女主人があらわれた。六十になるこの女性は背が高くて痩せており、感じのいい、気品すらある顔立ちをしていた。彼女も古くてみすぼらしい黒のドレスを着ていたが、その外見は、痩せているのは生まれつきの体質というより、窮乏と自制が原因らしいことをそれとなく示していた。
 入居の手はずは簡単に整った。問題を提起したのはかえってウエストレイのほうだった。彼はミス・ジョウリフの申し出た家賃が不当に安すぎるのではないかと気になったのである。彼ははっきりそう言うと、家賃を少しだけ割り増しすることを申し出た。それは短い逡巡のあと、ありがたく受け入れられた。
 「貧乏しているくせに良心的すぎるぞ」オルガン奏者は噛みつくように言った。「今からそんなに几帳面じゃあ、修復工事でたんまりもうけたあかつきには、鼻持ちならん人間になっているわい」しかし彼はミス・ジョウリフに対するウエストレイの気遣いを明らかに喜んでいて、温かい口調でこう言い添えた。「一階のわたしの部屋で一緒に食事しよう。きみの部屋はこんな晩は氷室みたいになっている。すぐ降りてくるんだよ。さもないと亀のスープは冷えてしまうし、ほおじろの肉は焼けすぎて炭になってしまう。夜会服を着てくることは免除してあげよう。大礼服を持っているなら話は別だが」
 ウエストレイは喜んで招待を受け、一時間後に彼とオルガン奏者は暖炉をはさんで藺草張りの肘掛椅子に座っていた。ミス・ジョウリフがみずからテーブルを片付け、タンブラーとワイングラスを二つずつ、それに砂糖と水差しを持ってきた。まるでそれらがオルガン奏者の居間にあってしかるべきものだとでもいうように。
 「教区委員のジョウリフには悪いことを言ってしまったな」ミスタ・シャーノールは心ゆくまで食事をしたあとの瞑想的な気分に浸って言った。「あそこのソーセージはなかなかうまい。もっと石炭をくべたまえ、ミスタ・ウエストレイ。九月に火を入れるなんて罪深い贅沢だ。石炭はトンあたり二十五シリングだしね。しかし修復工事の開始ときみの歓迎のために何かお祝いをしなければならない。煙草をパイプに詰めて、わたしに回してくれ」
 「ありがとうございます。でも煙草はやらないので」とウエストレイは言った。実際彼は煙草を吸うようには見えなかった。彼の顔には根っからの禁酒家が持つかすかな冷淡さがあり、煙草を吸うなど自分にとっては犯罪に等しく、自分ほど気高い道徳規準を持たない人にあっては不作法を意味すると語っているかのようだった。
 オルガン奏者はパイプに火をつけ、話をつづけた。
 「ここは風通しのいい家だよ――衛生的でわれらが友人のお医者様も満足なさるだろう。どの窓にもひび割れ、隙間があって、換気には細心の注意を払っている。昔は古い宿屋だったんだよ、このあたりにもっと人がいた頃はね。正面が雨に濡れると今でもペンキを透かして『神の手』という字が読める。この外で市が開かれていたんだ。百年以上前だが、リンゴ売りの女がちょうどこの家のドアの前で青リンゴを客に売っていた。客は金を払ったと言うんだが、女は受け取っていないと言う。それで喧嘩になって、女は嘘をついていないことを証明するため天にむかって呼びかけたのさ。『神様、もしもわたしが客の金に手を触れていたら、どうぞ打ち殺してくだされ』とね。そのことば通り、彼女は絶命して小石の上に倒れた。手には銅貨が二枚握られていたよ。そんなもののために魂を失うとはね。人々は神の正義が示されたことをちゃんと後生に伝えるためには、宿を建てるのがいちばんだと、さっそくそう考えた。それで『神の手』が建てられ、カランが栄えていたときは栄え、カランがうらぶれるのと一緒にうらぶれたのだ。わたしが物心のつく頃からずっと空き家だったのだが、十五年前にミス・ジョウリフが買い取った。彼女がここを高級下宿屋ベルヴュー・ロッジに変え、あのけちんぼ地主のブランダマー老人が修繕費用として寄こしたなけなしの金をつぎこんで正面の『神の手』という文字をペンキで消したのだ。ここはカランに来たアメリカ人の保養施設になるはずだった。旅行案内を見るとピルグリム・ファーザーズの父親が何人かカランに埋葬されているということで、アメリカ人がカラン大聖堂までやって来るらしい。しかしアメリカ人なんて見たことがない。わたしの目につかないところにいるんだろう。子供のときから六十年ここに住んでいるが一ペニーだってアメリカ人がカラン大聖堂に寄付したり、ミス・ジョウリフのために使ってくれたって話は聞いたことがない。連中は誰もベルヴュー・ロッジにやって来ないし、高級下宿屋は高級すぎて下宿人がきみとわたしだけというありさまだ」彼は一息ついてから話をつづけた。「アメリカ人か。感心しないね、アメリカ人というのは。わたしから見るとずいぶん図々しい連中だよ。自分の楽しみのためには大金をつぎこみ、ときには大口の寄付をして格好いいところを見せるが、ちゃんとそのことが喧伝されるということを見越した上でやっているのさ。彼らには温かい心ってものがない。アメリカ人なんて気に入らないね。でもきみ、アメリカ人に知り合いがいるのなら、わたしは金次第でころっと意見を変える人間だからね。誰かわたしのオルガンを直してくれたら、アメリカ人みんなを褒め称えるよ。ついでに送風器として小さいウオーター・エンジンもつけてくれなければいけないよ。カリスベリ大聖堂でオルガンを弾いているシャターは最近ウオーター・エンジンを取りつけてもらってね。カランにも新しい水道ができたんだから、われわれだって使えるはずなんだ」
 ウエストレイは興味がなかったので、話題を戻した。
 「ミス・ジョウリフは生活が苦しいんですか。昔は裕福だった感じですが」
 「苦しいなんてものじゃない。飢え死に寸前だよ。いったいどうやって生計を立てているのやら。助けたいのは山々なんだが、こっちも懐中無一文だし、金があったとしても彼女はプライドが高いから受け取りゃせん」
 彼は部屋の奥のくぼみに据え付けられた棚のところへ行き、ずんぐりした黒い瓶を取り出した。
 「貧乏というのは寒気のする主題《テーマ》だね。変奏《ヴァリエーション》に入る前に一杯やって暖まろう」
 彼は瓶を友人のほうに押しやった。ウエストレイはつい手を出しかけたが、先頃固く決意した節制の誓いが彼を引き留め、丁寧なことばで誘惑を退けた。
 「困った男だな」とオルガン奏者は言った。「どうしろというのだ。酒は飲まん、煙草も吸わん。そのくせ貧乏について話をしたがる。これは弁護士のマーテレットがくれたブランデーだよ。娘の結婚式にウエディングマーチを演奏したお礼だ。『ウエディングマーチはオルガン奏者ミスタ・ジョン・シャーノールによって華麗に奏せられた』まるでオルガン・ソナタ第四番のごとくにね。こいつはきっと関税を払っていないぞ。物品税を払った酒を六本も人にやるようなやつじゃないからな」
 彼はウエストレイが思っていたよりはるかにたっぷりと酒を注ぎ、相手の驚きに感づくと、たしなめるようにこう言った。「きみが上物を厭がって飲まないから、わたしが二人分の義務を果たさなければならない。教会の窓のてっぺんまで注げ、これが原則だ」彼はさらに注ぎ足して、タンブラーの上半分についている刻み目のいちばん上まで満たしてしまった。しばらく沈黙がつづき、そのあいだ彼は怒ったようにパイプをふかしていたが、タンブラーの酒をしこたまあおると、苦虫は溶けて消え、再び話しはじめた。
 「わたしはかけがいのない生活苦を味わってきたが、ミス・ジョウリフの苦労はもっと深刻だ。それにわたしの場合は運の悪さに感謝すればいいだけだが、彼女の苦労は他人のせいだからね。まずお父さんが死んだ。お父さんはウィドコウムに農場を持っていて、裕福な暮らしをしていると思われていたが、資産を整理すると、債権者に金を払ったらきれいになくなる程度でしかなかった。それでミス・ユーフィミアは家を手放し、カランに来たのだ。こんなやたらとあちこちに張り出した家を選んだのは、賃貸料が年に二十ポンドと安かったからだよ。姪には(さっき見た娘だ)実を与えて自分は皮を食べるといったその日暮らし、いやかつかつの生活をしていた。そうしたら一年前、兄のマーチンが無一文のうえに、身体に麻痺を抱えて戻ってきた。ずぼらな糞ったれさ。おいおい、予言者のうちなるサウル(註 サムエル記から。本章末尾註も参照)を見るみたいな、そんな顔はしないでくれ。あいつはわたしと違って酒を飲まなかったよ。飲んでいればもっとましな人間になっていたかも知れんがね」オルガン奏者はまたずんぐりした瓶に手を伸ばした。「酒を飲んでいたら彼女に迷惑をかけることも減っていただろう。ところがいつも借金してトラブルに巻きこまれ、避難場所に帰るように妹のところへ帰ってくる。彼女に愛されていることを知っていたのだな。彼は頭がよかった。今風にいえば切れる男だった。しかし水みたいに落ち着きがなく、辛抱がきかないのだ。彼は妹にたかるつもりはなかったと思う。たかっていることに気がついてもいなかっただろう。しかしやっていることはそういうことだったのさ。彼は何度も旅に出た。どこに行くのか誰も知らない。もっとも何を探しているのかはよく知っていたがね。あるときは二ヶ月、あるときは二年間いなくなった。そのあいだ、ずっとミス・ジョウリフがアナスタシア――つまり姪――を養い、夏のあいだだけでも下宿人ができたりして、ようやく苦労から抜け出せそうだと思ったら、マーチンが舞い戻り、借金返済のために金をせびったり彼女の貯えを食いつぶすのだ。わたしは何回もその光景を見たし、彼らのことを思って何度も胸を痛めた。しかしわたしに何ができるというのだ?こっちも素寒貧だというのに。一年前、最後に彼が戻ってきたとき、顔に死相が浮かんでいたよ。それを見てわたしは喜び、彼らに心配をかけるのもこれで終わりだと思った。けれどもそれは麻痺だったのだ。それに彼は丈夫な男で、馬鹿のエニファーが彼を殺すのにえらく手間取った。彼が死んだのはほんの二ヶ月前さ。あの世ではもっと幸せに暮らしていることを願って乾杯しよう」
 オルガン奏者は不作法にならない程度に酒をしたたかあおった。
 「そんな陰気な顔はよしてくれ。いつもこんなにひどい訳じゃない。元手がないんでね。マーテレットから毎日ブランデーがもらえるわけでもないし」
 過度の不節制に思わず顔をしかめていたウエストレイは、非難がましい表情を打ち消すと、次のような質問をしてミスタ・シャーノールの舌を再び滑らかにした。
 「ジョウリフは何のために旅に出たんですか」
 「ああ、そいつは長い話だ。またもや雲形紋章さ。教会で話しただろう――銀色と海緑色が彼を狂わせたのだ。自分はジョウリフ家の者ではない、ブランダマー家の一員だ、そしてフォーディングの正当な後継者だ、彼はそう思いこんだのだ。子供のときはカラン・グラマー・スクールに通い、成績は優秀、オックスフォードでは奨学金をもらった。大学ではさらに優秀な成績を収め、世の中に出て出世街道をまっしぐらというときに、この雲形紋章が熱病のように彼をつかまえ、彼の心に取り憑いてしまった。後年、彼の身体をじわじわと侵していった麻痺みたいにね」
 「よく分からないのですが」とウエストレイは言った。「なぜ彼はブランダマー家の人間だと思ったのですか。父親が誰か、知らなかったのですか」
 「彼は十五年前に死んだ小地主、マイケル・ジョウリフの倅として育てられた。だがね、マイケルの結婚相手は自称未亡人で、三歳になる男の連れ子がいたんだな。その子がマーチンなんだ。マイケルは彼を自分の子供として引き取り、彼の頭のよさを自慢にし、大学にやり、遺産をすべて彼に残した。オックスフォードでうぬぼれ出すまで、ジョウリフ家の人間じゃないんだ、などという話はしていなかったのだが、突然この気まぐれな考えに取り憑かれ、残りの人生を父親探しについやしたというわけだ。荒野をさまようこと四十年。あれやこれやの手がかりを見つけ、ついにピスガ山に登り約束の地を眺め見ることができると思ったのだが、しかし彼はその景色を、いや、その蜃気楼だな、それを見るだけで満足しなければならなかった。そして乳と蜜を味わう前に死んでしまったのさ」
 「彼は雲形紋章とどういう関係があったんです?どうしてブランダマー家の一員だと思いこんだのですか」
 「ああ、今はその話はしたくないよ」オルガン奏者は言った。「もしかしたら、わたしはとっくにしゃべりすぎているのかも知れない。わたしが何か言ったなどと、ミス・ジョウリフに悟られないようにしてくれよ。彼女はマイケル・ジョウリフの実の子供だ――唯一の子供だ――しかし彼女は腹違いの兄をとても愛していて、彼のいかれた振る舞いを人にからかわれるのがいやなのさ。もちろんカランの口さがない連中は彼のことでいろいろな噂話をする。その都度、ますます髪が白くなり、狂気じみた表情になって彼が戻ってくると、連中は『雲形じいさん』と彼のことを呼び、ガキどもは道で彼に会うとお辞儀をし『お早うございます、ブランダマー卿』とやるんだ。彼の話はたっぷり聞く機会があるだろう。可哀想な妹にとっちゃあ、耐えられないくらいつらいことなんだよ、兄さんがからかわれ、笑いものにされているのを見るのは。そのあいだも兄貴は妹の貯金を食いつぶしているんだがね。しかしそんなことはみんな終わった。マーチンは雲形紋章なんか誰もつけないところへ行ってしまった」
 「彼の妄想に根拠はなかったのですね」ウエストレイは訊いた。
 「それはわたしより賢い人間に訊きたまえ」オルガン奏者は無関心そうに言った。「主任司祭か、医者か、誰か本当に利口な人にね」
 彼は冷笑的な口調にかえっていたが、そのことばには、頭がおかしいのではないかという、先ほどの疑惑を思い出させる何かがあり、ふとウエストレイは、ジョウリフ家との付き合いが長すぎてミスタ・シャーノール自身にもマーチンの妄想がのりうつったのかも知れないと考えた。
 話し相手はブランデーをさらにつぎ足し、建築家はお休みなさいといとまを告げた。
 ウエストレイの部屋は上の階にあり、彼はさっそく寝室に入った。旅やら午後聖堂の中に長いこと立っていたせいでひどく疲れていたのである。荷物が解かれ、服が丁寧に引き出しに収められているのを見て彼は喜んだ。これは彼がなかなか味わえない贅沢であり、しかも染み一つない白いカーテンとベッドのシーツには溌剌とした暖炉の火影が揺れていた。
 ミス・ジョウリフとアナスタシアは二人で鞄を抱えながら家の最下部から最上部まで大きな石の螺旋階段を登った。ちょっとした力仕事でしばしば息継ぎに立ち止まったり、痛んだ腕を休めるために鞄を下に置いたりした。ようやく上の階まで運び上げ、その革紐が解かれたときにミス・ユーフィミアは姪を部屋から追い出した。
 「いけないわ。片付けはわたしがします。殿方の衣類を整理するなんて、若い娘がすることじゃありません。わたしもそんなことはしたくなかった頃があるけど、今はもうお婆ちゃんだから、あまり関係がないの」
 彼女は話をしながら鏡を見て、キャップからはみ出した白髪を軽くかき上げ、蝶結びにした首飾りのリボンを直して、できるだけすり切れた部分が隠れるようにした。アナスタシア・ジョウリフは部屋を出るとき、年老いた顔のしわがいつもより少なく、しかも華やいだ表情を浮かべていると思い、叔母が結婚しなかったことを不思議に思った。若者は年老いた未婚女性を見ると、彼女が結婚しなかったのは男性から見むきもされなかったからだと考える。六十の衰えた容色の中に十六の美しさを読み取ることは難しい――はるか昔に熱烈な求愛を受け、それが涙によってかき消された記憶が老いの穏やかな表情の下に埋もれ、いまだに忘れ去られず残っているとはなかなか想像できないものだ。
 ミス・ユーフィミアはすべてを注意深く整頓していった。建築家の持ち衣装はごくつつましいものではあったが、彼女にはよくそろっていて高価なもののようにさえ見えた。しかし彼女はウズラが逃げこんだ場所を見定める猟師のような目で、いろいろな穴やらほころびやらボタンがなくなっていることを見いだし、暇な折りにさっそくそれらを繕ってやろうと決心した。一定の歳を過ぎるとまともな女性はすべからく裁縫仕事をしたり、その仕上がりを思い浮かべることにまざまざと貴重な喜びを感じるようになるものだ。
 「お気の毒にねえ」と彼女は独り言を言った。「ずっと着るものの面倒を見る人がいなかったんだわ」そして可哀想だと思うあまり、つい寝室に火を入れるという贅沢なもてなしにはしってしまった。
 上の階の準備が終わると彼女は下に降りてミスタ・ウエストレイの居間がきちんと整理されているか点検した。そこを見回っているとき、下の階からオルガン奏者が建築家に語りかける声が聞こえてきた。その声はひどく低くてしわがれており、彼女の足の裏に響くように思われた。彼女は暖炉の上の飾りに軽くはたきをかけた。それは段々になった置物で、鏡を取り囲むように意味もなく小さな棚やくぼみができていた。金物屋の未亡人ミセス・カイゼルがカランを離れるときに家財道具を売りに出し、そのときのオークションの目玉として出されたものをミス・ジョウリフが買い上げたのだ。
 「これはオーバーマンテルよ」彼女はそれが家に持ってこられたとき、怪訝そうな顔をしていたアナスタシアに言った。「本当は買う気がなかったのだけど、朝からずっと何も買っていなかったし、競売人がわたしを睨むように見るから入札しなければならないような気がしたの。そうしたら他の人はみんな黙っているじゃない。それでここにあるわけ。でもこれがあるとお部屋の体裁がちょっとよくなると思うわ。もしかしたらこれを見て下宿人が来てくれるかも」
 そのあと青いエナメル塗料で鮮やかに色を塗り直し、マーチンがあるとき放浪の旅の土産として持ってきたブルサシルクで花綵《はなづな》を作って横に飾り、水銀の剥げかかっている箇所が見えないようにした。ミス・ジョウリフは花綵をちょっとだけ前のほうに引っぱり、横のくぼみの一つに置いてある、半世紀前にビーコンヒルの定期市で買ったよい子のお茶碗セットを置き直した。模造の果物を入れたバスケットの、ドーム形のガラス蓋を拭き、暖炉からつきだした防火用ついたてのねじを締め、ステレオスコープの下に敷いたビーズマットのしわを伸ばし、最後に親切そうな顔に満足しきった笑みを浮かべて部屋を見回した。
 一時間後ウエストレイは眠りにつき、ミス・ジョウリフはお祈りを唱えていた。彼女は自分の家にふさわしい、紳士的な下宿人を寄こしてくれた天の配慮に特別な感謝を捧げ、この屋根の下にいるあいだは彼が幸せでありますようにと、心をこめて祈りを捧げた。しかしお祈りはミスタ・シャーノールのピアノの音にさえぎられた。
 「とっても素敵な演奏ね」彼女は蝋燭を消しながら姪に言った。「でも夜遅くに弾くのはやめてほしいわ。お祈りのとき、わたし、そのことをちゃんと強く念じていなかったみたい」
 アナスタシア・ジョウリフは何も言わなかった。彼女はオルガン奏者が古いワルツを乱暴に演奏していたのが悲しかった。しかも演奏の仕方から彼が酔っていることを知っていたのだ。

(註 シャーノールの「予言者のうちなるサウルを見るみたいな、そんな顔」という台詞は「サムエル記」十九章二十~二十四節に言及している。サウルがダビデとサムエルのもとに使者を送るが、何度送っても使者は予言者の仲間入りをしてしまう。サウルは最後にみずから出むくが、彼も予言者の仲間入りをする。シャーノールはマーチンがろくでなしだと言うが、ウエストレイから見れば、奇妙な振る舞いをし、酒をあおるシャーノールもろくでなしの仲間でしかない。シャーノールは不思議なくらい鋭くウエストレイの心を読む)

 第三章

 「神の手」はこの自治郡の中でもいちばんの高台にあり、ウエストレイの部屋はその三階にあった。居間の窓からは家並とそのむこうのカラン・フラット、海と町をへだてる広大な塩水性の牧草地が見渡せた。前景には赤いかわら屋根が延々と並び、中景には聖セパルカ大聖堂の、高々とかかげられた塔と屋根の大棟《おおむね》が見え、その偉容はあたりの家を残らずその壁の内に呑みこむのではないかと思わせた。そして遠景には青い海があった。
 夏になると紫色のもやが河口にかかり、湿地から立ちのぼる熱気のきらめきを通して、カル川が銀色にうねって海に流れるさまや、雪のように白い雁の群れや、あちこちに輝く遊覧船を見ることができる。しかし秋になると、ウエストレイがはじめて見たように、繁茂する草はいっそう緑を濃くし、塩水性の牧草地は表面に不規則な粘土色の水路をはわせた。それは満潮時は老人の目尻のしわのように見えるのだが、干潮時はねっとりした土手にはさまれ、虹色の水を底にたたえた小さな溝へと縮こまった。もぐらが柔らかい茶色の壌土でうねり道のような小型の土饅頭を盛り上げるのはこの秋である。そして泥炭採掘場では切り出し人夫がより大きな、より黒々とした泥炭のかたまりを積み上げるのだ。
 かつてはこの風景にもう一つ目をひくものがあった。多くの豪華船、バルト諸国と交易する材木運搬船、茶輸送専門の快速帆船、大型インド貿易船、移民船、こうしたものの帆柱や帆桁が見られ、ときにはカランの冒険家が有する私掠船の傾斜したスパーも見られた。これらはすべてとっくの昔に最後の港にむけて船出しており、今では立派な船と言っても、冬のあいだ、よどんだ入り江に係船されているドクタ・エニファーの帆船《センターボード》が帆柱を見せているくらいである。しかしそれでもこの風景は充分に印象的であり、「神の手」の上階の窓は、知る人ぞ知る、町でいちばん眺めのいい場所だった。
 大勢の人がこの窓からその風景を望み見た。船長の妻は結局戻ることのなかった夫のバーク船が引き綱で引かれながら川を下っていくのを目で追った。西から早馬で旅してきた新婚夫婦はカランで足を止め、夏のたそがれ時に椅子に座って手を取り合い、白い霧が牧草地の上に立ちのぼり、宵の明星がすみれ色の空に輝かしくかかるまで海のほうを見つめつづけた。カラン義勇農騎兵団を徴募したフロビシャー船長はフランスの先兵があらわれないかと携帯用望遠鏡で見張りをし、最後にマーチン・ジョウリフは安楽椅子に座って、ブランダマー家の全財産を受け継いだら何に使おうと思案を巡らしながらその最後の日々を過ごした。
 ウエストレイは朝食を終えてしばらくのあいだ、開け放った窓の前に立っていた。その日の朝は穏やかな快晴で、秋の大雨の後はしばしばそうなるように、大気に輝くような透明感があった。しかし彼は窓の前の障害物のせいで心から風景を楽しむことができなかった。邪魔なのは羊歯を入れたガラスのケースで、水槽をひっくり返した形のものが質素な木のテーブルの上に載っていたのだ。ウエストレイはじめじめした植物と、ガラスの内側に張り付く露の玉が気にくわず、この羊歯を部屋から取り払うことに決意した。彼はミス・ジョウリフに片づけてもらえるかどうか、尋ねてみようと思い、さらにこの決意は不必要な家具が他にもないだろうかと、彼に検討を促すことになった。
 彼は心のなかで周囲の家具の目録を作った。質のいいマホガニー製の家具が幾つかあった。背板のない椅子や、正面がガラス張りの本棚などがそれで、これらはウィドコウム農場にあった自由農民《ヨーマン》の家具の生き残りである。マイケル・ジョウリフの他の所有物と一緒にオークションに出されたのだが、カランの人の趣味からは古すぎるとみなされ、入札者がなかったのだ。他方、ビーズマットとか毛糸刺繍マット、綿毛マット、ケースに入った蝋細工の果物、貝殻サルビアのかご、背中に梳毛《そもう》織物を張った椅子、おもてが梳毛織物のソファ用クッション、白銀葦をいっぱい生けた安物の花瓶二つ、プリズム状の飾りを付けた蝋燭立て二脚、これらはひどくウエストレイの趣味に合わなかった。昔から彼は自分の趣味こそは非の打ち所のない最高の趣味であると信じこんでいた。壁には数葉の写真がかかっていた――ブラック・フォレストの衣装を着た若きマーチン・ジョウリフのカラー写真、ボートチームの色あせた写真、何かの廃墟の前に立つ別のグループの写真。これはカリスベリ博物学同好会がウィドコウム修道院へ見学旅行したときのものである。その他には難破船とか雪崩を描いた、よく見かける油絵や、花瓶いっぱいの花を描いた静物画も一点あった。
 この最後の絵はその大きさといい、稚拙さといい、俗悪でけばけばしい色といい、ウエストレイの気分を滅入らせた。朝食の席につくとその絵が真正面に見え、しばらくは細部の面白さに興をそそられたが、引きつづきこの部屋に住むとなれば目障りでしかなくなるだろうと彼は感じた。白と青に塗られた陶磁の花瓶が、磨き上げられたマホガニーのテーブルの上に置かれ、およそ珍妙な花が生けられた絵である。花瓶が絵の半分を占め、もう半分にはテーブルの上板が意味もなく広がっていた。画家は構成のバランスの悪さに気がついたのだが、そのときはもう明らかに手遅れの段階に達していて、テーブルの上に花を数本ばらまくことで修正を施そうとしたようだった。この花を目指してぶよぶよした緑色の芋虫がテーブルの端、つまり絵の端で身をくねらせていた。
 ウエストレイは熟慮の末、羊歯のケースと花の絵は部屋に置くにはまったくふさわしくないと判断した。できるだけ早い機会にミス・ジョウリフと相談して取り払ってもらおう。他の細々した点は、さほど面倒もなく、少しずつ変えていってもらえるだろうと思ったが、それまでの下宿の経験から、絵をはずすのは、ときに困難で、細心の注意を要する問題であることを知っていた。
 彼は丸めた設計図を開いて必要なものを選び、聖堂に行く準備をした。足場を作るために大工と打ち合わせをしなければならなかった。下宿を出る前に昼食の注文をしておこうと思い、女主人を呼ぶために梳毛糸でできた太い呼び鈴の紐を引いた。しばらく前からバイオリンの音が聞こえていて、呼び鈴の返事を待ちながら耳を澄ませていた彼は、音楽が途切れたり繰り返されたりするのを聞いてオルガン奏者がバイオリンの稽古をつけているのだと思った。最初の呼び出しに応答がなく、二回目の試みも同様に失敗すると、彼はいらいらと立てつづけに何度も紐を引いた。すると音楽が止み、彼は憤慨をこめて鳴らした呼び鈴がきっと音楽家たちの注意を引き、オルガン奏者がミス・ジョウリフを呼びに行ったのだろうと考えた。
 彼はほったらかしにされて癇癪をおこし、ようやくドアにノックの音がしたとき、女主人の怠慢を叱責しようと身構えていた。彼女が部屋に入ってくると、彼は図面から目を離さずにこう切り出した。
 「呼び鈴を聞いて来たときはノックしないでください。それより――」
 彼はことばを失った。というのは目を上げると彼が話しかけていたのは年かさのミス・ジョウリフではなく、姪のアナスタシアだったからである。彼女は昨晩見たときと同じように優雅な姿で、波打つ茶色の髪はその独特の美しさでまたもや彼の注意を引いた。いらだちはたちどころに消え、使用人の役割を貴婦人が演じていることに気づいたとたん、繊細な心が感じて当然の、困惑の気持ちでいっぱいになってしまった。彼はアナスタシア・ジョウリフが貴婦人であることを信じて疑わなかった。彼女を非難するかわりに、奇妙な事態を引き起こしたのは自分の責任であるかのごとく振る舞った。
 彼女は目を伏せて立っていたのだが、彼の咎めるような口調が頬に赤味をもたらし、その赤味が彼を狼狽させはじめ、彼女が次のようにしゃべったときには完全に打ちのめされてしまった。
 「ごめんなさい。お待たせしてしまって。最初、鈴の音が聞こえなかったのです。別なところにいて、手がふさがっていましたから。そのあと叔母が応対に出たと思っていたんです。外出中とは知りませんでした」
 低い、美しい声だったが、そこには恥ずかしさよりも疲れがこもっていた。彼が叱りつけるつもりなら、彼女はそれを甘んじて受ける覚悟だった。ところが今やおろおろと詫びを述べているのはウエストレイのほうだった。ミス・ジョウリフに伝えてもらえませんか、午後一時に昼食を食べに帰ると。料理は何でも構いませんから。うろたえ気味ではあったけれど親切なことばが返ってきて娘はややほっとした様子だった。彼女が部屋を出ていって、ようやくウエストレイはカランがヒメジで有名だと聞いていたことを思い出した。彼は昼食にヒメジを注文するつもりでいたのだ。水しか飲まない禁欲生活をしていたので、その分、食欲を満足させようと食べ物にはうるさかった。しかし魚を忘れてしまったことを後悔はしなかった。悲惨にも賤しい立場に身を落とした若い貴婦人とヒメジの特性及びその調理について議論するなど、崇高を滑稽に転落させる愚かな振る舞いでしかなかった。
 ウエストレイが聖堂に出かけたあと、アナスタシア・ジョウリフはミスタ・シャーノールの部屋に戻った。実はバイオリンを弾いていたのは彼女だったのである。オルガン奏者はピアノの前に座っていらいらと腹立たしげに和音をかき鳴らしていた。
 「どうだったい」彼女が入ってきたとき、振り返りもせず彼は言った。「ご主人様はわがレディに何を要求なさったんだい。家のてっぺんまでおまえさんを駆け上がらせるとは何事かね。あの男の首をねじ切ってやりたいよ。いつものように息が切れて手が震えているじゃないか。もうさっきみたいに演奏することすらできん。それだけじゃない。おやおや」彼は彼女を見て叫んだ。「七面鳥みたいに真赤じゃないか。あの男に愛の告白でもされたのか」
 「ミスタ・シャーノール」彼女はすぐさま言い返した。「そんなことを言うのなら、もう二度とあなたのお部屋には来ません。そんなふうに話をするときのあなたは大嫌い。いつものあなたじゃないわ」
 彼女はバイオリンを取り上げて脇に抱え、アルペッジョを鋭く鳴らした。
 「ほらほら。そう何でもかんでも真面目に受け取らないでくれ。身体の調子が悪くていらいらしているだけだよ。許してくれ。誰もおまえさんに言い寄りはしないことくらい知っているさ、ふさわしい相手があらわれるまでな。わたしはそんな相手があらわれなければいいと思っている、アナスタシア――ずっとあらわれなければいいと思うよ」
 彼女は彼の言い訳を受け入れもしなければ、はねつけもせず、音が低くなっていた弦を締めつけた。
 「どうしたってゆうんだ!」彼女が演奏しようと譜面台に近づいたとき彼は言った。「ラがフラットになっているのが聞き取れないのか。パンケーキみたいにフラットじゃないか(註 「フラット」に「平ら」と「半音低い」の意をかけている)」
 彼女は何もいわずに弦を締め直し、中断された楽章を弾きはじめた。しかし彼女は音楽に集中できずミスを重ねた。
 「いったい何をやっているんだ」オルガン奏者は言った。「五年前に始めたときよりひどいじゃないか。これ以上やっても時間の無駄だよ、おまえさんにとっても、わたしにとっても」
 その瞬間、彼女がいらだたしさのあまり泣いていることに気づき、彼は座ったまま演奏用の腰掛けをくるりと回転させた。
 「アンスティス、本気で言ったんじゃないんだ。乱暴な口をきくつもりはなかったんだ。腕は上がっているよ――本当に。時間の無駄といったが、わたしには他にすることなんてないし、おまえさん以外に教える相手もいない。それに喜んでくれるなら、わたしが昼も夜もおまえさんのために時間を捧げることは知っているだろう。泣かないでくれ。どうして泣くんだい」
 彼女はバイオリンをテーブルに置き、昨日の晩ウエストレイが座った藺草張りの椅子に腰かけると、両手で頭を抱え、わっとばかりに泣き出した。
 「ああ」彼女は啜り泣きの合間に、奇妙な震える声でいった。「ああ、なんてみじめなんでしょう――何もかも情けなくてたまらない。お父さんの借金は残っているし、お葬式のお金も葬儀屋に払っていない。何をするにも先立つものがないわ。可哀想なユーフィミア叔母さんは死ぬほど働いている。叔母さんは家のなかの小物を売らなければならないって言っているのよ。それにせっかく品のいい下宿人、おとなしくて紳士的な人が来てくれたというのに、呼び鈴を鳴らしただけで、あなたは彼のことをののしり、わたしにひどいことを言うんですもの。どうしてあの人に叔母が外出中だと分かるんです?叔母が家にいるときは、呼び鈴が鳴ってもわたしに応対をさせようとしないなんて、どうしてあの人に分かるんです。もちろん、うちに使用人がいると思っているのでしょうね。それにあなたはわたしをとっても悲しい気持ちにさせるわ。昨日の晩は眠れなかった。あなたがお酒を飲んでいることを知っていたから。床に就いたとき、あなたが安っぽい曲を弾いているのが聞こえたわ。酔っているとき以外は大嫌いな曲を。何年も一緒に住んでいて、わたしにずっと優しくしてくれていたのに、今になってこんなことになるなんて。どうかお酒は止めて。わたしたちはみんな充分にみじめなんです、あなたにこれ以上みじめな思いをさせられなくたって」
 彼は腰掛けから立ち上がり、彼女の手を取った。
 「そんなふうに言わないでくれ、アンスティス――どうか。わたしは前にも酒を断ったことがある。またきっぱり止めるよ。あのときは女のせいで酒に手を出し、身を持ち崩した。わたしのような老いぼれが酒をくらって死のうが死ぬまいが、誰も気にしないと思っていたのだ。心配してくれる人がいるのだと分かりさえすれば。おまえさんが心配しているんだと思うことさえできれば」
 「もちろん、わたし、心配しているわ」――彼の手に力がこもるのを感じたとき、彼女はそっと自分の手を引っこめた――「もちろん、わたしたち、心配しているわ――叔母さんもわたしも――叔母さんもこのことを知れば、心配するでしょう。ただ叔母さんはお人好しすぎて分かっていないだけなの。夕食後にあなたがお酒を飲んでいる、あの忌まわしいグラスは見るのもいや。前は全然違ったのに。わたしは家がしんと静まりかえったとき『牧歌』とか『告別《ル・アデュ》』の演奏を聞くのが大好きだったわ」
 不幸が人間から自然な笑顔を隠してしまうとしたら、それは悲しいことだ。早朝の空模様は期待を裏切らず、空は青く澄み、綿のように白く輝く雲が、島やら大陸の形をなして浮かんでいた。柔らかな温かい西風が吹き、どの庭の茂みでも鳥が秋の訪れを忘れて楽しげにさえずっていた。カランは庭の町であり、人々はそれぞれの葡萄の木の下、無花果《いちじく》の木の下に安らうことができた(註 列王記Ⅰから)。蜜蜂は巣を飛び出し、いっせいにぶんぶんと陽気な羽音を立てながら、壁の上を濃紫色《こむらさきいろ》に覆う木蔦《きづた》の実にむらがっていた。聖セパルカ大聖堂の塔は角に小尖塔を備えていたが、その上の古い風見鶏がめっきし直したように光り、千鳥の大群がカラン湿地の上空を旋回しては、不意にむきを変えて銀色のきらめきを放った。オルガン奏者の部屋の開け放った窓からも黄金色の陽が射しこみ、色あせて擦り切れた絨毯の、シャクヤクの模様を照らし出していた。
 しかし部屋の中には二つの哀れな心が息づいていた。一つは不幸に、一つは絶望に沈み、金色の風見鶏も、紫色の木蔦の実も、千鳥も、陽の光も見ず、鳥の声も蜜蜂の羽音も聞いていなかった。
 「うむ、止めるよ」とオルガン奏者は言ったが、その声に先ほどのような力はこもっていなかった。彼がアナスタシア・ジョウリフに近づくと、彼女は立ち上がって笑いながら部屋を出た。
 「お芋の皮むきをしなくてはいけないわ。さもないとあなたのお昼がないんですもの」
 ミスタ・ウエストレイは貧乏にも老齢にも悩まされず、胃の調子もいいし、自分の力と前途のいずれにもこの上ない自信を抱いていたから、その日の美しさを心ゆくまで楽しむことができた。彼はその日の朝、前の晩にオルガン奏者に連れられて歩いた、曲がりくねった裏通りを避け、光の子(註 キリスト教徒のこと)のごとく、大通を歩いて聖堂にむかった。すると町の印象ががらりと変わった。大雨は舗道や車道をきれいに洗っていた。市のある広場に入ったとき、彼は溌剌とした光景や、その場に横溢する静かな賑わいに心を打たれた。
 広場の二辺に並ぶ家々は、建物の上部が舗道に張り出していて、ずんぐりした木の柱に支えられるアーケードを形造っていた。ここにはその所有者が「最高の店舗」と自負する店が並んでいた。カスタンスは雑貨屋、ローズ・アンド・ストーリーは服地屋で、その正面は三軒分の広さを持ち、おまけに角には「仕立て専門」の「部署」まで持っていた。ルーシーは本屋で、カラン・エグザミナー紙を印刷し、最近発生したコレラ根絶のためカランで取られた対策に関するドクタ・エニファーの論文や、さらには参事会員パーキンの説教集をも何冊か出版していた。カルビンは馬具商、ミス・アドカットは玩具店を経営し、プライアは薬剤師と郵便局長を兼任している。広場の三つ目の辺の中心にはブランダマー・アームズが建っていて、淡黄褐色の広い正面を見せ、緑のブランインドが下り、窓の建具はオークの木目模様に塗装されていた。ホテル前の舗道の縁から石の階段がのび、その横に立つ白くて背の高い棒のてっぺんには緑色と銀色の雲形紋章そのものがはためいていた。ブランダマー・アームズの両脇には数軒、当世風の店がかたまっていたが、アーケードがないため、赤い筋の入った茶色い日覆いで満足しなければならなかった。この商店の一つが豚肉を売るミスタ・ジョウリフの店だった。彼は開いた窓からウエストレイに挨拶した。
 「お早うございます。もうお仕事の時間ですか」彼は建築家が丸めて脇に抱えている設計図を指さした。「こんな修復工事に呼ばれるなんて、名誉なことですよ」彼はそう言って陳列台の肉片をもっとおいしそうに見えるよう置き直した。「きっとあなたの努力に神様のお恵みがあるでしょう。わたしもお昼頃、仕事の合間を縫って、聖堂で静かに瞑想するんです。そのときお目にかかったら、できる範囲で何でもお手伝いしますよ。それまではわれわれ二人とも自分の仕事に精を出しましょう」
 彼はソーセージ製造器のハンドルを回しはじめ、ウエストレイは彼の信心深いことばと、それにもまして鼻持ちならない恩着せがましさから逃れることができてほっとした。

 第四章

 広場に面したカラン大聖堂の北面はまだ日陰だったが、中に入ると南窓から太陽が射しこみ、建物全体が素晴らしく柔らかな光の洪水に包まれていた。確かにイギリスには聖セパルカより大きな教会はあるし、この聖堂は同じ規模の修道院建築と比べ、屋根が低いために均整がとれていないという欠陥があるが、しかしそれにもかかわらずこれほど真に威厳があり、堂々とした建造物がかつてあったかどうかは疑わしい。
 身廊は千百三十五年、ウオルター・ル・ベックによって起工され、両側に低い、半円アーチのアーケードを備えている。アーチを一つ一つ区切っている円柱には、ダラムやウォルサムやリンディスファーンの聖堂に見られるような紋様の彫刻はなく、またウインチェスター大聖堂の身廊やグロスター大修道院の聖歌隊席に見られるような垂直様式の柱が巻きついてもおらず、ひたすらその無装飾とすさまじい直径によって見る人を圧倒した。その上には暗い洞窟のような奥行きを持つトリフォリウムがあり、さらにその上には小さな、まばらな開口部を持つクリアストーリーがある。これらすべての上にかぶさっているのが石造穹窿で、刳形装飾を施された重たい交差リブがアーチのあいだを横断し、かつ対角線状に伸びていた。
 ウエストレイは扉口のそばに腰を下ろして夢中になって建物を観察し、巨大な石造物を横切る不思議な光りの戯れに見とれた。そのあまり立ち上がって聖堂のなかを歩き出すまでに半時間が経過してしまった。
 がっしりした障壁が聖歌隊席を身廊からへだてていて、一つの聖堂からいわば二つの聖堂を作り出していた。ウエストレイが仕切りのドアを開けたとき、四つの声が語りかけてくるのを聞いた。見上げると塔を支える四つのアーチが頭上にあった。「アーチは決して眠らない」と一つが叫んだ。「彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた」と別の一つがそれにつづいた。「われわれはその重量を分散する」と三つ目が言い、四つ目は古い繰り返し文句に戻った。「アーチは決して眠らない。決して」
 陽の光のなかでアーチをじっと見ていると、その幅といい細さといい、彼の驚きはいっそう深くなり、主任が建物の沈下や南の壁の不吉な割れ目をあれほどまでに軽視することがますます信じられなくなった。
 聖歌隊席は身廊よりも百四十年後に、華麗な初期イギリス様式で造られた。幾つものランセット窓が、手のこんだ雨押さえ刳形によって二つずつ、三つずつにまとめられ、東端では七つの窓が一つにくくられている。ここには黒っぽい灰色のパーベック石でできた無数の柱身があった。柱頭は精巧な仕上がりを見せ、えぐりの深い草葉飾りがあり、羽を広げた天使がヴォールト軸を背負い、その上には尖った屋根がのっていた。
 聖堂のこの部分だけでもカランの宗教的必要を満たすには充分で、堅礼式かミシリア・サンディ(註 在郷軍のメンバーをくじ引きで選ぶ日)のときでもないかぎり、会衆が身廊まであふれることはなかった。聖堂に来た人は誰もがゆったりと座ることができ、快適に礼拝することができた。というのも、千五百三十年、ヴィニコウム修道院長によって造られた天蓋付き聖職者席の前には信者席が長々と列をなして並び、緑色のベーズが張られ、真鍮の釘が打たれ、クッションや膝布団、祈祷書を収める箱が占有者の祈りのために備え付けられていたからである。カランで一角の人物たろうとする者は、誰もが金を払ってこの信者席を一つ借りていた。しかし宗教に対してさほどの贅沢ができない同じくらい多くの人々には樅板作りの別の席が与えられた。もちろんベーズは張られていないし、膝布団もなく、開き戸には番号もついていないけれど、それでもなんら不足はなく、ゆったりと座ることができた。
 建築家が聖歌隊席にはいると、聖職者席を掃除していた事務員は、鷹が獲物をめがけて舞い降りるように彼のほうにむかってきた。ウエストレイは運命を避けようとはせず、それどころかこの老人のおしゃべりから聖堂に関する興味深い事実が得られることを期待していた。なにしろここはこれから何ヶ月ものあいだ彼の仕事場となるのである。しかし事務員は事物についてよりも人間について話したがった。そして会話はしだいにウエストレイが同居することになった家族のことへと移っていった。
 ミスタ・シャーノールが賛嘆すべき沈黙を守ったジョウリフ家の先祖の疑惑は、事務員にとってはそれほど神聖な話題ではなかった。彼はオルガン奏者が踏むを恐れたところへ突進してゆき、ウエストレイもそれを制止すべきだとは感じず、むしろマーチン・ジョウリフとその想像上の主張について話をするよう水をむけたくらいだった。
 「いやはや」と事務員はいった。「わたしが小さい子供の頃でした、マーチンのおっ母さんが兵士と駆け落ちしたのは。でもみんなの噂話はようく覚えとります。ただカランの人間は新しもの好きでね。あのときのことも今となっちゃあ昔語り、わたしと主任司祭をのぞいたら、あの話ができるのは一人もおらんでしょう。農場主のジョウリフさんと結婚したとき、彼女はソフィア・フラネリイと名乗ってました。どこで見つけてきたんだか誰も知りません。彼は親父の代からヴィドコウム農場に住んでいたんですよ、マイケル・ジョウリフは。陽気な男で、いつも黄色いズボンに青いベストを着とりました。それである日、彼は結婚するといってカランに来たんです。ソフィアはブランダマー・アームズで待っとって、二人はこの聖堂で結婚しました。そのとき彼女には三歳になる男の子がおりましてな、自分は未亡人だと言いふらしておったんですが、結婚証明書を見せろといわれても見せることはできないだろうと大勢の連中は考えとりました。しかしたぶん農場主のジョウリフさんは見せろなんて言わなかったんでしょう。さもなきゃ、何もかも承知の上だったんでしょう。すらりとした別嬪さんでしたよ、彼女は。分けへだてなくみんなに声をかけ笑っていたと、親父から何度も聞かされました。それに小金を持っとりましてなあ。三ヶ月おきにロンドンに出むいて家賃を集めるんだと彼女は言っとりました。戻るたびに目を見張るような新品の服を着とるんです。身なりは立派だし、風格みたいなものがただよっとるもんだから、みんなウィドコウムの女王様と呼んどりました。どこから来たのか知りませんが、あの人は寄宿学校を出とって、楽器も弾きこなせるし歌も見事でした。夏の夜なんか、わたしら若いもんはウィドコウムまで歩いていって農場近くの柵に腰かけ、開いた窓から聞こえてくるソフィの歌声を何度も聞きました。ピアノも持っとって、船長と水夫と失恋にまつわる、じんとくるような長い歌をよく歌っていて、みんな泣きそうになりましたよ。歌を歌ってないときは絵を描いてました。女房のやつは彼女が描いた花の絵を持っとりましてね。農場をあきらめんとならんくなったとき、たくさん売りに出されたんですよ。でもミス・ジョウリフはいちばん大きいのを手放そうとはなさらんかった。買いたいって連中は多かったんですが、あれはとっておくことにしたらしく、今でもあの人の手元にありまさあ。看板みたいにばかでかい絵で、そりゃきれいな花で埋めつくされているんですがね」
 「ええ、見ましたよ」ウエストレイが口をはさんだ。「ミス・ジョウリフの下宿のわたしの部屋にあるんです」
 彼は絵のまずさについても、それをはずすつもりでいることも黙っていた。話し手の芸術的感受性を傷つけたくなかったし、案外と面白くなり出した話の腰を折りたくなかったのである。
 「ほら、そうでしょう!」と事務員は言った。「ウィドコウムにあったときは、いちばんいい応接間の、食器棚の上にかかってました。子供のとき見たんですよ。お袋が春の大掃除の手伝いに農場へ行きましてね。『トム、見てごらん』とお袋に言われました。『こんなお花、見たことがあるかい。可愛い毛虫がお花を食べようとしているよ!』ほら、下の隅っこに描かれている緑色の毛虫のことですよ」
 ウエストレイは頷き、事務員は話しつづけた。
 「『ねえ、ミセス・ジョウリフ』ってお袋がソフィアに言いました。『こんなきれいな絵を見たら、他の絵なんて見る気がなくなりますわ』ってね。そしたらソフィアは笑って、お袋は絵を見る目があるって言いました。値打ちがないってけちをつける連中もいるけど、売りに出したらいつだって五十ポンドか百ポンドかそれ以上の値がつくさ。絵の分かる人のところに持っていけばね。そのときは、絵の具をはねちらかしただけじゃねえかといった連中を笑ってやるんだ。そう言って笑っとりました。あの人はいつも笑っていて、いつも明るかった。
 マイケルは元気のいいかみさんが大いに気に入っとって、よく大型二輪馬車でカラン市場に乗りつけて、みんなの注目を集めたり、彼女が途中ですれ違う農夫たちと冗談を交わすのを嬉しそうに聞いとりました。彼女のことはえらく自慢しとりましたが、ある土曜日、ブランダマー・ホテルで、かみさんが産んでくれた可愛い娘のために乾杯してくれと、客の全員に酒をおごったときはもっと得意そうでした。これで子供が二人になったと言いましてな。ソフィアの連れ子を自分のところで実の息子のように育ててたんでさあ。
 それから一年か二年すると、ウィドコウム・ダウンの丘陵で軍事演習のキャンプが張られましてね。あの夏のことは、ようく覚えとります。ひどく暑い夏で、ジョウイ・ガーランドとわたしはメイヨーズ・ミードの洗羊場で泳ぎの練習をしましたから。丘陵にはずらっと白いテントが並び、士官用の食堂テントの前じゃ、夕方ブラスバンドが音楽を演奏するんで。たまに日曜の午後も演奏してました。司祭さんはとんでもねえ迷惑だと大佐に手紙を書きましてね、楽隊のせいで人々が教会に来ない、『民坐して飲食《のみくい》し起《た》ちて戯る』(註 出エジプト記から)さまは、金の子牛を崇拝するにも等しいと、こう言ったのです。ところが大佐はそんなものに鼻も引っかけやしませんや。で、天気のいい夕方になると、大勢の人が丘陵に出ておりました。娘っ子のなかには、あのクラリネットとバスーンみたいな素敵な音楽は、ウィドコウム大聖堂の階上廊じゃ聞いたことないって、あとで言ってるやつがおりました。
 ソフィアも何度もあそこに出かけてました。最初は旦那の腕につかまって歩いとりましたが、それから他の人と腕を組んで歩くようになりました。ビャクシンの茂みの陰で兵士と腰を下ろしとったという噂もありました。あいつらが移動したのは聖ミカエル祭前夜のことですよ。聖ミカエル祭(註 九月二十九日)の前日にウィドコウム農場で食ったガチョウはさぞかしまずかったでしょうな。というのは兵士がいなくなったとき、ソフィアもいなくなったからなんで。マイケルも農場も子供たちも捨てて、誰にもさよならを言わなかったんです。子供ベッドに寝ている赤ん坊にさえね。軍曹と駆け落ちしたんだって言われてますが、本当のところは分かりゃしません。農場主のジョウリフさんは彼女を捜して、ひょっとしたら居場所を突き止めたのかも知れませんが、そんなことは一言も言いませんでした。彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」
 「彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」彼はため息のようなものをつきながら声をひそめてそう言った。長らく忘れていた農場主ジョウリフ一家の崩壊に心を動かされたのだろう。いや、次のようにつづけたところを見ると、自分が被った損害のことしか考えていなかったのかも知れない。「そうそう、あの人は貧乏な人に煙草を一オンス分け与えたり、労働者の小屋にお茶を一ポンド送ったりしとりました。きれいな服を買ったら、お古は人にあげなさるんで。女房のやつは、あいつのおっ母さんがソフィ・ジョウリフからもらった毛皮の襟巻きをいまだに持っとります。他の点はともかく、まあ、気前よく人に金をやる人でしたな。農場で働いている連中の中に、彼女の悪口を言うやつは一人もいませんでした。出て行かれて喜んだ人間は一人もいませんでしたよ。
 かわいそうにマイケルは、口数の多い男じゃねえんですが、はじめのうちひどく取り乱しました。黄色いズボンと青いチョッキは相変わらず着てましたが、仕事する気力がなくなり、市場にもきちんきちんと行くべきところが、足が遠ざかるようになりました。ただ子供たちをいっそうかわいがるようになったようでした――父親を知らねえマーチンと、母親を知らねえ赤ん坊のフェミーですよ。わたしの知るかぎり、ソフィーは子供に会いに戻ってきたことはありませんでした。しかしそれから二十年後にわたしはこの目で彼女を見ましたよ。ビーコン・ヒルの定期市へ馬を売りに行ったときのことでさあ。
 あの日も陰気な日でした。というのはマイケルがはじめて持ち物を売って金を作らにゃならんかった日だったんです。かわいそうに旦那さん、その頃はげっそりやつれてました。以前と違って青いチョッキと黄色いズボンにたるみができて、おまけに服じたいがすっかり色褪せてしまいましてな。
 『トム』と旦那さんが言いました――つまりわたしのことですよ――『この馬どもをビーコン・ヒルに連れて行って、できるだけ高く売ってこい。金がいるんだ』
 『なんですって、お父さん、いちばんいい輓馬《ばんば》を売るの?』フェミー嬢ちゃんが言いました――そばにいらっしゃったんで――『ホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトはいちばんいい輓馬なんだから売らないで!』すると馬が顔をあげるんですよ。お嬢ちゃんに名前を呼ばれたことがちゃあんと分かるんですな。
 『そんなに大騒ぎすることはないよ、おまえ』旦那さんが言いました。『受胎告知(註 三月二十五日)の祭が来たら、また買い戻すから』
 わたしは馬を連れて行きました。旦那さんがなぜ金を必要としたのか、ようく知っとりました。マーチンが借金をしこたま首にぶらさげてオックスフォードから戻ってきたんです。農場の仕事に手も貸さないで、自分はブランダマー家の人間なんだとか、フォーディングの屋敷も土地も本来なら自分のものになるはずなんだと言いふらしとったんでさあ。今調査をしてるとか言って、あちこちをほっつき歩き、時間と金をさんざんつぎこんでましたよ、益体《やくたい》もない調査とやらに。ありゃあ陰気な日でした。ビーコン・ヒルに行くと、大降りの雨だし、芝生はぐちゃぐちゃでした。馬どもはずぶ濡れで、しょげた顔つきなんですわ。売られることが分かってたんでしょう。そんなこんなで午後になりましたが、どっちの馬にも買い手はつきません。『お気の毒な旦那さんだ』わたしは馬どもに言いましたよ、『このまま帰るにしても、なんて言い訳したらいいのかねえ』って。でもね、馬どもと別れ別れにならんでいいんだと思うと、わたしはうれしかったですよ。
 わたしらは雨の中に突っ立っとりました。農夫や商人はわたしらをちらと見て、なにも言わずに通り過ぎていきました。そのときですよ、誰かがこっちにやってくると思ったら、ソフィア・ジョウリフじゃねえですか。最後に見たときから一歳だって歳なんか取っちゃいないような様子でしたな。あの日の午後、わたしらが目にした中で、朗らかだったものといったら、あの人の顔だけでした。生き生きして陽気なのはちっとも変わっちゃいません。大きなボタンの付いた黄色い雨外套を着て、彼女が通るとみんな振り返ってじろじろ見るんです。彼女といっしょに馬喰《ばくろう》が歩いてましてね、人々が目を見張るたびに、彼女のほうを誇らしそうに見てました。ちょうどマイケルが馬車で彼女をカラン市場に連れて行ったときと同じように。彼女は馬には目もくれませんでしたが、わたしの顔をまじまじと見ましてね。通り過ぎてから頭をめぐらしてもう一度見るんですよ。それから戻ってきました。
 『おまえさん、トム・ジャナウエイじゃないかい』と彼女は言いました。『ウィドコウム農場で働いていたんじゃないかい』
 『へえ、そうです』とわたしは言いましたが、よそよそしい口調を使ってやりました。旦那さんにあんな仕打ちをしておいて、こんなに陽気な面《つら》してるなんて腹が立ちましたからな。
 彼女はわたしの不機嫌を無視して尋ねました。『これは誰の馬なの』
 『あなたの旦那さんのですよ、奥さん』わたしは思いきって言ってやりました。鼻っ柱をへし折ってやろうと思って。ところがどうですか、彼女はそんなこと、屁とも思わねえようで『わたしのどの旦那さ』ときました。そしてげらげら笑い出して、横にいる馬喰をつついてました。男のほうは彼女を絞め殺したそうな顔をしてましたがね。彼女はそれも気にかけませんでした。『どうしてマイケルは馬を売りたいんだい』
 わたしは毒気を抜かれちまいましてね。もうやりこめようなんて気はなくなって、ありのままに事情を話したんです。その忌まわしい日一日ずっと突っ立ってたのに、買い手がつかねえってことも。彼女は何も訊きませんでしたが、マーチン坊ちゃんとフェミー嬢ちゃんのことを話したときは、目がきらっと光りましてな。それから急に馬喰のほうを振りむいて言いました。
 『ジョン。こりゃいい馬だよ。安く買って明日また売ろうじゃないか』
 そしたらあの野郎、毒づきやがって、老いぼれの駑馬《どば》じゃねえか、犬の餌にもなりゃしねえって言うんですよ。
 『ジョン』彼女は落ち着き払って言いました。『レディの前で毒づくなんてマナーがいいとはいえないよ。こりゃいい馬なんだから、買っとくれよ』
 男はまた毒づきましたが、彼女は男のあしらい方をちゃんと心得ているようでした。えらく笑っちゃいなさるが、顔にはおそろしく断固とした表情を浮かべているんで。男はだんだん静かになって、彼女に話をさせるようになりました。
 『この四頭をいくらで売りたいんだい、おまえさん』と彼女は言いました。わたしは八十ポンドと言おうかと思いました。昔のよしみでひょっとしたらそのくらいは出してくれるんじゃねえかと考えてね。でもそれで取引がご破算になっちまうのも怖くて、言い出せないでいたんです。『ほら、答えなさいよ。いくらなの。口がきけないの。おまえさんが値段をつけないなら、あたしがつけるよ。ジョン、百ポンドつけてやりなさいよ』
 男は馬鹿みたいに目を剥きましたが、何も言いませんでした。
 そうしたら彼女がきつく睨み付けて、
 『百ポンドでなきゃだめよ』彼女は低いけれども、きっぱりした声で言いました。で、男が『おい、百ポンド出すぜ』と言いました。ところが、わたしが『売った』という前に、彼女がつづけてこう言ったんですよ。『だめ――この若者はだめだと言ってるわ。顔を見りゃ分かるのよ。それじゃ足りないって思っている。百二十ポンドでどうだって言ってみなさいよ』
 男は魔物に魅入られたみたいに、えらくおとなしく『じゃあ、百二十出そう』と言いました。
 『ああ、そのほうがいいわ』と彼女が言いました。『そのほうがいいって彼は言っているよ』彼女は胸元から小さい革の財布を取り出して、雨が入らねえように雨外套のすその下に隠しながら、二十枚ほど新札を数えて、わたしの手に握らせました。それが入ってたところにはもっとたくさんの札束がありました。財布にお札がびっしり詰まっているのが見えたんでさあ。わたしがそれを見ているのに気づくと、彼女はもう一枚取り出してわたしに寄こすんで。『こりゃおまえさんにやるよ。おまえさんに幸運が訪れますように。それで好い人のために土産でも買ってやるんだね、トム・ジャナウエイ。それから、ソフィ・フラネリイは昔の友達を忘れるような女だなんて言いふらしじゃないよ』
 『奥様、ご親切にありがとうございます』とわたしは言いましたよ。『ご親切にありがとうございます。あとでもったいないことをしたなんてお思いになりませんように。家賃が今もきちんきちんと入ってきなさればいいですなあ』
 彼女は大声で笑って、その点は心配おしでないよと言いました。それから彼女は小僧を呼んで、小僧がホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトとジェニーとカトラーを連れて行って、わたしがお休みなさいと言う前に、馬喰もソフィーもみんないなくなっちまいました。彼女は二度とそのあたりにあらわれたことはありません――少なくともわたしは見たことがないですな。ただ噂であのあと二十年ほど生きて、ベリトン競馬のときに溢血をおこして死んだってのは聞きましたがね」
 彼は少しだけ聖歌隊席の奥に進み、掃除をつづけたが、ウエストレイはあとを追って、また話を始めるきっかけを与えた。
 「家に帰ってから何が起きたんです?農場主ジョウリフがなんて言ったのか、まだお話になっていませんよ。それにどうして農場をやめて教会事務員になったのかも」
 老人は額をぬぐった。
 「そのことは話すつもりがなかったんですがなあ」と彼は言った。「思い出すと今でも冷や汗が出ますわい。しかしお聞きになりたいというならお聞かせしましょう。みんながいなくなったとき、わたしはあまりの幸運にほとんど目まいがしましたよ。で、夢じゃないことを確かめるために主の祈りを唱えました。しかし夢じゃありませんでした。それでチョッキの裏地に切れこみを入れ、札束を中に落としたんです。彼女がわたしにくれた一枚を除いて。そいつだけはズボンの時計入れポケットにつっこみました。日が暮れてきて、寒いし濡れてるし、感覚がなくなってきましてな。なにしろ雨の中にずっと立ちっぱなしで、一日じゅう飲み食いしてなかったんですから。
 あそこは吹きっさらしの場所なんですわ、ビーコン・ヒルってのは。あの日は道がぬかるんで、編み上げ靴に水がしみこみ、歩くとがぷがぷ音がしました。雨はひっきりなしに降って、仮小屋の外を照らしはじめたナフサランプにしぶきが飛びこみ、ぱちぱちはぜるんですよ。ある長いテントの外にやたらとぎらぎら輝く灯りがともってまして、中から油で炒めたタマネギの匂いがただよってきて、腹の虫が叫びたてました。『お願いしますよ、ご主人様、お願いしますよ!』ってね。
 『ようし』とわたしは腹の虫に言ってやりました。『ちゃんと満腹にさせてやるからな。おまえをからっぽのままウィドコウムには帰らんぞ』それでテントに入ったんですが、いや、中はあったかいし、明るいし、男は煙草を吹かし、女は笑い、料理の匂いがたまんねえんで。架台の上に板をのっけたテーブルがテントの中に並べられておりましてね。その脇には長いベンチがあって、みんなが食べたり飲んだりしとりました。部屋の一方の端には売り台が横に延びとって、その上で錫の皿が湯気を立てているんでさあ。豚足、ソーセージ、胃袋、ベーコン、牛肉、カリフラワー、キャベツ、玉葱、ブラッドソーセージ、それに干し葡萄入りプディング。お札を小銭に換えるにはちょうどいい機会だと思いました。ポケットの中で木の葉になっちまう妖精の金じゃなくて、本物かどうか確かめることもできるってんでね。それでわたしは近づいて牛肉とジャック・プディング(註 ブラッドソーセージのことか)の皿を注文し、お札を差し出しました。娘さんが――カウンターの後ろにいたのは娘さんでした――それを手に取ってじっと見つめ、それからわたしをじっと見るんですよ。なにせずぶ濡れで泥だらけでしたからな。娘さんはお札を店のおやじのところに持って行って、おやじはそいつを女房に見せました。女房はそれを光りに透かし、みんなで議論を始めました。それから樽に印を付けていた物品税の收税吏に見せたんです。
 近くに座っていた人は何事だろうとじろじろ見るし、こっちは顔が熱くなってきて、お札なんかうっちゃってさっさとウィドコウムに帰りたくなりました。でも收税吏はまともな金だと請け合ってくれたに違いありません。おやじがソブリン金貨四枚と十九シリングを持って戻ってきて、お辞儀しながらこう言いましたから。
 『お客さん、飲み物を持ってきましょうか』
 わたしはどんな酒があるのだろうとまわりを見ました。お札が本物だと分かって、そりゃあ嬉しかったですな。おやじが言いました。
 『ミルク入りラム酒は元気がつきますよ。熱いミルク入りラム酒をお試しくだせえ』
 それでミルク入りラム酒を一パイントもらって、いちばん近くのテーブルにつきました。わたしがとっつかまるのを見ようと待ちかまえていた連中は場所を空けてくれまして、御前様を見るみてえにわたしを見とりました。わたしは牛肉の皿をおかわりし、ミルク入りラム酒をもう一杯飲み、パイプをふかしました。ウィドコウム農場に夜遅く戻っても札びらが二十枚以上あるんだから叱られやしないと思いながらね。
 肉と酒のおかげで人心地がついて、パイプとテントの暖かさで服が乾き、湿った感じがなくなりました。編み上げ靴の中はもうじめじめしちゃおりません。一緒になった連中も愉快だし、育ちのいい商人も何人かそばに座っていました。
 『旦那の健康に乾杯』一人がグラスを上げてわたしに言いました。『心から敬意を表しやすぜ。あの連中、札びらなんて見慣れてねえんで、そいで旦那のお札にちょいとたまげちまったのさ。けど、おりゃあ、旦那を見たとたん、ダチ公に言ったんだ。『おい、あの紳士はおれらのお仲間だぜ。間違いねえ、御大尽様よ』ってね。入ってきた瞬間に立派な紳士ってこたあ分かりやしたぜ』
 そんな具合におだてられちゃいまして、お札一枚でこんなに騒ぐんなら、ポケットいっぱいの札束を持っていることを知ったら何て言うだろうと思いましたよ。しかし何も言いませんでした。ただその気になりゃあ、このテントの半分を買い占めることができるんだと思ってくすっと笑いましたがね。そのあとでわたしは連中に酒をおごり、おごり返され、ひどくいい気分で一晩を過ごしたってわけで――しかもわたしら、親密な仲になって、相手が名誉を重んじる立派な人たちだって分かると、わたしも札束を持っていて、いっしょにお付き合いさせていただく資格がちゃんとあるってところを見せてやったんだから、なおさらいい気分でした。連中は敬意を表してさらに乾杯してくれたんですが、そのうちの一人が、今飲んでる酒はわたしみたいな紳士にふるまうにゃ、ふさわしくないって言って、自分のポケットから小瓶を取り出し、わたしのグラスをいっぱいにしてくれたんですよ。その人の親父がウオータールーの戦いがあった年に買った銘酒なんだそうで。いや、これが強いの何のって、飲んだら目から火が出るようなしろもんでした。でもわたしは平気な顔で飲みましたよ。古酒の味が分からねえなんて思われたくなかったですからな。
 わたしらはテントの中がむっとしてナフサランプの光りが煙草の煙でぼやけちまうまで座っとりました。外はまだ雨が降っとって、屋根を激しくたたく音が聞こえました。屋根の粗布のへこんだところからは水が染みてきてぽたぽたしたたり落ちてきました。酔っぱらったやつらのなかには、声を荒げて言い争う者もありましたな。わたしも声が他人みたいになっちまうし、頭がふらふらしてしゃべることもままならねえありさまで、こりゃあ限界まで飲んだかなと思いました。そうしたら鐘が鳴って、收税吏が『閉店だ』と叫び、売り台のうしろのおやじが『さあ、今日はこれでおしめえですぜ。ぐっすりお休みくだせえよ。女王様万歳、明日も楽しくお会いできますように』それでみんな立ち上がって、外套の襟を耳まで立てて、外に出ました。五人ほどへべれけになっちまって、架台の下の芝生に一晩寝かされましたがね。
 わたしは足もとがふらついたんですが、友達が両側から腕を取って支えてくれました。とっても親切な連中でしてな。わたしは眠いし、外に出ると目まいがしちまいました。わたしがどこに住んでいるか告げると、連中は心配するな、送ってってやる、畑をつっきればウィドコウムまで近道できるって言うんでさあ。出発してからちっと暗いところに入りこみましてね。で、次の瞬間何かに顔をぶん殴られたんですよ。気がついて起きたら、若い雌牛がわたしの臭いを嗅いどりました。真昼間になっとって、わたしは生け垣の根本で、アルムの花に囲まれて寝っ転がっとりました。びしょびしょに濡れて泥まみれですわ。(粘土質の土だったんですな)おまけに頭はまだ少しだけぼうっとしてるし、恥ずかしいかぎりでしたわい。ですが旦那さんのために取引を成立させたことや、チョッキに隠した金のことを思い出して気を取り直しました。で、札束に手を伸ばして、濡れてだめになっていないか確かめようとしたんです。
 ところがそこに札束がねえんで――いや、一枚もねえんですよ。チョッキをひっくり返して裏地を破いて調べたんですがね。わたしが寝ていたところはビーコン・ヒルから半マイルしか離れていませんでした。それでさっそく市のあったところへ引き返したんですが、前の晩の友達は見つからないし、酒屋のテントの親父に訊いても、そんなやつら見たことねえと、こう言うんですわい。わたしは一日中あっちこっちを探し回って、ついにはみんなに笑われちまいました。何しろ前の晩は酒をかっくらって野宿はするし、一銭残らず盗まれたせいで何も食ってねえし、えらく取り乱した様子をしてましたからな。お巡りさんに報告したら記録にゃつけてくれましたが、そのあいだもわたしの顔や、チョッキの下から垂れ下がっている破れた裏地を見つめるんですよ。それを見て、お巡りさんが、こりゃあただの与太話だ、こいつまだ酔いが残ってるな、と思ってることが分かりました。あきらめて家に帰ろうとしたときにはもう暗くなっとりました。
 ビーコン・ヒルからウィドコウムまで近道してもたっぷり七マイルあります。わたしはくたくたに疲れたのと、腹が減ったのと、恥ずかしいのとで、プラウドさんの水車小屋を見下ろす橋の上で半時間ほど足を止めていました。あそこに飛びこんで死んじまおうかなと思いながらね。でもふんぎりがつかねえで、結局ウィドコウムに帰ったんで。みなさん寝ようとするところでしたな。事情を話してるあいだ、農場主のマイケルもマーチン坊ちゃんもフェミー嬢ちゃんも幽霊を見るみたいにわたしを見てましたよ。でも馬を買ったのがソフィー・ジョウリフだということは言いませんでした。マイケルは何も言わず、ただもう呆然としてました。フェミー嬢ちゃんは泣いとりました。しかしマーチン坊ちゃんは、そんなの作り話だ、わたしが金を盗んだんだ、お巡りさんを呼ぶべきだと、こう怒鳴るんで。
 『嘘だ』と坊ちゃんは言いました。『こいつは悪党だ。しかも見え透いた嘘をつく大馬鹿者だよ。誰が信じるものか、どこぞの女が七十ポンドでも高い馬に百二十ポンドも払ったなんて。その人は誰だい。知ってる人かい。そんな人なら市にいた人が大勢覚えているだろうよ。ポケットに札束をいっぱい詰めこんで、馬を倍の値段で買い取る人なんてめったにいないからな』
 買ってくれた人のこたあ、ようく知っておりましたが、農場主のジョウリフさんをこれ以上悲しませたくないと思って、その名前は口にしたくなかったんです。だから何も言わずに黙っとりました。
 そうしたら農場主が言いました。『トム、わたしはおまえを信じるよ。三十年の付き合いだが、おまえが嘘をついたことはなかった。今もおまえを信じている。しかしその女の名前を知っているなら教えてくれないか。知らないとしても、どんななりをしていたか、話してくれ。そうすりゃ誰か見当がつくかも知れん』
 けれども、それでもわたしは黙っとったので、とうとうマーチンがこんなことを言いました。
 『女の名前を白状しろ。本当に馬を買ったなら、名前くらいちゃんと知ってるはずだ。父さん、甘やかしちゃだめですよ、こんな馬鹿の話を信じたりして。お巡りさんを呼ぶぞ。さあ、名前を言え』
 わたしもそんな乱暴な口のきき方にはむかつきましてな。苦しんでいるお父さんは許してくださったというのに。それで言ってやったんです。
 『ええ、名前は知ってまさあ。お聞きになりてえとおっしゃるなら。奥様ですよ』
 『奥様だと?』坊ちゃんは言いました。『どこの奥様だ?』
 『坊ちゃんのお母さんでさあ。男といっしょでしたがね。ここを出ていったときの相手じゃありませんでした。奥様がそいつに馬を買わせたんで』
 マーチン坊ちゃんはもう何も言いませんでした。フェミー嬢ちゃんは泣きつづけとりました。しかし旦那さんの顔はいっそう虚ろになりました。そしてえらく静かな声でこう言いました。
 『もういい。わたしはおまえを信じているし、今回のことは大目に見る。百ポンドなくそうがなくすまいが、今となっちゃあたいした違いはない。これが運命とあきらめるさ。おまえの話した場所でなくさなかったとしても、どこか別の場所でなくしていただろうからな。中に入って風呂を浴び、何か食べたらいい。それから今回は許すが、二度と酒に手を出しちゃいかんぞ』
 『旦那様』とわたしは言いました。『ありがとうございます。ちっとでも金が入りましたら、返せるものはお返しします。酒は神様に誓ってもう飲みません』
 わたしが旦那さんに手を差し出したら、旦那さんは握り返してくれました。泥だらけだったんですがね。
 『気にするな、おまえ。明日は警察にやつらを追いかけてもらおう』
 わたしは約束を守りましたよ、ミスタ――ミスタ――ミスタ――」
 「ウエストレイ」と建築家は教えた。
 「お名前を伺ってなかったんですよ。ほら、主任司祭はわたしを紹介してくれませんでしたからね。わたしは約束を守りました、ミスタ・ウエストレイ。それからはずっと禁酒してるんで。でも旦那さんは警察にやつらの跡を追わせることはなかったんです。というのは次の日の朝早くに卒中を起こして、二週間後にゃお亡くなりになってしまったんです。ウィドコウムには緑の柵をめぐらしたお父さんとお祖父さんの墓があるんですが、その近くに埋めてさし上げましたよ。黄色いズボンと青いチョッキは羊飼いのティモシー・フォードに形見分けしてやったんですが、あいつはそのあと何年も日曜日になるとそれを着とりました。わたしは旦那さんが埋葬された日に農場を離れてカランに来ました。片手間仕事をやっとったんですが、寺男が病気になってからは墓堀の手伝いをしとりました。で、彼が死んだときに代わりの寺男にされたんで。つぎの精霊降臨祭(註 復活祭後の第七日曜日)であれから四十年になりますわい」
 「マーチン・ジョウリフはお父さんが死んだあと、農場の経営を引き継いだのですか?」ウエストレイはしばらく沈黙がつづいたあと尋ねた。
 彼らは話をしながら信者席の列のあいだをぶらぶら歩き、大聖堂を二つに区切る石の障壁を通り抜けた。カラン大聖堂の聖歌隊席は他の部分よりも床が数フィート高くなっており、身廊に降りる階段の上に立つと左右に交差廊が広々とひろがっているのが見えた。北袖廊の端の壁――かつてその外にチャプターハウスと修道院の宿坊が建っていた――には高いところに小さなランセット窓が三つあるだけだった。しかし交差部分の南端には壁がまったくなくて、二つの欄間窓と無限に入り組んだ狭間飾りを持つヴィニコウム修道院長の窓がその全面を占めていた。その結果、奇妙な対照が生み出された。教会の他の部分は、窓が小さいために寂しいくらい光りが抑えられており、北袖廊は建物の中でもっとも薄暗い部分となっているのだが、南袖廊、つまりブランダマー側廊は常に澄みきった陽の光を浴びていたのである。さらに、身廊はノルマン様式で、袖廊と聖歌隊席は初期イギリス様式であるのに、この窓は複雑な構成と、ごてごてと手のこんだ細部を持つ後期垂直様式なのだ。その相違はあまりにも顕著で、建築をまったく知らない素人も思わず注意をむけるくらいだった。まして専門家の目ともなれば、なおさらひきつけられて当然だろう。ウエストレイは一瞬、質問を繰り返しながら階段の上に立ち止まった。
 「マーチンは農場の経営を引き継いだのですか」
 「ああ、引き継ぎましたが、真剣にやらんかったんですな。もっぱらフェミー嬢ちゃんが仕事をなさりました。マーチンの邪魔がなければお父さんよりいい農場主になっとったでしょう。ところがマーチンは彼女が半ペニー稼いぐあいだに一ペニー使っちまい、とうとう何もかも競売に付されちまいました。オックスフォードでうぬぼれて、誰もいさめる人がいなかったんです。紳士にならにゃならねえとさんざん気取りまくって、しまいに『紳士ジョウリフ』とか、もっとあとになっておつむがいかれてきた頃は『雲形じいさん』とか呼ばれとりました。頭が変になったのはあれのせいですよ」そう言って寺男は巨大な窓を指さした。「あの銀色と緑のしわざでさあ」
 ウエストレイが見上げると、窓の中央の仕切り上部に雲形紋章が見えた。まわりをそれよりも濃いガラスに囲まれ、日中の光りの中で見るその輝きは、昨晩、夕闇の中で見たときよりも、いちだんと強い印象を与えた。

 第五章

 ためしに一週間住んでみたところウエストレはミス・ジョウリフの下宿の住み心地のよさに満足した。「神の手」は確かに聖堂からやや離れているが、町ではいちばんの高台にあり、建築家は食事にこだわるだけでなく、空気がさわやかで、低地でないことを極端に重視したのだ。家中どこも念入りに掃除されていることもよかったし、ミス・ジョウリフの料理も気に入った。凝ったものを作るのでないかぎり、彼女の料理は長い経験によってある意味で完璧という域に達していた。
 召使いがおらず、ミス・ジョウリフは自分が下宿にいるときは、姪に給仕をさせないことも分かった。このため彼はやや不自由を強いられることになった。もともと性格的に思いやり深い彼は、もう若いとはいえない女主人に無理をさせないよう気を遣ったからである。呼び鈴は鳴らさないようにし、鳴らしたときはしばしば踊り場まで出て、螺旋階段の下のほうにむかって大声で用件を告げ、真暗な石の階段をわざわざ登ってこなくてもいいようにした。このような気遣いはミス・ジョウリフにも伝わり、彼女が彼にこのまま下宿しつづけて欲しいと切に願っている様子をありありと示すと、ウエストレイは虚栄心をくすぐられた。
 自分の好意が充分に感謝されていると見て、彼はある夕方、お茶の時間近くに、女主人を呼んでベルヴュー・ロッジに住みつづける旨を伝えることにした。これからも部屋を借りることをはっきり目に見える形で示すため、彼は自分の趣味に合わない置物や、とりわけ食器棚の上にかかる大きな花の絵をはずすよう要求することに決めていた。
 ミス・ジョウリフは書斎と彼女が呼んでいる部屋に座っていた。これは家の裏手にある小さな部屋で(かつては宿の食品室だった)、彼女はいかなる家計の問題に取り組まなければならないときも、ここに引きこもるのだった。家計の問題はもう何年にもわたって嫌になるほど頻繁に起きていたが、今や兄の長期にわたる病いと死が、この二と二を足して五にしなければならない難儀な戦いに危機的な状況をもたらしていた。彼女は病気という口実のもとに求められるものはどんな贅沢も惜しみなく兄に与え、マーチンもそれをいちいち気にするようなこまかい男ではなかった。寝室の暖房、牛肉スープ、シャンペン、金持ちにとってはどうということのないものながら、貧乏人の献身的な愛にとっては重い負担となってのしかかる千と一つのことどもが、すべて借金として勘定書に記録されていた。こうした出費が家計のなかで突出することは、ミス・ジョウリフにとって、倹約の規則をあまりにも大きく逸脱することであり、贅沢の罪――七つの大罪の先陣をつとめるルクスリア、つまり奢侈の罪――から良心の目をそらすには、事態の緊急性という言い訳がどうしても必要になった。(註 ルクスリアは色欲の罪。作者の勘違いと思われる)
 肉屋のフィルポッツはミス・ジョウリフ用の帳簿にスイートブレッド(註 子羊の膵臓)という記載があるのを見て半ば笑みをもらし、半ばため息をついた。実をいえば、彼はこれに類する幾つもの購入品をわざと記録につけ忘れた。優しい思いやりからこっそりそうしたのだが、にもかかわらず好意の受け手はそのことに気がついていて、まさにそのさりげなさのゆえにこうした人助けはいっそうありがたく感じられるものだ。雑貨屋のカスタンスも痩せ衰えた老婦人にシャンペンを注文されたときは、びくびくしながら応じた。ワインのような高級品に対して請求しなければならない料金を少しでも取り返させてやろうと、お茶や砂糖の注文があったときは、きっちり料金分の量目を入れたうえ、さらにそれをぐっと押しこみ、入れ物からあふれるくらいサービスしてやった。しかしどんなに倹約を心がけても全体としての出費はかさみ、ミス・ジョウリフはそのとき、世界中で珍重されているドゥック・ドゥ・ベントヴォリオの金の薄紙を巻き付けた三本の瓶が、頭上の棚から今も首を突き出しているのを眺めながら、借金の重みをずしりと感じていたのである。ドクタ・エニファーに借りている分のことは考えようともしなかったし、恐らくほかの借金より心配する必要がなかっただろう。医者は、金があるなら払ってくれるだろうし、まったく払えないというなら全額免除してやろう、と腹を決めて、請求書を送ってこなかったからである。
 彼女は医者の配慮に感謝し、彼がいつも犯す、とりわけいまいましい不作法を、まれに見る寛容の心で見逃した。この不作法というのは薬を送る宛先を、そこがいまでも宿屋であるかのように書き記すことだった。ミス・ジョウリフは「神の手」に引っ越す前に、修繕費用として支給されたなけなしの金のほとんどを、正面に書かれた宿屋の名前を塗り消すことに費やした。ところが大雨のあとは、あの大きな黒い文字が天の邪鬼にも皮膜を透かしてじろりとこちらを見、オルガン奏者は「神の手」の裏をかくのは容易じゃないな、などと軽口をたたいた。ミス・ジョウリフはそんな冗談をくだらないし、無礼だと言い、ドアの上の明かり取り窓に「ベルヴュー・ハウス」と金文字を入れることにしたのだった。ところがカランのペンキ屋は「ベルヴュー」を小さく書きすぎ、残りの空間を埋めるために「ハウス」をあまりにも大きく書いたものだから、オルガン奏者はこの不釣り合いを見てまたしても皮肉を言った。ここが「ハウス」であるのは誰でも知っているが、「ベルヴュー」であることは誰も知らないのだから、あれは逆に書くべきだ、と。
 その後、ドクタ・エニファーが「手 ミスタ・ジョウリフ」という宛名で薬を送ってきた――「神の手」ですらなく、ただ「手」と書いて。ミス・ジョウリフは陰鬱な広間のテーブルに置かれた薬瓶をさげすむように見、怒りの声が口からもれぬよう息を殺しながら、手早く包みを引き破いた。このように心優しい医者は、日頃の仕事の忙しさに取り紛れ、知らず知らずのうちに心優しい婦人をいらだたせていたのである。そのあげく彼女は書斎に引きこもり、人もし汝の頬をうたば、もう一方の頬をもむけよ、という教えを読んで、ようやく心の平静を取り戻すことができたのだった。
 ミス・ジョウリフは書斎に座ってマーチンの借金をどう返済しようと考えていた。彼の兄はその無秩序で非能率的な人生を通して、おのれの秩序だった能率的な習慣を誇りにしていた。それは几帳面で組織的な請求書のまとめ方にあらわれているにすぎなかったが、しかしその点だけは確かに秀でていたといえる。彼は借金の支払いをしたことがなかった。支払いをしようと思ったことすらなかっただろう。ただ手袋を入れる古い箱の蓋を物差しがわりに使って、請求書を一枚一枚同じ幅に折り、実にこぎれいな字で日付、貸し主の名前、借りた額を記し、それをまとめてゴムバンドで丸くとめていたのである。ミス・ジョウリフは彼の死後、引き出しの中にそんなため息をつきたくなるような束がごっそり溜めこまれているのを知った。彼にはいろいろな商人をひいきにし、広くあまねく借金の木を植え、しだいにそれをウパス(註 毒がとれる木)の森へと育て上げる才能があった。
 ミス・ジョウリフの困難は数日前に届いたある手紙によって一千倍にもいや増された。この手紙は良心にかかわる問題を引き起こした。その書面が目の前の小さなテーブルの上に開かれていた。

