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Title: 友情
Author: Mushanokoji, Saneatsu, 1885-1976
Language: Japanese
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Copyright Status: Not copyrighted in the United States. If you live elsewhere check the laws of your country before downloading this ebook. See comments about copyright issues at end of book.

*** Start of this Doctrine Publishing Corporation Digital Book "友情" ***

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Title: 友情 (Yūjō)

Author: 武者小路実篤 (Saneatsu Mushanokoji)


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Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the
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Eg. 其《そ》

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characters.
Eg. 十三|年目《ねんめ》

[#...] explains the formatting of the original text.
Eg. [#ここから3字下げ]
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友情
武者小路実篤

上 編

 一

 野島が初めて杉子に会ったのは帝劇の二階の正面の廊下だった。野島は脚本家をもって私《ひそ》かに任じてはいたが、芝居を見る事は稀《まれ》だった。此日も彼は友人に誘われなければ行かなかった。誘われても行かなかったかも知れない。その日は村岡の芝居が演《や》られるので、彼はそれを読んだ時から閉口していたから。然し友達の仲田に勧められると、ふと行く気になった。それは杉子も一緒に行くと聞いたので。
 彼は杉子に逢ったことはなかった。しかし写真で一度見たことがあった。それは友達三四人とうつした十二三の時の写真だったが、彼はその写真を何気なく何度も何度も見ないわけにゆかなかった。皆の内で杉子は図ぬけて美しいばかりではなく、清い感じがしていた。彼はその写真を机の前に飾っておいたら、きっといい脚本がかきたくなるだろうと思った。しかし彼は仲田に写真をくれとは云えなかった。そして其後仲田の処へ行ってももう一度その写真を見せてもらうことは出来なかった。そして当人にも逢うことは出来なかった。一度、声を聞いたことがあるように思った。しかしそれは杉子ではなく、杉子の妹の声だったかも知れなかった。
 彼が帝劇に行った時はまだ少し早かった。彼は廊下に出て今に仲田が妹をつれてくるかと思った。それを心待ちしていたが、若い女をつれてくる男が仲田ではないと返って安心もした。
 彼はその時、村岡が友達二三人と何か声高に話しながらくるのに出あった。彼は村岡とはある会で一度あったことがあるが、目礼をしたりしなかったりする間がらだった。そしてこの頃は逢っても知らん顔をすることを努めていた。それは彼が村岡のものをよく悪口云ったからである。今日やられる芝居も彼は公にではないが、可なり悪口云った。元よりそれは文学をやる仲間同士で云ったので法科に行っている仲田とは殆んど文学の話はしなかった。仲田は彼が村岡のものを嫌っているなぞと云うことは知らなかった。新らしいものだから、それに評判のいいものだから、彼もきっと見にゆくだろうときめていた。それで説明掛位に彼をつれて芝居を見ようと云うのだった。彼はそれに気がついてはいた。そしてそれを迷惑にも思った。しかし断る気にはなれなかった。
 彼は村岡と顔を見合せた。両方がお辞儀したそうにも見えた。しかしどっちも自分の方からさきにお辞儀しようとはしなかった。お世辞のように思われるのもいやだったのだろう。或は先にお辞儀して相手に見くびられるのがいやだったのだろう。少なくとも村岡は彼より四つ五つ上で、世間にももう認められていた。彼は五つ六つ短かい脚本をかいたが、誰にも顧みられなかったのは事実だ。しかし彼は自分の方から頭をさげるには、相手を軽く見ていた。
 とうとうお辞儀せずに村岡は通りすぎた。彼がふとふり返った時、村岡は友達と彼の方をふり返って何か云っていた。
「あれが野島だよ」
「あれか。くだらない脚本をかく奴は」
 そんなことを云っているように思った。そして急に不快を感じながら顔をそむけると、向うから仲田が、妹の杉子とやって来た。
 写真よりはずっと大人らしくなったと思った。だが若々しく美しかった。
「もう、君は来ていたのか」
「ああ、少し前に」
「之《これ》が野島君だ。僕の妹だ」
 二人は黙って丁寧にお辞儀した。

 二

 野島は杉子とは殆んど話をしなかった。杉子が芝居を感心して見ているらしいのに不愉快を感じた。しかしそれは無理もないとも思った。仲田も感心しているようなことを云ったが、それはむしろ彼にたいするお世辞のように見えた。
「やはり新らしいものは、我々に近い感じがするね」
 そんなことを仲田が云った時、彼は別に反対する気にはなれなかった。
「飯を食おう」
 仲田はそう云って先に立って行った。三人は向いあって飯を食った。仲田の妹は野島のいるのを別に気にはしていないらしかった。しかし殆んど饒舌《しやべ》らなかった。そして二人の話を別に注意して聞いてもいなかった。それよりは同じ齢《とし》頃の女の人が居ると、その女の方を注意しているようだった。
 野島はそうはゆかなかった。彼は杉子の誰よりも美しいことを感じた。そして杉子のわきにいることをこだわらないではいられなかった。いつも仲田には無遠慮になんでも云えた彼が、今日は何一つこだわらずには云えなかった。村岡のものの悪口も彼は思い切って云えなかった。しかし彼は心のうちによろこびを感じた。そして呑気《のんき》なこと許《ばか》り、いつもより調子にのって饒舌った。それが又彼には卑しいようにも思えたが、心のよろこびはややもすると言葉となって、あふれ出て来た。そして杉子が少しでも笑うと彼は幸福を感じた。やがて幕のあくリンが聞えても彼はいつまでも其処《そこ》に腰かけていたかった。
 しかし杉子はあわてて立った。
 二人もあとをついて芝居を見に行った。彼はもう芝居は気にならなかった。ただ何げなく杉子の顔を見る機会をつくることに苦心した。ここに自然のつくった最も美しい花がある。しかも自分の手のとどくかも知れない処に。しかし彼は杉子とは一言も話す機会をつかめなかった。ただ兄と話すのを聞いて、快活な、思ったことは何んでも平気で云う質《たち》だと思った。そしてはっきりものを云う頭のわるくない女だと思った。
 次の幕の間に彼は、とうとう聞いた。
「君の妹さんはおいくつだ」
「十六だ。まだ本当の子供だ。背許り大きいが」
「そうか、僕はもう十七八位かと思った」
 彼は本当はもう十九か、二十ではないかと思っていた。十六ならまだ安心だ。自分と七つちがいだ。自分が少し有名になる時分に、丁度十九か、二十になっている。
 彼はそんなこと迄考えていた。彼は女の人を見ると、結婚のことをすぐ思わないではいられない人間だった。結婚したくない女、結婚出来ない女、これは彼にとっては問題にする気になれない女だった。
 そう云う女にいい女がいると彼は一種の嫉妬《しつと》さえ持ち兼ねなかった。女は彼にとっては妻としてより他、値のないものだった。結婚が彼にとってすべてであった。女はただ自分にだけたよってほしかった。
 そう云う彼が杉子を見て、すぐ自分の妻としての杉子を思うのは当然であった。彼はそう云う女を求めていた。そして杉子がそう云う女ではないかと私《ひそ》かに思っていた。ところが事実は理想的以上に見えた。自分には少し勿体なすぎるようにさえ思えた。そして仲田が、その女を自分の妹あつかいし、馬鹿にしているのを勿体ないことをする奴だ位に感じた。
 その晩、帰っても杉子のことを思わないわけにはゆかなかった。

 三

 二三日たっても彼は杉子のことを忘れなかった。反って益々理想化して来た。彼は自分の心の平静を失いかけた。次の日曜の朝に彼は仲田の処に出かけて見たが、杉子らしい声さえ聞えなかった。彼は仲田と話しても杉子のことに気をとられて、つい仲田の云うことを聞きもらすことさえ多かった。そして何となくおちつかなかった。仲田とはロシヤの過激派について話していた。
「食うに困れば人間はなんでもする。日本だって今よりせめて倍も米が高くなれば黙っていたって皆、過激派になる。圧迫し切っても、何処かにすきはあるものだ。ロシヤに過激派の起ったのは当然だ。又それに反対するものの出るのも当然だ。当然と当然がぶつかって、殺しあうのも当然だ。だがそれで益々米がたかくなるのも当然だ。この当然を何処かで切りぬけて、皆に飯を食えるようにするのが問題だ。まあ、見ているより仕方がない」
 仲田はそんな事を云っていた。
「当然だが、段々血なまぐさい方に、加速度に進んでゆきそうだ。それも当然だ。しかしもう皆、平和にあこがれているだろう。今偉大な人間が出て来て、それが民衆の希望と一つになれば大したことが出来る。しかしそれは想像以上の事実で、ロシヤには人物も沢山いるだろうから、今に事実によってある解決を与えてくれるだろう。その解決を与えてくれるもので、世界の思想が、大きな影響を受けるだろう。自分はレニンや、トロツキー以上の人物が今に頭をもちあげると思う。何処か思いもかけない処で」
 野島はそんなことを云ったが、心はほかにあって、いつものように興奮することは出来なかった。何かもの足りない。何かおちつかない。彼は立ったり、坐ったりした。いろいろの本をもちだしてはひろいよみした。
「君はどんな人間を尊敬する」
 仲田は不意にそんなことを聞いた。
「君の妹さんのような方を」と彼はふと云いたくなったが、まさか口には出せなかった。
「僕は、やはり、正義の観念の強い、意志の強い、信じることを行う人間が好きだ。しかし出来るだけ他人の運命を尊敬するものが好きだ。何と云ったって聖人や、神のような人は偉い、一時的の波瀾の為に浮き沈みする人間は尊敬することは出来ない。それから惨酷《ざんこく》な冷たい人間は嫌いだ。いつも損をしないこと許り考えているものも嫌いだ。何処かに人間の面白みが出なければ」
 この時、隣りで杉子らしい笑い声が聞えた。しかしそれはすぐ消えて、向うの室《へや》に行ったらしかった。
「君の理想はどうだ」
「僕は迷っている。今の政治家の考え、今の法律の基礎は随分|白蟻《しろあり》にたかられている気がするよ。之《これ》からの政治家はどう手をつけていいかわからない。目的は世界中の平和、人類の幸福にあることはわかっている。それを又乱さずに国民の幸福を樹立しなければならないこともわかっている。富の不平均も、殊《こと》に食えない人間の運命を今のままにしておくことのよくないことも知っている。しかしそれをどうしたら一番いいか、それはわかっているようでわかっていない。第一官吏になる気もしないし、実業家になる気もしない。学者になりたい気もするが、嵐のなかにじっとおちついて室にこもっているのが、本当か譃《うそ》かもわからない。実際、今の法科の学生は自覚をちゃんとつかんでいる人は少ないだろう。何かに動かされてはいるだろうが、それで皆議論は多いがね」
 仲田は野島がうわの空で聞いているのがわかったか、話をぷつっとやめた。
「なんでもいいさ。ぶつかればわかるだろう。皆その人のもっている価値だけきり発揮出来ないのだからね」

 四

 野島は昼迄いて、仲田の家を辞した。杉子にはとうとう逢えなかった。彼はなんだかものたりない気がして四つ角を右に曲った。すると十五六間さきから杉子が、生花をならいに行った帰りと見えて葉蘭《はらん》を油紙につつんで持って帰ってくるのに出あった。彼は不意なのでびっくりして、立ちどまった。そして気がついて歩き出した時分に、杉子は近づいて来て少し微笑《ほほえ》み加減にあいさつした。彼もあわてて丁寧にお辞儀した。彼は何か話しかけたかった。しかし言葉は出なかった。
 杉子は通りすぎた。彼は夢中で、二三十歩歩いてふりかえった時、もう杉子の姿は見えなかった。しかしこの僅《わず》かなことが、急に彼を別人のように快活にさせた。
 物質論者に云わすと、ここに何かしらない物質が、恋する者から厚意を見せられると、血管のなかに生ずるらしい。人はその時|自《おの》ずと快活にならなければならない。野島は二十三にはなつていたが、女をまだ知らなかった。
 野島はこの気持を自家に帰ってももっていた。そして誰かに杉子のことを讃美して話したい気になった。彼はもう杉子のいる人生を罵《ののし》る気にはなれない。彼は自然がどうして惜し気もなくこの地上にこんな傑作をつくって、そしてそれを老いさせてしまうかわからない気がした。
 ともかく彼は日本の女の内に、殊に自分の近い処に、杉子のような女のいることを讃美し、感謝したい気になった。日記にこんなことをかいた。
「人生は空かも知れないが、そして色即是空かも知れないが、このよろこびは何処《どこ》からくる。このよろこびを我等に与えてくれたものに、讃美あれよ」
 彼は家にじっとしてはいられなかった。何処かに行かないと、おちつかない気になった。彼は一番親しい大宮を訪《たず》ねることにした。
 うちにいるといいがと思ったら、やはりうちにいた。その友は小説をかいて少しずつ世間に認められて来、彼のものよりはいつもほめられていた。この事は彼を時に淋しくさせた。しかし大宮との友情はそれで傷つけられるわけはなかった。お互に尊敬していた。大宮は殊に彼の作物に厚意を見せ、世間が悪口を云う時は、淋しがる彼を慰めることに骨を折った。野島はそのことを思うと涙ぐみたい気さえした。彼が当時自信のある作をあつめて本を出した時も、大宮が自分の本でも出すように骨折ってくれた。そしてその本が或人からさんざん悪口云われた時、大宮は彼を祝して、
「君は前に復讐を受けているのだ。君程よわらなくっていい人間はないと思う」
と云ってくれた。彼はその時、泣きたい程大宮の友情に感じた。そして大宮を自分の知己としてその期待を辱《はずかし》めたくないと決心した。二人はお互に慰めあい、鼓舞しあった。勿論、ある時は、お互に手きびしく批評しあって腹を立てあったこともあったが、すぐなおって、反って相手の云うことが尤《もつと》もだと気がついてあとで心のうちで感謝し、なお友情のますのをおぼえた。
 大宮は彼が来たのを喜んだ。そして今まで読んでいた内村さんの本などを見せた。大宮は内村さんのものを愛読していた。
 大宮の書斎には以賽亜《イザヤ》の四十章の、
 「然《さ》れどエホバを挨《まち》望むものは新なる力を得ん。
  彼等は鷲《わし》の如く翼を張りて登らん。
  走れども疲れず、歩めども倦《う》まざるべし」
と云う字が新にかかれてピンではってあった。野島はそれを見て充実し切った、力強い言葉だと思った。

 五

 彼はしかし杉子のことを云い出す機会がなかった。又云おうかと思うと同時に云いたくない気もした。
 二人は文壇の話や、自分達の仕事の話や、読んだ本の話などした。そして自分達のしなければならない仕事の困難な、しかし希望の多い話をした。
 この時、大宮は今朝ある雑誌から小説をたのみに来たと話した。その雑誌は有名な雑誌で、その雑誌に小説を出すと、小説家としての存在を世間に知られることになるのだ。
 彼はその話を聞いた時、やはり少し淋しくなった。物質論者ならば、その一言で野島の脳のなかに何か毒素が生れたと云うにちがいない、野島もまたそんな気がした。嫉妬、そんな名のつく。彼はそれに打ち克《か》とうとした。又友の成功は自分達の成功を意味するものだとも思っても見た。しかし毒素はどいてはくれなかった。自分は実際自分を信じているが、彼は自分に時々不安を感じないわけにはゆかなかった。大宮はそれにすぐ気がついたらしかった。大宮は、
「こないだ津田にあったら君のものに随分感心していた」
と云った。此一ことは彼の毒素を消滅させるのに最もききめのある注射だった。彼は自分ながら情けない程、他人によって自分の気分があがりさがりするのに気がつかないわけにはゆかなかった。彼は大宮と希望のある話をし、そして大宮の今度その雑誌に出す作のいいことを信じ、そして自分達の勝利の道が近づきつつあることを祝した。
 帰りに彼は自分の人格のあまり上品でないことを反省した。自分は杉子の夫に値しないものだ、勉強しなければと思った。
 彼は自分にたよるものを要求していた。自分を信じ、自分を讃美するものを要求していた。そして今や、杉子自信にその役をしてもらいたくなった。杉子は彼のすることを絶対に信じてくれなければならなかった。世界で野島程偉いものはないと杉子に思ってもらいたかった。彼の仕事を理解し、讃美し、彼のうちにある傲慢《ごうまん》な血をそのままぶちあけてもたじろがず、かえって一緒によろこべる人間でなければならなかった。
 しかし彼は自分を顧みる。そして自分の尊敬する人々のことを思う。自分の力なきものだと云うことをあまりに露骨に知らないわけにはゆかなかった。まだ二十三だ。しかしそんなに偉い素質があるだろうか。ただ自惚《うぬぼれ》にすぎなくはないか。
 彼は日本の文壇の先輩を心私かに軽蔑していた。しかし自分の現在の仕事を思うと、彼等以上とは云えない気がした。
 彼はイプセンや、ストリンドベルヒ、トルストイ、そんな人のことを思うと情けない気がした。自分が一体文学をやるのさえ、僣越《せんえつ》なのではないかと思った。
 世界には嵐が吹きまくっている。思想の嵐が。その真唯中に一本の大樹として自分が立ち上って、一歩もその嵐に自分を譲らない、その力がほしかった。
 そしてその力を与えてくれるのは。
 杉子だ。杉子が自分を信じてくれることだ。
「妾《わたし》はあなたを信じています。あなたは勝利を得る方です。あなたの誠実と、本気さは、あなたをどこまでも生長させます。淋しい時は妾がついています。しっかり自分の信ずる道をお歩きなさい。あなたの道は遠く、あなたは馬鹿な人からは軽蔑されます。だがあなたはあなたでなければ出来ない使命をもっていらっしゃいます」
 こう云ってくれたら。あの美しい、清い、生々した、純粋な杉子から。
 彼は先ずその資格をつくりたいと思った。
「杉子はまだ若い。四年たてば俺だって今の俺ではない」

 六

 彼はそんなことを思っては見たが、杉子を十六だとは思えなかった。そして十七八で結婚しないとも限らない。杉子は男の注意を惹《ひ》かないには美しすぎる。誰か杉子を見て心を奪われない男があろう。仲田の友達は可なり多い。それ等が杉子に気がつかないわけはない。そう云えばいつか仲田が妹に手紙をよこした不良青年があるように云っていた。彼は不安を感じないわけにはゆかなかった。彼は恋するものの不安を感じないわけにはゆかなかった。
 彼にも一人の妹がいて、今は夫と一緒に外国に行っていた。今年二十一になる。彼は妹が齢ごろになってから、いろいろの男の人が妹に近づこうとしたのを思い出した。妹はそう美しい女には思えなかった。しかしそれでも妹の処にいろいろ機嫌をとりにくる者のあるのを感じた。妹が琴をならいに行っていた。其処に尺八をならいに行っていた男が時々来たことがあった。彼はその男を嫌って、その図々しさを心配した。そして妹が笑いながら呑気にその男と話するのを見ると、ある不安さえもった。しかし妹もその男を軽蔑していることを知って安心した。
 又自分の友達で女のこときり興味をもてない男が、自分に話もないくせによく来て、妹にいろいろ土産をもって来たり、手紙をよこしたり、歌留多《カルタ》やトランプをしたがったりするのを気にしたこともあった。それやこれや考えると彼は齢《とし》ごろの娘をもつ親や、兄や、妹の心配をはっきり感じることが出来た。どうかして真面目な、そして妹のことを本当に思い、愛してくれる人が妹の夫になってくれればいいがと思った。
 しかし幸いに彼の妹は馬鹿ではなかった。運命が許した最もよき人を選んだ。彼はその時心から安心した。杉子のことを思うに従って餓《う》えたる狼《おおかみ》がすきをねらっているような気がした。自分の妹より何層倍美しいかわからないだけ、彼はその心配をしないわけにはゆかなかった。
 仲田は友達づきあいの多い方だった。殊に仲田の母は人ずきのいい人で、夫の無口のせいか、一人で愛想よくし、若い人達のくるのをよろこんでいるようにも見えた。彼も仲田の母に二三度あって、お世辞を云われたことがあるが、彼は無愛想の方なので、この頃は仲田の母は彼の処には殆んど出て来なくなった。
 娘を射るのには先ずその母を射よ。こんなことを云って母にとり入って、首尾よくその娘と結婚した男の話を彼はいつか、大宮から聞いたことがあった。彼はその時可なり不愉快を感じ大宮と二人でその男の悪口を云ったことがあるが、彼は杉子の母に自分の印象の面白くないことを自覚することは、今の彼にとっては少し打撃であった。

 七

 彼には結婚することが二人にとって幸福でなければならなかった。又よろこびでなければならなかった。杉子が自分の処によろこんで来てくれなければ、彼の自尊心はむしろ結婚したくないと思いたがった。だが彼は杉子を失うことは考えてもたまらないことだ。
 彼はその後仲田の処に三四度行ったが、杉子には逢えなかった。杉子の学校の帰りに二度逢いに行って、一度逢った。その時杉子は四五人の友達とうれしそうに笑いながら声高に話していたが、彼を見ると、いつもの人なつかしげに無邪気なあいさつをした。彼も丁寧にあいさつした。彼は実際うれしかった。
 彼はある日の晩大宮の処にあそびに行った。そして彼が帰る時、大宮が送ってくれた時、彼は杉子を恋していることを白状した。大宮と仲田は友達ではなかった。しかし大宮は杉子のことを知っていた。
「その人なら僕の従妹《いとこ》と同じ学校にいる人だろう。どんな人か従妹の人に聞いて見てもいい。いい人だと思うが」
「聞けたら聞いてくれたまえ、いくら評判がわるくっても、僕は彼女を信用はするが」
「僕も一ぺん従妹の処で写真を見たかも知れない。その人なら中々綺麗な人だった」
「中々ではまだ不服だね」
 二人は笑った。
「ともかくうまくゆくといい」
「しかしまだ十六だからね」
「一、二年は大丈夫だろうが」
「今、そんな話をしたら第一当人がおどろくだろう。まだ無邪気な女だからね」
 彼はうちあけたので、その後も時々、大宮の処に杉子を讃美しに出かけた。大宮は友達に、「野島のくるのもいいが、杉子の話には閉口だ」と云った程。
 彼はそれを聞いて、大宮には杉子のことは何にも云ってやらないと決心した。その決心はすぐきえて、相変わらずその話をしに大宮の処に出かけた。そして日本の女の悪口を云うものがあると、彼は腹のうちにあざ笑った。
「君達はまだ本当の日本の女を見たことがないからだ。見ればもうそんなことは云えなくなる」
 何処の国だって本当の善人は多くない、甚《はなは》だ少ない。美しい人も多くはない、甚だ少ない。しかしいないことはない。ただそう云う人に滅多に逢うことが出来ないだけだ。
 彼はその滅多に逢うことの出来ない人に逢った。彼は杉子と夫婦になることを考える、それは楽園にいることを考えるようなものだった。新聞を見ても、雑誌を見ても、本を見ても、杉と云う字が目についた。そして目につくとはっとした。しかし彼はまだ殆んど杉子とは一言も言葉を交《かわ》さなかった。
 或る日だった。彼は又仲田の処に出かけた。すると杉子が門から出るのに逢った。それが不意だったので彼は反って気軽に言葉をかけることが出来た。
「仲田君はうちにいらっしゃいますか」
「ええ」
「何処にいらっしゃるのです」
「お花の稽古に」
 これだけの会話が、彼にとっては鬼の首でもとったように嬉しかった。よく言葉がかけられたと自分で感心した。そして彼女は自分を嫌っていないと思った。
 彼は自分の室に杉子がいけた花をかざることを空想した。彼はいつもの三倍も元気に仲田と話した。
 仲田は何かの話の途中で、
「本当に世のなかにはいやな奴がいるよ。いつか妹に手紙をよこした奴が、又手紙をよこした。まだ十六になるかならない無邪気な女に、もう心をもやしているのだからね。たまらないよ。いやになってしまう」

 八

 彼はその手紙をよかったら見せてくれと云った。
「随分虫のいい手紙さ、自分のこと許《ばか》り考えていて、相手の意志をまるで見ていないのだからね。女を物品かなんぞのように思って、自分が欲しいと云う強さだけをたてにして要求してくるのだからね」
「相手はどんな人だ」
「文士の卵だそうだが、どうせそんなことをするのは……」
と云いかけて、
「君は別だがね」と仲田は笑ってつけ加えた。
「それで君の妹さんにその手紙を見せたのか」
「見せやしない。まだほんの娘だからね。そんな問題には今からふれさしたくない。せめて自分で男のよしあしがはっきりわかるようになる迄はね。そして結婚と云うことを本当に知り、自分で進んで結婚したいと云う気が起るまではね。君も君の妹さんの結婚には随分心配していたね。僕もまだ十六に切りならない妹の為にもう結婚のことをそろそろ心配しなければならないと思うといやになるよ。もう、結婚の申込みがちょくちょくあるのだからたまらない。一切、僕が握りつぶしているのだ。もう少し独立した考えが出来るまでは、せめて夫を選択する権利だけは当人の為に保存しておきたいからね」
 野島は、仲田の一言一句で自分の心が左右され、上ったり下ったりするのを醜く、浅ましく思った。
 仲田はたち上って、まもなく手紙を持って来た。
「今日偶然、私の誕生日にあなたに三月ぶりで往来でお目にかかったことは、私にはただの偶然とは思えませんでした。それでもう一度手紙をかかして戴きます。私にはあなたを赤の他人とは思えないのです。自然がこんなにまで強くあなたのことを思わないではいられないように私をつくってくれたことを、私には無視することは出来ないのです。其処には何かの意志がはたらいていて、私があなたを得る為に出来るだけ骨折ることを命じているように思えるのです。その命令に従うと云う理由で私はこんなあつかましい手紙を、清いあなたにかくのです。私の心はあなたはもう感じていて下さるでしょう。私は何にも云いたくはありません。私はあなたに値しないものと云うことは感じて居ます。しかし私はあなたなしに生きるのは淋しすぎるのです。運命があなたをつくり、私をつくり、そして二人を逢わしたことを、私は無意味とは思えないのです。二人が一つになることが二人にとって最大幸福であり、又それが何かの意志だと思うのです。私はあなたの運命を傷つけることを恐れることでは誰にもまけません。あなたの幸福をのぞんでいます。あなたが私の処にくることがあなたにとっても一番幸福のように思うので、こんな手紙をかくのです。私のことは気になさらないで、あなたの一番幸福を自由につかんでほしく思います。私はあなたの前に跪《ひざまず》いて、泣いてあなたの手を要求したくは思いますが、私も男です。あなたの意志を尊重します。私の手に帰るのが本当でしたら帰って来て下さい。道をきよめて待っております」
 仲田は野島のよみ上げるのを見て云った。
「一種の気違いだね。馬鹿だね。あきれてしまった」
 野島は自分の滑稽画を見せられたようないやな気がした。
「君の妹さんはその男の人を知っているのか」
「ああ、へんな目をして、妹に逢うと立ちどまって、妹の方を見るので、妹も気違いなのだろうとこわがっていたよ」

 九

 野島は自分も杉子にそんな風に思われてはたまらないと思った。しかしその手紙を兄の意見一つで杉子に見せないのも乱暴だと思った。
「手紙を見せないのも可哀そうだね」
「妹が十八にでもなったら見せてやってもいい。しかしその時分になったら、この男はもう他の女と結婚して、妹と結婚出来なかったことを反《かえ》って幸福に思っている時分だろうよ」
「そうか知らん。それ程不真面目な人ではないらしくもある」
「あてにはならないよ。僕の知っている奴に、ある女を夢中に恋して、その女と結婚出来ないと死ぬようなことを云っていた奴があった。ところがその女がふとした病気で死んだのだ。その時は気違いのように泣いていたが、半年もたたない内にちゃんと細君をもらって今では幸福にくらしている」
「しかしその女のことを時々は思い出すだろう」
「しかしその女でなければとは云えないだろう。男と女はそう融通のきかないものではないよ。皆、自分のうちに夢中になる性質をもっているのだ。相手はその幻想をぶちこわさないだけの資格さえもっていればいいのだ。恋は画家で、相手は画布だ。恋するものの天才の如何《いかん》が、画布の上に現れるのだ。ダンテにとってビアトリチェはただの女ではなかったろう。神のようなものだったろう。しかし他の恋する男にとってはただの女だ。ある男から見れば雌にすぎなくも見える。恋が盲目というのは、相手を自分の都合のいいように見すぎることを意味するのだ。相手はそう唯一と云うことはないのだ。その人にめぐりあわなければ恋は生じないときまったものじゃない。彼女となる資格のあるものは世界には何千、何万といる。だから自分の内にある恋も生きるのだ。もし彼女が世界に一人きりだとして見たまえ。齢ごろになるとなにはすてても相手をさがして歩かなければならなくなる。しかし恋の相手にぶつかる位は、学問をした片手間で沢山だ。又毎日の仕事をした余暇で沢山だ。むしろ逢わないでよそうと思っても、つい逢う程、彼女は世界にごろごろしているのだ」
「しかし」と野島は云った。「だが一生彼女に逢わない人もあるだろう」
「いや、それは布があっても画《え》のかけない人だ」
「しかしかいてしまった布は、かかない布とはちがうだろう。ある人に恋される資格のある女は唯一でないかも知れない。だが恋してしまったら、その人にとってその女は唯一になるだろう。僕の知っている人に、もっといい女に逢わないとも限らないと思うのでなかなか結婚する気になれないと云っていた奴があるが、ふとしたことである女、はたから見るともっといい女がいくらでもありそうに思う女だったが、それと知りあいになって、その内に深く恋してしまって、その女と結婚の出来ない事情の為に、つい二人で心中してしまった奴があった」
「世はさまざまだ。中々理窟通りにはゆかない。親の云う通り結婚して、幸福になった奴もあれば、自分の恋している女と無理に結婚してすぐ飽きる奴もいる。結婚出来ないと云って心中しかけて未遂で助かって、まもなくお互に顔を見るのもいやになった奴もいれば、五年たっても十年たっても同じ女のことを思ってくよくよしている奴もある。しかし大概の人はいい加減に恋して、いい加減に結婚するのだね。それが又利口らしい。要するに恋だけが人生じゃないからね。もっと自分達にはしなければならない仕事がある」
「それはそうだ」彼はもう仲田と恋の話はしたくなかった。それで話をほかにむけた。

 十

 その晩、彼は大宮に随分逢いたくなった。大宮には自分の気持が本当にわかってもらえると思った。大宮はうちにいた。そして彼が来たことをよろこんだ。
「あの人のことを聞いたよ。大変ほめていたよ。器量は、君は不服だろうが、十人並よりは美しい方だそうだが、性質は無邪気で、快活で、一緒にいるとへんに人を愉快にさせる性質をもっていて、身体の随分いい人だそうだ。僕はそれを聞いて、なおその話がうまくゆくといいと思ったよ」
「あの女の美しさはそう他の奴にはわからないさ。今日実は仲田の処に行ったら、門の処で出あったのだ。そして話さえしたよ。本当にあんな美しい奴は滅多にないね」
「君にだけその美がわかるのだろう」
「しかしね。その女の美がわかるのは僕だけではないのだ。方々からもう結婚の申し込みがあるらしいのだ」
 それから彼は手紙をよこした男や、仲田の恋愛観などを話した。
「いやになってしまったよ。あんな兄貴をもっていたら、あの女も碌《ろく》な女にはなれないような気がしたよ。いやにつめたいのだからね。女なんか誰でもいいのだ。そして恋なんかに同情するのは馬鹿気ている以上につまらぬことに思っているのだ。僕が妹を好きなのを内々察してわざとそんなことを云ったのかと思って腹が立ったよ。あいつも一ぺん恋でもして見るといいのだ」
「道楽者にはもう恋はわからないよ。仲田にとってはどの女も同じなのだろうよ。しかし本当に恋したものは、失恋はするものじゃないと云っているよ。それは随分淋しい。耐えられない程淋しいものらしいよ。その女の夢なんか見るとどうしていいかわからない程淋しいもので、本当に失恋するものじゃないと思うそうだよ。だから君も、遠慮せずにぶつかるだけぶつかって見るがいいのだ」
「だけど、一人の女を多勢が恋するのが自然だと思うと僕はいやな気がしたよ。皆、ムキになって一人の無垢《むく》の処女をねらっていると思うと恐ろしい気がするね。その内にはいろいろの奴が居るだろう。出世しようとか、持参金をあてにするものもあるだろう。弄《もてあそ》ぶこと許り考えているものもあるだろう。又あまったるいこと許り考えているものもあるだろう。思ってもたまらない。自分がその一人だと思うとなおいやになる。そして彼女はそれを何も知らないような顔して、又それをのぞんでいると思うと、へんな気がする。蜜蜂の受胎をする時の話があるね。女王蜂がとべるだけ高くとぶ、それを無数の雄蜂がおいかける。羽のよわい奴から段々消えてゆき、だんだん雄蜂の数がへり、最後に二三|疋《びき》のこり、それが又お互に出来るだけ競争しとうとう一疋になる。それは雄蜂の内の最も勇士であって、そして職務を果すと、身はこなごなになって死んでおちてくる。人間と蜜蜂とはちがうが、最も人間として優《まさ》った男を彼女が選んでくれればいいが、甘言や令色でだまされてはたまらないと思うね。僕は恋は仲田の云うように布の上に画をかくのとはちがうと思う。それはあまり相手を見なさすぎる。それはそう云う傾きのある恋もある。実際恋の出来ない人は多いかも知れない。そして布は最も美しく自分の上に画をかくことの出来るものを愛するのかも知れない。しかしもう少しお互の精神が、何処かで働いていると思うね。意識の出来ない処でお互に引きあっているように思うね。それはお互に餓えすぎていては困る。しかしさもなければ、お互の心が一つになるので、其処にある幸福の殿堂、美の殿堂が出来上るのだと思うね。相手の意志がまるで加わらないで一人|角力《ずもう》をとる恋もあるだろう。しかしそれは自然とは思われないね」
 野島は自分で云っている内に、なんだかわけがわからなくなった。

 十一

 大宮は云った。
「ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云う特別のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にはない。それはどうしても駄目な時は仕方がない。しかし駄目になる処までは進むべきだ。恋があって相手の運命が気になり、相手の運命を自分の運命とむすびつけたくなるのだ。それでこそ家庭と云うものが自然になるのだ。恋を馬鹿にするから、結婚が賤《いや》しくなり、男女の関係が歪《いびつ》になるのだ。本当の恋と云うものを知らない人が多いので、純金を知らないものが、鍍金《めつき》をつかまえるのだ」
 野島は大宮の口からこう云う言葉をきくのは彼には大なる力だった。自分は賤しい人間ではない。不正な思いを心に抱いているものではないと思うことが出来たから。
「本当の恋を知らすのも、我等の仕事の一つだね」
「そうさ。美しい女に、不正な男にまよわされるな、あざむかれるな、ころもを着た狼《おおかみ》を用心せよ、そう云ってそれを見やぶる術を教えるのも我等の仕事の一つだ。それは女の運命を狂わさないことになる」
「本当にそうだ」野島は胸がすいたように思った。
「ともかく日本人は恋を軽蔑しすぎている。仲田ではないが、恋する男に娘をやるよりは見ず知らずの男に娘をやることを安心と心得ている。又若い者は女を欲求することと恋とを一つに見ている。女の運命を第一に気にするのが恋で、自分の欲望を満そうと許りするのが肉慾だ。娘を最も清く恋するものに与えるのが親兄弟の務《つとめ》だ。しかし男女の交際があまり許されてないとつい恋してはならないものを恋したり、恋にならない肉慾で女を得ようとするものがある、それは用心すべきだ。僕は結婚と云うものに変に恐怖をもっている。僕の死んだ姉なぞは身体も丈夫な方ではなかったが、あやまった結婚の犠牲になったと云っていいのだ。母がなんでも楽な処に結婚さしたがった。母は姑《しゆうと》と小舅《こじゆうと》にひどい目にあったので、なんでも楽な、一人者で、道楽をしない堅人を選んで姉をやった。姉はそう気がすすんではいなかったのだが、いい人だと云われて、反対する理由もなく、自分でも真面目な人だと思って結婚した。夫は真面目で道楽をしなかった。しかしそのかわり、自家で放蕩《ほうとう》者の味わうような快楽を求めるものだった。姉を妻として愛するのではなく、所謂《いわゆる》猫可愛がりした。性慾の不調和もあった。姉はそれでとうとう肺をわるくして死んでしまったのだ。姉は随分夫のしつっこいのをいやがっていたらしい。だからいくら見かけはよくっても、この道は秘密なだけに随分厄介な問題だ。僕はやはり姉が、自分で心から好きになれた男と結婚さしたかった。そうすれば死なずにすんだかとも思う。死んだにしてもその方だと思い切りがまだいい」大宮はそう云って少し涙ぐんだように見えた。「姉は随分死にたがらなかった。しかし生きていても始まらないような気になって、病気がなおって――病気の間はうち[#「うち」に傍点]に帰っていた――又夫の家に帰らなければならないと思うと、いつまでも病気していたい気もすると云っていたそうだ」
「随分お気の毒だね」
「ああ、姉のことを思うと、とり返しのつかない、すまない気がするよ。その時分僕は十六だったから何も知らなかった。今の僕なら少しは姉の力にもなれたと思うがね」
「一たい他人の意志で結婚するのはまちがっているね。こないだ僕は往来を歩いてこんなことを考えたよ。自分で人を殺したなら自分で責任を持つ、しかし他人が殺した責任をもたされてはたまらない。結婚でもそうだ。自分で結婚したなら責任をもつ、いくら親でも他人の意志で結婚させられてはたまらないって」