 ニュー・ボンド・ストリート百三十九番地

 奥様

 このほどわが社は静物画数点の購入を委託され、つきましては、貴殿がお持ちのはずの花の大作を引き取らせていただけないかと、お伺い申し上げるしだいです。お尋ねさせていただいている作品は故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》が以前ご所蔵になっていたもので、マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれています。わが社は依頼主の鑑識眼に信頼を置いており、作品がすぐれたものであることを固く信じておりますので、事前の鑑定抜きで五十ポンドをお支払いするつもりです。
 ご都合が付きしだい、お返事をいただければ幸甚です。

 あなたの従順なるしもべ
 ボーントン・アンド・ラターワース商会

 ミス・ジョウリフがこの手紙を読むのはこれが百回目だった。彼女は「故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》が以前ご所蔵になっていた」という部分をつきることのない喜びとともに繰り返し読んだ。その言い回しには祖先の威厳と貫禄を感じさせる何かがあり、彼女の気持ちを浮き立たせ、周囲に対するみじめな苦々しい思いを和らげた。「故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》」――まるで銀行家の遺言みたい。彼女は再びユーフィミア・ジョウリフになった。夏の日曜日の朝、ウィドコウム大聖堂に座っている夢見がちな少女、小枝模様の新しいモスリン服を自慢し、まわりの壁にいくつも飾られたジョウリフ家の先祖の銘板を誇らしく思う少女に。サウスエイヴォンシャの中産農民《ヨーマン》には公爵と同じように家系というものがあるのだ。
 はじめのうちこの手紙は苦境を脱するための天佑のように思われたが、あとになると良心のとがめがその脱出路をふさぐようにたちあらわれてきた。「花の大作」――それは彼女の父の自慢だった――恥さらしな妻の作品だったが、自慢のタネだったのだ。彼女がまだ幼い頃、父はよく彼女を両腕に抱きかかえ、輝くテーブルの上板を見せたり、毛虫に手を触れさせたりしたものだ。妻が与えた傷はきっとまだうずいていただろう。なにしろソフィアが彼と子供たちを捨ててからたった一年しか過ぎていなかったのだから。それにもかかわらず彼は妻の才能を自慢し、彼女が戻ってくるという希望を捨ててはいなかったらしい。死んだとき彼は、中年という暗い峡谷の半ばにあったユーフィミアに古い書き物机を残した。その中にはささやかな母の形見がぎっしり詰まっていた――結婚式に着用した手袋、派手なブローチ、けばけばしいイヤリング、その他多くの取るに足りない小物であったけれど、父はそれらを大切に保存していたのだ。その他にもソフィアの細長い木製の絵の具箱と、絵の具を混ぜ合わすための色付き顔料の小瓶と、そしてこの「マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれて」いる絵を彼女に残した。
 この絵の価値についてはいつも言われていることがあった。父は子供たちに妻の話をほとんどせず、ミス・ユーフィミアは大人になるまでのあいだに、いろいろなほのめかしやごまかし半分の話を切れ切れに聞き、ようやく母の恥について知るようになったのだった。しかしマイケル・ジョウリフはこの絵を妻の傑作とみなしていたと言われ、年老いたミセス・ジャナウエイによると、ソフィアはこの絵には百ポンドの値打ちがあると何度も言っていたそうだ。ミス・ユーフィミア自身もその価値に少しも疑問をさしはさんだことはなかったので、今度の手紙にあるような申し出は彼女にとってなんら驚きではなかった。実のところ、提示された金額は市場価値よりずっと低いと思われたくらいなのである。しかし絵を売ることはどうしてもできなかった。それは神聖な委託物であり、(Jの字を彫りこまれた銀のスプーンをのぞいて)むさ苦しい現在を裕福な過去につなぐ最後の輪だった。それは家の宝であって、手放す気にはとうていなれなかった。
 そのとき呼び鈴が鳴り、彼女は手紙をポケットに滑りこませ、ドレスの前のしわを伸ばすと、ミスタ・ウエストレイの用を聞きに石の階段を登った。建築家はカラン滞在中はここに下宿しつづけたいと彼女に告げ、その知らせがミス・ジョウリフに大きな喜びを与えたのを見て、自分の寛大さに満足した。彼女は大いに安堵して、羊歯やらマットやら貝殻サルビアやら蝋細工の果物を取り除き、彼の望み通り調度品にさまざまな小さな変更を加えることに快く同意した。建築家であるにもかかわらず、ミスタ・ウエストレイはひどく趣味が悪いように思われたが、その優しい態度や彼女の下宿に残りたいという気持ちに免じて可能なかぎりの寛容を彼に示した。それから建築家は花の絵の取りはずしに話を持っていった。彼は遠回しに、絵がこの部屋には大きすぎるのではないか、とか、絶えずカラン大聖堂の見取り図を参照しなければならないので、それを貼る場所があるとうれしい、とか言った。ちょうど沈む太陽の光がまともに絵に当たって、下品なけばけばしさを照らし出し、何としてもこの絵を取りはずそうという彼の決意をさらに固いものにした。しかしミス・ジョウリフの顔に広がる動揺の色は攻めかからんとする勇気をいささか萎えさせた。
 「ほら、この部屋にはちょっと派手すぎて気が散るんですよ。ここは作業場として使うことになるんですからね」
 ミス・ジョウリフは、この下宿人には審美眼がまったく欠けているのだと確信し、次のように答えるとき、驚きと悲しみを隠しきることができなかった。
 「おっしゃる通りにして、便宜をお図りしたいのはやまやまですわ。家柄のよい方に下宿して欲しいといつも思っているんですもの。紳士じゃない方にお貸しして評判を落とすような真似はできません。でもこの絵をはずせ、なんておっしゃらないでください。この家に来てからずっとここにかかっていたのです。わたしの兄、亡くなったマーチン・ジョウリフは」――無意識のうちにポケットの手紙に影響されていた彼女は、あやうくマーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》と言うところだった――「とても価値のあるものと考えて、死ぬ前、病気に冒されながらも、何時間もここに座ってこれを見つめていたものです。絵をはずせなんておっしゃらないでください。もしかしたらお分かりじゃないかも知れませんが、わたしの母が描いた絵というだけじゃなくて、絵としてみても、とても価値のある芸術作品なんですのよ」
 そのことばには、ごく微かではあれ、下宿人の趣味の悪さを見くだし、その無知を啓発してやろうという調子があり、ウエストレイをいらいらさせた。彼は小馬鹿にしたような口調で言い返した。
 「ああ、もちろん感傷的な理由からそのままにしておきたいというのなら、それ以上は何も言いませんよ。それにわたしがあなたのお母さんの作品を批判するなんてとんでもない話です。しかしですね――」そこまでしゃべって彼は口を閉ざした。老婦人のひどく傷ついた様子を見て、些細なことに腹を立てたことを後悔したのである。
 ミス・ジョウリフは悔しさを呑みこんだ。絵の価値が正しく評価されていないと思ったことは一再ならずあったけれど、面とむかってけなされたのははじめてだった。しかし彼女は絵の価値を保証するものをポケットに持っていたので心を広く持つことができた。
 「この絵はたいへんな値打ちものだと、今までずっと評価を受けてきたんです」と彼女はつづけた。「といってもわたし自身、その美しさのすべてが分かるわけではありません。充分絵の勉強をしませんでしたからね。でも手放す気にさえなれば、高値で引き取ってもらえることは絶対間違いありません」
 ウエストレイは暗に美術に関して無知だと言われてかちんときた。また片意地としか思えない売値の誇張のせいで、絵に対する女主人の、家族的な愛着に同情する気持ちがだいぶそがれてしまった。
 ミス・ジョウリフは彼の心のうちを読み、ポケットから一片の紙切れを取り出した。
 「これはこの絵に五十ポンドを支払うという、ロンドンのとある紳士からの申し入れです。どうぞ読んでください。間違っているのがわたしでないことが分かるでしょうから」
 彼女は業者からの手紙を差し出し、ウエストレイは彼女に調子を合わせるようにそれを受け取った。彼は手紙を注意深く読み、読み進むにつれますますいぶかしく思った。いったいどういうことなのだろう。この申し出は別の絵に対するものだろうか。なにしろボーントン・アンド・ラターワースといえばロンドンの美術商でも有数の業者である。レターヘッドつきの便箋紙や、手紙の全体的な様式から見て、偽物であるとは考えられない。彼は問題の絵に視線を投げかけた。陽の光がまだ当たっていて、今まで以上に醜悪に見えた。が、再びミス・ジョウリフに話しかけたとき、彼の口調は変化していた。
 「この絵のことを言っているんだと思いますか。他に絵はないんでしょうか」
 「ええ、こんなのは他にありません。間違いなくこの絵のことですわ。だって隅に毛虫が描いてあるって書いてありますでしょう」そして彼女はテーブルの上をはうぶくぶくした緑色の虫を指さした。
 「そうですね。でもどうやって彼らはこの絵のことを知ったのだろう」彼は新たな問題の出現に絵を取りはずすことなどすっかり忘れてしまった。
 「たぶん本当にいい作品は業者もよく知っているんじゃないでしょうか。問い合わせがあったのはこれがはじめてじゃないんです。わたしの兄が亡くなった当日にも紳士の方があの絵のことでこちらにいらっしゃったんです。家にいたのは兄だけで、わたしはその方を見てはいないんですが、きっとあれをお買いになりたかったんでしょうね。でも兄は売ろうとしなかったのです」
 「これは悪くない取引だと思いますよ」ウエストレイは言った。「断るなら、よく考えてからにするべきですね」
 「ええ、事情が事情ですからよく考えなければいけませんわ」ミス・ジョウリフは答えた。「わたしはお金持ちではありませんから。でもどうしてもこの絵は売りたくはないのです。だって小さいときからずっとこの絵と一緒でしたし、父がそれは大切にしていましたからね。ミスタ・ウエストレイ、はずしてしまおうなんてお考えにならないでください。もうしばらくこのままにして見ていたら、あなたもきっと好きになると思いますわ」
 ウエストレイはそれ以上議論をしなかった。絵をはずすことが女主人にとってつらいことであることが分かったし、必要なら間に合わせの手段として、絵の上に見取り図をはることもできると考えたのである。こうして協定は成立し、ミス・ジョウリフはボーントン・アンド・ラターワースの手紙をポケットに戻し、少なくとも幾分かは心の落ち着きを回復して、再び請求書のもとへと帰っていった。
 彼女が部屋を出て行ってから、ウエストレイはもう一度絵を子細に眺め、今までにもましてその価値のなさを確信した。色づかいが粗く、輪郭が強調されすぎた最悪の素人画で、与えられた空間を塗りつぶす以外、何の目的もないような印象を与えた。その印象は金箔をかぶせた額縁がことさら凝った、巧みな作りであるという事実によって強められた。ソフィアは何かの折りにこの額縁を手に入れたのだろう、そして内側を埋めるためにこの絵を描いたのだ、彼はそう結論した。
 窓を開け、屋根屋根のむこうに広がる海を望むと、太陽は赤い玉となって水平線に浮かんでいた。夕暮れはしんと静まりかえり、町は深い休息のなかに浸っていた。青い煙が町の上を長く水平にたなびき、草を燃やす匂いがかすかに空中をただよっていた。中央棟の鐘釣り場は夕陽に照らされて淡紅色に輝き、ねぐらに帰る前のコクマル烏が大群となってけたたましくさえずりながら、金色の風見鶏のまわりを旋回していた。
 「目を奪われるような眺めじゃないかね」肘のところで声がした。「秋の空気には不思議なかぐわしさがあって、はっとさせられる」オルガン奏者がいつの間にか部屋に入ってきていた。「わたしはつきに見放されたような気分だよ。今晩はわたしの部屋で食事しながら話をしよう」
 ウエストレイはそれまでの数日間、彼とはあまり会っていなかったので喜んで晩を一緒に過ごすことに同意した。ただし場所は変更になって、夕食は建築家の部屋で取ることになった。その晩の二人は多くのことを語り合い、ウエストレイは相手に心ゆくまでカランの住人や風習についておしゃべりをさせた。人の話を聞く気分になっていたのと、自分が住むことになった場所にはどんな人がいるのか、できるかぎり詳しく知りたかったためである。
 彼はミスタ・シャーノールにミス・ジョウリフとの会話のことや、絵を取りはずしてもらえなかったことを話した。オルガン奏者はボーントン・アンド・ラターワースの手紙のことは何もかも知っていた。
 「可哀想にあの人はこの二週間というもの、あれに良心を悩まされているんだよ。悶々と絵のことについて思いわずらい、幾晩も眠れぬ夜を過ごしている。『売るべきだろうか、売るべきではないのだろうか』『売れ』と貧乏は言う。『売って債権者どもに胸を張ってみせてやれ』。マーチンの借金も『売れ』と言う。ムク鳥の雛みたいに大きな口を開けて彼女のまわりに群がり、『売って俺たちを満足させてくれ』と言うのさ。『いけない』と自尊心は言う。『売ってはいけない。家のなかに油絵があることは、立派な社会的地位を示すしるしなのだから』。『いけないわ』と家族への愛着が言い、彼女が子供だった頃の妙に甲高い小さな声が『売らないで。可哀想なお父さんがどんなに絵を愛していたか、愛しいマーチンがどんなに大切にしていたか、覚えてないの』と言う。『愛しいマーチン』か――ふん!マーチンは六十年間、彼女にとって疫病神でしかなかった。しかし女は身内のものが死ぬと聖者の列に加えてしまうんだよ。きみは信心深いと言われている女が悪人をこっぴどくののしるのを聞いたことがないかい。ところが彼女の夫や兄弟が死ぬと、生前どんなにろくでもない人生を送ったとしても、彼女は非難しないのさ。愛は彼女の刑法典をも無効にする。自分の家族には抜け道が作ってあって、愛しいディックや愛しいトムのことはまるでバクスター(註 十七世紀英国ピューリタンの指導者)描くところの聖人より二倍も偉かったかのように語るのさ。いやはや、血は水よりも濃い。家族に地獄の劫罰はくだらないんだ。愛は地獄の火よりも強く、ディックやトムに奇跡を示す。その代わり彼女は釣り合いを保つために、他人に対しては余計に硫黄の火を燃やさなきゃならん。
 最後に世俗的な知恵、というか、ミス・ジョウリフが知恵と考えるものがこう言う。『いや、売るな。あれだけの逸品なら五十ポンド以上の値をつけさせるべきだ』こんな具合に彼女は翻弄されているんだ。カラン大聖堂に修道士がいた時代なら、彼女は聴罪師に尋ねていただろうね。聴罪師は『スンマ・アンゲリカ』(註 道徳神学の辞書と呼ばれる著作)を手に取り、Vの項目――『売るべきか《ウェンデトゥル》?売るべきか 売らざるべきか』――をのぞき、彼女を安心させてやっただろう。わたしがラテン語でその道の最高の学者とだって話ができるとは知らなかっただろう?ああ、しかしできるんだよ。主任司祭はネビュルスとかネビュルムとか言っておったが、彼の相手だってすることができる。ただわたしはあまり知識をひけらかさないようにしているだけだ。今度わたしの部屋に来たら『スンマ』を見せてあげよう。けれども今は聴罪師なんていないし、親愛なるプロテスタントのパーキンは『スンマ』を持っていたとしても読めやしない。だから彼女の悩みを解決できる人は誰もいないんだよ」
 小男は気持ちがたかぶってきて、目を輝かせながら自分の学識についてしゃべった。「ラテン語か」と彼は言った。「くそっ。わたしのラテン語は誰にも負けないぞ――そう、ベーズ(註 十六世紀フランスの神学者)にだって負けるものか――ラテン語で思わず耳をふさぎたくなるような話をすることだってできる。ああ、わたしは馬鹿だよ、なんて馬鹿なんだ。『我がパウロよ、パウロ、このふしだらなるページに満足せよ』(註 アウソニウスの詩から)」彼はラテン語でそうつぶやくと神経質そうに指でテーブルを打ち鳴らした。
 ウエストレイはこうした発作的な興奮を恐れていたので、話題を元に戻そうとした。
 「理解に苦しみますね、こんなまずい絵に価値がないことくらい、見たら分かりそうなものなのに――まったくおかしな話ですよ。それにしてもロンドンの業者はどうしてこの絵を買い取ろうとしたのでしょう。あの商会はよく知っているんですが、一流の美術商ですよ」
 「『ポップ・ゴーズ・ザ・ウィーゼル』と『ハレルヤ・コーラス』の違いが分からない人間がいるように、絵を理解しない人間もいるのさ。わたしもそんな人間の一人だ。もちろんきみの言うことは全面的に正しいよ。この絵はまともな人間にとっちゃ目障りでしかない。しかしわたしは長いこと見てきたせいか、これが好きになってきたよ。売られたら残念に思うだろう。それからロンドンのバイヤーたちだが、たぶんどこぞの無知蒙昧の輩がこの絵を気に入って買いたがっているんじゃないか。たまに一晩か二晩、この部屋に泊まっていく不時の客があったからね――もしかしたら、さんざんけなしたにもかかわらず、それはアメリカ人かも知れないよ――あの連中が何をやらかすか分かったものではない。マーチン・ジョウリフが死んだ日にも、彼からこの絵を買いあげようとして誰かが来たそうだ。あの日の午後は、わたしは聖堂にいて、ミス・ジョウリフはドルカス会に行き、アナスタシアは薬剤師のところに行っていた。家に戻ってからわたしはマーチンの顔を見よう思って、今われわれがいるこの部屋まで上がってきたんだが、彼は話をしたくてうずうずしていた。彼によると玄関のベルが鳴ったかと思うと、誰かが家の中に入ってくる音が聞こえ、ついにはドアが開いて、見知らぬ男が彼の部屋に上がりこんできたのだそうだ。マーチンはわたしが今座っているこの椅子に座っていた。あの頃は身体が弱っていて、ここから動くことができなかったんだ。それで男が部屋の中に入ってくるまでじっとしていなければなかったんだよ。見知らぬ男は丁寧な口調で花の絵を買いたい、といったそうだ。なんと二十ポンドも出すというのさ。マーチンはその頼みを聞こうとせず、その十倍払うと言われても手放すつもりはないと言うと、男は帰っていったそうだ。そういう話なんだが、あのときはただのでまかせで、マーチンは幻覚でも見ていたんだろうと思った。ひどくふらふらしていて、夢から覚めたばかりみたいに顔が紅潮しているようだったから。でもしゃべっているとき、彼の目はずるそうな色を浮かべていた。そして、あと一週間すれば、おれはブランダマー卿になるんだ、そうなりゃ絵を売りたいなんて思いもしないだろう、と言うんだ。彼は妹が戻ってきたときもそう言っていたよ。しかし男の人相については、髪の毛がアナスタシアに似ているということ以外、何も言えなかった。
 マーチンは命数つきて、ちょうどその日の晩に死んだ。ミス・ジョウリフは恐ろしく気を落としていたよ。というのは彼女は睡眠薬を与えすぎたのじゃないかと思ったからだ。エニファーは彼が睡眠薬を飲みすぎたのだと彼女に言い、彼女は自分が間違って渡したのでないかぎり、彼が薬を手に入れるはずがないと考えたのだ。エニファーが死亡証明書を書いたので死因審問はなかった。しかしそのおかげでわれわれは見知らぬ男のことを忘れてしまい、思い出したときは、もう捜そうにも手遅れになっていた。もちろん男が病人の頭から生まれた幻じゃないとすれば、なんだけれど。他には誰も見ていないし、手がかりはウエーブした髪の毛だけだ。男はマーチンにアナスタシアを思い起こさせたということだからね。しかしそれが本当だとすると、この絵に入れこんだ人間が他にもいたっていうことになる。可哀想なマイケルには大事な絵だったんだろう、こんなに立派な額に入れたんだから」
 「どうでしょうかね」ウエストレイは言った。「わたしには額の中を埋めるために絵を描いたような気がするんですけど」
 「そうかも知れないね、そうかも知れない」オルガン奏者は素っ気なく言った。
 「どうしてマーチン・ジョウリフは、夢の実現は間近いと思ったんでしょう」
 「ああ、そんなこと、わたしには分からないよ。彼はいつも丸を四角にし、謎にぴたりと当てはまる欠けた一片を見つけたと思っていた。しかし彼は自分の企みを他人に打ち明けることをしなかった。死んだときに書類でいっぱいの箱をいくつも残していってね、ミス・ジョウリフが燃やすかわりに調べてくれと、それをわたしに寄こしたんだ。そのうち中身をあらためるつもりだが、きっとろくなことは書かれていないだろう。かりに彼が手がかりをつかんでいたとしても、彼の死とともにそれもなくなってしまったさ」
 短い沈黙が訪れた。聖セパルカ大聖堂の組鐘が「エフライム山」を奏で、大鐘がカラン・フラットに真夜中を告げた。
 「ぼちぼち寝る時間だ。ウイスキーを一杯もらえないかね」彼は暖炉の前の三脚台にかけられた薬罐を見ながらいった。「おしゃべりして喉が渇いた」
 その懇願には石のような心をも溶かす哀れさがあったが、ウエストレイの原則はびくとも揺るがず、彼はかたくなな態度を貫いた。
 「残念ですが、置いていないんですよ。お酒は飲まないので。ココアをお付き合い願えませんか。薬罐が沸きましたから」
 ミスタ・シャーノールはがっかりした。
 「きみは婆さんになるべきだったな。ココアを飲むのは婆さんだけだ。まあ、それでもいい。急場をしのげれば」
 その晩のオルガン奏者は模範的なくらいしらふの状態でベットに入った。自室に戻ってから棚の中を探したが酒は見つからず、マーテレットがくれた最後のブランデーはお茶の時間に飲んでしまい、新たに買おうにも金が一銭もないことを思い出したのだ。

 第六章

 一ヶ月後、聖セパルカ大聖堂の修復工事は軌道に乗りはじめた。南袖廊には木の足場が支柱の上に高々と組まれて、石工が内部から穹窿天井に作業の手を加えることができるようになった。この天井が建物の中でもっとも修理の必要な部分であることは疑いを入れないが、ウエストレイは他にも放っておけない危険な箇所があるという事実に目をつぶることができず、サー・ジョージ・ファークワーの注意を脆弱化した複数の部分にむけさせようとした。いずれもこの偉大な建築家の、おざなりな点検をまぬがれた部分である。
 しかしウエストレイの不安のいちばん底にひそんでいたのは、塔を支えるアーチへのほの暗い懸念だった。彼は中央塔のとてつもない重量が夢魔のように建物全体に覆いかぶさっているさまを思い描いた。サー・ジョージ・ファークワーは代理人の説明に充分耳を傾け、特に塔を検査する目的でカランを訪れることにした。彼はある秋の一日を測定や計算に費やし、中断されたピールの話を聞き、壁の割れ目を細かく調べたが、以前の判断を改めたり、塔の安定性に疑いをさしはさむいかなる理由も見いださなかった。彼はやんわりとウエストレイの神経質をからかい、他のところも確かに修理が必要だと同意しつつも、不運にも資金が足りないのだから、今のところ工事の規模と進捗は、いずれも限られたものにならざるを得ないと言った。
 カラン大聖堂は他のより大きな修道院とともに千五百三十九年に解体された。この年、最後の修道院長であったニコラス・ヴィニコウムは王に反抗して修道院の明け渡しを拒否したために西の大門楼の前で反逆者として絞首刑にされた。修道院の一般財源は王室収入増加庁の手に移り、すぐそのまわりの修道院領有地は王室のお抱え医師シャーマンに与えられた。スペルマンは冒涜を主題にしたその著作のなかで、修道院の土地がその新たな所有者一族に没落をもたらした例としてカランを挙げている。というのも、シャーマンには放蕩者の息子があって、彼は家督を食いつぶし、その後エリザベス女王の時代にスペインの陰謀家と策動して斬首刑になったのである。

 悪徳領主にわざわいを
 もたらす僧院領有地
 教会堂を盗む者
 必ず天の罰を受く

こうしてシャーマンの一族は次の世代で完全に絶え果てたが、サー・ジョン・ファインズが地所を買い取り、前任者の悪行をつぐなうために学校と養老院を設立した。この罪滅ぼしは見事に功を奏した。というのも、ホレイショ・ファインズはジェイムズ一世によって貴族に叙せられ、その一家はブランダマーという名を得て現在までつづいているからである。
 修道院が正式に解体される前日、僧たちは聖堂で最後の祈りのことばを歌った。夜遅く行われたのは、ひとつにはそのほうがこうした別れにふさわしいし、またひとつには一般の注意を引くことがより少ないだろうと思われたからである。王の役人たちはこれ以上儀式を執り行うことを許さないのではないかという心配があったのだ。六本の大きな蝋燭が祭壇の上で燃やされ、壁の蝋燭受けは聖歌隊席の修道士たちが目の前に置いている祈祷書をいつも通りに照らした。寂しい礼拝だった。慣れ親しんだよき習わしがこれを最後に消えてしまうというときはいつも寂しいように。修道士たち、とりわけ年のいった僧たちは明日どこへ行けばよいのか分からず、心を引き裂かれる思いだった。副修道院長は悲嘆のあまり声が途切れ、朗読を中断するありさまだった。
 身廊は暗闇に包まれ、ところどころに置かれた火鉢が巨大なノルマン様式の柱を赤く照らしているだけだった。その暗がりに町の人々が小さな集団を作ってたたずんでいた。今より幸せだった頃の身廊はいつも町の人に開放されていて、彼らはいくつもある礼拝堂の祭壇で恵みの手段にあずかろうとしたものだ。その晩彼らは、修道院の最後を見届けに集まってきた――好奇心から見に来た者も数名はいたけれど、ほとんどは偉大な聖堂が素晴らしい礼拝とともに永遠に失われるのだというつらい思いと、深い悲しみを抱いてやってきたのだった。彼らはアーケードの柱のあいだにたむろした。身廊と聖歌隊席をへだてるドアが開いていたので、石の障壁のむこう、遠く主祭壇の上にあや織りの毛織物が輝いているのが見えた。
 聖堂の中でもっとも悲しみにくれていたのは、商人であり羊毛選別人でもあるリチャード・ヴィニコウムだった。彼は修道院長の兄で、もちろん修道院がなくなることに心を痛めていたが、彼の場合はさらに、弟がロンドンで囚われの身となっていること、そしてまず確実に死罪に問われるだろうということが悲しみをいっそう深いものにしていた。
 彼は塔の北西の角を支える基柱の暗い影に立ち、修道院長の運命と修道院の消滅を思って悲しみに打ちひしがれていた。しかも弟への有罪の宣告が彼自身の破滅を招かないとは断言できなかった。その日は十二月六日、聖ニコラスの日、つまり修道院長の守護聖人の日だった。聖歌隊席の近くにいた彼は、壁のむこうで集祷文が読み上げられるのを聞いた。
 「神よ、汝の司祭、聖ニコラスに数知れぬ奇跡を行わしめし神よ、かの聖人の善行と祈りにより、主イエス・キリストを通じて、われらを地獄の火より救い給え。アーメン」
 「アーメン」かれは基柱の影で言った。「聖人ニコラスよ、わたしをお救いください。聖人ニコラスよ、わたしたち皆をお救いください。聖人ニコラスよ、わたしの弟をお救いください。弟がこの世を去らねばならないのなら、主キリストにお祈りください、主がいち早く選民をお選びになり、わたしたちを主の永遠の楽園で再び相まみえさせ給わんことを」
 彼は心痛のあまり手を握り締め、まわりに立っていた人々は、火鉢の火影が彼にあたったとき、涙がその頬を流れ落ちるのを見た。
 「み教えを地にあまねく広めしニコラスよ、われらのために取りなし、罪の清めを受けさせたまえ」と司祭者が言い、僧たちの交唱がつづいた。
 「そはこの世を卑しみ、天つ国へむかいしお方」
 侍者が祭壇の灯火を一つ一つ消し、最後の一本が消えると、僧たちはその場に立ち上がり、列をなして退出した。そのあいだオルガンは破れ窓に鳴る風のような悲しい哀歌を演奏していた。
 修道院長は門楼の前で縛り首にされたが、リチャード・ヴィニコウムの財産は没収を免れた。大聖堂がそのまま建築資材として売りに出されたとき、彼はそれを三百ポンドで買い取り教区に寄贈した。彼の祈りの一部はかなえられた。というのは一年もたたずして死が彼を弟と再会させたからである。彼はその敬虔な遺言書の中にこう書いている。「わが魂を、作り主にして救い主たる全能の神にささげ、御心のままに神と聖母と聖人のもとにゆかん。また聖セパルカ大聖堂をその備品を含めてカラン教区に遺贈す。上記教区民は上記聖堂、備品、あるいはそのいかなる一部をも永劫に売却、変更、譲渡すべからず」ウエストレイが修復しなければならない聖堂はこのようにして歴史的危機を脱したのだった。
 リチャード・ヴィニコウムの寛大さは単に聖堂の買い取りだけにとどまらず、日々の礼拝の威厳を保つために多額の金を残し、礼拝堂付き司祭を二名、オルガン奏者を一名、聖歌隊員を十名、少年聖歌隊員を十六名増やした。しかし管財人の怠慢と、信仰の深さでは迷信深いリチャード老人をしのぐ人々の情熱が、この基金を大幅にすり減らした。カランの歴代主任司祭は、自分たちの勤労に対する報酬を増やし、毎日の聖歌歌唱という口先だけの信心につぎこむ金を減らしたほうが、この町の信仰にとって有益であると確信した。こういうわけで主任司祭の俸給はしだいにふくれあがり、参事会員パーキンは就任してすぐにオルガン奏者への支払いという贅沢を切りつめ、その年収を二百ポンドから八十ポンドに減額することで、自分の生活費をきっかり二千ポンドに増やす機会を得た。
 この節減計画により平日の朝の礼拝は廃止となったが、夕べの祈りはいまでも午後三時にカラン大聖堂で執り行われた。それは修道院時代からつづく礼拝の、消えゆく薄い影であり、参事会員パーキンは、それがだんだんと小さくなり、いつか雲散霧消することを願っていた。そうした形式主義は必ずや真の信仰を窒息させるに違いないし、彼自身の美声と個人的魅力が聴衆に感動を与えるべき多くの祈りが、意味のない詠唱によって絶えず邪魔されるのを遺憾に思っていたのである。彼はおのれの高潔な信条を曲げて、哀れなリチャード・ヴィニコウムが聖歌隊学校に与えた手当をしぶしぶ認めていた。そして平日の礼拝を几帳面に欠席することで、そうした無意味に対する非難をぬかりなく表明していた。こうした事情からこの儀式は白髪のミスタ・ヌート、主イエス・キリストの大義に熱情を注ぐあまり、みずからの利益を求める機会を失い、六十五才になった今もカランの片田舎で不当に安い給料をもらいながら牧師補の地位に留まっているミスタ・ヌートに任されていた。
 それゆえ、平日の午後四時に聖セパルカ大聖堂に居合わせた人は誰でも白い法衣の短い行列が南袖廊の聖具室からあらわれ、曲がりくねるように歩きながら聖歌隊席へと進むのを目にするだろう。教会事務員ジャナウエイが銀色の頭部を持つ職杖をたずさえて先頭に立ち、そのあとを八人の少年聖歌隊員がつづく。(リチャード・ヴィニコウムによって定められた人数は半分に減らされていた)さらにそのあとにつづいたのが、いちばん若い者でも五十才という五人の聖歌隊員で、しんがりを勤めたのはミスタ・ヌートだった。行列が聖歌隊席に入ると、事務員は後ろの障壁のドアを閉めて、司宰者たちの心から外の世界の思惑を断ち切り、身廊から俗人が侵入して礼拝の妨げとならないようにした。もっともこの外部の俗人というのは現実的というよりは理論上の存在で、夏の盛りをのぞいて、訪問者の姿は身廊にも聖堂の他のどこにもめったに見られはしなかった。カランは主だった都市のいずれからも遠く離れていたし、考古学的興味はこの当時すっかり下火で、専門的な古物研究家以外、この大修道院の壮麗さを知る者はほとんどなかったのだ。よその人間がカランのことなどいささかも気にかけなかったとすれば、平日の礼拝に対する住人たちの態度はそれに輪をかけた無関心ぶりで、天蓋付き聖職者席の前にある信者席はいつもがらんとしていた。
 こういうわけで日々ミスタ・ヌートが朗読し、オルガン奏者のミスタ・シャーノールがオルガンを演奏し、聖歌隊員と少年聖歌隊員が歌を歌うのはひとえに教会事務員ジャナウエイのためだった。他にそれを聴く者は一人もいなかったのである。しかし音楽を愛好する訪問者がそんな折りに聖堂に入ってきたなら、彼は礼拝に深い感銘を受けただろう。ホメロスの詩の妻がありあわせの品を使って客にできるかぎりのもてなしをしたように、ミスタ・シャーノールは欠陥のあるオルガンと不出来な聖歌隊を最大限に活用していたのだ。彼は洗練された趣味とすぐれた資質の持ち主だった。歌声が穹窿天井におごそかに響き渡るのを聴けば、心の広い批評家ならかすれた声や空気漏れのする送風器やがたがたと鳴るトラッカーなど少しも気にせず、陽光と色ガラスと十八世紀音楽がむつまじく融け合った記憶を胸に抱いて帰るだろう。もしかしたら澄んだソプラノの声も彼の印象に残るかも知れない。ミスタ・シャーノールは少年聖歌隊の育成と歌の才能の発掘に定評があった。
 修復工事が開始されて迎えた十月、聖ルカ祭の秋晴れは、まことにその名にふさわしいものとなった。この月の中旬には、本物の夏を思わせる、珍しく晴れた日がつづき、風はそよとも吹かず、陽の光があまりにもぽかぽかと照りつけるものだから、カラン・フラットにかかる柔らかなもやを見た人が、八月が戻ってきたと考えたとしても無理からぬことだった。
 カラン大聖堂は夏の暑さの中でも概してすがすがしいほど涼気に満ちているのだが、この季節はずれの秋の暑気つづきには、さすがに外のいきれとけだるさが幾分か聖堂の中にもしみこんできたようだった。ある土曜日など普段以上の眠気が午後の礼拝を襲った。聖歌隊は詩篇を歌い終えると、どっかと椅子に腰を下ろし、ミスタ・ヌートが第一日課を朗読しはじめるや、人目をはばからず睡魔に身をゆだねた。もちろん全員が眠気に朦朧としたわけではなく、賞賛に値する例外もあった。北側聖歌隊席ではかすれ声のアルトがしゃがれ声のテノールと活発な議論を戦わせていた。彼らは机の下でとりわけ見事に育ったネギを比べあっていた。二人はどちらも園芸家で、秋のネギ品評会が迫っていたのである。南側聖歌隊席ではソプラノを歌う赤毛の小男パトリック・オブンズがオールドリッチ作曲「マニフィカト」ト長調の楽譜に手を加え、タイトルを「マグニファイド・キャット(拡大された猫)」に変えてやろうと眠る暇もなかった。
 第一日課は長々とつづいた。ミスタ・ヌートはきわめて穏やかな情け深い人物だったが、朗読では、聖書の中でも糾弾激しい一節を読むのを得意としていた。確かに英国国教会祈祷書は午後の日課に「ソロモンの知恵」の一部を読むよう指定しているが、ミスタ・ヌートは権威を軽んじ、代わりにイザヤ書からの一節を読んだ。このようなやり方に疑問を突きつけられたなら、彼は聖書外典は行為についての教訓としても、とても容認できないから、と釈明しただろう(註 英国聖公会では聖書外典を生活の模範および行為についての教訓のために読むとしている)。(それにカランにはこの個人的判断の権利に異議を申し立てそうな人間はひとりもなかった)しかし自分でも気がついていなかっただろうけれど、本当は熱弁をふるう適当な一節を探したかったから、そうしていたのである。天罰を下す雷鳴の如きその声には、彼の信じるところ、至高の正義を恐れる気持ちと、あやまてる、しかし忘れ去られて久しい民の盲目さに対する無限の哀れみがこめられているはずであった。実際彼はいわゆるバイブル・ボイスと言われるものを持っていて、朗読の際、普段の生活ではけっして使われないような声音を用い、聖書にいっそうの重々しさを与えることができた。駆け出しの牧師補が「死の時にして裁きの日」とささやいて、嘆願《リタニー》に厳粛さを付け加えるようなものである。
 ミスタ・ヌートは近視のためにいにしえの民への天罰がうたた寝する聴衆の頭の上を素通りしていくのが分からなかった。そして彼が長い日課をそれにふさわしい劇的な締めくくりで終えようとしたとき、思わぬ珍事が起きた。障壁のドアが開いて、見知らぬ男が入ってきたのだ。カール大帝の臣将が角笛を吹き鳴らし、百年の安らぎを破って、魔法にかかった王女とその廷臣たちを蘇らせたように、うつらうつらとしていた聖職者たちは闖入者によってはっと夢から目覚めさせられた。少年聖歌隊員はくすくす笑い、聖歌隊員は目を見開き、教会事務員ジャナウエイはこの無分別な飛び入りの頭を打ち砕かんと職杖を握り締めた。みんながざわついたのでミスタ・シャーノールは落ちつかなげに音栓をみやった。彼は寝過ごして聖歌隊がマニフィカトを歌うために立ち上がったものと思ったのだ。
 見知らぬ男は自分の姿が皆の注目を喚起したことなどまったく気づいていないようだった。偶然訪れた観光客であることは明らかで、たぶん障壁のドアを開けるまで礼拝が行われていることを知らなかったのだろう。しかしいったん中にはいると、彼は式に参加することを決意し、信徒席につながる踏み段のほうへ歩いていった。とたんに教会事務員のジャナウエイが飛び出し、芝居の脇台詞よりもやや大きめの声で彼にむかって教会の規則を口にした。
 「礼拝中は聖歌隊席に入っちゃいけません。だめですよ」
 見知らぬ男は老人の横柄な態度を面白がっていた。
 「もう入っていますよ」彼はささやき返した。「どうせ入ったんですから、よろしければ、礼拝が終わるまで席に座っていたいですね」
 教会事務員はしばらく疑わしそうな視線をむけていた。相手の顔に面白がっている様子が読み取れたとすれば、そこには同時に反論を思いとどまらせる決意もあらわれており、彼は考え直した結果、カラン大聖堂聖職者席の下に並ぶ信者席の開き戸の一つを押し開けた。
 しかし見知らぬ男は自分がそこに招かれているということが分からなかったらしく、その信者席を通り過ぎ、小さな踏み段を上がって北側聖歌隊に面した席にむかった。歌い手たちのすぐ後ろには五つの席があって、そこには他の席のものより豪華で手のこんだ天蓋がかかり、背に紋章の楯が描かれていた。この席は色あせた深紅色の細引きによって一般庶民が入れないようになっていたが、見知らぬ男は紐を留め金からはずし、まるで自分の所有物であるかのように手近の指定席に座ったのだった。
 教会事務員のジャナウエイは激怒し、大あわてで踏み段をのぼり、いきり立つ七面鳥のように彼のあとを追いかけた。
 「おい、おい!」彼は侵入者の肩に手を触れて言った。「ここに座ってはいかん。フォーディングの席なんだから。ここはブランダマー一族の席だ」
 「ブランダマー卿が家族を連れてきたら場所を空けるよ」と見知らぬ男は言い、老人がなおも攻撃を仕掛けようとしているのを見て「静かに!いい加減にしたまえ」と付け加えた。
 教会事務員はもう一度彼を見て、自分の席に戻った。完敗だった。
 「その日かれらが嘯響《なりどよ》めくこと海のなりどよめくがごとし。もし地をのぞまば暗《くらき》と難《なやみ》とありて、光は黒雲のなかにくらくなりたるを見ん」とミスタ・ヌートは言い、大きな丸い眼鏡の底から非難のまなざしを聴衆一同にむけて、聖書を閉じた。
 侵入者に体現される無法と、教会事務員に体現される権威の衝突を、興味深そうにずっと眺めていた聖歌隊は、オルガンがマニフィカトを演奏しはじめたので立ち上がった。
 歌い手たちが顔を見合わせ、にやにやしていたのは、教会事務員がへこまされるのを見て悪い気がしなかったからである。彼は聖堂の中をわが物顔に歩く専制君主で、みんなから「思い上がっている」と言われる態度で、ときどき彼らの腹を立てさせていた。もしかすると彼は行列の先頭に立って少々いい気になっていたのかも知れない。オルガンの音楽に合わせて職杖を手に行進していると、聖なる場所の、平和の使徒であることを忘れて、たった一つの希望を率いる勇敢な士官になったような気分になることが、たまにあったからである。ちょうどその日の午後は聖具室でバスのミスタ・ミリガンと園芸の問題をめぐって激しく口論した。教会事務員の高圧的な喋り方にいまだ機嫌を損ねていた歌い手は嬉しそうに侵入者に注意をむけ、敵にその敗北を思い知らせた。
 その日、北側聖歌隊のテノールが休んでいたので、ミスタ・ミリガンはこれ幸いと、欠席者のサーヴィスの楽譜を自分のすぐ後ろに座っている侵入者に貸し与えた。彼は振り返って見知らぬ男の前にマニフィカトの頁を開いたままうやうやしく楽譜を置いた。むき直るときはジャナウエイに軽蔑のまなざしをむけ、ジャナウエイはすばやくその意味を察知した。
 見知らぬ男はこの脇役たちの演技には気づかず、好意に感謝してうなずくと、差し出された楽譜を真剣に読みはじめた。
 男声が極端に不足していたため、ミスタ・シャーノールは南側ないし北側の声部に穴が空くことには慣れっこになっていた。詩篇を歌う際は、欠けた声部を左手で補い、必死になって不完全を取り繕おうとしたのだが、しかしマニフィカトの演奏を始めると、豊かな、実に力強いテノールが情感をこめ、正確に歌唱に加わるのを聞いてびっくりした。穴を埋めたのは見知らぬ男で、最初の驚きが過ぎ去ると、聖歌隊は彼を自分たちの技術に精通する者として歓迎し、教会事務員ジャナウエイは彼が入ってきたときの無礼や、ミスタ・ミリガンの反抗的な態度すらも忘れてしまった。大人も少年たちも新しい生命を得て歌った。実際彼らはこれほどの心得の持ち主には是非とも好い印象を与えたいと思い、その聖歌はカラン大聖堂ではひさしぶりに聴く出色のでき映えとなった。ただ見知らぬ男だけはまったくの冷静だった。彼は今までずっと聖歌助手であったかのように歌った。マニフィカトが終わり、ミスタ・シャーノールがオルガンのある二階の張り出しからカーテンの隙間を通してのぞくと、彼が聖書を手にミスタ・ヌートの第二日課を熱心に聞いている姿が見えた。
 年の頃は四十、中背というよりもやや背が高く、黒い眉毛に黒い髪、ただし白いものもちらほら見えはじめていた。特に髪の毛はふさふさと豊かで、自然に波打つ巻き毛がすぐさま見る人の注意を奪った。髭はきれいに剃られ、顔の輪郭は鋭いが痩せているわけではなく、引き締まった口元には何か蔑むような表情が浮かんでいた。鼻筋が通り、力強い顔は他人を服従させることに慣れていることを感じさせる。聖歌隊席の反対側から彼を見ると、その姿は素晴らしい一幅の絵になっていた。黒いオークでできた修道院長ヴィニコウムの席がちょうどその額縁の役割を果たしていた。頭上には天蓋があり、その先端は葉飾りや頂華に飾られ、座席の木の背板には楯が描かれていた。よく見るとそれは緑色と銀色の雲形線を持つブランダマー家の紋章だった。恐らくそのあまりにも堂々とした風采のためなのだろう、赤毛のパトリック・オブンズはちょうどその日手に入れたオーストラリアの切手を取り出し、王冠をかぶってゴシック風の椅子に座るヴィクトリア女王の肖像を隣の少年に指し示した。
 見知らぬ男はすっかり合唱にのめりこんでいるようだった。彼はおじることなく歌唱に加わり、もう一冊楽譜を与えられると、アンセムでも補欠としてめざましい活躍を見せた。祝福が終わって、聖歌隊が列をなして退出するときは礼儀正しく起立し、礼拝後のボランタリーを聴くために再び席についた。ミスタ・シャーノールは見知らぬテノールに対する敬意のしるしとして名曲を演奏しようと決め、「聖アンのフーガ」をオルガンの状態が許すかぎり見事に弾いて見せたのだった。確かにトラッカーがひどくがたつき、自鳴が第二主題を台無しにしてしまった。しかし張り出しから下に延びる螺旋階段を降りきったとき、見知らぬ男が彼を待っていて賞賛のことばをかけてきた。
 「ありがとうございました。あなたのおかげで素晴らしいフーガが聴けました。この聖堂に来たのはひさしぶりですよ。天気のいい午後を選んだのは幸運でした。皆さんの礼拝に間に合ったことも」
 「とんでもないよ、とんでもない」とオルガン奏者は言った。「幸運だったのはわれわれのほうだ、きみに助けてもらえて。初見で楽譜も読めるし、いい声をしている。ただシメオン賛歌のグロリアの出だしをちょっと間違えたね」彼は念のため、その部分を歌って見せた。「きみは教会音楽を理解しているし、きっと礼拝で何度も歌った経験があるんだろうね。ちょっとそんなふうには見えないんだけど」と彼は相手を頭からつま先までしげしげ見つめながら言い添えた。
 見知らぬ男はこの無遠慮な批評を不快に思うというより面白がっていた。教義問答はつづいた。
 「カランに宿泊しているのかい」
 「いいえ」と相手は丁寧に答えた。「日帰りなんですが、また機会を見つけてこの聖堂の礼拝を聞きたいと思います。次に来るときは、きっと合唱隊を全員揃えてくださいね。そうすれば今日よりもくつろいで聞くことができるでしょうから」
 「いやいや無理だな。十中八九、今日よりもっとひどいだろう。われわれは貧乏でね、しかもはるばるマケドニアまでわれわれを助けに来てくれる者は誰もおらんのだ(註 使徒行伝から)。呪われた司祭どもは蛾の幼虫みたいに資産を食い荒らし、音楽をつづけるためにとっておかれた金で私腹を肥やしている。今日の午後朗読をしていたあの気の小さい老人のことじゃないよ。彼もわれわれと同じで、こき使われる身分なのさ――かわいそうなヌート!彼は靴の底を張り替える金がないのでハトロン紙を長靴に詰めこまなきゃならん。悪いのは主任司祭の家に住む盗賊バラバだ。あいつが株式投資をし、礼拝を餓死させようとしているのさ」
 この手厳しい非難は見知らぬ男の耳を右から左へ抜けていった。彼の心は千マイルもかなたにあるかのようだった。オルガン奏者は話題を変えた。
 「オルガンは弾くかね。オルガンは分かるかい」彼は早口に尋ねた。
 「残念ながらできません」見知らぬ男は大急ぎで心を呼び戻して答えた。「楽器のこともほとんど何も知りません」
 「じゃあ、今度、二階の張り出しに来たまえ。わたしが演奏に使っているがらくた箱をお見せしよう。あれが壊れずに礼拝をやり終えることができて幸運だよ。足鍵盤は短すぎて、とっくに寿命を過ぎているし、送風器はぼろぼろなんだ」
 「修理すればいいじゃないですか」と見知らぬ男は言った。「送風器を直すくらい、たいして金はかからないはずですよ」
 「これ以上修理がきかないくらいつぎはぎだらけなんだよ。新品を買いたい人には金がない。金がある人は払おうとしない。きみが座った席、あれは新しい送風器だって、新しいオルガンだって、必要なら新しい聖堂だって買える男の席なのさ。ブランダマーという名前なんだが――ブランダマー卿。席の後ろを見たら彼の大紋章が見えたはずだよ。ところが彼は、天井がわれわれの上に落ちないようにする修理工事の費用を半ペニーだって出そうとしない」
 「ああ、それはとてもお困りでしょうね」彼らは北側扉口まで来ていた。外に出たとき、彼は思いに沈むように繰り返した。「それはとてもお困りでしょうね。この次お会いしたときにもっと詳しく話を聞かせてください」
 それを聞いたオルガン奏者はこれを引き時と心得て別れを告げ、川沿いを散歩しようと波止場にむかって歩きはじめた。見知らぬ男はどことなく外国人を思わせる仕草で帽子を持ち上げ、町のほうへ戻っていった。

 第七章

 ミス・ユーフィミア・ジョウリフは土曜の午後を聖セパルカ大聖堂のドルカス会の活動に充てていた。会合は国民女学校の教室で開かれ、献身的な女たちが毎週集まって貧しい人々のために服を作った。カランには少数ながらもぼろ服をまとった紳士諸君がおり、また大勢の中流階級が生活《たつき》にあえいでいたけれど、幸いなことに大都市におけるような正真正銘の極貧はほとんど見られなかった。だから貧しい人々は、ドルカス会の服が最終的に配られてきたとき、ときどき品物を点検して、せっかくの生地がこんな裁ち縫いじゃもったいないと嘆いたりした。「ドルカス会が作った外套や服を見て、連中は泣いていたよ、あんまりひどい仕立てなんでね」とオルガン奏者は言ったが、しかしこれはいわれのない非難である。会には優秀なお針子が大勢いたからで、その中でもとりわけ腕のいい一人がミス・ユーフィミア・ジョウリフだった。
 彼女は揺るぎない信念を持った教会の支持者で、機会さえ許していたら、目の不自由な人の家を回って聖書を読み聞かせたり、教区牧師の活動を補助する世話人になっていただろう。しかしベルヴュー・ロッジの切り盛りで彼女の人生は手一杯、教区の仕事などやっている暇はなく、それゆえドルカス会の会合だけが規則正しく参加のできる唯一の博愛行為だったのである。しかしこの義務の遂行に当たってまさしく彼女は規則正しさの化身であった。風も雨も、雪も熱波も、病気も娯楽も彼女を止めることはできず、彼女は毎週土曜日の午後三時から五時まで、必ず国民学校にその姿をあらわした。
 ドルカス会がこの小柄な老婦人の義務だとしたら、それは同時に楽しみでもあった――数少ない彼女の楽しみの一つ、ひょっとしたらその中で最大のものだったかも知れない。彼女が会合を好んだのは、そうした場では自分よりも裕福な隣人たちと対等のような気がしたからだ。白痴が葬式や教会の礼拝に参加するのも、これと同じ気持ちからである。そういうときだけは同胞と同じ立場に立っていると感じるのだ。誰も彼も区別なく同じレベルに置かれる。話をする必要もなければ、計算をする必要もない。忠告を与えられることもなければ、決断を下すこともない。神の前では万人が愚か者のごとくあるのである(註 コリント人への前の書から)。
 ミス・ジョウリフはドルカス会の会合にいちばんいい服を着て出席したが、帽子だけは別だった。とっておきのボンネットをかぶるのは安息日だけに限られた最高のおしゃれだったのだ。彼女の衣装箪笥は中身があまりにも切り詰められ、移り変わる季節に合わせて「晴れ着」を着変える余裕はなかった。冬の晴れ着は夏の晴れ着として用いられねばならないこともあり、それゆえ彼女はときどき十二月にアルパカを着ることもあれば、この日のようにモスリンの季節だというのに、毛皮の襟巻きをしなければならないこともあった。しかし「晴れ着」を着ていれば、いつも「誰に見られても大丈夫」という気分になった。それにこと裁縫にかけては彼女の右に出る者はなかった。
 会員たちのほとんどは彼女に優しいことばをかけて挨拶した。嫉妬や憎しみや悪意が日の出から日の入りまで町中を腕組みして歩いているような場所だったが、それでもミス・ユーフィミアには敵がほとんどなかった。小さな町は大概そうだが、嘘や誹謗や悪口はカランの女たちにとっていちばん大切な活動だった。悪人はいないと思っている、世間知らずで時代遅れのミス・ジョウリフは、最初のうち、そうした歯に衣を着せない噂話で持ちきりという点が、この喜ばしい会合のただ一つの欠点であると思った。しかし昔からずっとつづいてきたこの悪弊もその後取り除かれることになる。醸造業者の奥さんで、ロンドン仕立てのドレスを着、カランで最も流行に敏感なミセス・ブルティールが、ドルカス会の午後は集まったお針子たちのために何かためになる本を読んで聞かせることにしようと提案したのである。ミセス・フリントは、そんな提案をするなんて自分が美声の持ち主だと思っているからよ、と言ったが、しかし理由はどうあれ、彼女はそういう提案をし、誰もそれに反対するものはなかった。そういうわけでミセス・ブルティールはまことに信心深い内容の本を読んだのだが、それがまたずいぶんほろりとさせる話で、彼女が涙にかきくれることなく、また彼女のご機嫌取りたちから同情のすすり泣きを誘発することなく、午後が過ぎることはめったになかった。ミス・ジョウリフ自身は、想像上の悲しみにそれほどたやすく感動できないことがあったが、しかしそれは自分の性格に哀れみ深さがかけているからだと思い、心の中で自分よりも感じやすい他の人々を慶賀した。
 ミス・ジョウリフはドルカス会に出席、ミスタ・シャーノールは川沿いを散歩、ミスタ・ウエストレイは石工たちと袖廊の屋根の上、というわけで、正面玄関のベルが鳴ったとき、ベルヴュー・ロッジにいたのはアナスタシア・ジョウリフただ一人だった。叔母が家にいるときは、アナスタシアは「殿方の給仕」をすることも、ベルに応えることも許されなかったが、叔母は不在だし、家のなかには誰もいない。しようがなく彼女は観音開きになった大きな玄関ドアの一方を開け、半円形の外の階段に一人の紳士が立っているのを見いだした。その男が紳士であることは彼女には一目で分かった。彼女にはそんな役に立たない違いを識別する「才能」があったのだ。もっともカランにはその手の人間が多くはないので、家の近所で彼女の才能を鍛えるというわけにはいかなかったけれど。実は彼はテノールを歌ったあの見知らぬ男だった。彼女は女性の持つ鋭い観察眼で、男の外見についてオルガン奏者や聖歌隊や教会事務員が一時間かけて知ったことを一瞬のうちに見て取った。いや、それだけではない。彼女は男の服装が上物であることも見逃さなかった。男は装飾品をまったく身につけていなかった。指輪もネクタイピンもつけず、懐中時計の鎖さえも革製でしかなかった。服の色はほとんど黒といってもいいくらい濃い灰色だったが、生地は上等で、仕立ても最高のものだとミス・アナスタシア・ジョウリフは思った。ベルに応えて出ていくとき、彼女は「ノーサンガー・アベイ」(註 ジェイン・オースチンの小説)にしおり代わりの鉛筆をはさんだのだが、見知らぬ男が彼女の前に立ったとき、彼女はヒロインの恋人役、ヘンリー・ティルニーがあらわれたのではないかと思った。そして彼が唇を開こうとするとき、彼女はキャサリン・モーランドのように身構えて、重大な知らせが発せられるのを待ち受けたのである。しかしそこから発せられたのは少しも重大なことではなかった。空き部屋の有無という、彼女が半ば期待していた質問ですらなかった。
 「聖堂工事の監督をしている建築家はここに下宿していますか。ミスタ・ウエストレイはご在宅でしょうか」それが彼の言ったすべてだった。
 「ここに住んでいらっしゃいますわ」と彼女は答えた。「でも今はお出かけです。六時までお戻りにならないと思います。お会いになりたいのでしたら、たぶん聖堂にいると思うんですけど」
 「今聖堂から来たところです。でも見つかりませんでしたよ」
 建築家に会えずベルヴュー・ロッジまでわざわざ歩く羽目にあったのは、きっとおざなりにしか建築家を探そうとしなかったからだろう。当然の報いだった。手間暇惜しまずオルガン奏者か教会事務員に訊いていれば、ミスタ・ウエストレイの居場所はすぐに分かったはずである。
 「メモを書いてもいいでしょうか。紙を一枚もらえれば、伝言を残していきたいのですが」
 アナスタシアは頭のてっぺんからつま先まで、早撮り写真のようにすばやく相手を一瞥した。「乞食」はカランのご婦人たちにとって常に嫌悪すべき対象で、そうした怪しい男に対して持つべき恐れは、叔母によってアナスタシア・ジョウリフにも植え付けられていた。さらに男の下宿人が家にいて、もしものことがあった場合、取っ組み合ってもらえるというときでなければ、相手がどんな口実を設けようと、決して見知らぬ人間を家に入れてはならないというのが、昔からこの家にずっとつづく規則だった。しかしちらりと見ただけで、最初の判断を確認するには充分だった――この方は間違いなく紳士だわ。紳士乞食なんてものはあり得ない。そこで彼女は「ええ、もちろん」と答えて、彼をミスタ・シャーノールの部屋に案内した。そこが一階にあったからである。
 訪問者は部屋の中をすばやく見回した。もしも彼が以前この家に来たことがあったなら、アナスタシアは彼が記憶にある何かを確認しようとしていると思っただろう。しかしオープン・ピアノといつも通り散らかった楽譜と手書きの原稿以外、見るべきものなど何もなかった。
 「ありがとう。ここで書いてもかまいませんか。ここがミスタ・ウエストレイの部屋ですか」
 「いいえ。もう一人の方がここに下宿しているんです。でもこの部屋でメモをお書きになればいいわ。外出中ですし、どっちみち気にしないでしょうから。彼はミスタ・ウエストレイのお友達です」
 「できればミスタ・ウエストレイの部屋で書きたいのですよ。こちらの紳士とは関係がありませんし、戻ってきてわたしが彼の部屋にいたら気まずいでしょう」
 今彼らがいる部屋がウエストレイの部屋ではないと知り、見知らぬ男はどういうわけかほっとしたようにアナスタシアには思えた。どんなに当惑したような振りをしていても、その態度にはかすかな、なんとも言えない安堵感が感じられた。もしかしたらこの人はミスタ・ウエストレイの大の親友で、部屋の中が散らかっていて、だらしないのを残念に思ったのじゃないかしら。ミスタ・シャーノールの部屋は本当にひどい有様だもの。だから自分の思い違いを知らされて嬉しいのだわ、と彼女は思った。
 「ミスタ・ウエストレイの部屋はいちばん上の階なんです」彼女は弁解するように言った。
 「階段を上がるくらい、なんでもありませんよ」と彼は答えた。
 アナスタシアはまたもや一瞬戸惑った。紳士乞食はいないとしても、紳士強盗はいるかも知れない。彼女は慌ててミスタ・ウエストレイの所持品リストを頭に思い浮かべたが、犯罪を誘発しそうなものは何もなかった。それでも彼女は、自分一人しか家にいないときに、いちばん上の階へ見知らぬ男を案内するのは気が引けた。そんなことを頼むなんて作法をはずれているわ。やっぱり紳士じゃないのかも知れない。さもなきゃ自分の要求がどんなに礼を失しているか、分かるはずだもの。それとも何か特別な理由があって、ミスタ・ウエストレイの部屋を見たいのかしら。
 見知らぬ男は相手の戸惑いに気がつき、彼女が考えていることを容易に読み取った。
 「申し訳ありません。あなたとお話しさせていただいている人間が誰か、名乗りをあげるべきでしたね。わたしはブランダマー卿と申します。聖堂修復の件で、ミスタ・ウエストレイに二言三言伝えたいことがあるんです。これがわたしの名刺です」
 恐らく町でアナスタシア・ジョウリフくらい平然とこの知らせを受け止めた女はいないだろう。祖父が死んで以来、新しいブランダマー卿は絶えず地元の人の噂と憶測のタネとなった。彼はこの地方の実力者で、町と周囲の田園地帯をことごとく所有していた。フォーディングの豪邸は、晴れた日なら、聖堂の塔から望み見ることができた。彼は才能豊かな、りりしい顔立ちの人物だという評判で、四十は超えておらず未婚とのことだった。しかし成人してからその姿を見た者はなく、二十年もカランから遠ざかっていると言われていた。
 話によると、彼は若いとき祖父と原因不明の喧嘩をし、家を追い出された。父も母も彼が赤ん坊のときに水死していたため、誰も彼の肩を持つ者はなかったのだ。四分の一世紀のあいだ、彼は外国を放浪した。フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、イタリアとスペイン。彼は東洋を訪ね、エジプトで戦い、南アメリカで封鎖をくぐり、南アフリカで値のつけられないようなダイヤを発見したと信じられている。ヒンドゥー教の行者の恐るべき苦行を経験し、アトス山(註 ギリシャ正教会の根拠地)の僧侶とともに断食をした。トラップ大修道院の無言の行に耐え、噂によるとイスラム教主教がみずからブランダマー卿の頭に緑のターバンを巻いたという。射撃、狩猟、釣り、拳闘、歌ができ、楽器は何でもこなした。どこの国のことばも母国語のように操った。彼こそはいまだかつてこの世に生まれた人間の中で最高の学識と美貌――そしてある人がほのめかすには――最も邪悪な心を持つということであったのだが、誰も彼を見たことはなかった。謎めいた、見知らぬ貴人と同じ屋根の下で顔をつきあわせるというのは、当然ながらアナスタシアにとってロマンスの絶好のきっかけであったはずである。しかし、彼女はそういう状況にふさわしいためらいも、おののきも感じず、気が遠くなることもなかった。
 彼女の父親マーチン・ジョウリフは死ぬまでその美貌を保ち、自分でもそのことをよく知っていた。若いときは整った目鼻立ちを誇りにし、歳を取ってからは身だしなみに注意を払った。暮らしぶりがどん底に落ちこんだときでさえ、彼は仕立てのいい服を手に入れようとした。いつも最新流行の服というわけにはいかなかったが、それらは背の高い、姿勢のしゃんとした彼にはよく似合った。人は彼のことを「紳士ジョウリフ」と呼んで笑ったが、カランでしばしば聞かれる悪口と違って、そこにはそれほど嫌味がこめられていなかったようだ。むしろ農夫の息子がどこであんな物腰を身につけたのかと不思議がられた。マーチン自身にとっては貴族的な態度は気取りというより義務だった。彼の立場がそれを要求するのだ。なぜなら彼は自分のことを、権利を剥奪されたブランダマー家の人間と思いこんでいたからである。
 グローヴ家のミス・ハンターが、父親のハンター大佐から、身分違いもはなはだしい、あんな男と結婚したら勘当だ、と固く言い渡されていたにもかかわらず、彼と駆け落ちしたのは、四十五才になっても彼の男っぷりがよかったからである。実は彼女は父親の不興に長く耐えることなく、最初の子供を産んだときに亡くなってしまった。この悲しい結末さえ大佐の心を和らげることはできなかった。小説に見られる前例をことごとく覆し、大佐は幼い孫娘に少しも関心を示さず、あまりの世間体の悪さにカランから引っ越してしまったのである。マーチンもまた親としての義務を真剣に受け止めるような男ではなく、子供の養育はミス・ジョウリフに任された。彼女の苦労が一つ増えたわけだが、しかしそれ以上に彼女は喜びを感じた。マーチンは娘をアナスタシアと名付けたことで充分に自分の責任を果たしたと考えていた。この名前はディブレット貴族名鑑によると、ブランダマー家の女性によって代々引き継がれてきた名前なのだそうだ。このひときわ輝かしい愛の証拠を与えたあと、彼はまた家系調査のため断続的につづく放浪の旅に出かけ、五年間カランに戻ってこなかった。
 その後何年もマーチンは娘をほったらかしにし、ときどきカランに戻っては来たものの、いつも雲形紋章に対する自分の権利を確立することに熱中し、アナスタシアの教育と扶養はすっかり妹にまかせて満足していた。彼がはじめて親としての権威を振りかざしたのは、娘が十五になったときだった。その頃久しぶりに家に戻った彼は、妹のミス・ジョウリフにむかって、姪の教育がけしからぬほどなおざりにされていると指摘し、このような嘆かわしい状態はすぐさま改められなければならないと言った。ミス・ジョウリフは悲しそうに自分の至らなさを認め、自分の怠慢を許して欲しいとマーチンに嘆願した。彼女は、下宿の管理や、自分とアナスタシアの生計を立てる必要が、教育に宛てるべき時間を甚だしく減らしているとか、手元不如意のために教師を雇って自分のあまりにも限られた教育を補うことができないのだ、などと言い訳しようとは夢にも思わなかった。実際、彼女がアナスタシアに教えられることといったら、読み書き、算数、地理を少々、「マグノール先生の質問集」から得た微々たる知識、見事な針使い、詩と小説に対するつきることのない愛、カランでは奇特というべき隣人への思いやり、そしてブランダマー家最上のしきたりとは残念ながら相容れぬ神への畏れ、せいぜいがこの程度であったのである。
 ブランダマー家にふさわしい育て方をしていない、とマーチンは言った。令嬢アナスタシアとなったときに、どうしてその任に耐えることができるというのか。フランス語を勉強させなければならない。ミス・ジョウリフが教えたような初歩ではなくて。彼は妹の真似をして「ドゥ、デラ、デラポトロフ、デイ」と言って笑い、彼女のしなびた頬を真赤にさせ、テーブルの下で叔母の手を握っていたアナスタシアを泣かせた。そんなフランス語じゃなくて、上流階級で通用するようなちゃんとしたやつだ。それから音楽、これは必須科目だ。ミス・ジョウリフは、家事と痛風が共謀して節くれ立った指からしなやかさを奪うまで、自分が低音部を受け持ってアナスタシアとやさしいピアノの二重奏をしたことを恥ずかしさとともに思い出し、また顔を赤らめた。姪と二重奏するのは大きな喜びだったが、しかしもちろんおよそ下手くそなものでしかなかったろうし、自分が子供のときに弾いた曲だからおそろしく流行遅れだったに違いない。しかもピアノもウィドコウムの客間にあった、あの同じピアノだった。
 そういうわけで彼女はマーチンが改善計画を提示するあいだ熱心に耳を傾けた。この計画とはアナスタシアを州都カリスベリにあるミセス・ハワードの寄宿学校に送ることに他ならなかった。この目論見を聞いて妹は息をのんだ。ミセス・ハワードの学校といえば、名門の教養学校であり、カランのご婦人方の中で娘をそこに送っているのはミセス・ブルティールだけだったのだ。しかしマーチンの高潔な寛容は留まるところを知らなかった。「そうと決まれば善は急げだ。やるべきことはさっさとやってしまおう」彼はポケットから粗布の袋を取り出し、テーブルの上にソヴリン金貨の小山を築いて議論に決着をつけた。兄がどうやってそんな富を得たのかというミス・ジョウリフの驚きは、彼の度量の大きさに対する感嘆の念によってかき消された。この富のほんの一部でベルヴュー・ロッジの逼迫した財政状態が緩和されるのに、と束の間彼女が思ったとしても、彼女はそんなぼやきを圧し殺し、天が与えたアナスタシアの教育費用に熱烈な感謝を捧げた。マーチンはテーブルのソヴリン金貨を数えた。前払いしてアナスタシアの印象をよくしたほうがいいと言われて、ミス・ジョウリフは賛成し、大いに胸をなで下ろした。彼女は学期終了前にマーチンがまた旅に出て、支払いを彼女に押しつけるのではないかとびくびくしていたのだ。
 こうしてアナスタシアはカリスベリに行った。ミス・ジョウリフはみずからに課した規則を破って、幾つもの小さな借金を背負いこんだ。というのは当時持っていたような貧相な支度で姪を学校にやりたくはなかったし、かといってよりよい支度を買うには、手持ちの金がなかったのだ。アナスタシアはカリスベリで半期を二回過ごした。音楽の腕前は大いに上がり、退屈で気のない練習をさんざん積んだあげく、タールベルクの「埴生の宿」による変奏曲をつっかえながら弾くことができるようになった。しかしフランス語は本格的なパリのアクセントを習得できず、ときには習いはじめの頃の「ドゥ、デラ、デラポトロフ、デイ」に逆戻りすることもあった。もっともそうした欠点が後に深刻な不都合を招いたことはなかったようだけれど。教養を身につける以外にも、彼女は中流上層に属する三十人の子女と交わる特権を楽しみ、善悪を知る木から、それまでは気づきもしなかった果実を食べた。しかし第二学期の終わりに彼女はこれらの恵まれた機会を放棄せざるを得なかった。マーチンが娘の授業料を永続的に準備することなくカランを離れ、ミセス・ハワードの学校案内には重力の法則のごとき厳然たる規則があったのだ。すなわち、前学期の学費を納めていない場合は、いかなる生徒も学校に戻ることを許可せずという規則が。
 アナスタシアの学校生活はこれをもって終了した。カリスベリの空気は彼女の健康によくないなどといった説明がなされたが、彼女がその本当の理由を知ったのは、それからほぼ二年後のことで、そのころにはミス・ジョウリフの勤勉と禁欲が、ミセス・ハワードへのマーチンの負債をほぼ払い終えていた。娘のほうはカランにいられることが嬉しかった。彼女はミス・ジョウリフを深く慕っていたからだ。しかし経験という点では彼女はずっと大人びて戻ってきた。視野は広がり、人生をいっそう深く見通すことができるようになりはじめていた。こうした広がりを持った考え方は好ましい実も結んだが、好ましくない実も結んだ。父親の性格をより公正に評価するようになったからである。父親がまた戻ってきたとき、彼女はそのわがままや、妹の愛情につけこむやり方に我慢がならなかった。
 このような事態はミス・ジョウリフを大いに悲しませた。彼女は姪を愛し、崇拝にも似た気持ちすら持っていたのだが、同時に彼女は非常に良心的で、子供は何よりもまず親を敬うべきだということを忘れなかった。そういうわけで彼女は、アナスタシアがマーチンより自分に愛着を覚えていることを悲しまなければならないと考えたのだ。姪が誰よりも自分を愛しているということに、しかるべき不満を抱けないことがあったとしても、そんな自分の心の弱さを償うために彼女は姪といっしょにいる機会を犠牲にし、チャンスがあれば彼女を父親と二人きりで過ごさせようと努力した。真の基盤がないところに愛情を生じさせようとする努力が永遠に不毛であるように、それは無駄な努力に終わった。マーチンは娘と一緒にいることにうんざりした。彼は一人でいることを好み、彼女を料理と掃除と繕いをする機械としかみなしていなかったのだ。アナスタシアはそんな態度に憤慨し、おまけに父親の聖書たるぼろぼろに破れた貴族名鑑とか、口を開けばいつも飛び出す家系調査だの、雲形紋章にまつわる専門用語だのには何の関心も持てなかった。その後、彼が最後の帰還を遂げたとき、彼女は義務感から模範的な辛抱強さで身の回りの世話や看護をし、親への敬愛がすることをうながす、ありとあらゆる親孝行をやってのけた。父の死は安堵ではなく悲しみをもたらしたのだと信じこもうとし、それがうまくいって叔母はその点についてはなんらの疑いも持たなかった。
 マーチン・ジョウリフの病気と死はアナスタシアを医者や聖職者と接触させ、それによって彼女は人生経験をさらに深めた。ブランダマー卿の名乗りを聞いても、その衝撃に耐え、ほんの少し顔を赤らめるだけで目に見えるような当惑のしるしを一つも見せなかったのは、疑いもなくこうした修練とミセス・ハワードの学校が与えた上流階級との付き合いのおかげだった。
 「あら、もちろんミスタ・ウエストレイの部屋でお書きになって結構ですわ。ご案内しましょう」
 彼女は部屋へ案内し、書くための道具を用意すると、ミスタ・ウエストレイの椅子に心地よく腰かける卿を残して部屋を出た。出しなに後ろ手でドアを閉めようとしたとき、何かが彼女を振り返らせた――もしかしたらそれは単なる若い女の気まぐれだったのかも知れないし、あるいは見つめられているという意識がときどき人間に及ぼす曰く言い難い魔力のせいだったのかも知れない。とにかく後ろを見たとき、彼女はブランダマー卿と目がかち合い、彼女は自分の愚かしさに腹を立てドアをぴしゃりと閉めた。
 彼女は台所に戻った。神の手の台所はあまりにも広かったので、ミス・ジョウリフとアナスタシアはその一部を居間の代わりに使っていた。彼女は「ノーサンガー・アベイ」から鉛筆を抜き取り、自分の身をその舞台であるバースに送りこもうとした。五分前は彼女も鉱泉室にいて、ミセス・アレンやイザベラ・ソープやエドワード・モーランドがどこに座っているか、そしてキャサリンがどこに立っていて、ティルニーが歩み寄ってきたときジョン・ソープが彼女に何を話していたのか、正確に知っていたのである。ところがどうだろう!アナスタシアは二度とそこに入ることができなかった。灯りは消え、鉱泉室は真暗だった。五分間のあいだに悲しむべき変化が起きたのだ。入会の難しいこの団体は、もはやミス・アナスタシア・ジョウリフの興味の中心ではないことを知り、憤然として解散してしまったのである。彼らがいなくなっても、もちろん彼女は少しも寂しくなかった。彼女は自分に素晴らしい恋愛小説の才能があることを見いだしていたし、すでに胸をときめかす物語の第一章を書きはじめていたからである。
 それからほぼ半時間後に叔母が帰ってきたのだが、そのあいだにミス・オースチンの騎士たちや貴婦人たちはいっそう背景に引っこみ、ミス・アナスタシアの主人公が完全に舞台を独占していた。年上のほうのミス・ジョウリフがドルカス会から戻ってきたのは、五時二十分だった。「かっきり五時二十分過ぎでしたわ」その後彼女は幾度となくそう言った。画期的な事件があると凡人はそれが起きた正確な時間に不自然なくらい重要性を付加するものである。
 「お湯は沸いているかしら」台所のテーブルに座りながら彼女は尋ねた。「よかったら今日は、殿方たちが戻る前にお茶を一杯いただきたいわ。お天気はすごくむっとしているし、教室は窓が一つしか開いてなかったからとっても暑苦しくって。お気の毒にミセス・ブルティールは風が吹きこむとすぐ風邪をひくのよ。彼女の朗読の最中に眠りそうになったわ」
 「すぐ用意する」とアナスタシアは言い、巧みに無関心を装ってこう付け加えた。「紳士の方が上でミスタ・ウエストレイを待っているわよ」
 「あなた」ミス・ジョウリフが咎めるように叫んだ。「私がいないときにどうして人を家に入れたの。怪しげな人が大勢うろついていてすごく危ないのよ。ミスタ・ウエストレイの記念インクスタンドや、大金で買い取りの申しこみのあった花の絵があるじゃない。貴重な絵はよく額から切り取られてしまうの。泥棒なんて何をしでかすか分かりゃしないんだから」
 アナスタシアの唇には微かな笑みが浮かんでいた。
 「心配しなくても大丈夫よ、フェミー叔母さん。紳士の方だってことは間違いないんですもの。これがその人の名刺よ。ほら!」彼女はただならぬ秘密を帯びた一片の白い厚紙をミス・ジョウリフに手渡し、叔母が眼鏡をかけてそれを読む様子を見ていた。
 ミス・ジョウリフは名刺に焦点を合わせた。「ブランダマー卿」と、たった二つのことばが実に平々凡々とした字で書かれているだけだったが、それは魔法のような効果をあらわした。疑心暗鬼はたちどころに消え、輝くばかりの驚きが顔に広がった。そのさまは、ローマ帝国軍旗の幻を見たコンスタンティン大帝もかくやと思われた。彼女は徹頭徹尾浮き世離れした女で、現世の何ものにも価値を置かず、ひたすら来世の到来を待ち望み、彼女よりも大きな世俗的財産を持つ者にはめったに持つことを許されない堅固な志操と悟りを胸に抱いていた。彼女の善と悪に対する観念ははっきりと定められて揺るぎなく、それにそむくくらいなら喜んで火あぶりの刑に処せられただろうし、もしかしたら無意識のうちに、文明が信仰厚き者から火刑を奪ったことを嘆いていたかも知れない。とはいえ、こうした性癖にはある種のちょっとした欠点、とりわけ有名人の名前に弱いという欠点が結びついていて、この世の高貴な人々をやや過大に評価する傾向があったのである。もしも慈善市や伝道集会の際、対等の人間として彼らとともに同じ四つの壁にはさまれたなら、彼女はその素晴らしい機会に狂喜しただろう。しかしブランダマー卿が自分の家の屋根の下にいるというのはあまりにも驚くべき、予想外の恩寵で、彼女はほとんど気が動顛してしまった。
 「ブランダマー卿が!」彼女はやや落ち着きを取り戻したとき、口ごもるように言った。「ミスタ・ウエストレイの部屋が片付いていればいいんだけど。今朝、隅から隅まで掃除したんだけどね。いらっしゃるなら、あらかじめ連絡して欲しかったわ。汚れているのを見られるなんて嫌ですもの。今何をしていらっしゃるの、アナスタシア。ミスタ・ウエストレイが帰るまで待つとおっしゃったの」
 「ミスタ・ウエストレイにメモを書くそうよ。書くものを探してあげたわ」
 「ミスタ・ウエストレイの記念インクスタンドをお出ししたでしょうね」
 「いいえ、考えもしなかった。小さい黒いインクスタンドがあって、中にたっぷりインクが入っていたから」
 「なんてことでしょう、なんてことでしょう!」ミス・ジョウリフはこのとてつもない事態に思いをめぐらしながら言った。「誰も見たことのないブランダマー卿が、とうとうカランにやってきて、今この家にいるなんて。このボンネットだけ、とっておきのと取り替えてくるわ」彼女は鏡を見ながらそう言い足した。「それから御前様に歓迎の挨拶をして、なにか入り用の品がないかお尋ねするわ。ボンネットを見たら、わたしがたった今外出から戻ったところだってすぐ分かるでしょう。さもなきゃ、さっさと挨拶に来ないなんて恐ろしく怠慢な女だと思われてしまう。そうよ、ボンネットをかぶっていったほうが絶対いいわ」
 アナスタシアは叔母がブランダマー卿に面会すると思うといささかとまどいを覚えた。彼女はミス・ジョウリフの度を超した熱狂や、浴びせかけずにはいられないであろうお世辞、そして地位ある人への当然の敬意でしかないのに卑屈な追従と取られかねない賞賛のことばを思った。どういうわけかアナスタシアは自分の家族が賓客の目にできるだけ好ましく映ることを願い、一瞬、ミス・ジョウリフに、呼ばれるまではブランダマー卿に合う必要などまったくないと説得しようかと思った。しかし彼女には達観したところがあって、すぐに自分で自分の愚かしさを咎めた。ブランダマー卿がどう思おうとわたしには何の関係もないわ。お帰りになるとき、ドアを開けでもしないかぎり、再び会うことなんかありはしない。ありふれた下宿屋やその住人のことなど、彼は一顧だにしないだろうし、もしそんな詰まらぬことを考えることがあったとしても、あんなに賢い人なのだから、自分とは立場が違うことを斟酌して、叔母のことを、わざとらしさはいろいろあっても善良な女だと見抜いてくれるだろう。
 そこで彼女は抗議をせずに雄々しく静かに椅子に座り、ブランダマー卿とその訪問が引き起こしたくだらない興奮などきれいさっぱり忘れ去ろうと決意して「ノーサンガー・アベイ」をもう一度開いた。