 十二

 いつでも大宮の処へ行くと彼は胸がすいた。よき友を有することを感謝しないではいられなかった。自分が何しても少なくも大宮だけは理解してくれると思った。彼は仲田とは逢いたくなかった。なんだか冷たいものが彼の心にふれ、彼の心が仲田の心を求めても、常にすかされるように思えた。殊《こと》に、杉子を愛していることを感づいて、予防線をはられているような気がした。しかし彼はゆかないわけにはゆかなかった。
 或る日曜、それは晩春だった。もう可なり暑かった。彼は仲田を訪ねる決心で、仲田の家の門の前まで行ったが、気軽に入る気が出ないので、一度通りすぎた。しかし思い切ってあともどりして入った。仲田はいつもになく元気にしていて、彼の来たのを喜んだ。
「暫《しば》らくこなかったね。このまえの日曜に来るかと思った」
「来ようかとも思ったが、なんだか留守のような気がしたので」五分の一位本当のことを云って、云いわけした。
「僕は出不精でいつでも誰か来てくれるといいと思っているのだから。遠慮なく来てくれ給え」
「ありがとう」
 彼は仲田にたいするこだわりがなくなった。
「試験は」
「もうせまっては来たが、僕のことだから余裕があるよ。落第したって結婚にさまたげのある他は、別に困らないからね。そして落第したから来ないと云うような奴はこっちからお断りするからね。あはは」
 さも可笑しくもなさそうに笑った。野島も可笑しくもないのに笑った。
「昨日妹がつくってくれと云うのでピンポンの台をつくったよ。君も一つやらないか」
「僕は下手だからね」
「下手な点では僕もまけないよ」
「しかし僕は殆んどしたことがないのだ」
「ともかくやって見ないか」
「やって見ようかね」
 二人はピンポンをやった。彼はちっとものり気になれなかった。しかしその一種の音が彼は杉子をよびよせはしないかと云う空想に心をひきつけられた。そしてやめようと仲田の云うのを心配する気味だった。
 しかしその音は少しも冴《さ》えなかった。二人は珍らしく下手で、音が五つとはつづかなかった。殆んど勝負を眼中におかず、つづけることを目的にしていたが、しかし仲田は云った。
「君は質がいいよ、見かけより」
「あんまりよくもないね。しかし君も見かけよりはうまくないね」
「丁度いい相手だ。妹とやるとすっかり翻弄《ほんろう》されるのだからたまらない」
 二人は乗気もなく一時間近くつづけた。しかし杉子は出て来なかった。
「もうやめようか」野島は何度も云おうとしてやめた。しかし彼はますます自分が馬鹿気て来て心がますます空虚になるように思った。
 もう思い切ってやめようと思った。その時勝手口の方の戸があいた。そしてまもなく杉子が入って来た。
 急に一道の光がさして来た。
 あいさつをすませたあとで、仲田は云った。
「今日は早かったね」
「ピンポンがしたくって急いで帰って来ましたの」
「それは丁度いい、野島君は随分うまいのだから」
「そうお?」
「譃《うそ》ですよ。仲田君よりもっと下手なのですよ」
 三人は笑った。そして野島は自分でも恥かしくなる程愉快になって来た。
「人間はつくられた通りに心を動かすものだ」と思った。

 十三

 杉子は彼とは話にならない程上手だった。しかし杉子は彼を翻弄しなかった。むしろ彼をいたわった。彼へは打ちいい球きり返って来なかった。仲田とやるよりは遙《はるか》に音がつづいた。彼の方は時々|質《たち》のわるい球をうち込もうとした。甘く見られるのがいやで。しかも杉子は感じないようにちゃんとした、すなおな球をよこした。彼は其処に杉子の性質を感じないわけにはゆかなかった。彼はそれを理想的に解釈した。すなおで、親切で、利口で、快活で、不正なことを気がつかない顔して正しくする術《すべ》を心得ている。彼はそう思った。何処にこんなに無垢《むく》な美しい清い、思いやりのある、愛らしい女がいるか。神は自分にこの女を与えようとしているのだ。さもなければあまりに惨酷《ざんこく》だ。彼女は自分をまだ愛してはいまい、だが嫌ってはいない。彼女はよく笑う。その笑いの無邪気さよ。
 ピンポンは今迄よりもずっと、賑《にぎや》かにやられた。笑い声はたえまなく、わき上った。杉子の妹まで出て来、遂にお母さんまで見に来た。野島はお母さんに丁寧にお辞儀した。お母さんも笑いをふくんでお辞儀した。
 彼は地上でこんな嬉しさを味わえるものとは思えなかった。幸福で幸福で誰かに感謝しなければならなかった。皆に感謝しなければいられなかった。
 仲田にも、仲田の母にも、そして杉子を地上に生んだ自然にも。
 彼のうちには根づよく巣《すく》っていたはずの陰鬱も、こだわりも、すっかり消え、時のたつのも忘れた。ただ時々、「もう帰らなければなるまい、あまり居て嫌われては困る」と思った。しかし皆がうれしそうにしているのを見ると、彼はもっと居ていい許しを得たように思って、うれしく感謝した。彼はこのよろこびを勿体なく思った。
 彼も、いつもになく冗談や洒落《しやれ》を云った。そして皆を笑わし、自分も笑った。杉子とも平気で冗談云えた。そしてそれは彼にとって勿論、よろこびだった。
 すべては彼の為に神から送られた喜びの饗宴《きようえん》のように見えた。彼はそれを謙遜《けんそん》な心をもって、しかしわき上るよろこびにすなおに身をまかせて、幸福を感じきっていた。
 処へ女中が入って来た。
「早川様がいらっしゃいました」と云った。
「丁度いい、ここにお通ししてくれ」と仲田は云った。彼は戸のすきから風がふき込んで彼の横面《よこづら》にふきあたったような気が一寸《ちよつと》した。しかし彼はそう思う自分を賤《いや》しく思い、平気で早川を迎えようと思った。
 早川とは彼は今迄に二三度、仲田の処であった。仲田とは同級生で特待生だと聞いたように覚えていた。その時分はそう聞いても、まるで気にしなかったが、そして逢っても一寸あいさつするだけで殆《ほと》んど一口もきかなかったが。
 しかし今は平気になろうと思いながらも、何かを予感しなければならなかった。
 仲田は迎いに出かけた。まもなく早川は仲田と何か面白そうに話しながら、笑い顔して入って来た。そして仲田の母に愛想よく親しそうに挨拶した。仲田の母の四十五六のわりには若く見える、肉づきのいい豊かな感じのする顔にはこぼれるような愛想が見えた。
 早川は杉子とも挨拶したが、それはよく知っている、しかしお互に無頓着な人同士がするようにあっさりしたものだった。二人は愛してはいない、気にもしていない、存在も認めていないと彼は思った。早川は彼にも馴々《なれなれ》しく挨拶した。彼も少し笑いをふくんで挨拶した。

 十四

 彼と杉子は丁度ピンポンの勝負をしている所だった。彼は早川に見られる処で勝負をつづけたくなかった。あまりに自分がまずいので。しかしやめるとも云いにくいので、勝負をつづけるより仕方がなかった。しかしもう無邪気なよろこびはなくなった。何処かにこだわりが出来た。しかし杉子が無邪気に笑ったり、思ったよりうまくいって仲田がからかうように賞《ほ》めたりすると、すぐ愉快になれた。早川は笑いながら見ていたが、少しも軽蔑しているらしくはなかった。
「ピンポンがまずいと云うことは恥ずべきことではない」
 彼はそんな言い訳をして見たが、うまかったら、今感じているようなひけ目は感ぜずに、気まりのわるい程、腹のうちで得意になりそうな気がした。まずいので反《かえ》って軽薄な根性を露骨に出さずにすむと思ったが、うまかったらこだわらずに、ますます得意になれたような気がして残念な気がした。
 彼はまけてしりぞいて、早川がかわった。二人はいい相手だった。杉子は見ちがえる程うまさを見せ、頭も手も機敏に動いて、ぬけ目なく、相手のすきをうかがおうとした。早川もまたまけてはいなかった。彼は見ていて、気持がよかった。そして益々杉子を讃美したいような気になった。そして杉子がうまいことをやるとついほめたくなった。文句ではなく、間投詞で。つい声を出して、あとでキマリ悪く思ったが、誰も、それを気にしているものはなかった。
 杉子の顔は血色がよくなり、生々《いきいき》して来、球に従って、身体や手がいろいろの形を見せた。その形が彼をよろこばした。彼は早川のことは忘れて、ただ杉子の生々した姿と、頭のはたらき、手のうごき方、それにともなう身体全体の変化、それを讚嘆して見ていた。
 勝負は一勝一|負《ぱい》で、見ている人は皆、ムキになった。仲田も、杉子の母も、自慢しているように見えた。彼もまた自慢したかった。実際早川よりもやり方が綺麗だった。勝負に重きをおくよりも、練習でもしているように、無邪気にやっていた。
 球のくるのを注意深く見ている目の生々さ、うまくいって無邪気によろこぶ時の口のまわり、前にこごみ、手を逆にして打つ時の腕の形、髪毛の前に乱れかかるのをいそがしくなであげる時の手つきと額、彼はそれをむさぼるように見つめていた。自分はどんなことがあっても杉子を失うわけにはゆかない。それはあまり惨酷だ。自分を杉子に逢わした運命よ、お前に責任がある。
 彼はそんなことを思って、時のたつのを恐れながら忘れていた。
 一時間近く二人は勝負をしていた。
「もうやめたらいいだろう」
 仲田はそう云った。
「ノートを持って来たかい」
 早川に云った。
「持って来た」
 彼はそれを聞いた時、自分が本当に居すぎたことに気がついた。
「ついなが居してしまった」
「もっといたらいいだろう」
「今日は失敬しよう」
「そうかい、それでは又」
 彼は仲田の処を辞したあとでも、杉子を讃美しないではいられない気になった。
 どうしてこんな女が地上に居るのだろう。そして彼女もあたりまえの女と同じように、齢《とし》をとってゆくのだろう。彼女は他の人とちがう法則のもとに生きていないのが彼にはむしろ不思議に思われた。
 彼は真直に家には帰らずに方々歩きまわった。
「彼女は無邪気すぎる。しかし自分を嫌ってはいない」
 このことは彼には勿体ないような気がした。
 自分は本当に偉くならなければすまない。
 彼は帰ってから、日記にこんなことをかいた。
「このよろこびは何処からくる。之を空と云うか、空にしてはあまりに深すぎる。彼女の美しさは何処からくる。之《これ》を空と云うか。それにしてはあまりに美しい。彼女は何処から来た。何の為に来た。彼女の存在を空と云うか。空にしてはあまりに清い。すぎゆく美か。それにしてはあまりに貴い。魔力か、魔力か。それにしてはあまりに強すぎる。愛しないではいられない、失うわけにはゆかない。断じてゆかない。神よ、あわれみ給え。二人の上に幸福を与え給え。神よ、私を彼女に逢わし、かくまでも深く恋させて下さった神よ、彼女を私から奪いはなさりますまいね。それはあまりに惨酷です」

 十五

 その晩大宮が、野島の処に来た。野島は笑いながら、
「今日ピンポンをしたよ」
「ピンポンを? どうして」大宮は不思議なこともあればあるものだと云う顔をした。
「仲田の処でさ」
「なあーんだ」大宮は笑った。
 野島は杉子のピンポンのうまいことをほめて話した。そして自分がピンポンを馬鹿にしてしなかったことを後悔したと笑った。
「教えてやろうか」
「まだ、あるかい」
「何処か捜せばあるだろう」
「教えてもらおうかな」冗談のように云った。
 大宮は一体に運動家だった。テニスもうまかったが、ピンポンは仲間では類がなかった。もう四五年はまるでよしていたが。
「しかし女の為にピンポン迄ならうようになっては少し堕落だね」
 野島は云いわけのように云った。
 その後野島は大宮の処に行ったが、大宮はピンポンのことはまるで忘れているようだった。野島も云い出す勇気はなかった。野島はその後仲田の処にゆきたく思ったが、仲田も試験で忙がしいと思ったので遠慮した。
 しかし杉子には一日逢わないでも気になった。大病をしはしないか、大傷《おおけが》をしはしないか、そんなこと迄気になった。自分を嫌ってはしないか、自分に逢わないので淋しがってはしないか、そんなことを思っても見た。ともかく野島は杉子には往来でもいいから逢わないでは気がおちつけなくなった。しかしあまり逢いにゆくと杉子に手紙をやった男のように思われても困ると思った。偶然逢ったようにしたいと思った。そして逢えばきっと仲田に、
「今日も野島さんに逢ってよ」
 と云うにきまっている気がした。それが又あまり気持のいいことではなかった。
 逢いにゆくのはよそう。しかし十度に一度は逢いにゆかないわけにはゆかなかった。
 初め逢いに行った時にはどうしてか杉子に逢えなかった。学校の門の前までも行って見たが。逢えなかったのは心細かったが、反って安心したような気もした。
 二度目に行った時もまた逢えなかった。今度は心配になった。いよいよ杉子は病気なのだ。それも、もしかすると命にかかわる大病かも知れないと思った。それでじっとしていられないので翌日また逢いに行った。
 今度は逢えたばかりではなく、杉子はやはり仲間のうちの女王のように彼には輝いて見え、皆は杉子が笑うと一緒に笑い、杉子が黙ると皆も黙るように見えた。そして杉子はますます健康そうに見え、彼を見ると、快活に少しも恥かしがらずに挨拶した。皆も彼の方を見た。彼は女王に挨拶されたように光栄を感じた。彼は紺がすりの着物を着ながしにし、鳥打帽子をかぶっていた。彼は一たいに身なりはかまわない方だった。
 この書生っぽに彼女が皆のいる前で平気で、丁寧に挨拶してくれた。このことが彼にはなおうれしかった。
「貴き、貴き、彼女よ。
 自分は貴女の夫に値する人間になります。
 どうかそれ迄、他の人と結婚をしないで下さい」
 彼はそう云って祈りたい気がした。
 しかし考えれば考える程、彼は自分に彼女の夫となる資格があるとは思えなかった。しかし、それならば誰が、彼女の夫となる資格を持っているのか。
 そんな男は地上にはいない。
 彼女はあまりに清すぎ、美しすぎる。
 彼はどの男よりも自分が偉《すぐ》れたものを持っていると思える種類の男だった。世間は自分を軽く見るだろう。だが人間の価値を本当に知るものは、そして彼女はそれを知っているにちがいない。

 十六

 仲田の方が休みになるまで、彼は往来で三度杉子に逢った。最後に逢った時は杉子の挨拶は何時もになく冷淡だった。
 彼はあまりに自分が図々しいので杉子もついに怒ったのかも知れない、来なければよかったと思った。又何か杉子に心配ごとがあるのではないかとも思って見た。それとも試験でもしくじったのかと思った。しかしどうも自分があまり度々逢いにゆくので、何か気づいて不愉快を感じたのではないかと思った。それから彼は逢いにゆくのを遠慮した。
 気になってなお様子を見にゆきたくも思ったが、その内に休みが来るので遠慮した。仲田は休みになるとまもなく彼の処に来た。
「暫らく来ないのでどうしているのかと思っていた」と云った。
 彼はそれを聞いてうれしかった。
「試験の邪魔をするとわるいと思ったので」と彼は云った。
「もう休みになったからいつでも来給え。ピンポンも少しうまくなったよ」
「そうかい。それではもう僕の相手にならなくなったね」
「まあ、来給え。教えてやろう」
「君が先生じゃ心細いね」
「もう早川とやってもそうまけはしないよ」
「そんなにうまくなったのかい」
「試験勉強をして頭がへんになると妹を相手に勉強したのだよ」
 彼は少し羨《うらや》ましいような気がしたので話をかえた。
「今度夏休みに何処かへ行くかい」
「やはり、鎌倉の別荘にゆくつもりだ」
「皆でかい」
「父や母は忙がしいからたまにきり来ないだろうがね。よかったら君も泊りがけに来たまえ」
「ありがとう」
「君は泳げるのだろう」
「だめだよ。運動は一さい駄目だ」
「早川は運動はなんでもうまい」
「そうかい。僕の友達の大宮も大した運動家だよ。きっと早川君以上だろう」
「大宮君と云えば大したものになったね。もう一流の作家になったね。君より三つ上で、二十六だろう」
「そうだ」
「それでもう一流とは羨ましいね。妹も大宮君のものは随分愛読している。一番感心していると云ってもいいだろう」
「そうかい」彼は友達のことを賞められるのをよろこびたいと思ったが、心細かった。杉子には自分を一番尊敬してもらいたかった。
「妹の友達に、大宮君の従妹《いとこ》がいるのだそうだが、その人から大宮君のことはよく聞かされるらしいよ。その大宮君の従妹も大宮君崇拝で、面白い人だそうだよ。うちにも時々来るが、顔はそう美しくはないが、中々の気焰《きえん》家でね、男のことなんか糞味噌《くそみそ》に云っているよ。大宮だけは別らしいがね、大宮と云う人は随分頭のしっかりしている人らしいね」
「ああ、随分しっかりしている」
「それにかくものを見てもわかるが、中々思いやりのある人だそうだね」
「ああ」
「それに家に金もあるのだから落ちついて仕事が出来るから鬼に金棒《かなぼう》だね」
「まちがいのない奴だよ」
 彼はなんとなく大宮のことをほめたくなかった。しかしそれだけ、なおほめないとわるいような気もした。
「実際日本で一番有望な小説家はなんと云っても大宮だろう。今にきっと世界的な仕事をして、日本の為に気焰をあげてくれるだろう」彼はそう云ったが、何となく口と心が別のような気がした。