 第八章

 ミス・ジョウリフはブランダマー卿とのおしゃべりに夢中になっているに違いない。台所で待ちながらアナスタシアは、叔母がもう降りてこないのではないかと思った。彼女は強い決意で「ノーサンガー・アベイ」に集中しようとしたが、目が活字の列を追ってもさっぱり頭に入らず、挙げ句の果てにふと気がつくと、ぱらぱらと騒々しくしきりにページをめくるばかりで、かえって空想の邪魔をしている自分に気がついたのだった。彼女はぱしんと本を閉じ、椅子から立ち上がって叔母が戻るまで台所を行ったり来たりした。
 ミス・ジョウリフは訪問者の愛想のよさについて滔々とまくしたてた。
 「本当に立派な人は例外なしにそういうものなのよ」彼女はほとばしるようにしゃべった。「いつも思うんだけど、貴族の方って腰が低いものよ。すっかりまわりに溶けこんで」ミス・ジョウリフはたった一度の行為を習慣とみなしてしまう、よくある誇張に陥っていた。いままで貴族と面とむかって話したことなどなかったのに、ブランダマー卿の第一印象を、まるで彼のような地位や立場の人を見てきた長い経験に基づく慎重な判断のように提示した。
 「どうぞ記念インクスタンドをお使いくださいって、みすぼらしい黒いやつはのけてしまったの。すぐ分ったわ、銀のほうが使い慣れていらっしゃるものにずっと近いことは。わたしたちのこと、多少はお聞き及びのようよ。中に入れてくれた若い女性はわたしの姪かってお尋ねにまでなったんだもの。あなたよ。あなたのことよ、アナスタシア。あなたかってお訊きになったのよ。きっとどこかでマーチンにお会いになったんだと思うわ。でも、わたし、あんまり予想外のご訪問なので、本当に取り乱してしまって、お話がほとんど理解できなかった。でも、わたしが落ち着けるように絶えず気を遣ってくださって、だから、わたし、とうとう軽い飲み物でもいかがですかって思い切って訊いてみたの。『御前様、お茶を一杯さし上げたいのですが、いかがでしょうか。たいしたおもてなしはできませんが、お受けいただければとっても光栄ですわ』って。そうしたら、あなた、なんてお答えになったと思う?『ミス・ジョウリフ』――あの方はすごく魅力的な表情をなさるの――『そうしていただければ、こんなにありがたいことはありません。聖堂を歩き回ってとても疲れていましてね。それにもうちょっと時間をつぶさないとならないんです。夜の汽車でロンドンに行くので』お若いのに大変ね!(八十才を越えた先代しか知らないカランでは、ブランダマー卿はまだ若いのである)きっと何か公のお仕事でロンドンに呼ばれているのよ――上院とか宮廷とか、そんな関係だわ。他人に気を遣っていらっしゃるようだけど、同じくらいご自分にも気を遣っていただきたいわ。すごく疲れていらっしゃるみたいだし、顔つきも寂しそうなんですもの、アナスタシア。それでいてとっても思いやりがあるの。『是非お茶を一杯いただきたいです』――一語一句この通りにおっしゃったのよ――『でもそれを持ってくるのにまた階段を登ることはありませんよ。わたしが下に降りて、一緒にいただくとしましょう』ですって。
 『申し訳ございません、御前様』とわたしは答えたの。『それはご容赦ください。この家はみすぼらしすぎますし、お給仕をさせていただくのは名誉なことですわ。午後の会合から戻ったばかりですので、わたしの外出着は大目に見ていただければ嬉しいんですが。姪がよくわたしを手伝うと言ってくれますけど、でも今だって彼女の若い足より、私の老いぼれた足のほうが元気だって言ってやるんです』」
 アナスタシアの頬が赤くなったが何も言わなかった。叔母は話しつづけた。「そういうわけだから、さっそくお茶を持って行くわ。あなたがお茶を淹れてもいいわよ。でもお茶の葉はいつもよりたっぷりね。上流階級はそういうことでけちけちしないし、あの方もきっと濃いお茶を飲みつけていると思うわ。ミスタ・シャーノールのティーポットがいちばんいいんじゃないかしら。わたし、銀の角砂糖ばさみとJの字が入ったスプーンを一本取ってくる」
 ミス・ジョウリフがお茶を持って行こうとしたとき、玄関でウエストレイに出くわした。聖堂から戻ってきたばかりの彼は、女主人の挨拶に少なからず胸騒ぎを覚えた。彼女は盆を置くと不吉な仕草と「まあ、ミスタ・ウエストレイ、何があったと思います」ということばで彼をミスタ・シャーノールの部屋に招き入れたのである。彼が最初に思ったのは、何か深刻な事故が起きたのではないか、オルガン奏者が死んだとか、アナスタシア・ジョウリフが足首をくじいたのではないかということだった。何が起きたのか、本当のことを知ったときはほっとした。彼はミス・ジョウリフが訪問者にお茶を運ぶのを数分待って、それから自分も階段を上がった。
 ブランダマー卿が立ち上がった。
 「勝手にお部屋にあがりこんだりして申し訳ありません。わたしのことは、もう下宿のご主人からお聞きになったでしょうね。勝手させていただいた事情についても。言うまでもありませんが、わたしはカランに関係することすべてに興味を持っています。この町のことも早速詳しく知ろうと思っています――それからここの住人のことも」彼はちょっと考えてからそう言い添えた。「まったくお恥ずかしいのですが、今は何も知らないのですよ。しかしこれは長いあいだ外国にいたせいなのです。ほんの数ヶ月前に戻ってきたばかりですから。しかしそんなことはわざわざ申し上げる必要はないでしょう。実はここに来たのは、大聖堂で行われることになっている修復計画についていくつか教えていただきたかったからなのです。そんな計画があるとは、先週まで知りませんでした」
 彼の口調は落ち着いていて、澄んだ低い声がそのことばに重みと誠実さを与えていた。きれいに髭を剃ったオリーブ色の顔、整った目鼻立ちと黒い眉を見て、ウエストレイはしゃべりながらスペイン人のようだと思った。その印象は相手の慎み深く、謹厳な態度によって強められた。
 「わたしに分かることなら何でも喜んでお話しますよ」と建築家は言い、棚から見取り図や書類を下ろした。
 「残念ですが、今晩は時間がありません」とブランダマー卿は言った。「もうすぐロンドン行きの汽車に乗らなければならないのです。しかしよろしければ早い機会にもう一度ここに来ようと思います。たぶん、そのとき一緒に聖堂に行けると思います。あの建物にはとても愛着を感じているんです。建物自体の壮麗さもさることながら、昔の思い出もありましてね。子供の頃、まあ、ときにはとてもみじめな子供時代だったのですが、よくフォーディングからここまで遊びにきて大聖堂のあちこちをぶらぶらしながら何時間も過ごしたものです。螺旋階段や、暗い壁廊や、いわくありげな障壁や信者席を見ているとロマンチックな夢にひたってしまい、今でもその夢から完全に覚めてはいないんじゃないかという気がします。あの建物は大幅な修理の必要があると聞きました。素人目には変わったところは何もないように見えますけど。昔からずっと荒れた感じがしていたせいでしょうか」
 ウエストレイは最終的にやらなければならないこと、そして今取り組もうとしていることを、手短に説明した。
 「こんな具合に工事の計画は立ててあります」と彼は言った。「袖廊の天井がいちばん緊急を要することは間違いないんですが、ほかにも長く放置しておくわけにはいかないところが多々あるのです。塔の安定度にも大いに疑問があります。もっともわたしの上司はそれほど深刻には考えていないようですが。それでいいのかもしれませんけどね。というのはわれわれは資金難でにっちもさっちもいかない状態だからです。来週慈善市を開いて資金を募ろうとしているんですが、慈善市を百回催しても必要な金の半分も集まらないでしょう」
 「その手の問題があることは聞いています」訪問者は考えこむように言った。「今日礼拝が終わって聖堂を出るときにオルガン奏者に会いました。わたしの正体を知らずに、何もかもブランダマー卿の責任であると、とても厳しい意見を述べていましたよ。特にオルガンを直すべきだとね。南袖廊(註 原文では「北袖廊」になっている)に関しては、わたしたちにある種の道義的責任があると思います。あそこを墓所として付属させましたから。確かブランダマー側廊と呼ばれていたと思います」
 「ええ、今でもそう呼ばれていますよ」とウエストレイは答えた。会話がこういう方向に進んだことを彼は喜び、機械仕掛けの神があらわれたと思った。ブランダマー卿の次の質問はさらに彼を勇気づけた。
 「袖廊の修復にはいくらかかるとお考えですか」
 ウエストレイは書類をかき回して、表紙にカラン大聖堂の絵が載っている、印刷された小冊子を探しだした。
 「これはサー・ジョージ・ファークワーの見積もりです」と彼は言った。「寄付を呼びかけるために各方面に送ったパンフレットなんですが、印刷費をまかなうことさえできませんでした。今どきこうしたことに金を出そうなんて人は一人もいません。ああ、これですね――南袖廊に七千八百ポンド(註 原文では「北袖廊」)」
 短い沈黙がつづき、ウエストレイはまごついた。総額がブランダマー卿の予想を越えていたのだろう。いきなり金額を示したせいで、せっかくの寄付者の意気込みに水をかけてしまったのではないかと心配で顔が上がらなかった。
 ブランダマー卿は話題を変えた。
 「オルガンを弾いていたのは誰なんですか。あの人の態度は結構気に入ってしまいました。相当きついことをいわれましたよ。悪気はないんでしょうけど。有能な音楽家のようですね。でも楽器は無惨な有様だとか」
 「確かにとても有能なオルガン奏者です」とウエストレイは答えた。ブランダマー卿が寄付する気でいるのは明らかだった。袖廊の修復費用を出すところまで気前がよくないにしろ、少なくともオルガンには幾ばくかの金を出すのではないだろうか。建築家は友人ミスタ・シャーノールのために力をつくそうとした。「彼はとても有能なオルガン奏者です」と彼は繰り返した。「シャーノールといって、この下宿に住んでいるんです。呼んできましょうか。オルガンのことをお訊きになりますか」
 「いやいや、今は止めておきます。時間がありません。別の日に話し合いますよ。きっとお金はそんなにかからないでしょうね、オルガンの修理には――他の費用と比べればたいしたことはないでしょう。わたしの祖父、亡くなったブランダマー卿に、この修復費用の話を持ちかけなかったのですか」
 寄付に対するウエストレイの期待は再び打ち砕かれ、こんなふうに話をそらすのは彼にはいささか蔑むべきことのように思われた。ブランダマー卿が不必要なまでに愛情をこめて聖堂を賛美したすぐあとだっただけに見苦しい感じがした。
 「ええ、参事会員のパーキン、ここの主任司祭が先代のブランダマー卿に手紙を書いて、聖堂修復費用の寄付をお願いしたんですが、梨のつぶてでした」
 ウエストレイはその口調に皮肉めいたものを含ませたのだが、しゃべり終わるよりも先に自分の無礼なことば遣いを後悔していた。しかし人によっては怒るようなことを言ったのに、相手は少しも気にしていないようだった。
 「ああ、わたしの祖父は実に嘆かわしい老人でした。さあ、もう行かないと、汽車に遅れてしまいます。この次カランに来たときはミスタ・シャーノールに紹介してください。聖堂を見せてくださるって約束でしたよね。よろしいですか」
 「ええ――ああ、もちろんですよ」とウエストレイは言ったが、さっきほど誠意のこもった話し方ではなかった。彼はブランダマー卿が寄付の約束をしなかったことに失望し、彼に付き添って階段下まで降りるときは、半時間ほど品物を物色したあと、考えてまた来るなどと言って帰ってしまうご婦人をもてなした、店員のような気分だった。
 ミス・ジョウリフは台所の階段に立って待っていたおかげで、玄関ホールでまったく偶然にもブランダマー卿と会うことができた。彼女は新たな敬意の表明とともに正面玄関のドアを開けて彼を外に導いた。彼女は彼がけちくさく寄付を回避したことを知らなかったし、彼女にとって御前様は何があろうと御前様なのである。彼は立ち去るとき彼女と握手して、今度カランに来たときもお茶をご馳走してくださいねと言い、彼がふりまくあらゆる魅力と親切に最後の仕上げを施した。
 ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジの外の階段を降りていくとき、日はかげりはじめていた。いつもより早く日が暮れたのだろう、訪問者が上の階にあがってすぐ、アナスタシアは台所が暗すぎて本が読めないことに気がついた。そこで彼女は本を持ってミスタ・シャーノールの部屋へ行き、窓辺の席に座った。
 そこはミスタ・シャーノールが外出しているときも、家にいるときも、彼女が好んでよく行く場所だった。ミスタ・シャーノールは子供のときから彼女を知っていたし、作曲しているとき静かに読書する優雅な娘の姿を見るのが好きだったのだ。奥行きのある窓辺の腰掛けはペンキを塗った樅の板で作られていた。背に沿って色あせたクッションが垂れ下がっていて、窓が開いているときは上に持ちあげ窓枠に載せることができ、夏の夜など、誰でも肘を休めながら外を眺めることができた。
 夕闇が垂れこめていたが、窓はまだ開いていた。しかし窓枠の上にちょこんとあらわれたアナスタシアの頭は、下までおろされたブラインドに隠され、外からは見えなかった。このブラインドは緑色をした、幾つもの小さな木の羽根板でできており、何度も夏の太陽に当たって色はかすれ、火ぶくれができていた。壺形の真鍮のつまみを回すと隙間が空いて、部屋の中から外がのぞけるようになっている。
 しばらく前から読書ができないくらい暗くなっていたのだが、アナスタシアは窓辺の席に座りつづけた。ブランダマー卿が階段を降りてくる音を聞きつけると、通りの景色が見えるように真鍮のつまみを回した。叔母が玄関で滔々と同じお世辞を繰り返すのを聞き、暗闇の中で顔が赤くなるのを感じた。彼女が赤面したのはウエストレイが重要人物にむかってあまりにもぞんざいでなれなれしい口を利くのが癇に障ったからでもある。そして顔を赤くするという自分の愚かさに対して赤面した。正面玄関のドアがようやく閉まり、ガス灯の明かりが階段を降りるブランダマー卿の活力のある姿と、まっすぐで四角い肩に当たった。三千年前、もう一人の乙女が側柱とドアのあいだから、父の宮殿を去るもう一人の偉大なよそ者のまっすぐな広い背中を見ていた。しかしアナスタシアはナウシカアより幸運だった。バイエケス人の船にむかいながら、ユリシーズが後ろを振り返ったという記録はないけれど、ブランダマー卿は振り返って後ろを見たからである。
 彼は振り返って後ろを見た。アナスタシアには彼が火ぶくれのできた小さな羽根板を通してまっすぐ彼女の目を覗きこんだように思われた。もちろんまことにつまらない町の、まことにつまらない下宿屋にいる、まことに愚かな女主人の姪である、まことに愚かな娘が、日よけの後ろから彼を見ているなど、彼に推測できようはずがなかった。しかし彼は振り返って後ろを見たのだ。アナスタシアは彼が帰ったあとも半時間あまりその場から動かなかった。またたくガス灯の光りの中に垣間見た厳しく、目鼻立ちの整った顔のことを考えていたのだ。
 それは厳しい顔だった。彼女は暗がりの中で目を閉じ、何度もその顔を思い浮かべた。彼女にはその厳しさが分かった。厳しくて――ほとんど残酷ですらあった。いや、残酷ではない。ただ情け容赦ない決意を秘めているのだ。目的を達するために必要ならば残酷さえも辞さない決意を。このように彼女は小説風のやり方で議論を重ねた。ヒロインたるもの、この程度の議論ができなくてどうしようと彼女は思っていた。ヒロインは、どれほど謎めいた顔であっても一目でその仮面をはぎ取り、「涙なしの読み物」(註 イギリスの初等読本)の頁を読むように、そこに書かれた情熱を明瞭に読み取ることができなければ、残念ながらその気高い役割を勤める資格がないのである。彼女、アナスタシアにそのくらいの単純な能力が欠けているはずがあるだろうか。いや、彼女は男の顔つきを一瞬で見定めた。あれは残酷なまでに固く決意している顔だわ。厳しいけれど、でも、なんてハンサムなのかしら!彼女ははじめて戸口で会ったとき、灰色の目が彼女の目とぶつかり、その力で彼女の目を眩ませてしまったことを思い出した。十代の田舎娘にしては驚くべき洞察、驚くべき心理の読み取りである。しかし嬰児《をさなご》や乳飲み子の口によってこそ、力の基《もとゐ》は永遠に定められるのではなかっただろうか。(註 詩篇から)
 ドアが勢いよく開かれ、空想は破られた。ミスタ・シャーノールが部屋に入ってきたとき、彼女は椅子から飛び上がった。
 「おやおや!どうなっているんだね。火は焚かず、窓は開けっ放し。お嬢さんはサー・アーサー・ベディバ(註 アーサー王伝説に出てくる忠実な騎士)を夢見て風邪をおめしになる――えらく詩的な鼻風邪じゃないかね」
 彼のおしゃべりは石筆をとがらす音のように彼女の気分を不快にした。彼女は何も言わず、脇をすり抜け、後ろ手にドアを閉めると、ぶつぶつ言う彼を暗がりに残して去った。
 ブランダマー卿の訪問という興奮は、ミス・ジョウリフを疲労困憊させてしまった。彼女は殿方たちに夕食を持っていき――ミスタ・ウエストレイはその晩ミスタ・シャーノールの部屋で食事をした――アナスタシアにちっとも疲れていないと請け合ったのだが、しかし程なくそんなそぶりもできなくなって、首もたれが左右に張り出した背の高い椅子に、安らぎを求めて避難せざるを得なかった。この椅子は台所の隅に置いてあって、病気とかほかの緊急事態のときにしか使われないものだった。食事の片付けを促す呼び鈴が鳴ったが、ミス・ジョウリフはぐっすりと寝こんでいて、その音が聞こえなかった。アナスタシアは通常は「給仕」をすることを許されていなかったが、疲労の溜まりすぎた叔母を起こしてはならないと、自分でお盆を持って階段を上がった。
 「なかなかの美男子ですね」彼女が部屋に入ったとき、ウエストレイがそう言っていた。「しかしそのほかの点ではあまり好ましい印象を持たなかったな。聖堂のことをやけに熱心に話していましたよ。そのあと五百ポンドの寄付をしてくれたのなら、それも大いに結構なんですがね。しかしいくらうっとりしてしゃべっても、それを現実のものにするために半ペニーだって払う気がないんだからどうしようもない」
 「あいつは爺さんそっくりだ」とオルガン奏者は言った。

 うるう年 二月は二十九日まで
 支払いは 三十日《みそか》にするぞとブランダマー

 「ここらじゃそういっているのさ。今日の午後、さんざん言ってやったよ。まさかブランダマーとは知らなかったから、思い切りこっぴどくやっつけてやった」
 汚れた皿や夕食の残り物を盆に集めながらアナスタシアの頬は激しく色づき、胸の中にはさらに激しい感情が渦巻いていた。彼女は懸命に動揺を隠そうとしたが、そうすればそうするほどいっそう動揺は募った。オルガン奏者は彼女の方に視線をむけることなく、じっと様子をうかがっていた。彼は抜け目のない男で、彼女がテーブルを片付けおわるまでに、一時間前、彼によって破られたあの夢の中で誰が主人公を演じていたのか察しをつけてしまった。
 ウエストレイはミスタ・シャーノールのパイプからただよってくる煙を片手で払った。
 「誰か先代の卿に修復工事の話を持ちかけなかったのかって質問されたので、主任司祭が手紙を書いたけど梨のつぶてだったと言ってやりましたよ」
 「手紙は先代の卿に出したんじゃないよ」ミスタ・シャーノールが口をはさんだ。「他でもないあいつに宛てて出したんだ。あいつに出したことを知らなかったのかい?先代のブランダマーに手紙を出したって紙とインクの無駄だってことは皆知っている。そんな馬鹿なことをしたのはわたしだけだよ。一度、オルガン修理の嘆願書を印刷し、名簿の筆頭に署名して欲しいと一部送りつけたことがある。しばらくして十シリング六ペンスの小切手を送ってきたよ。わたしは礼状を書いて、オルガン椅子の脚が折れたら、これで直せますわいと言ってやった。もっともやつのほうが一枚上手だった。小切手を現金に換えようと銀行に行ったら、支払い停止になっていたんだ」
 ウエストレイは細くて甲高い声で愉快そうに笑ったが、それがアナスタシアには、あけすけな馬鹿笑いよりいらだたしく感じられた。
 「聖堂に七千八百ポンドかかると聞いて躊躇したとき、それならあなたのためにオルガンを何とかしてもらおうと思ったんですよ。わたしはあなたがこの家に住んでいると言ったんです。お会いになりませんかって。『いやいや、今は止めておきましょう』とこう言いましたよ。『別の日に』ってね」
 「爺さんそっくりだ」オルガン奏者はもう一度苦々しく言った。「採れるものなら、あざみから無花果を取るがいい(註 マタイ伝から)。しかしブランダマーから金をせしめようとは思うな」
 皿を取り上げるとき、アナスタシアは親指をカレーの中に突っこんだことも気がつかなかった。彼女はとにかくその場を離れ、二人の毒舌の聞こえないところへ行き、こっそり隠れて胸のつかえをおろしたくてたまらなかった。ミスタ・シャーノールは部屋を出ようとする彼女にむかってもう一撃を放った。
 「じいさんに似ているのは握り屋というところだけじゃない。じいさんは女たらしで悪名高かったが、今度のはそれに輪をかけた女たらしだ。身持ちの悪いやつらさ――どいつもこいつも」
 ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジによい印象を残せなかったのは確かに不運だった。若い娘は彼の顔つきを厳しく残酷であると判断し、建築家は彼のけちな性格を見抜き、オルガン奏者は断固彼を敵に回す覚悟をしたのだから。そうしたことを何一つ知らずいたのは彼の心の平安にとって幸いであった。いや、もしかしたら、そうしたことすべてを知っていたとしても彼はあまり悩まなかったかも知れない。彼のことを褒める唯一の人間はミス・ジョウリフだった。彼女は一寝入りしたあと顔を赤らめ、しかし元気を回復して起きあがった。そして夕食の食器が洗って片付けられていることに気がついた。
 「あらまあ、あなた」彼女はたしなめるように言った。「わたし、寝こんで全部あなたにやらせてしまったのね。こんなことしちゃいけないわ、アナスタシア。起こしてくれればよかったのに」だが肉体は弱し(註 マタイ伝から)。彼女はあくびを隠すために、とっさに手を顔の前に持っていかなければならなかった。しかし彼女の心は本能的にその日の大事件のことへと戻っていった。彼女は穏やかに振り返って言った。「とっても立派な方ね。威厳があって、それでいて愛想がよくて。おまけにとびっきりハンサムだったじゃない」

 第九章

 こうした注目すべき出来事のあった翌朝、郵便屋がベルヴュー・ロッジに配達した手紙の中に、恐ろしいほど興味をそそる封筒が一通混じっていた。垂れ蓋の上に宝冠模様が黒く小さく押され、表には「カラン、ベルヴューロッジ、エドワード・ウエストレイ様」と太い読みやすい字で書かれていた。それだけではない。左下の隅には「ブランダマー」という署名がはいっていたのだ。たった一語ではあるが、それはあまりにも神秘的な意味に満ち、アナスタシアは胸をときめかせながら手紙を叔母に渡し、建築家の朝食と一緒に上の階へ持って行ってもらった。
 「お手紙ですわ、ブランダマー卿から」ミス・ジョウリフは盆をテーブルに置きながら言った。
 しかし建築家はただうなっただけで、定規とコンパスを使って忙しく製図に取り組みつづけた。ミス・ジョウリフがかくのごとき重要な書状の内容に燃えるような好奇心を感じなかったとしたら、彼女は女性を超越した存在だっただろう。それに貴人からの手紙をテーブルの上に放っておくのは、彼女にしてみれば、ほとんど神を冒涜するにも等しかった。
 朝食を並べるのにそのときほど時間がかかったことはなかったが、それでも例の手紙はつつましい燻製ニシンを覆うブリキ蓋の横に置いてあった(栄光がいかに無価値なものと隣り合っていることか)。哀れなミス・ジョウリフはウエストレイにことの重大さを正しく認識させようと部屋を出る前に最後の努力をした。
 「お手紙が来てますよ。ブランダマー卿からだと思いますわ」
 「ええ、ええ」建築家は突っ慳貪に言った。「すぐ読みますよ」
 こうして彼女は打ちのめされて引き下がった。
 ウエストレイの無関心は一部は見せかけでしかなかった。彼は他人はどうあれ、自分は階級という人工的な身分差など意に介さない、農民に感銘を受けないように貴族にも感銘を受けない、そういうところを見せたかったのである。この超然とした無関心はミス・ジョウリフが部屋を出たあともつづいた。彼は人生を真面目に生きようとし、自分に対する義務は少なくとも隣人に対する義務と同じくらい大切だと思っていた。決意は二杯目のお茶まで持続し、そこで彼は封を切った。

 拝啓(と手紙は始まっていた)
 昨日のお話ではカラン大聖堂の南袖廊(註 原文では北袖廊)の修復に7800ポンドかかるということでした。この費用はわたしが負担しますので、すでに寄付として集めたお金は別の修復目的に回していただきたいと思います。また建物全体を根本的に修復するのに必要な追加費用もすべて差し出す用意があります。サー・ジョージ・ファークワーに連絡を取っていただき、以上の事情を考慮の上、修復計画を見直すようお取りはからい願えないでしょうか。次の土曜日にカランへ参ります。午後五時頃、お宅に伺いますので、そのあと聖堂を見せていただければ幸いです。
             敬白
 ブランダマー

 ウエストレイは手紙を一気に斜め読みした。平凡に一つ一つ字句を追って理解したというより、直感的に内容を感じ取ったのだった。また、小説では普通、重要な手紙は読み返すことになっているのだが、彼はそれもしなかった。ただ手紙を手に持ち、考えごとをしながら思わずそれをくしゃっと丸めこんでしまった。彼は驚き、喜んだ――ブランダマー卿の申し出によって活動の幅がいちだんと広がり、また自分がこのように重要な通知の伝達役に選ばれたことを喜んだ。要するに彼はうれしさと当惑の入りまじった興奮、思いもよらぬ幸運が訪れたとき、よほど強い心の持ち主でないかぎり見舞われる精神的陶酔を感じ、くしゃくしゃの手紙を握り締めたまま、ミスタ・シャーノールの部屋へ降りていったのである。燻製ニシンはおいしそうな匂いをいたずらに朝の空気にまき散らした。
 「たった今、びっくりするようなニュースが届いたんですよ」彼はドアを開けながら言った。
 ミスタ・シャーノールは不意を打たれることはなかった。ミスタ・ウエストレイ宛にブランダマー卿から手紙が来たことをミス・ジョウリフから聞いていたので、彼は「ほう!」と言っただけだった。その口調には、いとも簡単に平常心を失うウエストレイの落ち着きのなさを哀れむような響きがあった。そしてこの世のいかなる大災難も、彼、ミスタ・シャーノールを驚かすことはないのだと宣言するように「で、どうしたのかね」と付け加えた。しかし興奮したウエストレイは冷や水を浴びせられてもそれをはじき返し、喜悦満面、大声で手紙を読み上げた。
 「ふうむ」とオルガン奏者は言った。「別にどうということでもあるまい。七千ポンドくらい、あいつにとっちゃ、はした金だ。それになすべきことをなしたるとき、われらは無益なる僕なり、さ(註 ルカ伝から)」
 「七千ポンドだけじゃありませんよ。修復のためならいくらでも出すと言っているんですよ。三万ポンド、四万ポンド、いや、もっと出すかも知れない」
 「その金を自分の懐に、なんて思わないかい」とオルガン奏者は言い、眉をつり上げ、ウインクをして見せた。
 ウエストレイはいらいらした。
 「まったく、あの人がすることに皮肉しか言わないなんて、了見が狭すぎますよ。昨日はけちんぼと言ってけなしました。今日はそれが間違いだったと潔く認めましょう」彼は純粋だが、はなはだしく世間知らずで、そうした人間に特有の過度に几帳面な良心にさいなまれ、後悔の念にかられていたのだ。「とにかくわたしは間違っていました。袖廊の修復費用の話をしたとき、彼が躊躇した意味を完全に誤解していたんです」
 「きみの騎士道的精神は大いに賞賛されるべきだ」とオルガン奏者は言った。「意見をころりと変えることができるなんてすごいじゃないか。わたしは最初の意見に固執するよ。口から出まかせを言っているだけさ。金を払う気なんかないか、さもなきゃ何か魂胆があるんだ。わたしはあいつの金なんか船竿の先でつつくのも嫌だね」
 「ええ、そうでしょうとも」ウエストレイは小学生のように大げさな皮肉っぽい口調で言った。「オルガンを直すのに千ポンド出すと言っても、あなたは一銭も受け取らないんでしょうね」
 「千ポンド出すなんてまだ言ってないぞ、あいつは。もしもそう言ってきたら嫌味を言って追い返してやる」
 「そいつは寄付を考えている人には心強い話だ」ウエストレイはあざ笑った。「意地ずくで寄付を申し出なくちゃならないでしょうね」
 「さて、わたしはもうちょっと楽譜を写さないとな」オルガン奏者は素っ気なく言い、ウエストレイは燻製ニシンのもとへと引き返した。
 このようにミスタ・シャーノールは気前のよい申し出に対して情けないほど感謝の意をあらわさなかったが、カランの他の人々はその例に追従するそぶりも見せなかった。ウエストレイはうれしさのあまり素晴らしい知らせを打ち明けずにはいられなかった。また秘密にしなければならないいかなる理由もなかった。彼は石工頭、教会事務員のミスタ・ジャナウエイ、牧師補のミスタ・ヌートにこのことを告げ、主任司祭の参事会員パーキンにはいちばん最後に話をした。もっとも彼にこそ、いちばん最初にニュースを伝えるべきであったことは言うまでもないけれど。そういうわけで聖セパルカ大聖堂の組み鐘がその日の午後三時に「新しい安息日」を演奏する頃には、町中の人がブランダマー卿の帰還と、大聖堂修復工事費用負担の約束を知ったのだった。大聖堂は誰にとっても大きな誇りであったが、自分の懐から寄付金を出すという、疎ましいことを考える必要がないとき、その誇りはいやがうえにも高まった。
 参事会員パーキンは腹を立てていた。彼が午後一時にお昼を食べに帰ってきたとき、ミセス・パーキンはそのことに気がついたが、賢明な女性である彼女は、すぐさま不機嫌の理由を問いただそうとせず、経験の示すところ彼の気持ちをもっともなだめる話題へと会話を誘導しようとした。その中でもサー・ジョージ・ファークワーの歴史的訪問と、主任司祭の提案に対して彼が敬意を示した話は主要な位置を占めていた。ところがこの偉大な建築家の名前を出すと、それを合図に夫は新たな怒りを顔にみなぎらせるのだった。
 「サー・ジョージ・ファークワーにはもう少しご本人みずから聖堂工事を監督してもらいたいものだ。彼の代理の、ミスタ、ええと、ミスタ・ウエストレイは、経験不足もはなはだしい。建築の知識も足りないし、恐ろしくうぬぼれた若造で、身の程をわきまえずいつもしゃしゃり出てくる。彼は今朝、実に奇っ怪な手紙を持ってやってきた。なんとブランダマー卿からの手紙だよ」
 ミセス・パーキンはナイフとフォークを置いた。
 「ブランダマー卿からの手紙ですって」彼女は驚きを隠そうともしなかった。「ブランダマー卿からミスタ・ウエストレイに手紙ですって!」
 「そうだよ」主任司祭はつづけた。自分のことばが大きな衝撃を与えたことに満足し、不愉快な気分はいくらか薄らいだ。「その手紙で卿はまず南袖廊(註 原文では北袖廊)修復の費用を負担すると言い、それから建物の他の部分も修復の必要があるなら、その費用の不足分を提供すると申し出たのだ。むろんわたしは上院議員がすることに疑問をさしはさむような真似はしないよ。しかし同時に今回の話の進め方は極めて異例だと言わざるを得ない。このような手紙を主任司祭で、神聖な建物の正式な管理人にではなく、たかが工事監督に送るなんて、失礼きわまりないではないか。わたしとしては全面的に反対し、この申し出をお断りしたいくらいだ」
 彼の顔は崇高な義憤の色を帯び、妻にむかって公開の会合で話すようにしゃべった。たとえ天が落ちようとも正義は行わしめよ。参事会員パーキンは厳格なる礼節の道から一歩たりともはずれるわけにはいかぬ。心の奥底では、差し出された贈り物を断るなど、到底不可能なことは分かっていたが、しかし自分のことばのあまりの勇ましさに、初期キリスト教徒がライオンから身を守るための、ひとつまみの香料を風に吹き飛ばしたように、ついみずからの手でブランダマー卿の金を床にたたきつけるさまを思い描いたのだった。
 「この申し出はお断りしなければならんと思う」彼は繰り返した。
 ミセス・パーキンは夫をよく理解していたし――恐らく彼が自分のことを知る以上に深く理解していた――おまけにこの議論が単に形式的なものに過ぎないことも見抜いていた。どれほど本気で申し出を断るような素振りを見せても、実は彼女がそれを決して許さないことを確信しながら言っているのだ。しかし彼女は相手に合わせて、真剣に賛成するふりをした。
 「あなたがためらうのも無理はないわ。あなたを知る人なら誰でも、ためらうのが当然だと思うでしょう。そんな大切な申し出を、あの厚かましい若者から伝えられるなんて、侮辱以外の何ものでもない。それにブランダマー卿自身、いかがわしい評判のある方ですからね、神聖な目的のためとはいえ、彼から何かを受け取ることがどの程度望ましいことなのか分かりはしません。この申し出はお断りするのが正しいのかも知れませんわ。少なくとも時間をかけて考えるべきよ」
 主任司祭はこっそりと妻を見た。あっさりと自分の意見が受け入れられたので、やや慌てていたのである。彼は妻ががっかりすることを望んでいた――そして自分の高邁な決意を良識ある議論で揺さぶって欲しかったのだ。
 「うむ、それでふと思い出したよ、断るのを難しくしているいちばん厄介な理由を。つまり、その、神聖な目的という点なんだ、自分の判断に疑いを抱いてしまうのは。この贈り物をわたしが断ることで聖堂が損害を被るとしたら、これは考えるのもつらい。断るのはもしかしたら自分自身のいらだちや個人的な動機に屈服するということなのかも知れないね。より尊い義務のためには自分の誇りを捨てなければならない」
 彼は最上の説教檀的態度で締めくくり、茶番はすぐに終わった。贈り物は受け取らなければならないこと、ミスタ・ウエストレイについては、ブランダマー卿がかくも不適切な伝達経路を用いたのは彼の仕組んだことに違いないから、しかるべき方法でそのおこがましさを罰すること、そして主任司祭はやんごとなき寄付者に直接感謝の手紙を書くことが合意された。かくして昼食後、参事会員パーキンは「書斎」に引きこもって、そうした場合にふさわしい、大げさな言い回しの手紙を書きあげた。その中で彼はありとあらゆる高潔な動機や美質をブランダマー卿に付与し、きざったらしいことこの上ない祝福を彼の頭に浴びせかけた。お茶の時間にこの手紙はミセス・パーキンによって目を通され添削された。彼女は仕上げに独自のことばを付け加えた。特に前口上には、参事会員パーキンが現場監督から聞いたところによると、ブランダマー卿はある申し出をするために参事会員パーキンに手紙を書きたいとおっしゃったが、まずそのような申し出が参事会員パーキンの意にかなうかどうか、現場監督にお尋ねになったそうですね、という文言を加え、また結語には、この次カランにお出での際は司祭館でおもてなしを受けてくださいますように、と書き添えた。
 手紙がフォーディングのブランダマー卿のもとに届いたのは、翌日の朝、遅い朝食を取りながらテーブルの上のコーヒーカップの横にウェルギリウスを開いているときだった。彼はにこりともせず主任司祭の堅苦しい美文を読み、すぐに格別丁重な返事を書こうと思った。それから注意深く手紙をポケットに入れ、暗記しようとしていた農耕詩第一巻の「われらが父祖の神よ、祖国の神々よ、ロムルスよ」に戻った。招待のことはすっかり頭から追い出され、次の週、カランに着くまで思い出されることはなかった。
 ブランダマー卿の訪問と聖堂修復に対する申し出は、一週間のあいだ、カランの人が寄ると触ると噂する、お決まりの話題となった。幸運にも彼を見たり、話をした人は、その人となりを議論し意見を交換した。外見から声から物腰まで、どんな些細な点も彼らは逃すことがなかった。この関心は感染力があり、卿をまったく見たことのない人までもが興奮のあまり、卿に通りで呼び止められ、建築家の下宿へ行く道を聞かれたと言い出す始末で、卿があまりにも多くの印象的、かつ信用すべき発言をしているものだから、あの晩、彼がベルヴュー・ロッジにたどり着いたのが不思議なくらいだった。教会事務員ジャナウエイは重要人物との会話の機会を逃し、悔しがることしきりだったが、見知らぬ男の灰色の目が彼をナイフのように刺し貫くのを感じたとか、自分は御前様が聖歌隊席に入るのを止める振りをしただけで、相手の堂々たる要求態度を見て、自分の直感が正しいことを確かめたかったのだ、などと強調した。ほかでもねえ、ブランダマー卿とお話しているこたあ、しょっぱなから分かっていたのさ、と彼は言った。
 ウエストレイはこの一件の重要性にかんがみ、ロンドン行きを決意した。ブランダマー卿の寄付によって可能になった修復計画変更について、サー・ジョージ・ファークワーと相談をするためである。しかしミスタ・シャーノールは下宿に残って、ミス・ジョウリフの追想や憶測や賞賛を聞いていた。
 はじめてこのニュースに接したときは無関心を装ったにもかかわらず、オルガン奏者は誰かが来ると驚くくらいみずから進んでこの話題を取り上げた。ミス・ジョウリフに対しても彼女がブランダマー卿のことを話しているかぎり、いつものようないらいらした様子は微塵も見せなかった。彼はそのこと以外話ができないのではないかと、アナスタシアは思った。沈黙したり話題を変えて、彼の話をさえぎろうとすればするほど、いっそう辛辣な攻撃が卿に対して再開されるのだった。
 聖堂修復のために寄付をし、しきたりを踏みはずしてしまったこの不幸な貴族に何の関心も示さない唯一の人間はアナスタシアその人だった。心の広いミス・ジョウリフでさえ、このときばかりは姪の冷淡さを咎めずにはいられなかった。
 「ねえ、あなた。立派なすぐれた行いをそんなふうに無視するなんて、若い人であろうと年寄りであろうと、いけないことじゃないかしら。ミスタ・シャーノールは神様の思し召した境涯に不満を持っているみたいだから、褒めるべきものを褒めないことがあったとしても驚かないわ。でも若い人はそうはいかない。わたしが若いときに誰かがウィドコウム大聖堂の修復費用を寄付したら――特に貴族が寄付したら――きっとその――新しい服を買ってもらったみたいな喜びを、それに近いものを感じると思うわ」彼女は「きっとその方がわたしに新しい服を買ってくれたみたいな」と言いそうになったのを別の表現に変えたのだった。いくら説明に過ぎないとはいえ、貴族が自分に新しい服を買ってくれるなど、大それた不適切なことのように思われたのだ。
 「わたしなら有頂天になったと思うわ。でもねえ、あの当時はみんな先見の明がなくて、修復なんて考えもしなかった。わたしたちは日曜日ごとにとっても座り心地のいい椅子に座っていたものよ。クッションと膝布団がついていて、通路は板石敷き――表面がすり減った普通の板石敷きで、陶磁のタイルなんか全然使っていないの。タイルは見栄えはするけど、いつも滑りそうな気がしてねえ。あんなのはないほうがいいわ。固すぎるし、ぴかぴかしすぎ。あの頃教会にあったのはとても時代遅れなものばかりよ。みんながまわりの壁に血縁の銘板をかけたり、黒大理石の石版の上に白い小箱を載せたものとか、壺とか、天使の頭像とかを置いてるの。わたしの席の真向かいには、名前は忘れたけど、柳の木の下で泣いている可哀想な貴婦人の絵がかかっていたわ。去年の冬に町の会館で若い男の方が『教会を美しくするために』っていう講演をして、その中で言っていたけど、確かにああしたものは神聖な場所にふさわしくないわね。あの方は『壁面の火ぶくれ』と呼んでいたわ。でもわたしの若い頃はそれを取っ払おうなんて誰も言わなかった。そのためのお金を出す人がいなかったからだと思うわ。それが、ほら、ご親切にもまだお若いブランダマー卿が気前よく寄付をしてくださって。きっとカラン大聖堂はもうすぐ見違えるようになるでしょう。あの講演者も言っていたけど、わたしたち礼拝のときはしなだれるような姿勢をしちゃだめなのよ。あの方は『しなだれる』ってことばを使っていた。ベーズと膝布団は取り払われるでしょうねえ。でもちょっとでいいから何かを席に残しておいて欲しいわ。むき出しの木の上に座ると、ときどき身体が痛くなるんですもの。こんなこと、世界中であなたにしか言えないけど、でも本当にときどき身体が痛くなるのよ。それから通路に陶磁が敷かれたら、わたし、転ばないようにあなたの腕にすがりつくわ。ブランダマー卿がわたしたちのためにこうしたことをみんなしてくださるっていうのに、あなたときたらちっとも感謝してないんですもの。若い娘にあるまじき態度よ」
 「叔母さん、わたしにどうしろというの。町の人に代わって、ありがとうございました、なんて、みんなの前で言うわけにもいかないじゃない。そっちのほうがよっぽどあるまじきことだわ。聖堂が叔母さんの言うようなひどいことにならなければいいわね。わたしは古い記念の品が大好きよ。それに椅子は木がむき出しになっているより、『しなだれる』ことのできるほうがいいわ」
 そう言って彼女は笑い飛ばした。しかしブランダマー卿の話をさせることはできなかったものの、彼女が彼を思い浮かべることはもっと増えたのであり、あの重大な土曜日の午後のあらゆる出来事が昼夜を問わず夢の中で何度も何度も上演されていたのである。彼が気取らず直裁にブランダマー卿その人であることを打ち明ける序曲から、彼が振り返る終幕の瞬間――彼女はブラインドの背後に隠れていて、そこにいることは分かるはずがないのに、その彼女の眼をとらえるように彼が視線を投げかけてきたあの瞬間まで。
 ウエストレイは状況の変化に伴って練り直され拡充された修復計画と、ブランダマー卿宛の手紙を手に、ロンドンから戻った。手紙の中でサー・ジョージ・ファークワーは気前のいい献金者に面会の日取りを指定してもらえないだろうかと書いていた。サー・ジョージはカランまで出むいて卿に挨拶をし、この件に関して直接相談しようと思っていたのである。ウエストレイは一週間のあいだブランダマー卿との土曜日午後五時の約束を楽しみにし、聖堂をどのような道順で案内しようかと慎重に思案をめぐらせていた。ところが五時十五分前にベルヴュー・ロッジに戻ると、訪問者はすでに彼を待っていた。ミス・ジョウリフはいつものように土曜日の会合に出ていたが、アナスタシアがウエストレイに、ブランダマー卿が半時間以上もお待ちだと告げたのである。
 「お待たせして申し訳ありません」ウエストレイは部屋に入りながら言った。「約束の時間を勘違いしたのかと思いましたが、でもお手紙には確かに五時と書いてありますよ」彼はポケットから封を切った手紙を取り出して差し出した。
 「勘違いしたのはわたしのほうです」ブランダマー卿は自分の指示を読んで、笑みを浮かべながら認めた。「四時と言ったような気がしたんですがね。しかし手紙を一、二通書く暇ができて幸いでしたよ」
 「聖堂に行く途中で投函できますよ。ちょうど郵便列車に間に合うでしょう」
 「いや、明日にします。同封するものがあるのですが、今手元にないので」
 彼らはそろって聖堂にむかった。ブランダマー卿は通りを渡るとき後ろを振り返った。
 「とても風格のある建物ですね。ちょっと手を入れれば住み心地もよくなるんだろうけど。何かできることがあるか、代理人と話をしなければならないな。このままでは領主としての評判にかかわりますからね」
 「ええ、面白い特徴がたくさんありますよ」ウエストレイが答えた。「この建物の来歴はもちろんご存じでしょうね――つまり以前は宿屋だったということですが」
 彼は同伴者と一緒に家のほうを振り返ったが、一瞬何かがミスタ・シャーノールの部屋のブラインドの背後で動いたような気がした。しかしきっと目の錯覚に違いない。家にはアナスタシアしかいないし、彼女は台所にいる。彼は外に出るとき、お茶に遅れるかも知れないと大声で彼女に言ったのだった。
 ウエストレイは聖堂のなかを案内したり説明したりしながら、陽の光りが落ちるまで一時間半あまりの時間を心ゆくまで楽しんだ。ブランダマー卿は見るものすべてに、婉曲語法でよく言われるところの「知的関心」を示し、極めて豊かな建築学的知識を、隠すでもなく、ひけらかすでもなく、ごく普通に口にした。ウエストレイは質問こそしなかったものの、どこでそんなことを覚えたのだろうといぶかった。視察が終わるころには、彼は技術的な問題に関して、素人にむかってではなく、対等な専門家に語るようにしゃべっていた。彼らは中央塔の下でしばらく立ち止まった。
 「わたしがとりわけ感謝しているのは」とウエストレイが言った。「寛大にも全てをわたしたちの自由裁量に任せてくださったことです。これで塔に手をつけることができます。この上の部分が大丈夫とはとても思えません。アーチは建造当時のものとしては異常に幅広で、厚みがないんですよ。お笑いになるかも知れないけど、わたしはときどきアーチが直してくれって叫んでいるような気がするんです。特に南側のアーチ、上の方の壁にぎざぎざの割れ目ができているやつは。たまに聖堂や塔のなかにひとりでいると、アーチのことばが聞き取れるような気がします。『アーチは決して眠らない』って言っているんですよ。『われわれは決して眠らない』って」
 「ロマンチックですね」とブランダマー卿は言った。「建築はことばが石に変じたものだ、という昔の格言がありますね。きっとあなたは相当な詩人なんでしょう」
 彼はしゃべりながら禁酒家の痩せてやや青ざめた顔と高い頬骨を見た。ブランダマー卿は冗談を言わず、めったに笑うこともないと思われていたが、もしもその場にウエストレイ以外の人間がいたなら、卿のことばのいたずらっぽい調子と、目尻に浮かぶ面白がるような表情に気がついたかも知れない。しかし建築家は何も気づかず、少し赤くなりながらこう話しつづけた。
 「ああ、そうかもしれませんね。建築はたしかに人に霊感を与えますね。わたしがはじめて書いた詩、というか、少なくともはじめて活字になった詩はチュークスベリ修道院の後陣を謳ったものです。グロスター・ヘラルド紙に掲載されました。いつかこのアーチのことも何か書きたいですね」
 「是非そうしてください」とブランダマー卿は言った。「そしてわたしに一部送ってください。この場所には詩人が必要です。それにアーチのことを詩に書くほうがアーチ形の眉毛について詩を書くよりずっと無難ですものね」
 ウエストレイはまた赤くなって胸ポケットに手を入れた。うっかり書きかけの詩を机の上に置いたままにして、ブランダマー卿や他の誰かに見られたのだろうか。いや、大丈夫だ。彼は通常の手紙とは異なる、縦方向に折った紙の、鋭い角を指先に感じた。
 「よろしかったら時間もあるようですし、屋根の部分をご覧にいれましょうか」彼は話題を変えて言った。「袖廊の交差穹窿の頂点を見ていただいて、今取りかかっている作業の説明をしたいんです。あそこはいつ行っても薄暗いんですが、カンテラがあると思います」
 「もちろん喜んで」彼らは北東の基柱内部に造られた螺旋階段を登った。
 教会事務員のジャナウエイは視察する彼らから安全な距離を置いたところをうろうろしていた。彼は聖堂が閉まる前に、日曜日の「準備」をしておくという名目のもとに忙しく立ち働いていたのだ。一週間前、ブランダマー卿の行く手に立ちはだかったことを思い出して、できるだけ目につかないようにしていたが、その実、彼はあたかも偶然であるかのように卿に出会い、あんな振る舞いに及んだのは何も知らなかったからだと言い訳がしたくてたまらなかったのである。だがそんな言い訳の機会は都合よく訪れなかった。二人は天井に登り、教会事務員は扉口に鍵をかけようとしていた――ウエストレイは自分用の鍵を持っていたのだ――するとそのとき、誰かが身廊をこちらへやって来る音が聞こえた。
 脇に楽譜をどっさり抱えたミスタ・シャーノールだった。
 「やあ、あんたか!」彼は教会事務員に言った。「ずいぶん遅くまでいるんだな。自分で鍵を開けて入らにゃならんと思っていたのに。一時間前に帰ったんじゃなかったのかい」
 「今晩は片付けにいつもより手間どってね」彼は急に話をやめた。頭上の足場のどこかから微かな音が聞こえてきたのだ。彼は声をひそめて話しつづけた。「ミスタ・ウエストレイが卿を案内してるんでさあ。今屋根のところですよ。聞こえるでしょう」
 「卿だって?どこの卿かね。あのブランダマーの野郎のことか」
 「ええ、そう。でも野郎なんて言っていいんですかい。あの方は卿ですからね。だからわたしは卿とお呼びして野郎なんて言いませんよ。そんなに敵意をむき出しにして、あの方が何をしたって言うんです?どうしてここであの方を待ってパイプオルガンのことを話さないんです?もしかしたら太っ腹な気分になっていてパイプオルガンを修理するとか、あんたがしきりに話しているちっこい送風器を買ってくれるかもしれんじゃねえですか。どうしていつも歯をむき出すんですかねえ――いや、見せようにも、あんたには本物の歯がたくさん残っちゃいないから、こりゃあもののたとえっちゅうもんだがね――たまには他の人と同じようにしちゃあどうです?わたしが思うには、あんたは年寄りなのに若者ぶろうとしている。貧乏なのに金持ちぶろうとしている。そこがいけない。そのせいであんたはみじめな気分になり、酒でまぎらせようとする。わたしの忠告を聞いて、他の人みたいに振る舞いなさいよ。わたしはあんたより二十も年寄りだが、二十歳の時より遙かに人生を楽しんどるよ。今はお隣さんも連中の癖もわたしを楽しませてくれるし、パイプの味もよくなった。若いときゃさんざん馬鹿なまねをしでかすが、年をとりゃ、そんなこともない。あんたはわたしに遠慮なくしゃべるから、わたしもあんたに遠慮なくしゃべるよ。わたしは遠慮のない人間だし、誰もおそれるこたあないんだ。卿だろうが、野郎だろうが、オルガン弾きだろうがね。まあ、この老いぼれの忠告を聞くんだね。明るく構えて卿にお仕えし、新しいパイプオルガンを買ってもらいなさいよ」
 「くだらない!」ミスタ・シャーノールはジャナウエイの態度に慣れてしまっていて、腹も立てなければ注意も払わなかった。「くだらない!ブランダマーなんてどいつもこいつも大嫌いさ。ドードー鳥みたいに絶滅すりゃいいんだ。絶滅してないって保証はないんだけどね。いいかい、あの気取って歩くクジャク野郎は、あんたやわたしと同じくらいブランダマーを名乗る権利を持ってないんだ。この富というやつにはまったくむかつくな。今じゃあ教会や博物館や病院を建てることができない人間は価値がないと思われている。『みづからを厚うするがゆゑに人々なんぢをほむる』(註 詩篇から)金を持ってりゃひたすら賞賛され、なければ鼻も引っかけられん。ブランダマーなど全員墓に埋められてしまえばいい」彼は細いしゃがれ声をまたもや頭上の穹窿天井に響かせた。「経帷子の代わりに雲形紋章を巻き付けてな。あいつらの忌々しい紋章なんかにゃ石をぶつけてやりたいよ」彼は袖廊の窓高くに描かれた海緑色と銀色の盾を指さした。「日の照るときも、月明かりの差すときも、あれはいつもあそこにある。ここで満月の夜、コウモリに演奏を聴かせるのが楽しみだったんだ、あれがいつも張り出しをのぞきこんでいて、わたしから離れようとしないことに気づくまでは」
 彼はどさりと楽譜の山を座席に置くと聖堂を飛び出した。どうやら酒を飲んでいたらしい。教会事務員も同時にその場を抜け出した。大声で発せられた意見を屋根の上の二人に聞かれ、彼もそれに同調していると思われることを恐れたのだ。
 ブランダマー卿は聖堂扉口でウエストレイに別れを告げた。彼は仕事の都合でフォーディングに戻らなければならないと、お茶の誘いを断った。
 「別の日の午後、また聖堂を見せてください。よろしければ手紙で日取りをお知らせします。たぶんまた土曜になるでしょう。平日は今のところ用事が詰まっていますので」

 教会事務員ジャナウエイは聖堂からさほど離れていないガヴァナーズ通りにすんでいた。この名の由来は誰も知らなかったが、ドクタ・エニファーは革命が起きて、カランが議会派によって守られていたとき、この近所に軍司令官《ガヴァナー》が宿舎を構えたからではないかと考えていた。この通りは静かな二本の裏道をつなぐ通路の役割を果たしていたが、どちらの裏道よりも静かで、それでいてある種の快適さと安らぎが漂っていた。通りの両端には昔の大砲が据えつけられているため馬車は通ることができない。大砲は砲尾を地面に埋められ、砲口を天にむけ、がっしりした鉄の柱のように突っ立っていた。茶色い小石を敷き詰めた道は、この通りの中央を走る浅い石の溝にむかって緩やかに傾斜していた。家々はピンク色の塗料を塗るのがしきたりになっていて、そのあたりの特徴である鎧戸は、オランダの町を彷彿とさせる明るい色に輝いていた。
 鎧戸のペンキ塗りはもちろんガヴァナーズ通りではちょっとした大行事である。そこの住人のうち、少なからぬ人々が船乗りか、または漁業用小型帆船の持ち主で、幸運の女神が微笑んで無事に引退し、もはやペンキを塗るべき船がなくなると、今度は鎧戸やドアや窓枠がそれに取って代わることになる。割れ目から染み出す松ヤニや火ぶくれしたワニスの生暖かいにおいがガヴァナース通りに夏の再来をはじめて知らせる晴れた朝には、六十代、七十代、なかには達者に八十代を迎えた人々がペンキ入れと刷毛を手に、自分の住まいの木造部分に新たな装いを施す姿が見られるだろう。
 彼らは気だてがよくて、開けっぴろげで、生き生きとして、腰が大きく、真鍮ボタンの紺色のピージャケットを身につけている。無敵の喫煙家、つきることのない物語の紡ぎ手である彼らはジャナウエイを快く仲間うちに迎え入れて久しかった――彼らの考えでは、教会事務員と墓堀は見えざるものを知る専門家みたいなもので、近い将来最後の航海に出る際、いや、なかにはすでに船首に出航旗を掲げている人もいるのだが、この航海の際には、水先案内人を勤めてくれるのだから、なおのこと彼は歓迎されたのだ。
 ごろ石のあいだから生えている銀梅花が家の並びの真ん中に立つ小屋の正面に丹念に這わせられていて、ドアに掛かる真鍮の板は旅人と何も知らない人のために「T・ジャナウエイ、寺男」が中に住んでいることを教えてくれた。ブランダマー卿とウエストレイが別れてから二時間ほどあとの土曜日午後八時頃、正面を銀梅花に覆われた小屋のドアが開けられ、教会事務員が敷居に立ってパイプをふかしはじめた。中からは陽気な赤みを帯びた光があふれ、料理のにおいがぷんと漂いだした。ミセス・ジャナウエイが夕食の支度をしていたのである。
 「トム」と彼女は呼びかけた。「ドアを閉めてご飯にしましょう」
 「ああ」と彼は答えた。「すぐ行くよ。でもちょっとだけ待ってくれ。こっちに歩いてくるのが誰だか、確かめたいんだ」
 よそ者と一目で分かる男がむこう端から通りに入りこんでいた。半月が出て、その明かりで男が家を探しているのが分かった。男は道を左右に横切りながら、ドアに記されている番号をのぞきこんでいた。近づくにつれ、教会事務員は男が痩せていることや、ゆったりしたコートかケープを羽織っていること、それが夕方の海風にひらひらとはためいていることに気づいた。次の瞬間ジャナウエイはよそ者がブランダマー卿であることを知り、じゃまにならぬように本能的に一歩退いた。しかし開いたドアがとっくに通行者の注意を引いていた。彼は立ち止まり、朗らかにその家の主に挨拶した。
 「すてきな夜だね。でも空気が冷たくて、お宅のぽかぽかした暖かい部屋がとても心地よさそうに見えるよ」彼はしゃべりながら教会事務員の顔を思い出し、こうつづけた。「おや、わたしたちはすでにお会いした仲ですね。一週間前、聖堂でお目にかかりましたよね」
 ミスタ・ジャナウエイは予期せぬ出会いに少々たじろぎ、しどろもどろの挨拶をした。ブランダマー卿を聖歌隊席に入れまいとした、あの出来事はまだ記憶に新しく、彼は泡を食って弁解しようとした。
 ブランダマー卿はにっこりと好意的な笑みを浮かべた。
 「私を止めようとしたのは当然です。そうしなければ職務怠慢ですからね。礼拝が進行中とは思わなかったのです。さもなければ入ったりしなかったでしょう。あのことは気になさらないでください。これからもカラン大聖堂に行ったときは、席に案内してくださいよ」
 「あなたの席は探す必要がありませんや、御前様。参事会員パーキンと同じように、ちゃあんと決まってるんで。裏側に紋章がくっきりと描かれとります。ご心配には及びません。みんな内務規定に定めてあるんです。御前様が席にお着きになるときは、主教様のときと同じ敬礼をいたします。『二回腰をかがめること。職杖は右手に持ち、左手を添えること』これ以上丁寧にはできねえんですよ。というのは三回礼をするのは皇族に対してだけなんで。わたしが勤めているあいだ、皇族なんて一人も聖堂に来たことがありませんがね――それだけじゃないんです。覚えていらっしゃらねえでしょうが、先代のブランダマー卿もあなたのお父様とお母様が埋葬された日から、お出でになったことがございません」
 ミセス・ジャナウエイは夕食テーブルを拳でたたいた。彼女は夕ご飯ができたと言ったのに、戸口に立っておしゃべりをつづける夫にあきれていた。しかし会話を聞いているうちに、しだいに見知らぬ男の正体が明らかになり、カランの誰もがその名を口にする人物を見たいという気持ちを抑えることができなくなった。彼女は戸口へいってお辞儀をした。
 ブランダマー卿はコートに重ねたはためくケープを左肩越しに後ろへ放った。教会事務員にはその仕草が外国人ぽく思われ、日曜の夜、なめるように見ている雑誌、イラストレイティド・ロンドン・ニュースのイタリア・オペラの板目木版画を頭に浮かべた。
 「もう行かなければ」訪問者は身震いして言った。「あなた方をここに立たせておくわけにはいきません。今夜はやけに冷えますからね」
 そのときミセス・ジャナウエイは急にむこう見ずな気分におそわれた。
 「中に入ってしばらく暖まっていかれてはどうです」と彼女は口をはさんだ。「料理の匂いさえお気になさらなければ、火も燃えていますから」
 教会事務員は妻の大胆さに一瞬震え上がったが、ブランダマー卿はさっそく招待を受け入れた。
 「ありがとうございます。列車が出るまでしばらく休ませてもらえるととても助かります。料理の匂いがするからといって謝ることはありませんよ。すごく食欲をそそるじゃありませんか。特に夕食の時間には」
 彼はまるで夜の食事はいつも質素で、豪華な晩餐など生まれてこのかた聞いたこともないというような話し方をした。五分後、彼はジャナウエイ夫婦とテーブルに着いた。テーブルクロスは荒い手織り布だったが清潔だった。ナイフとフォークは古い緑の柄がついており、主料理は牛の胃だったが、客は食事を大いに楽しんだ。
 「人によっちゃあハチノスやセンマイがうまいなんて思っているのもいますがね」教会事務員は空になった皿を見ながら思いにふけるように言った。「しかしわたしの好みから言えば、ミノにはかないませんな」彼が大胆にも料理に対する私見を披露したのは、客が目の前のごちそうを心ゆくまで食したとき、天の邪鬼でもないかぎり、どんな主人も感じる満足感に促されてのことだった。
 「そうですとも」とブランダマー卿は言った。「何と言ったってミノが最高ですよ」
 「胃袋そのものも大事ですけど、料理法も同じくらい大事なんですよ」ミセス・ジャナウエイは自分の腕前を無視されたと思い、腹を立てて言った。「最高の胃袋があっても料理が下手じゃどうにもなりません。作り方はいろいろあるんですが、ミルク少々とネギで作るのがいちばんだと思います」
 「それに勝るものはありませんね」ブランダマー卿は同意した――「それに勝るものはありません」――そしてそれとなくこうつづけた。「メースの小枝を入れたことはありますか」
 ミセス・ジャナウエイはそんな料理法は聞いたことがなかった。その点をつっこんで聞かれていたら、ブランダマー卿も知らないと言っていただろう。しかし彼女はこの次試してみると約束し、そのときはまたご一緒いただければ光栄なのですけれど、とこの尊敬すべき客人に言った。
 「土曜日の晩だけなんですよ、ミノが手にはいるのは」彼女は話しつづけた。「それ以上頻繁に出回らないのは、かえってありがたいんです。お金がありませんから。トマスみたいにいい旦那が持てて、わたしくらい幸せな女はいませんわ。お金のかからない人なんです。飲むのはお茶だけなんですよ、御前様。でも土曜の夜は贅沢して、少しだけ胃袋料理を食べるんです。とても精がつきますし、夫は日曜日のおつとめがとても大変ですから、ちょうどいいんです。御前様が胃袋料理をお好みで、土曜日の晩またこちらにお出でになって、わたしたちに名誉をほどこしてくださるなら、いつだって準備してお待ちしていますわ」
 「ご親切なお招き、とても感謝します」ブランダマー卿は言った。「おことばに甘えさせていただきますよ。カランに来るのは土曜日がいちばん多いのですよ、というか、最近はたまたまそうなんですけど」
 「世の中にゃ貧乏で哀れな人間がおります」と教会事務員は考え深げに言った。「わたしら夫婦は貧乏だが幸せですよ。しかしミスタ・シャーノールは貧乏で不幸せです。『ミスタ・シャーノール』とわたしは言ってやるんです、『親父が十ペンスのビールを飲みながらよく言ったもんだ。排水口に押しこまれた貧乏と、そいつを踏みつける、木の義足の男に乾杯ってね。でもあんたは貧乏を排水口に詰めこまねえし、まして踏みつけもしない。いつも取り出して風にさらし、思い悩んで自分を悲しませている。あんたが悲しいのは貧乏だからじゃない。貧乏だと思ってそのことを口にしすぎるんだ。あんたはわたしらほど貧乏じゃない。ただやたらと不平が多いんのさ』ってね」
 「ああ、オルガン奏者のことですね」ブランダマー卿は尋ねた。「今日の午後、あなたと聖堂でしゃべっていたのは彼ではないですか」
 教会事務員はまたもやまごついた。ミスタ・シャーノールの暴言と、ブランダマー一族への呪詛が聖堂に響き渡ったことを思い出したのだ。
 「そうなんで。かわいそうにオルガン弾きはちょっと興奮してしゃべっとりました。ときどきあんな具合になっちまうんです。不満やら、それを紛らすビールのせいで。そういうときは大声を出すんですよ。あいつの並べた世迷い言がお耳に入ってなけりゃいいんですが」
 「ああ、とんでもない。ちょうど建築家と話しこんでいたんです」とブランダマー卿は言ったが、その口調からジャナウエイは、ミスタ・シャーノールの声が具合悪くも遠くまで届いていたことを知った。「何を言っているのかは分からなかったけど、ずいぶんいらだっているようですね。数日前に聖堂でおしゃべりをしましたよ。そのとき彼はわたしが誰か知らなかったんですけど。でもわたしの一族にあまりいい感情を抱いていないようでした」
 ミセス・ジャナウエイはこういうときは思慮あることばをさしはさむべきだと思った。「御前様にむかっておこがましいことを言うようですが、あの人のことはほっておかれるといいですよ。あの人は夫にむかっても同じように悪口を言うんです。オルガンのことで頭が変になっていて、新しいやつを買うか、少なくともカリスベリにあるような水仕掛けの送風器を買ってもらうのが当然だと思っているんです。無視してください。ミスタ・シャーノールの言うことなんか、カランの人は誰も気にしやしません」
 教会事務員は妻の分別に驚いたが、それが相手にどう取られるか不安だった。しかしブランダマー卿は優雅に頭を下げて、賢明な助言に感謝の意をあらわし、こうつづけた。
 「カランにおかしな人がいませんでしたか。自分は権利を剥奪されているが、本来はわたしの地位にいるべきなのだと考えていた人が――つまり自分こそはブランダマー卿であると考えていた人が」
 その質問はごくさりげなく発せられ、彼の顔は哀れむような笑みをかすかに浮かべていた。しかし教会事務員はミスタ・シャーノールの「気取って歩くクジャク野郎」とか、「本物のブランダマーなんてもういないんだ」などということばを思い出し、ひどくそわそわした。
 「その通りで」彼は一瞬間をおいて答えた。「御前様の前じゃこんな話ははばかられますが、そんなおかしな考えに取り憑かれた老いぼれもいました。そういや、ミスタ・シャーノールもあいつと同じ下宿に住んどります。きっと左巻きがうつったんですな」
 ブランダマー卿は無意識に煙草を取り出したが、女性がいることに気づいて箱に戻し話をつづけた。
 「おや、ミスタ・シャーノールと同じ下宿ですか。その話はもっと聞きたいですね。言うまでもありませんが、興味がありますから。名前は何というんです」
 「マーチン・ジョウリフですよ」教会事務員は間髪を入れず答えた。逸話を語るチャンスに、思わず熱心な口調になった。そしてウエストレイに語ったように、マーチンとマーチンの父、母、娘の物語を逐一ブランダマー卿に繰り返したのだった。
 夜もずっと更けた頃になって物語はようやく終わった。地元の警官がガヴァナーズ通りを幾度か巡回したが、遅いにもかかわらず明かりがついている窓を見て驚き、ミスタ・ジャナウエイの家の前に来ると立ち止まった。ブランダマー卿は汽車で帰る予定を変えたのだろう。カラン駅の改札口は数時間前に閉ざされ、支線を走るおんぼろ列車は車庫でその蒸気缶《がま》を冷やしていた。
 「おもしろい話ですね。それにあなたはお話が上手だ」彼はそう言って立ち上がり、コートを着た。「楽しいことには必ず終わりがあるのですが、お二人には近いうちにまたお会いしたいと思います」彼は夫婦と握手し、酒場から持ってきたビールのジョッキを、「排水口に詰めこまれた貧乏と、それを踏みつける義足の男に乾杯」と言って飲み干し、出て行った。
 その一分後、もう一度見廻りに戻った警官は、ゆったりしたコートを着てケープを軽く左肩にかけた中背の男とすれ違った。見知らぬ男は小唄を口ずさみながら元気よく歩き、地上のことなどすっかり忘れてしまったかのように、顔を上げて星と風の吹く空を見ていた。真夜中のガヴァナーズ通りによそ者がいるというのは、窓に明かりが灯っていることよりさらに驚くべきことで、警官は呼び止め、用むきを確かめようかと思ったが、そこまで強く出ようと決心するまもなく、足音は遠くに消えようとしていた。
 教会事務員は自己満足に浸り、話し手としての成功に得意になっていた。
 「ありゃあ、賢い、話の分かる人だよ」彼はそう言って妻と一緒に床に就いた。「いい話がどういうものか、ちゃんと知っていなさる」
 「いい気におなりじゃないよ、あんた」と彼女は返事した。「請け合ってもいいわ、御前様はあの話の中にあんたが話した以上のことを見て取っていらっしゃるんだから」
 
 第十章
 
 ブランダマー卿の惜しみない支援のおかげで修復工事は拡充し、ウエストレイは一度ならずロンドンのサー・ジョージ・ファークワーのもとへ相談に出むかなければならなかった。ある土曜日の晩、そんな訪問からカランに帰ってきたとき、彼は自分の食事がミスタ・シャーノールの部屋に用意されていることを知った。
 「夕ご飯を一緒に食べてくれるだろうと思ったんだよ」とミスタ・シャーノールは言った。「どういうわけか分からないが、冬が始まり、日暮れが早くなると、いつも気が滅入るんだ。時間が経つと何でもなくなって、冬の夜長や暖かい暖炉の火は好ましいくらいなんだがね。もっとも十分な火をたけるくらい金があればの話だが。しかしはじめのうちはちょっぴり憂鬱になるんだ。そういうわけだから食事につきあってくれたまえ。今夜は暖かい火もあるし、きみのために特別に手に入れた流木もある」
 食事のあいだ、どうということのない世間話がかわされたが、オルガン奏者は何か別のことを考えているらしく、ウエストレイは一度か二度、相手がうわの空で返事をしているような気がした。実際彼は別のことを考えていた。というのも彼らが暖炉の前に落ち着き、ちらちらと揺らめく流木の炎にお決まりの賞賛のことばが呈されると、ミスタ・シャーノールはためらうように咳払いをしてこう切り出したからである。
 「今日の午後、どうも妙なことが起きたんだ。夕べの祈りが終わって帰ってみると、なんとブランダマーがわたしの部屋で待っているじゃないか。明かりも灯していなかったし、火も焚いていなかった。火は遅くに焚いたほうが、きみと暖かく過ごせると思っていたんだ。やつは窓辺の席の端っこに座っていた。くそっ、地獄に落ちろ!――(ミスタ・シャーノールが冒涜のことばを発したのは、そこがアナスタシアのお気に入りの席で、他の人が使うことは認めがたかったからである)――しかしわたしが入ってくると、もちろん立ち上がったよ。そして調子のいいことをとうとうとまくし立てるのさ。部屋に入りこんだことは心からお詫びする。ミスタ・ウエストレイに会いに来たのだが、残念なことによそにお出かけになっている。勝手だがミスタ・シャーノールの部屋でしばらく待たせてもらうことにした。ミスタ・シャーノールと是非、お話したいことが一つ二つあったのだ、ってな具合だよ。わたしはおべっかが大嫌いだということは知っているだろう。それにあいつがどんなに嫌いだったか――いや、嫌いかってことも(と彼は訂正した)。しかしどうも具合が悪くてなあ。ほら、彼はもう実際に部屋の中に入りこんでいたわけだし、人は自分の部屋にいるときは、他人の部屋にいるときみたいに不作法な真似はできないからね。それに明かりもつけず、火も燃やさず、わたしを待っていてくれたということで、気の毒したという気持ちも多少あった。もっともどうしてあいつが自分でガスの火を入れなかったのか、理由が分からんが。だから不本意ではあるが丁寧にお相手をしてさしあげたのだよ。で、さあ、これでやつを追い払えるぞと思ったときに、折悪しく家に一人残っていたアナスタシアがお茶を出してもいいかと聞きにきたというわけさ。分るだろう、わたしの苛立ちが。しかしやつにお茶を一杯いかがですと訊かないわけにもいかないじゃないか。まさかうんと言うとは夢にも思わなかったが、やつは招待を受けやがった。そんなわけで、なんてことだろう!われわれは旧知の仲みたいにお茶を飲みながら和気藹々おしゃべりしたってわけさ」
 ウエストレイは愕然とした。ミスタ・シャーノールはつい先日、ブランダマー卿の申し出を拒絶しなかったと彼を非難したばかりなのに、このお茶の会が示すように、憎しみと悪意の高邁な原則からまるで逸脱してしまったことがさっぱり理解できなかった。彼の人生経験はいまだにごく限られたものでしかなく、嫌悪や反感というものはたいてい現実的というより理論上のものにすぎず、個人的な接触において緩和されたり、すっかり消滅しがちなものであること――つまり憎しみの炎を燃え立たせつづけること、あるいは気持ちのいい態度で和解を求める人に面とむかって無礼なことを言いつづけるのはひどく困難であることが分からなかったのである。
 おそらくミスタ・シャーノールはウエストレイの顔に驚きを読み取ったのだろう。彼はいっそう弁解するような調子でこうつづけた。
 「それどころじゃないんだ。やつのせいでわたしはえらくやっかいな立場に立たされてしまった。確かに面白い話をする男だな。音楽について大いに語り合ったのだが、驚くほどこの方面に造詣が深いし、正しい趣味の持ち主だ。どこであんな教養を身につけたのか見当もつかない」
 「建築についても同じ印象を持ちましたよ」ウエストレイは言った。「聖堂を視察しはじめたときは先生と生徒という関係でしたが、視察を終えるころには、わたしよりも聖堂のことを詳しく知っているのじゃないかと、落ち着かない気持ちにさせられました――少なくとも考古学的なことに関しては」
 「ほう!」とオルガン奏者は無関心そうに言った。自分の体験を話したくてたまらない人は、他の人がどんなにわくわくするようなことを言っても、無関心な態度を取るものだ。「やつの趣味は異常に洗練されていた。前世紀の対位法の作曲家に精通していて、わたしの作品もいくつか知っているのさ。不思議なことがあるものだ。やつが言うには、どこかの聖堂で――どこだったか忘れたが――サーヴィスを聴き、あんまり感動したのでビラを見たら、シャーノール変ニ長調だったというのだ。われわれが話を始めるまで、わたしの作品だとは気づかなかったらしい。あのサーヴィスはもう何年もしまいこんだままだな。オクスフォードでギボンズ賞に応募したときの作品でね。グロリアの中にフーガを取り入れ、主音のペダル音で終わるんだ。きみも気に入るだろう。あれは探し出しておかなければならんな」
 「ええ、それは聴いてみたいですね」ウエストレイは強い関心があるからというより、話し手が一息入れるあいだ、間を持たせるためにそう言った。
 「聴かせてあげるとも――聴かせてあげるとも」とオルガン奏者はつづけた。「ペダル音がすばらしい効果を出していることが分かるだろう。それでわれわれの話題はだんだんとオルガンのことに移っていった。聖堂ではじめて彼に会った日にたまたまオルガンの話をしたんだ。もっとも普段はきみも知ってのとおり、わたしはオルガンのことは一言もしゃべらないことにしている。あのときはオルガンのことにさほど通じているようには思えなかったが、今じゃ知らぬことはないという感じだ。だからわたしは何をするべきか、自分の意見を言ったのだよ。で、ふと気がついたらやつが口をはさんできて『ミスタ・シャーノール、あなたのお話には大変関心があります。とても理路整然としていて、わたしのような門外漢にも理解ができます。ファーザー・スミスがはるか昔に作った、この美しい音色の楽器が壊れたまま、いつまでも放置されているのは嘆かわしいことです。聖堂を修復してもオルガンがなければ意味がありません。ですので修理の細目と、他にそろえるべき品目を一覧にして書き出してくれませんか。あなたの提案はすべて実行されるとお考えください。とりあえず、あなたがおっしゃっていたウオーター・エンジンと新しい足鍵盤をすぐ注文して、費用をお知らせいただければと思います』わたしは呆気にとられてしまったよ。口がきけるようになったときには、彼の姿はもうなかった。わたしはどうすればいいのか、さっぱり判らなくなった。あの男はいけ好かないね。やつの申し出は冷ややかに拒絶するつもりだ。あんな男の恩を受けるなんてまっぴらだ。きみだってわたしの立場だったら断るだろう?すぐさま断固拒否の手紙を書くだろう?」
 ウエストレイは馬鹿正直な性格で、人の言ったことばをそのまま信じる傾向があった。彼はミスタ・シャーノールの自主独立の精神がいかに気高いものであれ、それがためにこれほど気前のいい寄付が断られるのはまことに残念なことだと思った。そしてオルガン奏者の決心を翻させようと、思いつくかぎりの反論を必死になって繰り広げ、かき口説いた。この申し出は善意から出たものである。ミスタ・シャーノールはブランダマー卿の人柄をきっと誤解しているのだ――ブランダマー卿には下心があるというミスタ・シャーノールの考えは間違っている。善意以外のどんな動機があり得るだろうか。それにミスタ・シャーノールがどれほど個人として拒否しようとも、あれだけ修理の必要が歴然としたオルガンなのだから、結局は直されるに決まっているではないか。
 ウエストレイは熱心に語りかけ、自分の雄弁がミスタ・シャーノールに及ぼした効果を見て満足した。議論によって相手の考えを改めさせるというのは極めてまれにしか起きないことで、自分の組み立てた議論が、少なくともミスタ・シャーノールの決意に影響を与えるくらい説得的であったことを知り、彼は得意になった。
 うむ、きみの言うことにも一理あるかもな。考え直してみよう。今晩は断りの手紙を書かないよ。断るのは明日だってできる。とりあえず新しい足鍵盤を手配し、ウオーター・エンジンを注文しよう。カリスベリでウオーター・エンジンを見て以来、いつかはカランにも一つ必要だと思っていたんだ。あれは是非とも注文しよう。ブランダマー卿に払ってもらうか、修復基金全体から差し引いてもらうかは後で決めればいい。
 この結論は最終的決定ではないとはいえ、確かにウエストレイの説得の勝利だった。しかし当初ブランダマー卿の申し出を一切受け付けまいとしたミスタ・シャーノールの愚直な自主独立を咎めたのは、はたしてどの程度正しいことだったのだろうと、いささか疑問に思われるところもあり、心から満足したわけではなかった。ミスタ・シャーノールがこの件にためらいを感じているなら、自分、ウエストレイはそのためらいを尊重すべきではなかったか。あまりにも説得力のあることばでそれを押さえこんだのは正しいことへの干渉ではなかったろうか。
 彼の疑いはミスタ・シャーノール自身がこの精神的ジレンマに激しく悩まされていたという告白を聞いても鎮まることはなかった。オルガン奏者はこの難問に心をかき乱され、神経を静めるためにウイスキーをコップになみなみと注いだと打ち明けたのである。同時に彼は二三冊のノートと大量の紙切れを棚から降ろし、彼の前のテーブルに広げた。ウエストレイは思わず何だろうとそれらを見つめた。
 「本気でまたこれを調べなければならんよ」とオルガン奏者は言った。「最近はえらく怠けていたんだが。これはマーチン・ジョウリフが残した大量の書類とメモだ。かわいそうにミス・ユーフィミアはこれを調べる勇気がなかったんだ。そのまま焼き捨てようとしていたのを、わたしが『おや、そんなことをしちゃいけない。わたしによこしなさい。調べて保管する価値のあるものが混じってないか見てあげよう』と言ったのだ。それでこれを手に入れたのだが、なんだかんだ邪魔が入って、ろくに調べちゃいないのさ。死んだ人の書き物に目を通すのはいつだってわびしい気持ちにさせられるが、生涯をかけた仕事として、これが残されたすべてだというときは、そのわびしさはひとしおだよ――マーチンの場合は失われた仕事とでもいうんだろうな。日の光が見えはじめたちょうどそのとき、あの世に召されたんだから。『我らは何をも携へて世に来たらず、また何をも携へて世を去ること能はざればなり』(註 テモテへの手紙から)このことばが頭に浮かぶとき、わたしは金や土地のことよりもささやかなもののことを考える。お金よりも大切にしていた恋文とか、その人の死と共に手がかりが失われた証拠品とか、戻ってきて片付けるはずだったのに、戻ることなく未完に終わった仕事とか、もっと言えば、気に病んでいた未払いの請求書とかね。死はすべてを変貌させる。ありきたりのものを哀切なものに変えるんだ」
 彼は一瞬、間を置いた。ウエストレイは相手が急に感傷的になったことに驚き、何も言わなかった。
 「うむ、わびしいものだよ」オルガン奏者が再びつづけた。「この書類に書いてあるのはみんな雲形紋章――海緑色と銀色のことなんだ」
 「すっかり頭がいかれていたんでしょうね」ウエストレイは言った。
 「他の人ならそう言うだろうが」オルガン奏者は答えた。「しかしいろいろ考えると、この中には単に狂気とばかりはいえないものがありそうな気もするんだ。今はそれくらいしか言えないが、生きていればそのうち真相が分かるだろう。このあたりには奇妙な言い伝えがあってね。いつ頃から言われはじめたのか知らないが、ブランダマーの家系には謎があるというのだ。家督を受け継いだ者には、実はその権利がないといわれている。それだけじゃない。大勢の人が謎を解こうとして、中には有力な手がかりをつかんだ人もいたそうだが、しかしあと一息というところで、何かが彼らの命を奪うんだ。マーチンに起こったのはそれなんだよ。わたしは彼が死んだ日に彼と会った。『シャーノール』と彼はわたしに言ったよ。『おれがあと四十八時間生きられたら、あんたは帽子を脱いで、おれに御前様って言っているかもしれないぜ』ってね。
 しかし彼も雲形紋章にはかなわなかった。彼は死ななければならなかったのだ。だからわたしがそのうちぽっくり行ってしまっても驚いちゃいけないよ。ま、そういうことさえなければ、真相を探り当て、近い将来、ここにちょっとした変化を引き起こして見せるがね」
 彼はテーブルの前に座り、しばらく紙束を見ているふりをした。
 「マーチンも気の毒だったな」彼はまた立ち上がり、棚を開け酒瓶を取り出した。「きみも飲むだろう、ええ?」とウエストレイに訊いた。
 「ありがとうございます。でも結構ですよ、わたしは」ウエストレイはその細い声にこめられるかぎりの軽蔑に近い響きをこめた。
 「一口だけだよ――飲みたまえ!わたしは一口だけ飲まなければやってられん。この紙切れを調べるとひどく疲れるんだ。こいつを読むのは思っていた以上に重要なことなのかもしれん」
 彼は大コップに半分ほど酒を注いだ。ウエストレイは少し躊躇したが、良心と幼少時のピューリタン的教育が彼に口を開かせた。
 「シャーノール。それは捨ててしまいなさい。その酒瓶はあなたを誘惑する悪魔ですよ。男らしく捨ててしまいなさい。あなたを見ていると黙っていられないのです。堕落していくのを腕組みしてじっと見ているわけにはいかないのです」
 オルガン奏者は素早い一瞥を彼にくれ、生の酒を大コップになみなみと注いだ。
 「いいかね。最初はグラスに半分だけのつもりだったが、今はまるまる一杯飲もうと思う。忠告に感謝してな!堕落していくか!その横柄な態度もろとも地獄に堕ちろ!礼儀正しい口がきけないなら、誰か別の人の部屋で夕飯を食えばいい」
 ついかっとなったウエストレイは冷静な批判という観覧席から悪口合戦という闘技場に降りてしまった。
 「ご心配なく」ウエストレイはとげとげしく言った。「二度とお付き合いすることはありませんから安心なさい」彼は立ち上がり、ドアを開けた。出て行こうとむきを変えたとき、寝室にむかうアナスタシア・ジョウリフが廊下を通った。
 彼女が通り過ぎるのを見てミスタ・シャーノールはいっそう頭に血が上ったらしい。彼は手ぶりでウエストレイにじっとしているよう伝えると、ドアを閉め直した。
 「糞食らえ!」と彼は言った。「きみを引き留めたのは、これを言うためだ。糞食らえ!ブランダマーなんか糞食らえ!みんな糞食らえ!貧乏なんか糞食らえ!裕福も糞食らえ!オルガンのためだろうがなんだろうが、あいつの金なんか触るのもいやだ。さあ、出て行っていいぞ」
 ウエストレイは上品に育てられ、口汚く罵られたり、下品で無礼な個人攻撃を受けることには慣れていなかった。野卑な形容詞、現代の作法ではしばしば大目に見られる「えげつない」とか「胸クソ悪い」といった表現、まして忌まわしい呪いことばには生まれつき身をすくませる質だった。だからミスタ・シャーノールの悪口は彼を深く傷つけたのである。動揺したまま寝床に就き、取り返しのつかないまでに友情が壊れたことを悲しみ、不当な非難に憤慨し、それでいてこうしたことがわが身に降りかかったのは、己の不注意のせいではなかったかと自責の念にかられ、まんじりともせず夜の半分を過ごした。
 朝になっても気分はさわやかにならずしょげ返っていたのだが、朝食の最中に太陽が輝きだし、彼はより悲観的でない方向で自分の置かれた状況をとらえはじめた。ミスタ・シャーノールとの友情は修復できないほど壊れてはいないかも知れない。もしも壊れてしまったとしたら残念だ。彼はその生活態度の欠点にもかかわらず、老人が好きになっていたからである。全面的に非難されるべきは、彼、ウエストレイのほうだった。他人の部屋に呼ばれておきながら、その人にむかって説教したのだ。青二才の彼が老人である相手に説教したのだ。それが善意のなせる行為であったことは本当である。つらいけれども義務だと思ってしゃべったに過ぎない。しかし言い方がまずかった。あまりにも押しつけがましかったのだ。話し方に思慮を欠いたため、もっともな忠告があだになってしまった。はねつけられることは覚悟の上で謝ろう。下に降りてミスタ・シャーノールに謝罪し、必要ならもう一方の頬もぶたれてやろう。
 良き決断はそれを実行する固い意志を伴う場合、乱れた心に幾分かの落ち着きを回復せずにはおかないものだ。良き決断がその穏やかな効き目を失うのは、一定間隔で繰り返す悪行と後悔の恐るべきシーソーが停まってしまい、心がもはや生における不変の正しさの可能性を信じられなくなったときである。このシーソーは必ず漸を追って均衡を失うものなのだ。悪への傾きがますます優勢になり、美徳への回帰はますますまれに、かつ短くなる。そのあとは神を敬う心の持続しないことにあきらめを覚え、良き決断は単なる心の反射運動となって慈悲深い影響力をなくし、心に平安をもたらすことがなくなるのである。こうした状態は中年より前に生じることはまれで、ウエストレイは若く、ことのほか良心的であったから、高尚な意図を抱くと、胸の中に強い落ち着いた気分がじわりじわりと広がっていった。そのときドアが開いてオルガン奏者が入ってきた。
 かんしゃくの爆発と一夜の深酒がミスタ・シャーノールの顔にその跡を残していた。表情はやつれ、心臓が弱いせいでできている目の下の隈はいちだんと黒く、いちだんとふくれあがって見えた。決まり悪そうに中にはいると、足早に建築家に近づき、手を差し出した。
 「許してくれ、ウエストレイ」と彼は言った。「昨日の晩ははしたない口をきいてしまった。きみの言ったことは正しいよ。きみに敬意を払う。もっとずっと前からきみのように諭してくれる人がいたらよかったんだが」
 差し出された手はそうあるべきほど清潔ではなかったし、やかましい目で見れば爪もきちんと切られていなかったが、ウエストレイはそんなことに気づきもしなかった。震える老人の手を取り、無言のまま暖かく握り返した。彼は口がきけなかった。
 「われわれは仲よくしなければならんね」少し間を置いてオルガン奏者は言った。「仲よくしなければならんね。というのは、わたしはきみを失うわけにはいかないからだ。つきあいは長くないが、きみはこの世でたった一人の友達なんだ。あきれた告白だとは思わんかね」彼は力なくか細い声をあげて笑った。「この世に他に友達はいないのだ。昨日の晩言ってくれたことはいつでもまた言ってくれ。忠告は多ければ多いほどいい」
 彼は腰をおろした。これ以上、場に緊張感が漂うことに耐えられず、会話はぎこちないながらも、より個人的でない事柄に移っていった。
 「昨日の晩、話したいことが一つあったんだ」とオルガン奏者は言った。「気の毒にミス・ジョウリフは金に困っている。そんなことはわたしには一言も――誰にも言おうとしないが――しかしわたしはたまたまそれが事実であることを知っている。本当に困っているんだ。慢性的な金欠状態。われわれもみんなそうだが、彼女の場合は深刻だよ――壁際に追いつめられ、身動きもならん。彼女を苦しめているのはマーチンの最後の借金だ。生き血を吸い取る商人どもがうるさく彼女につきまとうが、彼女はやつらにくたばっちまえと言ってやる勇気がない。もっとも彼らだって彼女には一銭だって返す責任がないのは知っているのさ。彼女はマーチンの借金が返せないかぎり、あの花と毛虫の絵を持っている権利がないと考えている。あれを売れば金になるからね。覚えているだろう、ボーントン・アンド・ラターワースが五十ポンド払うと言ったことを」
 「ええ、覚えていますよ。馬鹿な連中だ」
 「まったく馬鹿な連中だよ」とオルガン奏者は答えた。「しかし現にそういう申し出があったとなると、われらが気の毒な女主人は結局絵を売ることになるだろう。『そのほうが彼女にとってはいい』ときみは言うだろうし、常識がひとかけらでもあれば、五十ポンドでも五十ペンスでも、とっくの昔に売り払っていただろう。しかし彼女には常識なんてないし、あれを手放すとなれば彼女は自尊心をずたずたにされ、苦悩のあまり熱を出すに違いない。そこでわたしは、いくらあれば急場をしのげるか、手を尽して探ってきたんだが、たぶん二十ポンドもあれば切り抜けることができると思うんだ」
 彼はウエストレイが口をはさむことを半ば期待しているかのようにしばらく黙っていたが、建築家が何も意見を言わないので、次のようにつづけた。
 「分からなかったんだよ」彼はおどおどと言った。「きみがここに長く住みつづけ、こうした話にも強い関心を抱くようになるかどうか。わたしは自分で絵を買い取ろうと思っていたんだ。ここに置いておけるように。ミス・ユーフィミアにお金を贈り物として渡すのはだめなんだ。絶対受け取ろうとしないからね。彼女のことはよく知っているから分かるのさ。でも絵と引き替えに二十ポンドを差出し、これからもずっとここに置いたままで、お金ができたときに買い戻せるんだと教えてやれば、天の恵みとその申し出に飛びつくだろう」
 「そうですねえ」ウエストレイは疑わしそうに言った。「騙そうとしているなんて思われやしないですか。他の人が五十ポンド出すと言っているのに、二十ポンドで絵を売らせるのは、ちょっと考えるとなんだか変な気がしますが」
 「いや、そんなことはない」オルガン奏者は答えた。「ほら、これは本当の売買じゃない。彼女を助けるためのほんの口実に過ぎないんだから」
 「ご丁寧にわたしに意見をお求めくださいましたが、思うに、それ以外の点では問題はないと思います。それにミス・ジョウリフのことをそんなに気にかけていらっしゃるなんて、とても立派だと思います」
 「ありがとう」オルガン奏者はためらいがちに言った――「ありがとう。そう取ってくれると思っていたよ。もう一つちと困っていることがあるんだ。わたしは赤貧洗うが如しでね。しみったれみたいに一銭も使わず暮らしているが、しかしそれは使おうにも金がなくて、貯金もできないからなんだ」
 ウエストレイはミスタ・シャーノールがどうやって二十ポンドという大金をかき集めるつもりなのだろうと、さっきから不思議に思っていたのだが、それについては何も言わないほうが賢明だろうと判断した。
 そのときオルガン奏者は意を決して本題に切り込んでいった。
 「どうだろう。きみ、一緒に買う気はないかね。わたしは預金口座に十ポンドある。きみがもう十ポンド出してくれたら、絵を共同購入できる。ミス・ユーフィミアはそう遠くない将来、きっと買い戻そうとするから、いずれにしろたいした出費じゃないと思うが」
 彼は話をやめてウエストレイを見た。建築家はぎょっとした。彼は慎重かつ用心深い性格で、生まれつきの貯蓄癖は、いかなる不必要な出費も厳しく咎められるべきだという信念と織り合わさって、いちだんと強固なものにされていた。聖書が彼にとって来世の礎であるように、細かく家計を記録し、どんなに少額であっても金を貯金にまわすことが彼にとってのこの世の礎だったのである。注意して生活を切り詰めたおかげで、給金は少ないながら、鉄道会社の社債券にすでに百ポンド以上の投資ができるほどになっていた。半年ごとのわずかな利息小切手の受け取りをひどく大切に保管し、「グレート・サザン鉄道」のレターヘッドの入った封筒に、ある種の威厳と金銭的安心感を見いだしていた。これはときどき株主総会の代理委任状や告知を彼に送り届ける封筒だった。最近預金通帳を調べたところ、もうじき新たに百ポンドを投資に回せそうなことが分かり、彼は胸にいっぱいの希望を抱いて、ここ数日のあいだ、どの株を選ぶべきだろうかと思いを巡らしていたのである。一社の社債に大金をつぎこむことは資産運営上好ましくないと思われたのだ。
 資産をはなはだ磨り減らすこの突然の提案はすっかり彼を狼狽させた。それは確かな担保もなしに十ポンドを貸し与えるようなものだった。まともな人間ならこんなへたくそな絵が担保になるとは誰も考えはしない。ぶよぶよした緑の毛虫は朝食のテーブル越しに見たとき彼をあざけって身をくねらせたように思えた。ミスタ・シャーノールの頼みを断ることばが喉元まで出かかった。お偉方が金を貸すのを断るとき、誰もが使う同情のこもった、しかし裁判官のように断固たる調子のことばが。そうした機会にとりわけよく使われる、悲しげだがきっぱりした口調というものがある。それは借り手に、金を出したいのはやまやまだが、道徳的高みに立って判断するなら、今のところ断らざるを得ない、という趣旨を伝えるはずのものである。公共の福利のことを考えなくてすむのなら、すぐにでも頼まれた額の十倍だって出すのだが。
 ウエストレイはこれと同じようなことを言おうとしていたのだが、オルガン奏者の顔を一瞥し、そのしわの中にこの上なく痛ましい不安が刻みこまれているのを見て、決心を揺さぶられた。彼は昨夜のけんかのこと、そして今朝、ミスタ・シャーノールが謝罪し、彼より年若い男の前で謙虚に振る舞ったことを思い出した。彼は二人のよりが戻ったことを思い出した。一時間前、よりが戻せるなら喜んで十ポンド払おうと思ったではないか。友情が回復した感謝のしるしに、この貸し付けにはやっぱり賛成したほうがいいのではないか。考えてみたらあの絵は立派な担保になるかも知れない。誰かが五十ポンドを払おうとしたくらいなのだから。
 オルガン奏者にはウエストレイの心の変化が分らなかった。ただ気乗り薄そうな最初の印象だけを心に留め、ひどくそわそわしていた――絵を買う動機がミス・ユーフィミアに対する親切だけだとしたら、不思議に思われるくらいそわそわと。
 「確かに大金だね。分っているよ」彼は低い声で言った。「きみにこんなことを頼むなんて、わたしもすごく嫌なのさ。でも、これはわたしのためにするんじゃない。わたしは今まで自分のために一銭だって物乞いをしたことはないし、これからも貧民収容施設に行くまでは、そんなことをするつもりはない。迷っているなら、すぐ答えなくてもいい。じっくり時間をかけて考えてくれ。ただできるものなら、ウエストレイ、助けて欲しいんだよ。今、絵をこの家からなくしてしまうのは何とも惜しい」
 熱のこもったその話し方はウエストレイを驚かせた。ミスタ・シャーノールは単に親切というだけでなく、何か企みを持っているのだろうか。あの絵はやっぱり価値があるのだろうか。彼は部屋の反対の壁に近づき、安っぽい花と毛虫をじっと見つめた。いや、そんなわけはない。この絵には逆立ちしたって価値はない。ミスタ・シャーノールがあとをついてきて、彼らは並んで窓の外を眺めた。ウエストレイはほんの束の間、迷いを感じた。人情と、そしておそらく良心も、ミスタ・シャーノールの願いに応じるべきだと彼に語りかけた。警戒と貯蓄本能は、十ポンドが手元の全資金の少なからぬ一部であることを思い出させた。
 雨の後の明るい日差しがさしてきた。路面には水たまりが光り、店の窓にかかるひさしには水滴の列がきらめいている。砂地の道は日に照らされて暖かい湯気を立てていた。彼らの下でベルヴュー・ロッジの正面ドアが閉まり、縁の広い麦わら帽に、プリント地のドレスを着たアナスタシアが、足取り軽く階段を下りていった。その輝かしい朝、二人の男が上の窓から見ているとも知らず、バスケットを抱え市場へさっそうと歩く彼女は、あらゆるもののなかでもっとも輝いて見えた。
 その瞬間ついに人情はウエストレイの頭の中から節約を追い出したのだった。
 「いいでしょう」と彼は言った。「是非二人で絵を買いましょう。ミス・ジョウリフとの交渉は任せます。今晩五ポンド紙幣を二枚お渡しします」
 「ありがとう――ありがとう」オルガン奏者は大いにほっとした。「いつでも都合のいいときに買い戻せるとミス・ユーフィミアに言っておくよ。彼女が買い戻す前にわれわれの一人が死んだら、そのときは生き残ったほうの所有物だよ」
 このようにしてその日、ミス・ユーフィミア・ジョウリフを一方の当事者とし、ミスタ・ニコラス・シャーノールおよびミスタ・エドワード・ウエストレイを他方の当事者とし、両者のあいだに名画売買の契約が成立したのである。緑の毛虫が隅にのたくる派手派手しい花の絵に、競売の木槌が鳴ることはなかった。そしてボーントン・アンド・ラターワース商会はミス・ジョウリフから、故マーチン・ジョウリフ所蔵の絵画は売ることができないという、丁寧な断りの手紙を受け取った。