 十七

 仲田はまもなく鎌倉に行った。
 大宮の別荘も鎌倉にあった。大宮にすすめられて、むしろすすめられるようにして野島も鎌倉に行って、大宮と一緒に生活した。
 大宮と文学や、人生について話した。神についても、恋についても話した。二人は話がよく通じあった。お互に同感のこと許りきり云わなかった。それ程二人は親しかった。初めは時々議論もしたが、いつのまにか二人の意見は理解され、理解されて見たらば、不服を云う必要がなかった。お互に感化され、感化した。どっちかと云うと齢下の野島の方がより多く大宮を感化した。しかし野島の方がより多く慰められた。大宮はわりに世評に寛大になれ、平気になれたが、野島はややもすると世評に可なりひどくまいらされた。
 大宮の方が早く理解された点もある。同じ程度に悪口云われても野島の方が遙《はるか》に強くそれを感じた。腹も立て、淋しがりもした。
 ともかく二人はよき友であった。二人が知りあったことは二人にとって感謝だった。
 野島は大宮の評判が自分よりずっといいので、時々一種の嫉妬《しつと》を感じることがあっても、大宮は野島にたいする信頼と尊敬を益々示してくれるので、感謝しないわけにはゆかなかった。そして大宮のものが少しでも悪口云われると怒らないわけにはゆかなかった。
 ある時大宮が、父と議論して、どうしても文学をやると言い切った為にもう少しで、勘当されかけた時、野島は本気で、大宮が生活難に苦しんだら、自分で出来るだけ助けようと思った。
 今、二人は一緒の家に住んでいたが、勝手な行動をとった。一緒によく散歩もし、話もし泳ぎもした。しかし一人になりたい時は一人になった。野島は時々、仲田の処に出かけた。仲田も野島の処に来て、大宮とも知りあいになった。仲田は大宮にもあそびに来てくれと云った。しかし大宮は何とか、理窟にならないことを云って仲田の処に出かけなかった。
 野島も一人でばかり仲田の処にゆくのは気がひけた。それで時々大宮をさそって見た。しかし大宮はいつも行くのをいやがった。
「そう云うのは失敬だけど、僕は仲田は虫がすかないのだ」とも云った。
 或る晩、月のいい時、大宮と一緒に野島は散歩した。そして人のあまり行かない、砂丘の方を歩いた。すると、女の人の歌をうたう声が聞えた。
「いい声だね」
 大宮は感心するように云った。そう云われると、野島もいい声だと思った。すると同時に、
「あれは彼女にちがいない」と云った。
「あれがそうなら君は仕合せ者だ」大宮はからかうように云った。
「あんまり恋し過ぎると云うことは弱点だ。なんだか独立性がなくなったようで、魂を何かにあずけているような不安を感じる。僕は恋をしていない君をむしろ羨ましく思う」
「それは本音かね。僕はそんなにまで一人を愛することが出来る君を羨ましく思うよ」
 歌は不意にやんだ。二人の影に気がついたためだろう。
 其処には三四人の人が集っていた。二人はそのわきを通りこそうとした時、野島は云った。
「仲田じゃないか」
「野島君か。大宮君も一緒か。いい処であった。よかったら一緒に散歩しよう」
 この時大宮は不意に云った。
「残念だが僕は今日は失敬しよう。一寸したいことがあるから。野島君はいいだろう」

 十八

 野島は大宮に感謝したく思った。しかし、自分だけのこる気にもなれなかった。他の人には黙礼して、皆と別れた。杉子は月のかげにいたので、よくは見えなかった。
「君はのこればいいのに」
「だって仲田は君の方にのこることをすすめているらしかったから」
「ともかく君は惜しい機会をのがしたような気がしたろう」
「そんなことはない。あの歌をきいただけで本望だ。君に云われて初めて杉子さんの歌のうまいことを知った」
 大宮は暫らく黙っていたが云った。
「僕は君の幸福をのぞむよ」
「ありがとう」
 野島は心から感謝した。
「あのわきに居たのは早川と云うんだろう」
「気がつかなかった」
「馬鹿だね、君は。お母さんの居たのは気がついたか」
「お母さんらしい人が居たらしい」
「君はしっかりしないといけないぜ。君はあんまり杉子さんのこと許り思っていては駄目だぜ。君は早川の敵じゃないね。しかし僕は従妹にそう云ってやろう。早川を杉子さんが信用しないように。あの男は信用の出来ない男だ」
「僕はそれ程には思わない。あっさりした、男らしい所のある人と思う。才子は才子だが」
「僕はもう見ぬいてしまった。僕は君のために骨折るよ」
「ありがとう」
「君はあんまり人がよすぎる」
 大宮は笑いながら云った。
「僕なら、あの時、一緒に皆と散歩するね。君が帰ると云えば君を帰らして」
「僕の位置にいれば君はそんなあつかましいことは出来なくなる」
「恋はあつかましくなければ出来ないものだよ」
「本当の恋はあつかましいものには出来ない」
「ともかく恋も一種の征服だからね」
「僕だって君の位置にいれば、きっと積極的に出ろと云うかも知れないがね。あつかましく出る人が居るとなお引こみたくなるよ」
「まあ僕に任せておきたまえ。君にまかせておくのは心配だ」
 大宮は笑った。
「しかし其処が君のいい所さ」と慰めるのか、からかうのかわからないようにつけ加えた。
 野島は帰ってからも大宮が、杉子の歌のうまいと云うこと、君は仕合せ者だと云ったことをよく思い出した。そして早川が自分にとって大敵だと云うことも痛切に感じた。
 彼は早川を愛してはいなかった。軽蔑し、又憎みたかった。しかしその動機があまり見えすくので彼は早川のことを反ってあまり悪くは云えなくなった。存外いい人間かも知れないと理窟で思ったりした。しかし早川が杉子の母にこびているのを見ると、いやな気がした。又杉子自身にたいしてもお世辞を露骨に云っているのを見ると、自分はそんな真似はしたくないと思った。
 自分は恋する女の為に卑しい真似はしたくない。自分を益々立派にしたく思うだけだ。自分の妻になる人間に自分をあざむくことは凡《およ》そ恥かしいことだ。自分の真価を知ってくれて、それでもくる気が出ない女、そんな女は用はない。ラスキンは「耶蘇《ヤソ》教を信じる」と云えなかった為許りに、失恋して、病気にまでなったと野島は記憶している。そしてそれでこそラスキンだと思った。正直な男と云う誇りを失ってまで、女を獲《え》ようとすることは彼にはあまり恥かしいことだ。それは自分の一生を汚すことだ。彼はいくら恋しても自分の誇りを捨てることの出来ない人間だった。

 十九

 それから一週間程たって、大宮の従妹が、大宮の母と一緒に別荘に来た。大宮の従妹は武子と云って、杉子より一つ上だが、まだ固い蕾《つぼみ》のような所があった。杉子は一つ齢下でも既に咲きかけた花のような所があったが。
 武子の父は可なり有名な政治家で、武子は妾腹《しようふく》の子であった、母のゆくえはわからなかった。そして大宮の母に一番なつき、前にも云ったように大宮のことを兄と呼んでいた。
 杉子は豊かな感じのする女だったが、武子は少しやせた、感情家で、思ったことはなんでも云う質だった。妾腹の子に似合わず、武子は我儘《わがまま》な勝気な、そのくせ情にもろい所があった。
 野島は初めて武子を見た時に、杉子とは比べものにならない、女の様な気のしない女と思った。そして反って呑気に話が出来た。
 話している内に彼は武子の思ったよりも美しく、利口なことに気がついた。しかし杉子とはくらべものにならないと思った。益々彼は杉子の美しさを感じた程だった。
 武子が来てからは杉子もよくあそびに来た。一緒に海にも入った。野島も今迄より杉子と呑気に話すことが出来るようになった。彼は杉子を恋しているように思われるのはいやで、杉子に話す時は、武子にも話し、二人を同じようにからかい相手にした。大宮も時々仲間になった。しかし大宮は杉子には可なり冷淡にしていた。
 大宮はある時、野島にこう云った。
「杉子と云う人は指の綺麗な人だね。僕はまだあんな綺麗な爪をしている人を見たことはない」
 全体ばかり切りわからない野島は、「そうかね」
と云うより仕方がなかった。
 わきにいた武子はそれに賛成した。
「本当にあの方は綺麗な手をしていてよ」
 野島はそう云われてから注意して見たが、
「そう云えばそうらしい」
位に切りわからなかった。彼は自分の愛するのは杉子の魂だ、杉子その人だ、その全体だ、と思いたかった。しかし杉子の手の美しいといわれたことは歌のうまいと云うことと一緒に忘れることの出来ない、自慢の一つだった。
 彼はその時分から段々露骨に早川に一種の嫉妬を感じた。早川の彼よりも体格がよく、さっぱりして、男らしく、そしてよく気がつき、利口らしい点を彼は恐れないわけにはゆかなかった。彼よりは何倍も女に愛される資格を持っているように思えた。その上に早川は法科の特待生であって、杉子の母には信用されていた。そして杉子に気に入ることを常に心がけて、それを無邪気そうに露骨に示していた。無邪気な杉子は早川を益々信用するようにさえ見えた。ある日、「早川さん、泳ぎを教えて頂戴な」
「ええ、教えて上げましょう」
 こう云って、早川が杉子の手をとって泳がしてやると、杉子は足を出来るだけバタバタやって水をはねかえした。そして二人は無邪気に大声を出して笑った。
「馬鹿!」野島はそう心で云った。「あんな女は豚にやっちまえ。僕に愛される価値のない奴だ」
 彼はそう怒って、海からとび出して、家へ帰ろうとしたが、「本当に杉子さんは無邪気なのかも知れない。そう思う自分の方が、いやしいのかも知れない」と思い返して、平気な顔をして、黙って海岸に立って、遠くの雲を見るともなく見ていた。すると武子が来て、
「あの雲はまるで悪魔のように見えますわね。まるで早川さんの顔のように」と囁《ささや》いた。
 野島はほほえまないわけにはゆかなかった。

 二十

「杉子さん、杉子さん」
 武子はあわただしく、杉子をよんだ。杉子は、「なに」と云って急いで海から上って、野島と武子のわきに来た。無邪気に血色のいい顔には微笑を見せていた。
 野島はひきつけられるように思った。
「どうしても彼女を失うわけにはゆかない。こんな天使が何処にいるだろう」
「あの雲を御覧なさい。誰かの顔に、似ているでしょ」
「どれ」杉子は面白がって指さされた雲を見た。
「本当に人の顔見たようね」
「誰かの顔に似ているでしょ」
「誰の顔でしょう」
「わからなくって」
「わからないわ」
「早川さんの顔よ」
「まあ、可哀そうに」
「雲の方が、可哀そうね」
「まあ、武子さんにあっては敵わないわ」
 二人は愉快そうに笑った。武子はまた早川に声かけた。
「早川さん、あなたの写真があってよ」
 早川はあわてて上って来た。
「何処に」
「そら、あすこに、あの雲はあなたの顔をそっくりよ」
「あはははは。武子さんに逢っては敵いませんね」
 武子はふき出した。
 野島は何となく淋しい気がした。そして、大宮が一人で波のりをしている方に出かけた。
 三人はなお何か云って大きな声を出して笑った。
「早川の笑い声は何と云ういやな笑い声だろう」彼はふり返らずにそう思った。
 大宮は白波をたてながら、勢いよく浜辺に押しよせてくる浪《なみ》に、半身を出して、板を胸にあてがいながら、気持よさそうにのって来た。浅い処迄くると、起き上って野島の方に笑い顔しながらやって来た。
 この時又杉子の笑い声が聞えたがふり返ってやるものかと彼は思った。そしてそんなことにすっかり無頓着な大宮を尊敬したい気がした。何と云っても自分の本当のことがわかってくれるのは大宮だ。そして自分がすっかり信用の出来るのも大宮だと思った。感謝したい気になった。大宮は彼のそばに来て、
「僕は今波のりしながら考えたよ。波は運命で、人間がそれにうまくのれると何んでも思ったように気持よくゆくが、一つのり損《そこな》うといくらあせっても、あわてても、思ったように進むことが出来ない。賢い人だけ次の波を待つ。そして運命は波のように、自分達を規則正しく、訪れてくれるのだが、自分達はそれを千に一つも生かすことが出来ないのだ。それを本当に生かせたら大したものだって」
 野島は大宮のこの言葉を、彼の恋にあてはめて同感を感じていた。すると又皆の笑い声が聞えた。つい彼は不用意にふりむいた。
 仲田も仲間入りして、杉子と早川はならんで立っていた。背|恰好《かつこう》も、体格も実に似合いの夫婦と云う感じがふとした。彼は自分の体格がよくなく、むしろ不自然な位、瘠《や》せているのを反省しないわけにはゆかなかった。
「己を知れよ」そんなことを一寸思わないわけにはゆかなかった。だが彼は自分の精神の優秀をもってそれに打ち勝ちたく思った。しかしそれは今の場合力のなさすぎる云いわけだった。彼は自分のみたくない正体を見たような気がした。そして何げなくふり返って、大宮を見た。そして大宮の筋肉がしまってつり合いのよくとれている身体に気がついた。そしてそのわきにたつ、自分の醜さを思った。杉子はそれを見ている! だが自分程痛切には感じてはいまい。それが彼の唯一の言いわけだった。
 皆は武子が先にたって、野島や大宮のいる方に来た。

 二十一

 武子は云った。
「今皆で神があるなしの議論していましたの、お兄さんは神を信じていらっしゃるのでしょう」
「さあ、神のことは野島に聞く方がいい。野島はその方では僕の先生だから」
 野島は、大宮が杉子の前で彼を信用していることを示してくれたことを感謝した。
「それなら野島さん、判断して頂戴ね。妾《わたし》は神があると云うのですが、他の方はないとおっしゃるの」
「それは神によるでしょう。神と云う概念に。神という言葉程、あいまいな言葉はありませんからね。皆その言葉を勝手に解釈してあるとかないとか云うのでしょう。両方本当とも云えるし、両方とも譃《うそ》とも云えるでしょう」
 野島はあいまいなことを云った。
「妾はね」武子は少し不平そうに云った。「見える神があると云うのではないのですよ。妾の説はお兄さんの説をなお下手にしたので、あなたの又弟子にあたるわけですがね」武子と杉子は無邪気に笑った。
 それを聞くと、野島は自分の内のわだかまりが気持よく消えたことに気がついた。
「妾は人類とか、自然とか云う言葉ではあらわせない、或るものがあると云うのです。そのものに身を任せる時にだけ人間は安心を得られるというのですよ。ところが他の人はそのあるものは何んだか見せてほしいと云うのよ。妾は見えないものだから見せようがないと云ったのよ」
 又皆は気持よさそうに笑った。野島もその仲間入りした。
「野島さんは見せて下さって」杉子は笑いながら、野島の顔を見た。
「僕にも見せられませんよ」
 杉子も野島も笑った。
「ですが僕はそれを感じることはたしかです」
 野島は真面目になったので誰も笑わなかった。
「人によって道徳とも云うし、人類的本能とも云うでしょう。理性とも云うでしょう。ですがそれ以上の何かから出ているような気がします。それはいいことをすれば気持がいい。このことは道徳に叶《かな》ったことです。人類的本能でも説明出来るでしょう。ですが、朝早く浜へ出て歩く、人が誰もまだいなかったり、いても処々に一人か二人か三人位切り居ない。跣足《はだし》であるく、少し波に足をあらわせる。そう云う時、私達は何となく愉快になるでしょう。そしてひとりでに歌でも唱《うた》いたくなったり、説教でもしたくなったりするでしょう」
「そりゃ君、身体が健康になるから気持がいいのだよ。それはオゾンの働きだよ」
 早川はそう云った。
「しかしそれもあるかも知れないが、それだけで解決をつけるのは簡単すぎる」
 野島は乗気で喋舌《しやべ》ったのを腰を折られたので少し腹を立てた。早川に向って議論がしたくなった。
「しかし神をもち出す必要はないさ」
「しかし君は健康になればなぜうれしいか知っているのですか」
「健康になればうれしいにきまっているさ」
「我々は健康にしなければならないから健康になればよろこびを与えられ、病気をしてはいけないから病気をするのが苦痛のようにつくられているとも見ることが出来るでしょう。歯医者が歯の神経をぬけば歯はいたまない。そのかわり歯がどんなにわるくなってたって気がつかない」
 早川が何か云いたそうにした。
「まあしまいまで聞いてくれ給え。毛髪や爪は切っても痛くない。切って痛くないのを不思議にさえ思わない。そうつくられている。神経を身体中にぬけ目なくくばって人間の身体を保護している、その保護しているものは人間じゃない。自然と云っていいかなんと云っていいか知らない。ここで神をもち出すのは早いことは僕も知っています。しかしともかく人間でない何かの意志が其処に加えられていると云うことは云える。僕はこんなところから話を始めようとは思わないのですがね。神経は何のためにあるかと云えば健康を出来るだけたもつためにある。しかし人間のようなものに健康をたもたせたところが始まらないとも思えば思えるでしょう。我々が人間をつくったのではない。人類が人間をつくったのではない。道徳や、理性が人間をつくったのではない」
「蚤《のみ》をつくったものが、人間をつくったのですよ。蛆《うじ》をつくったものが人間をつくったのですよ」
 早川は覚ったもののように笑いをふくんで云った。
「無論そうです。しかし蚤や蛆には健康は必要だが神は必要じゃないのです。神が必要なのは人間|許《ばか》りです」
 少し座が白けた。野島は喧嘩《けんか》を買われたような気がして怒った。ひかえ目を失って来た。
「美だとか、無限だとか、不滅だとか、そんなものは蛆や蚤には不必要なのです。彼等を作ったものは彼等にそんなものを要求する本能さえ与えるのを惜んだのです。爪や毛髪に神経を入れるのを惜んだものは、又蛆虫に神を求める心を入れることを惜まれたのだ」
「それでは君は僕達や、杉子さんを蛆虫だと思っていることになりますね」
 早川は冷静に更に冷笑をつよめていった。
「そうです。もし無限だとか、不滅だとか、美だとか、永遠なものに合致するよろこびを少しも求めないなら蛆虫です」
「僕達はそんな寝言はなくっても生きてゆけます」
「まあ、そんなことを云うものじゃないよ」
 仲田は仲裁しようとした。
「だけど、僕は、蛆虫あつかいされて黙ってはいられないよ。無限だとか、不滅だとか云うものは唐人の寝ごととしか僕には思えないから。杉子さんも同感でしょう」
「妾にはなんだかわかりませんわ。ですが、妾は健康に幸福に生きるには神様なんかいらないと思いますわ」
「杉子さん、あなたは自分をあざむいているのですよ。あなたの心はきっと神を求めていらっしゃる」野島は云った。
「妾、神様のことはわかりませんわ。そして虫けらも人間もつまりは同じと思いますわ」
「ちがいます、ちがいます。人間には精神があります。魂があります。虫けらからは耶蘇も、釈迦《しやか》も出ません」
「もう遅くなったから僕達はお先に失敬します」
と仲田は云った。
「そうですか」大宮は云った。
「さよなら」皆あいさつした。
 早川は怒ったように先にたった。仲田|兄妹《きようだい》は早川においついて、三人何か話して行った。
 野島はあとを見送っていたが、急に泣き出した。
「どうなさったの」武子はおどろいた。
「かまわないで下さい」
「武子さん、海に入ろう。君も早川の馬鹿のことなんか怒っているより海に入る方がいい」
「ええ。野島さんもね」
 武子は勢いよく海に入った。野島は黙っていたが、自分で元気をつけて、海に飛び込んだ。
「勝手にしろ! 杉子とは絶交だ」そんな気もした。
 しかし野島は海に入っても面白くなかった。彼は海から出て黙って家の方へ一人で帰った。
 彼は井戸端で水をあびて、身体をふいて自分にあてがわれている室《へや》に入って仰向けにねて、あーあ[#「あーあ」に傍点]と云って見た。淋しいような、腹立しいような、後悔するような気がした。彼はその気に打ち克《か》って、その気を一方切りぬけて気持よくなりたく思った。だがその力はなかった。稍《やや》もすると泣きたいような気になった。
 其処に武子が来た。
「一寸、御本拝借」
「ええ、どうぞ」
 武子が本をさがしている後姿を見て彼は武子が杉子だったら、武子の心が杉子に入っていたら、彼はそう思った。自分はやはり杉子の心を愛しているのではなく、美貌と、身体と、声とか、形とかを愛しているのだなと思った。しかしそう思って見れば見る程、杉子の桃のつぼみが今にも咲きかけているような感じが、実になつかしかった。失うにしては余りに貴すぎる。
 しかし屈辱は彼にはなお耐えられないもののように思えた。