 第十一章

 年老いたカリスベリ主教が亡くなり、新しいカリスベリ主教が任命された。この人選は低教会派にいささか悔しい思いをさせた。というのは新主教のウイリス博士は確固たる信念を持つ高教会派だったからである。しかしその信心深さには定評があったし、キリスト教的寛容と相手を思いやる慈愛に満ちていることはじきに理解された。
 ある日曜日、朝の礼拝が終わってミスタ・シャーノールがボランタリーを演奏していると、一人の少年聖歌隊員がこっそりと小さな螺旋階段を上がり、オルガンのある張り出しに姿をあらわした。ちょうど彼の先生が幾つかの音栓を引っ張り出し、ストレッタに入ろうとしているときだった。オルガン奏者は階段を上る少年の足音を聞かなかったので、突然白い法衣を目にして飛び上がるほどびっくりした。手も足も一瞬持ち場を離れ、危うく曲が止まってしまうところだった。しかしそれは一瞬のこと。彼は気を取り直し、フーガをその論理的帰結へと導いていった。
 それから少年が口を開いて「参事会員パーキンさんから伝言です」とやりはじめたのだが、とたんに中断させられてしまった。オルガン奏者が彼に容赦のない平手打ちを見舞ったからである。「ボランタリーの演奏中にこっそり階段を上がってくるなと、何度言ったら分かるんだ。幽霊みたいに隅っこから出てくるから肝をつぶしたじゃないか」
 「すみません、先生」少年はべそをかきながら言った。「そんなつもりじゃ――まさか――」
 「まったくおまえは、まさかって真似をしてくれるよ」ミスタ・シャーノールは言った。「さあ、もうめそめそするな。若者の肩に分別ある頭は生えぬ、か。二度とやるんじゃないぞ。ほら、六ペンスやろう。伝言を聞かせてくれ」
 六ペンスはカランの少年たちがめったに手にすることのない大金で、この贈り物はギレアデの香油よりもすみやかに少年を慰めた。
 「参事会員パーキンさんから伝言です。聖具室でお話がしたいとのことです」
 「すぐ行くよ。楽譜を片付けしだい、すぐ行くと伝えてくれ」
 ミスタ・シャーノールは急がなかった。午後の演奏のために聖詩篇と典礼聖歌を机の上に開いておかなければならなかったし、朝の礼拝用のアンセム集をしまい、夕べの礼拝用のアンセム集を取り出す必要があったのだ。
 かつてこの教会には優れた楽譜集を買う余裕があった。ボイ(註 十八世紀英国の作曲家)の初版申しこみリストには――その人数の少なさにボイ博士が猛烈な屈辱を感じるリストだが――「カラン大聖堂主任司祭兼創設会員(六部)」という記載が今でも見られる。ミスタ・シャーノールは硫酸紙で装丁され、最大限余白をたっぷり取った、偉大なボイの楽譜をこよなく愛した。ページをめくるときの乾いた音も大好きだったし、簡略譜のように一度に九つの五線が読める、古風な音部記号も大好きだった。彼は記憶を確かめるために、一週間の曲目一覧を見た――ワイズ作曲「わが栄えよ、醒めよ」。いや、これは第二巻じゃなくて第三巻に載っているやつだ。間違った巻を取り出したぞ――この楽譜集はよく知っているのに何をしているんだ。背表紙の子牛の粗革がぼろぼろだ!さびのような赤い革くずが彼の外套の袖にくっついていた。これでは人前には出られぬと、さらにしばらく時間をかけてそれを払い落とした。参事会員パーキンは聖具室で待たされていらいらし、ミスタ・シャーノールがあらわれるなり、とげとげしい口調で挨拶した。
 「呼ばれたらもう少し早く来てもらいたいね。今は特に忙しいんだから。少なくとも十五分は待ったぞ」
 それこそミスタ・シャーノールが意図していたことだった。彼は主任司祭のことばに少しも嫌な顔をせず、ただこう言った。
 「失礼しました。十五分も経ってはいないと思いますが」
 「ふん、無駄話はやめよう。きみに伝えたかったのは、カリスベリ主教が来月十八日の午後三時に、この大聖堂で堅礼式を行うことになったということだ。われわれは聖歌隊つきの礼拝を行わなければならない。きみにはだいたいでいいから演奏曲案を提出してもらいたい。わたしがいいかどうか点検するから。特に注意すべきことが一つある。主教が身廊を歩くとき、それにふさわしい行進曲をオルガンで演奏しなければならないが――わたしがよく文句を言っている古臭いやつじゃなくて、本当に堂々とした、メロディの判り易いのにしてもらいたい」
 「ああ、それなら簡単ですよ」ミスタ・シャーノールはおもねるように言った。「ヘンデルの『見よ、英雄は還りぬ』ならぴったりでしょう。オッフェンバッハのオペラの中にも、手を加えれば使える曲がありますな。ちゃんと感情をこめれば実に耳に快い作品ですよ。フルオルガンで『死の舞踏』をゆっくり弾くこともできます」
 「ああ、『マカベウスのユダ』の中の曲だね」主任司祭は思いがけず相手が自分の意見に従ったので、少しだけ機嫌を直した。「ふむ、わたしの意向を理解しているようだ。それじゃこの件はきみに任せるよ。ところで」と彼は聖具室を出るとき振り返って言った。「さっき礼拝の後で弾いていた曲、あれは何かね」
 「ただのフーガですよ。カーンバーガーの」
 「そのフーガというやつばかりを演奏しないでもらいたいね。学問的見地からはどれもすばらしいことに間違いないが、大多数の人にはただ混乱しているようにしか聞こえん。わたしと聖歌隊が威厳を持って退出しようとするとき、後押ししてくれるというより足かせになっている。厳かな礼拝の最後にふさわしい悲哀と威厳のこもった曲がほしいのだが、同時に聖歌隊席を出て行くときに、足取りを合わせられる、リズムのはっきりしたやつがいい。こんなことを言っても気を悪くしないでくれたまえ。だがオルガンの実用的な側面が最近は非常になおざりにされている。ミスタ・ヌートが礼拝をするときはどうだっていいが、わたしのときは頼むからフーガはやめてくれ」
 カリスベリ主教のカラン訪問は重大事件で、ある程度の事前の計画と準備を必要とした。
 「主教にはもちろんわたしたちと昼食をしていただかなくては」ミセス・パーキンが夫に言った。「あなた、もちろん昼食にお誘いになるわね」
 「ああ、当然じゃないか」と参事会員は答えた。「昨日、昼食のお誘いの手紙を書いたよ」
 何食わぬふうを装うとしたが、あまりうまくいかなかった。それほど大切な用件を妻に相談もなく手紙に書いて出したのは、許しがたい無作法ではなかったかと心配になったからである。
 「あらまあ、あなた」彼女は応じた――「あらまあ!少なくともことば遣いくらいはきちんとなさったでしょうね」
 「ふん!」今度は彼がいささかいらだつ番だった。「主教に手紙を書いたことがないとでも思っているのかい」
 「そんなことを言っているんじゃないわ。こういう招待というのは、妻が出すものと決まっているのです。主教が育ちのいい方なら、その家の奥方が書いたのじゃない昼食のお誘いにびっくり仰天なさるわ。少なくともそうするのがしきたりなのよ、育ちのいい方のあいだでは」
 「育ちのいい」などという恐るべきことばを繰り返し強調するなど、主任司祭に口論する気があったなら宣戦布告のきっかけともなりかねなかったが、彼は平和を愛する男だった。
 「おまえの言うとおりだね」と彼は穏やかに答えた。「ついうっかりしたよ。主教が大目に見てくれることを期待しよう。昨日の午後、主教が来ると公式の通達を受けて、大急ぎで書いたんだ。ほら、おまえは外出中だったし、わたしは手紙の集配に間に合わさなければならなかったから。人間は偉い人に取り入ろうとして何をするかわかったものじゃない。集配に間に合わなかったら、ずうずうしい他の誰かが先に主教を招待することだってありうるじゃないか。もちろん、このことはおまえに伝えるつもりだったのだが、つい失念してしまったのだよ」
 「あらまあ」彼女は気持ちが半分しかおさまらず、舌鋒鋭く言った。「わたしたちの他に主教をお招きする人なんかいるかしら。司祭館を除いて、カランのどこでカリスベリ主教がお昼を召し上がるというの」この答えることのできない謎をかけて、ようやくくすぶっていた怒りの火が消えた。「きっとあなたはそうするのが一番いいと思ってなさったんでしょうね。それにずうずうしい俗物連中が大嫌いなのはわたしも同じ。ちょっとでも地位のある人を見つけると、つかまえようとするんですもの。さあ、主教にお会いしていただく方の人選をしましょう。少人数のほうがいいわね。少ないほうが敬意がこもっているように見えるから」
 彼女は根っから他人の美点や知性を認めようとせず、恩恵が全員にゆきわたるくらいたっぷりあっても出し惜しみするという表面的で狭量な心の持ち主だった。だから主任司祭とミセス・パーキンの他には、かくも高貴な人物と交際するにふさわしい人間はほとんどいないということがはっきり示されるように、主教との面会に招かれる人は少人数でなければならなかったのだ。
 「まったく賛成だ」主任司祭は主教を招待するというみずからの無分別が宥恕されたようだと、ほっと胸をなでおろした。「出席者は何よりも厳選されていなければならない。無論、少人数でいくしかないと思うね。主教との面会にお誘いできるような人間はもともと少ししかいないんだから」
 「そうねえ」彼女は両手の指を使って名望家連を数え上げているようだった。「まずは――」彼女は突然あることを思いついてことばを切った。「そうだわ、もちろんブランダマー卿をお誘いしなければならないわ。教会のことにあれだけ強い関心をお示しですもの、きっと主教にお会いになりたがると思うわ」
 「実にいい思い付きだ――言うことなしの名案だよ。教会に対する卿の関心を深めることになるだろうし、放浪したり、ボヘミアンみたいな暮らしの後で、正しい階層の人々とお付き合いするのは、あの方にとってもいいことだろう。卿についてはありとあらゆる奇怪な噂が流れているね。工事監督のミスタ・ウエストレイとか、あの方の地位にはまったくふさわしくない連中と仲よくしているという話だ。ミセス・フリントがたまたま裏通りの貧しい女性を訪問したんだが、あの方が教会事務員の家に一時間以上もいて、あまつさえそこで食事もしたと言っていたよ。食べたのは何と胃袋料理だっていうじゃないか」
 「じゃあ、主教に会うのはあの方にとってきっといいことだわ」と夫人は言った。「それでわたしたちを入れて四人。あとはミセス・ブルティールをお呼びしてもいいわね。旦那のほうは誘うことないわ。がさつで見ていられないもの。それに主教はビールの醸造業者になんかお会いになりたくないでしょう。奥様一人だけを招待してもちっともおかしかないわ。昼間はお仕事の邪魔になるでしょうからって、決まり文句を使ってやればいいのよ」
 「それで五人か。六人にしたほうがいいだろう。あの建築家とかミスタ・シャーノールを誘うのはまずいだろうな」
 「あなた!何を考えているの。絶対だめです。そんな人を呼ぶなんてとんでもありません」
 主任司祭がこの叱責にすっかりしゅんとなって縮こまったものだから、妻の態度は少し軟化した。
 「お誘いになるのは結構よ。でもそんな席に呼ばれても、ばつの悪い思いをするだけでしょう。人数を偶数にしたいならヌートを呼ぶのはどうかしら。あの人は紳士だし、礼拝堂つき牧師で通用するし、お祈りを唱えることもできるわ」
 このようにして参加者は決まった。ブランダマー卿は招待を受け入れ、ミセス・ブルティールも招待を受け入れた。牧師補はわざわざ招待するには及ばなかった――彼はただ昼食に来いと命じられただけだった。しかしそこまでは順調に進んだのに、予期せぬ事態が発生した――主教が昼食に来られないと言うのである。彼は参事会員パーキンに丁重な歓迎を受けることができず残念だと言った。しかし用事があって、カランで過ごす時間はすべてそれに当てなければならない。実はほかの人と昼食の約束をしたのである。司祭館には礼拝開始の三十分前に行くつもりだ、とこう連絡してきたのだ。
 主任司祭と妻は「書斎」に座っていた。司祭館北側の暗い部屋で、窓外のしめったガマズミの低木と、室内のお粗末な鳥の剥製がいっそう不吉な印象を与えていた。二人の前のテーブルにはブラッドショー鉄道案内が置かれていた。
 「カリスベリから馬車で来るはずがないわ」ミセス・パーキンが言った。「ウイリス博士は前任者のような厩舎をお持ちじゃないもの。ミセス・フリントがカリスベリで毎年恒例の共励会に出たとき、ウイリス博士は、主教たるもの、教会の仕事に絶対必要と認められるもの以外、乗り物に贅を凝らしてはいけないというお考えだって聞いたそうよ。彼女自身、主教の馬車とすれ違ったんだけど、御者は服装もみすぼらしくて、馬は二頭ともどうしようもない駄馬だったんですって」
 「同じことをわたしも聞いたよ」と主任司祭は相槌を打った。「馬車に自分の紋章を描かせないということだね。何もせずそのままで充分ということらしい。カリスベリからここまで馬で来ることはあり得ないな。たっぷり二十マイルあるから」
 「馬車じゃないとすれば、十二時十五分の汽車で来るしかないわ。それだと礼拝まで二時間十五分の余裕がある。カランで用事だなんていったい何かしら。どこでお昼を召し上がるのかしら。二時間十五分も何をなさるっていうのかしら」
 ここにもう一つの謎があらわれたわけだが、これに答えられるのはカランにただ一人しかいなかっただろう。それはミスタ・シャーノールである。ちょうどその日、一通の手紙がオルガン奏者のもとに届いた。

 カリスベリ、主教公邸
 親愛なるシャーノール
(もう少しで「親愛なるニック」と書きそうだったよ。あれから四十年がたち、わたしのペンも少しこわばってしまったが、この次は「親愛なるニック」と書けるよう、きっと正式な許可をくれたまえよ)わたしの筆跡は忘れたかもしれないが、わたしのことは忘れていないだろう。新しい主教となったのが、このわたし、ウイリスだということを知っているかい。きみがわたしのすぐそばにいることを知ったのはほんの二週間前のことだ。

 何と喜ばしきことだろう
 輝ける友情を再び蘇らせることは――

さっそくなんだが、わたしはきみに昼飯をたかろうと思っている。わたしは堅信礼のために今日から二週間後、十二時四十五分にカランに行き、二時三十分に司祭館に着かねばならない。しかしそのあいだ、わが友ニコラス・シャーノールよ、わたしに食べ物と避難所を与えてくれないか。言い訳は無用。そんなもの認めないからね。ただ確実に義務を遂行する旨知らせてくれたらいい。
      いつも変わらぬきみの友
          ジョン・カラム

 この手紙を読んだとき、ミスタ・シャーノールの耄碌した身体の中で何かが不思議とざわめいた――いろいろな思いが入り乱れた。大人の心の中に隠れた子供の心が声をあげ、希望に満ちた若い自分が絶望的な年寄りの自分に語りかけた。肘掛椅子に座り目を閉じると、大学の小さな礼拝堂の、オルガンの置かれた二階の張り出しがよみがえってきた。長い長い練習、そして彼が演奏をつづけるあいだ、ずっと満足そうにそばに立って聞き入っていたウイリス。ウイリスは、脇で音栓をひっぱったくらいで音楽ができると思いこみ、嬉しそうにしていた。ウイリスは音楽などちっとも分かっていなかった。しかし趣味がよくて、フーガが大好きだった。
 田舎を歩き回って聖堂めぐりをしたこと、そして「ゴシック建築入門」を手に、初期イギリス様式の刳形とイギリスゴシック建築様式の刳形の違いを説明しようとするウイリスの姿が思い浮かんできた。日が落ちて何時間経っても、北の空が澄み切った黄色に染まったままの、かぎりなく長い夏の夕べ。しっとり露にぬれた広い乗馬道が脇を走る、埃っぽい白い道。暗くて神秘的なストウウッドの森。ベックリイの小道に生えたハシドイの香り。チャーウエルの谷に立ち籠める白い霞。それから寮に帰って食べた夕食――記憶は強力な錬金術師で、夕映えだけでなく夕食までも変質させてしまう。なんという夕食だったろう!ルリチシャの浮かぶ林檎酒、ミントソースをかけた冷めた子羊の肉、ミズガラシ、三角形のスティルトンチーズ。そういや、スティルトンチーズは四十年も食べていないぞ!
 そう、ウイリスは音楽の知識がなかったが、フーガは大好きだった。ああ、フーガとなるとウイリスは聞き入っていたな!そのときひとつの声がミスタ・シャーノールの記憶によみがえった。「わたしのときは頼むからフーガはやめてくれ」「フーガはやめてくれ《ノー・モア・フーグ》」――その言い回しには「海も亦なきなり《ノー・モア・シー》」という黙示録的光景と同じくらい、妥協を許さない断定的な響きがあった。ミスタ・シャーノールは苦々しく笑い、夢想から目覚め、現実に還った。
 主教選出のニュースをはじめて聞いたとき、それが昔の友人であることはもちろん分かった。そのウイリスが会いに来てくれるとは嬉しいじゃないか。ウイリスはあの騒動のことをみんな知っている。わたしがオクスフォードを退学しなければならなくなった事情も。うん、しかし主教は心の広い寛大な男だから、いまさらあんなことをとやかく言わないだろう。ウイリスはわたしが貧しい、尾羽打ち枯らした老人に過ぎないことをよく知っているはずだ。それでもわたしのところに昼飯を食べに来るといっている。しかしウイリスはわたしが今も――。彼は考えつづけるのをやめ、鏡を見てネクタイを直し、外套の第一ボタンを留めると、震える手で左右の頭髪を後ろに撫で付けた。いや、ウイリスはそこまでは知らないし、知られてはならない。悔い改めるに遅すぎることはないのだ。
 彼は戸棚のほうにむかい、酒瓶とタンブラーを取り出した。アルコールはほんの少ししか残っていなかったが、彼はそれをタンブラーに残らず注いだ。束の間彼は躊躇した。気弱になった意志が負けるなとみずからを励ました一瞬だった。どうやら彼はこの高価な酒を一滴たりとも無駄にするまいとしているらしかった。彼は酒瓶を慎重にひっくり返し、最後の小さな一滴が瓶を離れ、タンブラーに落ちるのを見た。いいや、わたしの意志の力はまだ完全に麻痺してはいないぞ――まだな。そして彼はタンブラーの中身を火にぶちまけた。淡い青色の炎がぼっと大きく燃え立ち、小さな爆風が窓ガラスを鳴らした。しかし英雄的行為はなされた。彼は心の中で幾つものトランペットが鳴り、「自己に打ち勝った者」(註 ケンピスの「キリストにならいて」から)と叫ぶ賞賛の声を聞いた。ウイリスに知られてはならない、わたしが今も――なぜならわたしは金輪際酒とは縁を切るつもりなのだから。
 彼は呼び鈴を鳴らした。ミス・ユーフィミアがそれに応じて出てみると、彼はほとんど跳ね回るように元気よく部屋の中を行ったり来たりしていた。彼女が入ってくると、彼は立ち止まり、踵を合わせて深々とお辞儀をした。
 「これはうるわしき城主様。どうぞ従者に跳ね橋を下ろし、鬼戸を上げよとお命じくだされ。肉詰めのパイ、塩漬けの魚、葡萄酒の大樽をご注文なさり、大広間はわがカリスベリ主教をお迎えするにふさわしく飾り立ててくだされ。主教はこのお城で中食をお召し上がりになり、馬に馬草を与えるおつもりですぞ」
 ミス・ジョウリフは目を丸くした。テーブルの上に酒瓶とタンブラーがあり、ウイスキーの臭いが芬々と漂っていた。彼女の考えていることが分かると、ミスタ・シャーノールの顔からはしゃいだ表情が消えた。
 「いや、違うよ」と彼は言った。「今回は違うんだ。わたしはまったくしらふだよ。ただ興奮しているのさ。主教が昼食を食べにここに来るんだ。あなたはブランダマー卿《ロード》とお茶を飲んだら興奮するだろう――たかが安っぽい、世俗的な貴族だが。しかし、それなら神聖な、本物の主教《ロード》が訪ねて来るとき、わたしが興奮していけないことがあるかね。聞け、女よ!わたしはカリスベリ主教から手紙で頼まれたんだ。わたしのほうから彼に頼んだんじゃないよ。彼のほうからわたしに昼飯を食べようと言ってきたんだ。主教がベルヴュー・ロッジでお昼を召し上がるんだよ」
 「まあ、ミスター・シャーノール。分かりやすくお話してくださいな。わたしは年をとってぼけちゃっているから、あなたが冗談を言っているのか、真面目なのか区別がつかないのですよ」
 そこで彼は心の高揚を抑え、彼女に事実を語った。
 「でも、旦那様、いったい昼食に何を差し上げるおつもりですの」とミス・ジョウリフは言った。彼女は常に敬意を示す「旦那様」を適当な回数だけさしはさむように気をつけていた。自分の家柄を誇りにし、生まれに関するかぎり、カランのどんな上流婦人にも引けをとらない自信があったが、訳あって下宿の女主人となった今は、その地位をまっとうするのがキリスト教徒の勤めと思っていた。「いったい昼食に何を差し上げるおつもりですの。聖職者の方にお食事を用意するのは、いつも面倒でほとほと困ってしまいます。美味しいものをあんまりたくさんお出しすると、あの方たちの神聖な天職を充分わきまえていないみたいに思われますでしょう。まるでマルタみたいじゃありませんか、聖職者とのお付き合いからありったけの精神的利益を引き出そうとして、やたら食べ物を差し出そうとあくせくしたり、心配したり、頭を悩ましたりするなんて(註 ルカ伝より)。でも、もちろん、どんな精神的なお方だって肉体を養わないわけには行きませんわ。さもなければ善を施すこともできなくなってしまいますから。ただ、お食事の用意を控えめにすると、ときどき聖職者の方が全部召し上がってしまい、もう食べ物がないと分かると、お気の毒にがっかりなさるのです。そうそう、ミセス・シャープが教区民を招いて、教会伝道集会のあと『代表者』と顔合わせなさったときがそうだった。揚げ物料理が『代表者』の到着前になくなってしまいましたの。おかわいそうでしたわ、長い演説をなさった後で、とても疲れていらしたので、食べ物がないと分かるととてもイライラなさって。もちろんそれはほんの一瞬のことです。でもわたしはあの方が、名前は忘れたけど誰かにこう言うのを聞いたんです。これなら駅の軽食堂でハム・サンドイッチを頼んでおいたほうがずっとよかったって。
 食べ物も厄介ですけど、飲み物はもっと厄介ですわ。聖職者の中にはワインを毛嫌いなさる方もいるし、かと思うとお話の前にぜひ一杯という方もいらっしゃいます。つい昨年のことですけど、ミセス・ブルティールが応接間集会を開いて、会合の前にシャンペンとビスケットをお出ししたの。そうしたらスティミイ博士は、酒飲み全員が自堕落だとは思わんが、しかしアルコールは獣の刻印であると考える、そして人々が応接間集会に来るのは、話を聞く前に酔っ払ってうつらうつらするためではないとはっきりおっしゃったの。それが主教ともなればもっと面倒なことになるわ。そういうわけですからねえ、いったいわたしたち何をお出ししたらいいのでしょう」
 「そううろたえることはないよ」立てつづけに発せられたことばのあいだにようやく隙間を見つけてオルガン奏者は口をはさんだ。「主教が何を召し上がるのか、わたしは調べたんだ。ある小冊子に何もかも書いてある。ミント・ソース付きの冷めた子羊の肉――子羊のあばら肉だよ――ゆでじゃがいも、それからスティルトン・チーズだ」
 「スティルトン?」ミス・ジョウリフはかなり動揺して尋ねた。「あれはとても高いものじゃないかしら」
 おぼれる者が一瞬のうちに人生を振り返るように、彼女の心はとっさにウィドコウムの全盛期に、そのチーズ籠の中にあったチーズをことごとく思い浮かべた。あのころはハムとプラム・プディングが垂木から袋に入れて吊り下げられ、搾乳場にはクリーム、地下室にはビールがあった。ブルー・ビニー、グロスター・チーズのかけら、ダブル・ビザンツ(註 恐らくフェタチーズのことだろう)、ときには底にい草をつけたクリーム・チーズもあった。しかしスティルトンは見たことがない!
 「とても高価なチーズだと思いますわ。カランで売っているところはないんじゃないかしら」
 「残念だな」ミスタ・シャーノールが言った。「しかし何とか見つけにゃならん。主教のお昼にスティルトンはつきものなんだ。小冊子にそう書いてある。ミスタ・カスタンスに頼んで何とか手に入れてください。後で切り方を伝授しますよ。切り方にも決まりがあるんだ」
 彼はくすくすと一人妙な笑い声をあげた。ミント・ソース付きの冷めた子羊の肉、その後にスティルトン・チーズ――彼らはオクスフォード式の昼食をするのだ。再びあの若かった穢れのない頃に戻るのだ。
 主教の手紙がミスタ・シャーノールにもたらした刺激はすぐに薄らいだ。彼は気分屋で、その神経質な気質の中では欝状態が躁状態のすぐあとを追いかけていたのである。ウエストレイは友人が次の日から過度の飲酒にふけるようになったことに気づいた。目に見えて取り乱した奇妙なそぶりは、オルガン奏者が神経衰弱よりももっと深刻な何かに冒されているのではないかという恐れを抱かせた。
 ある晩、仕事で夜更かししていると、建築家の部屋のドアが開いて、ミスタ・シャーノールが入ってきた。顔は青ざめ、眼は驚いたように見開かれている。ウエストレイは厭な感じがした。
 「ちょっとわたしの部屋まで降りてきてくれないか」オルガン奏者は言った。「ピアノの位置を変えたいんだが、一人じゃ動かせないんだ」
 「今日はもう遅いですよ」ウエストレイは時計を取り出しながら言った。そのとき聖セパルカ大聖堂の鐘が深みのある、美しい音色を悠然と響かせ、夢見る町と沈黙する塩沢に、真夜中まであとたった十五分しかないことを告げた。「明日の朝やったほうがいいんじゃありませんか」
 「今晩はだめかね」オルガン奏者は訊いた。「すぐすむんだが」
 ウエストレイはその声に落胆の響きを聞き取った。
 「いいでしょう」彼は製図板を脇に押しやった。「この仕事はもう充分やりましたから。ピアノを移動しましょう」
 彼らは一階に降りていった。
 「ピアノのむきを百八十度変えたいんだ」とオルガン奏者は言った。「背面を部屋の中にむけ、鍵盤側を壁にむけるのさ――鍵盤を壁にうんと近づけて、わたしが座る分だけあけるんだ」
 「おかしな置き方ですね」とウエストレイは言った。「音響的にそのほうがいいのですか」
 「さあ、どうだろう。しかし一休みしたいときに壁に寄りかかれるからね」
 配置変えはすぐに終わり、二人はしばらく暖炉の前の椅子に座っていた。
 「ずいぶん景気よく火をたいていますね」ウエストレイが言った。「寝る時間だというのに」実際、石炭は山をなすほど放りこまれ、激しい勢いで燃えていた。
 オルガン奏者はその石炭を一突きし、彼ら以外誰もいないことを確かめるようにまわりを見た。
 「きみはわたしのことを馬鹿な男だと思っているだろう」と彼は言った。「まさにその通りだよ。きみはわたしが酒を飲んでいたと思っているだろう。まさにその通り。きみはわたしが今酔っぱらっていると思っているだろう。ところが違うんだ。聞きたまえ。わたしは酔っぱらっちゃいない。臆病なだけさ。きみとわたしがこの家まで一緒に歩いた最初の晩のことを覚えているかい。真暗で土砂降りだった。それから旧保税倉庫のそばを通るとき、わたしが怯えていたことを覚えているかい。ああ、あの頃から始まって、今はずっとひどくなっている。あの頃でさえ、いつも何かにつけられているという恐ろしい考えに取り憑かれていた――それもすぐ後ろをつけてくるんだ。そいつが何かは知らんが――とにかく何かがすぐ後ろにいることは知っていた」
 彼の態度と外見にウエストレイは危惧を抱いた。オルガン奏者の顔はひどく青ざめ、まぶたが奇妙につりあがって瞳の上の白目がむき出しになり、突然恐ろしい光景に直面して眼を見開いたような様子をしていた。敵に追いかけられるという幻想が狂気の初期に最もよく見られる兆候のひとつであることを思い出し、ウエストレイはオルガン奏者の腕にそっと自分の手を置いた。
 「興奮しちゃいけません」と彼は言った。「そんなの、みんなナンセンスですよ。こんな夜遅くに興奮するのはよくないですよ」
 ミスタ・シャーノールは手を払いのけた。
 「そんな気がするのは外に出たときだけだったのだが、今は家の中にいてもしばしば感じる――この部屋にいるときさえ。以前は何があとをつけてくるのか分からなかった――何かがつけてくるとしか分からなかった。でも今はそれが何か分ったよ。それは男なんだ――ハンマーを持った男なんだ。笑っちゃいかん。本当は笑いたくないんだろう。笑えばわたしの気が静まると思っているだけで。しかしその手は食わんぞ。そいつはハンマーを持った男だと思う。顔はまだ見たことがない。しかしそのうち拝ませてもらうことになるだろう。わたしに分っているのは、それが邪悪な顔だということだけだ――悪魔の絵とか、あの手のおどろおどろしい顔じゃない。もっと不吉な顔だ――一見まともに見えるが実は仮面をかぶっているぞっとするような変装した顔だよ。やつは絶えずわたしのあとをつけてくる。わたしはそのハンマーがわたしの脳天を打ち砕くんじゃないかと、いつもそんな気がしているんだ」
 「そんなはずあるものですか」ウエストレイはいわゆるなだめすかすような口調で言った。「話題を変えましょう。さもなきゃもう寝ましょうよ。ピアノの位置はこんなものでいいんですか」
 オルガン奏者はにやりとした。
 「どうしてこんなふうに位置を変えたのか、本当の理由が分かるかい」と彼は言った。「それはわたしが臆病者だからだよ。壁を背にすれば、後ろにまわられることはないからね。夜更けに怖いのを必死に我慢してかろうじてここに座っているということが何回あったことか。そんなにびくびくするくらいなら、さっさと寝ればいいんだが、ただわたしはこんなふうに自分に言い聞かせるんだ。『ニック』――子供の頃は家でそう呼ばれていたんだ――『ニック、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかないぞ。まさか幽霊におびえて部屋を出て行ったりはしまいな』それからわたしは頑張って演奏をつづけるんだが、上の空でやっていることもしょっちゅうなのさ。こうなっちゃあ、人間も哀れなものだね」ウエストレイは返すことばがなかった。
 「聖堂にいるときも」とミスタ・シャーノールはつづけた。「夜中に一人で練習するのはあまり気が進まない。カットロウが送風器で風を送ってくれていたときは大丈夫だったんだ。あいつは頓珍漢だが、それでも話し相手になる。しかしウオーター・エンジンがつけられてからは、あそこにいると心細くてね、以前ほど行く気がしなくなったのだ。何となくブランダマー卿にもらしたんだ、ウオーター・エンジンのおかげでびくびくせにゃならなくなったと。そうしたらときどき二階の張り出しに行ってお付き合いしましょうと言ってくれたよ」
 「それなら今度練習したいときは、早速わたしに知らせてください」とウエストレイは言った。「わたしも行って張り出しに座っていますよ。身体に気をつけてくださいね。なあに、そんな気の迷いなんかすぐにどこかへ消し飛んで、わたしみたいに笑い飛ばすようになりますよ」そう言って彼は微笑むふりをした。しかし夜更けということもあり、彼自身も緊張し神経質になっていた。しかもミスタ・シャーノールの精神状態がこれほどまでに不安定に陥っているという事実は彼を憂鬱にさせた。
 主教が堅信礼の日にミスタ・シャーノールと昼食をするという噂はすぐにカランに広まった。ミス・ジョウリフは従兄弟で豚肉屋のミスタ・ジョウリフに話をし、ミスタ・ジョウリフは教区委員として参事会員パーキンに話をした。たった数週間のうちに二度も重要なニュースが人伝に主任司祭に伝わってきたのだ。しかし今回はブランダマー卿がウエストレイを通じて修復工事に大金を差し出したときのような悔しさはほとんど感じなかった。彼はミスタ・シャーノールに憤りを感じなかったのである。この一件はあまりに厳粛重要であって、個人的なつまらない感情の割りこむ余地はなかったのだ。いかなる主教の、いかなる行いもすべからく神の行いであり、この神の定めに憤慨するのは船の難破や地震に腹を立てるのと同じくらい場違いなことだったろう。カリスベリ主教をもてなす役に選ばれ、主任司祭の目にはミスタ・シャーノールがただならぬ人物に見えてきた。これは単に知性があるとか、技術が優れているとか、骨の折れる単調な仕事にまじめに取り組んできたとか、そうしたことだけでは決して得られない評価であった。オルガン奏者は事実上、端倪すべからざる人物となったのである。
 司祭館は憶測を巡らしては議論し、議論しては憶測を巡らせた。主教がミスタ・シャーノールと昼食を共にするなど、いったいどうすればそんなことになるのか、どうしてそんなことが起きうるのか、どうしてそんなことをしようという気になるのか、どうしてそうでなければならないのか。主教はミスタ・シャーノールが小料理屋でも開いていると思ったのか。それとも主教はミスタ・シャーノールしか作り方を知らない特殊なものを食べるのか。主教はミスタ・シャーノールを専用礼拝堂のオルガン弾きとして迎えようとしているのか。たしか主教座聖堂に空きはなかったはずだ。憶測は謎というめくら壁に総攻撃をしかけ、痛手を受けて退却した。何時間もそのことばかりを話し合ったあげく、ミセス・パーキンは、もうどうでもいいと投げ出した。
 「どういう事情なのか、わたしなんかに分るわけないんですけどね」彼女は例の確信のこもった、断罪するような口吻で言った。つまり、口にこそ出さないが、自分には分かっている、この謎は解決したとしても、どうせ二人の当事者の間にうさんくさい関係があることを明らかにするだけだろう、というようなことを暗示する口吻である。
 「どうなんだろうねえ、おまえ」と主任司祭は妻に言った。「ミスタ・シャーノールは主教をしかるべく歓迎できるのかな」
 「しかるべく、ですって!」ミセス・パーキンが言った。「しかるべく!今回の一件は最初から最後までしかるべき手順を踏んでいないと思いますわ。あなたがおっしゃっるのは、ミスタ・シャーノールにしかるべき食事を買う金があるかってことかしら。もちろんないに決まっているわ。それともしかるべき皿やフォークやスプーン、しかるべき食事部屋があるかってこと?あるわけないじゃない。それとも彼にしかるべく料理が作れるかってこと?誰が料理をするのよ。あの役立たずのミス・ジョウリフと生意気な姪しかいないじゃない」
 参事会員は妻のことばが喚起する快適とは言えない光景に大いに当惑した。
 「主教のためにできるだけ便宜をお図りするべきだよ。お困りにならないよう、あらゆる手をつくすべきだと思う。どうかね、多少の不都合は我慢してシャーノールに主教を連れてきてもらい、彼も昼食会に加えるっていうのは。彼だって主教を下宿屋でもてなすなど、前代未聞だってことくらい重々承知しているだろう。ヌートの代わりに彼を六人目に据えればいい。ヌートにお役ご免を言い渡すのは簡単だし」
 「シャーノールはろくでもない評判の男よ」とミセス・パーキンが答えた。「きっと酔っぱらって来るわ。そうでなくたって『育ち』も教育もないんですからね。上品な会話についてこられないわよ」
 「おまえ、主教はもうミスタ・シャーノールとお昼の約束をなさっているんだから、二人を引き合わせてもとやかく言われることはないんだよ。それにシャーノールはちょっとした学問を身につけている――どこで身につけたのか想像もできんが。だがね、一度やつが短いラテン語をすらすら理解するのを見たことがある。ブランダマー家の座右銘『ファインズにあらざれば死』(本章末尾の註参照)というやつだ。他の人から聞いたのかもしれないが、しかしラテン語が分かるような様子だった。もちろんラテン語の本当の知識は『大学』教育を受けなければ得られないが」――主任司祭はネクタイとカラーを直した――「しかし薬屋とかあの手の連中は門前の小僧で生かじりの知識を持っているからね」
 「それにしたって、昼食のあいだじゅうラテン語を話すことはないでしょう」妻が遮った。「あの人を呼ぶ呼ばないはあなたのご自由にどうぞ」
 ぞんざいな言い方ではあったが、とにかく許可を得たことに主任司祭は満足し、そのあとしばらくしてシャーノールの部屋を訪ねた。
 「堅礼式の日なんだが、是非ともうちへ昼食にきてほしいと、ミセス・パーキンが切望している。妻は主教の同意を待って、きみに招待状を送るつもりだったんだ。しかし聞くところによると」彼は怪訝そうに、ためらいながら言った――「聞くところによると、主教はきみとお昼を食べるかもしれないんだってね」
 参事会員パーキンの口の端がぴくりと動いた。主教が安下宿でミスタ・シャーノールとお昼を共にするというのは、滑稽きわまりない図で、彼は吹き出しそうになるのを必死にこらえていた。
 ミスタ・シャーノールはその通りと頷いた。
 「ミセス・パーキンはね、主教をおもてなしするのに必要なものが、きみの宿にあるかどうか心配していたよ」
 「その点はお任せください」とミスタ・シャーノールが言った。「今は少々みすぼらしく見えますがね。椅子という椅子をみんな椅子張り職人に出しているので。金箔の剥げを直してもらっているんですよ。もちろんカーテンも新調するし、ここの女主人は一番いい銀器を磨きはじめています」
 「これはミセス・パーキンの思いつきなんだが」と主任司祭はつづけた。彼は言うべきことを言おうとするあまり、オルガン奏者のことばにはほとんど注意を払わなかった――「ミセス・パーキンの思いつきなんだが、お昼は主教を司祭館にお連れしたほうがよくはないかね。準備の手間が省けるし、もちろんきみも一緒にお昼を食べたらいい。われわれのほうに不都合なことはないんだ。ミセス・パーキンはきみがお昼に加わってくれたら喜ぶだろう」
 ミスタ・シャーノールは頷いたが、今度は不賛成の頷きだった。
 「ご親切にありがとうございます。ミセス・パーキンのお心遣いにも心から感謝します。しかし主教はこの家でお昼をいただくとおっしゃってますからな。主教のお望みに異を唱えるわけにはいきません」
 「主教はきみの友達なのかい」と主任司祭が訊いた。
 「友達とはいえません。四十年会っていないんですから」
 主任司祭には何が何やらさっぱり分らなかった。
 「ひょっとして主教は勘違いしているのかもしれないね。この下宿が今でも宿屋だと――つまり神の手だと思っているのかもしれないね」
 「かもしれませんな」とオルガン奏者は言った。短い間があった。
 「考え直してくれるとありがたいね。わたしがミセス・パーキンにこう伝えちゃまずいかな、主教にはきみから司祭館でお昼を食べるように要請すると――いや、もちろん、きみも一緒に」――彼はいやいや最後のことばを発した。主教を主教とは釣り合いのとれない男と一緒にしたり、限られた歓待のドアをミスタ・シャーノールに開くのは胸のうずく思いであったが――「きみも一緒にお昼を食べ来ると伝えては」
 「残念ですが」とオルガン奏者は言った。「残念ですがやめておきましょう。特別な礼拝ですから準備が大変なんです。司祭が聖堂に入場するとき『見よ、英雄は還りぬ』を演奏するなら、練習時間も必要です。ご存じでしょうが、ああいう曲は多少指を慣らしておかなければなりませんので」
 「最高の演奏を期待しているよ」攻略は不首尾に終り主任司祭は兵を引き上げた。
 ミスタ・シャーノールの妄想、とりわけ誰かが後をつけてくるという妄想は、ウエストレイに好ましからざる印象を与えた。彼は同宿人の身を案じ、そのような状態にある人間はみずからに危害を与えることもあると、思いやりのある目で彼を監視しようとした。夕方になるとたいていミスタ・シャーノールの部屋に降りてゆき、あるいはオルガン奏者を上の自分の部屋に招いた。高齢者の一人暮らしにつきまとう孤独が妄想を生み出す大きな原因に違いないと考えたのである。ミスタ・シャーノールは夜になると、かつてマーチン・ジョウリフの持ち物だった書類の整理と閲読に没頭した。書類は生涯をかけて集めただけに膨大だった。中身はメモの切れ端とか登記簿からの書き抜きとか系図がびっしり書きこまれた写本とか、それに類したものだった。最初、これらを分類あるいは破棄する目的で調べはじめたとき、彼はこの仕事に乗り気でないことをありありと示していた。理由さえあれば喜んで仕事を中断したり、ウエストレイの援助を請うた。一方建築家はもともと考古学や系譜学を好み、かりにミスタ・シャーノールが彼に書類全部の閲読を任せたとしても不快には思わなかっただろう。彼は一人の男の全人生を無駄にさせたキメラの由って来たるところを突き止めたかった――マーチンがそもそもブランダマー家の爵位継承権を持つと信ずるに至った、その原因を探り出したかった。はっきり意識はしていなかったが、アナスタシア・ジョウリフに惹かれはじめていたことがさらなる動機となっていたのかもしれない。この調査によって彼女の運命が左右される可能性もあったからである。
 ところが書類に対するオルガン奏者の態度がほどなく変化したことにウエストレイは気がついた。ミスタ・シャーノールはこれ以上建築家が書類を調査することを厭がった。そしてみずからその研究に多大の時間と注意をむけるようになり、用心深く鍵をかけてそれらを保管した。ウエストレイは性格的に人に疑われるような真似を嫌った。彼は早速その問題に首をつっこむのをやめ、ミスタ・シャーノールに対して、書類にはもはや何の関心もないようなふりをした。
 アナスタシアはあんな妄想に根拠があるわけがないと大笑いした。彼女はミスタ・シャーノールを笑い、ウエストレイを冷やかし、お二人とも雲形紋章を探して旅に出ることになるわ、と言った。しかしミス・ユーフィミアにとっては笑い事でなかった。
 「ねえ、あなた」と彼女は姪に言った。「富や財産を求める旅というのは、どんなものであれ神様の御心にかなったものじゃないのよ。ものを探し当てようなんてすることは」――彼女は女性らしく「もの」ということばに重々しい包括的意味をこめた――「たいてい人間によくない影響を与えるの。私たちにとって貴族であり金持ちであることがよいことなら、神様はきっとわたしたちをそういう境遇につけてくださるわ。でも自分が貴族であることを証明するなんて、白昼夢にふけったり易を見てもらうようなものよ。偶像崇拝は罪深い魔術みたいなものね。そこに神様の祝福はないわ。わたし、マーチンの書類をミスタ・シャーノールに渡したことを、これからずっと後悔する。自分で調べるなんてとても耐えられそうになかったし、もしかしたら小切手みたいな貴重なものが混じっているかもしれないと思って渡したんだけど。さっさと燃やしてしまえばよかった。ミスタ・シャーノールは全部読み終わるまで捨てるつもりはないと言っている。あんなもの、マーチンにとって祝福でも何でもなかった。あのお二人も魔力に惑わされなければいいけど」

(註 「ファインズにあらざれば死」の原文は Aut Fynes, aut finis。finis には「境界、領土、限界、目標、終わり、末端、最後」などの複数の意味がある。また、この座右銘がつくられた当時の発音から考えると、Fynes は finis の複数形 fines ととることも可能である)

 第十二章

 修復計画がブランダマー卿の寛大な寄付によってしかるべく修正され、作業も順調に進捗する段階に入ると、当初は細かい点までみずから厳しい監督の目を光らせていたウエストレイにも、ときには軽くくつろぐ余裕が生まれた。ミスタ・シャーノールは夕べの祈りのあと、半時間以上も演奏していることがしばしばあり、そんなときウエストレイは暇をとらえてオルガンのある張り出しにむかった。オルガン奏者も彼を喜んで迎え入れた。どれほどさりげない形ではあれ、そうした訪問に示される関心のしるしをありがたく思ったのだ。ウエストレイは専門知識はなかったものの、張り出しの見慣れぬ様子に大いに興味をそそられた。そこはそれ自体でひとつの不思議な王国をなしていた。カラン大聖堂の聖歌隊席を身廊からへだてる、巨大な石の障壁の上にあり、まるで無人島ででもあるかのように、外界から遠く切り離されているのである。そこへ行くには障壁の南端、身廊の側から狭い石の螺旋階段を登らなければならなかった。この窓のない階段は、下のドアが閉められると、登っている者が一瞬うろたえるほどの真暗闇に包まれる。彼は足で階段をさぐり、中心の小柱に手をかけながら進まなければならなかった。それは過去、数え切れないほどの手によって大理石のような滑らかさにまで磨きあげられていた。
 しかし六段も登ると暗闇は薄れていく。まず夜明け前の薄明かりが見え、やがて階段の上に達し、張り出しに足を踏み入れると柔らかな光があふれてくる。そこで何よりも目を惹くものが二つあった――一つは南袖廊の入り口に架かる、巨大なノルマン様式のアーチで、その表面には雅やかで繊細な刳り形が施されていた。もう一つはその背後にあるブランダマー・ウィンドウの上端で、複雑きわまりない狭間飾りの中心に、海緑色と銀色の雲形紋章が光り輝いている。それから彼は延々とつづく身廊の天井を見上げたり、ノルマン様式の穹窿天井を山形模様のリブが交差し、斜め十字を形作りながら柱間を区切っている様子を眺めたり、中央塔のランタンに目をやり、ヴィニコウム修道院長の垂直様式の羽目板が軽やかな線を描いて上昇し、はるか頭上の窓のところで消えているのを眼で追ったりするのである。
 張り出しにはありあまるほどの空間があった。ゆったりした線に囲われ、演奏者の席の横には椅子を一、二脚置く余裕があった。側面には楽譜を納めた背の低い本棚が並んでいる。この棚にあったのはボイの偉大な二つ折り版、クロフト、アーノルド、ペイジ、グリーン、バティシル、クロッチ――どれもこれも裕福だったその昔、「カラン大聖堂主任司祭兼創設委員」が惜しみなく金を出して購入した本である。しかしこれらは後の世に生まれた子供たちにすぎない。そのまわりには年上の兄弟たちが控えていた。カラン大聖堂には今も十七世紀の楽譜が残されていたのだ。それらは有名な楽譜集で、百冊以上あり、古い黒光りする子牛革の装丁に、大きな金の丸い浮き彫り模様が施され、どの表紙の中央にも「南側聖歌隊席テノール」とか「北側聖歌隊席コントラテノール」とか「バス」とか「ソプラノ」などという字が刻印されていた。中を開くと赤い線で縁取られた羊皮紙があらわれ、実に黒々とした太い活字で礼拝名や「ヴァース・アンセム」、「フル・アンセム」と書かれている。次に目次が何ページもつづく――ミスタ・バテンにミスタ・ギボンズ、ミスタ・マンディにミスタ・トムキンス、ブル博士にジャイルズ博士、すべてがきれいに整理されページ番号を打たれていた。ミスタ・バードは、とうに墓場の土と化した歌い手たちを鼓舞して「太鼓を打て、快いハープを、ビオールを鳴らせ」と歌わせ、六つの声部と赤い大文字を使ってもう一度「快いハープを、ビオールを鳴らせ」と繰り返させた(註 バードのアンセム「神にむかいて喜びもて歌え」から)。
 オルガンのある張り出しは埃だらけだった――舞い落ちる埃、舞い上がる埃、虫に喰われた木の埃、ぼろぼろになった革の埃、蛾に喰われてずたずたになったカーテンの埃、古い緑のベーズの埃。しかしミスタ・シャーノールはこの埃を四十年間吸いつづけ、他のどこよりもここにいると気持ちが落ち着くのだった。ここがロビンソン・クルーソーの島だとしたら、彼こそはクルーソー、見渡すものすべての上に立つ支配者だった。
 「ほら、この鍵をあげるよ」彼はある日ウエストレイに言った。「階段の入り口の鍵だ。しかし来るときはあらかじめ知らせるか、階段を登るときに音を立ててくれ。びっくりさせられるのは嫌なんだ。入ったらドアを閉めること。鍵はかってにかかる。わたしはいつもドアに鍵をかけるよう注意しているんだ。さもないと、どんなやつがここに上がって来ようとするか分からないから。まったく不意を襲われるのはたまったものじゃない」そう言って彼は目に奇妙な色を浮かべ、後ろをちらりと振り返った。
 主教がやってくる数日前、ウエストレイはミスタ・シャーノールとともにオルガンのある張り出しにいた。彼は礼拝が行われているあいだ、ほとんどずっと隅の椅子に座って、明かり層の窓と交差リブが織りなす光と影の不思議なダイヤモンド模様を見ていた。野外にいた者は白い雲の島々が青い空を渡っていくのを目にしただろう。その一つ一つの雲が通り過ぎるとき、刳り形を施された重量感あふれる内部のリブは交差する線をくっきりと際立たせ、ニコラス・ヴィニコウムがリブの交点に飾りとして加えさせた「ブドウの葉の輪に梳き櫛」という判じ絵紋をあざやかに浮上がらせた。
 建築家はのしかかる天井に、ほとんどいわれのない畏怖を抱くようになっていた。しかもその日は不思議な効果に見とれて、ミスタ・シャーノールに話しかけられるまで、礼拝が終わったことすら分らなかった。
 「きみはわたしの変ニ長調のサーヴィスを聴きたいといっていたね。『シャーノール変ニ長調』を。聴きたいなら、これから弾いてあげよう。もちろん合唱なしだから、だいたいの感じしかつかめないよ。もっともここの聖歌隊の声じゃ、まともに曲を鑑賞できるか怪しいがね」
 ミスタ・シャーノールが色あせた手書きの楽譜を見ながらサーヴィスを演奏しはじめると、ウエストレイは夢心地から覚めて注意を集中する姿勢になった。
 「ほら」彼は曲の終りに近づいたとき言った。「聴いてごらん。ここがいちばん盛り上がるんだ――フーガ風のグローリアで、ペダル音で終わるんだ。ほら、ここだよ――主音のペダル音だ、この変ニ音、新しい足鍵盤の端っこの突き出たペダル、これを最後まで押さえておくんだ」そう言って彼はペダルに左足を載せた。「マニフィカトをこういうふうに終えるのはどうかね」演奏を終えて彼は言った。ウエストレイはすぐにありきたりの賞賛のことばを浴びせた。「悪くないだろう?しかしこの作品の聴きどころはグローリアだよ――本物のフーガじゃないんだが、フーガ風の曲で、ペダル音を使っている。さっきのペダル音の効果は分ったかい。あの音だけちょっと響かせてみるよ。そうすればはっきり識別できるから。それからもう一度グローリアを弾こう」
 彼が変ニ音のペダルを押さえると開管の鳴り響く音が長い身廊のアーケードを抜け、トリフォリウムの奥の暗がりにこもり、のしかかるような穹窿天井の下を通って、わななきながらランタンの中を昇っていった。最後のほうになると、それは瀕死の巨人のうめき声のように聞えた。
 「やめてください」とウエストレイは言った。「ずんずん響く音は我慢ならない」
 「分かった。じゃあ、グローリアを弾くから聴いていたまえ。いや、もう一回サーヴィス全体を弾いたほうがいいな。そのほうが自然に曲の最後に入っていける」
 彼はサーヴィスを再度演奏しはじめた。独創的な音楽家が自作を演奏するとき、こめずにはいられない細やかな注意と感情をこめて。同時に彼は嬉しい驚きを味わってもいた。何年も顧みず、半ば忘れかけていた作品が、想像以上の出来栄えで力強いことに気づいたのである。衣装ダンスから古いドレスを出してみたら、色褪せもせず、いまだに値打ちがあると分かってびっくりするようなものだ。
 ウエストレイは張り出しの隅の壇の上に立っていた。そこからだとカーテン越しに聖堂内が見渡せた。音楽を聴きながら彼の眼は建物の中をさまよった。しかしだからといってその分、音楽をおざなりに聴いていたわけではない。いや、それどころか、かえって真剣に耳を傾けていたのである。何人かの文人が気づいているように、文学的感受性と表現能力は音楽の刺激を受けて活気づくのだ。大聖堂はがらんとしていた。ジャナウエイは午後のお茶を飲みに帰っていた。扉には鍵がかけられ、部外者は誰も入って来られない。オルガンのパイプの声を除けば、いかなる音も、いかなるささやきも、いかなる声も聞えなかった。ウエストレイは耳を澄ました。いや、待てよ。他には何の声も聞こえないだろうか。聞こえるものは何もないだろうか――彼の心の中で何かが語ってはいないだろうか。はじめのうち、それは「何か」としか意識されなかった――彼の注意を音楽から逸らそうとする「何か」としか。しかし注意を妨げるこの力は、そのとき、いまひとつの声に変わった。かすかな声だが、「シャーノール変ニ長調」が流れる中でもはっきりと聞こえた。「アーチは決して眠らない」とその静かな不吉な声が言った。「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」。彼は塔の下の交差部のアーチに目をむけた。そこ、南袖廊のアーチの上には巨大なひび割れが黒々と、稲妻のようなねじくれた姿を見せていた。それは過去百年間見せていた姿と少しも変わっていないように思えた。普通の観察者なら何ら異変を認めなかっただろう。しかし建築家は違った。彼は一瞬割れ目を凝視し、ミスタ・シャーノールのことも音楽のことも忘れて、張り出しを降り、石工たちが天井下まで組み上げた木の足場へむかった。
 ミスタ・シャーノールは彼が下に降りたことすら知らないまま、陶酔したようにグローリアへと突き進んだ。「フル・グレイトにしてくれ」と後ろにいるはずの建築家に呼びかけた。「第一鍵盤の音栓をリード以外全部入れるんだ」しかし返事がないので彼は自分で音栓を引っ張り出した。「今度のほうがうまくいったよ――ぜんぜんいい」最後の音が鳴り止んだとき、ウエストレイに感想を聞こうとして振り返った。しかし張り出しには誰もいない。彼は一人だった。
 「あいつめ!」と彼は言った。「出るなら出ると、少なくとも一言断るべきだ。ふん、確かにつまらん曲だ」彼はその厳しい批評とは反対に別れを惜しむような愛情のこもった手つきで手書きの譜面を閉じた。「駄作だな。どうして聴いてくれる人がいるなどと思ったのだろう」
 ウエストレイがベルヴュー・ロッジのオルガン奏者の部屋に飛びこんできたのは二時間も後のことだった。
 「申し訳ありませんでした、シャーノール。挨拶もせず立ち去ったりして。音楽の分らない無礼なやつだと思ったでしょうね。でも本当はびっくりしすぎて、思わず理由を言わずに出て行ってしまったのです。演奏の最中にたまたま南袖廊のアーチの上の大きな割れ目を見上げたのですけれど、そうしたらごく最近動いたような跡があったのです。すぐ足場に登って、それからずっとそこにいたのです。まずいですよ。割れ目が大きく広がっているみたいです。深刻な事態になるかも知れないので、今晩、最終列車でロンドンに行くことにしました。すぐサー・ジョージ・ファークワーの意見を聞かなければなりません」
 オルガン奏者は唸った。繊細な心が受けた傷は深くうずいたが、憤りはすでに優しく慰められていた。ウエストレイには一言文句を言うつもりだったが、説明を聞くと至極もっともで、彼はその機会が奪われたことを残念に思った。
 「謝るなんてよしてくれ。きみが出て行ったとは気づかなかったよ。いたことすらすっかり忘れていた」
 ウエストレイは自分の発見に気を取られ、相手の不快感を感じ取ることができなかった。彼は慌てることを機敏と勘違いする興奮しやすい人間の一人だった。
 「そういうわけで、半時間後にロンドンへ発ちます。今回ばかりはいい加減に放って置くわけにいきません。アーチに支柱をかうまでオルガンの演奏を中止するとか、聖堂の使用を全面的に禁止するなんてことにもなりかねませんよ。もう荷物をまとめなくては」
 こうして英雄のごとき迅速と決断を持って彼は最終列車に飛び乗り、沿線の各駅で停車を繰り返しながら夜の大部分を過ごした。手紙を一本出すか、翌日の朝、カラン街道駅から急行に乗っても同じように目的を達することができたのであるが。

 第十三章

 オルガンが沈黙させられることも、礼拝が一時中止されることもなかった。サー・ジョージはカランまで来てアーチを点検し、部下の不安をからかった。その不安には根拠がないと判断したのだ。そうだな。アーチの上の壁は確かに少し動いたが、今やっている穹窿天井の修理で動くと想定される範囲内だ。古い壁が落ち着くべき場所に落ち着いただけさ――実際動かなかったとしたら、そのほうが驚きだ。今のほうがずっと安全だよ。
 参事会員パーキンは上機嫌だった。差し出がましい、こしゃくな若い現場監督が、身の程を知らされるのを見て大喜びしたのである。サー・ジョージは司祭館で昼食を取った。塔が倒れるまで支払いを待ってくれという、例の冗談が繰り返されたが、ブランダマー卿がすべての支払いを引き受けることになった今、それは新たな意味を帯びることになった。この冗談に伴う「はっはっはっ」には、ものに動じないサー・ジョージもさすがに辟易とし、ポートワインを飲み過ぎた参事会員が図に乗って肋骨をつついたときは顔をしかめた。
 「まあまあ、司祭さん」と彼は言った。「若い肩に老人の頭は載せられません。ミスタ・ウエストレイがわたしに報告したのは当然です。見た目はいかにもひどいですからな。こういうことは経験を積まないと見極めが難しいのです」そう言って彼はカラーを引っ張りネクタイを直した。
 ウエストレイが主任の決定を甘んじて受け入れたのは忠誠心の故であって、心から納得したからではない。黒い稲妻は心の網膜に焼き付けられ、アーチの絶え間ない叫びは常に耳朶に響いた。それを聞かずに交差廊を渡ることはめったになかった。しかし彼は模範的な忍従をもって主任の叱責に耐えた――その頃ブランダマー卿が彼を訪ねてくるようになり、そちらのほうがはるかに彼の関心事だったから、あまり気にならなかったということもあるけれど。ブランダマー卿は一度ならず夜中にベルヴュー・ロッジを訪れ、ときには夜の九時という遅い時間にやってきた。そしてウエストレイと一緒に二時間あまり見取り図をひっくり返したり、修復のやり方を議論した。建築家は卿の態度に魅了され、その建築学的知識と批評眼の鋭さに絶えず驚かされた。ときどきミスタ・シャーノールが短い時間仲間に加わることもあったが、ブランダマー卿はオルガン奏者がいるときはどことなく落ち着かない様子を見せた。ミスタ・シャーノールは時に機転が利かず、ぶしつけですらあると、ウエストレイは思わざるを得なかった。なにしろブランダマー卿のご恩のおかげで新しい鍵盤と新しい送風器とウオーター・エンジンを手に入れ、さらにこれからオルガンをすっかり修理してもらえる可能性もあったのだから。
 「わたしは、きみのすかした言い方を借りれば、あいつの『ご恩にあずかっている』わけだが、それはしょうがないじゃないか」ミスタ・シャーノールはある晩ブランダマー卿が帰ったときに言った。「新しい送風器や新しい足鍵盤をやるというのを、わたしがとめるわけにもいかんだろう。実際新しい鍵盤と追加のパイプが必要なんだし。今のままじゃドイツの音楽が演奏できないんだ。バッハの作品なんかほとんど弾けない。オルガンを直したいという人に誰がやめろと言うものか。しかしわたしは誰にもこびへつらう気はない。特にあいつにはな。あいつが卿だからといってはいつくばれと言うのかね。ちゃんちゃらおかしい!われわれはみんなあいつみたいに卿になれるのさ。あと一週間マーチンの書類を調べさせてくれ。そうしたらあっと言わせてやるよ。ふん、そうやって好きなだけじろじろわたしを見つめたり、鼻先でせせら笑うがいい。必ずきみをあっと言わせてやる。『光は東方より』――光が差してくるのはそこなんだよ、マーチンの書類からなんだ。今度の堅礼式が終わったら分かるさ。それまでは書類をじっくり読むことができない。しかし何のために男の子や女の子に堅礼させようというのかねえ。健全な子供たちを偽善者に仕立て上げるだけじゃないか。どうもいけ好かない。信仰を告白させるなら二十五になったときさせればいい。そのくらいになれば自分が何をしようとしているのか、少しは理解できるだろうから」
 主教来訪の日が来た。主教はみずから足を運んでベルヴュー・ロッジの玄関に入り、心得て御使を舎《やど》す(註 ヘブル人への書から)ミス・ユーフィミア・ジョウリフに迎えられた。ミスタ・シャーノールの部屋で昼食を取り、冷めたラム肉とスティルトン・チーズ、さらにリンゴ酒までもいただき、健康で心根の優しい、主人役思いの主教にふさわしい健啖ぶりを発揮した。
 「オクスフォードの昼の定番料理か」と彼は言った。「きみのところの女主人は立派なしきたりに育てられたんだね」彼は供されたものがこの下宿のいつもの食事であり、ミスタ・シャーノールが毎日このようなご馳走を味わっているのだと信じてにっこりした。この食事が晩餐を演出する劇の小道具にも等しく、冷めたラム肉とスティルトン・チーズとリンゴ酒が、しばしば缶詰肉の残りと――一ジル(註 四分の一パイント)の安ウイスキーによって取って代わられることを知らなかった。
 「オクスフォードの昼の定番料理」。そのあと彼らは昔話にふけり、主教はミスタ・シャーノールを「ニック」と呼び、ミスタ・シャーノールはカリスベリ主教を「ジョン」と呼んだ。彼らは部屋の中を歩き回って大学の同好会や対ケンブリッジ大学学寮対抗ボートレースの写真を見た。主教はかつてミスタ・シャーノールが大学の中庭を描いた小さな水彩画を懐かしそうにじっと眺め、そこに自分たちの昔の部屋や何人かの知り合いの部屋を認めた。
 話をするうちにミスタ・シャーノールは機嫌がよくなっていった。楽しい気分が刻々と募ってきた。彼は主教に対して傲岸に、他人行儀に接してやろうと思っていた――思い切りもったいぶり、冷たいくらいに堅苦しく振る舞おうと。よしやジョン・ウイリスがゲイター(註 主教のはく靴下)を穿こうとも、ニコラス・シャーノールの不屈の独立心はびくとも揺るがず、おべっかを使うつもりもなければ、精神的にも誰かの下風に立つつもりはなかった。堅礼式や音楽軽視の風潮や主任司祭どもを手厳しく非難し、できればついでに聖職者議員団そのものもやりこめてやろうと思っていた。なのに彼はそんなことは何一つしなかった。ジョン・ウイリスと一緒にいると、傲岸も他人行儀も自己主張も不可能だからである。彼はただおいしい昼ご飯を食べ、優しい、心の広い紳士と長々おしゃべりをして、ひからびた心をぬくもらせ、人生はまだ捨てたものじゃないなと思っていたのである。
 カラン大聖堂で礼拝が行われるときは、四十五分前に何度か鐘が鳴らされる。これはバージェス・ベルと呼ばれ――遠くに住む市民《バージェス》に教会へ出かける時間だと知らせるところからその名がついたという人もあれば、「バージェス」とはラテン語の「エクスペルギスケレ」――「起きよ、起きよ!」――のつづまった形で、寝ている人に起きて祈りを唱えよという合図だ、と考える人もある。バージェス・ベルは午後の静かな空気をふるわせ、主教はいとまを告げようとして立ち上がった。
 この訪問の当初、そわそわしていたのがカランのオルガン奏者だとしたら、その終わりになってまごまごし出したのはカリスベリの主教だった。彼はある明確な目的を持ってミスタ・シャーノールに昼食をご馳走してほしいと申しこんだのだが、その目的達成のためにまだ何もしていなかった。彼は知っていたのだ、昔の友人がおちぶれたうえに悪の道に陥ったことを――オクスフォードの学歴を台無しにした悪癖が、老年になって再び新たに火を噴き、ニコラス・シャーノールが飲んだくれという審判を受けかねない危機にあるということを。
 オルガン奏者の人生には明るく澄んだ中休みの期間もあって、悪疫は何年も活動を止めているのだが、発症するとそれまでの積み重ねをことごとくご破算にした。それはまるで双六のようなもので、小さな銅の馬が着実に前進していくかと思えば、とうとうサイコロが致命的な目を出し、一度順番をとばされたり、六つも目を戻ったり、最悪の場合は振り出しからやり直さなければならない。主教がベルヴュー・ロッジに来たのは一人の男をほんの少しでも転落の人生から救い出したいという虚しい望みを抱いてのことだった。時を得た、有益な忠告を与えたかった。しかしまだ何も言っていない。給料を上げてくれと店主に面会を求めてきた事務員が、思い切って用件を切り出せず、他の用事でやって来たようなふりをするようなものだ、と彼は感じた。進退窮まって父親と相談したがっている息子、あるいは大きな借金を告白する機会を待ち受ける浪費家の妻のような気分だった。
 「二時十五分だ」と主教は言った。「もう行かなければならない。昔を思い出してとても楽しかったよ。また近いうちに会いたいね。でも今度はきみがわたしのところに来る番だからね。カリスベリはそんなに遠くないから是非来てくれ。きみのためにベッドはいつも用意しておくよ。一緒に歩いていくだろう?わたしは司祭館に行かなければならないし、きみも聖堂に行くつもりなんだろう?」
 「ああ」とミスタ・シャーノールは答えた。「ちょっと待ってくれたら一緒に行くよ。悪いが出かける前に一杯やりたいんだ。疲れているし、礼拝は長いからね。きみはもちろん飲むわけないよなあ」彼はそう言って棚のほうにむかった。
 主教の待ちかまえていた機会がやってきた。
 「止めたまえ、シャーノール、止めるんだ、ニック」と彼は言った。「それは飲んじゃいけない。率直に話すが許してくれ。時間がないのでね。わたしは自分の職務とか信仰の観点からこんなことを言うんじゃない。ただ一人の人間として、友人として言うんだ。いつまでもこんな状態がつづくのを黙って見ているわけにはいかない。怒らないでくれ、ニック」彼は相手の顔色が変化したのを見てこう言った。「わたしたちの古い友情を思えば、わたしには忠告の権利がある。きみの顔に刻まれた物語を読めば、わたしにはきみを諭す権利がある。止めたまえ。やり直す時間はまだある。止めたまえ。わたしに手助けさせてくれないか。わたしにできることはないかね」
 ミスタ・シャーノールの顔をよぎった怒りは悲しみに変わった。
 「そりゃ、きみにとっちゃ簡単だろうさ」と彼は言った。「きみは今までにあらゆることをやってきて、後ろにはきみの歩みを示す里程標が長々と立ち並んでいる。わたしは何もやっていない。後ろむきに進んだだけで、目の前にはわたしの失敗を示す里程標があるばかりだ。わたしを責めるのは簡単だよ。きみは欲しいものをすべて持っているのだから――地位、名声、富、それにふさわしい強い信仰も。わたしはろくでなしで、みじめなほど貧乏で、友達もなく、教会で語られることの半分も信じちゃいない。わたしはどうすればいいんだね。誰もわたしのことなど気にかけない。何のためにわたしは生きるのだ?酒だけが人生のささやかな楽しみを味わわせてくれるんだよ。のけ者という恐ろしい意識をしばらくのあいだ忘れさせてくれる。昔の楽しかった日々の記憶をほんの一時忘れさせてくれる。あれがわたしを一番苦しめるんだ、ウイリス。酒を飲むからといって責めないでくれ。パラケルススにとってと同様、わたしにとっても不老不死の霊薬なんだ」そう言って彼は棚の取っ手を回した。
 「止めたまえ」主教はもう一度言い、オルガン奏者の腕に手を置いた。「飲むんじゃない。触れちゃいかん。人生は成功なんて尺度じゃ測れない。『出世』の話なんかよしてくれ。人間はどれだけ出世したかで判断されるものじゃない。さあ、行こう。昔のような決断力、意志の力を見せてくれ」
 「そんな力は持っちゃおらん」ミスタ・シャーノールは言った。「どうにもならんのだよ」しかし彼の手は棚の扉から離れた。
 「じゃあ、わたしに手伝わせてくれ」と主教は言った。彼は棚を開け、半分空になったウイスキー瓶を見つけると、コルクをしっかり押しこみ、コートの垂れひだ中に差し入れ脇の下に抱えた。「行こう」
 こうしてカリスベリ主教は左の脇の下にウイスキー瓶を抱えながらカランの本通りを歩いたのである。しかしコートの下に隠れていたので誰にもそれを見られることはなかった。人々はただ彼が右腕をミスタ・シャーノールの腕にからませているのを見たばかりである。ある人はこれをキリスト教的な謙虚のあらわれと考え、ある人は昔のほうが良かったと言った。彼らは主教がみずからの地位を貶めていると言い、いかにも下等な連中と人目もはばからず付き合うなど、教会の権威も地に落ちたものだ、と嘆じた。
 「もっと会う機会を増やさないとならないね」主教は店々の前のアーケードを歩きながら言った。「きみはどうにかして今の泥沼から抜け出さないといけないよ。いっぺんには無理だろうが、しかしきっかけを作らなければ。わたしはきみを惑わす悪魔をコートの下に隠してしまった。きみはこの瞬間から努力を始めるんだ。今、約束してくれ。六日後、もう一度カランに来ることになっている。きみに会いに来るよ。その六日間のあいだ、一滴も口にしないと約束してくれ。そしてわたしが帰るとき、きみもカリスベリに来るんだ。約束してくれないか、ニック。時間が迫っている。お別れしなければならないが、でもそのことをまず約束してくれ」
 オルガン奏者はしばらくためらっていたが、主教は彼の腕をつかんだ。
 「約束してくれ。約束するまでは行かないよ」
 「分かった。約束する」
 そこを通りかかった嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントがあとになってこんなことを言った。主教はどうすれば一番うまく典礼尊重主義を大聖堂に導入できるか、ミスタ・シャーノールと議論しているのが聞えたわ、そしてオルガン奏者は、礼拝の音楽に関するかぎり最善の努力をすると約束したの。
 堅礼式はつつがなく終了した。もっともグラマー・スクールの生徒二人が作法を外れたやたらと明るい青ねずみ色の手袋をはめてきて、みんなの前で先生から当然のお叱りを受け、それを見ていた末娘のミス・ブルティールがげらげらと笑いの発作を起こし、母親に聖堂から連れ出されて、魂の特典を授かるのは翌年ということになってしまったけれども。
 ミスタ・シャーノールは執行猶予の期間を雄々しく耐えた。三日経っても彼は誓いを破らなかった――一口も、一滴も酒を飲まなかったのだ。そのあいだは好天に恵まれ、青い空と心浮き立つ空気が支配する、輝くような秋晴れがつづいた。それはミスタ・シャーノールにとって明るい希望の日々だった。彼自身心が浮き立ち、血管の中を新しい生命が駆けめぐるのを感じた。主教のことばは彼に元気を与え、そのことに彼は心から感謝した。酒を止めたからといって不都合があるわけではない。節制のおかげで、かえって調子がいいくらいだ。憂鬱になることなどまったくなかった。それどころか、ここ何年もなかったくらい朗らかな気分になった。あの会話で目から鱗が落ちたのだ。真に自分がなすべきことをもう一度自覚し、人生の真実が見えてきた。どれだけ時間を無駄にしてきたことだろう。どうしてあんなにへそ曲がりだったのだろう。どうして不機嫌をかこってばかりいたのだろう。どうして人生をあのようなねじけた目で見ていたのだろう。これからは嫉妬を捨て、敵対するのをやめるのだ。心を広く持ち――そうだ、心をうんと広く持つのだ。人類すべてを受け入れよう――うむ、参事会員パーキンさえも。一番大事なのは、自分がもう老人であることを認めること。もっと沈着に考え、子供じみた真似をやめ、アナスタシアへの馬鹿げた恋心を断固絶たなければならない。笑止千万ではないか――気むずかしい六十代の爺さんが若い娘に恋をするなんて!これから彼女はわたしにとって何者でもない――完全に赤の他人だ。いや、それはおかしいな。一切の友情を絶ってしまうなんて彼女に対して不公平だ。彼女には父親のような愛情を感じることはできるだろう――それは家族に対するような愛情であって、それ以上のものではない。愚かな過ちすべてに別れを告げよう。しかし、わたしの人生がその分だけ空虚になるのでは困る。空いた分はいろいろな趣味で埋め合わすのだ――ありとあらゆる趣味で。音楽はその第一のものとならなければならない。長年想を練ってきたあのオラトリオ「アブサロム」にもう一度取り組んで完成させてみよう。いくつかの曲はもうでき上がっている。バスのソロが歌う「アブサロムよ、わが子、わが子」と、それにつづく二重合唱「そなえよ、力強きもの、立ちて剣を抜け!」を書き上げるのだ。
 こんなふうに彼は楽しげに自分の心と対話し、みずからの内部に生まれた大きな突然の変化に計り知れない高揚を覚えた。しかし彼は、雨を降らせた雲はまた戻って来ること、人間が習慣を変えるのは豹が斑紋の色を変えるのと同じくらい困難であることを忘れていたのだ。五十五歳、四十五歳、あるいは三十五歳で習慣を変えたり、川に坂を登らせたり、原因と結果の仮借なき順序をひっくり返したり――そんなことがいったいどれだけ可能だろう。ネーモ・レペンテ、すなわち人が突然善人になったことはない。一瞬の精神的苦痛が本能を鈍らせ、われわれに巣くう悪を麻痺させることがあるかも知れない――ほんのしばらく、ちょうどクロロフォルムが肉体の感覚を鈍麻させるように。しかし突然の心変わりがいつまでもつづくことはないのだ。生きているときも死んでからも、同じように突然の悔悛などあり得ないのである。
 のどかな三日間が過ぎたあと、あの暗くどんよりした朝がやってきた。虚しい人生がいっそう虚しく感じられ、沈んだ自然の状態があまりにも的確に人間の神経に反映される朝である。健康な若者は天候などに少しも影響を受けることはない。頑健な中年は、たとえそれを感じたとしても「そのうち過ぎ去るさ、何もかも」と、しっかりした足取りで着実にわが道を歩みつづけるだろう。しかし身体の弱い、衰えゆく者には、いらだたしさと落胆がずしりとのしかかる。ミスタ・シャーノールの場合がまさにそうだった。
 昼食の頃には、ひどくそわそわした気分になっていた。海から真黒な濃い霧が巨大なかたまりとなってカラン・フラットに押し寄せ、ついにその先端が街の外縁をとらえた。そのあとは通りに居座り、とりわけベルヴュー・ロッジをその本陣と定めた。おかげでミス・ユーフィミアは咳が止まらず、イペカック薬用ドロップを二錠も飲み、ミスタ・シャーノールは呼び鈴を鳴らしてランプを持ってきてもらわなければ食事が見えないという有様だった。ウエストレイの部屋まで上がっていって、夕食を上で食べても構わないかと尋ねようとしたが、建築家はロンドンに行っており、晩の汽車まで帰らないということだった。彼は一人で何とかしなければならなかった。
 食が進まず、食べ終わる頃には憂鬱が彼を圧倒し、ふと気がつくとなじみ深い棚の前に立っているのだった。三日間の禁酒が身体にこたえ、いつもの慰めへと彼を駆り立てたのかも知れない。棚のほうへむかったのは本能だった。戸棚を手で開けるまで自分が何をしているのか意識すらしなかった。しかしその時ふと断酒の決意が心によみがえった。棚の中が空っぽであることを思い出したせいもあるだろう(ウイスキーは主教に取り上げられていた)。彼はぴしゃりと戸を閉めた。もう約束を忘れてしまっただなんて――これまでの希望に満ちた日々、清明な中休みのあと、またもやあやうく泥沼に落ちこむところだった。彼は机にむかい、バージェス・ベルが午後の礼拝を予告するまでマーチン・ジョウリフの書類に没頭した。
 薄暗闇と霧はしだいに小糠雨に変わり、小糠雨は午後が進むにつれ間断ない土砂降りに変わった。雨脚があまりに強いものだから、何百万もの雨粒が長い鉛葺きの屋根の上で不明瞭に呟やき、ランタンや北袖廊の窓に当たって騒々しく飛び散る音がミスタ・シャーノールの耳にも聞えるくらいだった。張り出しから下りてきた彼は不機嫌だった。少年たちの歌は眠そうで気が抜けていたし、ジェイクイーズはそのつぶれたしわがれ声でテナーソロを殺してしまった。ジャナウエイは、ミスタ・シャーノールが腹を立てて側廊を通り抜けるとき、さよならも言わなかったことをあとになって思い出した。
 ベルヴュー・ロッジに戻っても事態は変わらなかった。雨に濡れて寒気がしたが、暖炉に火はなかった。そんな贅沢をするにはまだ時期的に早かったのである。台所へ行ってお茶でも飲もうか。土曜の午後だ。ミス・ジョウリフはドルカス会に出席しているだろうが、アナスタシアは家にいるはずだ。暗くどんよりしたひとときに一条の陽の光が射し込むように、その考えが頭に浮かんだ。アナスタシアは家にいるだろう、一人で。暖炉のそばに腰かけて熱いお茶を飲もう。そのあいだアナスタシアが話しかけてきて楽しませてくれるはずだ。台所のドアを軽くノックした。開けると、湿った空気がどっとばかりに顔を打った。部屋には誰もいなかった。半開きの窓から雨が吹きこみ、窓辺の樅のテーブルの上を黒く濡らしていた。火はくすぶっている灰にすぎない。考えこみながら無意識に窓を閉めた。アナスタシアはどこに行ったのだ?台所を出てから相当時間が経っているにちがいない。さもなければあんなに火が落ちていることはないだろうし、雨が吹きこむのも見たはずだ。きっと上の階にいるのだろう。ウエストレイの留守を利用して部屋を片付けているのだ。上に行ってみよう。もしかしたらウエストレイの部屋には火が入っているかも知れない。
 彼は神の手を底からてっぺんまで広い井戸のように貫く石の螺旋階段を登った。石の踏み段、玄関ホールの石床、化粧漆喰の壁、一番高いところに天窓がある漆喰造りの折り上げ天井。これらが寒々とした階段をささやきの回廊に変え、ミスタ・シャーノールは半分も登らないうちに複数の声を聞いた。
 それらは会話をしている声だった。アナスタシアに話し相手がいる。次の瞬間、一つの声は男の声だと分った。何の権利があってウエストレイの部屋にあがりこんでいるんだ?厚かましくもアナスタシアと話しをしているのはどこのどいつだ?突拍子もない疑惑が心をよぎった――まさか、そんなことはあるまい。わたしは盗み聞きをしたり、こっそり近寄って聞き耳を立てたりはしないぞ。しかしそう思いながらも一段か二段さらに階段を登った。声がいっそうはっきりと聞こえた。アナスタシアが話し終え、男がまたしゃべり出した。そうでなければいいという期待と、そうではないかという恐れが、一瞬均衡して、ミスタ・シャーノールの心を宙づり状態にした。そして疑惑は消えた。彼はその声がブランダマー卿の声であることを知ったのだ。
 オルガン奏者は階段を二段か三段、素早く駆け上がった。すぐ彼らの所へ行こう――すぐウエストレイの部屋の中へ。それから――そこで彼は立ち止まった。それから、どうするのだ?だいたい何の権利があって中に入るのだ?彼らが何をしようと自分とは関係がないではないか。誰かが口出しする筋合いのものではない。彼は立ち止り、むきを変えて、また下に降りていった。なんて馬鹿なのだろうと自分に言いながら――モグラ塚を山と勘違いして騒ぎ立てるようなものだ。しかも実際はモグラ塚すら存在しないというのに。だが彼はそう思うあいだもずっと生身の心臓をつかまれ押しつぶされるような、むかむかした気持ちに襲われていたのである。戻ると自分の部屋は今まで以上に陰気に思えた。しかし今となってはそんなことはどうでもいい。ここにいる気はないのだから。ほんのしばらく足を止めたのは、ただ事務机の垂れ板の上に乱雑に積まれたマーチン・ジョウリフの書類をごそっと引き出しに放りこむためだった。書類を入れて鍵をかけるとき、ぞっとするような笑みが顔に浮かんだ。「報いを受ける日の必ずや来たらん」。この書類がすべての不当な仕打ちに対する復讐を果してくれるはずだ。
 重く濡れそぼった外套を玄関の掛け釘からはずした。これなら悪天候でも台なしになることはないな、なにしろとっくにすり切れて緑色になっているし、次の四半期の給料が出たらさっそく買い換えなければならないような代物なのだから。そう考えて彼は心の中でにやりとした。雨はまだ土砂降りだったが、出て行かずにはいられなかった。四つの壁は彼のいらだちを納めておくには狭すぎたし、外の自然の悲しさは彼の憂鬱な気分にぴったり合った。通りに面したドアをそっと閉め、神の手正面の半円形の階段を降りた。アナスタシアがはじめてブランダマー卿を見た、あの歴史的な夕方に、卿が降りていったのとまったく同じように。そのとき卿が振り返ったように、彼も家のほうを振り返ったが、光り輝く前者と違って彼には運がなかった。ウエストレイの部屋の窓は固く閉ざされ、誰の姿も見えなかったからだ。
 「こんな家、二度と見たくないわい」彼は半ば真剣に、半ば冷笑的な気持ちでそう思った。もっとも人がそんな冷笑的なことばを吐くのは、よもや運命の女神がそれを字義通りに受け取りはしまいと思うからなのだが。
 一時間以上、当てもなくうろつき、夜になって気がつくと町の西の外れに来ていた。そこの小さな革なめし工場は、形だけはカランで商業活動が行われていることを示す最後のものだった。カル川は何マイルも柳と榛《はん》の木の下を流れ、黄金色の金鳳花《きんぽうげ》や、香り高い下野草《しもつけそう》が茂る広い牧草地を抜け、種付花やサラセニア、菖蒲や揺れる葭を通り過ぎるのだが、ここで昔ながらのよき風景は途切れて、どこにでもよくある町の人工水路となり、波止場のあたりで水深を深め、泥まじりの激しい潮流と出会うのである。ミスタ・シャーノールは疲れを覚え、道路と水の流れをへだてる鉄の杭垣に寄りかかった。立ち止まってはじめて自分がどれほど歩き疲れているかを知り、また、頭を少しかしげて古帽子のつばから滝のような水が落ちたとき、はじめて自分がどれほど雨に打たれたかを知った。
 彼が見たのは侘びしい気の滅入るような川の流れだった。背の低い木造の革工場は一部が水面に突き出していて、鉄の支柱に支えられていた。そこに水にさらされ白くなった皮と、胸の悪くなるような内臓がしがみつき、水の流れに従って右に左にゆっくりと揺れていた。このあたりは水深が三フィート程度で、汚れた水の下には砂底が見え、水草のかたまりがあちこちに生えていた。排水に汚れた濃緑色のこのかたまりは、暮れていく光の中でほとんど真黒にしか見えず、ミスタ・シャーノールには水死体の髪の束のように思われた。水の流れに揺らめき、とうとう流されていってしまうのを見ながら、彼は一人それらにまつわる物語を心の中で織り上げた。
 彼はぼんやりと観察とつづけたが、心に大きな懸念があるとき、肉体はときどきそんな姿勢を取ったままじっとしているものだ。ごくつまらぬ小さなものまで目についた。彼は汚れた水の下の、汚れた川底に横たわるものを、一つ一つ数えていった。底に穴の開いたブリキのバケツ、注ぎ口のない茶色のティーポット、頑丈すぎて毀れない、陶器製の靴墨の瓶、他にもガラスの欠片や瀬戸物の破片があった。つばだけ残ったシルクハットがあり、つま先のない長靴が一足ならずあった。振り返って道の先にある町を見た。ランプが灯りはじめ、その光が泥道に付けられた幾筋もの交差する白い線を照らし出した。轍《わだち》の跡に水が溜まっていたのである。黒々とした馬車が道をこちらにやって来て、泥の中に新しい跡を付け、二本のかすかに光る線をあとに残した。近づいてきたとき、彼は少々ぎくりとした。救貧院の生活保護者用に棺桶を送り届ける葬儀屋の馬車だった。
 彼はぎくりとして身震いした。雨が外套を通して染みこんでいた。腕が濡れているのを感じ、冷たく張り付くような湿気が膝を襲った。長いこと立っていたので身体がこわばり、背中を伸ばそうとするとリュウーマチの痛みにうっと身体の動きが止まった。急ぎ足をして身体を温めよう――すぐ家へ帰るんだ。家へ――しかし家なんかどこにあるというのか。あの大きな陰鬱な神の手。あの建物も、その壁の中にあるすべてのものも厭わしかった。あんなものは家ではない。しかし早足でむかったのはそちらの方向だった。他にどこにも行く場所がなかった。
 みすぼらしい小路を通り、五分も経たぬうちに目的地に着くというとき、歌声が聞こえてきた。ウエストレイが到着した最初の晩に通った、同じ小さな酒場の前を通り過ぎようとしていた。ウエストレイが来た晩に歌っていたのと同じ声が中で歌っていた。ウエストレイが不愉快を連れてきやがった。ウエストレイがブランダマー卿を連れてきたのだ。あれから何もかも変わってしまった。ウエストレイなんか来なければよかったのに。わたしの望みは――ああ、わたしの心からの望みは――すべてが昔に戻ること――一世代前のようにすべてが静かに進んでいくことだ。確かにいい声をしている、あの女は。どんな人なのか、一目見る価値はあるだろう。部屋の中が覗ければいいのだが。いや、中を見る言い訳なら簡単だ。軽くお湯割りのウイスキーを注文しよう。こんなに濡れてしまったのだから一杯やったほうがいい。風邪を防ぐことができるだろう。もちろんほんのちょっとだけ、薬代わりに。それならちっとも差し支えはない――ただ健康のため用心をするだけなのだから。
 帽子を脱いで雨を振り払い、音楽の演奏の邪魔にならないよう、音楽家らしい配慮を示しながらドアの取っ手をそっと回し中に入った。
 彼は一度窓から見たことのある、床が砂でざらざらしている部屋にいた。奥行きがあって天井が低く、屋根には重い梁が渡されている。向こう端には暖炉があり、くすぶる火の上に薬罐がつるされていた。一方の隅にはフィドルを弾く老人が腰かけ、その旁らにあのクレオールの女が立って歌っていた。部屋の中にはテーブルが数台置かれ、後ろの長椅子には十人ほどの男が座っていた。若い者は一人もなく、ほとんどはとうに人生の盛りを過ぎている。顔は日焼けしてマホガニー色になっていた。ある者は耳飾りをし、白髪の揉み上げを奇妙な具合にカールさせていた。彼らはまるで何年もそこに座りつづけているかのようだった――まるで永遠に酒場に集う至福境を与えられた昔の沈没船の乗組員といった風情だった。誰もミスタ・シャーノールに注意を払わなかった。音楽が人を恍惚とさせる力を発揮し、彼らは心ここにあらずという状態だったのだ。ある者は昔のカランの捕鯨船や、銛や浮氷塊とともにあった。ある者は船首の四角い木材運搬用ブリッグや、バルト海とメーメル産の白い木材、荒れ狂う海上の夜と、それ以上に荒れ狂った上陸地の夜を夢見ていた。またある者はマンゴーの木立を通して見た菫色の空と月明かりを思い出し、クレオールの女を見ながら、その衰えた容色の中に一昔前、若い情熱に火を付けた甘い、浅黒い顔を呼び起こそうとした。

 さあ、おまえたち、グロッグ酒だ――グロッグ酒を持ってこい

とクレオールは歌った。

 ふち一杯に注ぐんだ
 ネルソン提督の思い出が褪せないように
 その栄光の星の光が衰えないように

 どのテーブルにも大酒杯が並び、ときどき酒飲み仲間の一人が中に角砂糖を入れてマドラーで砕き、あるいは目の前で湯気を立てている茶色の大きなコップ酒をぐいとあおった。ミスタ・シャーノールに話しかける者はなく、ただ店の主人が注文も聞かずに、他の客が飲んでいるのと同じ熱い酒をコップに満たして前に置いた。
 もしかしたらもっと不本意な顔をするべきだったのかも知れないが、オルガン奏者はあっさり運命を受け入れ、数分後には他の人と同じように酒を飲み、煙草を吸っていた。酒は好みに合っていたし、すぐに暖かい部屋とアルコールが効き目をあらわし元気が戻ってきた。外套を掛け釘にかけると、雨水がしたたり落ちるほどずぶ濡れで、しかも水が服の中まで浸みていたので、主人が空のグラスのかわりに、二杯目を持ってきたときは、ためらうことなく当然のようにそれを受け取った。大酒杯は次から次へと取り替えられ、クレオールの女は相変わらず合間合間に歌い、一同は煙草を吸い酒を飲みつづけた。
 ミスタ・シャーノールも酒を飲んだが、部屋の中がさらに暑くなり、煙草の煙にくもり出すと、次第にものがはっきり見えなくなった。ふと気がつくとクレオールの女が目の前にいて、貝殻形の器を差し出し、投げ銭を求めていた。ポケットには硬貨が一枚――二週間分の小遣いになるはずの半クラウン硬貨が一枚しかなかった。しかし気が高ぶっていた彼は躊躇しなかった。
 「ほら」まるで王国を与えるかのように彼は言った。「ほら、受け取りたまえ、あんたの歌にはこれくらいの値打ちがある。だが以前あんたが歌っていた歌を聴かせてくれないか。うねる海がどうとかこうとかいうやつだが」
 彼女はわかったと頷き、金集めが終わると盲目の男に金を渡し、伴奏を頼んだ。
 何連もある長いバラッドで、次のようなリフレーンがついていた。

 どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ
 彼らをここに連れてきて それがだめというのなら
 荒れた海のむこうまで
 さまよう気力はとてもない

 歌い終わると彼女は戻ってきて、ミスタ・シャーノールの隣に座った。
 「何か飲み物をおごってくれない?」彼女は実に見事な英語でそう言った。「みんな飲んでいるんだもの。わたしが飲んでいけないことはないでしょう?」
 彼は主人を手招きして彼女にコップを持ってくるように言った。彼女はオルガン奏者の健康を祝してそれを飲んだ。
 「歌がうまいね」と彼は言った。「少し訓練したら本当にすばらしい歌い手になる。どうしてこんなところに来たのかね。もっといい仕事に就くべきだよ。わたしだったらこんな連中の前で歌ったりしないね」
 彼女は怒って彼を見た。
 「どうしてわたしがこんなところに来たかですって。あなたこそ、どうしてこんなところに来たの?そりゃあ、少し訓練を受けたら、もっとうまく歌えるでしょうよ。もしもあなたと同じ訓練を受けていたら、ミスタ・シャーノール」――彼女はあざけるように彼の名前を強調した――「こんなところで飲んだくれてなんかいないわ」
 彼女は立ち上がって老いたフィドル弾きのほうへ戻っていった。しかし彼女のことばはオルガン奏者の酔いを醒まし、胸に鋭く突き刺さった。結局、良き決心はことごとく無駄に終わったのだ。彼は主教との約束を破ってしまった。主教は月曜日にまたやってきて、相変わらず悪習に染まった彼を――今まで以上に悪習に染まった彼を見いだすだろう。悪魔が戻ってきて飾られたる家(註 ルカ伝から)で大騒ぎをしているのだ。彼は勘定を払おうとして振り返ったが、半クラウン硬貨は既にクレオールに渡っていた。金のない彼は店の主人に言い訳をし、恥をかき、名前と住所を言わされた。相手はぶつぶつと苦情を言った。楽しい仲間とお酒を飲む紳士は、紳士らしく勘定の用意をなさっておくものです。ずいぶんお飲みになりましたから、これがお支払いいただけないとなると、わたしみたいな貧乏人にとってはえらいことなんですよ。お客さんのおっしゃることは嘘じゃないんでしょうが、オルガン弾きともあろう方がメリーマウスへ酒を飲みに来てポケットに一文もなしというのは変じゃありませんか。雨は止みましたからね、誠意のしるしとして外套をかたに置いていってください。後で取りに来たらいいですよ。そういうわけでミスタ・シャーノールは着衣の一部を置いて行かざるを得ず、長年つきあってきたおんぼろ外套と別れさせられたのだった。彼は開いたドアのところで振り返り、寂しそうに笑みを浮かべて、掛け釘にひっかかって水をしたたらせている外套を見た。競売に付されたとしても、はたして酒代になるほどの値がつくだろうか。
 確かに雨は止んでいた。空はまだ曇っていたが、雲の背後に広がる明かりは月が出ていることを示していた。どこへ行こうか。どこにむかえばいいのだろう。神の手には戻れない。そこにはわたしを厭がる人間がいる――わたしも会いたくない人間が。ウエストレイは帰っていないだろうし、帰っていたらいたで、酒を飲んでいたことがばれてしまう。またもや酒におぼれたことを、みんなに知られるのは耐えられなかった。
 そのとき、別の考えが頭に浮かんだ。聖堂に行こう。ウオーター・エンジンが風を送ってくれる。酔いがさめるまで演奏するんだ。いや待てよ、聖堂に――聖セパルカ大聖堂に一人で行くのか?あそこにいるのはわたし一人だろうか。一人になれるのならずっと安心だ。しかし他に誰かが、あるいは何かがいやしないだろうか。彼は小さく身震いしたが、酒は血管を駆けめぐっていた。酔っぱらいらしく威勢よく笑い、小道に沿って中央塔にむかった。塔は雲に隠れた月の、霧のようにしっとりした白い光の中に、黒々とした姿を浮かび上がらせていた。

 第十四章

 ウエストレイは夜の汽車でカランに帰ってきた。十時ころ、夕食を終えようとしているときにドアがノックされ、ミス・ユーフィミア・ジョウリフが入ってきた。
 「お邪魔してごめんなさいね、旦那様」と彼女は言った。「ミスタ・シャーノールのことがちょっと気にかかって。お茶の時間にいらっしゃらなかったし、そのあとも戻ってないんですよ。もしかしたらどこにいるかご存じじゃないかと思って。こんなに遅くまで外出するなんて、何年もなかったことですから」
 「あの人の居場所なんて見当もつきません」ウエストレイはやや突っ慳貪に言った。一日中働きずくめで疲れていたのだ。「夕ご飯を食べに外に出たんでしょう」
 「ミスタ・シャーノールを誘う人なんていませんわ。夕食のために外に行ったとは思えないんです」
 「まあ、そのうちあらわれるでしょう。戻ってきたらお休みになる前に知らせてください」彼はもう一杯お茶を注いだ。彼は淡泊な、婆さんじみた人間の一人で、お茶には他の飲み物にはない特別の効用があるとまで考えていた。なぜみんなお茶を飲まないのか理解できないと彼は言った。他の飲み物よりもずっと元気が回復するし――お茶を飲んだ後は仕事もはかどるのに。
 彼は引っ張り鉄の断面図の計算をまたやりはじめた。サー・ジョージ・ファークワーは引っ張り鉄で塔の南側を補強することにとうとう同意したのだ。彼は時間の経つのを忘れたが、そのとき再びいらだたしいノックが聞こえ、女主人がまたあらわれた。
 「もうすぐ十二時ですわ」と彼女は言った。「なのにミスタ・シャーノールは影も形も見えません。わたし、とても心配なんですよ!お邪魔して本当に申し訳ないんですけど、ミスタ・ウエストレイ、でも姪もわたしも心配でたまらないんです」
 「わたしにどうしろと言うんです」ウエストレイは顔を上げて言った。「ブランダマー卿と外出したってことは考えられませんか。ブランダマー卿が彼をフォーデングに招待したってことは」
 「ブランダマー卿は今日の午後こちらにいらっしゃいました」ミス・ジョウリフは答えた。「でもミスタ・シャーノールにはお会いになりませんでした。ミスタ・シャーノールがいなかったものですから」
 「へえ、ブランダマー卿が来たんですか」ウエストレイが訊いた。「わたしに言付けでもありませんでしたか」
 「あなたがいらっしゃるかとはお尋ねになりましたが、言付けはありませんでした。わたしたちと一緒にお茶をお飲みになったんです。ただの友達づきあいでいらっしゃったんじゃないかしら」
 ミス・ジョウリフはちょっともったいぶって言った。「わたしとお茶を飲もうとしてお出でになったのだと思います。残念ながらわたしはドルカス会に出てたんですけど、わたしが戻ると一緒にお茶を飲んでくださいましたの」
 「変ですね。卿はいつも土曜の午後に来るみたいですね」とウエストレイは言った。「土曜の午後は必ずドルカス会に行くんですか」
 「ええ」とミス・ジョウリフは言った。「土曜日の午後は必ず会に出席します」
 一分間ほど沈黙があった――ウエストレイもミス・ジョウリフも考えこんでいた。
 「まあ、何にせよ」とウエストレイが言った。「わたしはもう少し仕事していますから、ミスタ・シャーノールが帰ってきたら中に入れてやりますよ。でもフォーディングで一泊するように招待されたような気がしますがね。ともかく安心して寝てください、ミス・ジョウリフ。いつもの就寝時間をとっくに過ぎているじゃないですか」
 ミス・ユーフィミアは床に就き、ウエストレイは一人残された。数分後十五分置きに鳴る四つの鐘が鳴り、それから低音鐘が十二時を打ち、次に全部の鐘が夜も昼も三時間ごとに奏でる曲を鳴らしはじめた。聖セパルカ大聖堂の近隣に住む人々は鐘の音など聞きはしない。耳が慣れてしまい、十五分置き、一時間置きの鐘の音は、人々に意識されることなく鳴った。もしもよそ者が大聖堂の近くに泊まったなら、その騒音は最初の晩こそ彼らの眠りを破るが、その後は何も聞こえなくなる。ウエストレイも夜な夜な遅くまで仕事をしていたが、鐘が鳴ったかどうか分からなかった。鐘が聞こえるのは注意力が目覚めているようなときのみである。しかしこの夜は鐘が聞こえ、「エフライム山」の穏やかなメロディに聴き入っていた。
 彼は立ち上がり、窓を開け、外を眺めた。嵐は去っていた。数時間後に満月となる月が蒼い天空に清らかに昇り、その下には白いまだら模様の雲が長々とたなびいていた。雲の縁が虹のような琥珀色に輝いていた。ウエストレイはびっしり並ぶ町の屋根や煙突を見渡した。市場から立ち昇る光は、目で確認することはできないけれども、ランプがまだ灯されていることを示していた。その後光は次第に弱くなり、ついには消えてしまった。真夜中を過ぎたので明かりが消されたのだろう。月の光はまだ濡れている屋根屋根の上で輝き、そのすべてを見下ろすように聖セパルカ大聖堂の中央塔が真黒いかたまりとなって聳えていた。
 建築家は奇妙に身体が緊張するのを感じた。興奮しているのだが、その理由は分からなかった。床に就いてもこれでは眠れないだろう。シャーノールが帰ってこないのは確かにおかしい。シャーノールはフォーディングに行ったに違いない。はっきり聞いたわけではないが、フォーディングに招待されたというようなことをしゃべっていた。しかしそうだとしたら一泊するために用意をして行ったはずだ。だのに、何も持ち出していない。持ち出していればミス・ユーフィミアがそう言っただろう。待てよ、シャーノールの部屋に降りていって、荷物を持ち出した跡がないか、調べてみようか。ひょっとしたら不在の理由を説明する書き置きでも残されているかも知れない。彼は蝋燭に火をつけ、足もとで石の踏み段がこだまする巨大な井戸のような階段を下りた。てっぺんの天窓から一条の月明かりが射しこみ、屋根裏部屋から聞こえる物音はミス・ジョウリフがまだ寝ていないことを彼に告げた。オルガン奏者の部屋には、彼の不在を説明するようなものは何もなかった。蝋燭の光がピアノの側面に反射し、数週間前に友人と交わした会話や、ハンマーを持った男が後ろからつけてくるというミスタ・シャーノールの奇妙な妄想を思い出し、ウエストレイは思わず身震いした。もしや友人は病気になって今まで人事不省のままじっと寝ていたのではないかとふと不安を覚え、寝室をのぞきこんだが誰もいない――ベッドは乱れていなかった。そこで彼は上の自分の部屋に戻ったのだが、夜はしんしんと冷え、もう窓を開けていられなかった。閉める前に窓枠に手をついて、中央塔が町全体を威圧し、圧倒している様を眺めた。この岩のようなかたまりがぐらつくなど、まったくあり得ない話だ。このようなよろめく巨人を支えるには、自分が今その断面図を描いている引っ張り鉄など、あまりにも弱々しく不十分だ。彼はオルガンのある張り出しから見た南袖廊のアーチの上の亀裂を頭に浮かべ、その発見のために「シャーノール変ニ長調」を途中までしか聴かなかったことを思い出した。そうだ、ミスタ・シャーノールは聖堂にいるのかも知れない。練習に行って閉じこめられたのではないか。鍵が折れたかして、出られなくなったのだ。彼はどうしてもっと前に聖堂のことを考えなかったのだろうと思った。
 さっそく聖堂に行くことにした。駐在建築家である彼はどこのドアでも開けることのできるマスターキーを持っていた。寝る前に行方不明のオルガン奏者を探してこよう。彼は人気のない通りを足早に進んだ。街灯のランプはみな消えていた。カランでは満月のときはガスを節約するのである。動いているものは何もなく、足音が歩道に響き、壁と壁のあいだをこだました。波止場のそばの近道を通り、数分後には旧保税倉庫までやってきた。
 壁を支えるため波止場の方向に突き出した煉瓦造りの控え壁のあいだには黒いビロードのような影が落ちていた。オルガン奏者が神経を昂ぶらせ、暗い壁のへこみに誰かが潜んでいるとか、建物と人間の運命のあいだには何かしらつながりがあると妄想したりしたことを思い出し、一人微笑んだ。しかしその微笑みが無理に作られたものであることは自分にも分かっていた。孤独感や半ば廃墟と化した建物のわびしさやごぼごぼという川の囁きに終始押しつぶされそうな気分だった。彼は本能的に足を速めた。そこを通り抜けたときはほっとして、その晩二度目であったが、後ろを振り返った。すると光と闇の不思議な効果が最後の控え壁の暗がりに誰かが立っているような印象を生み出していた。長い緩やかなケープを風にはためかせている男の姿が錯覚とは思えないくらいはっきり見えるような気がした。
 錬鉄製の門をくぐり、墓地までやって来たとき、彼ははじめて柔らかく低い単調な連続音が周囲の空気を満たしていることに気がついた。束の間足を止めて聞き耳を立てた。あれは何だ?どこから聞こえてくるのだろう。敷石の小道を北の扉口へ歩いていくと、音はいっそうはっきりと聞こえてきた。間違いない。聖堂の中から聞こえてくる。いったい何の音だろう。夜中のこんな時間に聖堂で何をしているのだろう。
 北のポーチに着いたとき、音の正体が分かった。オルガンの低音――ペダル音の一つだ。オルガン奏者がひどく誇らしげに説明してくれた、あのペダル音に違いないと彼はほぼ確信した。この音はミスタ・シャーノールが無事であること――聖堂で練習していることを保証するものだった。何か突拍子もない気まぐれから、こんな遅くに演奏をしているだけなのだ。あのサーヴィス「シャーノール変ニ長調」を練習しているのだ。
 くぐり戸を開けようと鍵を取り出したが、すでに開いていることに気づき驚いた。オルガン奏者は中に入ると鍵をかける癖があることを知っていたからだ。聖堂の中に入る。奇妙なことに音楽は聞こえなかった。誰も演奏していない。ただたった一つのペダル音が絶えがたいほど単調な音を轟かせ、ときどきウオーター・エンジンが空になったふいごに空気を満たそうと、思い出したように動いては、かすかなどすんという音を立てるだけだった。
 「シャーノール!」彼は叫んだ――「シャーノール、何をしているんです。何時だと思っているんですか」
 彼は一呼吸置いた。最初、誰かが返事をしたような気がした――聖歌隊席で人々が囁き交わすのを聞いたような気がした。しかしそれは自分の声のこだまでしかなかった。自分の声が柱から柱、アーチからアーチへと投げ渡され、弱ってゆき、ランタンで「シャーノール!シャーノール!」というむせび泣きに変わったにすぎない。
 夜中の聖堂ははじめてだった。身廊の円柱が月の光を浴び、経帷子を着た巨人のように列をなして白く立っている様を凝視しながら、しばらくその神秘に圧倒されて立ちつくしていた。もう一度ミスタ・シャーノールの名を呼んだが、またしても返事はなかった。そこで彼は身廊を抜け、例の小さなドアにむかった。オルガンのある張り出しに通じる、階段のドアである。
 このドアも開いていたので、ミスタ・シャーノールはきっと張り出しにいないだろうと思われた。いるなら必ず鍵がかかっているはずだからだ。ペダル音は自鳴しているだけなのだろう。さもなければ、たぶん本のようなものがその上に落ちてペダルを押さえつけているのだ。張り出しに行く必要はないだろう。行くのは止めよう。振動する低音は前回の時と同じように彼を不快にさせた。彼は自分に何でもないと言い聞かせようとしたが、しかし何かがおかしい、それもひどくおかしいという不安な気持ちがますます強くなった。夜は更け、あらゆる生きとし生けるものから隔絶され、幽霊のような月明かりが暗闇をいちだんと暗くしている――完全な静寂にペダル音の陰鬱な響きが組み合わされて、彼はほとんど恐慌状態に陥った。幽霊が蠢いているような、聖セパルカ大聖堂の僧侶たちが墓石の下から蘇ったような、ほかにも不吉な顔があらわれ、じっと悪の所行を待ち受けているような、そんな気がした。彼は怯えに取り憑かれる前に、それを押し殺した。何が出て来ようとかまうものか。張り出しに行こう。彼は身廊から上へ行く階段に飛びこんだ。
 既に述べたように、これは中心の小柱のまわりをぐるぐると回りながら登る螺旋階段で、長くはないが明るい昼間でも相当暗かった。しかし夜になるとインクで塗りつぶしたような闇に包まれ、ウエストレイはかなりの時間手探りで進み、ようやく月明かりが見えるところまでたどり着いた。それからついに張り出しに足を踏み入れたのだが、オルガン椅子には誰も座っていなかった。真正面には南袖廊の端にある大きな窓が光っていた。夜ではなく、昼ではないかと思われた――そのくらい窓の光は彼が後にした暗闇に比べて強烈だった。ステンドグラスが半透明に輝く狭間飾りは、鈍い光を放っている――紫水晶、黄玉、玉髄、碧玉と、神の都の土台のような十以上もの宝石たち。そしてその真ん中、中央の窓仕切りの上部で、みずからの内に秘めた光で他の何よりも輝いていたのがブランダマー家の紋章、海緑色と銀色の雲形紋章だった。
 ウエストレイが張り出しに一歩踏みこむと、足が何かにぶつかり転びそうになった。ぶつかったのは柔らかくたわむ何か、触れただけで恐ろしい予感に満たされてしまう何かだった。身体をかがめて確認しようとすると白いものが目に飛びこんできた。白い顔が穹窿天井を見上げていた。彼はミスタ・シャーノールの身体につまずいたのだった。床に倒れ、後頭部を足鍵盤に載せていた。ウエストレイはかがみこんでオルガン奏者の目をのぞいたが、それらはじっと動かず生気がなかった。
 死体の顔を照らす月明かりは、中央の窓仕切りの上部、いちばん明るいところから射してくるようだった。床にじっと横たわる男からまさしくその命を奪ったものは、まるで雲形紋章であるかのように思われた。

 第十五章

 検死審問ではウエストレイと医者の証言以外に重要な証拠は提出されなかった。しかし実のところ、それ以外の証拠は必要なかったのだ。ドクタ・エニファーが死体を解剖し、直接の死因が頭部への打撲であることを突き止めた。しかし内臓は飲酒癖の痕跡を示し、心臓に疾患のあることは明らかだった。おそらくミスタ・シャーノールはオルガン椅子から立ち上がったとき失神し、後ろむきに倒れて足鍵盤に頭をぶつけたのではないか。きっと勢いよく倒れたせいで、鈍器で殴られたような重い傷がついたのだ。
 検死審問がほぼ終わろうとするとき、まるで本能に促されたように、突然ウエストレイが質問を発した。
 「つまり傷はハンマーのようなものによってつけられたのですね」
 医者は驚いた様子をし、陪審員と数少ない傍聴人たちは目をむいたが、ウエストレイの質問にいちばん驚いていたのはウエストレイ本人だった。
 「あなたに提訴権はないのですよ」と検死官が厳しく言った。「このような質問は通常許されていません。医師に返答を許可するのは特別の計らいと心得てください」
 「そうですな」とドクタ・エニファーはもったいぶって言った。その口調には、愚かな人々が聴きたがるどうでもいい質問にいちいち答えるためにここにいるわけではない、という気持ちがこめられていた。「そうですな。ハンマー、あるいは他の鈍器で暴力的につけられたような傷です」
 「重い杖ということもあり得ますか」ウエストレイが示唆した。
 医者は威厳のある沈黙を守り、検死官は口をはさんだ。
 「あなたは時間を無駄にしていると言わざるを得ませんね、ミスタ・ウエストレイ。もっともな疑問であれば決して無視したりしませんが、しかしこの事件に疑問の余地はないのです。この気の毒な男は勢いよく転倒し、木製の足鍵盤に頭をしたたか打ちつけて死んだ、それに間違いないんです」
 「本当に間違いありませんか」ウエストレイは訊いた。「ドクタ・エニファーはあの傷が転んだだけでできたと確信を持ってお考えですか。わたしはドクタ・エニファーが確信しているのかどうかを知りたいだけです」
 検死官は無用の手間ばかり取らせて申し訳ないという陳謝と、こんな質問は権威ある一言でけりをつけていただけるとありがたいといった期待をこめた目で医者を見た。
 「ええ、確信を持っていますよ」と医者は返答した。「さよう」――彼はほんの一瞬躊躇した――「さよう、転倒によってあのような傷がつき得るという点は間違いありません」
 「ただですね」とウエストレイ。「彼がその上に倒れた鍵盤はある程度へこみますよね。忘れちゃいけないのは、あれがへこむってことですよ、はじめてぶつかったときは」
 「その通りです」と医者。「そのことも考慮しましたし、あれだけ重い傷がついたというのはちょっと驚きであるということも認めます。しかしもちろんあの傷はそういうふうにしてついたのです。なぜなら他に説明のしようがないから。まさか殺人をほのめかしているわけではないでしょうね。確かに事故でなければ殺人と言うことになりますが」
 「いえいえ、わたしは何もほのめかしてなんかいません」
 検死官は眉をつり上げた。彼は疲れていて、このような時間の無駄遣いを理解できなかった。しかしおかしなことに、医者は前よりも中断を大目に見るような態度に変わってきていた。
 「傷跡の検査には慎重を期しました」と彼は言った。「そして熟考の末、木の鍵盤によって生じたに違いないと結論したのです。さらに健康状態が悪化していたために打撲の効果が増幅されただろうという点も忘れてはいけません。故人の思い出を汚したり、お友達だったあなたに、ミスタ・ウエストレイ、苦痛を与えるようなことは言いたくないのですが、しかし、検死の結果、慢性的なアルコール中毒の痕跡が見つかったのです。わたしたちはそれを考慮しなければなりません」
 「この男は常習的な飲んだくれだった」と検死官は言った。彼はカリスベリに住んでいて、カランもそこの住人のことも知らなかったから、平気で露骨なしゃべり方をした。おまけに建築家の差し出口にいらいらしていた。「あなたが言うのは、この男が常習的な飲んだくれだったということでしょう」と彼は繰り返した。
 「そんなこと、ありませんよ」ウエストレイはかっとなって言った。「限度を超えた飲み方をしなかった、とは言いませんが、決していつも飲んだくれていたわけじゃない」
 「あなたの意見など聞いていません」と検死官は言い返した。「われわれは素人の憶測なんか聞きたくはない。どう思います、ミスタ・エニファー」
 今度は外科医がむっとした。いつも使われるドクタという肩書きで呼ばれなかったからだが、法的にはその肩書きを使う権利がないことを知っていただけにかえって腹立ちも大きかった(註 英国では内科医はドクタと呼ばれるが、外科医はミスタ、ミズで呼ばれる)。現在かかっている患者、またこれからかかるかも知れない患者の前で「ミスタ」と呼ばれることは、彼の名誉を傷つけるものである。医者はさっそく反発するように言った。
 「いいえ、誤解なさってますよ、検死官。わたしはわれわれの気の毒な友人が常習的な飲酒家だったと言ったわけではありません。実際、酒で乱れたところは見たことがありません」
 「それではどういう意味だったのですか。死体にはアルコール中毒の痕跡があったと言いながら、飲酒家じゃなかったというのは」
 「亡くなった晩のミスタ・シャーノールの状態について何か証言はないのですか」と陪審員の一人が尋ねた。公平な立場から肝心な問題点を指摘したと思って内心にんまりしながら。
 「ええ、重要な証言があります」と検死官が言った。「チャールズ・ホワイトを呼べ」
 赤ら顔の小男が目をしばたたかせながら進み出た。名前はチャールズ・ホワイトといい、酒場メリーマウスの主人だった。故人は問題の晩にわたしの店にやってきました。故人とは顔見知りじゃありませんでしたが、あとで誰か知りました。天気の悪い晩で、故人はずぶ濡れでした。それでお酒を召し上がったんです。かなり飲みましたよ。でも紳士としてのたしなみを忘れるほどじゃありませんでした。お帰りになるときは、酔っておいでじゃありませんでした。
 「トップコートを忘れるくらい酔っていたんじゃないのかね」と検死官は訊いた。「彼が帰ったあと、このコートを見つけたんじゃないのかね」彼は主人をなくした哀れな外套を指さした。椅子の背に引っかけられたそれは、今までにもまして汚い緑色をし、ぼろぼろにいたんで見えた。
 「ええ、確かに故人はコートを置いていきましたが、酔ってはいませんでした」
 「皆さん、酔っぱらいの基準にもさまざまあるものですな」検死官は本物の裁判官の説得力に満ちた口調を一生懸命おもしろおかしく真似して言った。「どうやらメリーマウスの基準は他のところより進んでいるようだ。わたしは」――彼はあざけるようにウエストレイを見た――「わたしはこのような質問をつづける必要があるとは思いません。ここに酒飲みがいます。ミスタ・エニファーが言うように常習的な飲酒家ではないにしろ、完全に病的な状態に陥るほど酒を飲みつづけていた。この男が安酒場に一晩居座って深酒し、帰るころにはへべれけになり外套を忘れていってしまう。外は大雨が降っていたというのに外套を置いていったのです。彼は酔っぱらってオルガンのある張り出しに行き、椅子に座ろうとして足を滑らせ、激しく後頭部を木片にぶつけた。そして、数時間後、慎重にして疑う余地なき証人により」――ここで彼は軽くフンと鼻を鳴らした――「死体として発見される。この木片の上に頭を載せたままね。この点に注意してください――彼が発見されたとき、頭は致命傷を与えたまさにそのペダルの上にあったのです。皆さん、これ以上の証拠は何も必要ないでしょう。皆さんがなさるべきことは実に明白です」
 確かにすべては実に明白だった。事故死という全員一致の評決がミスタ・シャーノールの哀しい人生に奥付を付し、彼の人生を荒廃させた、まさにその弱点が、とうとう彼に飲んだくれとしての死をもたらしたのだと裁定された。
 ウエストレイは寂しげなおんぼろトップコートを腕に抱えて神の手に歩いて帰った。検死官はもっともらしいことを言って外套を彼に押しつけたのだ。どうやらきみは故人と親しかったようだから衣類の始末を引き受けてくれないか。建築家は気を取られていて、この発言に伴う嘲笑に憤る余裕はなかった。彼は悲しみと不吉な予感に胸をふさがれその場を去った。
 こうした変死というものはカランでは殺人の次に酒場での話の種となる。一時代前に木材商のミスタ・レヴェリットがブランダマー・アームズの女給を撃ち殺して以来、カランを舞台にこれほど劇的な事件が起きたことはなかった。浮浪者たちは市場の角で歩道に唾を吐き捨てるとき、ありとあらゆる形でその事件をののしりことばの中に取り入れた。ローズ・アンド・ストーリー一般服地店の売り場監督ミスタ・スマイルズは、枝編み細工の高椅子に腰かけるご婦人方と、カウンター越しに上品な口調でその事件を噂した。
 ドクタ・エニファーはひげをあたってもらっている最中に迂闊にもくだらない会話に巻きこまれ、顎を切ってしまった。ミスタ・ジョウリフはソーセージ一ポンドにつき無料で教訓的意見を一包み添え、かわいそうな友人をあまりにも突然に連れ去ってしまった飲酒の罪に白目をむいてみせた。大勢の人が棺桶の後ろからその最後の安らぎの場所までついていった。悲劇の翌日の日曜日の朝、聖堂はいつになく人であふれかえった。人々は参事会員パーキンが説教壇からこの事件について何ごとかを語るだろうと思ったのだ。さらにそれに付随して葬送行進曲の演奏という出し物もあったし、素人オルガン奏者がアンセムの途中で立ち往生する可能性もあった。
 こういう不純な動機から教会へ行った者は当然ながら失望を味わわされた。参事会員パーキンは煽情主義におもねるつもりはないと言い、説教の中で事件のことには一切触れず、またこのようにまことに不愉快な状況のもとでは葬送行進曲などまともに演奏できないと考えた。新しいオルガン奏者によるサーヴィスの演奏は最後まで腹が立つほど退屈・凡庸で、会衆は権利をだまし取られた人々のようにがっかりして聖セパルカ大聖堂から出て来たのだった。
 人の噂も七十五日で、ミスタ・シャーノールは中流階級の死者が沈んでいく大いなる忘却のかなたに消えていった。後任はすぐには任命されなかった。参事会員パーキンは音楽に造詣が深い、ミスタ・シャーノールの弟子、国民学校副校長を代替要員としてまわしてもらえるよう手配した。敬虔なエリザベス女王は主教の席が空になるとそのまま放っておいてその管区の歳入をせしめ、国王手元金を補充したが、それと同じように主任司祭はカラン大聖堂のオルガン奏者の地位を利用して私腹を肥やしたのである。おかげでこの役職にかかる卑しむべき報酬は大幅に削減され、一年経ったときには五ポンドが彼のポケットに入っていた。
 しかしたとえ世間がどうあろうと、ウエストレイはミスタ・シャーノールを忘れなかった。建築家は社交好きな男だった。大学には共通の関心から生まれる絆と伝統があり、それほど強くはないにせよ、同じようなものが陸軍、海軍、パブリック・スクール、さまざまな職業にも存在する。それは所属する者同士を結びつけ、それぞれの刻印を押しつけるのだが、下宿者のあいだにもこの同業組合に入っていなければ理解できないような、ある種の秘儀と資格が存在する。
 下宿生活はむさ苦しく、貧乏くさく、わびしいと言うかも知れないが、それを和らげ、埋め合わせるものがないわけではない。下宿生活はほとんどの場合、若者の生活である。ミスタ・シャーノールのような老齢の下宿人は比較的まれなのだ。それは素朴な必要と素朴な趣味の生活である。下宿することは芸術と違い、過度の趣味の洗練を好まないのだ。豊かな生活ではない。豊かな生活ができるようになったとたん、人はたいてい自分の家を持つものだからである。それは働きながら明るい未来を夢見る生活、人生の闘いに備え、財産の基礎を作る段階、あるいは極貧という名の落とし穴を掘り進む段階なのだ。そのような境遇はよき友情を生み、育む。下宿したことのある者は、誠意のこもった、私心のない友情を振り返ることができる。誰もが天を前に対等で、打ち解け、人間が作り出した身分の差を知らない――誰もが声をそろえて楽しく合唱しながら人生の第一段階を旅し、本街道が分岐して、成功と失敗の分かれ道が古い仲間を遠く引き離してしまう地点にはまだ達していないのだ。ああ、なんという同志愛であり、連帯感だろう。それは家計の窮迫によって堅固にされ、強欲な、怠慢な、あるいは専制的な女主人に耐える必要によって強められ、与える者の懐は痛まないが受ける者にとっては大きな価値のある親切と思いやりによって甘美な味わいをつけられている!一階の住人が軽い病気にかかったとき(下宿で重い病気が発生することはほとんどない)、二階の住人が夕方下に降りてきて看病をしないだろうか。二階の住人は長い一日の仕事に疲れているかも知れないし、つましい食事をすましてみると、外がすてきな晩であったり、地元の劇場で優れた一座の公演があるというビラに気を引かれるかも知れない。それでも彼は惜しみなく時間をさいて一階の住人のところへ降りて行き、椅子に腰かけ、その日起こったことを話したり、もしかしたらオレンジやいわしの缶詰を持っていったりもするのである。一方、終日部屋に閉じこもっていることにうんざりし、他にすることがないからと嫌になるほど本を読んでいた一階の住人は、二階の住人を見てどれほど喜ぶことだろう。そして彼とのおしゃべりが医者の薬よりどれほど元気の回復に役立つだろう!
 そののち花の展示会の日に女性が二階の住人を訪ねてきたときは、一階の住人は外出して居間を同宿人にすっかり明け渡し、食事のあと客がくつろぎ気分転換できるよう気を配らないだろうか。女性の訪問というのは恐れに満ちた喜びである。若い男に日曜日を一緒に過ごしましょうと親切に言ってくれた女性が、その上さらに親切を発揮して、いつかは男が意を決して申しこむ招待を、ありとあらゆる感謝とともに受け入れるときだ。この恐れに満ちた喜びがもてなす側に気もそぞろな準備を強いることは、国葬が紋章院総裁に強いるそれを上回る。あらゆるものがあたうかぎり最高の装いをしなければならず、実にさまざまな細部に注意を払い、実にさまざまな不足を隠さなければならない。しかしそのすべては結果によって報われるのではないか。小さな部屋とはいえ、そこには多くのものを補ってあまりある繊細さがあり、マントルピースの上の写真や銀のトディ・スプーン、さらには緑のテーブルクロスの染みを無造作に隠す「ロゼッティ詩集」と「享楽主義者マリウス」に至るまで、すべてが洗練された趣味に息づいていると若い男には思われないだろうか。そこへ親切な女性が微笑を浮かべてやって来る。彼女は相手の些細な不安やこまごました準備のことはすっかりお見通しなのだが、しかし何も知らないふりをして、彼の部屋や、取るに足りない宝物、料理、怪しげなワインをすらをも褒めてやり、ちょっとした不都合を巧みに興味深い珍奇な出来事に変えてしまうのだ。持ち家のある人々よ、あなた方は立派な人々である。一人前の男であり、智慧は汝らとともに死ぬであろう(註 ヨブ記から)。しかし下宿に住む者をあまり哀れまないことだ。彼らの知らない重荷を担うあなたは、反対に哀れまれ、心を千々にかき乱されてしまうから。彼らはあなたにこう言うだろう。種を蒔くときは収穫の時に勝るのだ、そしてさすらいの年月は主人となって一家を営む年月に勝るのだと。哀れみすぎてはいけない。孤独が必ずしも孤独なものではないことを知りたまえ。
 ウエストレイは社交的な性格で、同宿者がいなくなったことを寂しく思った。偏屈な小男で苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、それでもその性格の中に同情を引き出すなにがしかの力と、なにがしかの魅力を備えていたに違いない。とげとげしいことばと気むずかしさの下に隠れていたけれど、しかしそうしたものがそこにあったことは間違いない。というのはウエストレイは自分でもまさかと思うほど彼の死を痛切に受け止めたからである。この一年間、オルガン奏者と彼は一日に二三度顔を突き合わせた。二人は、共にその中で仕事をし、共にこよなく愛する大聖堂のことを語り合った。そして雲形紋章、ブランダマー家、ミス・ユーフィミアのことを噂した。彼らが取り上げなかった話題は一つだけ――ミス・アナスタシア・ジョウリフのことだ。もっとも頭の中では二人とも頻繁に彼女のことを考えていたのだけれど。
 今さらそんなことをしても手遅れなのだが、それでもウエストレイは毎日、このことをミスタ・シャーノールに話そう、とか、あのことについてミスタ・シャーノールの意見を聞こうと思い、そのたびに陰府《よみ》には知識のないことを思い出すのだった(註 伝道の書から)。陰鬱な神の手は一階の下宿人を失って前より十倍も陰鬱になった。夜中に石の階段を登る足音はいっそう虚ろに響き、ミス・ジョウリフとアナスタシアは早々に床に就いた。
 「上に行きましょう、あなた」ミス・ユーフィミアは十時十五分前の鐘が鳴るといつもそう言った。「夜が長くなると、とっても寂しい感じがするわね。窓にちゃんと掛け金がかかっているか確認するのよ」それから彼らは玄関ホールを急いで抜け、一緒に並んで階段を上がった。まるで一段たりとも二人の間に距離を置くまいとするかのように。ウエストレイでさえ夜遅くこの洞穴のような大きな家に帰ってくると同じ感覚に襲われた。彼は急いで暗い玄関ホールの棚の上に手を伸ばした。その大理石の天板には自分用のマッチ箱が置いてあるのだ。そして蝋燭を灯してから、ときどき本能的にミスタ・シャーノールの部屋のドアを見た。そうした折によくあったように、ドアから年老いた顔が突き出し、彼を迎えてくれるのではないかと半ば期待しながら。ミス・ジョウリフは新しい下宿人を探そうとはしなかった。「空き部屋あり」の看板が窓のところにかけられることはなかった。また、ミスタ・シャーノールが所有していた人的財産は彼が残したままに置かれてあった。ただし、一つだけ動かされたものがある――マーチン・ジョウリフの書類の束で、ウエストレイはこれを上の自分の部屋に運びこんでいたのだ。
 死者のポケットから見つかった鍵を使って故人の事務机を開け、遺言か書き置きが残されていないか調べてみると、一つの引き出しの中にウエストレイ宛のメモが発見された。死の二週間前の日付があり、ごく短いものだった。

「わたしがどこかへ行って連絡が途絶えたり、もしものことがあった場合は、すぐマーチン・ジョウリフの書類を押さえろ。自分の部屋に持って行って鍵をかけ、なくさないようにするんだ。わたしが望んだことだと言えば、ミス・ジョウリフが渡してくれるだろう。火事とかで焼失しないようよく注意するんだ。じっくり読んで自分の結論を下すがいい。赤い小さな手帳にはわたしのメモが書いてある」

 建築家はこのことばを繰り返し読んだ。それはミスタ・シャーノールが一度ならず話していた例の妄想の産物に違いなかった――すなわち、敵が彼のあとをつけてくるという、オルガン奏者の最後の日々を暗くしていたあの妄想である。しかし当然のことながら、事件のあとにこのような書き物に接すると不思議な感慨が湧いてくる。あの偶然はあまりにも奇怪、恐ろしいまでに奇怪だった。ハンマーを持った男がつけてくる――それがオルガン奏者の妄想だった。襲撃者が後ろから忍び寄り、こっそりと恐るべき一撃をあびせ彼を死に追いやる。そして現実に起きたことは――予期せぬ突然の死、勢いよく倒れたがための後頭部強打。これは単なる偶然だろうか。あるいは何か説明のつかない予感があったのだろうか。それともそれら以上の何かだったのか。恨みを抱く誰かに襲われる、というオルガン奏者の思いには、実は根拠があったのではないだろうか。本当はあの晩、寂しい聖堂の中で忌まわしい光景が繰り広げられたのではないだろうか。オルガン奏者は不意打ちを食らったか、静けさの中に何かが動く物音を聞きつけ、振り返り、殺人者と二人きりであることに気づいたのではないか。もしもそれが殺人者であったなら、犠牲者が覗きこんだ顔は誰のものだったのか。ウエストレイは考えながら身震いした。それは人間の顔ではなく、何か戦慄を催させる存在、暗きを歩む邪悪なものが目に見える形に具現化したもののように思われた。
 そこまで考えて、建築家は蜘蛛の巣を振り払うように愚かしい考えを頭から振り払った。くるりとむきを変えながら、誰がそんなことをしようと考えるものかと思った。故人はマーチンの書類が持ち去られないよう、誰を警戒しろと言ったのだろう。あの不吉な爵位を自分のものだと主張する、自分の知らない誰かがいるのだろうか。それとも――。ウエストレイは幾度となく心に浮かんだその考えを、悪意に満ちた根拠のない疑惑だと、断固としてしりぞけた。
 手がかりがあるとしたらあの書類の中に違いない。彼は与えられた指示を守り、書類を自室に持ちこんだ。ミス・ジョウリフにはメモを見せなかった。そんなことをすれば彼女の動揺を深めるだけだ。今でも強すぎるほどの衝撃を受けているというのに。彼はただミスタ・シャーノールの遺志で彼女の兄の書類を自分が一時的に預かるとのみ伝えた。彼女は書類に触らないよう懇願した。
 「ミスタ・ウエストレイ」と彼女は言った。「あんなもの放っておいてください。関わり合いになるのは止めましょう。わたし、ミスタ・シャーノールにも手を付けて欲しくなかったんです、あんなものには。おかげでこんなことになってしまって。もしかしたら天罰なのかも知れませんわ」――彼女は声を潜めて「天罰」と言った。中世の人間のように天は報復的で怒りっぽいと信じこみ、インクスタンドをひっくり返すことから下宿人の死まで、何か不運があれば、そこにその徴《しるし》を読み取ったのだ。「天罰なのかも知れませんわ。首を突っこまなければ今でも生きていらっしゃったんじゃないかしら。マーチンの望んでいたことがすべて本当だと判ったとしても、それがわたしたちにとって何の役に立つでしょう。兄ったら、いつも自分はいつか『御前様』と呼ばれるようになると言っていました。兄が亡くなった今、アナスタシアしか残っていません。でも彼女はきっと『お嬢様』なんて呼ばれたくないと思います。ねえ、あなた、そんな権利があったとしても『お嬢様』なんて嫌よねえ」
 アナスタシアは本から顔を上げて、止めてよというように笑みを見せたが、建築家が彼女にじっと視線をむけており、彼女の笑みに呼応するように笑みを浮かべるのを見たとき、それはいらだちの中に消えた。かすかに赤面し、若い男のまなざしが示す、彼女の一挙一動に対する関心が訳もなく腹立たしく思われ、急にまた本へと視線を戻した。わたしの問題なのに、何の権利があって心配そうな顔をしたりするのかしら。自分が本物の貴族だったら、昔レディ・クララがしたように、その高貴な生まれで彼を殺してやりたいくらい(註 テニソンの詩から)。彼女の面前でウエストレイがこのような関心のある目つき、関心を引こうとする目つきをすることに気づいたのは、つい最近のことだった。まさかわたしに恋している?そう思った瞬間、彼女の目に別の人の姿が浮かんだ。威圧的で、厳しく、不吉な感じさえするが、しかし圧倒的な強さを持ち、目の前で彼女のことばに耳を傾けている若者の、気の抜けたお愛想など色あせさせ、かき消してしまうような男の姿が。
 ミスタ・ウエストレイがわたしに気があるだなんて。そんなこと、あり得ないわ。とはいうものの、目で彼女を追ったり、彼女に話しかけるときの、蜜のしたたり落ちそうな態度は、この可能性を強く主張した。彼女は最近何度かやったように、急いで二人の関係を点検した。わたしが悪いのかしら。好意と勘違いされるようなこと、あるいは感謝と取られかねないようなことすらしたことがあるだろうか。当たり前の親切や優しさがすっかり意味をねじ曲げられるなんてことがあるのだろうか。彼女はこの心の取り調べにおいて堂々と無罪を勝ち取り、その人品に一点の汚点もつけられることなく法廷をあとにした。気を持たせるような振る舞いはどんなに些細なものも何一つしていない。失礼なのは覚悟の上で、ああいう色目にははじめからきっぱりした態度を取らなければならない。不作法とまでは言わないが、彼女の行為にむける熱心な関心や、同情的な目つきが、不愉快この上ないことを教えてやらなければならない。もう二度と彼のほうなんか見るものか。彼の前ではいつもじっと目を伏せていよう。この賢明な決意を固めたとき、彼女は何気なく目を上げ、辛抱強い彼の視線がまたもや彼女にじっと注がれていることを知った。
 「そこまでおっしゃることはないでしょう、ミス・ジョウリフ」と建築家は言った。「ミス・アナスタシアが爵位を受け継いだらみんな喜びますよ。それに」と彼は優しい声で言い添えた。「彼女くらい爵位の似合う人はいないと思います」
 彼は堅苦しく「ミス」をつけるのを止め、単に「アナスタシア」と呼びたかった。数ヶ月前ならごく自然に、何も考えずそうできたかも知れないが、しかし彼女の態度の中にある何かが、最近彼にこの楽しみを控えさせていた。
 そのとき貴婦人になるかも知れない娘は立ち上がって部屋を出た。
 「ちょっとパンを見てくるわ」と彼女は言った。「もう焼けたんじゃないかしら」
 ミス・ジョウリフの心配をようやく鎮め、ウエストレイは書類を保管することになった。一つには書類を調べなければ故人の遺志に甚だしく背くことになる――ミス・ジョウリフが属する人々のあいだでは故人の遺志は何よりも神聖と見なされていた――からであり、また一つには「占有は九分の強み」で建築家はすでに書類を自分の部屋に持ちこみ、鍵をかけてしまいこんでいたからである。しかしすぐにそれらに注意をむけるわけにはいかなかった。というのは人生の一大転機が近づいていたからで、ともすると他のことなど考える余裕がなかったのである。
 彼はしばらく前からアナスタシア・ジョウリフに心を寄せていた。はじめてこの感情に気づいたときは、懸命になってそれを圧し殺そうとし、最初の内はその努力がある程度の成功を収めていた。ジョウリフ家と縁つづきになるなど自分の威厳をおとしめるものだと心の底から考えていたのである。両者の社会的地位の差は、敵対的な批判を引き起こさないまでも、十分に耳目を集めるだろうと思った。建築家は下宿の女主人の姪を嫁に選ぶという、不可解なまでに身分違いの結婚をしたと必ず噂されるだろう。それは紛れもなく社会的自殺行為だ。亡くなった父はメソジスト派の牧師で、まだ存命の母はこの気高い聖務に深い尊敬を抱き、子供の頃からウエストレイの心にその生まれの特権と責任を刻みこんできたのだ。このような反対理由の他にも、年若くして結婚すると必要以上に家庭の労苦に煩わされ、出世の妨げになるという問題もあった。これらはバランスの取れた心には熟慮すべき重要な問題である。幸いなことにウエストレイはひたすら意志の強さと理性の力であらゆる危険な心情をほどなく完全に消し去ることができた。
 この幸せな、冷静な状況は長くはつづかなかった。恋心はただくすぶっていただけで、消えてはいなかったのだ。しかし風を送り、新たな炎を吹き上げさせたのは、アナスタシアの美しさと長所に絶えず思いを致していたからというより、まったく外的な影響力のせいだった。この外的な要素とはベルヴュー・ロッジの狭い人間関係の中にブランダマー卿が闖入してきたことである。ウエストレイはこの頃、ブランダマー卿の訪問の真意に疑いを抱くようになり、聖堂や修復やウエストレイ自身を表むきの理由に使ってベルヴュー・ロッジに一時的に入りこみ、何か他の計画を遂行しようとしているのではないかと、密かに考えていた。建築家と気前のいい資金提供者が今も交わす長い会話や、図面の検討や、細部の議論は、どことなく昔のような楽しさがなかった。ウエストレイは必死になって自分の疑惑にいわれのないことを納得しようとした。ブランダマー卿が修復費用として大金を寄付し、あるいは寄付を約束したという事実は、単に聖堂が彼にとっての一番の関心事であるということを示すにすぎないと、繰り返し自分にむかって指摘し、主張してきた。いくら裕福だといっても、ベルヴュー・ロッジに入りこむために何千ポンドも使うということは考えられない。さらにブランダマー卿がアナスタシアと結婚するということも考えられない――そんな取り合わせの身分差は自分の場合よりもさらに大きいとウエストレイは考えた。それでもブランダマー卿はしばしばアナスタシアのことを考えていると、彼は信じていた。なるほどウエストレイがいるとき、フォーディングの館の主ははっきりと気のある素振りを見せたことがない。たまたま彼女が座に加わったときも、特にアナスタシアに注目したり、彼女にばかり話しかけたりはしなかった。ときには彼女から顔を背け、わざと存在を無視するようなふうさえあった。
 しかしウエストレイはそこに真実が隠されていると感じた。
 誰かに強い好意を持つ者は、そのまわりにかすかな愛を発散させる。表情は注意深く監視され、ことばは本心を悟られないよう選ばれているかも知れないが、しかし溢れ出す愛の気配は濃密で、嫉妬に研ぎ澄まされた感覚にはその正体を見抜かれてしまうのである。
 ときどき建築家は自分が誤っていると思いこもうとした。疑い深い自分の性格を、心の狭さを咎めようとした。ところがそう思ったとたんに小さな出来事、まったく不可解な小事件が起き、冷静な判断を粉々にし、言うに言われぬ嫉妬にかられるのだった。たとえば彼はブランダマー卿が会見の時間にいつも土曜日を選ぶことを思い出す。ブランダマー卿の説明だと、平日は忙しいからということだが、しかし卿は土曜日が半ドンの小学生ではないのだ。いったいどんな仕事をしていたら平日はずっと忙しく、土曜日は時間が空くのだろう。それだけでも十分不思議だが、ミス・ユーフィミア・ジョウリフがその日の午後、決まってドルカス会に出ているという事実、さらにブランダマー卿とウエストレイのあいだに、会見の約束の時間に関して説明のつかない誤解があったという事実、つまり建築家が五時に帰宅すると一度ならずブランダマー卿が会う時間を四時と思いこんで、既に一時間もベルヴュー・ロッジで彼を待っていたという事実を考え合わせると、不思議さの度合いはいちだんと深まるのである。
 気の毒なミスタ・シャーノールも死ぬ二週間ほど前、そんなことをウエストレイにほのめかしていたから、やはり何かが起きていると勘づいていたに違いない。ウエストレイはブランダマー卿の気持ちがよく分からなかった。明白な目的を持ってアナスタシアの興味を惹こうとしているようだが、それでいて愛情を外にあらわさない。きっと結婚が目的ではないのだろう。しかし結婚でないなら何なのだ?普通の場合、答は簡単である。しかしウエストレイはそう考えることをためらった。莫大な富と高い地位を持つこの厳格な男、世界を放浪し、さまざまな人間と風俗を知るこの男が野卑な誘惑に屈するとは考えがたかった。だがウエストレイは次第にその考え方に傾き、アナスタシアを思う気持ちは、あらゆる下劣な目論見から彼女を騎士のように守ろうとする気高い決意に高められた。
 人間の最も深い愛がさらに深まる、などということがあるだろうか。あるとすれば、それは必ずや、自分が相手を愛するのみならず、守護する者でもあると気づくことによってである。自分は純潔を救おうとしているのだ――みずからの力で。どれほど謙虚な者も、このような思いはその心を高揚させる。実際、それは建築家の血管を満たす動きの鈍い薄い血を燃え立たせたのだった。
 彼はある晩、長い一日の仕事に疲れて聖堂から帰り、暖炉のそばでうとうとしながら中央塔の亀裂のことや、オルガンのある張り出しで起きた悲劇、そしてアナスタシアのことを次々と考えるともなく考えていた。すると年上のほうのミス・ジョウリフが部屋に入ってきた。
 「あらまあ、旦那様」と彼女は言った。「お帰りだったとは知りませんでした!火が燃えているか見に来ただけなんですよ。お茶になさいますか。今晩は特に何か用意しましょうか。とてもお疲れのようなんですもの。きっと根を詰めすぎているんですよ。梯子や足場の上を動き回るのは大変なんでしょうね。わたしみたいな者が意見するのもなんですが、旦那様、休暇をお取りになるべきですわ。ここに下宿するようになってから一日も休んだことがないじゃありませんか」
 「ミス・ジョウリフ、近々ご忠告通りにさせていただくかも知れませんよ。そのうち休暇を取るかも知れません」
 その答には異様な重々しさがあった。自分には極めて重要と考えられる問題について密かに思いを巡らしているとき、他人からどうでもいいような質問をされると、人はよく答えに異様な重々しさをこめることがある。わたしが死と愛について考察していることなど、この平凡な女に分るはずがない。優しく接し、邪魔したことを許してやらなければ。そうだ、運命は確かにわたしに休暇を取らせるかも知れない。彼はほとんどアナスタシアにプロポーズする腹を決めていた。即座に受け入れられることは疑いの余地がないが、しかしその場しのぎがあってはならないし、優柔不断は我慢できないし、愛情をもてあそぶ真似はお断りだった。完全に、無条件に、即刻受け入れるか、さもなければ結婚の申しこみを撤回するか、いずれかだ。後者の場合、そして拒絶というまったくあり得ない事態が起きた場合は、直ちにベルヴュー・ロッジを出る。
 「ええ、その通りですよ。近々休暇を取らなければならないかも知れません」
 己を抑えた返事の仕方が彼の口調に静かな威厳を与えた。ミス・ジョウリフはそのことばとともにふと漏れたため息を聞き逃さなかった。彼女にはこの話し方が謎めいて不吉に聞こえた。ひどく漠然とした言い回しには不気味な秘密めいたところがあった。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。どういう意味なのだろう。この若者は友人のミスタ・シャーノールを失いすっかり気落ちしてしまったのだろうか。それとも人知れず恐るべき疾患の種を抱えているのか。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。この人が言うのはただの休暇じゃないわ――もっと深刻なことを意味している。思い詰めた悲しそうな様子は、かなり長い不在を意味するとしか思えない。もしかしたらカランを離れるつもりなのだろうか。
 彼がいなくなることは、ミス・ジョウリフにとって物質的な観点から大問題だった。彼は最後の頼みの綱、ベルヴュー・ロッジが破産へと漂い出すのを食い止める最後の錨だった。ミスタ・シャーノールが亡くなり、彼とともにこの家の維持費として彼が払っていたなけなしの金もなくなった。それにカランでは下宿人はごくまれにしか見つからない。ミス・ジョウリフはこうしたことを思い出してもよかったのだが、そうはしなかった。彼女の心をよぎった唯一の思いは、もしもミスタ・ウエストレイが出て行ったら、彼女はまた一人友人を失う、ということだった。物質的な観点からこの問題をとらえようとはせず、彼女は彼を友達とのみ考えていたのだ。金を生む機械ではなく、あらゆる宝物の中で最も貴重なもの――最後の友人とのみ見なしていたのだ。
 「しばらくここを出るかも知れません」と彼はまた言った。同じ不吉な重々しさをこめて。
 「そうならないことを願っていますわ」と彼女は口をはさんだ。まるで強くそう願うことで迫り来る災いを回避しようとするかのように――「そうならないことを願っていますわ。あなたがいなくなったらとても寂しくなりますもの、ミスタ・ウエストレイ。ミスタ・シャーノールもいなくなってしまったことですし。家の中に男の方がいなくなったら、わたしたち、どうしましょう。一晩でもいらっしゃらないと、心細くてたまりませんわ。わたしは年寄りですから、どうだっていいのですけど、アナスタシアはあの恐ろしい事故があってから夜中にとても神経質になっているんです」
 ウエストレイの顔はアナスタシアの名前を聞いて明るくなった。そう、彼の愛情はよほど深いに違いない、彼女の名前が出ただけでこんなふうに悦ぶのだから。そうか、彼女は僕を頼っているのか。僕のことを守護者と思っているのだ。太くもない二の腕の筋肉が外套の袖の下ではち切れんばかりに盛り上がった。この二本の腕が愛する人をあらゆる悪から守るのだ。ペルセウス、サー・ギャラハド、コフェチュア王の姿が目の前をよぎった。彼はもう少しでミス・ユーフィミアに大声でこう言いそうになった。「ご心配には及びません。わたしはあなたの姪御さんを愛しています。わたしは身を屈め、彼女をわたしの王座につけてさしあげます。彼女に触れようとする者は、まずわたしを倒さなければならないでしょう」と。しかし躊躇する良識が彼の袖を引っ張った。この重大な一歩を踏み出す前に母親と相談しなければならない。
 理性が彼を押しとどめたのは幸いだった。そんなことを宣言すればミス・ジョウリフは卒倒したであろうから。実は彼女は彼の顔から翳りが消えたのを見て、自分のおしゃべりが気晴らしになったのだと喜んでいたのである。しばらくおしゃべりの相手をしてあげれば元気になるだろう。彼女は他に面白い話題はないかと頭の中を探った。そうだわ、もちろん話題はあるわ。
 「今日の午後、ブランダマー卿がいらっしゃったんですよ。他の人と同じように何気なくお出でになって、とても親切丁寧にわたしに面会をお求めになりましたの。ミスタ・シャーノールが亡くなって、わたしたち二人がひどいショックを受けているんじゃないかとご心配になったんです。ええ、そりゃ、大変な精神的打撃でしたわ。あの方はとっても思いやりがあって、一時間近く――時計を見たら四十七分だったんですけど――いらっしゃって、家族の一員みたいに台所で一緒にお茶をお飲みになったんです。こんなふうに親しくしていただけるなんて、思ってもいませんでしたわ。お帰りになるときは、ご丁寧にあなたに伝言を残していったんですよ、旦那様。家にいらっしゃらなかったのは残念ですが、また近いうちにお寄りしたいと思います、ですって」
 ウエストレイの顔に翳りが戻った。小説の主人公なら夜のように暗い顔つきになったというところだが、実際はぶすっとふくれ面をしたにすぎない。
 「今晩ロンドンに行きます」ミス・ジョウリフのことばに応えることなく、彼はこわばった口調で言った。「明日は戻らないでしょう。数日間出かけることになるかも知れません。いつ戻るかは手紙でお知らせします」
 ミス・ジョウリフは電気に打たれたようにびくっとした。
 「ロンドンに、今晩」と彼女は言った――「これからですか」
 「そうです」ウエストレイは口にこそ出さないものの、話はこれで終わりだということをおのずと示すような素っ気なさで言った。「さて、一人にしてくれませんか。出かける前に書かなければならない手紙が何通かあるんです」
 そういうわけでミス・ユーフィミアは階段を上り、建築家の仮定では自分の強靱な腕に寄りかかっているはずの乙女に、この奇妙なニュースを伝えた。
 「どう思う、アナスタシア」と彼女は言った。「ミスタ・ウエストレイは今晩ロンドンに発つそうよ。数日間戻らないかも知れないんですって」
 「そう」姪はそう答えただけだった。しかしそこには、建築家が聞いたらその愛情を沸点から血温にまで引き下げたかもしれないくらいの気怠さと無関心がこもっていた。
 ウエストレイは女主人が出て行ったあと、しばらくむっつりと椅子に座っていた。生まれてはじめて煙草が吸いたいと思った。パイプを口にくわえ、シャーノールが不機嫌なときにやっていたように、煙を吸いこんだり吐き出したりできたらいいのにと思った。落ち着きなく心があれこれ考えているあいだ、身体も落ち着きなく何かをしていたかった。けむる想念に炎を上げさせたのは、まさにその日の午後もあったという、ブランダマー卿の来訪だった。ウエストレイの知るかぎり、おもてだった用むきもないのにベルヴュー・ロッジにやって来たのはこれがはじめてだった。ありとあらゆる困難にもかかわらず、信じたいと思うことを信じようとする痛々しい努力。折り合いのつかないものに折り合いをつけ、そうすることでなんとか幽霊を追い払い、受け入れがたい疑惑を鎮めることができはしまいかという盲目的で、よろめきかけた、頼りない希望。そうした努力をし、希望を持って、建築家はブランダマー卿がしげしげとベルヴュー・ロッジを訪れる理由を、修復工事の進捗状況を把握し、彼が惜しみなく供出している資金の用途を確認するためだと、これまでずっと信じこもうとしてきた。ウエストレイとしては、ブランダマー卿の動機にうしろめたいところは少しもないと思いたかった。才能豊かな若き専門家との交際、そのことに当然ながら魅力を感じているに違いないと思っていたのだ。聡明な建築家と建築について語り合ったり、四方山話をすることは(ウエストレイは一つの話題ばかり不要にくどくど話すことを避けた)田舎で単調な独身生活を送っているブランダマー卿にはいいうさ晴らしになるに違いない。そう考えていたウエストレイにとって、卿のベルヴュー・ロッジ訪問は仕事の次に重要な、いや、ときには仕事以上に重要なことだった。
 最近、さまざまな事情のせいで、この動機の妥当性に対して異論が首をもたげはじめたけれども、ウエストレイは心の中でそれを認めようとはしなかった。不安を感じたとしても、そんな不安は事実無根と絶えず自分に言い聞かせた。しかし今、迷いは消えた。ブランダマー卿はいわば自分のためにベルヴュー・ロッジを訪れたのだ。ウエストレイに会うという口実をきっぱりと捨てたのだ。彼はミス・ジョウリフとお茶を飲み、台所で一時間を過ごした、ミス・ジョウリフと――アナスタシアも交えて。それが意味することは一つしかない。ウエストレイは決心した。
 せいぜい控えめな望ましさしか持たなかったものが、競争者があらわれたことにより、とびきり価値のあるものに変わった。嫉妬が愛を活性化し、義務と良心が仕掛けられた罠から彼女を救えと言い張った。大いなる犠牲が払われなければならない。彼、ウエストレイは自分より身分の低い娘を娶らなければならないのだ。しかしその前に事情を母親に打ち明けておこうと思った。もっともペルセウスがアンドロメダの鎖を断ち切る前にそんな相談を持ちかけたという記録はないのだけれども。
 それまで一刻の猶予もならない。今晩さっそく発つことにしよう。ロンドン行きの最終列車はもう出たけれど、カラン街道駅まで歩けば、夜行の郵便列車に間に合うはずだ。歩くのは好きだし荷物はいらない。母親の家に使えるものがあったのだ。決断を下したのは七時、その一時間後に彼はカランの町の最後の家を後にして夜の徒歩旅行に乗り出していた。
 カラウナ(カリスベリ)からその港クルルヌム(カラン)に至る街道はローマ人によって敷かれた。それは今日でも近代的道路に沿って、この二つの場所をへだてる十六マイルあまりの距離をほぼ直線状に延びている。その中間あたりでグレートサザン鉄道の幹線が街道と直角に交わり、ここにカラン街道駅があった。最初の半分の道のりはマロリー・ヒースと呼ばれる平坦な砂地を通る。わずかに広がる緑の芝生が街道際に迫っているが、その他は西を見ても東を見ても北を見ても果てしなく荒れ地がつづき、ところどころにハリエニシダやシダ、あるいは風に吹かれてやせ細った松や赤松が枝を絡ませ小さな木立を作っているだけだった。暗黄色の砂地の道は夜になるとたどりにくく、道端には旅人の目印となるように間隔を置いて標柱が立てられていた。標柱は星のない夜空を背景にしたときは白く浮き出し、たまに荒れ地を銀の毛布で覆う雪を背景にしたときは黒く見えた。
 晴れた夜なら旅人は古い港町から一マイルも離れた頃、遠くにカラン街道駅の灯火を見ることができる。それは彼方の闇に浮かぶ細い一筋の光のようで、はじめは連続した線に見えるが、まっすぐな道をさらに進んでしばらくすると一つ一つのランプが別々に見えてくる。多くの疲れた旅人が遠くのほうで少しも変化しないこのランプを見て、その動きのなさにいらいらした。苔むした表に昔の数字でハイド・パーク・コーナーまでの距離を刻んだ里程標を幾つも通り過ぎたのに、ランプは少しも近づいてこないように見えるのだ。ただ次第に大きくなる列車の音だけが目標に近づいていることを教えてくれる。急行の突進する音が鈍い地響きからだんだんと耳を聾する騒音に変わっていくのである。すがすがしい冬の日は、列車は真白い綿をたなびかせ、夜中に竈の口を開けて雲に煌々たる輝きを放つときは火焔の蛇を従えた。しかし真夏のけだるい暑さの中では太陽が蒸気を干上がらせ、列車はひたすら疾走した。いったい何がそれを動かしているのか、示すものがないだけにいっそうすばらしい勢いがあった。
 ウエストレイはこうしたものを何一つ目にしなかった。柔らかい白い霧があらゆるものを蔽っていたのだ。ほんの一分前まではすべてが静止していたのだが、それ自身の内なる力に突き動かされるように、霧は優雅に渦を巻きながら漂ってきた。服の表面にごく細かな粉のような水滴が幕を張り、指で触れると流れて重い粒になった。口髭、髪の毛、睫毛からもしずくが垂れた。前が見えなくなり、彼は息を詰めた。ミスタ・シャーノールが天に召された晩と同じく、それは海から渦を巻いてやって来た。ウエストレイは遠くの海峡でうなる霧笛の音を聞いた。カランの方を振り返り、ぼうっとした光が緑や赤に変わるのを見て、沖合の船が沿岸水先案内人に合図を送っていることが分かった。ゆっくりたゆまず歩きつづけ、ときどき芝地に踏みこんだときは、立ち止まって街道のほうに戻った。白い標柱の一つが正しい方向に進んでいることを確認してくれたときはほっとした。視界を奪う霧は奇妙に彼を孤立させた。彼は自然から切り離されていた。自然など何も見えなかったからである。彼は人間から切り離されていた。兵士の一団に囲まれていたとしても、それすら見えなかったからである。このように外からの刺激がなくなると、心はそれ自身に投げ返され、彼は内省へといざなわれた。彼は、これが百回目であったが、自分の立場を慎重に検討し、今まさに踏み出そうとしている重大な一歩が心の安らぎのために必要であるのか、正しいのか、賢明であるのか、考えはじめた。
 結婚の申しこみはどんなに決断力のある人間をも躊躇させるだろうし、ウエストレイは決断力のあるほうではなかった。彼は頭がよく、想像力があり、頑固で、極端に几帳面だった。しかし経験を積むことによって身につくおおらかな人生観や、困難な状況で即座に決断を下し、また一度決断したらそれをやり抜く精神力と不屈の意志に欠けていた。そのため例の理性というやつが彼の決意に揺さぶりをかけ、六回ほども道の真中で足を止め、目的を断念してカランに帰ることを考えたのである。しかし六回とも彼は歩きつづけた。ゆっくりした足取りでじっと考えこみながら。これは正しい行動だろうか。僕は正しいことをしているのだろうか。霧はいっそう深くなり、ほとんど息ができないくらいだった。目の前に腕を伸ばしても、手を見ることができなかった。僕は正しいのだろうか。物事には正しいことと間違ったことが存在するのだろうか。実在するものなどあるのだろうか。一切は主観的――つまり自分の頭が作り出したものではないのか。僕は存在するのだろうか。僕は僕なのか。僕は肉体の中にあるのか、それとも外にあるのか。そのとき激しい動揺、闇と霧の恐怖が彼を襲った。両腕を伸ばし霧の中をまさぐる姿は、まるで誰かか何かをつかんでみずからの正体を確かめようとしているかのようだった。ついに彼は自制心を失い、くるりとむきを変えるとカランに戻りはじめた。
 それはほんの一瞬のことだった。すぐに理性がその支配力を回復しはじめたのである。立ち止まって道端のヒースの上に腰を下ろした。どの枝も濡れてしずくがしたたっていたが、頓着せずに考えを集中した。心臓は悪夢から目覚めたばかりのときのように激しく動悸を打っていた。誰にも見られていなかったとはいえ、自分の弱さと精神的な混乱を今は恥じていた。いったいどうしたというのだ。なんという半狂乱ぶりだろう。数分後には再び方向転換し、しっかりきびきびした足取りで駅にむかって歩き出した。これは自分を取り戻したということの、彼にとっては満足すべき証拠であった。
 そのあとは旅が終わるまで正しいだの間違っているだの、賢明だの無分別だのといった途方に暮れる問題を避け、自分がしようとしていることの正しさ、賢明さは自明であるとし、もっと物質的で家庭的な諸問題について忙しく思案を巡らせた。収入がいくらあればアナスタシアと家を維持していけるのかとその額を計算し、心の中で手持ちの資金を最大限に活用して、この見積額に近づけては楽しんだ。他の人が似たような状況に置かれたら、恐らく結婚の申しこみが受け入れられる見こみについてあれこれ考えるだろうが、ウエストレイはこの点に関しては疑問すら抱かなかった。求婚すればアナスタシアは受け入れるものと決めつけていたのである。彼女だってこの結婚が物質的な点においても、名門一族と縁つづきになるという点においても、得であることが分からないはずはない。彼は独りよがりな考え方しかしていなかった。彼のほうでアナスタシアが好きになり、結婚を申しこんでもいいと思いさえすれば、あとは彼女は彼を受け入れる一手と思いこんでいた。
 確かに彼女がはっきりと好意を示した例はとっさにはあまり頭に浮かんでこないのだが、彼のことを憎からず思っていることは分かっていた。慎み深いがゆえに、普通なら報われる望みのない感情をあらわすことに消極的になっているに違いない。しかし控えめな、さりげないものではあったが、好ましい結果を保証するに足る十分な誘いを受けたことは間違いないのだ。彼は一緒にいるとき何度も何度も彼女と目が合ったことを思い出した。きっと僕の目に宿る優しさを読み取ってくれたのだろう。そして視線を返すことで、真の慎み深さが許しうる最大限の誘いをかけたのだ。その返事はなんと上品で、なんとかぎりなく優雅だったろう。まるでこっそりとのぞき見るみたいに僕のほうに目をむけ、僕の情熱的なまなざしにはっとなって恥ずかしそうに目を伏せることがどれほどあったことか。夢想にふけりながら彼は、ここ数週間のあいだ、彼女と同じ部屋にいるときはほとんど片時も彼女から目を離さなかった事実を考慮しなかった。これでときどき目が合わなかったとしたらそのほうが可笑しいというべきだろう。じっと見つめられると、ふとその視線のほうを振りむいてしまうという例の衝動に彼女はたまに従わざるを得なかったのだから。あの目は間違いなく僕を誘っていた、と彼は考えた。それにもらい物なんですと、何気なく言ってスズランの花束を渡したときは嬉しそうに受け取ってくれた。本当は彼女のためにカリスベリで特別に買ってきたのだけれど。しかしこれも彼女にとっては断りがたかったのだと考えるべきである。大体断ることなどできるだろうか。そんな状況で礼とともにスズランを受け取らない娘がいるだろうか。断ればお高くとまっていると思われるだろう。断ることで、親切からしてくれた行為に誤った、妙な意味合いを与えてしまうかも知れない。うん、スズランをあげたとき、彼女は僕を誘っていた。期待と違って胸に花を挿してくれなかったけれど、あれはきっと好意をはっきり示しすぎることを恐れたんだ。たちの悪い風邪にかかって、何日か家に閉じこもっていたとき、彼女が彼に示した関心には特に注目すべきものがあった。そして今晩、僕が一晩でもいなくなると彼女は寂しがると言っていたではないか。霧に隠れて見えなかったが、彼はそう考えてにんまりしたのだった。自分が家にいるかいないかで、美しい乙女の心の平安と身の安全が左右されるとしたら、男には悦にいる権利がいくばくかあるというものではないか。ミス・ジョウリフは、僕、ウエストレイがいないとき、アナスタシアは不安になると言った。アナスタシアが叔母にそのことを話して欲しいと、それとなくほのめかしたということも大いにあり得る。彼はまた霧の中でにんまりした。申しこみが拒絶される心配なんかこれっぽっちもありはしない。
 こんな具合に心安まる思いに深くひたっていたため、彼はまわりの物や状況にはまったく注意をむけずにひたすら歩きつづけていたのだが、ふと気がつくと霧にかすんだ駅の灯火が見え、目的地に到着したことを知った。自分の懸念と変節のせいで道中ずいぶん遅れてしまい、今は真夜中すぎ、列車はもうすぐ到着するはずだった。プラットフォームにも狭い待合室にも他の旅行者の姿はなく、待合室の中では、火屋《ほや》の黒ずんだパラフィン・ランプが弱々しく霧と戦っていた。活気のある部屋とはいえなかった。彼は壁の掲示物やらテーブルの上の黴臭い水の瓶を眺めていたが、駅長と切符係と赤帽を兼ねた駅員が眠そうに入ってきて、人間の世界に呼び戻されたときは救われたような気がした。
 「ロンドン行きの列車を待ってるんですか、旦那」彼は驚いたように尋ねた。それはカラン街道駅から夜行郵便列車に乗る人がほとんどいないことを示していた。「あと数分で着きますよ。切符はお持ちですか」
 彼らは一緒に切符売り場に行った。駅長は彼に何等車を利用するかも訊かずに三等車券を手渡した。
 「ああ、ありがとう」とウエストレイは言った。「でも今晩は一等車で行くよ。客室一つを自分専用にしたいな。他の客が出入りして邪魔されたくないんだ」
 「畏まりました、旦那」駅長は一等車の客にふさわしい、はるかに尊敬のこもった声で言った――「畏まりました、旦那。それじゃさっきの券はお返し願えますか。新しいのを手書きしますので――一等の切符は用意していないんですよ。この駅で一等を使う人はめったにいませんので」
 「そうだろうね」とウエストレイは言った。
 「妙なことがあるものですなあ」駅長はペンを使っているとき言った。「一月前にも同じ列車に乗るっていう人がいて、切符を書きましたよ。この駅が開通して以来それまで、一枚も売ったことはなかったんですがね」
 「ほう」ウエストレイは相手のことばにろくに注意を払わなかった。頭の中で一等車に乗ることの是非を新たに議論していたからである。現在彼が直面する人生の大事に当たって、精神がこの難しい状況にできるかぎり集中できるよう、肉体の疲労は避けなければならず、それゆえこの余計な出費は正当化しうると、ちょうどそんな判断に達したとき、駅長は次のように話をつづけた。
 「ええ、一月も前じゃないですなあ、お客さんに書いたように、ブランダマー卿に切符を書いたのは。もしかしてブランダマー卿とお知り合いですか」彼は思いきってそう付け加えた。その声には、同じ一等車を使うからといって、必ずしもあのような偉い人と知り合いということにはならないでしょうがね、という含みがこめられていた。ブランダマー卿の名前はウエストレイの弛緩しきった注意力に電気のようなショックを与えた。
 「もちろんだよ」と彼は言った。「ブランダマー卿とは知り合いだよ」
 「おや、そうなんですか、旦那」――彼の敬意は対位法で許されるどんな跳躍進行よりももっと大きな跳躍を遂げた。「ええ、お客さんと同じ列車に乗るというので御前様に切符を書いて差し上げたんですよ。あれから一月も経っちゃいません。ありゃあ、ちょうどカランのオルガン弾きが亡くなった晩でした」
 「そうなんですか」と無関心を装うウエストレイが言った。「ブランダマー卿はどこから来たんだい」
 「それが分からないんですよ」と駅長は答えた――「さっぱり分からないんで、旦那」と無教育な人や愚鈍な人がよくやるように、いたずらに強調を加えて繰り返した。
 「馬車に乗っていたかい」
 「いいえ、お客さんもそうじゃないかと思いますが、歩いて駅にお出でになったんです。ちょいと失礼しますよ、旦那」彼は話を中断した。「来ましたよ」
 遠くから列車の近づく音が響いてきた。ちょうどそのとき、プラットフォームの端にある踏切がまるで幽霊の手によって開けられたかのように静かに動き、その赤いランタンがカラン街道を遮った。
 誰も降りず、ウエストレイ以外は誰も乗りこまなかった。霧の中で郵便袋が交換され、駅長兼切符係兼赤帽がランプを振ると、列車は煙をあげて走り去った。ウエストレイは洞窟のような車内にいて、布の座席は棺桶の内部のように冷たく湿っていた。外套の襟を立て、ナポレオンのように腕を組み、隅に寄りかかって考えた。おかしい――ひどくおかしい。ブランダマー卿はシャーノールの事故があった晩、早めに帰ったものと思っていた。ブランダマー卿はベルヴュー・ロッジを去るとき、午後の汽車に乗ると言っていた。ところが卿は真夜中に、ここカラン街道駅にあらわれた。カランから来たのでなければどこから来たのだろう。フォーディングから来たはずはない。フォーディングからなら、リチェット駅で汽車に乗ったはずだから。妙だぞ、と彼はそう思いながら眠りに落ちた。