 二十二

 彼は夕食後一人でそっと浜に出た。やはり杉子のことを考えていた。彼はもう杉子を憎んではいなかった。杉子に嫌われているとも思っていなかった。反って杉子は、無邪気なのを、自分の方で早合点して淋しがったり、腹をたてたりしたのだと思った。
 彼は浜の石をひろって、海へそれを投げた。そして、それが三つ以上、波の上を切ってとんだら杉子が自分としまいに結婚するのだとやって見た。しかし石は波の上を切って、一つ大きくとんだだけで沈んでしまった。
「こんなことはあてになるものか」
 しかしいい気はしなかった。今度は偶数の数だったら一緒になれないのだ。奇数だったら一緒になるのだ。一つきりとばなかったのは二人が一緒になる意味かも知れなかった。今度は沢山とびすぎて、数え切れなかった。
 三度目こそ本当だ。
 彼は波のくずれようとする頭を目がけてなげた。その日は殊に波のおだやかな日だった。
 石は水をかすめて立派に三つとんで沈んだ。
「運がいいぞ」
 彼は気持よく思った。だが信用する気にもなれなかった。彼は又波のやって来るか来ないかと云う処に小さく杉子という字をかいた。そして波が十度くる迄にそれが消されなければ杉子は自分のものだと思った。彼は波を睨《にら》んでよせつけまいと云う顔をして立って居た。一つ、波は来たが三間程前で、ひき上げた。
「それ見ろ」
 波は又来た。それは一間程近く迄来て、彼を心配させ、そのかわり、彼にねめつけられて帰った。
 三度目、四度目、五度目、波は根気よく来たり帰ったりしたが、杉子と云う字は消されなかった。
「あと五度、くるな、くるな、来てくれるな」
 しかし波は字を消したがるようにこりずに来た。六度目のは可なりひどかった。あと一尺。七度目は三尺前でとまったが、八度目は悠々《ゆうゆう》と来て杉子の字を消し、しかも一間程、あたりをなめて帰って行った。
 彼はがっかりした。
「野島! 君は其処に居たのか。今、杉子さんが来たよ」
「どうしていたい」
「相変らず元気にしていたよ」
「今は」
「武子と話しているよ」
「一人で」
「ああ一人で、さあうち[#「うち」に傍点]に帰ろう」
「僕はもう少し居よう」
「それがいけないのだよ」
「だって杉子さんは僕に逢うのをよろこぶまい」少し大宮の意見をさぐるように云った。
「あの人は他人を憎むと云うことは出来ない人だよ」
「そう云うのは人を愛することも出来ないと云う意味かい」
「そうじゃない。しかし情熱家と云うのとはちがうだろう。しかしそれは君の方が知っているだろう」
「いや、僕の方が君の意見をききたいのだ。あの人は早川を愛しているだろうか」
「まだ愛してはいないだろう。あの人はまだ誰も愛しようとはしていないよ。しかし今が正直に云うと恐ろしい時と思うね。今が一番大事な、危険な時だと思うね。武子より一つ齢下だと云うが、武子とちがってもう男に愛されるように用意されている。誰か一人を愛し、たよりたがっている。しかし処女の本能でそれを今用心深く吟味している。まだ意識はしていないだろうが、だから君は今はむしろ少し図々しい位に杉子さんに逢うのがいいのだ。君のいい所は逢えば逢う程わかる所にあるのだ。君のいい所は中々わかりにくい。それだけわかればもうしめたものなのだ。だから君は今|躊躇《ちゆうちよ》すべき時じゃない。もう一歩杉子さんがどっちかにころんだら、それこそ事件は厄介になる」
 野島は大宮の云うことを本当だと思った。

 二十三

 二人は大宮の室に入った。武子の室からは時々二人の笑い声が聞えた。野島はその方に気をとられて黙っていたかった。しかしそれだけなお気がひけて、何か言葉を見出そうとした。だがそれがなお技巧的でそらぞらしいのに気がひけた。おちつかない気持がした。
 すると足音がして武子が入って来た。
「お兄さん、トランプなさらなくって」
「してもいいだろう」大宮は野島に聞いた。
「ああ」野島はよろこびをかくそうともせずに云った。この友には万事、かくす必要はないと思った。
「それならここでしよう」
 武子は杉子を呼びに行った。
 杉子は入る時に、一寸躊躇したようだった。入った時、少し赤い顔しているようにも見えた。二人は黙って丁寧に挨拶した。いつもの笑い顔を見せていた。
 野島は何となく嬉しく思った。杉子は和解に来たのだ。自分のことを気にしていてくれるのだ。自分を嫌ってはいないのだ。もしかしたら幾分厚意を持っていてくれるのかも知れない。
 杉子は一寸遠慮して見せたが、武子に云われるとすぐ座蒲団の上に坐った。
「なにをしよう」
「なんでも」武子は云った。
「組をわけてプラス、マイナスをしようか」
「ええ」
「どう組むかな、野島と杉子さんと組んだらどうだ」
 誰も返事はしなかった。
「それなら女同士と男同士とやるか。それでやる勇気がありますかね」
「ありますわ。ねえ杉子さん」
「ええ。男の方《かた》の方でありさえすれば」杉子は少しきまりがわるそうに云った
「之はおどろいた」
 皆笑った。組はきまって、大宮は器用にしかし無造作にきってわけた。
 トランプは殆んど武子と大宮の勝負だった。杉子と野島は時々馬鹿気たへま[#「へま」に傍点]をやった。野島は時にはうまいこともやったが、随分へまもした。杉子は時々トランプのことを忘れているようにも見えた。武子に注意されてあわててまちがった札を出したりした。顔は益々赤くなって、どうかすると手さえふるえるように見えた。
 気をとりなおすように気がきいたことをするかと思うと、すぐへまをした。野島もそれに気がつくとへんに気がおちつかなくなった。何か見てはならないものを見るような気がした。杉子は恋しているのだ。自分に? いやもしかしたら大宮に? もしそうだったら。
 野島はちらっとそんなことを考えた。しかし例の自分の廻り気だろうと思った。その内に杉子もおちつき出した。そしていつものように快活になった。それで野島も、気のせいだと思った。そしてへんに思ったことさえ忘れてしまった。だが、その後も大宮を恐れる気だけはのこった。
 彼は大宮の様子を見ないわけにはゆかなかった。しかし大宮は普段と少しもかわらなかった。杉子を眼中においていないようだった。いつもよりいく分か快活に見えたが、それだけだった。彼は大宮のその態度を感心したくなった。武子は実に無邪気だった。そして少しでも勝つと喜んだ。そして少しでも負けそうになると怒った。そして杉子を妹のように叱《しか》りつけたり、教えたり、おだてたりしていた。
 杉子は武子に従順だった。殆んど口答えさえしなかった。そして武子に云われる通りにしていた。その従順な所が、なお可憐《かれん》に見えた。武子は時々随分乱暴なことを云った。
「あなた、だめよ。そんなもの出して」
「それだって他《ほか》に何にもないんですもの」
「それならさっき妾の出す時、注意なさればいいのに」
「だって野島さんがもっと大きいのを出すと思っていたのよ」
「それだってその札は野島さんがついさっきとったのよ。あなたはぼんやりして見ていなかったのね」
「ごめんなさいよ」
 皆笑った。野島はその時の杉子の表情を限りなく可愛く思った。
 トランプは二時間程つづいた。野島は時間もその他のことも忘れて幸福になっていた。そして杉子のよろこぶ時は心からうれしかった。
「もう帰らなければ」と杉子は不意に云った。
「まだいいじゃありませんか」
「いつまでいても限《き》りがありませんから。それでは明日は是非来て頂戴ね」
「上ります」
「それでは失礼しますわ」
「そうお」
 杉子は大宮に礼を云った。
「其処まで皆で散歩しなくって」
「してもいいよ」
「お送り下さらないでも」
「いいえ、お送りしてよ。散歩がてらに」
「恐れ入りますわ」
「遠慮すると怒ってよ」
 四人はそとに出た。そして海岸を通って杉子を送って行った。
 杉子は野島にふいに話しかけた。
「野島さん、村岡さん御存知?」
「芝居をかく、いつか仲田君やあなたと見にいった?」
「ええ、あの方がお友達と鎌倉に来ていらっして、さっき一寸見えて、あなたのことを聞いていらっしてよ」
「そうですか」
「あの方はこの二十九日にうちで芝居をするので、女優がないから、妾に出てくれとおっしゃるのよ。早川さんの親友で早川さんもおすすめになるの。ですけど妾はなんだか気まりがわるいのでお断りしようと思っておりますの」
「それは断った方がいいね」と野島は大宮に合槌《あいづち》を求めた。
「それは勿論、お断りになる方がいいでしょ」
「兄が野島さんや、大宮さんにきいてきめろと申しましたの。それならお断りしますわ」
「それはお断りしなければ、妾は杉子さんと絶交するわ。妾、誰が嫌いだって村岡って云う人位嫌いはないの」武子は云った。
「どうしてそんなに大嫌いなの」
「だって嫌いだから仕方がないわ。あなたはあの人のかくものを嫌いにならなければ駄目よ」
「そんなら嫌いになりますわ」
 皆笑った。
 その晩、野島は幸福だった。杉子は自分を嫌ってはしない。もしかしたら自分を愛していてくれるかも知れない。あの人は武子さんの云うことなら何でも聞き、又信じる。武子さんは自分の価値を知って居る。あの人も少しずつ自分のいい所がわかり出したのにちがいない。彼は武子と大宮に感謝したかった。その晩はよくねむれなかった。

 二十四

 翌日だった。朝早く彼は海岸に出て、ある砂丘の上に腰かけて海を見ていた。幸福は彼の心を満していた。希望は輝いていた。彼は何かに感謝したい気がした。それと同時に、何かに未来の幸福の為に祈りたかった。
 彼は杉子と一軒家をもつことを考えた。杉子が自分一人にたより、自分一人に媚《こ》び、自分一人の為に笑顔をし、化粧をし、自分の原稿を整理し、自分の為に料理をつくり……、彼はそんなことを考えると天国に居るよりもなお幸福になれるような気がした。その時、自分は精神界の帝王になり、杉子は女王になる。自分の脚本は世界を征服する。自分の脚本の私演を杉子がやる。自分達二人は一緒に旅行する……
 彼はそんな夢を勝手に見ていた。すると大宮がやって来た。
「早いね」
「君こそ早いね」
「僕はよく眠れなかった」
「そうだろうと思った。僕は今日君によろこびを云おうと思った。昨日初めて僕は君がなぜ杉子さんを本当に恋するようになったかがわかった。僕は今迄杉子さんの価値を内心ひくく見つもっていた。あの声とあの表情では大概の男がまいるのはあたりまえと思ったよ。僕でさえ、君の妻になる人として尊敬する気がなかったら心を動かされたかも知れないと思ったよ。しかしそれだけじゃない、僕は杉子さんが君のいい所を認めだしたことに気がついた。武子にも君のことをほめていたそうだ。早川はあんまり信用していないらしい」
「しかし僕より君を尊敬しているかも知れないよ」
「そんなことはないよ。僕は碌《ろく》にあの人と話したことさえないのだから。少なくも君を信用していることはたしからしい。ともかく僕は昨日の杉子さんを見て、君の結婚の幸福を本当に望む気がしたよ。今までそう云っては失敬だが、少し疑っていた。あれなら安心と思った」
「ありがとう。君にそう云われると僕は本当に安心する。僕ほど幸福なものはない」
「君は幸福になっていい人間だ。それで浮き足にはなれない人間だから」
「僕はまだよろこぶのは早いことは知っている。しかしともかく僕は君達の信頼に背《そむ》かないだけの人間になるよ」
 野島は少し涙ぐんだ。
「海に入ろうか」野島はそう云った。
「入ってもいいね」
「入ってから僕は一ねむりするのだ」
「僕は小説をかき出したよ」
「そうか。僕も何かしたくなった。勉強もしたい」
「お互に偉くなろうね」
「それはきっとなれるよ。君がいてくれるのがどんなにうれしいだろう。日本も之《これ》から面白くなる。本当に仕事らしい仕事をしなければ不名誉だ」
「昨日、村岡の話にはおどろいたね」
「随分図々しい奴だね」
「きっと、見ていたまえ、杉子さんが入らなければ芝居をやるのはやめるよ。あの仲間では村岡はまだいいのだよ。もっと恐ろしい女たらしがいるのだよ」
「しかし断られただけで満足はしないだろう。何か手をかえてくるだろう」
「いくら手をかえて来ても、武子がいるから安心だ。あれは自慢じゃないが、一こく者で、僕達を信じ切っている。それに仲田のうちでも武子に一番遠慮している」

 二十五

 杉子を中心にしていろいろの男があつまり出した。仲田の家は交際家であり、仲田が又交際家であり、杉子がまた誰にでもある点までは遠慮なく愛嬌《あいきよう》を見せる質《たち》であり、早川がまた社交家である。
 仲田と一寸でも知っているものや、早川の友達、そう云う連中が五六人、よく仲田の家に集った。皆トランプしたり、ピンポンをしたり、一緒に海水に入ったりした。従って野島は杉子のそばによりつくのがいやになった。
 早川とも少しへんになっている。其処に村岡の仲間が近づき、ある一高の生徒が近づき、北極星の周《まわ》りを北斗七星が廻るように廻っている。皆が杉子を露骨に讃美することがはやり出した。武子さえ、杉子の家にゆくのをいやがった。しかし仲田兄妹は暇を見ては大宮の家に来た。大宮に来るのか、野島にくるのか、武子にくるのかわからなかった。
 ともかく、杉子も仲田のくるのも目的は武子にあるらしく野島は思った。しかし杉子の時々来てくれるのは何よりうれしかった。それを厚意に解釈出来る時はなおよろこんだ。
 大宮はますます杉子に冷淡になった。大宮は方々から原稿をたのまれ出したせいもあって書斎に籠《こも》っている時が多くなった。仲田は野島の処にくるような顔していた。野島の室によく四人集って何かした。武子は大宮をよびに時々行ったが、
「書きものしているから失礼します」とことづけた。之をきくと野島はある刺戟をうけた。しかし杉子とあそぶ時は大宮のことも、脚本をかくことも忘れた。ただ杉子の帰る時がせまってくるのを恐れるだけだった。杉子はもう野島にはすっかり親しくなった。
「大宮さんはあなたとちがって勉強家ね」と云ったり、武子に、「大宮さんは兄をお嫌いじゃないの」と云ったりした。
 しかしたまには大宮も出て来た。そして仲田とも仲よくあそんだ。
 あるとき、仲田の家でピンポン大会をするからよかったらしに来てくれという通知を杉子がもって来た。
 することは出来ないが拝見に上りますと答えた。大宮はゆきたがらなかったのだが、野島にたのまれて出かけることにした。
 三人はわざと少しおくれていった。三人は皆に歓迎された。早川は大宮を先ず皆に紹介した。皆好奇心と尊敬とを見せた。村岡は、
「あなたのものをどれも感心して拝見しています」と云った。
「どうも」と大宮はいって、あとの「ありがとう」を口に出さずに感じだけで濁した。それが謙遜《けんそん》からか、傲慢《ごうまん》からかわからなかった。
 次に野島が紹介されたが、それは露骨に冷淡にあしらわれた。むしろ約束でもしてあった程、二人の間に尊敬の差を見せた。
 野島は丁寧にお辞儀したことをとり返したいような気がした。しかし知らん顔して居た。武子は皆に注意されていたが、一向平気に気軽にあいさつして、杉子のそばに行った。
 仲田の母は丁度来ていた。そして、武子にいい処の席をすすめ、大宮にはわざわざ紹介してもらって、程度強く厚意を見せ、いい席をすすめ、野島は自家の人のように親しさを見せて、大宮のわきの席をすすめた。腰かけは十程、ふぞろいのがおかれてあった。早川と村岡の仲間は、向い側に腰かけていた。先ず五人ぬきの競技が始められた。

 二十六

 皆そううまくはなかった。一人一高の生徒が図ぬけていた。それは村岡を崇拝しているらしかった。その他は勝ったり、負けたりしていた。一高の生徒は四人ぬいた。五人目に誰も出る人がなかった。
「杉子さんは今日はやらないのですか」
「妾、今日拝見するの」
「それはいけませんね」と誰かが云った。
「だって妾、負けるといやですもの」
「勝ったり負けたりするので面白いのでしょう」
「負けて許りでは面白くありませんわ」
「あなたは負けませんよ。とても僕なんか敵《かな》いません」一高生徒は云った。
「おしなさいよ」武子は腹立てたように云った。皆がいろいろ饒舌るのを聞くのがいやなように。
「武子さんがそうおっしゃるなら、負けてもしますわ」
 野島と大宮の他は皆|喝采《かつさい》した。
 一高の生徒は過失か故意か、つづけて三つしくじった。杉子の方が景気がよかったり、うまくやったりすると、皆|厚顔《あつかま》しくほめた。
「君は相手じゃないね」
「とても杉子さんには敵わない」
 杉子も二つ程しくじったが、とうとう勝った。皆拍手喝采をした。
「それなら一つ兄の威光でやってやるかな」
 仲田はそう云ってかわった。皆大笑いして喝采した。全体の調子が急に高まったようだった。
 仲田に味方する者は誰もなかった。仲田がしくじると皆嬉しそうに笑った。そして杉子のうまいのを大げさに誇張してほめあった。それが野島には空々しく軽薄に聞え、根性が見えすくように見えた。彼の顔は益々苦虫をつぶしたようになった。来なければよかった。毎日こんなことして皆さわいでいるのだろうと思ったらいやな気がした。彼は仲田の味方をしたい位に思った。だが黙って笑い顔さえ見せなかった。大宮はもっと自然な態度をとって居た。笑う時は笑った。不愉快な時は顔を一寸しかめたが、又すぐ愉快そうに皆と一緒に笑った。だが手もたたかなければ、何にも云わなかった。
 仲田は大笑いのうちに負けてしりぞいた。
「それなら一つ仲田君の讐《かたき》をうつかな」
 早川はそう云ってかわって出た。皆喝采した。杉子は実際、その日はうまくもあった。時々駄目かと思う処をうまく切りぬけた。
 皆はその度に嬉しがった。ほめ上げた。杉子もうれしそうに、少し上気した顔はいつもより生生して、美しく見えた。注意が一つに集って、手が機敏に動いた。野島も何もかも忘れて讃美したい気持で見ていた。しかし時々皆がお世辞の競争をするには閉口した。
 早川も負けてしりぞいた。
「今日は杉子さんには何かついている」
 皆よろこんだ。
 四番目に、村岡が出た。
「それなら一つ負けに出るかな」
 村岡の仲間は大喝采をした。村岡はいい加減うまかった。しかし半分茶かしたようにした。そして杉子に其処を突込まれて強い球をたたきつけられるとしくじった。
 皆その度によろこんだ。村岡もまけた。今度は誰もすぐは出なかった。
「今日の杉子さんにはとても敵わない。五人抜したのも同じことだ」と誰かがいった。
「本当にうまいのにおどろいた。いつも皆|飴《あめ》を喰わされていたのだね」
「野島君、どうです」早川が云った。
 皆喝采した。野島は本当に閉口した。すると大宮が云った。
「野島の代理を僕がしましょう」