 第十六章

 それから一日か二日経って、ミス・ジョウリフはアナスタシアにこう尋ねた。
 「今朝、ミスタ・ウエストレイから手紙を受け取ったわよね、あなた。お帰りのこと、何か言っていた?いつ帰るかって」
 「いいえ、叔母さん、お帰りのことは何も。仕事の話がちょっと書いてあるだけ」
 「あら、そう。それだけなの」姪の打ち解けない態度に少々傷ついた彼女は冷たくそう言った。
 ミス・ジョウリフとしては、アナスタシアの考えることなどお見通しなのだから、隠し事をしてもむだよと言ってやりたいところだった。それに対してアナスタシアは、叔母さんは何でも知っているわ、いくつかの小さな秘密を除いてね、と答えていただろう。事実、一方が他方を知っていると言っても、恐らく老人が若者を知るようにしか知らなかったのである。「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(註 ミルトン「失楽園」から)この世の慰めの中で、このことが、つまり心というものはそれ自身一つの独自の世界であるということが最大の慰めである。心はどんな侵入者をもくい止める鉄壁の要塞、追われる者には昼も夜も開かれた聖域、夏の日照りのときでさえ木陰が元気を回復させる花園なのだ。幾人かの信頼する友人にはその迷路の道筋を教えるが、絹の糸玉一つでは短すぎて、自分以外の人がそこを通り抜けることは不可能である。陽光あふれる山頂があれば、汚れなき緑の芝地があり、花の匂いもかぐわしい小径、じめじめした絶望の土牢、あるいは罪の意識がこだまする、夜のように真暗な洞窟もある。ここを歩くときは一人だけ、決して手を引いて他人を連れて来ることはない。
 ミス・ユーフィミア・ジョウリフはウエストレイの手紙を完全に無視して、もうそのことに触れようとは思わなかったのだが、しかし女にとって好奇心は誇りよりも強い。好奇心が彼女に手紙の話をもう一度持ち出させた。
 「教えてくれてありがとう。わたしに言付けがあったら言ってちょうだい」
 「なかったと思うわ」とアナスタシア。「そのうち持ってきて全部見せてあげる」そう言って手紙を取りに行くかのように部屋を出たのだが、実はその場をごまかそうとしたに過ぎなかった。ポケットの中ではウエストレイの手紙が取り出されるのを今か今かと待っていて、彼女はずっとその存在を意識していたからである。しかし彼女は返事を投函するまでそれを叔母に見せたくなかった。また部屋を出てしまえば、忘れてくれやしないかとも思っていた。ミス・ジョウリフは出て行こうとする姪に自分の立場をわきまえさせようと別れ際の一言を発した。
 「わたしだったらミスタ・ウエストレイに手紙を書くよう水をむけたりしないわ。仕事の話しなら、あなたよりわたしに書いてよこすのが筋じゃないかしら」しかしアナスタシアは聞こえないふりをしてそのまま行ってしまった。
 彼女はかつてはミスタ・シャーノールの住まいだった、今では気が滅入るくらいがらんとした寂しい部屋へ行き、筆記用具を見つけると、ウエストレイへの返事を書こうとして椅子に腰かけた。ウエストレイの手紙の内容はすべて頭に入っていて、ほとんどそらんじることができるくらいだったが、それでも机の上に広げて、難解きわまりない暗号ででもあるかのように何度も何度も読み返した。
 「最愛なるアナスタシア」と手紙は始まっていたが、彼女は「最愛なる」という最初のことばを見て怒りを覚えた。いったいどんな権利があってわたしのことを「最愛なる」などと呼ぶのだろう。彼女はふと知り合った人に誰彼かまわず最上級を浴びせかけることをしない、不可解な女性の一人だった。今どきの基準から見ると、確かに冷淡、少なくとも想像力に乏しいと言えるに違いない。数少ない文通相手の中に「最愛の」と呼びかける人がいないのだから。叔母にだってそんなことばは使わない。ごくまれに家を離れてミス・ジョウリフに手紙を書くときは、「親愛なるユーフィミア叔母様」と呼びかけるのだ。
 不思議なことにこの「最愛なる」という同じことばがウエストレイをもひどく考えこませ、悩ませたのだった。「最愛なるアナスタシア」と呼びかけるべきだろうか、それとも「親愛なるミス・ジョウリフ」がいいだろうか。最初のは馴れ馴れしすぎるし、二つ目はよそよそしすぎる。このこと、および他の細々した点についても母親と協議し、とうとう「最愛の」でいくことになった。そう呼びかけても、せいぜい「先回りしすぎ」と批判されるくらいのものでしかないだろう、と思われた。この呼びかけはアナスタシアが結婚の申しこみを受け入れしだい、さっそく正当化されるはずだったからだ。

 「最愛なるアナスタシア――こう呼ぶのはあなたが今もこれからも、わたしにとって最愛の人であるからです――これから言おうとすることは、あなたの心もわたしの心と同じように望んでいることでしょう。そして重要な一歩を踏み出さなければならない今、あなたの優しさがわたしを支えてくれるであろうことを確信しています」

 誰も見ていなかったけれど、アナスタシアはあきれたように頭を振った。ウエストレイのことばには必要以上に運命的な響き、苦しい自分の立場に同情を求めているようなところがあり、耐え難いほど不愉快だった。

 「あなたと知り合ってから一年が経ちました。今やわたしの幸せはあなたを中心に回っています。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました。わたしはあなたの目が送っていたメッセージを正しく読み取ったと思います。

 今宵わたしは町いちばんの幸せ者か
 町いちばんのみじめな男
 神よ お示しあれ あのハシバミのような茶色の目が訴えるもの
 それをわたしが正しく読み取ったことを」

 アナスタシアは腹を立てながらも思わず笑ってしまった。ただ微笑を浮かべたのではなく、声に出して、一人静かに笑ったのである。男がよくやる含み笑いというやつだ。わたしの目はハシバミのような茶色どころか、茶色ですらない。でも町《タウン》と韻を合わせるために茶色《ブラウン》を使ったのね。それにどうせこの詩はどこかから引っ張ってきたものだわ。特にわたしのことを書いたわけじゃない。彼女はもう一度読み返した。「あなたと知り合ってから一年が経ちました。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました」。ウエストレイは詩的な繰り返しがロマンチックな雰囲気を醸し出すと考え、文に釣り合いを持たせたのだった。しかしアナスタシアには陳腐な文句の反復としか思えなかった。彼が彼女と知り合って一年が経ったなら、彼女も彼と知り合って一年が経ったことになる。女性の心にとって前提から導き出される結論はそこで終わりだ。

 「わたしはあなたのメッセージを正しく受け取ったでしょうか、最愛の人よ。あなたの心はわたしのものでしょうか」

 メッセージですって?いったい何のメッセージのことかしら。わたしがあの人なんかにどんなメッセージを目で伝えようとしたと思ってるのかしら。この何週間か、あの人は絶えずわたしをじろじろ見ていた。ときどき視線がかち合ったとしたら、それは避けられなかったという、ただそれのことだ。もっともたまにはわざと見つめ返すことがあった。恋に落ちた男の間抜け面を見るのが面白かったのだ。

 「どうぞそうだと言ってください。あなたの心はわたしのものだと」

(この懇願は批評を差しはさむことさえ憚られるような非常識に思えた)

 「わたしはあなたの現状を心配しながら見守っています。あなたが何も知らない危険に、今、この瞬間もさらされているのではないかとときどき危ぶむのです。また不幸や死があなたの叔母さんを襲った場合、どれほど先の読み解き得ない未来が訪れるか、不安になることもあるのです。わたしに未来という謎を読む手伝いをさせてください。あなたの盾となり、未来の支えとなることを許してください。わたしの妻になり、わたしにあなたの庇護者となる権利を与えてください。もうしばらく仕事でロンドンに滞在しなければなりません。しかしあなたのお返事をこちらで首を長くしてお待ちしています。いえ、こう言ってよければ、希望を抱きつつお待ちしています。

 あなたをひたむきに深く愛する
      エドワード・ウエストレイ」

 彼女はゆっくりと手紙をたたんで封筒の中に戻した。どれほどウエストレイが自分の目的を挫折させる手段を探し回ったとしても、この最後の段落くらいその目論見にかなったものは見いだせなかっただろう。それは男を拒むときにつきものの相手を思いやる気持ち、不快なものをできるだけ不快でなくしてやろうとする気持ちをほとんど奪ってしまった。彼の独善的な口調は腹にすえかねた。こっちが彼の言うことを聞くか聞かないか、それさえ分からぬうちから忠告してくるとはいったいどういうことか。彼女が今もさらされている危険とは何なのか。ミスタ・ウエストレイが彼女の盾となって守ると言っている危険とは。一応疑問を呈してみたものの、答は最初から分かっていた。彼女も最近心の中でそのことを何度も考えていたので、ウエストレイが言外にほのめかすことなど苦もなく理解できたのだ。嫉妬深い男がいるとすれば、それは嫉妬深い女より軽蔑されるべきもの。男のよりすぐれた力とは心の広さと寛大な態度にある。こういうものがないとき、その欠点は女の場合よりも目立つのである。アナスタシアはウエストレイが謎めいたことを言うのは嫉妬のせいだと考えた。しかし彼女は苦心惨憺書かれた手紙を滑稽だと思う強さを持つと同時に、からかいの対象とはいえ、男の興味をかき立てたことに女としての悦びを感じるという弱さも持っていた。
 彼女はもう一度、一緒に謎を、それも読み解き得ない謎を読み解きましょうという誘いを見て笑った。彼女の将来に備えたいなどと言っているが、その熱心な願いに含まれる恩着せがましい態度は、彼女自身、将来に備えてしっかりした考えを持っていただけにいっそう嫌らしく思えた。自分が家を離れないのはただ叔母を愛しているからだ、と彼女は何度も自分に言い聞かせていた。ミス・ジョウリフに「何か」があったら、彼女はすぐ自分で生計を立てるつもりだった。そうした際に役立ちそうな自分のたしなみを彼女はしばしば数え上げた。彼女は優れた学校で――やや一貫性に欠け、途中で中断したとはいうものの――教育を受けている。本をむさぼるように読み、イギリス文学、とりわけ小説の大家については深い知識を持っている。ピアノとバイオリンの腕前はまあまあ。もっともミスタ・シャーノールは彼女の自己評価に条件をつけただろうけど。油絵や水彩画を描かせると悠然とした筆致があって、父親はそれを母親から受け継いだに違いない――花と毛虫の大作を描いた、あのソフィア・ジョウリから受け継いだに違いないと言った。また、生気溢れる彼女の似顔絵は学校の友達を大いに湧かしたものだ。自分の服は自分で作り、デザインや仕立ての趣味のよさには自信があった。腕をふるう機会さえ与えられれば、ぬきんでた実力を示すことができるはずだ。彼女は自分が子供好きで、子供をしつける才能が生まれつき備わっていると信じていた。もっともカランで子供の面倒を見たことなど一度もなかったけれども。自分にはこうした能力、といっても彼女だけでなく他の人も持っているに違いない能力なのだが、これをもってすれば家庭教師のいい口を探すのはきっと簡単だろう、あとはそういう人生を歩む決意をするだけのこと。彼女はときどき運命をなじりたくなった。運命のおかげで世界は今、こうした恩恵を享受できずにいるのだから。
 しかし心の奥底では教育に人生を捧げることが本当に正しいかどうか疑問を感じていた。というのは自分の天命はもっと崇高な使命を果たすことではないか、口を使って教えるのではなく、ペンを使って教えることではないか、と思っていたのである。どの兵士も背嚢のなかに元帥杖を入れているように、どの十代の女の子も、大型衣装箪笥の奥には一流作家の衣冠束帯、そしてその地位を示す正式な記章が隠されていることを知っている。それを取り出し外気にさらさなければ、冠は使われないまま光を失い、怠惰という衣蛾に汚されることもあるだろう。しかしともかく正装一揃いはしまってあって、いつかそれに身を包み、驚き愕然とする世間の前に颯爽と登場するかも知れないのだ。ジェイン・オースチンとマリア・エッジワースは聳え立つ城のステンドグラスにその光輪を輝かすヒロインたちである。シャーロット・ブロンテもベルヴュー・ロッジと同じくらい鄙びたところで傑作をものしたのだ。アナスタシア・ジョウリフはいつの日か静かなカランの望楼から画期的な小説が勝利の行進をする様を遠く望み見たいものだと思っていた。
 もちろんその本はペンネームで出版されなければならない。一人前の物書きになるまでは本名を使う気はなかった。筆名の選択はこの冒険にむけて彼女が踏み出した唯一明確な一歩だった。時代背景はまだ決まっていない。大きな銀の壺や脚の細いテーブルがあり、胸の高さでドレスを絞っている十八世紀にしようかと思うこともあれば、男爵たちが血まみれの戦闘のあと、全身鎧をまとったまま川を泳ぐバラ戦争のさなかにしようかと思ったり、あるいはヴァンダイクが弓形の眉やほっそりした手を描き、死の影があらゆるものを蔽っていた清教徒革命の頃にしようかとも思った。
 彼女の空想がいちばんよく赴く先は清教徒革命の時代で、鏡の前に座りながら自分の顔はヴァンダイク風ではないかと考えることがときどきあった。確かにそうだった。たとえ鏡が曇っていて、映りが悪く、古びていたとしても、たとえそこに映しだされるドレスが紫紺や琥珀のヴェルベットでないとしても、彼女にはどことなく主君とともに没落した王党派の娘を思わせる雰囲気があった。王室付きの肖像画家なら、この若くて愛らしい瓜実顔と小ぶりな口を喜んで絵にしただろうし、眉とまぶたの間隔も彼の好みだと感じただろう。
 筋立てはまだぼんやりしていたが、登場人物たちは鎧や小枝模様の衣装を纏い、いつも彼女とともにあった。心はそれ自身一つの独自の世界、彼女は自分が造り出した小さな宮廷を持ち歩き、そこでは恐るべき悲劇が繰り広げられ、勇敢な行為があり、情熱的な若い愛が苦悩のあまり涙をこぼし、そしてたかが十八歳の小娘が比類ない決意と大胆さと美と天才と肉体の力を持っていつも事態を正し、最後に平和をもたらすのだ。
 これだけの才能があるのだから、アナスタシアには未来が暗鬱なものとは見えなかったし、ミスタ・ウエストレイが考えるほど、その謎が解き難いとは思わなかった。彼女の将来に希望を与えようとするいかなる試みに対しても、彼女は未熟な人間の持つありったけの自信をこめて憤慨しただろう。実際ウエストレイの申し出は、彼女が寄る辺ない立場にあることをほのめかしたり、申し出を受け入れれば幸福になれるとか、いかにも低姿勢でお願いしているのだ、ということをやたら強調しているため、なおのことはらわたが煮えくりかえるのだった。
 女性の中には結婚こそ人生の第一義と、常にそのことを中心に考え、条件のよい結婚、それがだめならそれなりの結婚を主要な目的とする人がいる。また結婚を偶然的なものと見なし、熱心に望みもしなければ避けることもせず、状況の善し悪しに従って受け入れたり拒んだりする人もいる。さらにまた、すでに若いときから結婚という考えを決然と捨て、心の中でこの問題を議論することさえみずからに禁ずる人もいる。男が結婚しないと言明しても、経験の示すところ、この決心はしばしば考え直されるものだ。しかし結婚しない女は違う。彼らはたいてい未婚のままである。なぜなら男というものは愛情問題に関してはへっぴり腰で、すげない態度を見せられると追いかけるのを止めてしまうからである。こうした女性もみずからの裁定を考え直したいと思うことがあるのかもしれないが、気がつくとすでに悔やんでもどうにもならない年齢に達しているのだ。しかし大体においてそうした事柄に対する女性の決心は男性のそれよりも堅固である。それというのも、女性にとっての結婚は男性の場合とは比較にならぬくらい重要な問題だからだ。
 アナスタシアが属していたのは無関心派だった。立場の変化を求めもしなかったが、避けもしなかった。ただ結婚を偶然と見なし、それが身に降りかかれば前途に大きな変化があるかも知れないと思っていた。そうなればもちろん教育者としての人生は不可能になる。文学活動だって、妻や母としての仕事があるから、ある程度の束縛を受けるだろう(結婚するにしろ、しないにしろ、彼女は作家としての使命を全うするつもりでいた)。しかし結婚を困難からの逃避であるとか、生活という取るに足りない問題の解決方法であるなどとは決して考えたくなかった。
 彼女はもう一度ウエストレイの手紙を始めから終わりまで読み返したが、ますます退屈なものに思えてきた。この手紙は書き手の性格を表している。いつも夢のない男だと思っていたけど、今は耐えきれないくらい散文的で、うぬぼれていて、けちくさく、功利主義者に見える。妻になってくれですって!保母兼家庭教師として一生を過ごす方がましよ!あんな人が相談相手で伴侶だったら小説なんて書けるものですか。あの人はわたしに几帳面さを求めてくるわ。卵は新鮮なものをそろえろ、ふとんはよく日干ししろ、って。こんな具合に頭の中で自分を妻にしようとするこの企てに理詰めの非難を重ねた結果、ついに彼の申し出は忌むべき犯罪になってしまった。素っ気なく、無愛想に、いいえ、乱暴に返事を書いてやったって、当然の報いだわ。こんな愚劣な結婚の申しこみでわたしにばかばかしい思いをさせたんだもの。そういうわけで彼女はきっぱり決意を固めて筆箱を開けたのである。
 それは擬革に覆われた小さな木箱で、蓋にはフランス語で「文箱」という金文字が押されていた。大して価値があるとは思っていなかったが、父親からの贈り物という意味で彼女には大切なものだった。実を言えば父親がくれた唯一の贈り物なのだ。トランペットで一大ファンファーレを奏でながら彼女をカリスベリのミセス・ハワードの学校へ送り出すとき、いつになく太っ腹な気分になった父親が、少なくとも半クラウンは奮発して買ったものだ。彼女は父親のことばをそっくり覚えている。「これを持っていきな」と彼は言った。「これから一流の学校に行くんだ。持ち物もそれにふさわしいものでなくっちゃな」そう言って筆箱をくれたのだった。足りないものは山ほどあったが、それで我慢しなければならなかった。アナスタシアはそれが新品のヘアブラシかハンカチ一ダースか、まともな一足の靴であったらよかったのにと嘆いた。
 それでも筆箱は役に立った。それ以来手紙はすべてそれで書いてきたのである。しかも彼女の持ち物の中では唯一鍵のかかる入れ物だったので、彼女は女の子らしい宝物を入れる、ささやかな宝石箱にしていた。びっしり中身が詰まっていたので、開けるとそれらがあふれ出てきた。ロマンスを添えた手紙もあれば、楽しかったけれどあまりにも短すぎたカリスベリでの学校生活の思い出の品もあった。学期末の素敵なダンスパーティーで踊る相手の名前を乱雑に書きこんだプログラム。パーティーには他の女生徒の兄弟が厳選されて招待されていたのだ。そしてその歴史的な機会に胸につけた、誰かのくれたバラの押し花。他にも同じように貴重な記念品が詰まっていたが、どういうわけかそれらは以前ほどロマンチックだとも大事だとも思えず、今はたわいもないものをと苦笑したいくらいだった。その時小さな紙片がひらひらと机から床に落ちた。彼女は屈んで宝冠の絵と「フォーディング」の字を黒く印した封筒の垂れ蓋を拾い上げた。ある日ウエストレイのゴミ箱を空けようとして見つけたものだ。ごく単純な図案でしかなかったが、彼女に思考の糧を与えたに違いない。筆箱にしまいこみ、ウエストレイの手紙を書くまで少なくとも十分は目の前の机の上に置かれていたからである。
 返事を書くのはなんら難しいことではなかった。ただ、しばらく思い出に浸っていたせいで、いらだちは収まり、敵意は和らいでいた。返事は無愛想でも乱暴でもなく、独創的と言うよりありきたりで、しかも結局こういう場合によく使われる常套句を用いることにした。何しろはじめて男が求婚し、はじめて女が断るのだ。彼女は自分に優しい関心を寄せてくれたことをミスタ・ウエストレイに謝し、自分に対して示してくれた気遣いを十分に理解していると書いた。残念ながら――誠に残念ながら――ご希望に添うことはできません。こんなふうに書くと思いやりがないと思われるかも知れませんが、わざと思いやりのないことばを書いているわけではないのです。はなはだ申し上げにくいことではあるけれど、ご希望には「決して」添うことができないと偽らずに言うことが本当の思いやりであると考えるのです。彼女はしばらく手を休めてこの最後の文の含むところを検討していたが、書き直す必要はないと判断した。求婚者の情熱が再燃することがないよう、彼女の決定が最終的なものであることを示したかった。ミスタ・ウエストレイに対する強い敬意はこれからも少しも変わりませんし、今回のことで二人の友情にひびが入るようなことは決してないと信じています。今までと同じようにお付き合いがつづくことを希望しつつ筆を擱きます。
 書き終わって安堵のため息をつき、慎重に読み返しながら適当な箇所にコンマやセミコロンやコロンを付け加えた。句読点を厳守することは楽しかった。文学的な文体を志し、ペンで生計を立てようとする者なら当たり前の配慮であると彼女は思った。結婚の申しこみに自分で返事を書いたのはこれがはじめてだったけれど、似たような境遇に陥ったヒロインのために手紙を書いてやったことがあったので、まんざらこの手の経験がないわけでもないのだ。同時に彼女の書き方はミス・ユーフィミアの蔵書の一冊、ぼろぼろの子牛革で装丁された「若者のための手紙大全、および人生の様々な場面における返事の書き方指南」にいつの間にか影響されていたかも知れない。
 手紙にしっかり封をし、投函し、そこではじめて叔母に何があったかを報告した。「ミスタ・ウエストレイの手紙よ」と彼女は言った。「お読みになりたければどうぞ」と、男が己の運命を託した白い一片の紙きれをミス・ジョウリフに手渡した。
 ミス・ジョウリフはさりげなく受け取ろうとしたがうまくいかなかった。結婚の申しこみというものは独特な雰囲気を発散していて、どれほどぼんやりした人にもその重要性が分ってしまうものである。彼女は読むのが遅く、眼鏡を拭いてかけ直し、椅子に腰かけてから、目の前のものをじっくり焦らず検分していこうとした。
 しかし最初に判読した「最愛」という文字に平静を奪われ、いつもにも似ない大急ぎで手紙を読み進んだ。読みながら口を丸くすぼめ、ときどき気持ちを吐き出すように「まあ」とか「まあ、アナスタシア」とか「まあ、あなた」と、ため息をついた。
 アナスタシアは傍らに立って、そらでも言える文面を追いながら、ページをめくる人より十倍も速く読める人のようにいらいらしていた。
 ミス・ジョウリフの心は相矛盾する感情で一杯だった。姪の前に開けた、より確かな未来の展望を喜ぶとともに、なぜもっと早くに打ち明けてくれなかったのかと気分を害したのだ。アナスタシアは彼に求婚されることをきっと知っていたに違いない。目と鼻の先で行われていた求愛活動を見逃すとはうかつだった。そして結婚が、自分の子供のような相手と別れることを意味することに思い当たり当惑した。
 長い老い先を一人で歩いていくのはなんと憂鬱なことだろう!「緩慢な暗闇の時間が始まる」(註 クリスチナ・ロセッティの詩から)とき、頼りにするつもりでいた愛しい腕を奪われるのはどんなにつらいことだろう!しかしそれは自分勝手な考え方だと頭の中から追い払い、そんなことを考えた後悔の気持ちから、しわが寄り、酷使されて肌の荒れた手をそっとアナスタシアの手の中に忍びこませた。
 「あなた」と彼女は言った。「いい運に恵まれてわたしもとても嬉しいわ。よかったじゃないの」アナスタシアが結婚の申しこみを受け、ともかくも一安心という気持ちが不安を沈黙させたのだった。
 諾否を求める結婚の申しこみは、よいものであれ、悪いものであれ、どうでもいいものであれ、受け手にある種の自己満足を与える。軽くあしらってもいいし、不興をかこってもいいし、アナスタシアのように腹を立ててもいい。しかしその心の奥底には、一人の男の完全な賞賛を勝ち取ったといううぬぼれが潜んでいるものだ。たとえ相手が絶対に結婚したくないような男であっても、馬鹿であっても、けちであっても、悪党であっても、とにかく男であって、彼女は彼を虜にしたのだ。彼女の親族も同じようにご満悦である。申しこみが受諾されるなら、それまではたぶん先行き不確かだった者に未来が開かれることになる。拒絶した場合は、金の力に屈しなかったとか、不釣り合いな相手と運命を結びあわせなかったとか言って、血族の女の優れた判断、しっかりした分別を祝うのである。
 「よかったじゃないの」ミス・ジョウリフは繰り返した。「おまえが幸せになることを願っているよ、アナスタシア。この婚約に神様の祝福がありますように」
 「叔母さん」と姪は遮った。「そんなこと言わないで。わたし、もちろん、断ったわ。どうしてわたしがミスタ・ウエストレイと結婚するなんて思うの。あの人とそんなことになるなんて考えたこともない。こんな手紙を書いてよこすなんて思ってもいなかったわ」
 「断ったですって?」老婦人は驚いて強い口調になった。また自分勝手な考えが頭をよぎった――やっぱり二人を別れさせてはいけない――そしてまたそれを断固として退けた。彼女は姪にそのような結論を出させた反対理由を思いつくかぎり頭の中に浮かべてみた。宗教はミス・ジョウリフの人生の基本で、彼女の心は磁石の針が北をむくように宗教へむかう。そのときもそこに理由を求めようとした。アナスタシアにとって障害となったのは何か宗教的な事柄だったに違いない。
 「あの人がメソジストだっていう点は少しも気にする必要がないと思うわ」彼女は問題のありかを突き止めたと強く確信し、また自分の洞察力の鋭さを多少誇りに思いながら言った。「お父さんはしばらく前にお亡くなりだと言うし、お母様はご存命だけど、一緒に暮らすことはないのよ。お母様はあなたにメソジストになって欲しいなんて思いやしないでしょう。ミスタ・ウエストレイは、いいえ、今やあなたのミスタ・ウエストレイよね」そう言って彼女はその場にふさわしいいたずらっぽい表情を浮かべた。「あの人は立派な教会の信者だわ。日曜にはきちんと大聖堂に行くし、建築家だから平日だって聖堂に行っている。国教会の礼拝のほうが他の派の礼拝より心にしっくりくるんでしょうね。もちろんメソジストの悪口なんか一言も言うつもりはないわ。あの人たちは本物のプロテスタントよ。もっと重大な過ちからわたしたちを守ってくれる土塁のような人たちだわ。あなたの恋人が小さいときの躾のおかげで典礼尊重主義に陥っていないことは喜ばしいことよ」
 「叔母さんたら」とアナスタシアは口をはさみ、その本気で非難する口調に叔母は驚いた。「お願いだからそんなふうに言うのは止めてちょうだい。ミスタ・ウエストレイをわたしの恋人だなんて呼ばないで。言ったでしょう、あの人とはこれからも何の関係もないんだって」
 ミス・ジョウリフの思いは大きく弧を描いて動いた。結婚の申しこみが断られ、縁談は破談というなりゆきに直面し、それがもたらすはずの利点が急にくっきりと見えてきたのである。興味津々のドラマが始まったと思ったらさっそく幕が閉まり、よきものをつかんだと思ったら、とたんに指のあいだからこぼれ落ちてしまう。これではあまりにも残念だと思った。数分前に彼女を悩ました孤独な老後の恐れなど今は考えようともしなかった。彼女が見ていたのはアナスタシアがわがままにも犠牲にしようとしつつある将来への備え、それだけだった。手はいつの間にか握りしめられ、持っていた縦長の紙片をくしゃくしゃにしてしまった。それはたかが牛乳屋の請求書に過ぎなかったけれども、もしかしたらそれが無意識のうちに彼女の考え方を実利主義的な色合いに染めていたのかも知れない。
 「せっかく差し出していただいた良いものを断ったりするものではありません」彼女は少々改まって言った。「よくよく考えて、そうするのが正しいというのでなければ。わたしに何かあったら、アナスタシア、あなたはいったいどうなるの」
 「それこそ彼が言っていることよ。彼がつけこんでいるのはまさにその点なのよ。どうして悪いほうにばかり考えるの?何かが起きたら、それはいつも悪いことなの?いいことがあるって期待しましょうよ。別の人からもっといい申しこみがあるって」彼女は笑い、それから考えこむようにこう付け加えた。「ミスタ・ウエストレイはこの下宿に戻ってくるつもりかしら。帰ってこなければいいけど」
 そのことばを口にしたとたん、彼女は後悔した。ミス・ジョウリフの顔に悲しげな色がさっと広がるのを見たのだ。
 「叔母さん」と彼女は叫んだ。「ごめんなさい。そんなこと言うつもりじゃなかったの。分っているわ、わたしたちがどんなに困るか。最後の下宿人をなくすわけにはいかないわね。わたし、戻ってきてくれたらいいと思う。家計の足しになるなら、あの人と結婚すること以外、何でもするわ。自分でお金を稼ごうと思っているの。わたし、書くわ」
 「何て言って書くんだい?誰に宛てて書くんだい?」ミス・ジョウリフはそう言って、虚ろな表情をいっそう虚ろにし、ハンカチを取り出した。「わたしたちを助けてくれる人なんていないのよ。わたしたちのことを気にかけてくれるような人はとうの昔に死んでしまった。もう手紙を書く相手なんて誰もいないのよ」

 第十七章

 ウエストレイははねつけられた恋人の役をすこぶる良心的に演じた。結婚を申しこんで一蹴されるという一幕を厳密に型通り表現したのである。人生の灯は消えた、自分こそこの世でもっとも不幸な人間であると、自分にも母親にも言い聞かせた。「秋」と題する詩を書いたのはこの時期である。それは

 望みは冷たく死に絶えて
  落ち葉のごとく散りはてる

というリフレインを持ち、クラプトン・メソジスト紙に掲載された。そののち、とある若い女性が、また一つあらわれた傷心をいやそうとして曲をつけてくれた。ベッドの中で一晩じゅう目を開けていようとして、あまり成功はしなかったのだが、会話の時は不眠症がその犠牲者に与える沈鬱な気分についてそれとなく語ったりした。嫌いな食べ物がでれば喜んで立てつづけに食事をしたくないと言い、母親は彼の健康状態を真剣に案じた。彼女はアナスタシアが息子を拒否したことを口を極めてののしったが、アナスタシアが申しこみを受け入れていたらもっと痛烈にののしっただろう。息子の前で大げさな重苦しい表情をして彼をうんざりさせ、またレディ・クララ・ヴィア・デ・ヴィアの残忍さが誠実な心を苦悩に陥れた故事を引き(註 テニソンの詩から)、はねつけられた恋人さえこのあまりに筋違いなたとえに苦笑せざるを得なかった。
 ミセス・ウエストレイはアナスタシアが嫁に来なかったことをさんざん罵倒したが、心の中ではそういう結果に終わったことを大喜びしていた。ウエストレイは正直なところ喜ぶべきなのか悲しむべきなのか分からなかった。彼は自分がアナスタシアを深く愛しており、この愛は彼女を悪から守ろうとする騎士道的な志によって崇高なものにまで昇華されていると信じていた。しかし見逃すことができないのは、この不幸な出来事のおかげで、少なくとも下宿の女主人の姪と結婚するという、前代未聞の事態は避けられたのだということである。彼は自分が心から深く悲しんでいると思いこもうとしたが、結局のところ悔しさと屈辱が彼の気持ちの大部分を占めているのではないかとも思われた。他にも考えたことはあったが、この深刻な悲劇のさなかに似合わぬ不謹慎な考えであると、頭の中から追い出した。しかし、にもかかわらず、それらは目に見えないところで心を慰める穏やかな効き目を放っていたのである。早すぎる、金のない結婚という不安を免れることができたのだ。家族を養う労苦によって仕事が邪魔されることはないのだ。全世界がもう一度目の前に広がり、また新たにやり直すことができるのだ。これらは決して看過できない、大切な点なのだが、胸を刺す悲しみが他のあらゆる感情を圧倒すべきときに、こうしたことをむやみに強調するのはどうも具合が悪いのだった。
 彼はサー・ジョージ・ファークワーに手紙を書き、気分がすぐれないことを理由に十日間の休暇を得た。ミス・ユーフィミアには別の下宿を探す旨を伝えた。この措置は最初から取らざるを得ないと思っていた。ベルヴュー・ロッジに居座りつづけて、アナスタシアの姿を見、あるいは偶然彼女と話をすることで、日々悲しみを新たにしたり、日々傷口が開いたりするのは耐え難かった。言うまでもなく、この決断には傷つけられた自尊心への譲歩が一部含まれている。男は壊滅的な敗北を喫した場面を好んで再び訪れたりはしない。それにお湯が欲しいと呼び鈴を鳴らして振られた恋人を呼び出すなど、考えただけでもどこかグロテスクである。手紙で別の下宿を探すのは造作もなかった。教会事務員のジャナウエイに頼んで荷物を移してもらうことにしたので、本人が以前の住居に戻る必要はまったくなかった。
 一ヶ月後のある朝、ミス・ジョウリフは生前ミスタ・シャーノールが使っていた部屋に腰かけていた。アナスタシアが保母兼家庭教師の口を求むという広告を出しにカラン・アドバタイザー紙の事務所へ行ったため、彼女は一人だった。日差しの明るい朝だったが空気は冷たかった。火床に火が入っていなかったので、ミス・ジョウリフは白い手編みの古ショールをぎゅっと身体に巻き付けた。火がないのは金がないせいだが、しかし窓を通して入って来る光はその部屋を台所よりも暖かくしていた。台所の残り火は朝食のあと消えるにまかされていた。天気のいい秋の日は、彼女とアナスタシアは火をたかずに石炭を節約していたのだ。同じ理由から二人は冷たい夕食を取り、早々に床に就いたのだが、それでも地下室の蓄えは徐々に減っていった。ちょうどその日の朝、ミス・ジョウリフは蓄えを調べて、残りがほとんどないことを知った。それを補充する金もなかったし、もう掛け買いもできなかった。
 彼女の前のテーブルには山のような紙切れがあった。黄色いのや、ピンク色のや、白いのや、青いのがあったが、どれもきちんとたたまれている。それらは同じ幅になるように縦に折られていた。マーチン・ジョウリフの請求書である。彼は自分の習慣に関しては厳密といっていいくらい細かな注意を払い、秩序を重んじた。確かにそのうちの何枚かは彼女への請求書であったけれども、彼女はいつも兄のやり方を寸分違わず順守し、請求書に折り目をつけ、かつ表に摘要を書き記した。そう、何枚かは直接彼女に責任があり、どれが彼女のものかは開かずとも表を見ただけで分かった。その一枚を取り上げてみると、「ローズ・アンド・ストーリー服地店、フランス製婦人服飾品、花、羽毛、リボン等輸入業者、マント及びジャケット展示室」とある。ああ、何ということだろう!人間とは何と弱いものだろう!逆境のさなかにあっても、翳り行く老いのさなかにあっても、こうしたことばはミス・ジョウリフの心をときめかせた――花、羽毛、リボン、マント、そしてジャケット。目の前にカラン市場十九、二十、二十一、二十二番地の華やかな展示室が浮かんできた――仕立てたドレスが身体に合うか試着する、夏の朝の厳かな静けさに包まれた展示室。売れ残り商品のセールに人で埋まり、栄光に満ちた争奪戦が繰り広げられる展示室。「自宅用及び訪問用喪服、衣装、スカート、その他。外国及び国内産シルク仕立て保証付き」そのあとに書き記されていることは単なる興ざましとしか思えなかった。「ボンネット用材料及び飾り、11シリング9ペンス、帽子、13シリング6ペンス、合計1ポンド5シリング3ペンス」こんなものはがたがた騒ぐほどのものではない。アナスタシアの帽子のほうが1シリング11ペンス高かったけれど、さくらんぼの飾りとスパンコール付きのネットはその差額分の価値が十分あった。
 ホール薬剤店「咳止めドロップ、1シリング6ペンス、塗布剤、1シリング、混合薬、1シリング9ペンス」これが何度も繰り返されている。「タラ肝油、1シリング3ペンス、2シリング6ペンス、そしてまた1シリング3ペンス。計2ポンド13シリング2ペンス、利子、4シリング8ペンス」利子というのはこの請求書が四年前のものだからである。これはアナスタシアが重病になってどんな薬も効かないように思われたときの出費。エニファー先生は肺病じゃないかと心配していた。マーチンの薬代はみんなエニファー先生が自腹を切って出してくれた。
 靴屋のピルキントンからも請求が来ていた。「ミス・ジョウリフ、レースの半長靴、三重底、1ポンド1シリング0ペンス。ミス・A・ジョウリフ、レースの半長靴、三重底、1ポンド1シリング0ペンス。モヘアの靴紐六組、9ペンス。シルクの靴紐三組、1シリング」そうよ、わたしは罪深い女だわ。これだけの借金を「重ねた」のは、他でもない、このわたしなんだわ。見るに耐えない紙の山を築くのにみずから手を貸していたのかと思うと顔が赤くなった。
 公共の利益に反するあらゆる習癖と同じく、借金にはいつか懲罰がもたらされる。近隣に迷惑をかけるやり方に、社会は懲らしめを与えて自分を守ろうとするのだ。借金する特殊な才能と能力を生まれながらに持っている人がいることは事実である――彼らはその才能を使って楽しく生きていく。しかし負債を抱える者はたいてい鎖の重みを感じ、金をだまし取られた貸し主よりももっとつらい思いをしているものだ。挽き臼はゆっくり廻るが、粒を細かく砕く。未払いの借金はそれで買った品物がもたらした悦びよりも、もっと大きな苦痛をもたらす。そうした苦痛の中でも間違いなく最大のものは、すでに使い古されてしまった物――擦り切れたドレス、しおれた花、空になったワイン――への請求書である。ピルキントンのブーツも、どれほどしっかり三重底になっていようと、永遠に履きつづけることができるわけではない。ミス・ジョウリフは無意識のうちにテーブルの下に目をむけ、どちらのブーツの側面にも縦のひび割れが走り、白い裏地をのぞかせているのを見た。これからどこで新しいブーツを手に入れればいいのだろう。着る物は?パンは?
 いや、それどころではない。借金の相手が何もせず我慢していた日々は終わったのだ。彼らは行動に移りはじめた。カラン水道会社は水道を止めると言い、カランガス会社はガスを止めると警告してきた。牛乳屋のイーブスは長い長い勘定(すべてわずか一パイントの牛乳の料金)を今すぐ精算しなければ召喚状を出してもらうと脅してきた。状況は縦走歩兵の最後列を戦闘に投入するところまでいっており、ミス・ジョウリフの体面は潰され、最後の兵士たちは浮き足立っていた。どうしたらいい?誰に助けを求めたらいい?家具を売らなければならないが、誰があんな古い物を買うだろう。それに家具を売ってしまえば、半ば空になった部屋に下宿しようとする人はいない。彼女は絶望してまわりを見回し、紙の山に両手を突っこみ、熱に浮かされたように引っかき回した。もう一度少女の頃に帰ってウィドコウムの牧草地で干し草をひっくり返しているようにすら見えた。そのとき外の舗道から足音が聞こえた。一瞬アナスタシアが予定より早く帰ってきたのかと思ったが、足音の重々しさは、それが男性であることを示していた。目をやると従兄弟で教区委員兼肉屋のミスタ・ジョウリフだった。でっぷりした不格好な姿が窓を水平に横切った。彼は間違っていないことを確認するように、立ち止まって家を見上げ、それからゆっくりと半円形の石段を登って、呼び鈴を鳴らした。
 彼は本当は背が高いのだが、その高さが目立たぬくらい、途方もなく太っていた。顔は大きく、だぶだぶの二重顎が締まりのない印象を与えた。顔色は白く、残っているごま塩の髪をまっすぐ下になでつけ、こびへつらうような口調のせいでいっそう信心深げな様子に見えた。ミスタ・シャーノールは彼のことを偽善者と呼んだが、その手の非難が大抵そうであるように、その非難も正しいとは言えなかった。
 厳密、純粋な意味での偽善者は小説のページの外にはめったに存在しない。牧師の奨励を受けてペテンが蔓延する下層階級を除いて、人間は一時的な利得や目的達成のために宗教という衣を意図的に纏うことはまれである。公言するところと実際が十分に合致せず、口やかましい連中が文句を言うとしても、そうした場合の十中八九は目的をやり遂げようとする意志の弱さ、人間の性格の二重性に起因する不一致であり、意識的なごまかしではないのである。卑しむべき生活を送っていた者が、宗教的な、高尚な、清らかな社会に住み、あたかも自分が宗教的な、高尚な、清らかな人間であるかのごとく話し、あるいは振る舞うとしても、それは十中八九だまそうという明らかな意図があってのことではなく、優れた人々に一時的に影響された結果なのである。そのあいだ彼は自分の言うことを信じ、また信じていると自分に言い聞かせるのだ。厚かましい相手といるときは厚かましくなるように、正しい人々といるときは正しくなり、心根が優しく敏感であればあるほど、一時的な影響を受けやすいのだ。偽善といわれるものは、このカメレオンのような適応性のことである。
 従兄弟のジョウリフは決して偽善者ではない。自分を照らす光にふさわしい行動をしているだけなのだ。かりにその光が薄暗い、脂で汚れた、悪臭を放つパラフィン・ランプの光だったとしても、それにふさわしく振る舞おうと心がける者こそ、いっそう哀れまれるべきである。従兄弟のジョウリフはいわゆる素人聖職者の一人で、宗教を話題にし、教会の問題に関心を示し、聖職に就かなかったために己の天職を逃してしまったような人物だった。参事会員パーキンが高教会派なら、従兄弟のジョウリフも高教会派になっていただろう。しかし参事会員が低教会派だったので、従兄弟のジョウリフは自分でも喜んで言うように熱心な福音教会員になった。主任司祭の教区委員で、祈祷会では主導的な立場にあり、学校の慰安会、ハム・ティー、幻灯機に目がなく、一度ならずカリスベリのミッション・ルームで補佐を頼まれたというのが自慢だった。そこでクライストチャーチの教区主管代理が大聖堂の厳粛な雰囲気に包まれて信仰復興伝道集会を開いたのである。ユーモアのセンスや心の細やかさなどはかけらもなく――尊大で、自分の役職を鼻にかけ、さもしいくらいに節約家だったが、しかし彼は自分を照らす光にふさわしく振る舞っていただけで、決して偽善者ではなかった。
 カランの生活の中核をなす、あの偏狭でけちくさい、見栄ばかり張る、俗物だらけの中流階級のなかで、彼は絶大な影響力と権威を保っていた。彼の身近にいる人々にとって、教区委員ジョウリフの一言は部外者が想像する以上の重みを持ち、長いあいだの習慣で、彼はその地域の風紀係という、厄介な役職を与えられていた。教区民の妻がカリスベリの劇場というような誘惑の場に足を踏み入れたり、夏の夕暮れ、ブルティールの息子に買ったばかりのボートに乗せてもらっているのを目撃されたら、教区委員はその夫に面会し、醜聞が囁かれていることをこっそり教え、自分の家族をきちんと監督するのが彼の義務だと諭す役をまかされるのだ。夫がブランダマー・アームズの酒場で女といちゃつき浮気心に火を灯そうとしていたら、その妻に夜は外出させないように手を打てと耳打ちする。若者が安息日の午後をカラン・フラットで犬と散歩しながら無駄に過ごしていたら、「テシベの警告、主日遵守の必要性について」という本が送られる。お下げ髪のはねっかえりが大聖堂の家族席でグラマー・スクールの生徒たちを見てげらげら笑ったら、その不品行は教区委員から母親に通知される。
 そうした際にはフロックコートにシルクハットと念入りに身なりを整えた。どちらもすっかり擦り切れ、一昔前の仕立てだったが、彼にはそれが自分の役職をあらわすしるしのように思われ、コートの裾が膝に当たるのを感じると、まるで大司祭アロンの装束の裾が当たっているような気分になった。ミス・ジョウリフはこの日の朝、彼がそんな服装をしていることにすぐ気がついた。改まった用事の訪問と察した彼女は、急いで紙切れを引き出しに突っこんだ。それら請求書が罪深いもののように思われ、ただ「目を通した」だけなのに、やましい行為を犯していたような、してはいけないことをしているのがばれてしまったような気がした。しかしいちばん後ろめたかったのは、この不名誉な紙切れを泡食って隠そうとする、まさにその行為であったのだけれども。
 彼女は心にとんぼ返りをうたせるように気分を変え平静を装うとした。偽金造りが警察の訪問を迎えるときのような、やけくそ混じりの無理矢理作った落ち着き、不倫相手のキスの感触を唇に残したまま夫のもとへ帰る女のような冷静さだった。実際気分を変えたり、心中に燃えさかるこの上なく深い思慕の念、あるいはこの上なくつらい思いをさらりと忘れたり、つまらない会話で首尾一貫した受け答えをなしたり、心臓の高鳴りを抑えるというのは、とんぼ返りをうつような大技である。この大技はミス・ジョウリフのよくなし得るところではなかった。彼女は大根役者に過ぎず、教区委員はドアが開けられたとき彼女がおどおどしているのを見て取った。
 「やあ、おはよう、従姉妹《おまえ》さん」そう言いながら差しむけた、もの問いたげなまなざしは、いわゆる直接的な質問よりもしばしばいらだたしく、またかわすのが困難なまなざしだった。「今朝は顔色がよくないね。具合が悪いわけじゃなかろうね。都合の悪いときに来てしまったかな」
 「あら、とんでもない」動悸のする心臓が許すかぎり、なめらかにしゃべりつづけようとして彼女は必死だった。「あなたがいらっしゃったので少しびっくりしたのよ。ちょっとだけ慌てたわ。もう昔のように若くないから」
 「そうだね」ミスタ・シャーノールの部屋に通されながら彼は言った。「わたしたちはみんな老いていく。外を歩くときは気をつけなければならないね。いつ天に召されるか分からんから」まじまじと同情するように見つめられ、彼女は自分が本当によぼよぼの老人になったような気がした。すぐにでも本当に「天に召される」べきであるような、ただちに死なないのは義務を怠っているかのような感じだった。彼女は手編みのショールを痩せた震える肩にいっそう強く引きつけた。
 「この部屋は少し寒いでしょうけど」と彼女は言った。「今、台所の煙突を掃除してもらっているの。それでここに座っていたのよ」彼女は素早く机に視線を送った。引き出しをしっかり閉めただろうか、請求書を一枚しまい忘れていないだろうか、と不安に思ったのだ。そんなことはなかった。何もかも安全なところに隠れていたが、彼女の言い訳は教区委員をごまかすことはできなかった。
 「フェミー」彼は優しくそう言ったが、そのことばを聞いて彼女の目に涙がたまった。マーチンが死んだ夜以来、子供の頃の呼び名で話しかけてくれる人が誰もいなかったのである――「フェミー。暖房費をけちってはいけないよ。そりゃ、間違った節約だよ。あとで石炭券を送らせてくれ」
 「お志は嬉しいけど結構よ。十分ありますから」彼女は急いでそう言った。ドルカス会の一員である彼女にしてみれば、教区の石炭券をもらったなどと言われるくらいなら、さっさと飢え死にしたほうがましである。彼はそれ以上彼女を説き伏せようとはせず、差し出された椅子に腰かけ、いささか居心地の悪い思いを味わっていた。身なりが立派で恰幅がよすぎる男が貧乏を前にしたときに当然感じる居心地の悪さだった。確かに彼女にはしばらく会いに来なかった。しかしベルヴュー・ロッジは遠く離れているし、彼は教区の世話や自分の仕事に追われていた。おまけに二人の歩む人生はあまりに違いすぎる。親類の女性が下宿を経営することにはもちろん強い反対があった。彼は今、同情心からつい「従姉妹《おまえ》さん」とか「フェミー」などと呼んだことを後悔していた。遠い親戚であることは事実だが、従姉妹ではないのだと心の中で繰り返し、親しみをこめすぎた態度に気づいてなければいいがと思った。彼は使い古したハンカチで顔をぬぐい、話の前にこほんと一つ咳をした。
 「ちょっと相談したいことがあってね」と彼は言った。ミス・ジョウリフは心臓が喉元まで飛び上がった。あの恐ろしい借金のことも、法廷に召喚すると脅されたことも知られてしまったのだろうか。
 「ざっくばらんに言うよ。わたしは商売人で率直な人間だから、率直な話し方が好きなんだ」
 こうしたことばがどれほど失礼極まりない、不人情な、でたらめな発言の先触れとして使われているか、まったくあきれるほどである。しかも率直な話し手を自称する当人たちが、反対の立場になって率直に話しかけられることをどれほど厭がることか。
 「いまさっき、外を歩くときは気をつけて歩かなければならんと言ったが、ミス・ジョウリフ、わたしたちが監督を任された人にも気をつけて歩くよう指導しなければならんよ。あんたを非難するつもりはないけれど、他の連中が姪をもっとよく見張るべきだと言うんだよ。とある貴族がやたら足繁くこの家を訪ねてくるね。名指しはしないけれども」――と、いかにも雅量があるような口調だった――「しかし誰のことかは分かるだろう。このあたりで貴族なんてそうお目にかかるものじゃないから。こんなことを言わなければならないとは残念だよ。普通は女性がめざとく見つける事柄だからね。しかし教区委員として町の噂に耳を閉ざすわけにはいかない。しかも同姓の人が当事者とあっては」
 ミス・ジョウリは肉屋のことばを聞いて虚しく求めていた心の平静を取り戻した。一つにはもっとも懸念していた借金の話ではないと安心したからであり、また一つには彼がアナスタシアのことを話すのを聞いて驚き憤慨したからである。彼女は態度どころか外見すらも一変させ、その鋭い返答の中に先ほどのうちひしがれた失意の老女を見いだすことは誰にもできなかった。
 「ミスタ・ジョウリフ」彼女は辛辣な重々しい声で相手の名を呼んだ。「失礼ですけれど、問題の貴族のことはあなたよりもずっとよく存じていますわ。あの方が一点の疑いもなき紳士であることはわたしが保証します。この家を訪ねて来るのは、大聖堂修復の件でミスタ・ウエストレイに会うためなのです。教区委員ともあろう人が立派な方々の醜聞を触れ回るとはよもや思ってもいませんでした。貴族が聖堂に関心をお示しになっても教区委員が陰口をたたくようでは熱意も失せるというものですわ」
 彼女は従兄弟がたじろいでいるのを見て、敵の領土に攻めこんでもう一突きを加えてやろうとした。
 「もっともミスタ・ウエストレイのほかに、わたしにも会いにいらっしゃるということもあるんですのよ。それにも文句をおつけになる気?御前様はこの家でお茶をお飲みになり、わたしに名誉をほどこしてくださいます。他の大勢の人だって、御前様がお訪ねになりたいと言ったら、秘蔵の食器を持ち出してお持てなしするでしょうよ。それにあの方の例にならってもう少し友達や親戚の家を訪問して欲しい方もいますわね」
 教区委員はもう一度顔を拭いて、小さく吐息をついた。
 「これは慮外なことをおっしゃる」教育のない男は本で覚えた表現を嬉しそうに使うが、まさにそんな様子で彼は自分のことばを繰り返した――「これは慮外なことをおっしゃる、醜聞をばらまこうなんて――醜聞なんて言い出したのはあんたのほうですぞ――しかしわたしにも娘たちがおりますからな、変な影響があっては困るのですよ。アナスタシアのことをとやかく言うつもりはない。いい子だと信じているよ」――その見下すような態度はひどくミス・ジョウリフの神経に障った――「もっと日曜学校に興味を持つべきだと思うが。だがね、あの娘は身の程知らずの振る舞いや気取ったしゃべり方をする。あれじゃ人目をひいてしまう。止めたほうがいいですな。人に雇ってもらって生計を立てようとしているんだから。ブランダマー卿のこともとやかく言うつもりはないよ――聖堂のことを真剣に考えてくださっているようだし――しかし噂が本当なら、先代の御前様といい勝負ということになるね。それに、ミス・ジョウリフ、あんたの側の家系にはいろいろなことがあったから、血縁者としてアナスタシアのことが心配になるんだよ。父親の罪は三代か四代あとにまたあらわれるというしね」
 「いいこと」ミス・ジョウリフはこの一言を発したあとにぞっとするような間を置いた。「人の家に来て誹謗中傷するのがあなたの側の家系のやり方だとおっしゃるなら、わたしはそっちの家系に属してなくてよかったわ」
 自分の発言のゆゆしさは理解していたが、一歩も譲る気はなかった。ナポレオン一世の親衛隊にもふさわしい堂々たる自信のある態度で教区委員の反撃を待った。しかしそのあとに訪れたのは猛然たる論戦ではなく、短い沈黙だった。品位を落とすことなく会見を終えようと思うならここが止め時だっただろう。しかし凡人にとって自分の声は音楽、それに酔うと情けない結末が待ち受けていることなど分からなくなるのだ。議論のための議論がつづき、英雄詩で始まったものが支離滅裂ないがみ合いに終わってしまう。二人はどちらも言い過ぎたと思い、中心問題に決着をつけず、放置することで満足した。
 ミス・ジョウリフは教区委員が帰ってから再び請求書を引き出しから出すことをしなかった。それまでの気分とは打って変わって、しばらくのあいだ、来訪者がほのめかしていったことしか考えることができなかった。ブランダマー卿の訪問は、どんな折の訪問もはっきり思い出すことができる。卿の動機を疑うなど、まるで根拠のないことだと確信していたが、しかし彼女がいないときにベルヴュー・ロッジに来たことが一再ならずあったことは認めなければならなかった。もちろん単なる偶然だろうが、われわれは鳩のように無垢であるとともに、蛇のように狡猾であることも要請される。彼女は二度と取り沙汰されることがないよう注意することにした。
 アナスタシアが帰ってみると、叔母はいつもと違ってよそよそしく無口だった。ミス・ジョウリフは姪に落ち度は何もないのだからいつも通りに接しようと決めていたのだが、教区委員の話に腹の虫が治まらなかったのだ。その態度があまりにも不可解で、冷たくつんとしているものだから、アナスタシアは何かひどく不愉快なことがあったのだろうと思った。アナスタシアが今朝の天気はうっとうしいと言うと、叔母は顔を蹙めてぼんやりしたまま何も答えなかった。アナスタシアが十四号針を手に入れることができなかった、お店が切らしていたのだというと、叔母は「そう!」となじるような、あきらめたような調子の声を出した。この世界には編み針よりもはるかに大切なことがあるとでも言うように。
 この状態は半時間あまりもつづいたが、しかし心優しい老人にはそれ以上取り澄まして横柄に構えることはとてもできなかった。彼女の性格である穏やかな温かい心が冷たい外面を溶かしてしまった。自分の気まぐれを恥じ、アナスタシアに格別の愛情を示すことで「償い」をしようと思った。しかし姪が探りを入れてきてもはぐらかし、従兄弟のジョウリフがほのめかしたことも、彼が家に来たことすらも知らせまいとした。
 アナスタシアは何一つ事情を知らずにいたが、それにしてもその無知は並外れているようだった。カランの人はみんな知っていた。噂になっていたのである。教区委員は数名の古老に相談し、忠告をしに行くことが適切かどうかを諮った。古老たちは男も女も彼の行動を承認し、今度は彼らが親しい、特に信頼している友人に秘密を打ち明けた。その後、陰険なゴシップ屋ミス・シャープが、嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントに話し、嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントは、そのことを主任司祭に詳細に報告した。彼は噂話なら何でも好きだった。とりわけ刺激的な噂は大好きだった。ブランダマー卿が神の手(下宿屋のおかみが酒場をベルヴュー・ロッジと名づけるなど笑止千万!)を「昼も夜も」「あらゆる」時間に訪れ、ミス・ジョウリフがその時喜んで天井をむき何も見てないふりをするということは、瞬く間に皆の知れるところとなった。いや、それどころか、彼女が集会に出席するのは彼らの邪魔にならないようにするためだとまで言われた(ドルカス会の集会を口実にするとはなんたる許し難き偽善!)。さらに、ブランダマー卿はあの小生意気なろくでなしの娘にひたすら――それこそ山のように――贈り物を捧げ、若い建築家でさえその不名誉な事態の進展に下宿を変更せざるを得なかったのだ、とも言われた。人々はミス・ジョウリフとその姪が日曜日に聖堂にあらわれるのを見て、何という鉄面皮だと思った。少なくとも若いほうには「多少は」羞恥心が残っているに違いない、「人前で」恋人がくれた綺麗なドレスを着たり、宝石を身につけようとはしないから、と彼らは言った。
 そうした噂はウエストレイの耳にも入り、男という存在を充実させる、わずかばかりの騎士道精神を刺激した。肘鉄を食らって彼の心はいまだにうずいていたが、そのような醜聞を聞き流しにするのは屈辱ものだと感じ、熱心に反論を加えたのだが、そのあまり人々は肩をそびやかして、「あいつ」とアナスタシアとのあいだにも何かがあったのだとこっそり囁いた。
 教会事務員ジャナウエイはこの件に関しては嫌になるほどご都合主義的でそっけない態度を取った。彼は非難もしなければ弁護もしない。彼の考えでは、貴族が神から賜った権利は誰も侵すことができないのだった。たっぷり金を持っていて、けちけちせずに使っているかぎり、われわれはとやかく言うべきではない。彼らは平民とは違う基準で裁かれるべきだ。老いぼれの握り屋に取って代わって聖堂に関心を持つ人間が卿となり、聖堂やみんなのために金を使ってくれるのだから、ありがたいことだと彼は思っていた。べっぴんさんに惚れたからって、何が悪い。そんなこたあ、あの人たちにすりゃ、取るに足らぬこと、放っておくのがいちばんだ。教区委員が歎き、信心深げに悲しむと、彼はさっさとそれを中断するようにフォーディングの栄光について「蘊蓄」を傾け、あそこがもう一度きちんと管理されることはまわりの住人にとってもよいことなのだと言った。
 「教会事務員のジャナウエイさん、あんたの意見には感心しないな」とある時、そんな会話の最中に肉屋が寺男に言った。彼は寺男を対等の相手と認めてやり、噂話にふけることがあった。「わたしはフォーディングをこの目で見たことがあるよ。カリスベリ博物学同好会と一緒に馬車で行ったんだが、ああいう屋敷は用心しないときっと誘惑の源になると思った。あんなお屋敷に独りで住むのは邪なことだよ。ネブカデネザル王のように『此《この》大《おほい》なるバビロンは我が大なる力をもて建し京城ならずや』(註 ダニエル書から)と言いふらすようになるよ」
 「ありゃあ、あの方が建てたんじゃねえですよ」教会事務員は少々的外れなことを言った。「何世紀も前に建てられたんだが、あんまり古いんで誰が建てたのか、知っているやつはいません。ミスタ・ジョウリフ、あんたの両親は国教反対者だったから、若いときに公教要理は教わらなかったでしょうが、わたしは身分の上の人に従いますな。むこうが無理を言ってこないかぎり。人間は平等だなんてたわごとですぜ。そんなこたあ、教区の母の会に出りゃ分かるって、かみさんが言います。望みを持ちすぎるとろくなことがねえ。燻製にしんに塩かけて食うようなもんだ」
 「いやいや」と相手は咎めた。「わたしは御前様じゃなくて、あの方をそそのかしている連中を非難しているんだ」
 「あの娘さんのこともあんまり非難はできませんぜ。どっちの側にも悪いところがありますからな。御前様のおじい様はいつも品行方正ってわけじゃあなかったし、娘さんの家系にも褒めることのできねえ例があります。今まで不思議なものをさんざん見てきましたが、血は争えねえって思いますよ。非難するなら子供たちより先祖でさあ。親父が酒を飲むと、身体から酒が切れるまで、子供へ孫へと引き継がれます。お袋が淫蕩だと娘も男好きになり、あたいのりんごはいかが、なんて言い寄ったりしがちなものです。いや、とんでもねえ、全能の神様はわたしらを平等にお作りじゃねえんですよ。みんながみんな教区委員だとは思いなさるな。なかには徳のある立派な先祖を持ち、あんたみたいに背中に翼をはやして生まれた人もいるでしょうさ」――そう言って彼はふと聞き手のずっしりした身体つきを見た――「わたしらを穹窿天井まで持ち上げてくれるような翼をね。しかしなかには親父が靴底に鉛をしこんで、床から離れられないってのもおりまさあ」
 土曜の午後はブランダマー卿がやってくる時間だったが、ミス・ジョウリフは家で見張りをするために三週つづけて土曜のドルカス会を休んだ。陰険なゴシップ屋ミス・シャープと嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントの道徳心は、恥さらしな老女が少なくとも彼女より優れた人々との交わりを避けるくらいに慎みを持っていることを知って喜んだ。しかし会を休むのはミス・ジョウリフにはつらい試練だった。休むたびにもう二度とこんな犠牲は払えないと思ったが、アナスタシアへの愛が彼女を引き留めた。姪には調子がよくないと見え透いた言い訳をしたが、記憶にないほどはるか昔から会合に捧げられてきた二時間を、熱に浮かされたように焦燥しながら過ごす様子を、姪のほうはいぶかしそうに、不安そうに眺めていた。毎週訪れる楽しみは若いときや中年のときはいつまでもつづくように思われるが、人生が夕暮れ時に近づくと以前ほどかぎりないものとは思えなくなる。三十歳は平気で土曜日の親族懇親会を欠席したり、日曜日をいい加減に過ごすが、七十歳はその繰り返しに終わりの来る日が見え、残る一回一回を名残惜しむように過ごすのである。
 三週つづけて土曜日にミス・ジョウリフは見張りをし、三週つづけて土曜日に怪しい訪問者はあらわれなかった。
 「このごろブランダマー卿はお見えにならないね」この話題に対して装えるかぎりの無関心を装い、彼女はよくそう言った。
 「ミスタ・ウエストレイが出て行ってしまったもの。ここには何の用もないわ。どうして来なくちゃいけないの?」
 まったく、どうして来なきゃならないの。それに二度と来ないからといってそれがわたしに何の関係があるの。これはアナスタシアがあの空白の三週間のあいだ、毎日、毎時間、心のなかで問いかけたことだった。そういうくだらない議論や虚しい想像にふける時間はたっぷりあった。同年代にも年上にも年下にも心を許した友達がおらず、彼女は一人きりだったのだ。彼女はその地位に不相応の教育と天分を持った不幸な人々の一人だった。若者らしい遊びにふける機会はなかったし、おしゃれや人付き合いの楽しみも味わったことがなかった。気晴らしはいつも空想にふけることで、たくましい想像力と手当たりしだいの読書の結果、彼女は小説という学舎で教育を受けることになった。こんな人間はカランには彼女の他に誰もいなかった。彼女は誇り高き人間だった(奇妙なことだが、隣人の見るところ何の取り柄もない人がしばしばもっとも誇り高い人間なのである)。しかししゃべり方が気取っているというミスタ・ジョウリフの批判にもかかわらず、態度にうぬぼれたところはなかった。友達ができなかったのは誇り高かったからではなく、単に気が合わなかったからなのである。他人と彼女をへだてる壁、それは教養と無知をわけへだてる壁というより、洗練されたものと世俗的なもの、奔放な想像力と平凡な日常性をわけへだてる壁だった。
 この壁は乗り越えがたく、それを克服しようとするいかなる試みも失敗に終わらざるを得ない。もともと成功の望みがまったくないのだから、その試みが滑稽に見えることも往々にしてある。熱烈な愛もこれほど相容れない素材からは精神的な結びつきを生み出すことなどできたことがない。自然の思いやりある配慮のおかげで、裂け目の広さは、それを越えられぬ者には見えないようになっている。彼らはそこに裂け目があることは知っている。考え方の違いにうすうす気がついてはいる。しかし愛があればそこに橋を架けることができ、あるいはいつかは反対側に渡る道が見つかるはずだと考える。ときには目標にむかって一歩一歩、愛する者と前進しているような気がする。しかし残念だがそううまくはいかないのだ。精神的な理解、心と心を溶接する、あの啓示のような一瞬が欠けているのだ。
 年上のミス・ジョウリフの場合がそうだった――彼女は姪と親密な仲になりたかったが、二人の距離はおそろしく離れていた。二人は手に手を取って進んでいると思っていたが、気性の違いが両者を南極と北極ほどにもわけへだてていた。彼女には賞賛に値する優れた性質が千はあったが、若い娘にとっては完全に異質な存在だったのだ。アナスタシアはまるでよその国にいるような、ことばの通じない人々と暮らしているような気がし、沈黙の中に逃げ場を求めた。
 過去一年間、カランの退屈さ加減はますます彼女を押しひしいだ。もっと広い世界で生活すること、そして理解されることを彼女は求めていた。どれほど本人がそのような欲望に無自覚だったにしろ、彼女は彼女の年頃の、背が高くて器量のよい娘が求めて当然のものを求めていた。自分を讃え、愛してくれる人を求めていた。ロマンスを紡ぐことのできる相手を求めていた。
 ローズ・アンド・ストーレイの共同経営者は彼女が必要としているものを察知したのか、それを補ってやろうとした。ドレスの垂れ具合がいいなどと、むかむかするようなお世辞を並べたものだから、ベルヴュー・ロッジが借金で手足もろともローズ・アンド・ストーレイに縛られているのでなければ二度と店には入らないところだった。この店は服地店であると同時に葬儀屋でもあり、ボンネットの小さな借金の他に、マーチンの葬儀費用もまだ支払いを済ませていなかった。中秋の赤い満月みたいな顔をした若い酪農家が市場に行く途中で叔母のところに立ち寄ったこともあった。ミス・ジョウリフに卵やバターを卸値で売り、アナスタシアを見かけるたびに、何ともうんざりするような笑顔を浮かべた。主任司祭の彼女に対する横柄さは我慢がならず、ミスタ・ヌートは親切だが、彼女を小さな子供のように扱う。ほっぺたを軽く撫でられ、十八歳の彼女が面食らうこともときどきあった。
 そんなときにロマンスの王子がブランダマー卿となって登場した。黄色い葉が舞う風の強い秋の日の午後、玄関口ではじめて彼を見た瞬間、彼女は彼が王子であることを知ったのだ。話しかけてきたとき、彼も彼女を貴婦人と見抜いたことが分かった。それはことばにできないくらい嬉しくて感激的なことだった。そのときから賛嘆の念が育ちはじめ、恋い慕う人の禁欲さがいっそうその生育を早めた。彼はほとんどアナスタシアを見なかった。話しかけることもまれで、好奇のまなざしをむけることすらなかった。ましてウエストレイのように節度のない視線をむけたりはしない。それにもかかわらず賛嘆の念は大きくなった。彼は今まで見てきた男たちとは全然違う。今まで知り合った人々とはまったく違っている。どうしてそう思うのか説明はできなかったが、彼女にはそうだと分かっていた。どこへ行こうと彼についてまわる雰囲気――神が英雄を包む特殊な空気――きっとそれが彼女に彼は違うと教えたのだろう。
 愛というすばらしいゲームに用いられる作戦は驚くほど数が限られていて、しかも終盤にはほとんど変化がない。個人的にゲームに参加していないかぎり、その動きは単調で、大昔のゲームとさっぱり代り映えがせず、とても興味の持てるものではないだろう。だからこのゲームは傍観者には退屈なのだ。彼らはわれわれの恍惚とした気持ちを冷たく突き放して見がちなもので、それがわれわれをぎくりとさせる。手のこんでいない単純なゲームは、しばらくするとゲームをやっている本人たちも飽き飽きしてきて、退屈を避けて詰め将棋をやってみたり、ナイトのややこしい動きを活用したりするものだが、それには以上のような理由があるのだ。
 アナスタシアは恋に落ちたことを指摘されたら、にっこり微笑んだだろう。それは冬の陽射しのようなかすかな微笑みだったかも知れないが、それでも微笑みには違いない。彼女が恋をするなどあり得ないことだった。もはや王様が乞食娘と結婚する時代ではないことを知っていたし、厳しくしつけられて育ったから、結婚を前提とせずに恋に陥るなどとんでもなかった。ミス・オースチンのヒロインは結婚の申しこみをしそうもない人には魅力を感じることすらみずからに禁じている。だからアナスタシアは恋に陥るわけにはいかなかった。確かに恋はしていなかったけれど、ブランダマー卿が彼女の興味をひいたことは事実だ。実を言えばあまりにも興味をひかれ、四六時中彼のことを考えていたくらいなのである。おかしなことに何を考えるにつけても彼の姿が絶えず浮かんでくる。どうしてこんなことになるのだろうと、彼女は不思議だった。もしかしたらこれは彼の力なのかも知れない――並みいる下々のものを支配しているのは彼が漂わす力、その傲慢ともいえる働きのせいではないか。しかもそれはみずからを制するときにもっとも強力に働くのである。彼女は堅く引き締まった身体や、縮れた鉄灰色の巻き毛や、灰色の目や、目鼻立ちのくっきりした厳しい顔を好んで思い浮かべた。そう、彼女は彼の顔が好きだった。なぜなら厳しさがあるから。行きたいと思うところに行こうとする決意を秘めているから。
 彼に対する関心がひととおりでなかったことは間違いない。というのは、彼女はごく普通の会話のなかでもその名を口にすることをはばかったからである。声がうわずるのを抑えられそうにないと感じたのだ。他の人が彼の話をするのを彼女はいやがったが、しかしこれほど彼女を虜にしている話題もなかった。他の人が彼のことを話していると、ときどき妙な嫉妬心が湧いてきた。自分以外の人間には彼のことは話すことすら許されていないという感情である。そして心のなかでいささか軽蔑的な笑みを浮かべる。なにしろ彼女より彼のことを知り、理解できる人間はいないのだ。カランの人の話題を決定する権利がアナスタシアになかったことはたぶん幸いだった。さもなければこの当時、人々は話すことなど何もなくなっていただろう。他人がブランダマー卿のことを議論するなどもってのほかだが、それ以外のことを議論するのも同じようにもってのほかだと彼女は思っていたのだから。
 これは恋とは全然違う、ごく普通に興味をひかれているだけだ、と彼女は思った。誰だって――教育があって趣味の洗練された人なら誰だって――不思議な、強い個性に興味をひかれるものよ。彼のことならどんな細かいことにも興味を感じた。声には魅力があった。心を奪う低く澄んだ声は音楽的で、些細な発言すら重々しく響いた。「午後は雨になりましたね」とか「ミスタ・ウエストレイはご在宅ですか」と彼が言えば、そこにはミス・アナスタシア・ジョウリフ以外、どんなユダヤのカバラ学者も行間に読み取ることのできなかった深い謎がこめられているのだ。礼拝の最中でも思いは彼女と叔母が座るカラン大聖堂の家族席から遠く離れ、ふと気がつくと彼女の目はヴィニコウム修道院長の窓にかかる海緑色と銀色の雲形紋章を見ているのだった。洗礼者ヨハネの頭部に射す、澄んだ明るい黄色の輪光は、英雄がはじめてあらわれたあの日、レモン色に色褪せ、宙を舞っていたアカシアの木の葉を思い出させた。
 しかし心は揺らいでも頭はしっかり理解していた。彼に興味を抱いていることは知られてはいけない。ふとしたことばや顔色の変化で心の内を見透かされてはならない。動揺のあまりともすると「おやすみなさい」という短い挨拶を返すことすらできなるということを彼に気取られてはならないのだ。
 さて年上のミス・ジョウリフは三週連続して土曜日にベルヴュー・ロッジを監視し、三週連続して土曜日の午後、ドルカス会の時間が過ぎていくのをじりじりしながら見守った。しかし何も起こらなかった。天はいつもの場所にあり、大聖堂の塔はどっしりと立っている。教区委員はかつがれたのだ、自分の判断が正しかったのだ、ブランダマー卿がこの家に来たのはミスタ・ウエストレイに会うためで、ミスタ・ウエストレイが出て行った今、ブランダマー卿はもう来ることはないのだ、と思った。四回目の土曜日が巡ってきた。ミス・ジョウリフは姪がここ一ヶ月見たことのないくらい上機嫌だった。
 「今日の午後はとっても気分がいいわ」と彼女は言った。「ドルカス会に出ても大丈夫だと思う。お部屋が息苦しくって最近行くのを止めていたんだけど、今日はそれほどひどいことにならないと思うの。着替えてボンネットをかぶっていくわ。わたしが出ているあいだ、留守番を頼むわね」そう言って彼女は出かけた。
 アナスタシアは一階の窓辺の席に座った。窓は開いていた。春の日はしだいに長くなり、日暮れ時になると柔らかなかぐわしい空気が漂った。彼女は胴着を作ろうと思い、裁縫箱を開けて横に置き、まわりに型紙やら、裏当てやら、鋏やら、木綿の糸巻きやら、ボタンやら、「仕事」をするのに必要な道具を型通り広げた。しかし裁縫仕事はしていなかった。こうした準備をしたまさにその原因であり動機であった胴着そのものは膝の上に置かれ、彼女の手もそこに置かれていた。窓辺の席に半ば座るような、半ばよりかかるような格好で腰かけ、春のほのかな香りを吸いこみ、家々のあいだからのぞく透明な黄色い空が日没とともにますます赤みを帯び、山吹色に染まっていくのを見ながら、心は空想の中を遠くをさまよっていた。
 そのとき一人の男が通りをこちらへやって来て、ベルヴュー・ロッジの正面階段を登りはじめた。しかし彼女にはその姿が見えなかった。田園が広がるほうから歩いてきたので、彼女の窓の前を通らなかったのだ。彼女の夢を最初に破ったのは玄関のベルの音だった。窓辺の席から降り立つと、叔母を中に入れようと急ぎ足になった。てっきりベルを鳴らしたのは、会合から帰ってきたミス・ジョウリフだと思いこんでいた。ドアを開けるのは手間がかかった。確かにベルヴュー・ロッジには泥棒を引きつけるようなものはなかったし、泥棒が来たとしてもきっと正面玄関から入ってくるようなことはなかっただろうが、それでもミス・ジョウリフは彼女が家を出たら、しっかりドアに鍵をかけなさいと言い張った。そうしておけば包囲攻撃されても持ちこたえられると言わんばかりだった。アナスタシアはいちばん上の差し錠を抜いて鎖をはずし鍵を開けた。下の差し錠を引き抜くのは少々やっかいで、彼女は大きな声で謝った。「待たせてごめんなさいね。この錠、とても固いのよ」しかしとうとう錠は外れた。重いドアを手前に開くと目の前にはブランダマー卿が立っていた。

 第十八章

 二人は一瞬、真正面から顔を突き合わせた。明るい夕空のなかに浮かび上がる彼らの姿を見た人は、きっと従兄妹同士か、あるいは兄妹とすら思ったことだろう。どちらも黒い服に黒い髪、背の高さもほとんど同じだった。男は決して背は低くないのだが、娘のほうがすこぶる上背があったのだ。
 アナスタシアが束の間ことばを失ったのは驚きのせいだった。つい先日まで、ドアを開けてブランダマー卿を迎えるのはごく自然なことであったのに、ベルヴュー・ロッジに来なくなって一ヶ月経ったことが状況を一変させていた。彼の前に立ちながら、彼女は胸の内を告白させられてしまったような気がした。つまり、ここ何週間か、ずっと彼のことばかりを考えていたこと、どうして来ないのだろうといぶかっていたこと、来てくれることをこい願っていたこと、そして今、こうして戻ってきてくれてどれほど自分の心に悦びが満ち溢れているかということを。彼はこうしたことすべてを見て取っただろうが、彼女のほうも自覚したことがある。それは彼への思いが自分の心の大部分を占めているということだ。この知識の木の実を食べて彼女は頬を染めた。なにしろ魂が目の前に裸にされてさらけ出されたのだ。彼の目にも同じように裸の姿が見えているのだろうか。結婚など思いもよらぬ相手にここまで惹きつけられている自分を知り、彼女は衝撃を受けた。自分のように卑しい者が太陽を見つめ、目を眩まされてしまったなどと相手に知られたら、自分はもう生きてはいけないと思った。
 ブランダマー卿が黙っていたのは驚いたからではない。彼にはドアを開けるのがアナスタシアだと分かっていた。むしろそれは困難な仕事を請け負い、いざそれに取りかかろうというとき、人がしばしば躊躇するといった、そんなたぐいの沈黙だった。彼女は目を伏せて下を見た。彼は相手の全身を、それこそ頭のてっぺんからつま先までを見渡し、自分が果たしに来た用事を最後までやり遂げる強い決意を確認した。彼女が先に口を開いた。
 「申し訳ありません、叔母は外出してますわ」右手を開けたドアの縁《へり》にかけていた彼女は、寄りかかるものがあって助かったと思った。ことばが口から出て来たとき、いつもの自分が、いつもの声で、いつもと変わらぬ調子で喋るのを知り、ほっと安堵した。
 「いらっしゃらないのは残念です」と彼も彼女が聞き慣れた、低い、澄んだ、いつもの調子で喋った。「いらっしゃらないのは残念ですが、わたしが会いに来たのはあなたなのです」
 彼女は何も言わなかった。胸の動悸が激しくて一言も発することができなかった。ドアの縁に手をかけたまま、身動き一つしなかった。手を離せば倒れそうな気がして怖かった。
 「お話ししたいことがあるのです。入ってもよろしいですか」
 彼女はためらったが、それは彼が予想していたことだった。そのあと中に入れてくれたが、それも彼が予想していた通りだった。彼は重い正面玄関のドアを閉めた。鍵をかけたり錠を差しこむよう注意することばは、どちらの口からも出なかった。泥棒がうろついていたらこの家は格好の標的だっただろう。
 アナスタシアが先に立って歩いた。ミスタ・シャーノールの住んでいた部屋に行かなかったのは、作りかけの服が散らかっているということもあるが、以前二人がミスタ・ウエストレイの部屋で出会ったという、もっとロマンチックな理由もあった。二人は玄関ホールを抜け階段を登った。アナスタシアが先になり彼が後ろからついてきた。長い階段のおかげで一時的な余裕が生まれたのが彼女にとっては幸いだった。二人が部屋に入ると、また卿がドアを閉めた。火はなく窓は開いていたが、彼女は燃えさかる竈の中にいるように感じた。卿は彼女の取り乱した様子に気がついていたが、見て見ぬふりをし、自分のせいで緊張している彼女を気の毒に思った。今まで六ヶ月のあいだアナスタシアは自分の気持ちを上手に隠そうとしすぎて、かえって心の中を手に取るように読み取られていた。卿ははかりごとの進み具合を見て、誇りも成功の喜びも感じず、またあざけるように面白がったり、良心に呵責を覚えることもなかった。ただ、周囲の事情から身に帯びざるを得なかった役目を厭わしく思いながら、それでもみずから定めた道程を最後まで歩ききろうとする固い決意を持って事態の進展を見つめていた。彼は今、劇がどこまで進行したのかを正確に把握していた。そしてアナスタシアがどんな要求をも受け入れるだろうということも分かっていた。
 彼らは再び差しむかいに立っていた。娘には何もかもが夢のように思えた。自分が目覚めているのか眠っているのかすら判然としない。心が肉体の中にあるのか、肉体の外に出てしまったのかも分からない。すべてが夢のようだったが、それは嬉しい夢だった。もう過去や未来のことを考えたり心配したり気にすることはないのだ。ひたすらこの瞬間にのめりこみさえすればいい。この一ヶ月のあいだ、自分の心を占領していた人と一緒なのだ。彼は戻ってきてくれた。また会うことがあるだろうかと考える必要はない。今自分と一緒にいるのだから。彼がそこにいるのはよい目的のためなのか、悪い目的のためなのか、と心配する必要はない。目の前に立つ男の意志に自分をすっかり委ねてしまったのだから。彼女は彼の指輪の奴隷であり、その指輪の他の奴隷たちと同じように、奴隷であることをうれしがり、主人の命令に嬉々として従うのだった。
 卿は自分が相手に引き起こした感情、相手の胸にかきたてた思慕の念、そして相手の顔に書かれた自分への愛を不憫に思った。彼は彼女の手を取り、彼女は触れられることでこの上ない満足を感じた。その手は相手の手の中に生気なく収まっているのでもなければ、相手のなすがままになっているのでもなく、彼の指の軽い圧力にそっと反応しているのだった。彼女にとってこの状況は人生で最高の瞬間だった。もっとも彼にとってはフランドルのステンドグラスに描かれた婚約の絵のように情熱を欠いていたのだが。
 「アナスタシア」と彼は言った。「わたしが話さなければならないことが何か、あなたには分かりますね。わたしがあなたにお願いしなければならないことが何か、分かりますね」
 彼女は彼が語りかけるのを聞いた。その声は楽しい夢の中の、楽しい音楽のようだった。何か頼まれることは分かっていた。そして自分が何も拒まないこと、頼まれたものすべてを与えるつもりでいることも知っていた。
 「わたしを愛していますね」と彼はつづけたが、結婚の申しこみとしては言い方が逆だった。しかも他の人に言われたら我慢がならないような、思い上がった前提だった。「わたしがあなたをこよなく愛していることも分かっていますね」あなたを愛していることはとっくに御承知でしたよね、という台詞は、彼女の洞察力に対する正当な賞賛だったが、しかし彼は心の中で、知識とは、ときになんといういい加減な根拠をもとに組み立てられるものかと苦笑いしていたのだった。「あなたを心から愛しています。ここに来たのはわたしの妻になってくださいとお願いするためです」
 彼の言うことは聞こえたし、理解もした。しかし彼が今頼んだことはまったく予想もしていなかった。驚きでわけが分からなくなり、喜びで頭がぼうっとなった。話すことも動くこともできない。力が抜けて声も出ない様子を見て、卿は彼女を引き寄せた。その仕草には衝動に駆られた恋人の性急な激しさはなかった。そっと引き寄せたのは、そうするのがその場にふさわしいと思ったからだ。彼女はしばらく彼の腕の中で下をむいて顔を隠していた。そのあいだ卿は彼女を見ていた、というより、彼女の頭を見ていた。彼の目はふさふさした暗褐色の髪の上をさまよった。ミセス・フリントはその髪を見て、あれは自然にウエーブしているのではなく、父親のばかばかしい主張に信憑性を与えるために、ブランダマー家の者らしく見せかけているのだと言った。彼は暗褐色の髪がウエーブし、絹のようなつややかさに光るのをじっと見つめていたが、やがて放心したように目を上げ、むかいの壁にかけられている大きな花の絵に視線を合わせた。
 絵はミスター・シャーノールが亡くなったとき、ウエストレイに遺贈されたのだが、まだ持ち出されてはいなかった。ブランダマー卿の視線はじっとこの絵に注がれ、腕の中の娘のことよりも、けばけばしい花とのたくる毛虫のほうに気を取られているようだった。彼の心は目下の緊急問題へと戻ってきた。
 「結婚してくれるかい、アナスタシア――一緒になってくれるかい、アンスティス」家族の使う呼び名がいとおしい気持ちを少しだけ付加したようだった。彼は慎重にそのことばを使った。「アンスティス、妻になってくれるね」
 彼女は何も言わなかったが、両腕を彼の首に巻き付け、はじめてほんの少し顔を上げた。どんな男をも満足させるであろう同意のしるしだったが、ブランダマー卿には当然のことにすぎなかった。結婚の申しこみが受け入れられることを彼は片時も疑わなかったのだ。彼女がキスを求めて顔を上げたのだとしたら、その期待は満たされた。もちろん彼はキスをした。が、まるで舞台の上で男優が女優にするように軽く額にキスをしただけだった。その場に誰かが居合わせたなら、彼の目を見て、その心が肉体を遠く離れ、今取りかかっている行為よりももっと大切らしい人か物のことをしきりに考えていることに気づいただろう。だがアナスタシアには何も見えなかった。ただ結婚を申しこまれ、彼の腕の中にいることしか分からなかった。
 彼はしばらく待っていた。まるで今の姿勢がいつまでつづくのだろう、次は何をすればいいのだろうと迷っているかのようだった。しかし緊張を最初にといたのは娘のほうだった。目も眩むような最初の驚きから次第に落ち着き、思考能力が戻ってくると、喜びに影を投げかける一点の黒雲のような疑念がきざしてきたのである。彼女は腕の中から逃れようとしたが、そうした場合の常のように腕は彼女を引き留めた。
 「いけない」と彼女は言った――「いけないわ。わたしたち、軽率すぎました。あなたのお望みはよく分かりました。そのことは決して忘れませんし、そんなふうにおっしゃってくれたあなたを死ぬまでお慕いいたします。でも無理。わたしにお尋ねになる前に、知っておいてもらわなければならないことがあるのです。それを何もかもご存じだったら、先ほどのようなお申し出はなさらなかったでしょう」
 そのときはじめて彼は少しだけ真剣になり、少しだけ生身の人間らしくなり、少しだけ台詞をそらんじているような感じがなくなった。これは計算に入れてなかった筋書き、台本に載っていない挿話で、その瞬間、彼は返事に窮してしまったのだ。もっとも劇の本筋になんら影響しないことは分かっていた。彼はかき口説き、もう一度手を取ろうとした。
 「教えてください、何を気にしているんですか」と彼は言った。「今わたしが言ったことを、今わたしたちがしたことを、取り消すようなことなど、この天の下に何もあるはずがありません。あなたがわたしを愛しているという事実をわたしから奪うことなど誰にもできません。いったい何が気になるのです?」
 「申し上げられません」と彼女は答えた。「申し上げられないようなことなのです。お尋ねにならないでください。お手紙にして書きますから。さあ、帰ってください――どうか帰ってください。ここにいらっしゃったことを誰にも知られてはいけません。わたしたちのあいだに起きたことを人に知られてはなりません」
 ドルカス会から帰ってきたミス・ジョウリフは少々がっかりした様子で、しかも機嫌が悪かった。いつものように何事もなく活動を終えたというわけではなかったのだ。三週つづけて休んだというのに誰も彼女の健康を気遣ってくれなかった。軽いお世辞を言ったり、陽気に世間話をしても実に素っ気なく「うん」とか「いいや」がかえってくるだけ。のけ者にされているような不愉快な気分だった。高潔な道徳家ミセス・フリントは明らかな意図を持って椅子をずらし、この気の毒な老婦人から遠ざかった。ミス・ジョウリフはとうとうみんなから見放され、相手になってくれたのはミセス・パーリンという大工のおかみさんだけだった。この人はあきれるほど太っていて頭が鈍く、何も分からずただにこにこしていることしかできない人である。ミス・ジョウリフは傷ついたあまり、ついうっかり寸法を間違え、冷えを防ぐ当て布と樟脳を入れるポケットがついた傑作ともいうべきネルのペチコートをまるまる駄目にしてしまった。
 しかしベルヴュー・ロッジに戻ると嫌な思いは消え、ひたすら姪のことを心配するのだった。
 アンスティスの様子がおかしかった。アンスティスはひどく具合が悪そうで、顔を真赤にし、頭痛がするとこぼした。ミス・ジョウリフは三週つづけて土曜日に具合の悪いふりをし、外出しない言い訳としたけれど、この四週目の土曜日、アナスタシアは仮病を使う必要は少しもなかった。実は先ほどの出来事に呆然となって、自分のことしか考えることができず、叔母の質問にも支離滅裂な答しか返せない有様だったのだ。ミス・ジョウリフは玄関のベルを鳴らしたが応答がなく、ドアが開けっ放しであることに気がついた。そしてついにはアナスタシアが窓を開け放ったままミスタ・ウエストレイの部屋にぽつねんと座っているのを見つけたのだった。寒気がするというのでミス・ジョウリフはさっそく彼女をベッドに寝かせた。
 ベッドは応急処置の授業もその価値を否定しない救急療法である。しかも極めて安価という点で貧しい者のための治療手段といえる。もちろん貧しいといってもベッドを買うくらいの金がなければならないが。アナスタシアがミス・ブルティールか、せめてミセス・パーキンや嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントであれば、ドクタ・エニファーがすぐに呼びにやられていただろう。しかし彼女はただのアナスタシアでしかなかったし、目の前には借金が幻のように浮かんできたから、とにかく医者を呼ぶ前に一晩寝て様子を見ようと叔母を何とかなだめすかした。そのあいだ、医者のなかでもかぎりなく治療に巧みで、かぎりなく安全なドクタ・ベッドが招じ入れられ、おまけに名医で名高い開業医ドクタ・ウエイト(註 ウエイトは「待つ」の意)が治療に参加してくれたのだった。暖かいネルの寝巻き、湯たんぽ、熱いミルク酒、寝室の暖炉の火といった療法が試みられ、九時にミス・ジョウリフが姪にキスをして就寝する頃には、突如原因不明の病に倒れたものの、患者は急速に回復するであろうと少しも案じられることはなかった。
 アナスタシアは独りになった。また独りになれて彼女は心からほっとした。もっともそんな気持ちになるのは今出て行ったばかりの暖かい老人の思いやりに対して裏切りを働くことであり、恩知らずなことだと感じてはいた。老人の温かい心は彼女のことを深く気遣っているのだ。でも彼女はその心にむかって起きたことを打ち明けなかった!彼女は独りだった。ほんのしばらく安らかな気持ちで寝台の足もとの鉄柵のあいだから暖炉の火を見つめていた。この二年ほど寝室の暖炉に火を入れたことはなかったので、その珍しさにふさわしい喜びとともに彼女は贅沢を楽しんだ。眠くはなく、次第に落ち着きを取り戻し、書くと約束した手紙のことを考えることができるようになった。難しい手紙になりそうだったが、その中で克服不可能な障害を提出しなければならないと、彼女は闘志満々だった。ブランダマー卿のような地位の人でさえ、克服は絶望的と認めざるを得ないような障害を。そう、この手紙は素敵なロマンスの奥付、驚くべき悲劇のエピローグになるのだ。しかし実をいえば犠牲を要求していたのは彼女の良心であり、結局のところ一ポンドの肉が本当に切り取られることはないのだ、と心の底で分かっているからこそ、そんな手紙を書くのがいっそう楽しかったということなのである。
 我々は良心の犠牲者となり、厳格な社会的道徳通念に従うことを、どれほど心ゆくまで楽しむだろう、我々のことばを額面通りに受け取る嫌な人が誰もいない場合は!その贈り物は受け取れないと抗議したり、この金はすぐ返すなどと言えば、われわれはいとも簡単に道徳の高みに達することができる。ところが贈り物は結局いやがる我々の手に押しつけられ、借りた金は決して返済を迫られないのだ。アナスタシアについても同じようなことがいえる。彼女は、手紙で恋人に致命的な一撃を与えよと自分に語りかけ、もしかしたら本気でそれを信じていたのかも知れないが、パンドラの箱のようにその奥底には希望が隠されていたのである。ちょうど夢のなかで真に迫った危機に直面しても半覚醒状態の意識が、これは夢だ、と我々を支えることがあるようなものだ。
 その後しばらくして、彼女は寝室の暖炉の前に腰かけて手紙を書き出した。寝室の暖炉には独特の魔力がある。それも、夜な夜な金持ちの寝室を温室のように暖める暖炉ではなく、年に一二度しか火の入らない暖炉には。石炭が柵のあいだで輝き、赤い炎が煤まみれの煉瓦をちらちらと照らし、ミルク酒が薬罐台の上で湯気を立てている!ミルクやお茶、ココアやコーヒー、何の変哲もないありきたりの飲み物が寝室の火によって純化され、頭痛を治すネペンテス(註 昔ギリシア人が飲んだという薬)になり、恋の媚薬にならないだろうか。ああ、夢に満ちた瞬間よ。そのとき若者は明日の征服を思い、中年は昨日が永遠に過ぎ去ったことを忘れ、ぐちっぽい老人すら彼らなりの「名誉と奮闘」(註 テニスンの詩から)があると考えるのだ!
 部屋着の代わりに着ていた青いおんぼろケープは大急ぎで手紙を書いている最中にずり落ちてきて、その下の白いナイトガウンをのぞかせた。下を見ると真鍮の炉格子にかけたはだかの足が火に照らされ、熱さのあまりつま先を丸め、上を見ると火明かりは豊満な曲線を照らし出していた。彼女の身体はふっくらとして娘盛りの色香があった。移ろいやすく、かけがえのない、真似しようとしても無惨なほど滑稽な失敗にしかならない、あの青春の盛りである。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントをねたませた豊かな黒髪は黒いリボンでまとめられ、椅子の背にだらりと垂れていた。書いたり、書き直したり、消したり、塗りつぶしたり、破ったりしていると、夜も深々と更けてきて、苦労が実るよりも先に文箱の中の数少ない紙がつきてしまうのではないかと不安になった。
 手紙はようやく書き終わった。やや形式張ったというか、大げさというか、気取った文面だったとしても、人生の大事なときなのだからある種の堅苦しさがあるのは当然ではなかろうか。誰が主教の職を「喜んで」お受けする、などと書くだろう。誰が国王の謁見式に麦わら帽子で行くだろう。

 親愛なるブランダマー卿(と手紙は始まった)
 人生経験のとぼしいわたしには、あなたへの手紙をどう書けばいいのかよく分かりません。あなたがおっしゃってくれたことには心から感謝申し上げます。あのことを思うと喜びがあふれ、今後も思い出すたびに喜びを感じるでしょう。わたしとの結婚など、考えてはいけない大きな理由がきっとたくさんあると思うのですが、あったとしても、それをわたしなどより十分承知の上で、無視なさったのですね。でもあなたの知るはずのない、結婚できない理由が一つあるのです。知るはずのないというのは、そのことを知っている人がほとんどいないからです。このことは親類縁者以外には知られたくありません。もしかしたらそもそも書くべきではないのかも知れません。しかしわたしには相談にする相手がいないのです。正しいことをしようと思っているのですが、もし間違ったことをしているなら、どうかお許しください。そして読み終わったときにこの手紙を焼き捨ててください。
 わたしにはいま呼ばれている名を名乗る権利がないのです。市場に住んでいる従兄弟は別の名を名乗るべきだと考えていますが、わたしたちには本当の名前すら分からないのです。わたしの祖母がミスタ・ジョウリフと結婚したとき、彼女にはすでに二歳か三歳になる男の子がいました。この息子がわたしの父で、ミスタ・ジョウリフは彼を養子にしたのです。しかし祖母には結婚前の姓を名乗る権利しかありませんでした。それが何という姓なのかは分かりません。わたしの父はそれを生涯かけて調べだそうとし、もう少しで判明するというときに最後の病に倒れて亡くなりました。父は自分の血筋についておかしなことをよく語っていましたから、頭がどうかしていたに違いないと思います。たぶん、名前がないというこの不名誉が、わたしにとってもしばしばそうであるように、父にとっても苦痛だったのでしょう。けれどもそれがこんなにわたしを苦しめることになるとは思ってもいませんでした。
 叔母にはあなたがおっしゃったことを話していませんし、誰にも聞かせるつもりはありません。でもわたしは人生でいちばん甘美な思い出として、あのときのことを忘れることはないでしょう。
 誠実なるあなたの友
 アナスタシア・ジョウリフ

 とうとう書き終わった。彼女はあらゆる希望を抹殺し、愛を抹殺した。彼は二度と彼女を娶ろうとはしないだろうし、近寄ることもないだろう。しかし彼女は秘密という重荷を肩から下ろしたのだ。その秘密を打ち明けずに彼と結婚することはできなかっただろう。再び床にもぐりこんだのは三時だった。火が消えて、ひどく寒くなったので、ベッドに戻るのは嬉しかった。自然の女神の手助けで、彼女は優しい眠りへといざなわれた。夢を見たとすれば、それはドレスや馬や馬車や召使いや小間使いやブランダマー夫人が住むフォーディングの大邸宅やブランダマー夫人の夫の夢だった。
 ブランダマー卿もその晩は夜更かしをした。やはり寝室の暖炉の前で、実に規則正しく本のページをめくりながら。葉巻の火は一度も絶えることなく、注意力が途切れる様子もなければ、気にかかることがあるような様子もなかった。彼はエウゲニドゥの「アリステイア」を読んでいた。ホノリウス帝政下に迫害された異教徒に関する記述を読み、その日の午後の出来事などなかったかのように、アナスタシア・ジョウリフという人間などこの世に存在しないかのように、冷静にその議論の是非を検討していた。
 アナスタシアの手紙は次の日の昼時に届いたが、彼は封を切るよりも先に昼食を済ませた。しかし封筒の垂れ蓋には赤くて太い「ベルヴュー・ロッジ」という文字が打ち出されていたから、どこから来たのものかは分かっていたはずである。マーチン・ジョウリフは何年も前に刻印の入った便箋と封筒を注文したことがあった。家系調査で質問状を送るとき、ただの便箋より刻印入りのほうが注意をひきやすい――これは立派な人物であることの証しなのだ、というのである。カランの人はこれを彼のろくでもない贅沢の一例と考えていた。レターヘッドのある便箋を使ってもおかしくないのはミセス・ブルティールと参事会員パーキンだけである。しかも司祭でさえレターヘッドは印刷するのであって浮き出しにはしない。マーチンはとっくの昔に手持ちの便箋と封筒を使い切っていたが、最初の注文の支払いが済んでいなかったので、二束目を注文することはなかった。しかしアナスタシアはこの運命的な封筒を六通ほど取っておいたのだ。学校に行っていた頃くすねたのだが、彼女にとっては今でも大切なよき家柄の名残であり、また多くの人がぼろ着を隠すためにその上に羽織りたいと思うパリューム(註 古代ギリシア・ローマの外衣)なのである。彼女がこの重大な機会にその一通を使用したのは、フォーディング宛の手紙を入れるのにふさわしく、便箋に使ったわら紙から注意を逸らしてくれるかも知れないと思ったからだ。
 ブランダマー卿は「ベルヴュー・ロッジ」の文字を見、浮き出し模様のいわくを推測し、それを使ったアナスタシアの意図を見抜いたが、それでも食事が終わるまで手紙に手をつけなかった。あとで目を通したときも、あかの他人の文章を批評するようにその手紙を批評し、あまり興味のない文書であるかのように扱った。しかしこの手紙を書くために娘が苦心惨憺したことはよく分かったし、そのことばに感動し、ある種の強い同情すら感じた。だが何よりも彼の心に重くのしかかっていたのは、奇怪な運命の詐術、ソフォクレスの劇にも似た人間の立場の複雑さであって、その謎を解く鍵を握っているのはただ彼一人しかいないのだった。
 彼は馬を用意させカランにむかって発とうとしたが、最初の門番小屋を通り過ぎようとしたとき代理人があらわれ、庭園の端の植樹についてさらに指示を仰ぎたいと言われた。そこでむきを変えて植樹が行われている広いブナの並木道へ駆けつけたのだが、そこでの用事が長引き夕暮れになってしまったので、町に行くのは断念せざるを得なかった。並み足でフォーディングに帰る途中、わざと遠回りをして秋の森に落ちる夕日を楽しんだ。アナスタシアには手紙を書いて、訪問を次の日に延期するつもりだった。
 彼の場合は、前の晩、アナスタシアの努力に伴ったような大量の反故の発生はなかった。手紙は一枚の便箋に書きはじめられ、その一枚で事足りた。要した時間は十五分、簡潔に言いたいことをまとめた。すらすらと文章を書きつづったが、その程度のことはオデュセウスが重い石を軽々とパエアキア人より遠くへ投げ飛ばしたように造作もないことだった。

 愛しい人へ
 あなたの手紙を待ちわびて、どれほどつらく不安な時間を過ごしたか、申し上げるまでもないでしょう。その時間に終止符が打たれ、あたりは一面、曇り空のあとのように陽の光に包まれています。あなたの住所を記した封筒を見て、どれほど胸が高鳴り、どれほど勇んでわたしの指が封を切ったか、お話しせずとも分かっていただけると思います。今は幸せでいっぱいです。お手紙をいただいたこと、幾重にも幾重にも感謝します。率直さと優しさと真実に満ちた、あなたらしい手紙でした。心配なさらないでください。打ち明けていただいたことには羽毛ほどの重みもありません。過去の名前のことで悩むのはおやめください。これから新しい名前を持つのですから。わたしたちのあいだに横たわる障害物に目をつぶってくださったのはわたしではなく、あなたです。あなたはわたしたちの年の差を無視してくださったではありませんか。もうこの手紙を書く時間がありません。舌足らずの点はお許しいただき、これで意をつくしたものとお考えください。明日の朝、お目にかかるつもりです。
 あなたに献身的な愛を捧げる
 ブランダマー

 封をする前に読み返すことすらしなかった。急いでエウゲニドゥの「アリステイア」をひもとき、ホノリウス帝政下に迫害された異教徒の記述に戻ろうとしていたのである。
 二日後、ミス・ジョウリフは一週間の半ばだというのによそ行きのマントにボンネットという格好で市場へ行き、従兄弟の肉屋を訪ねた。彼女の服装はたちまち人目をひいた。そんな盛装をするのは教区で祝典かお祭りのあったときくらいなのだが、教区委員の家族が何も知らないところでそんなことが行われるはずがなかった。着ているものだけでなく、その着こなし方も実にしゃれていた。店の裏手の客間に入ると、椅子に腰かけていた肉屋のおかみと娘たちは、こんなに立派な服装の従姉妹は見たことがないと思った。彼女の晩年に翳りを与えていた、やつれて途方に暮れ、虐げられたような様子は払拭され、顔には落ち着きと満足が輝き、それが不思議なことに服装にまで伝わっていた。
 「今日のユーフィミアは朝から貴婦人みたい」と年下の娘が年上の娘に囁いた。彼らはためつすがめつ彼女を眺め、変わったのはボンネットの藤色のリボンだけで、コートもドレスも今まで二年間日曜日ごとに見ていたものと同じだとようやく確認した。
 「うなずいてみせたり、手招きしたり、満面の笑みに顔をほころばせたり」(註 ミルトンの詩から)しながら、ミス・ユーフィミアは腰を下ろした。「ちょっと寄ってみたの」と彼女は切り出したが、その文句にこめられた軽い、小生意気な調子に聞いている者はぎょっとした――「お知らせをしに、ちょっと寄っただけなの。あなたがたはいつもこの町でジョウリフを名乗る権利があるのはあなたがたのほうの家系だけだと口やかましく言っていたわね。否定はなさらないでしょう、マリア」と彼女は非難がましく教区委員の妻に言った。「いつもうちこそが本物のジョウリフだと言っていたじゃない。わたしとアンスティスだって使う権利があると思っていたのに、同じ名前を使うのを厭がっていたわよね。さあ、あなたの家族以外にジョウリフの名前を使う家が一つ減ったわよ。アンスティスがその名前を捨てますからね。ある方が彼女に別の名前を差し出してくださったの」
 本物のジョウリフたちは視線を交わした。お相手は、自分の商品はカランのどの娘が着たときよりアナスタシア・ジョウリフが着たときにいちばん引き立つと言った服地店の共同経営者だろうか、とか、いやいや、ミス・ユーフィミアに卵を売るとき、必ず他の人より一ペニー安くしていた若い農夫だろうかと考えた。
 「そうなの。アンスティスは名前が変わるの。これで苦情の種が一つなくなるってわけよね。ついでにもう一つ片をつけておきましょう、マリア。例の小さな銀の食器、あれは一族以外の者の手には渡らないわ。分かっているでしょう――あなたがずっと自分のものだと言っていたティーポットとJの字の入ったスプーンよ。わたしが天に召されるときが来たら、全部あんたに残してあげる。アンスティスがこれから行くところじゃ、あんな半端物は必要ないから」
 本物のジョウリフたちはもう一度目と目を交わした。聖堂でクリスマスの飾り付けをしたとき、アナスタシアを手伝ってガスの枝つき燭台に飾りをつけていたブルティールの息子が相手だろうか。それともあの気取った声と貴婦人ぶった態度は、教区委員の娘二人がどちらも気をひこうと望みを持っていなかったわけでもない、結構ハンサムな面白い若者、ミスタ・ウエストレイを、結局のところ虜にしてしまったのだろうか。
 ミス・ジョウリフは好奇心をかき立てられた彼らの様子を面白そうに見ていた。彼女はからかってやろうといういたずらっぽい気分になった。そんな気分になったのは実に三十年ぶりのことだった。
 「そうなのよ」と彼女は言った。「わたしは間違ったら間違ったって、はっきり認めるほうなの。ほんと、わたし間違ってたわ。眼鏡をかけなきゃだめね。目の前で起きていることも見えないみたいなんですもの――教えてもらっても分からないんですから。わたしがわざわざお知らせに来たのはね、マリアに皆さん、ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジに来るのはアンスティスのためじゃないって教区委員に言ったこと、あれが全然間違いだったってことなのよ。御前様がいらっしゃったのはまさしく彼女に会うためだったみたいね。それが証拠に御前様は彼女と結婚なさるのよ。三週間後には彼女はブランダマー夫人。お別れを言いたいなら、さっそく今からわたしの家へお茶に来たほうがいいわ。あの子はもう荷造りして明日ロンドンに発ちますからね。マーチンの生前、アンスティスが通っていたカリスベリの学校からハワード先生が来て、彼女のお世話と嫁入り道具の調達をしてくださるの。ブランダマー卿がみんな按配してくれたわ。式を挙げたら大陸を長期旅行する予定よ。まあ、他に行くところもないでしょうけど」
 何もかも本当のことばかりだった。ブランダマー卿は一切を秘密にすることなく、カランに在住していた故マーチン・ジョウリフ氏《エスクワイア》の一人娘アナスタシアとの婚約はまもなくロンドンの新聞に発表された。ウエストレイが結婚を申しこむ前に逡巡と懸念を抱いたのは無理もないことである。家系や地位が有力とはいえない者に身分不相応な振る舞いはできず、こうした状況においては世間の意見が大きな役割を果たすものなのだ。自分よりも身分が下の者を娶るということは、自分を妻の身分までおとしめることになる。彼には妻を自分の地位まで引き上げる余力がないのである。ブランダマー卿の場合は違う。自分の力に絶大の自信を持ち、世間に挑戦状をたたきつけるような今回の結婚を、どちらかというと楽しんでいるようなふうがあった。
 ベルヴュー・ロッジは注目の的になった。下宿の女主人の娘を軽蔑していたご婦人方は、貴族の婚約者のご機嫌を取りにそこを訪れた。彼らはこの変節の動機をみずからにごまかすことなく認め、他人に対しても言い訳したりしなかった。彼らはただ一斉に、実に見事に呼吸を合わせて回れ右をし、えさを運ぶ人間のあとを追う猫のように、そうすることに何のためらいも恥ずかしさも感じなかった。アナスタシアに会えずがっかりしたとはいうものの(彼女は婚約が発表された直後にロンドンに発った)、ミス・ユーフィミアがまことにこころよく事件をあらゆる角度から論じてくれたので、幾分かはその埋め合わせができた。ブランダマー卿の長靴のボタンからアナスタシアの指にはめられた婚約指輪に至るまで、ありとあらゆる細部が念入りに検証され詳述された。ミス・ジョウリフは指輪にはエメラルドがはめられていたと倦むことなく説明した――「とても大きなエメラルドで、まわりをダイヤが囲んでいるの。緑と白って、御前様の盾の色なのよ。ほら、雲形紋章っていうやつ」
 さまざまな結婚祝いがベルヴュー・ロッジに届いた。「結婚とかお葬式とか、大変なことがあると本当にご近所さんからありがたい同情が寄せられるものなのね」無邪気にも人間は皆善良である、などと真剣に考えながら、ミス・ジョウリフは言った。「アンスティスが結婚するまで、こんなにカランに友達がいたなんて思っても見なかった」彼女は次々と来る訪問者に「贈り物」を見せ、訪問者のほうはそれらを津々たる興味をもって眺めた。彼らはそのほとんどをカランの店の陳列窓で見ていたので、知り合いがフォーデングのひいきを得るためにいくらくらいの出費を賢明と判断したかが分り、いっそう興味深かったのである。そこにはありとあらゆる無駄な醜さがあった――趣味という仮面をかぶった俗悪、寛大という見せかけを持ったけちくささ――ミス・ジョウリフは鼻高々とそれらをカランから送り出したが、ロンドンで受け取ったアナスタシアは心底恥ずかしい思いをした。
 「過去のことは水に流さなくちゃ」ミセス・パーキンは真のキリスト教的寛容をこめて夫に言った。「あの若者の選んだ相手はわたしたちが望んでいたような人じゃないけど、何といっても彼はブランダマー卿ですもの。彼のためにもあの奥さんで我慢しなくちゃならないわ。贈り物が必要ね。主任司祭という立場で何もしないわけにはいかないでしょう。他の人はみんな何かあげているというし」
 「高すぎるものはやめておきなさい」彼は新聞を置きながら言った。費用の問題となると黙ってはいられない。「高価すぎる贈り物はこういう機会にふさわしくないだろう。値打ちのあるものより、ブランダマー卿に親愛の情を表すもののほうがいい」
 「もちろんよ、もちろんだわ。任せてちょうだい。変なものは選ばないから。ぴったりの品物に目をつけてあるの。ラヴェリックの店で素敵なスプーン付きの塩入れが四つセットになって売っているの。ふかふかのサテンの箱に入って。たったの三十三シリングなんだけど、三ポンドはしそうに見えるのよ」

 第十九章

 結婚式はひっそりと行われた。当時カランにはそうしたニュースを伝える新聞がなかったため、町の人は「ホレイシオ・セバスチャン・ファインズすなわちブランダマー卿とカラン・ウオーフの故マーチン・ジョウリフの一人娘アナスタシアはセント・アガサズ・アット・ボウ教会にて挙式」という素っ気ない発表で好奇心を満足させるしかなかった。ミセス・ブルティールは自分の立ち会いがなければブランダマー卿の結婚は認められないと言ったらしい。参事会員パーキンとミセス・パーキンも職権上、式に呼ばれるべきだと感じたし、教会事務員のジャナウエイはさかんに間投詞を差しはさみながら「お二人がめあわされるところを何としても見にゃならねえ」と断じた。ロンドンにはもう二十年も行ったことがなかったし、路銀に金貨一枚かかるとしたって、へっ、行かなきゃ男がすたりまさあ。それにブランダマー卿の結婚なんて生きているうちに二度と見るこたあないでしょうからなあ。けれども式には誰も出席しなかった。場所と日時が公表されなかったからである。
 ただ一人出席したミス・ジョウリフはカランに戻るとさっそくベルヴュー・ロッジで何度かお披露目の会を開いた。その席では結婚式とそれに付随する出来事ばかりが話題にされた。彼女はその場に合わせて新しいコーヒー色の絹のドレスを着、ミスタ・シャーノールの部屋では湯沸かしがしゅーしゅー音を立て、マフィンやトーストや砂糖たっぷりのケーキが並び、家のなかは大混雑、三十年前に神の手から最後の大型四輪馬車が走り去って以来の賑やかさとなった。集まった人々は非常に礼儀正しく、好意的ですらあり、その場の雰囲気に浮き立ったミス・ジョウリフはほんの数週間前、ドルカス会の集まりでのけ者にされたり、冷たい目で見られ、悲しい思いをしたことなどすっかり忘れた。
 この集まりで多くの重要な点がつまびらかにされた。結婚式は花嫁から特に希望があって、早朝に行われることになった。出席したのはハワード先生とミス・ユーフィミアだけだった。アンスティスは教会から駅へ直行できるように濃い緑色の旅行服を着ていた。「それでね、皆さん」と彼女は全員を包みこむような慈愛のまなざしをむけていった。「あの子ったら、すっかり若い貴婦人みたいでしたわ」
 思いやりに溢れた理解ある聴衆は、過去六週間のあいだ、アナスタシアに青天の霹靂の事件が起きて、その勝利の奪い去られることを期待していたのだが、結婚式がついに挙行されたと知って愕然とし、冷笑を浮かべることすらできなかった。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントだけが鼻を鳴らすだけの勇気を持っていて、偽装結婚ってこともあるからね、などと隣の人に囁いた。
 新婚旅行はずいぶん長引いた。ブランダマー夫妻はまずイタリアの湖水地方へ行き、そこからミュンヘン、ニュルンベルグ、ライン川を旅して帰国の途につくはずだったが、休みながらゆっくり進んだために、パリに着いたときにはもう秋が訪れていた。そこで冬を過ごし、春にはブランダマー家の全財産を受け継ぐ跡取り息子が生まれた。この知らせは地元の人々を大いに喜ばせ、家族がカランに帰ってくるという一報が伝わると、聖セパルカ大聖堂の塔からピールを鳴らしてお祝いをしようということになった。これは参事会員パーキンの発案だった。
 「修復費用をほぼ全額寄付していただいている貴人にふさわしい敬意のあらわし方だと思うがね。どれだけ塔が補強されたか見せてさしあげなければならん。どうだい、ミスタ・ウエストレイ。カリスベリの鐘突き男を呼んでカランの人に鳴らし方を教えてもらおうじゃないか。塔が倒れるまでサー・ジョージへの支払いが延びるとしたら、今の様子じゃこれまで以上に料金の受け取りをお待ちいただくことになるだろう。ええ、どうかね」
 「まあ、わたし、古い習慣が大好き」と妻が同意した。「にぎやかなピールって、心がうきうきするわ。古きよき習慣はいつまでもつづけていかなくちゃね」もてなしにかかる費用の安さがとりわけ彼女の気に入った。「でも、あなた」と彼女はためらいながら問題点を指摘した。「カリスベリから鐘突き男を呼ぶ必要はあるかしら。あの人たちは始末に負えない酒飲みよ。こんな機会ですもの、喜んで鐘を鳴らそうっていう若者はカランにも大勢いると思うわ」
 しかしウエストレイは大反対だった。確かに引っ張り鉄を取りつけたから、その分だけ塔の強度は増したが、南東の大基柱をちゃんと補強するまで鐘を鳴らすことには賛成できない、と彼は言った。
 この抗議はあまり歓迎されなかった。ブランダマー卿は不愉快に思うだろう。もちろん、ブランダマー夫人がどう思おうと関係はない。実際、下宿の女主人の姪のために聖堂の鐘を鳴らすなど、考えただけでも馬鹿げている。しかしブランダマー卿はきっと気を悪くするだろう。
 「あの現場監督、若いくせにうぬぼれていて鼻持ちならないわ」とミセス・パーキンは夫に言った。「あんな気取り屋に我慢してちゃだめ。二度とつけいらせてはいけません。人がよすぎて甘やかすから、『みんな』つけこんでくるのよ」
 こんな具合にはっぱをかけられた彼は、とうとう、自分は人の指図を受けるような男ではない、鐘は鳴らさせるし、サー・ジョージに自分の意見を裏付けてもらうと、やけに豪胆なところを見せて彼女を納得させた。陽気な短い手紙を書くことで知られるサー・ジョージは平凡な洒落と古典風の比喩を適度に織り交ぜて、次のように書いてよこした。「感謝」が神殿の階《きざはし》を上がり、「婚姻」の祭壇に捧げものをしようとするとき、「思慮」は階の下で静かに彼女が降りてくるのを待たなければならない。
 サー・ジョージは医者になるべきだったと、友人たちは言った。いつも愛想がよくて安心感を与えるからである。彼はこのようにうまい文句をひねり出すと、緊急を要する大仕事に追われていたので、聖セパルカ大聖堂の塔のことなど頭から追い払い、主任司祭と鐘突き男たちには好きなようにさせることにした。
 こうしてある秋の日の午後、住人の中にも聞いた者がほとんどいないという鐘の音がカランに響き渡った。小さな町の人々は仕事の手を休め、イングランド西部でいちばん美しいピールに聞き入った。銀を鳴らすような甘美な高音鐘ベアータ・マリアから、三百年前|仕立て屋《テイラー》同業組合が寄進した低音鐘テイラー・ジョンまで、大小の鐘が一斉に揺れ、鳴り、歌い、無数の小鳥がさえずるような美しい音が空中に満ちた。人々は窓を開け放ち、あるいは店の入り口に立って耳を澄ませた。メロディーは塩沢地の上を越え、ロブスターの罠籠を引き上げていた漁師たちは聞き慣れぬ音楽にただもう呆気にとられて動きを止めた。
 鐘自身も長い休息から解放されて喜んでいるようだった。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫んだ。彼らは往事のことを思い出した。ハーピンドン修道院長に枢機卿の赤帽子が授与されたときに鳴らされ、ヘンリー国王が修道院を解体して信仰を守ったときにも鳴らされ、メアリ女王がミサを復活して信仰を守ったときにも鳴らされ、エリザベス女王がフォーディングにむかう途中、市場を通り、刺繍の入った手袋を贈られたときも鳴らされた。足もとに広がる赤い屋根屋根の下で長きにわたって生と死がせめぎ合ったことを思い出し、数え切れないほどの誕生と結婚と葬式があったことを思い出した。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫び、喜びの声をあげた。
 結局カリスベリから鐘突き男たちがやってきたのだが、ミセス・パーキンは彼らが来ることに前ほど懸念を抱いていなかった。ブランダマー卿が自分のためにどんな礼がつくされたのかを聞き知れば、以前カランの貧民収容施設や老人や学校の子供たちに金を寄付したように、すぐさま鐘突き男たちにも手当をたっぷりはずむだろうと思ったからである。鐘綱も鐘枠も、軸も輪も念入りに点検された。そして当日、鐘突き男たちは男らしく仕事に励み、二時間五十九分をかけてグランドサイア・トリプルズのフル・ピールを鳴らし終えたのだった。
 鐘楼の床の吹き抜け穴から魔術師の腕が取り出したみたいに、ブルティールの店の輝く十ペンス小樽があらわれた。教会事務員ジャナウエイは酒をやらないにもかかわらず、自分も飲みたそうにしながら、泡立つビールの大コップを仕事を終えた男たちに配った。
 「今度はピールが中断されんかったなあ。この古鐘もこれ以上いい突き手が下にいたことはなかったろうし、賭けてもいいが、これ以上いい鐘があんたらの頭の上にあったこともあるまいよ。ええ、どうだい、おまえさんたち。カリスベリの塔で鐘が鳴るのを何度も聞いたし、女王様が即位なさったときも聞いたが、ここの古鐘ほど深くてまろやかな音はせんかった。しばらく休んだおかげでいちだんと音色がまろやかになったのかも知れん。ブランダマー・アームズの地下室にあるポートワインみたいになあ。けれどもエニファー先生の話じゃ、中にはシェリーみたいになっちまって見分けがつかなくなったのもあるらしいよ」
 ウエストレイは主任の裁定に対して忠実な部下らしくひれ伏した。鐘を鳴らしても安全であるというサー・ジョージの決定は若者の肩から責任の重みを取り去ったが、心の中から不安を消すことはなかった。ピールが鳴らされているあいだ、彼は聖堂を離れなかった。最初は釣り鐘室に入って鐘枠の梁にしがみつき、大きな口を開けた鐘が天をむいたり、勢いよく回転して下の暗闇のほうをむくのを見ていた。轟音に耳をつんざかれ、彼は鐘楼まで階段を下り、窓枠に腰かけて鐘突き男たちが上下動する様を見ていた。金属のかたまりが往復運動し、その負荷が塔にかかって落ち着きなく揺れるのは感じたが、その動きには何ら異常はなかった。漆喰がはげ落ちることも、特に注意をひくような何事も起こらなかった。そのあと聖堂まで降りて、再びオルガンのある張り出しへと階段を登った。そこからは後期ノルマン様式のアーチが巨大な曲線を描いて南袖廊の上に架かっているのが見えた。
 アーチの上からランタンまで、彼を大いに不安にさせたあの古い割れ目が、不吉な稲妻のようにジグザグ状に走っていた。その日は曇っていて、空一面に漂う重い雲のかたまりが聖堂内を暗くしていた。中でもいちばん暗い影が落ちていたのは、ランタンの内側を巡る石の通路の下側で、そこに最近塔の補強に使われた重い引っ張り鉄の一つを見て取ることができた。引っ張り鉄がそこにあるのだと思うとウエストレイは嬉しくなった。鳴鐘が塔にかける負担をそれらがことごとく吸収してくれればいいと願った。サー・ジョージの判断が正しく、彼、ウエストレイが間違っていればいいと願った。それでも彼は割れ目に一枚の紙を貼り付け、危険な動きが見られた場合は裂けて警告を発するよう事前に細工をしておいたのだった。
 張り出しの仕切りに寄りかかりながら、アーチが動いているしるしをはじめて見た午後のこと、オルガン奏者が「シャーノール変ニ長調」を弾いてくれた、あの午後のことを思い出した。あれからどれほど多くのことが起きただろう!彼はまさしくこの張り出しで起きた事件、シャーノールの死、悲しい人生に終止符を打った嵐の夜の奇怪な事故のことを考えた。あれはまったくおかしな事故だった。ハンマーを持った男につけられているなどと、気が触れたような想像に取り憑かれ、まさにこの張り出しで足鍵盤に致命傷を負わされたところを発見されたのだ!何ていろいろなことが起きたのだろう――アナスタシアへの求婚と拒絶、そして今そのために鐘が鳴らされている出来事!人生は何と変転きわまりないことか!何世代も時代を超えて、我慢強く、変わることなく立ちつづけてきた、頑として動かぬこの壁に比べれば、自分は、いや、人間というものはなんと短命な生き物だろう。しかし石でできた永遠の現実が、実はことごとくはかない人間によって造られたものであり、またはかない人間である彼が、石でできた永遠の現実を、粉々に崩れ落ちないように、今も忙しく支えようとしているのだと思うとふと笑みがこぼれてきた。
 聖堂の中では鐘の音がやや弱く遠ざかって聞こえた。重い石の屋根を通して届くため、荒々しさが和らげられ、いっそう耳に心地よかった。穹窿天井という弱音器がピールの音を抑えているのだ。低音を響かせるテイラー・ジョンがトレブル・ボブ・トリプルズの複雑な打順に従って奏鳴する仲間たちのあいだを移動していくのが聞こえたが、ウエストレイの耳には低音を響かせる低音鐘のうなり声よりはっきり聞こえる別の声があった。それは塔のアーチの叫び声、カランに来てからというもの耳について離れない小さな静かな声だった。「アーチは決して眠らない」とその声はいった。「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」
 突き手たちはピールの終わりに近づいていた。ほぼ三時間をかけて五千四十の転調鳴鐘を打ち終わろうとしていた。ウエストレイが張り出しから下におり、聖堂の中を歩いているとき、最後の転調鳴鐘が打ち鳴らされた。鐘の音の余韻がまだ残り、真赤な顔をした突き手たちが鐘楼でジョッキのビールをがぶ飲みしているあいだに、建築家は足場へむかい、ジグザグ状の割れ目の前に立った。医者が傷を調べるように、彼はそこを注意深く観察し、トマスのように暗い割れ目に手を突っこんだ(註 使徒行伝から)。変わったところは何もない。紙切れは破れておらず、引っ張り鉄は見事にその責務を果たした。やはりサー・ジョージの判断が正しかったのだ。
 彼が調べているとき、ごくかすかな音が聞こえた――囁くような、呟くような声。あまりにも弱々しくて聞き逃してしまいそうな音だった。しかし建築家の耳には雷鳴のように鳴り響いた。彼は正確にその正体を、その出所を知っていた。割れ目を見ると大きな紙切れが半分に裂けていた。それは些細な出来事だった。紙切れは完全に二つに裂けたのではなく、中程まで破れたに過ぎない。ウエストレイはそれから半時間あまり目を離さずにいたが、それ以上は何の変化も起きなかった。鐘突き男たちは塔を出て、小さな町はいつもの活動に戻った。教会事務員ジャナウエイが聖堂の反対側からやって来て、建築家が南袖廊のアーチの下、足場の高いところの横棒から身を乗り出しているのを見つけた。
 「鍵をかけて廻っているんですがね」と彼は大声で話しかけた。「ご自分の鍵はお持ちでしょうな、旦那」
 ウエストレイはほとんど分からぬくらい小さく頷いた。
 「今度は塔が倒れませんでしたなあ」教会事務員は話しつづけた。しかしウエストレイは返事をせず、じっと半分だけ裂けた紙片を見ていた。他のことは何も考えられなかった。一分後、老人も足場にあがって彼のそばに立った。梯子を登って息を切らしていた。「今度はピールが中断されませんでしたなあ。とうとう雲形紋章をやっつけましたよ。ブランダマー卿はお戻りになる。跡継ぎが生まれて一族は御安泰。雲形紋章からちょいと毒気がぬけちまったような気がしませんかい」しかしウエストレイは不機嫌で何も言わなかった。「おや、どうなすったんです。お加減が悪いんじゃないでしょうね」
 「ほっといてくれませんか」建築家は突っ慳貪に言った。「ピールは中断されればよかったんだ。鐘なんか鳴らさなければよかったんだ。見てください」――彼は紙切れを指さした。
 教会事務員は割れ目に近づき、物言わぬ証人をまじまじと見つめた。「へっ!これがなんだっていうんですかい」と彼は言った。「鐘が揺れてこうなっただけでさあ。たかが紙切れですぜ、上でテイラー・ジョンが揺れているってときに、金床みたいにびくともしねえってわけにはいかねえでしょう」
 「いいですか」ウエストレイは言った。「あなたは今朝聖堂にいましたよね。日課で読まれた話を覚えていますか。予言者が召使いを丘の上に送り出し、海の様子を調べさせたというやつですよ。召使いは何度も何度も丘に上がるけれど何も見えない。彼が最後に見たのは海から湧き上がる人の手の形をした小さな雲でした。ところがそのあと天は暗くなり、嵐が吹き荒れたのです。この破れた紙がこの塔にとって人の手でないとは言い切れませんよ」
 「気にするこたあ、ありませんや」と教会事務員が答えた。「人の手は雨が来ることを知らせただけで、しかも雨こそまさしく人々が待ち望んでいたものなんですぜ。どうして一般人は聖書をひねくり回して人の手を悪いものに変えちまうんでしょうなあ。ありゃ、いいしるしなんです。だから安心しておうちに帰り、食事でもなさることです。いくらにらんだって、その紙は元に戻りませんて」
 ウエストレイは彼の言うことを無視し、老人は少々むっとしながらお休みと別れの挨拶をした。「それじゃ」梯子を下りながら彼は言った。「失礼しますよ。暗くなる前に庭に行かないとならないんでね。来週のネギの品評会に備えて、今晩葉っぱを包むんでさあ。去年は孫に一等をとられて、おじいちゃんのわたしは十一位に甘んじましたが、しかし今年はカランで採れたどんなネギにも負けねえやつが六本ほどできましてね」
 次の日の朝までに紙片は完全に破れてしまった。ウエストレイはサー・ジョージに手紙を送ったが、歴史はただ繰り返しただけだった。主任はこの一件を軽く見て、モグラの穴を山と勘違いしてはおらんかね、やけに神経質になっているが、きみは与えられた指示を実行しさえすればいいのだよ、とかなりいらだたしげに言ってよこした。割れ目の上にもう一枚紙を貼ったのだが、これは無傷のままだった。塔は再び動きを止めたようだった。しかし今度ばかりはウエストレイの不安は容易に静まらず、彼は大急ぎで南東の基柱の補強工事を進めることにした。

 第二十章

 ウエストレイはアナスタシアにひかれ、あるいは好意を抱き、一時はその感情を愛だと思いこもうとしたが、それも消えてなくなった。心の平静を完全に回復し、結婚の申しこみを拒否された恥辱については、申しこんだときにすでに娘の心は決まっていたのだ、と割り引いて考えることにしていた。いずれにしろブランダマー卿がとてつもない競争相手であることは認めるにやぶさかでないが、同じスタート地点から競争を始めていたなら、彼にも勝ち目は十分あったと思っていた。ライバルには社会的地位と富があるが、こっちには疑いもなく若さと安定した人生と専門的な技術がある。しかしすでに他の男のものである心を自分のものにしようとするのは、水車にむかって槍を繰り出すようなものだ。こんなふうに不快な思いを次第に鎮め、仕事に集中して打ちこむようになった。
 冬の日暮れが訪れる頃、彼は南袖廊の端にある巨大な窓の紋章を解明するという、性にあった暇つぶしを見つけた。そこに輝くさまざまな紋章をスケッチし、郷土史とドクタ・エニファーが貸してくれた小冊子を頼りに紋章の各部分に示される姻戚関係をほとんど突き止めることに成功した。すべてがブランダマー家の結婚に関係していた。ガラス画家ヴァン・リンジは第三代ブランダマー卿までの家系を窓いっぱいにガラスで描き、海緑色と銀色の雲形紋章は窓の上部に大きく出ているだけでなく、何度も繰り返し用いられていたのである。この調査に当たってマーチン・ジョウリフの書類が手元にあったのはありがたかった。建築家の調べ物に関連した情報が満載されていたのだ。なにしろマーチンは出版されたブランダマー家の家系図を入手し、手をつくして結婚と傍系親族のことを調べ上げ、それに補足訂正を施していたのである。
 マーチンの妄想の話を聞き、少年たちに「雲形じいさん」と呼ばれていた、もうろくした老人というイメージがウエストレイの頭の中にでき上がっていたため、はじめて書類をひっくり返したとき、そこにあるのはせいぜい狂人のたわごとでしかないだろうと思っていた。しかしその多くがどれほど連関性のないばらばらのものに見えても、マーチンのメモは極めて興味深く、多かれ少なかれ一つの目的によって貫かれた一貫性のあるものであることが次第に判明してきたのである。果てしなくつづく家系図と、本から書き抜いた一族の歴史の断片、その他にマーチンが旅をしながら得たありとあらゆる個人的印象と経験も記録されていた。しかしこのすべての調査探索はたった一つの目的しか持っていない、と彼は明言している――つまり父の名を突き止めることだ。もっともどんな記録を見つけようとしていたのか、どこで、どんなふうに見つけようとしていたのか、文書、戸籍簿、銘刻、いずれの形で見つかると考えていたのかはどこにも書かれていないけれども。
 自分こそフォーディングの正当な所有者であるという持論はオクスフォード時代に思いついて以来、彼に取り憑き、その後どんな目に遭おうとも払いのけることができなかったのは明らかだった。二親の片一方ははっきりと分かっている。母親は小地主のジョウリフと結婚し、有名な花と毛虫の絵を描き、そのほかいろいろ名誉になるとはいえないことをやらかしたソフィア・フラネリイだ。しかし父親は不透明なヴェールをかぶっていて、マーチンは生涯をかけてそれを引きはがそうとしたのだ。ウエストレイはこんな話を教会事務員のジャナウエイから十回以上も聞いていた。小地主のジョウリフがソフィアと教会に行ったとき、彼女は前の結婚でできた四歳の男の子を連れていた。前の「結婚」で、という点をマーチンはいつもそれが義務であるかのように強調した。それ以外の事情を考えることは自分自身の名誉を傷つけることだった。母親の名誉はどうでもいい。だいたい兵士や馬喰とくっついて自分の評判を無惨におとしめた母親の思い出など、守ったところで何になるというのだ?マーチンが必死になって事実関係を突き止めようとしたのは、この「前の結婚」だった。他の人々が頭を振って、そんな結婚は見つからない、ソフィアは妻でも未亡人でもなかったのだというものだから、なおさら必死だった。
 メモの終わりのほうになると、まるで手がかりが見つかったような――何かの手がかりが見つかったか、見つかったと思っているような書き方になった。このスリッパ探し(註 隠されたスリッパを探し出す子供の遊び)のゲームで彼は目的のものにどんどん近づいていると思っていたのだが、土壇場で死が彼の裏をかいたのだった。ウエストレイは、もう少しで謎が解けるというときにマーチンに最後が訪れてしまった、とミスタ・シャーノールが一度ならず語っていたことを思い出した。シャーノールもあと少しで幻の正体を突き止めることができたのに、あの嵐の晩、運命に足をすくわれたのではなかったか。書類をめくりながらウエストレイの心に様々な思いが浮かび、彼よりも前にこれをめくった人々のことをいろいろ考えた。この書類を書くために無駄な日々を費やし、家庭も家族もなおざりにした、頭はいいけれどろくでなしのマーチン。興奮した手で書類を握り、驚くべき秘密を暴いて自分の人生という暗い舞台に華々しい光を当てようとした老オルガン奏者。読み進むにつれてウエストレイはますます興味をそそられ、もともとブランダマー・ウインドウの紋章を研究するため始めたことなのに、すっかりこちらの調査にのめりこんでしまった。彼はマーチンに取り憑き、オルガン奏者をあれほど興奮させた幻を理解しはじめた。長い間、彼らが求めていた秘密を暴くのは自分の役目であり、自らの手の中にこそ、この奇怪極まりない物語の鍵が握られているのだと考えはじめた。
 ある晩、図面を手にし、マーチンの書類を脇テーブルの上に散らかしたまま椅子に座って暖炉にあたっていると、ドアをノックする音がして、ミス・ジョウリフが入ってきた。ベルヴュー・ロッジを出たにもかかわらず、二人は今でも親しい友達だった。下宿人を失ったことは残念で仕方なかったが、彼の取った行動は正しいし、そうするのが義務ですらあると彼女は思った。こうした場合の作法を守ってくれたことはありがたかった。あのまま下宿に住みつづけることは普通の感覚の持ち主には不可能だっただろう。アナスタシアの手を取ろうとして拒絶されたことは彼にとって精神的打撃だったが、彼女はそれにすっかり同情をしてしまい、犠牲者に対してなにくれとなく配慮を見せようとした。アンスティスがミスタ・ウエストレイを拒絶したことはきっと天がよかれと定めたもうたことに違いないが、ミス・ジョウリフは彼の結婚の申しこみに好感を抱いていたから、それが不首尾に終わったことを当時は悲しんでいたのである。そういうわけで二人のあいだには不思議な気持ちのつながり、拒否された恋人と、彼の申しこみを一所懸命に応援した女性とのあいだによく存在するような気持ちのつながりがあった。以来二人はかなり頻繁に会い、一年がたつとウエストレイの失望も鈍磨し、冷静にその話ができるようになった。彼はあのような不可解な拒絶の理由をミス・ジョウリフと議論したり、申しこむのがもう少し早いか、別のやり方をしていたなら受け入れられただろうか、などと考えることにもの悲しい喜びを感じていた。彼女にとってもそれは不快な話題ではなかった。どこをとっても不足のない最初の申しこみを断り、そのあとで桁違いに好条件の申しこみを受け取った姪を持ち、自分まで栄光に包まれたような気がしていた。
 「申し訳ございません、旦那様《サー》――ごめんなさいね、ミスタ・ウエストレイ」彼女は二人の関係がもはや下宿の女主人と下宿人のそれではないことを思い出して、そう訂正した。「こんなに遅くお邪魔して相済みません。でも日中はなかなかお会いできませんから。最近ずっと気になっていたんですけど、ミスタ・シャーノールと一緒に買い取ってくれた花の絵をまだ持ちだしていらっしゃいませんでしたね。新居に落ち着くまでお待ちしていたんですけど、もう何もかも片付いただろうと思って、今晩お持ちしましたの」
 彼女の服はもう擦り切れてはいなかったが、それでもごく質素な黒だった。以前は日曜日にしかつけなかった苔瑪瑙のブローチを毎日つけるようになっても、優しくて衝動的なところは少しも変わらぬミス・ジョウリフだった。
 「座ってください」椅子を差し出しながら彼は言った。「絵を持ってきたとおっしゃいましたか」彼はまるで絵が彼女のポケットから取り出されるのを期待しているかのように相手を見つめた。
 「ええ」と彼女は言った。「女中が今、上に運んできます」――「女中」ということばを使うときに、ほんのかすかな躊躇があった。人にかしずかれるという贅沢にまだ慣れていないことのあらわれだった。
 ベルヴュー・ロッジに住みつづけ、召使いを一人雇えるようにと、アナスタシアが差し出す生活費を、彼女はさんざん説得されたあげく、渋々受け取ることにしたのだった。ブランダマー卿が婚約から一週間以内にマーチンの借金をきれいに支払ってくれたときは、どれほど安堵したか分からないが、同時にこのような寛大さは彼女の心をいくつもの心配で満たすことになった。ブランダマー卿は一緒にフォーデングの屋敷に住むことを望んでいたが、思いやりがあり、よく気のつく彼は、そのような変化を彼女が好まないことを見て取るや、無理に勧めることを止めた。そういうわけで彼女はカランにとどまり、今ようやくその存在に気づいた無数の友人たちの訪問を厳かに受け、また聖堂での礼拝や集会、教区の仕事や他の特権を心ゆくまで楽しみながら日々を送っていた。
 「ご親切にありがとう、ミス・ジョウリフ」とウエストレイは言った。「絵のことを覚えていてくださるとは。でも」彼は絵のことを鮮明すぎるくらいはっきり思い出した。「あなたはいつもあの絵を大切になさっていましたね。それをベルヴュー・ロッジから奪ってしまうなんて、わたしにはできませんよ。共同所有者だったミスタ・シャーノールは亡くなって、わたしには半分しか権利がないんですけど、あれは贈り物としてあなたに差し上げます。いろいろ親切にしていただいた、ささやかなお礼のしるしです。実際、ひとかたならずお世話になりましたからね」彼はため息をついたが、それは結婚の申しこみの一件で、ミス・ジョウリフが好意を示してくれたことや、自分が悲しみにかきくれたことを相手に思い出させるためのものだった。
 ミス・ジョウリフはとっさにその暗示を理解した。彼女の声は同情に満ちていた。「まあ、ミスタ・ウエストレイ、ご存じでしょうけど、わたしもあなたが望んだとおりに事が運べばいいのにって心から思っていましたのよ。でもこういうことは天の定めを理解するように努め、悲しみに耐えなければなりません。あの絵のことは、今回だけは、わたしの言う通りにしてくださいな。わたしたちが取り決めたように、そのうち遠からず絵をあなたから買い戻せる日が来ますわ。そのときは絵を返してくださると信じています。けど今はあなたのところになければなりません。それに、もし、わたしに何かがあったら、あれはあなたにしっかり保管しておいてほしいのです」
 ウエストレイはあくまで彼女が持っているように主張するつもりだった。けばけばしい花と緑の毛虫には、もう二度とつきまとわれたくはなかった。ところが、彼にはおかしなくらいよくあることなのだが、彼女が喋っているあいだに急に気が変わったのである。どんなことがあっても絵を手放すな、と異様なくらいしつこくミスタ・シャーノールに頼まれていたことを思い出したのだ。今ミス・ジョウリフが絵を持ってきたのも、摩訶不思議な力が働いたせいではないかと思われ、絵を突き返すのはシャーノールの信頼を裏切ることになりそうな気がした。そこで意地を張るのを止め、「じゃあ、本当にそれでいいのでしたら、しばらく預かることにしましょう。いつでも好きなときに持っていって構いませんよ」と言った。彼が話しているとき外の階段から何かに躓くような足音と重いものを落としたようなごつんという音が聞こえてきた。
 「あのそそっかし屋さん、またやっているわね」とミス・ジョウリフは言った。「躓いてばかりなんだから。彼女が来て六ヶ月のあいだに割った食器は、それまで六年間に割った数より多いと思うわ」
 二人はドアのほうに行った。ウエストレイがドアを開けると大きな赤ら顔をにやにやさせたアン・ジャナウエイが、花と毛虫の華麗な絵を抱えて入ってきた。
 「今までなにしてたの」彼女の主人が厳しく問いただした。
 「すみませんです、奥様」と女中は言ったが、その謝罪のなかには幾分憤りがこめられていた。「このでっかい絵のせいでけつまずいたんですよ。傷ついてなきゃいいんだけど」――彼女は絵を床においてテーブルに立てかけた。
 ミス・ジョウリフは皿のかすかな欠けを見つけ、ティーポットの毛の筋ほどの傷をも見逃さない鍛えられた目で絵をしげしげとながめた。
 「あら、たいへん!」と彼女は言った。「素敵な額縁が台無しだわ。下の枠が外れそうになっているじゃない」
 「まあまあ」ウエストレイはなだめるように言いながら絵を持ち上げ、テーブルに寝かせた。「それほどたいしたことじゃありませんよ」
 額縁の下枠は確かに両端が浮いて、今にもとれそうになっていたが、手で押しこむと元通りに枠にはまり、ちょっと目には毀れたことなど少しも分からなかった。
 「ほらね」と彼は言った。「見た目にはほとんど問題はありません。明日、膠をつければきれいに直ってしまいます。しかし女中さん、よくまあここまで運び上げたものですね――こんなに嵩があって重いっていうのに」
 実を言えばミス・ジョウリフ自身、アンを手伝って絵を運んできたのである。しかしそれは闘牛のムレータのような赤い敷物を敷いた最後の踊り場までのこと。最後のひと登りは女中一人でも心配なかろうと思ったし、絵を運びながらウエストレイの前にあらわれるのは、働かなくても暮らしていけるくらい裕福になった今、自分の新しい威厳を損なうように思われたのだ。
 「そうかっかなさらないで」とウエストレイは頼むようにいった。「ほら、天井下の壁から釘が出ているでしょう。もっといい場所が見つかるまで、当座のあいだ引っかけておくにはちょうどいい。この古い紐もぴったりの長さだ」彼が椅子の上に乗って絵をまっすぐにかけ、後ろに下がってほれぼれと眺めるような様子をすると、ミス・ジョウリフもだいぶ機嫌が直った。
 ウエストレイはミス・ジョウリフが帰ったあとも遅くまで仕事をつづけた。それが片付いたとき、大きな音で時を刻むマントルピースの上の時計はほとんど十二時を指していた。それからしばらく消えかけた火の前で椅子に腰かけ、ミスタ・シャーノールの思い出にふけった。絵を見て彼のことを思い出したのだが、そのうち黒くなった燃えさしが彼に寝る時間だと注意した。椅子から立ち上がろうとしたとき、後ろで何かが落ちる音し、振り返って見ると一時的に元通りはめこんであった額縁の下枠が、それ自身の重みでまた外れてしまい、床に落ちたのだった。今まで何度も思ったことだが、額縁は独特な帯状の模様が交錯している見事なものだった。こんな下手な絵が豪華な額に納まっているのは奇妙なことで、ときどき彼はソフィア・フラネリイが安売りでこの額縁を買い、あとでその中を埋めるために花の絵を塗りたくったのではないかと考えた。
 冬のはじめの夜は火が消えるとさっそく寒気が押し寄せ、部屋の中は急にひえびえとしてきた。ドアの下から冷たいすきま風が吹きこみ、毀れた額縁の下に落ちていた何かをひらひらと動かした。ウエストレイが屈んで拾い上げると、それは折りたたんだ紙切れだった。
 その紙に触れることは奇妙なくらいためらわれた。彼はおよそくだらないことで良心のとがめを感じることがしばしばあったが、そのときもそれに襲われたのだ。自分にはこの紙を調べる権利があるだろうか、と彼は自問した。手紙かも知れないし、どこから出て来たのかも、誰のものかも分からない。他人の手紙を開けるような罪深い真似はまっぴらである。伝説の幽霊捕鯨船フライング・ダッチマンによって手紙の束を甲板に置いて行かれた船長さながら、彼は厳粛な面持ちでそれをテーブルの上に置きさえした。しかし数分後にはその馬鹿馬鹿しさに気づき、注意しながら謎の紙を広げた。
 それは古びて黄色くなった細長い紙で、一昔前から広げられぬままおかれていたため幾つもしわが寄っていた。印刷された文字もあれば手書きの文字もあった。それが結婚証明書であることは即座に分かった――法も予言者もしばしば判断の根幹にすえる、あの「結婚証明書」である(註 マタイ伝から)。印刷の細かな空白部分はことごとく書きこみで埋めつくされ、「千八百年三月十五日、セント・メダード・ウィジン教会にて、紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、独身者ホレイシオ・セバスチャン・ファインズ二十二歳は、商人ジェイムズ・フラネリイの娘、未亡人ソフィア・フラネリイ二十一歳と結婚」したことが証人たちの型通りの宣誓とともに記されていた。その下には乱れた読みにくい字で、今はもう黄色に変色したインクの書きこみがあった。「千八百一年一月二日夜十二時十分過ぎ、マーチン誕生」。彼は紙をテーブルに置き、平らに伸ばした。目の前にあるのはマーチンが一生涯かかって探し、見つけられなかった母親の最初の結婚(唯一の本当の結婚)の証明書だった。マーチンが死の直前につかみかけていた嫡出の正統性のあかし、シャーノールもやはりあと少しでつかめると思っていたのに死に襲われてしまった手がかりだった。
 千八百年三月十五日、ソフィア・フラネリイは結婚特別許可により紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズと結婚、千八百一年一月二日夜十二時十分にマーチンが生まれた。ホレイシオ・セバスチャン――この名前をウエストレイは何度も耳にした。この紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、ホレイシオ・セバスチャン・ファインズとは誰だろう。彼の自問は形だけのものだった。答はちゃんと分かっていたのだ。目の前のこの書類は法的な証明とはならないかも知れないが、キリスト教国の法律家が束になっても、ソフィア・フラネリイが結婚した「紳士」が三年前に八十代でなくなったブランダマー卿に他ならないという彼の確信、直感を変えることはできなかっただろう。彼の目には黄ばんだ紙に揺るぎない権威が備わっているように見えたし、下の隅にのたくるような筆跡で書き留められたマーチンの出生日は、彼が得た情報ともぴたりと一致した。彼は寒さの中、再び椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて頭を抱え、この命題に付随するいくつかの結論を引き出した。もしも先代のブランダマー卿が千八百年三月十五日にソフィア・フラネリイと結婚していたのなら、彼の二回目の結婚は無効ということになる。なぜならソフィアはそれ以後もずっと存命だったのだし、離婚手続きは取られなかったのだから。しかし二回目の結婚が無効であるなら、カラン湾で溺れ死んだ息子のブランダマー卿は非嫡出子であり、その孫で現在フォーディングという玉座に座っているブランダマー卿も非嫡出ということだ。マーチンの夢は正しかったのだ。わがままで、浪費家で、怠け者で、子供たちに「雲形じいさん」と呼ばれていたマーチンは結局気が狂っていたのではなく、本当にブランダマー卿だったのだ。
 すべてがこの紙切れに、この青天の霹靂に、どこからともなくあらわれたこのメッセージにかかっている。いったいどこから出て来たのだ?ミス・ジョウリフが落としたのだろうか。いや、そんなはずはない。マーチンの書類の錯綜した謎を解こうと、彼が何ヶ月も努力していることを知っているから、こういう情報があれば必ず彼に報告したはずなのだ。きっと絵の後ろに隠されていて、下枠が外れたときに落ちたに違いない。
 彼は絵に近づいた。けばけばしい、へたくそな花を生けた花瓶、机の上をのたくる緑の毛虫、しかし下の部分には今まで見たことのなかった何かがあった。枠が毀れてとれてしまった部分に細い筋となって別の絵がのぞいていた。花の絵は別の絵の上に塗り重ねられたようだった。まるでソフィア・フラネリイは画布を取り出しもせず、額縁の端まで稚拙な絵を描きこんだように思われた。この花がもっとできのいい絵を隠していることは疑う余地がなかった。それはきっと肖像画なのだろう。底の部分には茶色いビロードの上着と、茶色いビロードの胴着の真鍮のボタンすら見て取ることができた。彼は蝋燭を近くにかざして幾分なりとも輪郭がたどれはしまいか、背後に描かれているものの形が見定められはしまいかと花の絵をじっと見た。しかし絵の具は容赦なく塗りたくられ、覆いを見透かすことは難しかった。緑の毛虫さえ彼をあざ笑っているようだった。というのはよく見ると、ソフィアは微妙に色づかいを変えて頭の部分に二つの目とにやりと笑った口を茶目っ気たっぷりに描きこんでいたのだ。
 彼はもう一度、証明書が広げられたままのテーブルに座った。このマーチンの誕生日はソフィア・フラネリイが書きこんだものに違いない。浮気者で責任感がなく、みずからが描いた花のように見てくれだけで、みずからが描いた毛虫の顔のように人を小馬鹿にしたソフィア・フラネリイが。
 物音一つしない静寂、真夜中過ぎの田舎を包む完全な沈黙があたりを蔽っていた。大きな音で時を刻むマントルピースの時計だけが時間の経過を告げていたが、とうとう聖セパルカ大聖堂の組み鐘が「新しき安息日」をかなで沈黙を破った。三時だった。部屋の中はすっかり冷え切っていたが、その程度の寒気は胸の中にはい上ってくる寒気に比べれば何ほどのものでもない。今こそ真相を突き止めた、と彼は思った――アナスタシアの結婚の秘密、そしてシャーノールとマーチンの死の秘密を知ったのだ。

 第二十一章

 南東の基柱の補強に当たっていた石工頭が次の日の九時にウエストレイに会いに来た。人夫たちが夜明け直後に塔へ行ってみると、夜のうちに新たに動いた形跡が見つかったので、建築家に急いで聖堂に来てもらおうと思ったのだ。しかしウエストレイは外出していた。朝一番の汽車でカランを離れロンドンにむかったのだ。
 同じ日の午前十時頃、建築家はウエストミンスターの小さな画商の店にいた。花と毛虫の絵の画布がちょうど額縁から取り出され、勘定台の上に載せられたところだった。
 「いいや」と画商が言った。「この額縁には紙もはさまっちゃいないし、何の裏張りもないね――ほら裏はただの木だよ。裏張りはめったにないんだが、しかしたまにそういうのもあることはある」――彼は弛んだ額縁のまわりをこつこつと叩いていった。「これは値の張る額だな。丁寧に作ってあるし、金めっきも上等だ。この落書きの下に立派な絵があったとしても驚かないね。たいしたことのない絵ならこんな額縁にはめることはないだろうから」
 「下の絵を傷つけないで上の部分をきれいに取り去ることはできますか」
 「もちろんさ」と男は言った。「これより難しいやつを何度もやってきたんだ。二日ほどうちに預けてくれれば、なんとかしてみるがね」
 「もっと早くできませんか」とウエストレイが訊いた。「ちょっと急いでいるんですよ。ロンドンまで出てくるのは大変だし、それに取り除く作業を最初から見ていたいんです」
 「そう心配なさることはない」と相手は言った。「わたしを信じて任せなさい。こういうことは慣れているから」
 ウエストレイはまだ不満そうだった。画商は店の中を見回した。「そうだなあ」と彼は言った。「今朝は客があまり来ないようだから、それほどお急ぎとあれば、今ちょっとだけ作業してもいいよ。奥の間のテーブルに置こうかね。店に客が来ても分かるように」
 「顔のあたりから始めてください」とウエストレイは言った。「誰の肖像画なのか、つきとめましょう」
 「だめだめ」と画商は言った。「顔は大事を取って後回し。あまり重要でないところから試していこう。絵の具の剥げ具合を見て、重要な部分をどうするか方針を立てるのさ。そら、机の表面と毛虫から始めるよ。この毛虫はいたずら者が顔を描き加えただけじゃなく、なんだか変なところがある。わたしはどうも毛虫ってのが苦手でね。こりゃあ、なんだか、もとの絵がここからのぞいているみたいだな。もっとも毛虫がどうすりゃ肖像画に紛れこむのか、見当もつかんが」画商は人差し指の爪を軽く絵の表面に走らせた。「ここだけ引っこんでいるようだな。落書きの絵の具が縁にそって盛り上がっているのが分かる」
 彼の言う通りだった。緑の毛虫は確かに下の絵の一部をなしているようだった。男は瓶を取り出し、刷毛で絵の上に溶液を塗った。「乾くまで待つんだ。泡が出て表面がちりちりに縮れるから。そいつを上から布でそっとぬぐえば下の絵が見えるってわけさ」
 「この机を描いたやつ、べたべたに絵の具を塗りやがったな」と半時間後、画商は言った。「そのほうがわれわれには都合がいいんだが。それ、皮みたいに剥がれてきただろう」彼は柔らかいネルの布を使ってやさしく絵の具をぬぐった。「ほう、こりゃあ、たまげた」と彼は言った。「上の方にも毛虫がいるぞ。いや、毛虫じゃないね。しかし毛虫でないなら何だろう」
 なるほど確かに別の緑の線が波うっていた。ウエストレイはそれを見るなりすぐさまその正体に気がついた。「気をつけて」と彼は言った。「それは毛虫じゃありません。紋章の一部なんです――紋章の盾に描かれている横棒みたいな線です。下の方にそれより短い線がもう一本出てくるはずです」
 彼の言う通り、一分もすると雲形紋章の銀色の地と、三本の海緑色の横線が輝くようにあらわれた。その下にはブランダマー・ウインドウのいちばん上の仕切りに輝いているのと同じ座右銘「ファインズにあらざれば死」が見えてきた。ソフィアが毛虫に変えてしまったのは真ん中の横線で、単なるいたずら心から、他の部分はわざと塗りつぶしたのに、ここだけ元の絵がのぞくように残したておいたのだった。ウエストレイは興奮が抑えきれなくなった――じっとしていられなくなった。一方の足に体重を乗せたかと思うと、次の瞬間には逆の足に体重を乗せかえ、ドラムを鳴らすようにテーブルを指で叩いた。
 画商は建築家の腕に手を置いた。「頼むから静かに!」と彼は言った。「興奮しなさんな。金鉱を見つけたわけじゃないんだから。これは一万ギニーのヴァンダイクじゃないよ。どういう絵なのかまだ分からんが、二十ポンドもしないことは賭けてもいい」
 ウエストレイはもどかしくて仕方がなかった。ようやく肖像画の頭まで作業が進んだのは、午後も相当遅くなってからのことだった。邪魔が入ることはほとんどなく、画商は一度ならず、今は客足の少ない時期でね、などと言い訳する必要を感じたくらいだった。彼はいかにもこの仕事に興味をひかれた様子で、熱心に作業をつづけ、とうとう外は日が暮れはじめた。「大丈夫だよ」と彼は言った。「ランプを持ってくる。ここまで来たんだ、もうちょいやってしまおう」
 数分後、それは正面をむいた肖像画であることが分かった。ランプを持つウエストレイは、若々しいしわのない顔があらわれてくるに従い、不思議な戦慄が身体に走るのを感じた。この広い額には見覚えがある――これはアナスタシアの額だ。その上にはアナスタシアの黒く波うつ髪がある。「ありゃ、やっぱり女か」と画商は言った。「いや、違うな。女が茶色いビロードの上着に胴着を着るわけがないからな。巻き毛の若い男だね」
 ウエストレイは何も言わなかった。彼は口がきけないくらい興奮していた。それというのも、靄のなかから二つの目が彼を見つめていたからである。靄は画商の布の下で消え、目は驚くほどの輝きを放った。それは澄み切った、鋭い、明るい灰色の目で、彼を金縛りにし、心の奥底まで見通してしまった。アナスタシアは消えた。絵の中から彼を見ているのはブランダマー卿だった。
 今と変わらない、謎めいた、油断のないブランダマー卿の目だったが、そこにはまだ若さの輝きがあった。顔に中年の翳りはなく、絵が中年になる数年前に描かれたものであることを示していた。今こうして蘇った顔に目を据えたまま、ウエストレイはテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。目は彼を追いかけ、逃れることは不可能だった。絵の隅に配された雲形紋章を一瞥することさえできない。心の中にはまだ答の見つからない疑問が渦を巻いていた。この肖像画が手がかりになるかも知れないある謎が存在しているのだ。彼は恐るべき真相に到達しかけていた。この絵と関連のありそうな事件をことごとく思い起こしたが、それらをつなぐ糸が見つからない。この顔はブランダマー卿が若いときに描かれたものだ、それは間違いない。しかしソフィア・フラネリイがこの絵を見たなどということがありうるだろうか。ミス・ユーフィミアが思い出すかぎり、この絵は花と机と毛虫の絵でしかなかった。その期間は六十年になる。しかしブランダマー卿は四十をいくつか超えた年齢でしかない。ウエストレイは顔を見つめているうちに、若者が中年に移行したというだけでは説明できない小さな差異に幾つも気がつきはじめた。そこで彼は、これは彼の知っているブランダマー卿ではなく、先代のブランダマー卿――三年前に八十代で死に、ソフィア・フラネリイと結婚したあの紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズなのだと推測した。
 「一級品じゃないが」と画商は言った。「しかし悪くないですな。ローレンスの作だとしてもおかしくはない。ともかく花よりはずっとましだね。こんな立派な若者の上にあんな絵を塗りたくるとは、ひでえ野郎もあったもんだ」
 次の日の晩、ウエストレイはカランに戻った。いろいろと考えることがあったものだから、つい下宿の女主人に帰ることを伝え忘れ、雑役婦が言うことをきかない火を熾そうとやっきになっているあいだ、苦虫をかみつぶしながら突っ立っていた。薪の枝は数が少なく湿っており、その下の新聞紙は濡れていて、いちばん上にはしけった石炭が重くのしかかっていた。よどんだ黄色い煙が煙突の前でたじろぎ、炉棚にかけられた梳毛糸製の房べりの下から冷え冷えとした部屋の中に渦を巻きつつ流れ出した。この不都合は、帰宅の予定を知らせなかったおのれのうかつさのせいだと思うと、ウエストレイはいっそう苛立ちをつのらせた。
 「何だって火を焚いていないんだ」彼は咎めるように言った。「こんな寒い晩に火も入れず部屋にいられるわけがないじゃないか」不愉快な状況を際だたせるように、窓の合わせ目からすきま風がわびしくひゅーと音を立てた。
 「あたしのせいじゃないわよ」腕の赤い、石炭で黒く汚れたお転婆娘が膝をついたまま顔を上げていった。「奥様のせいだわ。『この前、あの人、石炭代のことで文句言っていたわね。石炭入れ一杯六ペンスもするんだから、火を入れるのは止めておくわ。今晩帰るかどうかも分かりゃしないんだから』って言ったのよ」
 「だがね、ちゃんと火がつくように用意をしておいてもよかっただろう」建築家は三度目のたきつけが失敗に終わったのを見ながら言った。
 「一所懸命やってるわよ」彼女は哀れっぽい口調で言った。「でも何でもできるってわけじゃないですからね。他にも料理したり、掃除したり、伝言のために階段を上り下りしたり、一分おきに御前様が来るもんだから、そのたびに応対しなきゃならないのよ」
 「ブランダマー卿がここに来たのかい」とウエストレイは訊いた。
 「ああ、あんたに会いに昨日も来たし、今日も二回来たよ」と彼女は言った。「伝言を残していったわ。あれ」――彼女は炉棚の端を指さした。
 ウエストレイは振りむいて黒い縁取りの封筒を見つけた。上書きの力強い大胆な筆致は見慣れていたが、今それは恐怖の戦慄にも似た何かを彼に与えた。
 「もういいよ」彼は急いで小間使いに言った。「火がつかないのはきみのせいじゃない。きっともうすぐ燃え出すさ」
 娘は素早く立ち上がり、火がつかず、再び真暗になった火床に呆然と目をむけ、部屋を出た。
 一時間後、日が陰りはじめた頃、ウエストレイは闇に覆われていく寒い部屋の中で再び椅子に腰かけた。目の前のテーブルにはブランダマー卿の手紙が広げてあった。