 二十七

 皆、大なる期待をもってその勝負をむかえた。拍手は一きわ盛んに起った。皆、大宮には一目おいていることが露骨に感じられた。
 杉子は赤い顔をしてぼんやり立っていた。思わぬ敵に出くわして、逃げこみたいようにも見えた。何か云いたそうにしたが、言葉は外に出なかった。勇気を起すように用意した。
 審判官の合図があって、大宮はまず球をうち込んだ。初めはしくじったが、それは明かに杉子を頭からやっつけるような獰猛《どうもう》なものだった。杉子は度肝《どぎも》をぬかれたようにふるえ上るように見えた。二番目はそれ程ではなかったがひねくれた球だった。杉子は辛うじてうち返したが、次の極端に意地のわるい球には手の出しようがなかった。
 皆、大宮のうまいのに驚いた。しかしその容赦のないのになお驚いた。皆のピンポンは女王のお相手をしているのなら、大宮のは獅子が兎《うさぎ》を殺すにも全力をつかうと云う風だった。勝負は二度やることになった。
 杉子がサーブをして処女のような人のいい球を打ちこむと、それがまた脱兎《だつと》の勢いで帰って来た。杉子はすっかり勢いにのまれてしまった。しかし杉子は自暴《やけ》はおこさなかった。一生懸命になって暴君のお相手をするように見えた。
 野島は見ていて冷々した。いたいたしい気さえした。他の人にたいしては痛快に思ったが。武子はうれしそうに見ていた。勝負は無造作にかたがついた。座は少し白けた。
「大宮さんは本当にお上手ね」と杉子は少しどもりながら本当に感心したように、武子に云って、上気した顔に乱れかかっている髪をなで上げた。
「随分乱暴でしょ」
「あれが本当ね、妾《わたし》達のはママゴトね」
 一高の人がかわって出た。犬の噛《か》みあいのような勝負をしたが、大宮の敵ではなかった。仲田が出たが、すぐまけた。もう出る人はなかった。大宮は野島を見て気まりわるそうに笑って引込んだ。それが野島には奥ゆかしく、うれしく思えた。
 ピンポンはそれでお流れになって、それから皆、菓子を食ったり、茶をのんで話をした。野島達はいい加減で切りあげた。
 夏の夕は気持がよかった。別荘の沢山ある道は気持がよく、蝉《せみ》のなき声も余りに高くはなく、夏の夕らしい感じを与えた。三人は各々何か考えているようだった。少しして武子は云った。
「妾、胸がすいたわ」
「僕はあとで大人げない気がして淋しかった。しかし野島の困っているのを見ると出ないわけにもゆかなかった。出ればああやるより他なかった」
 野島に、
「君に不愉快を与えやしないかと気にした」
「そんなことはない」
「皆があまり空々しい御機嫌をとっているのだろう。僕もしなければいいが、すればああやるより仕方がなかった。杉子さんにたいして尊敬は失いたくないとは思ったが」
「杉子さん、ちっとも不愉快には思っていらっしゃらなくてよ。反ってあなたのことをほめていらっしたわ」
「ピンポンがうまくったって自慢にはならない」
「だがあんな遊びでもその人の性質の出るものね」
「そう云われると恥かしいよ。俺は自分ですぐムキになるのがわかって滑稽な、恥かしい気がした」
「僕は、君の態度を少しも恥かしがらなくっていいと思うよ。僕は本当に気持よく思い、胸がすいたよ。僕は出ろと云われた時どうしようかと思った。君が出てくれたので本当に嬉しかった」
「君にそう云われれば僕も安心する」

 二十八

 翌朝だった。野島は不意にさむけがし、頭痛がした。熱をはかって見たら三十八度九分あった。彼は床に入った。しかし元気は失わなかった。彼は寝床で西洋の本や画《え》を見ていた。大宮や武子は心配したが、彼の方が反って安心していた。医者にかかる必要もない、その内なおると云った。そして風邪《かぜ》薬をのんだ。午後二人は海に入りに行った。野島はうとうとねむった。その内ふと足音で目がさめる迄、三時間許りねこんだ。
 大宮は一人で入って来て「どうだ」と云った。
「大へんいいようだ。もう寒気もとまったし、こうしていると頭痛もしない」と云った。
「杉子さんからお大事にとことづけがあったよ」
「そうか」野島は感謝したかった。
 大宮は杉子のことはそれっきり云わなかった。そして野島の枕許《まくらもと》にある泰西美術史を見ていた。すると不意に、
「西洋にゆきたくなった」と大宮は云った。
「どうして」
「僕はレオナルドや、ミケルァンゼロや、レンブラントの本物が見たくなった。ベートオフェンの音楽もじかに知りたい。マーテルリンクや、ローマン・ロランにも逢って見たい」
 野島は大宮が西洋にゆきたい気のあるのは前から知っていた。しかし大宮は三十二三になってからゆくと云っていた。
「それは僕も行って見たい。しかし今はやはり日本にいる方がいいと思う」
「君は日本にいなければ駄目だよ。杉子さんのことがあるから。僕は自由な内に行って来たい」
「君は三十二三になってからゆくと云っていたろう」
「僕はこの頃はすぐにもゆきたくなった」
「そんな話はちっとも聞かなかった」
「正直に云うと今、不意にゆきたくなったのだよ。この本を見ていたら」
「なんだ。僕はもっと根拠のある話かと思った。今君に行かれると僕は本当に淋しい」
「僕も今君とはなれるのはよくないとも思うがね。向うへゆけば、本や画を送るよ」
「本当にゆくのか」
「ああ、僕はもう決心した」
 野島の腹の底の何処かではこのことをよろこんだ。彼は杉子が早川や、その他の人を尊敬していないことを感じだしていた。それと同時に彼にとっての大敵は実に親友の大宮だと云うことを感付かないわけにはゆかなかった。大宮は安心だが、杉子の方が、大宮にあまり感心してしまわれては困ると思った。しかしそう思うだけ、ことが露骨なので、とめなければわるいような気がした。又実際、今大宮にわかれるのは淋しくもあった。しかしどっちの気が強いか、ややもすると押えようとしても押えきれない気持はどっちか。それは寧《むし》ろ大宮の外国へゆくことをのぞむ心だった。そして行くのをやめたと云われるのが反って怖《おそ》ろしい気もした。外国へ行くと思っていて行かなくなるとがっかりしはしないかと云う不安さえ感じた。そしてその根性を自分でも醜く思った。之が自分の本音か、自分の友情か。野島はそう思うと自分が骨の髄迄利己主義のような気がした。しかし大宮は外国へ行けば行くで、何か獲物をしてくる男だ。大宮は何処へ行ってもまちがいのない、得るものをちゃんとうる男だ。ジョットーや、ミケルァンゼロや、レオナルドや、デュラー、レンブラントの本物を見る。又ドラクロア、ミレー、シャバンヌ、セザンヌなぞの本物を見る。それからよき芝居とよき音楽と、よき本を見る。自由な心で。彼はそう思うと其処に又一種の恐れを感じた。おおお[#「おおお」に傍点]、自分は何と云う見下げた男だ。
 自分も真価の方でしっかりやらなければならない。杉子よ、自分を信じてくれ、自分にたよってくれ、この獅子に翼を与えてくれ。
 野島はそんなことを考えた。

 二十九

 其処に武子は入って来て、
「御病気どう」と云った。
「ありがとう、もう随分よろしい」と野島は云った。
「熱をお計りになったら」
「ありがとう」彼は武子の親切をありがたく思った。病気で気がよわくなっているので、なお、之が杉子だったら自分は病気したことをどんなに感謝したろうと思ったが。
 熱は八度二分位にさがっていた。
「何かお食べになりたいものなくって」
「ありがとう。別に」
「口がかわくでしょ。梨でもとりにやりましょうね」
「それがいいだろう」大宮は云った。
「ありがとう」
 武子は出て行って、すぐかえって来た。
 野島は杉子のことが聞きたかった。自分の病気を本気に見舞ったのか、ただ礼儀に見舞ったのか、少しは心配してくれたのか。少しも心配してくれなかったのか。しかし聞くことは出来なかった。
 大宮は武子に、西洋に行こうかと思うことを話した。
「何処にいらっしゃるの」
「まあ伊太利《イタリー》から仏蘭西《フランス》だね」
「羨《うらや》ましいわ、いついらっしゃるの」
「この九月か、十月に」
「そんなに早く、本当?」
「本当だよ」
「杉子さん、随分……」武子はそう云いかけてあわててどもった。しかし之は野島には随分の打撃だった。しかし聞きちがえのような気もした。誰も、そのことを気がつかないような顔していた。
「妾も行きたいわ」
「行ったらいいだろう」
「妾、だめよ。お兄さんが行くと云うと叔母さん随分心配なさってよ」
「今の内ゆく方が反《かえ》っていいよ。もう六七年あとにゆくより」
「妾、音楽の才があれば西洋にゆきますがね。ただ見ただけではすまないわ。それにお母さんは承知なさらなくってよ。妾がわきに居るのはお嫌いでも、妾をもう何処かに嫁にやろうと思って心あたりをつけていらっしゃるのですもの。再《さ》来年位になったら、妾新婚旅行で外国にゆくかも知れないわ」
「そうすれば向うであうか」
「向うで逢えれば随分うれしいでしょうね。ルーブルにつれていって頂戴ね。それから芝居や、音楽会に」
 野島は二人の会話を聞いている内に、へんにのけものになったような気がした。彼の家はやっと食うに困らない程度だった。大宮とはそう云う点では世界がちがっていた。しかしその点はまだよかった。二人はやはり自分にとって赤の他人だと云う気がした。武子だって自分をただ大宮の親友としていく分か厚意を持つだけで、大宮の方をどの位、信用したよっているかが露骨にわかった気がした。
 杉子も。彼は淋しく、一人ぼっちのような気がして、早く母のもとに帰りたかった。彼は元気な時には母のそばにいるのを嫌った。ある齢《とし》がくると子供は親の手からはなれたくなる本能をもっていることをよく感じた。ところが人の家で病気をすると母が恋しかった。母なら本当に自分の事を心配してくれ、熱があると心配して手がすく度にやって来て、頭をひやしてくれたり、うるさい程容態を聞いたりしてくれる。其処に誠があらわれていて疑う余地がない。しかし母以外は今の自分にとって誰も他人だ。しかしそれは無理はない。

 三十

 その晩はうとうとしてふと、大勢の笑い声がしたと思って目をさますと、大宮の室にはお客が来ているらしかった。仲田の声が聞えた。又皆の笑い声が聞えた。その内に杉子の無邪気なというより、馬鹿気たと云いたい位に野島にはとれた、笑い声がまじっていた。見舞いに来たのか。そうじゃない。遊びに来たのだ。自分の病気なぞは杉子にとっては蚤《のみ》が喰った程にも思われないのだ。
 彼は腹が立って来た。勝手にしろと思った。しかし淋しかった。孤独の感じが更に強くした。自分は杉子が病気だと聞くと本当に心配する。しかし杉子は自分の病気はまるで気にしないのだ。誰がなんと云っても、あの笑い声でわかる。そう思うと孤独な感じがした。
 大宮も笑う、武子も笑う、仲田も笑う、杉子も笑うのはあたりまえだ。だが野島は杉子だけには笑ってもらいたくなかった。
 杉子は自分のことを心配してくれて、皆にへんに思われることなんか平気になって、この室に来て、自分を看護してくれたら、自分はどんなに喜ぶだろう。極楽も之以上とは思えまい。そう思えば思う程、杉子の無頓着が、腹がたち淋しかった。
 大宮が西洋にゆく。いい気味だ。自分はもう杉子のことなんか思ってやるものか。
 自分は自分を偉大にする。自分は乞食《こじき》ではない。愛を嘆願はしない。自分を愛することも尊敬することも出来ないものに用はない。
 しかし彼は淋しかった。そして枕|許《もと》の雑記帳に、
「杉子よ、杉子よ、俺の病気の時はどうか笑わないでくれ、たのむ。お前は親切な、人のいい女じゃないか。お前だけは笑うのはよしてくれ」
 しかし杉子の笑いは、気にすれば気にする程、彼の耳にひびいた。
 彼はまだ杉子の見舞いにくるのに望みをおいた。しかし来ないのがあたりまえだとも思った。そして杉子はとうとう来なかった。十一時がなるのを彼は聞いたが、仲田|兄妹《きょうだい》の帰ったのはそれから可なりあとだった。彼はおかげで自分の病気が重くなったと思った。
 しかし翌日になると、すっかり熱がなく元気になっていた。起きると、少しふらつき、力はなかったが。そして午後皆が水泳にゆく時、彼も、大宮や武子にとめられたが、杉子の様子が見たいので出かけた。
 杉子はもう来て居た。そして野島を見ると、微笑《ほほえ》みながら近づいて、親しく挨拶して、
「御病気はもうおよろしいの」と聞いた。
「ええ」
 彼は他愛なく幸福を感じた。彼は砂の上に腰をおろした。杉子は海水服のまま、そのそばに腰をおろして、
「大宮さんが西洋にいらっしゃるって、本当」
「ええ」
「大宮さんがいらっしてはあなたお淋しいでしょう」
「ええ、大宮に行かれると、僕はもう話相手がなくなります」
「妾ではお話相手になれなくって」
「あなたなら、話相手になれます」
 野島は幸福を感じた。
「妾《わたし》この頃だんだん神と云うものがあるような気がしてきましたわ」
「ありがとう」
「之からわからないことがあったら、色々教えて頂戴ね」
「僕に出来ることなら」
「あなたは大宮さんの先生でしょ」
「そんなことはありません」
「昨日大宮さんと武子さんはあなたのことを随分ほめていらっしてよ」
「僕はほめられる資格はありません」
 彼は本当にそう思った。そして大宮たちに謝罪したい気がした。

 三十一

 彼は本当に幸福を感じた。自分が値しない幸福が彼に微笑みを見せて来た気がした。彼はすべての人を愛と感謝をもって見たく思った。自然はどうしてこう美しいのだろう。空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる。そしてかもめ[#「かもめ」に傍点]の飛び方の如何《いか》にも楽しそうなことよ。そして人間にはどうしてこんなに深いよろこびが与えられているのだろう。まぶしいような。彼はそう思った。自分のわきに杉子がいる。そして自分を尊敬し、自分にたよろうとしている。自分に住む資格がないような幸福が自分をとりまいて、悲しみと淋しさに向って彼が自《おの》ずと用意していた甲冑《かつちゆう》がいつのまにか溶けている。しかし彼はまだ何となく運命を信じ切れず、不安を何処かに感じている。しかしうれしさがややもすると抑《おさ》えきれずあふれてくる。
 彼は皆に感謝したかった。殊《こと》に神に。
「私は謹《つつし》みます。出来るだけのことをします。どうかたった一つのことは叶《かな》えて下さい。お願いですから。杉子を私のものにして下さい。杉子を私から奪わないで下さい。私はあなたの為に出来るだけ働きます。皆の幸福の為に働きます。あなたの意志に出来るだけ従います。ですから、私を憐《あわ》れんでこのあなたから与えられた限りない幸福を奪わないで下さい」
 彼は杉子にいつまでも自分のわきに居てもらいたかった。しかし杉子が立ってゆく時が怖《こわ》すぎるので、早くいい時に立って行ってほしくも思った。あまり幸福すぎる時、彼は一種の恐れを持つ。人間にはまだあまりに幸福になりきれるだけの用意が出来ていないように彼には思えた。生れたものは死に、会うものは又別れる。そう云う思想は何時となく彼の心にも忍び込んでいる。
「幸福であれ」と彼は心に祈った。沈黙が一寸《ちよつと》つづいた。
「あなたは殆んど病気をなさいませんね」
「ええ、妾は随分丈夫よ。武子さんに笑われるのよ。あなたは楽天家だから病気をしないのですって。ですけど妾だって心配はありますわ」
「どんな」
「だって人間は誰だって死ぬものでしょ。運と云うものはわからないものでしょ。こうしている内に母が死なないとも限りませんわ」
「だけど大丈夫でしょう」
「大丈夫だと思わなければ、妾、とんで帰りますわ」
「あんまり心配しない方がいいのですよ。夜半《よわ》に嵐の吹かぬものかは、と云う歌がありますね。しかし私逹は六千べんか、七千べん夜を無事に通して来ていますからね。その方が反《かえ》って不思議な気がしますが。あんまり心配すると損しますよ」
「妾だって、そう本気に心配してはいませんわ」
「あなたは出来るだけ身体を大事になさらなければいけませんよ」
「ありがとう。あなたもね」
「ありがとう。僕は本当に身体を大事にします」
「大宮さんがおっしゃってよ。あなたは意志の強い方で、身体のよわいのを意志で十分とり戻しているって。しかし御無理なさらない方がおよろしいわ。大宮さんは又あなたのことを、どうしてあんないい奴が日本に生れたのだろうとおっしゃってよ。本当に大宮さんはいい方ね」
「ええ、ええ。あんないい人間はありません。僕は大宮を限りなく尊敬しています。あんなに友情にとんだ、人の心がよくわかり、思いやりのある男は他にありません」
「本当ね。妾、あんなに友情の厚い方を見たのは初めてよ」

 三十二

 彼はもう恐怖なしに嬉しかった。
「大宮が居なかったらどんなに淋しかったでしょう。僕は大宮に慰められて勇気をとり戻すことが出来たことが何度あるかわかりません」
「本当にあなた方はいいお友達ね。それでこそ本当のお友達だといつも武子さんと話しておりますの」
 其処へ仲田が来た。
「病気だったって、もういいのかい」
「ああ、もうすっかりいい」
「昨日大宮君や武子さんが心配していたっけ」
「そうかい。もういいのだ」
「早くなおってよかったね」
「ありがとう」
「僕は近い内東京に帰ることにした」
「どうして」
「もうそろそろ涼しくなったし、ここにいると五月蠅《うるさ》くって勉強出来ないからね」
「勉強するのか」
「勉強するよ。僕も、この頃勉強する気が猛烈に出て来た」
「それは感心だね」
「感心だろう。之からの世の中は何といったって勉強の世の中だからね」
「それはそうだ」
「おちついて勉強したくなった。大宮君も西洋へ行って、うんと勉強すると云っていた。大宮君が西洋へ行って勉強してくれば本当に鬼に金棒《かなぼう》だね」
「ああ」
「世界的な仕事をするだろう」
「それはするだろう」
「僕も大宮君の話をきいていると、勉強しなければ譃《うそ》だと云う気が本当にしたよ。勉強するのは今のうちだと思った。思想をちゃんとしておかなければ、之からの世界は駄目だからね」
「それはそうだ」
「僕も大いにやる。君も大いにやり給え」
「やるよ。僕も負けてはいない」
「大宮君は実に君を信じているね。大宮君や武子さんの話をきいていると君を見上げたくなってくるよ。君はいい友達をもっていると思うよ」
 其処に大宮と武子が来た。
 四人で話している内に不意に、「明日一緒に東京に帰ろう」と云うことにきまった。
 大宮は西洋へゆく用意にとりかかると云った。
「何年いっていらっしゃるの」と杉子は聞いた。
「三四年、もっといった工合でいるかも知れません」
「もっと早くお帰りになるかも知れないのでしょ」
「それははっきりしたことはわかりません」
「妾《わたし》もゆきたいわ。何でもよろしいから、あちらにいらっしたら、何か送って頂戴ね」杉子は甘えるように云った。
「僕は無精《ぶしよう》ですから御約束は出来ません」
「それでも野島さんには何でもお送りになるでしょ」
「野島は別です」
「武子さんには」
「武子の母にたのまれれば」
「妾がおたのみしたのでは駄目」
「駄目です。しかし何かほしいものがあったら野島におたのみなさい」
 杉子はそれには答えないで黙ってしまった。
 野島は大宮の頑固なのにおどろいた。自分が大宮の位置にいてもああきっぱりは云えないと思った。譃がつけない点ではお互にまけないまでも、野島の方が頑固のこともあるが、道徳的潔癖では大宮には敵《かな》わないと思った。

 三十三

 帰りの汽車は楽しいものだった。野島は久しぶりに東京へ帰るのは嬉しかった。夏の夕方の東京を野島は好きだった。殊に本屋へ行って本をさがすのが好きだった。又久しぶりに自家《うち》の人に逢うのも自家に帰るのも嬉しかった。しかし汽車がいつまでも、いつまでも東京につかなければいいと思った。このまま極楽まで行ってもいいと思った。
 其処《そこ》には杉子がいる。機嫌よくしている。野島にもよく話しかける。梨をむいてくれる。身体のことを気にしてくれる。笑い顔を見せてくれる。親しさが目に見えて進んで来たように見えた。あたりの人は楽しそうな五人を見る。羨ましがるものも、不快に思うものも、一緒に笑いにつり込まれるものもある。
 野島にはそれは気にならない。彼は汽車がいつもより性急なのを感じる許《ばか》りだ。
 いつのまにか横浜についた。
「早いね」
「早い」大宮は少し冷かすように云った。
 横浜を出るとなお汽車は早かった。東京駅で別れをつげて、四人は俥《くるま》にのった。野島だけは電車に乗ろうとした。しかし電車は中々来なかった。身体は少し大儀だったが、歩きたい気もした。それで電車道を通って日比谷の方に歩いた。朝の十一時頃で、日は可なり強く照りつけ、あたりは日光を反射したが、彼は久しぶりに東京の土をふむのは嬉しかった。帰ると母がさぞよろこぶだろうと思った。しかし彼はそんなことより、杉子のことを考えていた。杉子のめきめきと親切になったことを考えた。
 杉子の口からもれた一こと一ことを思い出しかみしめた。其処に自分にたいする親しさと厚意が味わえた。彼は嬉しく思わないわけにはゆかなかった。

 三十四

 その後大宮は外国にゆくのに忙しかった。
 九月の末にはたつことにきまった。その日野島は横浜まで送ることにした。東京駅に大宮を送る人は五六十人来ていた。武子の父も母も来て居た。武子は大宮の母について横浜迄ゆくことになっていた。雑誌記者や、文士も見えていた。新聞記者も来て大宮と何か話していた。しかし野島はそれ等の人のことは気にならなかった。彼の気になったのは勿論同じく送りに来ていた杉子だった。杉子にしてはいつもより厚く化粧していて、いつもより美しくは見えたが、無邪気には見えなかった。そして誰とも話をせずに一人淋しく立っていた。つつましく、だが何か考えているように。少し痩《や》せたのではないかと思った。
 武子がそれに気がついて近づくとさすがに笑って見せた。大宮は野島に近づいた。
「僕は君の幸福を祈っているよ」大宮はそういきなり云った。彼は泣きたいような気がした。大宮も涙ぐんでいるように見えた。
「ありがとう。君は身体を大事にしてくれないといけないよ」
「ありがとう。僕が向うへ行っている内に二人で来給え。旅費位、どうでもするよ」
「そういけば」
 野島はそのさきは云えなかった。其処へ大宮の母が来て、野島に挨拶して、
「何とかさんがお見えになったから、挨拶しておいで」と大宮に云った。
「一寸失敬する」
「どうぞ」
 切符を切る様になったので、皆、我勝ちに入った。
 野島の一生忘れることの出来なかったのは杉子のこの日の態度と目だった。杉子は誰にも気がつかれない処に立って、気がつかれないように、一つのものを見つめていた。
 それは大宮を見つめているのだった。野島は杉子の心がすっかりわかったように思った。

 三十五

 ここで自分は少し筆をはしょる。野島は杉子が大宮を恋していることを瞬間的に直覚した。汽車は動き出して皆万歳を云って、手をふったり、帽をふったりした。杉子も人々のかげで謹み深くはんけち[#「はんけち」に傍点]をふっていた。彼女の姿は人々の動くので見えたり、見えなかったりした。しかしその目は汽車の窓から首を出して皆に返礼している大宮にそそがれていた。野島は大宮の目をぬすみ見た。しかし大宮は杉子を時々見るようでもあり、見ないようでもあった。野島は大宮が立ったあとでも、仲田の処に時々出かけて、杉子に逢った。杉子の態度は別にかわらなかった。大宮の話も時には出たが、別に野島には気にならなかった。ピンポンもした。トランプもした。しかし前程のり気になれなかった。野島は段々おちつかなかった。彼はいつ何時、杉子が人妻になるかわからない気がした。彼はとうとう一年後に間に人をたてて杉子の家に結婚の申込みをした。だが体裁よく断られた。彼はそれでもあきらめられなかった。それで仲田に、「杉子さんの本当の意志を知らせてほしい」と手紙をかいた。仲田からは「当人も今結婚する意志はまるでない」と云って来た。彼はそれから仲田の家には行くことが出来なくなった。彼は段々仲田の手紙だけでおちつけなくなった。仲田は如才ない男だ。当人の本当の意志でないことも当人の意志のように書き兼ねない男だ。本当に杉子さんの意志を知らない内は思い切りたくも思い切れないと思った。
 彼は其処で思い切って杉子に手紙をかいた。
「私は貴女なくして此世に生きることの淋しさをあまり強く味わされております。私はそれに耐え兼ねて失礼も顧みず手紙をかきます。私の心は貴女は既に御存知と思います。私は何にも申しません。唯々お願いします。貴女の本当の意志を御知らせ下さい。私は何年でもお待ちします。少しは望みがあるのですか。少しも望みはないのですか。何もかも正直に云って下さい。私はこわいのです。しかし貴女の言葉をきかない内は、少しもおちつきません。少しでも希望のある言葉を私は望んでおります。私は知らぬ神に祈ります。泣いて祈ります。少しでも希望がありますように。ですが本当のことを知らして下さい。私も男です。本当のことを知れば、あきらめなければならない時はあきらめます。そんな時のこないことを祈っておりますが、どうぞ御返事下さい。私は貴女からの宣告を恐る恐る希望に燃えながら待っております」
 杉子はそれに簡単に答えた。
「御手紙拝見いたしました。あなたのような尊敬すべき方にか程云って戴くことは勿体なく思います。しかし父や兄のお答え申した通りより私も御返事が出来ませぬ。どうぞあしからず。心であやまっております」
 野島はこの冷たい手紙を繰り返しよんだ。そして絶望だと云うことを本当に感じた。彼はすっかり参ってむせび泣いた。その二三日後に彼はベートオフェンの肖像に次のベートオフェンの言葉の原文を乱暴にかいて柱に鋲《びよう》でとめた。
「お前は人間ではない。自分の為に生きる人間ではない。ただ他人の為にのみ。お前には自分自身の内、芸術より他に幸福はない。神よ、私に克つ力を私に与えて下さい。私を人生に結びつけるものは何にもありません。Aとこうなってはすべてが失われました」ただAのかわりにSがつかわれていた。
 彼はこのことを巴里《パリ》にいる大宮には勿論報告した。大宮からは時々たよりがあったり、本や画《え》の類を送って来たが、その頃からばったり杉子のことはかいて来なくなった。彼はそれを自分の傷にふれない為ととった。
 それから一年程たって、既に結婚した武子が夫と西洋へゆく時不意に杉子も一緒に洋行することを野島は聞いた。
 野島はそれを本当にはしなかった。彼は文壇からは少しずつ認められて来、彼の芝居も二つ三つ演じられた。元よりそれは一般の注意をひく力はなかったが、一部からは大いに期待され、恐れられもした。しかし野島はそれで満足は出来なかった。彼はただ淋しかった。そして杉子のことが忘られなかった。
 一度彼は往来で杉子に出逢った。まばゆいように美しくなったと彼は思った。杉子は彼に気がついた。そして謝罪するように彼に辞儀をした。彼も丁寧に罪人のようにお辞儀をした。一こともまじえなかった。彼はもう心を失った人のように立ちどまって、彼女の方をふり向いた。彼女はふり向かずに一番近い四つ角を右の方へ曲って行った。彼は杉子がお辞儀してくれたことが、嬉しかった。そして感謝した。しかし同時に失ってはならないものを失ったことに気がつかないわけにはゆかなかった。自分は実に全世界を失ったのだと云う気がした。彼は丸善へ行こうと思って出たのだがすぐやめて家に帰って、泣いた。そして大宮から送ってくれたベートオフェンのマスクに顔をあてた。それはベートオフェンの肖像を柱に鋲でとめたことを知らした時、少しおくれて大宮から送って来たので、彼は大宮の友情に感謝して涙ぐんだ。その時の彼にこれ程ありがたい贈りものはないと思えたので。彼は持つべきものは友だと思った。杉子の洋行は事実だった。彼はあることを感じはしたが、それはうち消していた。彼はまるで誰とも逢わず、散歩と読書とものをかくのと泣くのとで日を送っていた。
 杉子がたって三四ケ月たった時、彼は大宮からへんな手紙をうけとった。それはミケルァンゼロのピエターのエハガキの裏全面に英語でかかれていた。大宮は仏語と英語が出来た。野島は独逸語《ドイツ》と英語が出来た。それで英語でかかれていた。
「尊敬すべき、大なる友よ。自分は君に謝罪しなければならない。すべては某同人雑誌に出した小説(?)を見てくれればわかる。よんでくれとは云えない。自分の告白だ。それで僕逹を裁《さば》いてくれ」
 この僕逹と云う言葉が野島にはへんに気になった。某同人雑誌は大宮を尊敬する人々によって出されている雑誌で野島もその寄贈をうけている。彼はその雑誌をうけとると、すぐ大宮のものをひらいた。そしておどろいた。目まいがした。それには次のようなことがかかれていた。

下 篇

 一

 大宮さん、怒らないで下さい。私が手紙をかくのには随分勇気がいりました。私は何度かきかけてあなたを不愉快におさせしてはすまないと思ってやめたかわかりません。あなたに怒られ、手紙をよこしては困ると、おっしゃられては私は立つ瀬がありません。私はあなたに軽蔑され愛想をつかされることも恐れておりました。ですがもう私はそんなことを心配していられなくなりました。一生のことです。一生のことよりもっと以上のことかも知れません。ともかく手紙をかきます。怒られても、愛想つかされても、この気持でいるよりはましと思います。
 先日武子さまに三越でお目にかかりました。夫の方も御一緒でした。武子さまは実際お美しくおなりでした。夫の方も立派な方でお似合の御夫婦と思いました。その時、私の方では遠慮しておりましたが、御丁寧に挨拶して戴き、その上夫の方に引きあわして戴き、そして御主人の役所にゆかれる留守に退屈だから来てくれとのお話で、私も大喜びで一昨日参上いたしました。そしてあたなのお話も伺い、最近のお写真も拝見いたしました。ハイカラにおなりになったと二人で笑いました。しかしちっとも軽薄の感じのしないのが不思議だと申しました。私は其時、武子さまに大宮さんにおねだりしたいものがあるのですが、いいでしょうかと申しました。それはいいでしょ、いくらでもおねだりになるといいわとおっしゃって下さいました。そしてお処も伺ったのでした。武子さまも、この十一月にはお二人で巴里にいらっしゃるようなお話でした。どんなに羨ましかったか知れません。巴里は私は是非一度はゆきたいと思っておりますの。ゆけそうもありませんが、一番好きな都です。日本は別として。
 私はおねだりしたいものは実は何にも御座いません。いや、あり過ぎるので御座います。が今日は御遠慮しておきます。あなたの御機嫌を伺って見て、御機嫌によって段々お願いしたいと思っておりますが、あなたはきっと頭から御断りになると思いますので。
 野島さまはこの頃ちっともお見えになりません。こないだ帝劇の廊下で一寸お目にかかりましたが、すぐ気がつかないようにお逃げになりました。くわしいことは野島さまからお話があったことと思いますが、私はおどろきました。私は野島さまを二番目に尊敬しております。いい方だと思います。私には勿体ない方とも思われないことは御座いません。あなたはきっとそうお思いになると思います。ですが、私は野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります。このことをあなたに申しておきます。両親が反対したからではありません。兄は少し勧めてもくれました。ですが私は、どうしても野島さまのわきには、一時間以上は居たくないのです。なぜだか自分にはわかりません。自分では説明もつきますが、それは要するのに私の神経の話で、かく程のこととは思いません。
 野島さまは私がいなくっても、なお立派になれる方と思います。この頃おかきになるものには凄《すご》い程、強い感じが出て来たように思います。ですが私はあなたのものの方がどの位好きで御座いましょう。あなたのおかきになるものは一言一句拝見いたします。あなたについてかかれたものもすべて拝見いたしております。私はあなたの一番いい読者になりたいと思っております。
 あなたを尊敬している方は沢山御座いましょう。ですが他の方にはわからない所もちゃんと私にはわかっておりますつもりです。
 さもないと口惜《くや》しいので、そう思っております。毎日々々、あなたの御健康と、御幸福を祈っております。どうかお許し下さい。どんな短い御返事でも下さればとび上がります。

 二

 御手紙拝見しました。正直に云うと、あなたの手紙を受けとらなかったことを僕は望んでいます。受けとっても御返事を出さない方がいいのかとも思います。ですが野島のことを、も一ぺん考えて戴きたいことを申します。
 あなたはまだ野島のいい所を本当には御存知ないのです。野島の見かけ許りにまだひっかかっていらっしゃるように見えます。野島の魂を見てほしく思います。野島を友だからほめるのではありません。野島は実際、ほめていい僅《わず》かの人間の一人です。そんな男に恋されたことはあなたの名誉です。その名誉にあなたが値しないとは申しません。僕はあなたを野島をはなして考えるわけにはゆきません。僕は野島の妻になる人としてあなたを尊敬して来ました。
 あなたは野島を二番目に尊敬すると云いました。一番目が西洋人なら今の所仕方がありません。しかしその人が日本人だったら、あなたは野島を本当には知らないのです。正直に云います。あなたはあの言葉で、僕を尊敬していることをほのめかそうとしたのでしょう。僕は野島より以上の人間ではありません。野島は僕の方が尊敬するのが至当の人間です。あなたは厚意をもって野島をもう一度見て下さい。
 野島をどうか愛してやって下さい。愛される価値のある男です。人づきのわるい無愛想で、怒りっぽい。しかし人のいいことは無類です。もう一度見なおして下さい。僕を信ずるならば、野島を愛して下さい。必ずいろいろのいい所を発見されると思います。僕は嘆願します、野島を愛して下さい。

 三

 御手紙を拝見いたしましたが、それ許りは出来ません。私も負けずに正直に申します。あなたが此世にいらっしゃらなかったら、あなたにお目にかからなかったら、私は寧ろ早川さんの妻になっていたでしょう。私はその時でも野島さまの妻になるとは思いません。私が野島さまを愛することが出来ないのは罪でしょうか。そんなことがあるわけはないと思います。野島さまが私を愛して下さったことを私は正直に申しますと、ありがた迷惑に思っております。お気の毒な気もします。しかし私のようなものをそう本気で愛して下さるのは不思議な気もします。ともかく私はどんなことがあっても野島さまを尊敬しますが、愛するわけにはゆきません。それはいいことかわるいことか、わかりませんが、私には絶対な事実です。私の力ではどうすることも出来ません。あなたのおたのみでもこのことはきくわけに参りません。
 私は何もかも申します。そして私の一生をきめてしまいたく思います。それは恐ろしすぎることです。しかし黙って運命に任せるわけにはゆきません。私は死力を尽して運命と戦います。戦うと云うよりは運命を開こうと思います。私は静かに門のそとに立って戸の自ずとあくのを待ちたくも思いました。しかし今はその戸をたたけるだけたたきたいと思います。私の真心が通じなければ仕方がありません。ともかく私は一生の勇気をふるって戸をたたきます。
 大宮さま、私を一個の独立した人間、女として見て下さい。野島さまのことは忘れて下さい。私は私です。仮りに野島さまのことを忘れて私のことをお考えになったことを、どうかくわしくかいて下さい。正直に何もかもかいて下さい。そうすれば私はあきらめなければならない時はあきらめます。
 私の写真をお目にかけます。私の云いたいことはすっかりおわかりと思います。