 親愛なるミスタ・ウエストレイ
 昨日もお宅を訪問したのですが、あいにくお出かけのようでした。そこでこの伝言を残すことにします。ベルヴュー・ロッジのあなたの居間に、古い花の絵がかかっていましたが、わたしの妻があの絵に関心を示しています。彼女が愛着を覚えるのは、幼い頃の思い出があの絵に詰まっているからで、もちろん絵それ自体に価値があるからではありません。あれはミス・ジョウリフの所有物だと思っていたのですが、彼女に尋ねたところ、しばらく前にあなたに売ったため、今はあなたのものだということですね。あなたにとって特に価値のある絵とは思えませんし、慈善のおつもりでミス・ジョウリフからお買い取りになったのではないかと愚考します。もしもそうでしたら妻がこちらに飾りたいと思っていますので、引き取らせていただけるとありがたいのです。
 塔がまたもや動いたと聞き、残念に思います。わたしたちの帰還を迎えてくれたピールが建物に損傷を与えたのだとしたら、わたしたちにとってこんなに悔やまれることはありません。しかしご承知の通り、すみやかに万全の補強をするためなら、いくら金がかかろうとも費用は出し惜しみしないつもりです。
 誠実なるあなたの友
 ブランダマー

 ウエストレイは意欲的で感受性が強く、今も若者らしい高揚や失望に振り回されていた。いろいろな考えが、うろたえてしまうほどの速度で次から次へと浮かんできた。それこそ引きも切らずつながって浮かんでくるものだから、順番に整理するいとまもなかった。興奮のあまり頭がくらくらした。僕は法の代理人となることを要請されたのだろうか。神に代わって罰を下すよう選ばれてしまったのだろうか。僕の手は罪人にいかずちを投げつけねばならない手なのだろうか。謎の解決はまっすぐ僕のところへやって来た。テーブルの上に開かれたこの手紙こそ、その間接証拠でなければ何だというのか!部屋を満たす暗闇の中でもう文面はよく読み取れなくなっていたが、しかしそれは証拠を握っているものには明白な有罪のしるしだった。
 フォーディングに君臨するこの男は他人の財産を享受する偽者、何も知らないアナスタシア・ジョウリフをためらいもなく娶り、そのように身を落とすことで己の詐欺的行為を隠蔽しようとする恥知らずの悪党なのだ。ブランダマー卿は存在しない。爵位などないのだ。そんなものはトランプで作った家みたいに一吹きで崩れ去る。しかしそれで何もかもおしまいなのか。他には何も残らないのか。
 夜になった。ウエストレイは独り暗闇の中に座し、両肘をテーブルについて両手でじっと頭を抱えていた。暖炉に火はなく、灯りもついておらず、ただ遠くでかすかにちらつく街灯だけが暗さの感覚をもたらした。その青白く頼りない光が、別の晩のことを思い出させた。霧にぼやけた月明かりが聖セパルカ大聖堂の明かり層の窓から差しこんでいた晩のことだ。彼は再び幽霊の出そうな身廊を歩き、白い経帷子を着た巨人のような柱を通り過ぎ、塔を支える大アーチの下を進んでいくような気がした。もう一度螺旋階段の真暗闇を手探りし、もう一度オルガンのある張り出しにでて、袖廊の窓に輝く、不吉な銀と海緑色の雲形紋章を見た。張り出しの隅には悪霊たちがうごめき、シャーノールの薄い青ざめた影が両手をもみ合わせ、ハンマーを持った男に命乞いの叫びをあげた。するとそれまで彼に取り憑いていたおそろしい疑惑が事実となって暗闇から彼をじろりと見つめた。彼は寒さに震えながらはじかれたように立ち上がると蝋燭に火をつけた。
 一時間、二時間、三時間が経って、ようやく彼は目の前の手紙に返事を書いた。そのあいだに彼の心には新たな変化が起こっていた。彼、ウエストレイは、復讐の道具に選ばれたのだ。手がかりは彼の手中にある。彼の口は有罪を宣告せねばならない口である。しかし卑怯な真似は一切するまい。不意を襲うような真似は決してするまい。ブランダマー卿には秘密を突き止めたことを話し、これ以上何かする前に警告を与えてやろう。そこで彼はこう書いた。
 「御前様」。それから手紙が書き終わるまで、何枚もの紙が使われては捨てられた。そのうち二枚は書き慣れた「親愛なるブランダマー卿」という呼びかけが思わずウエストレイのペンから飛び出してしまったために握りつぶされた。今となってはもうこのことばは形式的な挨拶としてさえ使えない。そこで彼はこう書いた。

 御前様
 ミス・ジョウリフから買い上げた絵画の件に関するお手紙、ただいま落手いたしました。この絵は特別の事情がないとしても、お渡ししてよいものか確信がありません。絵そのものに価値がないことは明らかですが、わたしにとっては親友ミスタ・シャーノール、聖セパルカ大聖堂のオルガン奏者の思い出の品なのです。わたしたちは共同で絵を購入し、彼が死んだときはわたしが一人で所有することになっていました。彼が死んだ奇怪な状況はお忘れではないでしょうし、わたしも忘れてはいません。親友だったミスタ・シャーノールがこの絵に深い関心を寄せていたことは、彼を知る人のあいだでもよく知られていました。これは見かけ以上に重要なものであると信じ、わたしにむかってもその点を強調していました。確かあなたの前でも一度そう言ったことがあると思います。
 早すぎる死が訪れなければ、偶然わたしが手に入れた秘密の真相を、彼もとっくの昔につかんでいたのではないでしょうか。花の絵はただ表面を覆うためのものに過ぎず、その下には紛れもなく先代のブランダマー卿の肖像画が隠されていたのです。そして画布の後ろからは彼に関する教会区記録登録証が見つかりました。それらをあなたにお渡しして、それで終わりとなればこんなに嬉しいことはありません。しかしこれらは過去の出来事を今までになかった角度から照らし出すものであり、わたしは義務としてこれらを保管し、いかなる個人にも引き渡すことができないのです。同時に絵と書類は、あなたがご覧になってみずからその重要性を判断なさりたいというのであれば、お見せしないわけにはいかないと感じます。わたしは上記の住所に住んでおり、来週の月曜日までならいつでもお会いすることができます。ただし月曜日を過ぎた場合は、この件に関しさらなる一歩を踏み出さなければならないと考えます。

 ウエストレイの手紙がブランダマー卿のもとに届いたのは翌朝のことだった。それは朝食テーブルの手紙の山のいちばん下に横たわっていた。まるでギリシアのうらない壺から最後に振り出された不吉な籤のように(註 ホラティウス「歌集」から)、暗殺者のように、あるいは土壇場でトロイの征服者(註 アガメムノンのこと)の足をすくった、あの姦通者のように。彼は一目で中身を読み取った。書かれた文字を卑屈に一つ一つ追うのではなく、直感的に意味を把握したのである。地球の核は暗闇で、万物は塵芥に過ぎない(註 テニスンの「イン・メモリアム」から)と心の中では思ったかも知れないが、それは表情には少しもあらわれなかった。彼は快活に語り、ありったけの魅力を振りまいてもてなし役としての義務を果たし、その日の朝発つ二人の客にいつものように礼をつくして別れの挨拶をした。そのあと馬の用意を命じ、ブランダマー夫人には昼食に戻らないかも知れないと告げ、独り馬に乗ってゆっくりと屋敷の中を巡った。彼はときどきそんな気分になるようだった。狭い小径や馬道に馬を進め、帽子に手をやる男や、膝を曲げてお辞儀する女に、丁寧に挨拶することを忘れなかったが、しかしそのあいだじゅうずっと物思いにふけっていたのである。
 手紙は二十年以上前、祖父と口論した、別の陰鬱な一日の記憶をたどらせた。オクスフォードに入学して二年目、学生として全世界に秩序を与えるのが自分の義務だとはじめて感じたときのことだった。フォーディングの地所のまずい管理運営に対しては、強い批判を抱いていた。学問を積み、広く世間を見てきた人間として、そのことを言わずにいることは怯懦であると考えた。森林は放置され、間引きも植樹も行われなかった。昔ながらの農家は修理されることなく荒廃し、しみったれたひさしのない建物に取って代わられた。庭園での放牧もずさんで、ダマジカやアカシカが羊や卑しい雑種の牛にこづき回されている。牛の問題には腹を据えかね、思わず祖父に激しく抗議した。二人のあいだに愛情などなかったが、それにしてもそのとき若者は、老人が奇妙なくらい改善を求める意見に反発することに気がついた。
 「礼を言うよ」と老ブランダマー卿は言った。「言いたいことはみんな聞いてやったぞ。これでおまえも気が楽になって、心おきなくオクスフォードに戻れるだろう。わしは四十年間フォーディングを切り盛りしてきたし、これからさらに四十年間、誰の助けも借りずに切り盛りしていく自信がある。おまえが何を心配しているのやら、さっぱり分からん。余計なことに首を突っこむな」
 「僕の心配が分からないですって」改革者はかっとなって言った。「余計なことに首を突っこむなですって。いいですか、今被っている被害を回復するには一生の時間がかかるんですよ」
 後継者と仲が悪くなれば、道を譲る気などなくなってしまうものだ。老人は晩年になってからいっそうはなはだしくなったいつものかんしゃくを起こした。
 「出しゃばるな」と彼は言った。「フォーディングのことで悩むことはない。わしのまずい切り盛りの被害者を気取ることもないぞ。この地所をおまえに任すとは決まっていないのだからな」
 今度は若者が怒る番だった。「脅しても無駄ですよ」と彼は鋭く言った。「もう子供じゃないんですから、呶鳴ったって怖じ気づいたりしません。その脅しは他の人のためにとって置いたらいいでしょう。財産を爵位から切り離したりしたら、あなたは一族に恥をかかせ、自分自身に恥をかかせることになりますよ」
 「それなら安心しろ」と相手は言った。「財産は爵位を持つものに渡す。出て行け。もうごちゃごちゃぬかすな。さもないと財産も爵位も失うことになるぞ」
 こともなげに発せられたことばだった。恐らく若造に咎めだてられ、いささかむっとしたのか、あるいは痛風のいらだたしい不快感に襲われ、思わず口をついて出て来たのだろう。しかしそこには苦い響きがあり、若者の心に深く突き刺さる何かがあった。他にも跡継ぎがいるのだ、などと脅されたのははじめてだったが、そのことをまったく知らなかったわけではない。これに類したことを以前聞いたような気がした。どこでだったかは覚えていないが、物心がついてから、爵位が本当に自分のものになるのだろうかという漠然としたとらえどころのない疑惑がフォーディングにはずっと漂っていたように思えた。
 ブランダマー卿はウエストレイの手紙を胸ポケットに入れて、馬にブナの葉のあいだを歩ませながら、こうしたことを事細かに思い出していた。祖父にそんなことを言われ悲しい顔をして出て行ったこと。祖母が彼の心中を見抜いたこと。どうして祖母には分かったのだろう。もしかするとあの手の脅しをそれまでに何度も聞かされていたので、原因をすぐ突き止められたのかも知れない。しかし祖母は無理矢理彼に何があったのか白状させたものの、彼にかけてやるべき慰めのことばを知らなかった。
 今でも彼女の姿を瞼に浮かべることができた。冷たい青い目をした、威厳のある女性で、六十近いというのに容貌は衰えていなかった。
 「この際ですから」と彼女はぞっとするような落ち着きを見せて言った。「何もかも話してしまいましょう。知っていることをみんな教えてあげる。といっても大した話ではないけれど。あなたのお祖父さんはずいぶん前に、今さっきあなたを脅したのと同じように、わたしを脅したことがありました。あのことは今でも忘れていないし許してもいません」彼女は椅子に座り直し、頬をわずかに紅潮させた。「あなたのお父さんが生まれた頃のことです。それまでもわたしたちは喧嘩することがありましたけど、深刻な喧嘩はあれが最初で最後でした。あなたのお父さんはわたしとも、あなたとも、気性が違っていたわね。決して喧嘩をしない人で、この話も知らなかった。わたしは黙っているのが自分の責任だと思っていました。そうするのがいちばん賢明だったのよ」話しながら彼女の顔は見たことがないくらい険しくなった。「それ以上のことはなにも見聞きしていません。お祖父さんの意向は心配しないでいいと思う。あの人は名声にこだわりを持っているから、全財産をあなたに残すでしょう。あなたにはあらゆる相続の権利があるもの。その、法的な問題がなければだけど。もう一つ前から気になっていることがあるの。お父さんが生まれてすぐに、陳列室からお祖父さんの肖像画が盗まれたことは聞いていますか。特に誰かが疑われたわけじゃありません。まあ、後の祭りなんだけれど、そのあと戸締まりが厳重になってね、しばらくはフォーディングに夜間警備員がいたのよ。でもほとんど騒ぎにはならなかったわ。お祖父さんは警察の手に委ねようともしなかった。悪質ないたずらだ、誰がやったのか知らないが、わざわざ肖像画を取り戻そうと手間をかけるほどのことはない、自分の肖像画だったから、また描かせればいい、などと言っていました。
 どうやって絵を盗んだのか知りませんが、お祖父さんはきっとその行方についてなにか知っていたのだと思います。あの絵は今でもあるのかしら。あれは盗みだったのかしら。それともあの人が盗まれないように隠してしまったのかしら。盗んだ人たちがどういう連中なのか、皆目見当がつかないわ。なにせ誰にでも家のなかを見せていますからね」彼女は背筋を伸ばして両手を膝の上にそろえた。白い指に大きな指輪が光っているのが見えた。「わたしが知っているのはそれだけよ」と彼女は話しを終えた。「わたしたちのどちらかが新しい発見でもしないかぎり、もうこの話はしないことにしましょう。相続権の要求なんて、とっくに失効してるか、示談になっているか、もともとなかったか、分かりゃしませんよ。とにかくお祖父さんが生きているあいだはなにも起きないものと考えていいのじゃないかしら。わたしの忠告は、あの人と喧嘩しないこと。長期休暇がきたら、フォーディングを遠く離れたところで過ごしなさい。オクスフォードを卒業したら旅行に出たらいいわ」
 こういうわけで若者はフォーディングを離れ、イスラエル人が荒野をさまよった、その半分ほどの期間をさまよい歩いたのである。家に帰るとしてもごくたまに、束の間、滞在するだけだった。しかし手紙は祖母が生きているあいだ定期的に送りつづけた。たった一度だけ、それも最後に受け取った手紙の中で、彼女は昔の不愉快な話題について言及していた。「今までのところなにも新しいことは見つかっていません。事実無根であったという期待はまだ捨てなくてもいいようです」
 家族の名誉を守るために、国外追放に耐えているのだ、雲形紋章に泥を塗るような誘惑から祖父を遠ざけるために家を離れているのだ、と長いあいだ彼は考え、自分を慰めていた。家門を盲目的に尊ぶのはブランダマー家の伝統であり、青春の夢とともに旅に出た跡継ぎはテンプル騎士団員のように「仕え、守る」ことを誓い、雲形紋章に命を捧げたのである。
 年老いた卿はついに他界した。相続権を奪うという脅しは実行されず、遺言を残さず亡くなったために、孫がその継ぐべき地位を継いだ。戻ってきた新しいブランダマー卿はもはや若くなかった。命知らずの旅を幾年もつづけて顔つきは険しくなり、他人に頼らぬ強固な意志を備えていた。しかし出て行ったときと同じように、戻ってきたときも、彼のまわりにはロマンスが漂っていた。自然の女神は男でも女でも、いったんその人にロマンスを授けることにしたら、その人が一生を終えて死ぬまで、ふんだんにロマンスを与えるものである。病気だろうと健康だろうと、貧しかろうと豊かだろうと、中年だろうと老年だろうと、髪が抜け歯がなくなろうと、顔にしわが寄り手足が痛風に悩まされようと、烏の足跡ができ、二重顎になろうと、はたまた少しもロマンチックではない、人生でもっとも浅ましい境遇に陥ろうと、ロマンスは最後までつづくのだ。その価値はなにものにも代え難い。それは持てる者からなくなることはなく、持たざる者はいくら金を積んでも、どれほど必死の努力をしても、手に入れることができない――いや、それどころか、ロマンスというものをごくおぼろげに理解することすらできないのである。
 新しい卿はすばらしい決意を胸にいっぱい秘めてフォーディングに帰ってきた。放浪には飽き、結婚してこの地に住み着き、財産を享受しようと思っていた。人々のためになることをし、自分が持つ広大な地所を地主たちの模範にしてやろうと思っていた。ところが三週間も経たぬうちに、王位を狙う者がいること、カランには自分こそがブランダマー卿であると主張する夢想家がいることを知った。彼は一度だけこの負け犬の姿を通りで教えてもらったことがある――ブランダマー家の紋章を泥のなかをはいずり回ってまで追い回し、子供たちから雲形じいさんと呼ばれている老いぼれだった。あんな男と土地や屋敷や爵位など、すべてをかけて戦うことになるのか。しかし戦いが現実のものとなる可能性はあった。まもなくこの男が、祖母の生涯と自分の生涯につきまとう実体のない影、つまり本当の跡継ぎであることを知ったのだ。しかもマーチンは欠けている証拠をいつ掴むとも分からない。そのとき死がマーチンの希望に終止符を打ち、ブランダマー卿は再び自由になった。
 しかしそれも長くはつづかなかった。しばらくするとオルガン弾きの老人がマーチンの役を引き継いだと聞いたのだ――面倒のために面倒を起こして、漁夫の利を得ようとする干渉好きな出しゃばりめ。そんな卑しむべき人間に土地や爵位や紋章など何の関係があるのか。しかしこの男はカランでこっそり犯罪だとか、手がかりだとか、やがて訪れる天の報いについて話をしている。ところがそのとき死がシャーノールのおしゃべりに終止符を打ち、ブランダマー卿はまたもや自由になったのだった。
 前よりも長くつづく自由、いや、ついに永遠の自由を手にしたはずだった。彼は結婚し、結婚は彼の安全を保証した。跡継ぎが生まれ、雲形紋章は安泰だった。ところが今、彼を邪魔する新たな異議申し立て者があらわれた。自分はうようよ群がる龍の子供たちと戦っているのだろうか。新たな敵があらわれ出る場所は――比喩をもてあそぶような気分ではなかったので、彼は考えるのを止めた。この若い建築家、その食べ物も、カランでの給料も、彼、ブランダマー卿が大聖堂の工事に必要と思って出した金の中から支払われているこの男が、本当に「復讐者」なのだろうか。みずからが作りだした者に裏切られ、切り裂かれるのか。彼は皮肉なことの成り行きに微笑し、過去のことをくよくよ考えるのを止めた。後悔のかけらがあったとしても、それを圧し殺してしまった。現在を見つめ、状況をはっきりと見極めるつもりだった。
 ブランダマー卿は夕暮れ時にフォーディングに戻り、夕食の前に一時間ほど書斎に引きこもった。後回しにできない仕事上の手紙を何通か書いたが、夕食のあとは妻に本を読んで聞かせた。耳に快いよく訓練された声で、最近雑誌に掲載されはじめた「インゴルビーの逸話集」を朗読し、ブランダマー夫人を楽しませた。
 彼が本を読むあいだアナスタシアは前のブランダマー夫人がやり残した壁掛けの制作に取り組んだ。先代の卿の妻はほとんど外出せず、庭の手入れや凝った刺繍をしてほとんどの時間を潰した。何年もかけてスチュアート王朝期に作られた、虫の食ったつづれ織りの断片を複製していたのだが、彼女の死によってそれらは未完成のまま残っていたのである。女中頭がこのやりかけの作品を見せて、それがどういうものか説明すると、アナスタシアはブランダマー卿に自分が制作をつづけてもよいだろうかと尋ねた。この思いつきは彼も気に入り、彼女は毎晩、心をこめてゆっくりと仕事を進め、ときどき最後のときが訪れるまで同じ手仕事にいそしんだ寂しい老婦人のことを思った。夫の祖母は、彼が親しく付き合った唯一の身内だったらしく、アナスタシアは画家のロレンスによって描かれ、細長い陳列室に飾られている娘時代の彼女の肖像画に強く興味をひかれた。この老婦人がもう一度仕事場に来ることがあるとしたら、きっと彼女はその後継者に満足しただろう。膝の上に着色した絹糸のかせを載せ、高い額の上に暗褐色の髪を波打たせたアナスタシアは凜とした姿で作業台に座っていたのである。深い山吹色のビロードのドレスは、ブランダマー家の昔の貴婦人が肖像画の額縁を抜け出してきたかのような印象を与えた。
 その晩、夫が自制心を働かせたにもかかわらず、彼女は何かがおかしいと直感した。馬丁たちか狩猟場管理人たちか召使いたちのあいだに、何かひどく面倒なことが起きたに違いない。馬に乗って出かけたのはその問題を解決するためだったのだろう。きっと自分には話せないような性質の問題だったのだろう。

 第二十二章

 ウエストレイはつらく、落ちつかない一日を過ごした。気に染まない仕事に手をつけてしまい、その責任のあまりの重さに堪えきれなかったのである。彼をさいなむ不安は、医者から生きるか死ぬかの危険な手術が必要だと宣告された者が感じる不安と同じだった。こうした状況に雄々しく堪える能力は人によって差があるが、本質的に人間は誰でも臆病者である。外科医のメスがもうすぐ生死をかけた最後の戦いに彼を赴かせる、と知りつつ平気でいられる人はいない。ウエストレイの場合もそうだった。手にあまる仕事を引き受け、もしも彼に高潔な志と道徳的責任感がなければ泡を食って逃げ出していたところだ。朝聖堂に行き、仕事に集中しようとしたが、これからしようとしていることを意識から追い出すことはできなかった。石工頭は監督が上の空で、顔の表情がこわばっていることに気がついた。
 午後になるとそわそわした気分はいちだんと烈しくなり、ぼんやりと町の通りや狭い路地をうろつき、気がつくと、黄昏の迫るカル川の岸辺、オルガン奏者が人生最後の晩に足を止めたあの場所に来ていた。鉄柵に寄りかかり、ミスタ・シャーノールと同じように汚れた川を眺めた。女の髪の毛のような暗緑色の浮き草が浅瀬の小さな渦に巻かれて揺れていた。底には毀れたがらくたが汚らしく沈んでいる。じっと見ていると、闇がそれらを一つ一つ隠していき、割れ皿の白さだけが水底でちらちらと光った。
 彼は重罪犯人のように元気なく部屋に戻り、早めに床に就いたのだが、夜が明けはじめるころまで眠りは訪れなかった。空が白みはじめるとともに不安な眠りにつき、大勢の傍聴人が見守るなか、証人席に着いている自分の夢を見た。被告人席には貴族の衣装をまとい、コロネットを頭にいただいたブランダマー卿が立っていた。全員の視線が彼、ウエストレイに注がれていた。激しい敵意と軽蔑をこめた視線だった。しかも峻厳な顔の裁判官によって中傷と誣告の罪を宣されているのはウエストレイのほうだった。傍聴席の人々は足をならし、彼に怒号を浴びせた。はっと目を覚ますと、彼の眠りを破ったのは、郵便屋が入り口のドアをノックする大きな音であることに気がついた。
 下に降りると恐れていた手紙がテーブルの上に載っていた。封を開けることには強い抵抗感があった。はたして筆跡は今でも同じだろうか、と彼はそんなことまで考えかけた。文字が震えているのではないか、インク自体も血のような赤ではないか、彼はまるでそんなことを恐れているかのようだった。ブランダマー卿はウエストレイの手紙に対して感謝を述べていた。もちろん絵と、あなたがおっしゃっていた当家に関わる書類を拝見させていただきたい。厚かましいお願いだが、フォーディングまで絵を持ってきてもらえないだろうか。お手数をかけて申し訳ないのだが、フォーディングの陳列室にはもう一枚絵があり、今回発見されたものと興味深い比較ができるであろうから。何時の汽車で来られるにしても、それに合わせて馬車をお出しする。ご都合さえよければフォーディングで一泊していっていただきたい。
 文面には驚きや好奇心、憤慨や恐れを示すものは何もなかった。実のところ、鄭重きわまりないことば遣いで、いつもよりやや疎遠な感じはしたものの、極端にそうというわけでもなかった。
 ブランダマー卿の返答にいかなる意図があるのか、ウエストレイには想像もつかなかった。いろいろな可能性は考えていた。詐欺師は逃げ出すかも知れないし、口を封じるために気前よく金を使うかも知れない。慈悲を求めて情熱的に懇願するかも知れないし、嘲笑・憤慨しながら否定するかも知れない。しかしさんざん想像を巡らしたにもかかわらず、こんな態度に出られるとは思ってもいなかった。手紙を出してから、はたしてそれが賢明な措置であっただろうかと、彼は疑問に思っていた。しかしそれ以外によさそうなやり方は考えつかなかった。犯罪者に警告を発するなど、おそよ馬鹿げた振る舞いであることは分かっていたが、しかしブランダマー卿には、自分に不利な証拠として使われる前に、自分の家族の肖像や書類を見るなにがしかの権利があるように思えたのだ。その機会を与えたことを後悔はしていない。もっともブランダマー卿が誘いにのってこなければいいがと、切望していたことも事実だったけれど。
 だが、フォーディングに行くことはできない。どんなに正々堂々と戦うにしろそれは無理だ。その点だけははっきりしていた。すぐに断りの返事を書こうと紙を一枚取り出した。自分の家の番地、通りの名前、カラン、そして今度も「御前様」という格式張った呼びかけを使った。そこまではすらすらと運んだ。しかしその後は?何といって断ればいいのだろう。支障になりそうな仕事の約束とか大切な用事があるわけではない。自分の口から一週間は身体があいているから、面会の日取りはブランダマー卿が好きなように決めていいと言ったのだ。彼のほうから面会を申し出ておきながら、今更それを引っこめるのは自分勝手、卑劣の極みである。確かにこの面会のことは、考えれば考えるほど、尻ごみしたくなった。しかしもう避けることはできない。何だかんだ言っても、自分に課した任務のなかで一番容易な部分なのである。これは彼が最後まで演じなければならない悲劇の序幕に過ぎないのだ。ブランダマー卿が、彼の上に降りかかるべき、ありとあらゆる災いに値することは間違いないが、しかしそうはいっても彼、ウエストレイは、おのれの手中にある男の、このささやかな望みを拒否することができなかった。
 そこで彼はおずおずと、しかし別の確固たる目的を心に秘めて、翌日フォーディングへ絵を持っていく旨、手紙に書いた。駅まで出迎えに来る必要はありません。午後到着しますが、夕方にはロンドンに行く用事があるのでせいぜい一時間しかそちらにはいられないのです、と。
 午前中はすばらしい秋晴れだった。朝もやがすっかり消えると、驚くほど暖かい日差しがさして、庭多きカランの、露に濡れた芝生を乾かした。お昼近くになってウエストレイは下宿から駅へむかった。軽く木摺で梱包した絵を脇に抱え、額縁から落ちた例の書類をポケットに入れていた。彼は裏通りを選んで足早に進んだが、地元で銃と釣り竿作りをしているクワドリルの店を通るとき、ふとある考えが浮かんだ。彼は店に立ち寄った。
 「おはよう」と彼は勘定台の後ろに立っている鉄砲鍛冶に言った。「拳銃はあるかい。ポケットに入るくらいの小ささで、おもちゃよりは威力のあるのが欲しいんだ」
 ミスタ・クワドリルは眼鏡を外した。
 「分かりました」彼は瞑想にふけるように眼鏡で勘定台を叩いた。「そうですね。おや、ミスタ・ウエストレイじゃありませんか、聖堂を修復している建築家さんの」
 「そうです」とウエストレイは答えた。「ちょっと実験したいことがあって、拳銃がいるんです。そこそこ重い弾丸が飛ばせるものがいいんですが」
 「なるほどね」と男は安心したように言った。ウエストレイの落ち着いた様子を見て、自殺を図ろうとしているのではないと確信できたのだ。「なるほど、分かりましたよ、実験ですね。それでしたら、素早く銃弾を装填できる特別仕様のやつは必要ないですね。そうでなければこういうのをおすすめするところなんですが」彼は台の上から武器を一つ取り上げた。「こいつはアメリカから輸入した最新式ですよ。回転式拳銃を呼ばれています。四発、お好きなだけ素早く発射できます」彼はどれだけ軽快に動くか、拳銃をカチカチと鳴らして見せた。
 ウエストレイは拳銃に触れ、銃身を見た。
 「うん」と彼は言った。「これは僕の目的にぴったりだ。ポケットに入れて歩くにはちょっと大きいけど」
 「ああ、ポケットに入れるんですか」鉄砲鍛冶はあらためて驚いたように言った。
 「ええ、そう言ったでしょう。持ち歩く必要があるかも知れないから。でも、これでもいいかな。今、弾をこめてもらえます?」
 「大丈夫ですかね」と鉄砲鍛冶は言った。
 「それはきみにこそ聞きたいね」ウエストレイは笑いながら答えた。「まさかポケットの中で暴発しやしないだろうね」
 「とんでもない。その点は大丈夫」と鉄砲鍛冶は言った。「引き金を引かないかぎり発射しません」彼は火薬を注意深く計量し、詰め綿を押しこんで弾を四発装填した。「もっと弾薬がいるようになるでしょうね」
 「だろうね」と建築家は答えた。「でもそれはあとで買うよ」
 リチェット駅を出ると大型の有蓋馬車が待っていた。リチェット駅はフォーディングに行く人がときどき使う街道沿いの小さな駅だ。ここから屋敷まで七マイルほど馬車に揺られるのだが、彼はじっと考え事をしていたため、公園の入り口に馬車が停まるまで、まわりのことを何も意識しなかった。門番がかんぬきをはずすあいだ、彼はしばらく足止めされたのだが、そのとき自分が手のこんだ鉄細工や巨大な門の上の雲形紋章を見ていたことは後になって気がついた。彼はいま長い並木道を進んでいた。この道がもっと長ければいいのに、つきることがなければいいのに、と思ったとき、馬車がまたもや停まり、窓のむこう側から馬に乗ったブランダマー卿が話しかけてきた。
 一瞬の沈黙があり、二人の男はまっすぐ相手の目をのぞきこむことになった。そのまなざしによってどちらの側も、もしや自分の思い過ごしではないかという疑いを捨てた。ウエストレイは裸の真実と顔をつきあわせたかのように強烈な衝撃を受け、ブランダマー卿はウエストレイの心を読み取り、相手がどこまで事実をつかんだのかを悟ったのである。
 ブランダマー卿が最初に話しかけた。
 「またお会いできてうれしいです」あくまで礼儀正しかった。「わざわざ絵をお持ちいただいて感謝します」彼はウエストレイがむかいの席に載せ、手で押さえている木枠を一瞥した。「リチェット駅にお迎えの馬車を送りたかったのですが、お断りになったのは残念です」
 「ありがとうございます」と建築家は言った。「今回は一切お世話になりたくなかったのです」そのことばは冷たかった。また冷たく響くよう意図されたものだった。しかし悲しげな表情が一種の魅力を添えている重々しい顔と、穏やかな態度を見ると、自分の発言をいくらか和らげずにはいられなかった。「その、列車が遅れるかも知れないと思って」
 「わたしは芝生を横切って帰ります」とブランダマー卿は言った。「でも、わたしのほうが先に屋敷に着くでしょう」彼は馬を疾駆させ、ウエストレイはその乗馬術の実に巧みなことを認めた。
 わざとこんなふうに出会いを仕組んだのだな、会見が息苦しくはじまり、決まり悪い思いをすることがないように、と彼は推測した。以前のような友情がもはや維持できないことは明らかだった。このまま会っていたら握手を交わすことなど不可能だったろう。ブランダマー卿にはそのことがきっと分かっていたのだ。
 ウエストレイがイニゴウ・ジョーンズの手になるイオニア式ポーチに足を踏み入れると、ブランダマー卿が横の出入り口からあらわれた。
 「長い馬車旅で身体が冷えているでしょう。ビスケットとワインはいかがです?」
 ウエストレイは召使いが差し出した飲み物を身振りで断った。
 「いいえ、結構です」と彼は言った。「何もいりません」この屋敷で飲み食いすることはできなかった。しかしやはりこう言い添えて語調を和らげた。「途中で食べてきましたから」
 建築家の拒否をブランダマー卿は受け入れた。受け取られないことは話す前から分かっていた。
 「一晩お泊まりいただきたいのですが、ご都合が悪いようですね」と彼は言った。ウエストレイはそれに対する返事を用意していた。
 「ええ、リチェット駅から七時五分の汽車に乗ります。馬車に待っているよう命じておきました」
 彼が言ったのはロンドンにむかう最後の汽車だった。ブランダマー卿は訪問者が何もかも事前に用意をととのえていて、会見が一時間以上はつづかないことを知った。
 「カラン街道駅から夜行郵便列車に乗ることもできますよ」と彼は言った。「馬車でかなりの道のりを行かなければなりませんが、わたしはときどきあれでロンドンへ行きます」
 そのことばでウエストレイは突然思い出した。霧をすかしてカラン街道駅の灯をぼんやり見ながら夜中に徒歩旅行したこと、シャーノールがなくなった晩にブランダマー卿が郵便列車に乗りこんだと駅長が話していたこと。彼は何も言わなかったが、決意がいっそうかたくなるのを感じた。
 「絵の梱包を解くには陳列室が一番便利でしょう」とブランダマー卿は言い、ウエストレイは相手の様子から、そこが邪魔される恐れのない場所なのだろうと判断し、即座に同意した。
 彼らは絵を運ぶ召使いに先導されながら幅が広くて段の低い階段を登った。
 「下がっていい」ブランダマー卿は召使いに言った。「荷を解くのはわれわれだけで十分だ」
 包みと取り除くと、彼らは棚になった陳列室の羽目板の上に絵を載せた。画布からは先代のブランダマー卿が、眼光鋭い灰色の目で二人を見ていた。その前に立つ孫の目とまったく同じ目だった。
 ブランダマー卿は一歩下がって男の顔をじっと眺めた。子供の頃の彼を怯えさせ、その後の人生を翳らせ、いま墓から蘇り彼を破滅させようとしている男。この男自身も窮地に追い詰められたことを理解しているのだろうか。今こそ最後の抵抗を試みなければならない。今はまだ彼とウエストレイだけの問題なのだから。他には秘密を知るものは誰もいない。彼はウエストレイの突拍子もない道義心をよく知っていたし、密かにそれを当てにもしていた。ウエストレイは次の月曜日まで「さらなる一歩を踏み出さない」と書いたのだから、その日まで秘密が漏れることはないだろうし、実際、秘密を聞いた者はまだ誰もいないとブランダマー卿は確信していた。ウエストレイを黙らせることができればすべてが保たれ、ウエストレイが喋ればすべてが失われる。武器や腕力が問題なら、戦いがいずれの勝利に帰するかは火を見るよりも明らかだった。ウエストレイはようやくこのことに気がついて外套の内側の胸ポケットをふくらませている拳銃を心から恥じた。襲いかかるつもりだったのなら、そんな武器を使う時間や余裕はまったくなかっただろうと彼はいま悟った。
 ブランダマー卿は北と南、東と西を旅してきた。世にも奇妙なことを目にし、おこない、生存者はたった一人という戦いに命を賭したこともある。しかし今は血と肉が問題となっているのではない――立ちむかわなければならない相手は原理原則、もしかしたら執行猶予を与えてくれるのではないかと彼が期待をかける原理原則そのものだった。彼は説得も賄賂も受け付けないウエストレイの節義とむかい合わなければならないのだ。見たことがなかったその絵を、彼はしばらくじっと眺めていたのだが、しかしそのあいだも彼の注意はずっと横に立つ男に集中していた。これが最後のチャンスだ――間違いは許されない。彼の魂、あるいは呼び名はともかく疑いもなく肉体ではないものが、相手を支配しようと、ウエストレイの魂に必死の闘争を挑んでいた。
 ウエストレイははじめて絵を見るわけではなかったので、一目見るなり、あとは傍観者のように立っていた。会見は予想していた以上に苦痛に満ちていた。ブランダマー卿の顔を見ないようにしていたが、やがてふとした動きに振り向くと相手と目がかち合った。
 「ええ、これは祖父ですよ」
 どうということのないことばだったが、ウエストレイはある恐るべき告白が自分の意に反して押しつけられたような気がした。まるでブランダマー卿が欺くことを止め、自分に対する告発をすべて暗黙のうちに認めたかのようだった。建築家は今や自分が個人的な敵と見なされているような気がした。それまでそんなふうに考えたことは一度もなかったのだが。絵と書類を偶然手に入れたことは事実だが、彼の行動はいずれも義務感に突き動かされてのものだと思っていた。
 「書類も見せていただける約束でしたね」
 ウエストレイはひどくつらそうに書類を渡した。中身を知っているだけに、わざと相手を侮辱しているようだった。こんな会見の約束などしなければよかったと痛切に思った。その筋にすべてを委ね、報いの降りかかるに任せておくべきだった。こんな会見をしても、後味の悪い思いをするだけだ。おかげで今、彼、ウエストレイは、ここ、ブランダマー卿の屋敷で、卿の父親が非嫡出子で、卿にはこの屋敷を――いや、それ以外の何物をも――継ぐ権利がないことを示す証拠を差し出しているのだ。
 ブランダマー卿にとってもそのような情報が年若い男に握られていることを知ったのは苦々しい瞬間であったはずだ。しかし普段より顔に赤みがさしていたとはいえ、自制心は試練に耐えて憤りを押さえつけた。意味のないことを言う時間も、する時間もないのだ。感情にとらわれている暇はない。あらゆる注意を目の前の男に集中させなければならない。彼は身じろぎもせず書類をじっくりと調べているようだった。実際、何回にもわたる慎重な調査も突き止めることのできなかった名前と場所と日付を読んでいた。しかしそのあいだも一心に次に打つ手を模索し、ウエストレイに考え、感じる時間を与えていたのだ。顔を上げるとまた二人の目が合った。今度はウエストレイが赤くなる番だった。
 「この証明書が本物であることは確認なさったのですね」ブランダマー卿はごく静かに尋ねた。
 「ええ」とウエストレイは言った。ブランダマー卿は一言も言わずそれらを返すと、陳列室の中を反対側にむかって歩き出した。
 ウエストレイは拳銃でほぼ一杯のポケットに書類をくしゃくしゃにして突っこんだ。書類を見えないところに片付けたとき、彼はほっとした。もうそんな物を手に持っていたくはなかったのだ。まるで敗北した戦士が武器を捨てたかのようだった。この書類を見てブランダマー卿は所有するものすべて、土地も命も家門の名誉も敵の手に明け渡したように思えた。弁解も否定も抵抗もせず、まして嘆願などするわけがなかった。ウエストレイはその場の支配を任され、彼がよかれと思うことを何でもやらなければならなかった。この事実は今までにもまして彼の目にはっきりと映った。秘密を握っているのは彼だけなのだ。それを公開する責任は彼にある。彼は呆けたように絵の前に立ち、絵の中からは先代のブランダマー卿が鋭く射抜くような目で彼を見返した。何も言うことができなかった。ブランダマー卿の後を追うことはできなかった。これで会見は本当に終わったのだろうかと思い、次に踏み出さなければならない一歩のことを考えて、嫌な気分になった。
 数ヤード離れたところでブランダマー卿は立ち止まり振り返った。それをウエストレイはついてくるように、という誘いか命令であると理解した。彼らは貴婦人の肖像画の前に立ち止まったが、ブランダマー卿が手を置いて注意をむけさせたのは額縁のほうだった。
 「これは祖母です」と彼は言った。「二つ一組の絵なんですよ。同じ大きさ、額縁の刳形も同じ細紐の交差模様、紋章も同じ位置に描かれています。お分かりになるでしょう?」ウエストレイが黙ったままなので彼はそう付け加えた。
 ウエストレイはもう一度視線を合わせざるを得なかった。
 「分かりますよ」と彼は渋々言った。ミス・ジョウリフの家にかかっていた絵の、一風変わった刳形と大きさを見て、目の前の男がとうの昔にその正体を見破っていたことを彼は知った。彼のもとを訪れ、聖堂の見取り図を調べたり、議論しているあいだも、ずっとブランダマー卿は花の下に隠されているものを、そして身をくねらせる緑の毛虫が雲形紋章の横棒の一つに過ぎないことを、知っていたに違いない。忘れることも、他人に漏らすこともできない告白がウエストレイに押しつけられた。彼は「後生だから、そんなことを言うのは止めてくれ、こんなふうに自分に不利な証拠を差し出すのは止めてくれ」と叫びたかった。
 また短い沈黙があり、ブランダマー卿がくるりとむきを変えた。彼はウエストレイも同じようにむきを変えるだろうと予想していたようだった。耳に聞こえてきそうな静寂の中、彼らは陳列室の柔らかい絨毯を踏みしめ、来た道を戻っていった。空気は運命の予感に満ち溢れ、ウエストレイは息が詰まりそうだった。心は制御を失い、思考は恐るべき混乱の中に呑みこまれていた。ただ一つ残っていたのは頑固な責任感だった。その責任とは義務のように証拠という長いくさりに輪をつなぎ足していくことではない。事件はいま動きを止めており、それを再び動き出させることが彼の唯一なすべきことであり、彼一人にしかできないことだった。耳の中で何週間か前の日曜日にカラン大聖堂で聞いた一節が繰り返されていた。「我神ならんや、爭《いかで》か殺すことをなし生すことをなしえん」。しかし義務は彼に進むことを命じ、結果は分かりきっていたが、彼は進まなければならなかった。彼は死刑執行人の役を演じるのだ。
 彼がその運命を決する相手は一歩一歩静かに彼と歩調を合わせた。一人きりになれる時間がほんの少しあれば、乱れる心を整理することができるかも知れない。彼は他の絵の前に立ち止まり、見つめるふりをしたが、ブランダマー卿も立ち止まって彼を見た。ブランダマー卿に見られていることは知っていたが、視線を返そうとはしなかった。ブランダマー卿としてはただ客に失礼にならぬよう立ち止まっただけのようだった。ミスタ・ウエストレイは絵の中の何枚かに格別の興味を抱くかも知れず、もしも説明が必要ならすぐそれを提供できるよう気を配るのがもてなす者の役割である。ウエストレイはさらに一度か二度立ち止まったが、いつも結果は同じだった。自分の見ているのが肖像画なのか風景画なのか、それすら分からなかった。ただ、陳列室の途中の床に未完成の絵があって、表を壁にむけて立てかけてあることはぼんやりと意識した。
 ウエストレイが立ち止まるとき以外、ブランダマー卿は右も左も見ずに、背中に回した両手を軽く組んだまま歩きつづけた。目を床にむけ、物思いを断ち切ろうとするそぶりも見せなかった。相手が何を考えているのか、理解することも推測することも、とうていできなかったが、その平静で決然とした態度には不本意ながらも感心せずにはいられなかった。ウエストレイは巨人の横にいる子供のような気分だった。しかし、それでも自分の義務を果たすということについては少しの疑問も抱いていなかった。だが何と難しい仕事だろう!なぜ愚かにもこんな絵と関わりを持ってしまったのだろう。なぜ自分のものでもない書類を読んだりしたのだろう。とりわけ分からないのは、疑惑を確かめるためにフォーディングにのりこんで来たことだ。関係もないのに、何だってこんな事を詮索しようとするのか?彼はまじめな人間なら探偵を演じることに対して感じる、口にできないような嫌悪感で一杯だった。他人に宛てた手紙の筆跡や消印を調べても構わないとする、けちで卑劣な考え方にさえ最大限の軽蔑を感じた。しかし彼は知ってしまった。しかも彼だけが知っている。この恐ろしい知識を捨て去ることはできない。
 陳列室の端にたどり着き、彼らはそろってむきを変え、ゆっくり黙っていま来た道を引き返した。時間はたちまち過ぎていった。ウエストレイはフォーディングに来る前に決断を下したのだから、いまさら思い悩むわけにはいかなかった。彼はやり遂げなければならなかった。ブランダマー卿と同じように彼にも逃れる道はないのだ。約束を守ろう。手紙に示した通り、月曜日に何もかもぶちまけるのだ。口火を切れば事件は彼の手を離れる。しかし、そのことを、横で静かに判決を待ちながら歩く男に、どう伝えたらよいのだろう。彼を不安なまま残すわけにはいかない。そんなことは臆病であり残酷だ。自分の意図をはっきり示さなければならない。しかしどのように?どんなことば遣いで?考える時間はなかった。彼らはまた表を壁にむけて立てかけてある絵のそばを通り過ぎた。
 緊張感、計り知れない沈黙がウエストレイの神経に重くのしかかった。もう一度考えをまとめようとしたが、ブランダマー卿のことばかり考えてしまう。手を背中で組み、指一本動かさない彼がどれほど落ち着いて見えることか。一体彼はどうするつもりなのだろう――高飛びするのか、自殺するのか、一歩も引かず最後のチャンスを賭けて裁判に出るのか。世間をわかす裁判になるだろう。おぞましいが避けることのできないいろいろなことがウエストレイの想像の中に浮かんできた。夢に見た、傍聴人でいっぱいの奇妙な法廷、被告人席に座っているブランダマー卿。この最後の光景は彼を嫌な気持ちにさせた。彼自身は証人席にいるだろう。忘れてしまいたい出来事が呼び起こされ、論じられ、長々と説明される。彼は記憶をたどり、陳述し、宣誓しなければならないだろう。しかしそれだけではない。まさに今日の午後起きたことも話さなければならないのだ。伏せておくことはできない。この屋敷の召使いたちはことごとく彼が絵を抱えてフォーディングに来たことを知っているだろう。「このまことに驚くべき会見」について反対尋問される声が聞こえるようだった。どう説明したらよいのだろう。どう説明しようと信頼を甚だしく裏切ることになる。それでも説明しなければならず、しかも被告人席のブランダマー卿に見守られながら証言することになるのだ。ブランダマー卿が被告人席から見守っている。そんなことは耐えられない。できることじゃない。そんなことをするくらいなら彼のほうが高飛びしたいくらいだ。彼はポケットをふくらませている拳銃でみずからの命を絶つことを考えた。
 ブランダマー卿はウエストレイがまるで逃げ場を求めるように右を見たり左を見たり、神経質な仕草を繰り返すことに気がついていた。歩き回りながら相手が手を握りしめ、苦しそうな表情を浮かべているのを見た。絵の前で立ち止まるのは自分を振り切ろうとしているのだと知っていたが、離れようとはしなかった。ウエストレイはじわじわと締め付けてくる力を感じ、一瞬たりとも息をする余裕がないに違いなかった。正確に一分また一分と時の過ぎるのが分かった。彼は意識して耳を澄まし、遠くで時計塔の鐘が十五分刻みに鳴る音を聞いていた。彼らは陳列室の端に戻って来ていた。もう一度歩き回る時間はない。汽車に乗るなら今出なければならない。
 彼らは先代のブランダマー卿の肖像画にむかい合うように立ち止まった。カラン街道駅まで足を運んだあの晩、白い霧が彼を取り囲んだように、沈黙がウエストレイを取り囲んだ。話そうとしたが頭が混乱し、喉はからからだった。自分の声を聞くのが怖かった。
 ブランダマー卿は時計を取り出した。
 「せかすつもりはありませんが、ミスタ・ウエストレイ」と彼は言った。「しかしあと一時間ほどでリチェット駅から汽車が出ますよ。馬車で駅まで行くのにもそれくらいかかります。絵を包み直すお手伝いをしましょうか」
 その声は彼らがベルヴュー・ロッジではじめて出会ったときのように、澄んでいて、穏やかで、礼儀正しかった。沈黙は破られ、ウエストレイは気がつくと早口にこう答えていた。
 「お屋敷に一泊するようお誘いをいただきましたよね。気が変わったので、よろしければお招きに預かりたいと思います」彼は束の間ためらって、こうつづけた。「この絵と書類は、どうぞ、取っておいてください。わたしにはもう用がないことが分かりましたから」
 彼はくしゃくしゃになった紙をポケットから取り出し、顔を上げずに差し出した。
 また二人の上に沈黙が訪れ、ウエストレイの心臓は鼓動を止めた。その状態は、永遠とも思える一瞬の後、ブランダマー卿が短く「ありがとう」と言って書類を受け取り、少し離れた陳列室の隅に行くまでつづいた。たまたま窓の前に立っていた建築家は、横の壁にもたれかかり、何を見るともなく外に目をやった。やがてブランダマー卿が召使いに、ミスタ・ウエストレイがお泊まりになる、ワインを陳列室に持ってくるように、と指示する声が聞こえた。しばらくして召使いは盆にデカンターを載せて戻り、ブランダマー卿がウエストレイと自分のグラスに酒を満たした。おそらく彼は、どちらもそうした飲み物を必要としているのではないかと考えたのだろう。実のところ、その必要は自分よりも相手にとってもっと切実だった。ウエストレイは一時間前にこの屋根の下で飲み食いすることを拒否したことを思い出した。一時間前――何と短い時間のあいだに気持ちが変わってしまったことか。義務も原理原則もかなぐり捨てて!きっとこのグラスの赤ワインは悪魔の聖体に他ならず、これを飲むことで不正の片棒を担ぐことになるのだ。
 グラスを持ち上げ口につけたとき、窓から陽の光が斜めに差しこみ、ワインを血のような赤色に輝かせた。二人はグラスを持つ手を止め、庭園の木々の後ろに沈む真っ赤な太陽を見た。そのとき先代のブランダマー卿の絵に夕日があたり、雲形紋章の緑の横棒がウエストレイの眼前に踊るように照り映えた。まるで命を帯び、再び三匹ののたうつ毛虫になったかのようだった。そしてこの最後の場面の上演ぶりをじっと見つめるように、あの鋭い灰色の目が画布の中から覗いていた。ブランダマー卿はなみなみと注いだ杯にかけて誓いのことばを発し、ウエストレイも躊躇することなくそれに唱和した。忠誠を誓ってしまった彼は、後戻りしないことを示すためには毒すらあおるつもりだった。
 ブランダマー夫人は約束があってその晩は帰りが遅かった。ブランダマー卿は彼女に付き添って外出するつもりでいたが、あとになってから、ミスタ・ウエストレイが重要な用件でやってくると言い、彼女は一人で出かけたのだった。ブランダマー卿とウエストレイは二人だけで夕食の席に着き、建築家は相手の微妙な態度の変化から、知り合って以来はじめて主人が彼を同等の人間として扱っていることに気がついた。ブランダマー卿は気楽な興味深い会話をよどみなくつづけたが、建築の話題には決して近づこうとせず、それを避けていることすら気取られぬように振る舞った。夕食の後はウエストレイを書斎に連れて行き、古い本を見せたり、話術のかぎりをつくして彼をもてなし、くつろがせようとした。ウエストレイはその態度にしばし落ち着きを取り戻し、相手の礼儀に一生懸命応じようとしたのだが、しかし何をやっても味気なかった。彼には分かっていたのだ、真っ黒な「不安」がひたすら彼が一人になるのを待っていて、彼の存在をもう一度支配しようとしていることを。
 日没後に出はじめた風は寝る時間が近づく頃には異常な激しさを伴って吹き荒れた。突風が書斎の窓を打って、またもやがたがたという音がし、暖炉からは何度も煙がふっと部屋の中に吐き出された。
 「わたしは起きてブランダマー夫人を待っています」と主人が言った。「でもあなたは床に就いたほうがいいでしょう」ウエストレイが時計を見るとあと十分で夜中の十二時を指すところだった。広間に入って階段を上がるとき、冷たく吹きつのる風がいっそう強く身体に感じられた。
 「嵐の夜になりましたね」気圧計の前に一瞬立ち止まりながらブランダマー卿が言った。「でもこれからもっと荒れるでしょう。気圧計がとんでもない下がり方をしている。カラン大聖堂の塔には万全の処置をほどこしておかれたでしょうね。この風は弱い部分に容赦なく襲いかかりますよ」
 「このくらいでは聖セパルカ大聖堂はびくともしないと思います」ウエストレイは半ば無意識にそう答えた。仕事のことすら集中して考えることができないようだった。
 大きな寝室には明々と火がともっていたが、肌寒かった。ドアに鍵をかけ、炉端に安楽椅子を引き寄せ、考え事をしながら長いこと座っていた。自覚的に信念に背いて行動したのは生まれてはじめてのことで、そうした場合につきものの反動と後悔が彼を襲った。
 これほど深い憂鬱がまたとあるだろうか。はじめて経験するこの魂の日食ほど暗い夜があるだろうか。正義の本能を黙らせる、このはじめての抑圧ほど暗い夜が。彼は真実を隠すことに手を貸し、もう一人の男の悪事に協力した。その結果、節義という足がかりを失い、誇りを失い、自信を失ったのだ。ここまで来たら、かりに可能だとしても、決心を翻そうとは思わない。しかし、一生背負っていかなければならない罪の秘密が彼の身体にずしりとのしかかってきた。この重さを軽減するために何かをしなければならない。心の苦しみを和らげるために行動を取らなければならない。彼はうちひしがれた。中世であれば修道院がその救済手段になっていただろう。彼は罪を清めるためにすぐにでも犠牲を捧げ、大切なものを投げだす必要を感じた。そのとき何を犠牲にしなければならないのか、彼は悟った。カランでの仕事を辞めなければならない。自分にそう告げるだけの良心がまだ残っていたことに彼は感謝した。あの男の金で行われる仕事には、もはや従事することはできない。会社から解雇されることになろうとも、生計の道が断たれることになろうとも、カランでの仕事を辞めるのだ。彼はイングランドといえども彼とブランダマー卿を包みこむほど広くはないような気がした。罪の共謀者とはもはや会うわけにはいかない。目を合わせると相手の意志が彼の意志をさらなる悪へと強制するように思われ怖かった。明日さっそく辞職願いを書こう。これなら積極的な犠牲、痛々しいけれども更正へむけての確かな折り返し地点、ここから出発すればいつかは自尊心と心の平安をある程度は取り戻せると期待のできる転換点になるだろう。明日さっそくカランの仕事を辞任しよう。そう思ったときいちだんと激しい風が彼の部屋の窓を叩き、彼は聖セパルカ大聖堂の塔のまわりに組んだ足場を思い出した。ひどい夜だ。アーチの細い曲線は巨大な塔がその上で揺れているこんな夜でも持ちこたえてくれるだろうか。いや、明日辞任するわけにはいかない。それは職務から逃げ出すことだ。塔が安全になるまではそばにいなければならない。それこそが彼の第一の義務だ。それが済んだらすぐに辞任しよう。
 しばらくして彼は床に就いたが、眠ることができず、理性の支配していない夢うつつの状態は、外の風よりもっと狂おしい考えを彼の頭に浮かびあがらせた。彼はブランダマー卿の保証人となり、その罪の重荷を肩代わりしたのである。カインの刻印を押されたのは彼のほうであり、それを誰にも知られないよう口を閉ざして隠していなければならないのだ。彼はカランを逃げ出し、荒野にただ一匹放たれた贖罪の山羊として、重荷を背負い、残りの人生を過ごさなければならない。
 眠りの中で「幽暗《くらき》にあゆむ疫病《えやみ》」(註 詩篇から)は重く彼にのしかかった。彼は聖セパルカ大聖堂にいた。そしてオルガンのある張り出しから血が彼の上にしたたり落ちた。どこから落ちてくるのかと顔を上げると、彼を粉みじんに潰さんと、四つのアーチが崩れ落ちてくるのだった。彼はベッドの上に跳ね起きると、灯りをつけて身体に赤い染みがないことを確認した。夜明けとともに彼は次第に平静になった。狂おしい幻想は消えたが、冷酷な事実は変わらなかった。彼は自分を辱めたのだ。自分とは関係のない悪の秘密にむりやり自分を関わらせ、今や永遠にその秘密を守らなければならないのだ。
 いや、違う。僕は本当に自尊心を失ったのか。本当にそれほど罪深い秘密が存在するのか。すべては僕の頭が生み出したまぼろしではないのか。
 ウエストレイは居間でブランダマー夫人に出会った。ブランダマー卿は前の晩、彼女の帰りを広間で迎えた。顔は青ざめていたものの、彼女は夫が二言三言話しかけてくるよりも先に、それまでの数日間、彼の心に重く垂れこめていた心配の雲が、今はすっかり吹き払われてしまったことを見て取った。ミスタ・ウエストレイは用事のためこちらに来られたのだが、嵐が荒れ狂っているので一晩泊まっていくよう説得したのだ、彼はそう事情を説明した。建築家は偶然手に入れた絵を持ってきてくれた、先代のブランダマー卿の肖像画で何年も前にフォーディングから紛失したものだ、取り戻すことができたのは実に喜ばしい、ミスタ・ウエストレイのご尽力には大いに感謝しなければならない。
 その日までいろいろな事件に取り紛れてウエストレイはブランダマー夫人の存在を忘れかけていた。絵の発見以来、かりに彼女のことを思い浮かべることがあったとしても、それは深く傷つき苦しむ女の姿だった。しかし今朝、彼女は驚くほど輝かしい満足の表情を浮かべてあらわれ、つい昨日、彼はもう少しで彼女を絶望の淵にたたき落とすところだったのだと思い身震いした。結婚してから一年間、栄養に気を配った食事をしてきたせいだろう、顔も身体もふっくらしていたが、それまでずっと彼女の特徴だった優雅さは損なわれていなかった。彼女はそのあるべき地位に就いたのだと彼は思い、彼女の振る舞いの気高さを見て、どうしてその出生の真実にもっと早く気がつかなかったのだろうと不思議な気がした。彼女は再会を喜んでいる様子で、握手したときも以前の関係を忘れていないといったようにほほえみ、少しも当惑を見せなかった。彼女が彼のために食事を運んだり、手紙を持ってきたのだとは、とても信じられなかった。
 彼女は、興味深い家族の肖像を取り戻してくれたそうですね、と丁寧に話しかけたのだが、思いもかけず相手がうろたえたので、自分の肖像画をどう思いますか、と質問して話題を切り替えた。
 「昨日ご覧になったと思いますわ」何のことか分からない様子だったので彼女はそうつづけた。「家に届いたばかりで、細長い陳列室の床に立てかけてあるんです」
 ブランダマー卿は建築家のほうを見て、彼の代わりに、ミスタ・ウエストレイはまだご覧じゃないのだ、と言った。それから部屋の中をしんとさせるような落ち着いた声で説明した。
 「表を壁にむけてたてかけてあったのです。額縁もなく、壁にかけていない状態でお見せするわけにはいきません。さっそく額縁を作らせ、かける場所を決めなければ。陳列室の絵を何枚かずらす必要があるでしょうね」
 彼はスネイデルス(註 フランドルの画家)やワウウェルマン(註 オランダの画家)のことを語り、ウエストレイは申し訳ばかりの関心を示したが、実のところ昨日の恐るべき会見の際、時間を計るのに役立った、床に置かれた額なしの絵のことしか考えられなかった。彼はこう推測した。ブランダマー卿はみずから絵の表を壁にむけたのだろう、そうすることで闘争を有利に進めることができるかも知れない武器を意図的に放棄したのだ。ブランダマー卿はアナスタシアの肖像が敵の心に過去の記憶を呼びさまし、自分を援護することをわざと拒否したのだ。「このような加勢も、そのような守り手も必要なときではない」(註 ウェルギリウス「アエネーイス」から)といわんばかりに。
 ウエストレイの憔悴した様子を主人は見逃さなかった。建築家はまるで幽霊の出る部屋で一夜を明かしたようなありさまで、ブランダマー卿は彼が感じている良心の呵責が容易に消えるようなものではないことや、それが墓の中でじっと静かに横たわっていそうにないことを知っていたから驚きはしなかった。彼はウエストレイの出発まで残されたわずかな時間を屋外で過ごすのがよいだろと思い、庭を散歩しましょう、と提案した。庭師の報告によると、昨夜の大風で植木にかなりの被害が出たようです、と彼は言った。南の芝地に生えていたヒマラヤ杉の梢が折れてしまったとか。ブランダマー夫人は、ぜひお供させてください、と言った。彼らがテラスの階段を下りているとき、乳母が赤ん坊の跡継ぎを彼女のところに抱いて連れてきた。
 「あの大風は台風だったのでしょう」とブランダマー卿は言った。「吹きはじめたのも止んだのも突然でしたね」
 朝はしんと静かで、陽の光に満ち、昨夜の混乱と比べるといっそう美しく思われた。雨後の空気は澄み切って冷たかったが、小道や芝生には折れた大枝小枝が散乱し、まだ早い落ち葉が一面を蔽っていた。
 ブランダマー卿は庭の改造について、今していることや、これから予定していることを説明した。魚を入れ直すつもりの古い養魚池や、祖母が造り、死後もそのまま残されている古風なレディース・ガーデンを指さした。彼はウエストレイから受けた計り知れない恩をおろそかに思うつもりも、ないがしろにするつもりもなかった。建築家を庭に案内し、先祖が代々所有してきたこの場所を見せ、最近になってようやく固まった将来の計画を話すことで、彼はいわば感謝の意を伝えていたのであり、それはウエストレイにもよく分かっていた。
 ブランダマー夫人はウエストレイのことが気がかりだった。ふさぎこみ、居心地悪そうにしているように見えたのだ。夫の心から雲が消え去った喜びのあまり、彼女は誰もが自分と同じように幸せであって欲しいと思った。そこで屋敷に戻る道すがら、優しい思いやりからカラン大聖堂のことを話しはじめた。もう一度あの古い聖堂が見たくてたまりませんの。ミスタ・ウエストレイがいつか案内してくれるならこんなにうれしいことはないのですけれど。修復工事はまだ時間がかかるのでしょうか。
 彼らは三人並んで歩くには狭すぎる小道を歩いていた。ブランダマー卿は後ろに下がっていたが、二人の会話が聞こえるところにいた。
 ウエストレイは口早に答えたものの、自分でも何を言おうとしているのか分かっていなかった。修復工事はどうなるかよく分かりません――その、終わるどころか、実を言うと相当時間を食いそうなんですよ。しかしわたしが監督者としてあそこに残ることはないでしょう。そのう、今の仕事を辞めるつもりなので。
 彼は急に黙りこみ、ブランダマー夫人はまたもや不適切な話題を選んだことを知った。彼女はその話を止めて、今度お暇ができたらお知らせのうえ、もっと長く滞在してくださいね、と言った。
 「無理だと思います」とウエストレイは言ったが、親切心から誘ってくれたのにぶっきらぼうな、不作法な返事だったと思い、彼女のほうを振りむいて真剣そのものの表情で、ファークワー・アンド・ファークワーを辞職するつもりなのだ、と説明した。この話題もつづけるわけにいかず、彼女はただ残念ですわ、とのみ言い、心からそう思っていることを目で伝えた。
 ブランダマー卿は今聞いた話に胸を痛めた。ファークワー・アンド・ファークワーのことも、ウエストレイの地位や将来性のことも多少は知っていた――それなりに収入があり、会社の中では出世するだろうと思われていることも。この決断は昨日の会見の結果として突然にくだされたものに違いなかった。ウエストレイは贖罪の山羊のように他人の罪を頭に負い、荒野に放たれようとしている。建築家は若くて未熟だ。ブランダマー卿は静かに彼と話がしたかった。おそらく自分がすべての費用を醵出しているカラン大聖堂の修復工事に、ウエストレイはこれ以上携わることができないと感じたのだろう。しかしなぜ一流の会社を辞めてしまうのか。健康状態がよくないとか、神経衰弱であるとか、肉体だけでなく精神の窮状からも逃れる道を切り開く医者の命令というやつを使えばいいではないか。スペインへ考古学の旅行に行ったり、地中海でヨットを乗り回したり、エジプトで冬を過ごしたり――これらはみんなウエストレイの好みに合うはずだ。非の打ち所なき薬草ネペンテスは道ばたのどこにでも見つけることができる。楽しいことをして忘れるべきなのだ。彼はウエストレイに、いつか忘れるだろう、あるいは思い出すことに慣れてしまうだろう、と安心させてやりたかった。時間は心の傷や肉体の傷を癒すように、良心の傷をも癒す、後悔は感情の中で最も長つづきしないものなのだ、と。しかしウエストレイはまだ忘れたくないのかも知れない。自分の主義に真向から反することをしたのだ。結果に対する責任を取るため、自尊心を回復する唯一の手段として、苦行者が馬巣織りのシャツを着るように、その責任を身にまとう決意なのかも知れない。何を言っても無駄だ。自発的であろうとそうでなかろうと、ウエストレイが罪滅ぼしをするつもりなら、それがいかなるものであれ、ブランダマー卿はひたすら傍観するしかないのである。彼の目的は達せられた。ウエストレイがそれに対してあがないの必要を感じているのなら、あがなわせてやらなければならない。ブランダマー卿には問いただすことも異議を唱えることもできないのだ。彼は代償を差し出すことさえできない。なぜならどのような代償も受け入れられることはないだろうから。
 一同が屋敷に近づいたとき、召使いが彼らを迎えた。
 「旦那様、カランからお使いの方が」と彼は言った。「大切な用件ですぐミスタ・ウエストレイにお会いしたいとのことです」
 「居間に案内してさしあげなさい。ミスタ・ウエストレイはすぐお会いになる」
 ウエストレイは数分後広間でブランダマー卿に会った。
 「カランから悪い知らせが届きました」建築家は急いで言った。「昨夜の強風で塔に無理がかかり、かなり揺れたそうです。ひどく危険な動きがあるようなので、すぐ戻らなければなりません」
 「是非そうしてください。馬車は玄関口に停まっています。リチェット駅で汽車に乗れば、お昼にはカランに着くでしょう」
 この出来事はブランダマー卿をほっとさせた。建築家の注意は明らかに塔に引き寄せられていた。もうすでに道ばたに生える「非の打ち所なき薬草」を見つけたのかも知れない。
 馬車のドアには雲形紋章が描かれていた。ブランダマー夫人は、夫がウエストレイに特別の注意をむけていることに気がついていた。いつも通り礼儀正しかったが、この客への接し方は他の人の場合とは違っていた。それなのに最後の瞬間になって彼は黙りこくってしまい、一人だけよそよそしく離れて立っているように彼女には見えた。両手を後ろに組み、意味ありげな態度だった。しかしブランダマー卿は配慮を示したつもりなのである。今まで二人は握手をしていない。妻や召使いの前で手を差し出し、ウエストレイに握手を強要するような真似は決してするまいと思っていたのだ。
 ブランダマー夫人は自分に理解できないことが起こっていると感じたが、ウエストレイには格別丁寧に別れの挨拶をした。絵のことは直接言及しなかったが、彼には大変世話になったといい、同意を求めるようにブランダマー卿のほうを振りむいた。彼はウエストレイを見てゆっくりと言った。
 「わたしがどれだけミスタ・ウエストレイの寛大さとご親切に感謝しているか、彼はご存じだと思うよ」
 一瞬の沈黙ののち、ミスタ・ウエストレイは手を差し出した。
 ブランダマー卿は心のこもった握手を返し、彼らは最後の視線を交わした。

 第二十三章

 同じ日の午後、ブランダマー卿はみずからカランにおもむき、長年フォーデング一族の事務弁護士を務めているミスタ・マーテレットを事務所に訪ね、一時間ほど主任と私室に引きこもった。
 事務弁護士が事務所として使っている建物は町外れのみすぼらしい一軒家だった。正面には今でも松明の火消しが取り付けられていて、渦巻き模様のある、摩滅した鉄製ドアの上にはランプをぶら下げるブラケットが突きだしていた。薄汚れた場所だったが、ミスタ・マーテレットはこの州の有名な素封家を顧客に持っており、噂によると重要な家庭問題はカリスベリでよりこちらのほうで扱われることが多いらしい。ブランダマー卿は薄汚れた窓を背にして座った。
 「遺言補足書の趣旨はよく理解できました」と事務弁護士は言った。「明日にでも草案をお送りしましょう」
 「いや、いや、これはごく短いものだ。今片付けてしまおう」と依頼人は言った。「思い立ったが吉日だよ。ここには連署する証人もいる。きみのところの主席書記は信頼できる人間だろう?」
 「ミスタ・シンプキンは勤続三十年です」事務弁護士は謙遜するように言った。「その信頼すべき人柄は、いままで疑われたことがありません」
 ブランダマー卿がミスタ・マーテレットの事務所を出たとき陽はだいぶ落ちていた。自分の長い影を前方の歩道に見ながら、彼は曲がりくねる通りを市場のほうへ歩いていった。家々の屋根の上には、夕日を受けてバラ色に輝く聖セパルカ大聖堂の巨大な塔が間近く聳えていた。カランはなんと朽ち果てた町なのだろう!通りにはなんと人影のないことか!確かに通りは奇妙なくらいがらんとしていた。こんなにさびしい様子は見たことがなかった。墓場のような沈黙があたりを支配している。彼は時計を取り出した。この小さな町の住人はお茶を飲んでいるのだろう、と彼は思い、明るい気持ちで、しかも生まれてこのかた味わったことのないような心の安らぎを感じながら歩きつづけた。
 通りの角を曲がると、突然大勢の人だかりが目に飛びこんできた。群衆は彼と大聖堂が見下ろす市場のあいだを埋めつくしていた。何か事件が起きて町中から人が集まってきたものらしい。近くによると、町の住人全員がそこに集められたような混雑だった。とりわけ人目を引いたのは尊大ぶった参事会員パーキンで、その横にはミセス・パーキンと、背の高い、撫で肩のミスタ・ヌートが立っていた。よく太った非国教徒の牧師、ひょうきんな丸顔のカトリックの司祭もいた。豚肉屋のジョウリフはワイシャツにエプロンといういでたちで道の真ん中に立ち、ジョウリフの妻と娘たちも店の前の階段に群がって市場のほうに首を伸ばしていた。郵便局長と局員と二人の配達員が郵便局から出て来ていた。ローズ・アンド・ストーレイ服地店の若い店員は男も女も全員大きな光り輝くウインドウの前にたむろしていた。その中には共同経営者の一人ミスタ・ストーレイの金髪の巻き毛もきらめいていた。もう少し先の方を見ると、修復工事に雇われていた石工や人夫の一団がおり、そのそばには教会事務員ジャナウエイが杖に寄りかかって立っていた。
 そこにいる多くの人々はブランダマー卿の知り合いで、ほかにも一般人が大挙して押し寄せていたのだが、誰も彼に気づく者はなかった。
 群衆にはひどく奇妙な特徴があった。全員が市場のほうを見つめ、どの顔も渡り鳥の一群を見ているように上をむいていたのだ。広場に人はおらず、誰もそこに足を踏み入れようとはしなかった。いや、それどころかほとんどの人は反対の方向に逃げださんばかりに身構えている。にもかかわらず全員が魔法にかかったように聖堂が見下ろす市場のほうをむき、上を見上げているのだ。叫んだり笑ったりおしゃべりする声はなかった。ただ大勢の人が声を潜めて興奮したようにつぶやきをもらすだけだった。
 たった一人動いていたのは荷馬車の御者で、馬と馬車を移動させ市場から離れようとしているのだが、我を忘れた群衆が道を空けてくれないのでなかなか前に進めないでいたのだ。ブランダマー卿は男に話しかけ、何が起きているのかと尋ねた。御者は茫然としたように一瞬目を見開き、質問者が誰か分かると、あわててこう言った。
 「この先に行っちゃいけません、御前様!絶対行っちゃいけません。塔が崩れてきているんですよ」
 ほかの全員を縛り付けていた魔法がブランダマー卿にも降りかかった。目は恐るべき磁力で市場を見下ろす巨大な塔に引きつけられた。幅の広い段壁を持つ控え壁、透かし彫りと垂直様式の狭間飾りが施された鐘楼の二つの窓、狭間胸壁、天を突く小尖塔の群れ、これらが夕日を受けて柔らかく淡紅色に光っていた。ヴィニコウム修道院長が完成した建物をはじめて見て、よきかなと神をたたえたあの日にも勝るとも劣らぬ美しさ、見事さだった。
 しかしこの静かな秋の夕暮れ、塔はその壮麗な外見にもかかわらず、何か恐ろしい異変に見舞われていた。コクマル烏はそのことに気づき、狂ったように鳴きながら、大群をなして住み慣れた巣のまわりを旋回し、沈みかけている日の光のなかに羽をひらめかせ、群れの形を変えつづけた。市場にもっとも近い西の側面を見ると、いくつもの石の継ぎ目から白い粉が流れだし、墓地にむかって、まるでスイスの大滝の水しぶきのように降り注いでいた。それはまさに死に際の苦しみに悶える巨人の汗だった。崩壊しつつある石造建築から漆喰がすりつぶされて流れ出したのだ。ブランダマー卿にはそれが砂時計のなかを流れ落ちる砂のように見えた。
 そのとき群衆は一斉にうめき声をあげた。胸壁の下の、角に取り付けられていたガーゴイルの一つ、三世紀のあいだ身体を突き出し、墓地をにやにやと見下ろしていた悪魔の彫像の一つが壁から剥がれ落ち、下の墓地に粉々に砕け散ったのである。束の間の沈黙があり、それからまた傍観者たちのささやきが始まった。誰もが短く、一息にしゃべった。まるで言い切ってしまう前に最後の崩壊が起こるのではないかと恐れているかのようだった。教区委員のジョウリフは何かを待ち受けるような沈黙を差しはさみながら「われらがただなかに下されし天罰」などとつぶやいた。主任司祭はジョウリフが黙っているあいだ、反論するかのように「シロアムの櫓たふれて、壓し殺されし十三人」(註 ルカ伝から)などと言った。ミス・ジョウリフがときどき来てもらっている家政婦の老婆は両手を握りしめ、「ああ!何ていうことでしょう!何ていうことでしょう!」と言い、カトリックの司祭は低い声で何やら祈りを唱え、その合間に十字を切った。そのそばに立っていたブランダマー卿は、「ゆけよかし」とか「百合のごとく輝ける」とか臨終の祈りのことばを二言三言聞いた。それはヴィニコウム修道院長の塔が、その影のもとに暮らす人々の胸の中に、かけがえのないものとして生きていることを示していた。
 そのあいだも白い粉が絶え間なく手負いの建築物の側面から吹き出していた。砂時計の砂は急速に流れ落ちていく。
 石工頭がブランダマー卿を見て、近づいてきた。
 「昨日の晩の大風のせいですよ」と彼は言った。「今朝来てみたら、危ない状態になっていることが分かりましてね。ミスタ・ウエストレイは昼から塔にあがって打つ手がないかと調べていたんですが、二十分前にいきなり鐘楼に入ってきて『外に出ろ、みんな。急げ、もうだめだ』っていうんですよ。土台が弛んできているのです。ほら、外壁の基部が動いて北側の墓地の墓を押し上げているでしょう」彼は塔の土台におされてめくれあがった、ぐちゃぐちゃの芝生と墓石、そして墓地の地面を指さした。
 「ミスタ・ウエストレイはどこだね」ブランダマー卿は訊いた。「ちょっと話があるといってくれ」
 彼はまわりを見回し建築家を探した。群衆の中にその姿が見つからないのでおかしいと思った。まわりに立っている人々はブランダマー卿のことばを聞いていた。カランの人々はフォーディングの領主をまるで全知全能であるかのごとく見なしていた。アヤロンの谷でヨシュアが太陽の運行を止めたように、塔にむかって、動きを止めよ、倒れるな、と命令することはできなくても、きっと大惨事を回避する名案を建築家に授けることができるはずだ。建築家はどこにいるのだ?彼らはいらいらと尋ねた。ブランダマー卿が呼んでいるのにどうしておそばにいないのだ?どこに行った?次の瞬間ウエストレイの名前はすべての人の口にのぼった。
 ちょうどそのとき塔から声が聞こえてきた。鐘楼の鎧窓から、その高みにもかかわらず、コクマル烏のやかましい鳴き声を通して、はっきりと一語一語が明瞭に聞こえてきた。ウエストレイの声だった。
 「鐘楼に閉じこめられた」とそれは叫んだ。「ドアがふさがっている。頼む!金梃を持ってきてドアを壊してくれ!」
 そのことばには絶望がこもっていて、聞く者に恐怖の戦慄を与えた。群衆は顔を見合わせた。石工頭は額の汗をぬぐった。彼は妻と子供のことを考えていた。するとカトリックの司祭が進み出た。
 「わたしが行こう」と彼は言った。「わたしに家族はないから」
 ブランダマー卿は何か他のことに気を取られていたようだったが、ふと司祭のことばを聞いて我に返った。
 「何を言うんだ」と彼は言った。「わたしの方が若いし、あそこの階段を登りなれている。梃をよこしたまえ」
 大工の一人がばつが悪そうに梃を渡した。ブランダマー卿はそれを受け取ると大聖堂の方へ急いで駆けていった。
 石工頭がその背中に呼びかけた。
 「御前様、開いてるドアは一つだけです――オルガンのそばの小さいやつです」
 「ああ、知っている」ブランダマー卿は叫び、聖堂の角を曲がって姿を消した。
 数分後、彼は鐘楼のドアをこじ開けた。自分の方にむかってドアを引き開け、その後ろで階段の上に立ち、ウエストレイが下に逃げられるように道を空けた。ブランダマー卿はドアの後ろに隠れていたから、二人の男は目を合わせることがなかった。ウエストレイは助けてくれた相手に礼を言いながらも、すっかり動転していた。
 「全速力で走れ!まだ助かった訳じゃないぞ」ブランダマー卿が言ったのはそれだけだった。
 若者は脇目もふらずに階段を駆け下りた。ブランダマー卿はドアを前に押し、急ぎもせず、慌てもせず、いつもの修復工事の視察から帰るかのように階段を下りた。
 ウエストレイは聖堂の中を駆け抜けたあと、歩道に横たわる漆喰の山と石の残骸の間を縫って進まなければならなかった。南袖廊のアーチの上から壁の表面が剥がれ落ち、落下の際に床をぶち抜いて地下納骨所にめりこんでいた。頭の上では黒い稲妻に似た、あの不吉な割れ目が、洞穴のような大きさに広がっていた。聖堂は不気味な声、奇怪なうめき声、うなり声に満ち、あたかも亡くなったすべての僧侶の魂がヴィニコウム修道院長の塔の崩壊を泣き悲しんでいるかのようだった。石が砕け、木材が折れる、鈍く重々しい、うなるような物音がしたが、建築家の耳にはそれを圧するようにアーチの叫び声が聞こえていた。「アーチは決して眠らない。決して。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」
 外では市場の人々が固唾をのんで見守っていた。手負いの塔は側面から相変わらず白い粉を吹き出していた。六時だった。十五分おきの鐘が鳴り、一時間おきの鐘が鳴った。最後の鐘が鳴り終わるよりも先にウエストレイが広場に走りこんできたが、人々はブランダマー卿の安全が確認されるまで歓声を上げるのを待った。鐘が「バーモンジー」を鳴らしはじめ、無数の輝かしい晴れた夕方と同じように澄んだ朗らかな音が響きわたった。
 とたんにその調べは途切れた。耳障りな音が入り乱れ、テイラー・ジョンが低く唸り、ビータ・マリアが甲高い悲鳴をあげた。大砲のような轟音、地を揺るがす振動が走ったかと思うと、白い埃が濛々と立ち昇って、崩れ落ちた塔の残骸を野次馬たちの目から隠した。

 エピローグ

 同じ日の夕方、英国海軍エニファー中尉はコルベット艦ソウルベイ号でイギリス海峡を渡り中国海ステーションにむかった。彼はブルティール家の次女と婚約していたため、恋人が住む古い町のそばを通るとき、そちらのほうに望遠鏡をむけた。彼は航海日誌に、空気は澄み、船は沿岸から六マイルしか離れていないのにカラン大聖堂の塔が見えなかったと記した。レンズを拭き、他の士官に呼びかけて昔からの航海目標がなくなっていることを確認した。彼らは白いものが濛々と立ちこめているのを見ただけである。それは煙なのかもしれないし、土埃なのかもしれないし、町にかかる霧なのかもしれなかった。あれは霧に違いない、きっと大気の異常現象で塔が見えなくなってるのだと彼らは言った。
 エニファー中尉が塔の崩壊の知らせを聞いたのはそれからほんの数ヶ月後のことだった。五年後帰還のために再びイギリス海峡を通ったとき、昔からの航海目標はもう一度くっきりと姿をあらわした。以前よりもやや白っぽく見えたが、しかし昔と変わらぬ塔であった。塔はブランダマー夫人が工事費を全額負担して再建されたのだった。地下室には人命救助の最中に塔の中でみずからの命を失ったホレイシオ・セバスチャン・ファインズ、すなわちブランダマー卿をしのぶ真鍮の銘板がかけられていた。
 再建工事はミスタ・エドワード・ウエストレイに委ねられた。ブランダマー卿はその死のほんの数時間前に遺言補足書で彼をブランダマー夫人と共に、幼い跡継ぎの管財人かつ後見人に指定していた。


 後記

 この翻訳は The Nebuly Coat by John Meade Falkner (Steve Savage Publishers Limited) を底本にしましたが、誤植がいくつかあるため、LibraryBlog 所収のテキストと照合しながら作業を進めました。

 翻訳に当たって以下の本から訳文をお借りしたり、わたしの責任で一部字句を変えて引用しました。ここに記して感謝します。

 「テニスン詩集」西前美巳編 岩波文庫
 ウェルギリウス「アエネーイス」岡道男・高橋宏幸訳 京都大学学術出版会
 旧新約全書 神戸 英国聖書会社
 ウェルギリウス「牧歌・農耕詩」河津千代訳 未来社
 「キリストにならいて」大沢章・呉茂一訳 岩波文庫
 ジョン・ミルトン「失楽園」平井正穂訳 岩波文庫
 「ミルトン詩集」才野重雄訳注 篠崎書林
 「ホラティウス全集」鈴木一郎訳 玉川大学出版部

 また訳出の際、The John Meade Falkner Society から出ているニューズレター(特に2002年5月ニューズレター9号に掲載された David Rowlands 氏の Bell-ringing in _The Nebuly Coat_ は十九章のピールの記述に誤りがあることを指摘しており、門外漢には非常に参考になります)、および Edward Wilson 氏の
Literary Echoes and Sources in John Meade Falkner's _The Nebuly Coat_ (The Review of English Studies, Feb., 1997)
を参照し、大いに教えられるところがありました。煩瑣になることを避け、本文にはできるだけ註をつけないようにしましたが、本書に関心のある方は Wilson 氏の論文を一読することをお勧めします。この論文を閲覧させてくださった札幌市立大学の図書館に感謝します。

 本書は建築、音楽、宗教に関する作者の蘊蓄を傾けた本で、背景を確認するために多くの本を参考にし、いろいろの人から貴重な情報をいただきました。いちいちお名前は記しませんが、ここに厚くお礼申し上げます。しかし、それにもかかわらず不明の箇所がいくつか残ってしまったのは、ひとえにわたしの力不足のせいです。また専門用語の使い方に不自然なところや間違いがあるかも知れません。ご指摘いただければ訂正していきますので、ご教示の程お願いいたします。





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