 四

 あなたの云おうとすることはわかり切ってしまいました。僕はそれを恐れていたのです。僕は正直に云います。僕はあなたが僕に厚意を持ち出したことを感じたので、僕がいてはいけないと思って、日本を去ることにしたのです。僕さえいなくなればあなたは当然、野島を愛して下さると思ったのです。そして結婚さえしてしまえば、僕にあなたが冷淡になるのはわかり切ったことです。僕はそれをのぞんでいました。尤《もつと》も僕のここに来たく思っていたのは昔からです。そして今は来てよかったと思っていました。野島のこともあなたのことも殆んど忘れて、毎日画を見たり、音楽をきいたり、芝居を見たり、本をあさったり、散歩したり、建築を見たり、何かかいたりしています。ここへ来てからいろいろのことを考えます。私達は恋になんか酔っている暇がないように思います。したいこと、しなければならないことが多すぎます。日本は貧弱すぎます。私達は出来るだけの力をもって、日本の文明を高め、思想を高め、世界的の仕事をどんどんしてゆくようにしなければ、日本人は世界的存在の価値を失います。今は大へんな時です。私達がふるい立たなければならない時です。あなたも、野島も。せめてあなたは、野島に親切にしてやって下さい。野島は淋しそうです。本当にうちくだかれて参っています。尤《もつと》も野島は今に起き上るでしょう。しかし淋しさは野島につきまとうでしょう。僕は今野島の脚本を一つ訳して西洋人に見せつけてやろうかと思っています。僕はあなたを憎んではしません。しかし野島にそう冷淡なのをきくといやな気がします。早川の妻になったでしょうはよくありません。あなたにはまだ本当の男の価値を見ぬく力はありません。あなたは野島を愛することが出来ないと云っています。しかしそれは譃《うそ》です。野島のいい所にふれたら、あなたは厚意をもたないわけにはゆきません。一ぺん厚意をもてばそれが愛にかわらないとは限りません。あなたは僕をも本当に知らない。あなたは僕を理想化している。僕の処に来たと仮定しても、それはあなたにとって幸福ではない。僕はいつか、野島には征服される人間です。こう云うのは残念ですが、正直にそう申します。

 五

 御手紙拝見しました。あなたは譃つきです。本当に譃つきよ。私はちゃんと知っております。何もかも知っております。私はあなたがいないことは考えられません。そしてあなたこそ本当に私を愛していて下さるのです。あなたは私を嫌い、私に冷淡を装っていらっしゃる。しかし私のいい性質をそのままに認めていて下さるのはあなた許りです。野島さま、野島さまのことをかくのはいやですが、野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを讃美していらっしゃるのです。ですから万一一緒になったら、私がただの女なのにお驚きになるでしょう。あのお方は意志の強い方です。おかきになるものは、あなたのものより世間を征服なさるでしょう。しかしその時でも、あなたは一方に平気で輝いていらっしゃいます。あなたは何もかも御存知のくせして、無理にも友情をふるい起してその他のものをはらいのけようとなさっていらっしゃいます。野島さまは私があなたの処に参ればなお偉くなる方です。そして決して参り切りにはおなりになりません。私は女です。私にはあなたのお役に立つことより他に望みはないのです。私はあなたのわきにいて、あなたを通じて世界の為に働きたい、人生の為に働きたい、私のこの願いをどうか、友情と云う石で、たたきつぶさないで下さい、野島さまには出来るだけ親切にもいたしますし、尊敬もいたします。ですがそれ以上のことは出来ないことを、罪だと思いません。

 六

 あなたからの御返事をおまちしておりますが、まだ参りません。私は心配になります。怒っていらっしゃるのですか、憐れと思って御返事下さい。私はパリに行きとう御座います。一目あなたにお目にかかりたい。そうすれば死んでもいいと思います。武子さまはこのくれにおたちになります。羨《うらや》ましく思います。御返事を、御返事をお待ちしております。

 七

 僕は何と返事していいかわかりません。僕は迷っています。野島に相談したい。だが相談する勇気はない。野島はあまり気の毒です。偉くはなってくれるでしょう。日本の、いや、人類の誇りになってくれるでしょう。だがその時、僕逹はどんな役をするでしょう。しかしそんなことは問題にならない。しかし僕は親友の恋している女を横取りには出来ません。それは友を売ることです。あの尊敬すべき、そして僕を信じ、たよっている友を。あなたはなぜ僕をそんなに愛してくれたのでしょう。僕が野島にたいする遠慮から、僕があなたにこびず、冷淡にしていた態度をあなたが買いかぶったのではないでしょうか。僕は野島のことがなければ野島よりもなおあなたに媚《こ》びたかも知れない。私はこの手紙を出そうか、出すまいか、考えた。出さない方が本当と思う。だが出す。野島よ、許してくれ。

 八

 あなたの御手紙はどんなに私をよころばしましたろう。ありがとう、ありがとう。私は今天国におります。あなたがこの世にいらっしゃる。私は本当に感謝いたします。私程の仕合せ者は世界中にありません。その内長い手紙をかきます。今はうれしくって何にもかけません。
 大宮さま、私程仕合せ者はないとしみじみ思います。よくあなたのような方がこの世に生きていて下さいました。そしてお目にかかることが出来、そしてお話することが出来、そして私に厚意を持って下さる。私は本当に、仕合せものです。あなたのおかきになるものを拝見した時から、私はあなたを他人とは思っておりませんでした。そしていつか芝居で野島さまと一緒にいらっしゃる所を拝見してから、私はあなたのような方がこの世にいらっしゃることを本当にうれしくたのもしく思いました。私はその時まだ十四で野島さまとも御話したことはありませんでしたが、あなたの男らしい立派な御容子をその後忘れることは出来ませんでした。私はそのことを恥じました。そしてそのことをいつのまにか忘れることを望んでいました。実際又忘れていました。その後往来で一度お目にかかる迄。あれは武子さまの処へ上って二人でお友達の処に参る時でした。あなたのおうちの前を偶然通って少し参りますと、あなたは大きな本のつつみを重そうに持って急ぎ足で帰っていらっしゃいました。あっと思った時、あなたは微笑みながら挨拶なさったので、私はどの位びっくりいたしましたろう。私も赤い顔してあわてて御挨拶しようと思いました時に、あなたが武子さまに御挨拶なさったのだと云うことがわかりまして、気まりの悪いような、がっかりしたような気がいたしました。妬《ねた》ましいような気さえいたしました。そして武子さまからあなたと従兄妹《いとこ》だとお聞きした時、羨ましい気がいたしました。あなたは武子さまと何か話していらっしゃいました。いい画の本を買ったのだとよろこんでいらっしゃいました。武子さまはその内、拝見に上ってよとおっしゃいました。私は余程、武子さまにおねがいして画の本を拝見さして戴きたいと申しかけましたがやめました。私はここでもう一つ白状いたします。それは私はあなたのお家の前を通った時、お家の立派なのにおどろいたことです。しかし私を虚栄心の強い女とは思わないで下さい。野島さまがあなたの位置に居、あなたが野島さまの位置にいらっしても私はあなたを愛しないわけには参りません。私はあなたにだけは何んでも申し上げることが出来るように思います。世の中では女に生れても、本当の女のよろこびを味わうことが出来ない人が多いように思います。むしろ本当のよろこびを知った人は甚《はなは》だ少ないと思います。私もあなたに逢い、あなたとお話し、あなたと一緒に遊んだり笑ったりするまではこの世にこんなよろこびがあり、人間がこんなにまでよろこべるものかと云うことを知りませんでした。知らない内はよろしい。しかし一度知った以上は、それを失っては生きてはゆけないような気がします。いつかあなたとトランプをした時、いつかあなたと海岸で二人で散歩した時――あなたが外国にゆくことをおきめになった日――その晩またお邪魔に上った時、私はうれしくってうれしくって、どうしていいかわかりません。神に感謝しないわけには参りませんでした。人間に生れてよかった。女に生れてよかった。あなたに逢えてよかった。勿体なさすぎる程自分は運がいいと思いました。なぜか私はあなたの外国行をあの時、本当にはしておりませんでした。私の力でもおとめして見せると思っておりました。あなたが私に冷淡になさろうと努力なさる度に、反って私はあなたが私を愛していて下さることを信じることが出来ました。ピンポンの会の時も、私はそれを感じて、負けてもうれしかったのです。あなたの義侠心と男らしさと、女に媚びるものに対する怒りと、其処に又私をひそかにいたわって下さった御心づかいとを私はちゃんと感じておりました。私は野島さまのことはまるで無頓着でおりましたから気がつきませんでしたが、あなたの御心だけはちゃんと見ぬいておりました。ところがやはり西洋にいらっしゃる、私は本当にびっくりしました。心配になって来ました。しかし私は東京駅へお見送りをした時にあなたの御心を又見ぬいたと思いました。しかし私には一つ腑《ふ》に落ちないことが御座いました。なぜあなたがそんなに迄、私に冷淡を装い、外国にいらっしたか、それがわかりませんでした。野島さまから求婚して下さってから、やっと合点がゆきました。それで私は反って安心もいたしました。
 今になってあなたが野島さまのことをいろいろおほめになった理由が、すっかりわかります。あなたが外国へいらしったことの表と裏の理由もわかります。
 今でもあなたは野島さまのことを心配していらっしゃる。野島さまへの義理をかかない為に、私を捨ててもいいように思っていらっしゃる。私はあなたの義理の固いのを尊敬いたしますが、もっと私のこともお考え下さい。さもないと私が可哀そうです。野島さまはきっと私を失っても、もっと適当な方におあいになるにちがいありません。その証拠には私を私のままにはお愛しになれないのでもわかります。第一、私の心に野島さまの愛が少しもひびかないのでわかります。大宮さま、あなたは私をおすてになってはいけません。私はあなたの処に帰るのが本当なのです。大宮さま、あなたは私をとるのが一番自然です。友への義理より、自然への義理の方がいいことは「それから」の大助も云っているではありませんか。どうぞ、私をすてないで下さい。私はあなたのものです、あなたのものです。私の一生も、名誉も、幸福も、誇りも、皆、あなたのものです、あなたのものです。あなたのものになって初めて私は私になるのです。あなたを失ったら私はもう私ではありません。それはあまりに可哀そうな私です。私はただあなたのわきにいて、御仕事を助け、あなたの子供を生む為に(こんな言葉をかくことをお許し下さい)ばかりこの世に生きている女です。そしてそのことを私はどんな女権拡張者の前にも恥じません。「あなた達は女になれなかった。だから男のように生きていらっしゃい。私は女になれました。ですから私は女になりました」そう申して笑いたく思います。二人で生きられるものは仕合せ者です。ね、そうではありませんか。大宮さま。

 九

 あなたの手紙を見て僕は次の様な対話をかきました。僕の心のある所をお察し下さい。
「A。お前は何を考えている。あの人のことか」
「そうだ。あの人のことだ」
「君は、君の親友のことは考えないのか」
「それを考えなくていいのなら、僕は何を苦しもう。僕は二つの間に立った。僕はどっちかを失わなければならない。僕は友のことを考える。いや友のことは考えすぎた。そして僕はあの人の価値を出来るだけ、ひくく見ようと努力して来た。自分はあの人を好きになってはたまらないと思ったので。しかし正直に云えばあの人を好きになったのは友達より先だったかも知れない。しかしその時、自分はただ一目見ただけで、愛らしい女だと思っただけで、僕はそれ以上思わなかった。そしてその女と結婚したいなぞとは夢にも思わなかった。ただ従妹《いとこ》と従妹の家の庭で繩とびしているのを見ただけで、その女の名もその時はきかなかった。しかし友からその女を恋していることを聞かされた時、自分はその女ではないことをのぞんでいた。そしてその女と云うことが疑えなくなった時、自分は少しがっかりした。しかし自分はそれを意識するのを恥じた。自分はその女のことをまだそうひどくは思っていなかったのだから。そして、その女をその後二三度見はしたが、ただその時、可愛らしい娘だと思うただけにすぎなかった。ところが友が来てその女のことをほめちぎる。自分も何か暗示を与えられたような気がした。しかし自分は友の恋している女だ、自分に要はないと思おうとし、又思っていた。そして出来るだけ冷淡にし、好きにならないように注意した。しかしその後ある夏、その女とKであった時、自分はその注意がややもすると力のなくなることを感じた。自分は之では困ると思った。それでその女をさけるようにした。だが逢いたい気はややもするとした。そして或る月のいい夜、友と歩いて、いろいろ未来のことを話している時、自分は美しい声の歌をきいた。その声はへんに自分の心に響いた。自分はその女を一目見たかった。しかしその女はきっと醜い女だろうと思って居た。その時友はあれはあの人だと云った。自分はその時、一種の嫉妬《しつと》に打たれた。同時に用心しなければと思った。そしてその人は、やはりその人だった。遠慮して、自分達の足音が聞えると歌うのをやめた。そして人かげに立っていた。だが自分は、目のいい自分は、その女が自分を見ていることを感じた。眼の近い友にはそれはわからなかったろう。自分は一寸|釘《くぎ》づけにされたようにぼんやりした。だが自分はすぐ意識をとり戻した。この女は友の恋人だ、自分は愛することを禁じられている、すきになってはいけない、そう思った。それで一緒に散歩しないかとその兄にすすめられたが、自分は断って一人わかれて帰ることにした。すると友も一緒について来た。二人は暫《しば》らく黙っていた。しかし友は傲《ほこ》るように見えた。自分はその時から、ややもすると、ある謀叛心《むほんしん》が出かけた。しかし自分はそれを恐れた。それで反って友にもっと積極的に出ることをすすめた。その晩はへんに胸がおちつかなかった。早くおちつきたい、あの女に無頓着になりたい、そして友人の妻としてのみ、あの女を見るようにしたいと思った。自分はある所までそれに成功して、道徳的誇りを自分でさえ感じた。そして自分はその友の幸福の為に働きたいとさえ思った」
「しかしその為には働かなかったのか」
「私は知らない。働いたらしくもある。しかしその結果は働いたことにならず、反って自分をその女に立派に見せることに役立てたらしい。ともかく其の女がその友を愛していてくれれば問題はなかった。自分は自分のその女にたいする感情を厚意の程度でとめておけたろう」
「お前にはそれが出来たか」
「出来た。出来ないにしろ、二人がお互に愛してい、女が自分の存在に無頓着ならば、自分はどうすることも出来なかったにちがいない。だが自分はその後間もなくその女が自分に本当に厚意をもっていることを知った。その女は自分を見ると顔色がかわり、ぼんやり自分と二人は顔を見合せることが多くなった。自分は一人女から離れていても、自分達の目はよく出逢った。自分はそれをこばもうとした。しかしそれは自分の力にないことだった。自分はその女の愛を友の方に向けたく思った。事実向いたら心細かったかも知れない。事実、何処かで安心し切っていたのかも知れない。しかしともかく意識的には出来るだけその女をさけ、そして友に対する務を果そうと思った。しかしそれは何にも役にたたなかった。そしてややもするとあぶなくなった。不安を感じた。友からその女を横どりしたい気にもなった。このままでいたら困ると思った。自分は人間を愛することに不安を感じる男だった。人間はいつ死ぬかわからない。人間の心はいつかわるかわからない。自分はその上、尊敬する友と女の奪いあいをするのがあさましく見えた。その女のまわりに多くの男があさましく集ってその女を女王のように大事にして、肉慾をかくした衣をきた狼《おおかみ》の仲間入りするのがいやでもあった。自分はまだ女につかまり切っていない。今ならまだ自分は友にその女をゆずることが出来る。しかしこのままでいてはあぶないと云うことを益々感じた。自分は何度その女のもとを去ろうと思ったか知れない。友の為にも、自分の為にも。自分が去れば女は自分のことを忘れるだろう。そして野島のことを思ってくれないとも限らない。自分はまだその女なくも生きてゆける。しかし友にとってはあまりひどい打撃だ。しかも友は自分に前からその恋を打ちあけ、自分にたより、信じて安心し切っている。そしてむしろ感謝している。男が自分を信じるものを裏切ることが出来るか。出来ない。自分は友の為に去るのが本当と思った。それはその女が来て自分と一緒にトランプした晩だった。その晩よくねむれないで朝早く起きて海岸にいった。友は既に浜に出て何か考えていた。自分はやはり友の方が本気だと云うことを感じた。そして友が前の晩のことを幸福に感じているのを見た時、自分は自分の友達甲斐のないことを露骨に感じ、友の為に本当に働きたい気になった。友はよろこんでいた。そして自分に感謝しているように見えた。しかし友もあることは感じているように見える。その女が君を尊敬していたと云ったら、『君の方をなお尊敬しているかも知れない』と云った。自分は『勿論』とも思ったが、それをうちけして友を安心させ、なおよろこばした。しかし自分は自分の空々しいのに気がとがめたので、その女のことをほめ、君が恋したのは尤《もつと》もだと云い、自分も君の恋人と思わなければ心を動かされたかも知れないと云った。自分はそれから益々意識して迷い出した。八分は友の為につくす気でいたと思う。しかし二分は、三分かも知れぬ、もしその女が自分を本気に愛していてくれるならば、それは友に世話するのが、本当か、奪うのが、本当か、それがわからなくなった」
「よし、もう君がその女を恋しだしたことも、友につくそうとした心もわかった。それで君はどうしようと云うのだ。それが聞きたい」
「僕はもう少し強く友の為に尽し、友の為に女を思い切ろうと努力した。しかし今その点について自慢しようとは思わない。自分は口と行いと手紙とでは友の為に尽した。しかし心では自分はその女のことに益々無頓着になれなくなった。ここへ来ても自分は女のことをすっかりは忘れることがなかった。そして何かで、友がその女のことをあきらめてくれたらと思ったり、ある時はふと友の死を考えたりした。友が死んでくれたらと思っておどろいたことも皆無とは云えない。独身の男は女のことを空想しないわけにはゆくまい。そして自分はいくら考えてもその女のこときり考えられなくなってしまった。しかし自分は西洋へ来て一年半程たって、稍《やや》忘れかけた。勿論、時々は随分淋しくって、その女のことを思わないでよそうと思いつつ、思い出しても見たが、自分は恋したとまでもはっきり云えない気でいるのだから、ただ他の女のことを考えることを禁じられているのでその女のこと許りつい考えるようになったとも云えるのだ。ともかく自分はその女のことを少しは忘れることになれて来た、いや、思ってある処でとめることになれて来たというのが本当かとも思う。ところがそこに思いがけなくその女から手紙が来た。そして写真まで来た。そして露骨に友達を嫌い、もっと露骨に厚意を持っていてくれるのだ。君よ、それでも僕が心を動かしてはいけないのか。自分はそれでも戦って見た。しかし冷淡な手紙を出したあとではとり返しのつかない気がした。そして女からくる手紙が少しでもおそいと僕はとり返しのつかないことをしたような気さえし、友達をうらみたい気と、あやまりたい気と、両方した。僕はもう友達に払うものは払った。あとは自然に任せるより仕方がないとも思った。勝手にしろ、なるようになれ、どっちにいっても、自分は自分の一生をよりよくする。そうは思っても見たが段々女を失うことのつらさが強くなって来た。殊に写真がいけない。それがへんに生きて見える。自分は写真を破るか、誰か西洋人にやろうかと思ったが、その勇気はなく、又それは女にたいしてもすまぬことの気がした。そして仕事をする時、ついその写真を机の上にかざるくせが出来、どうかするとそれに接吻さえして見たくなる。もう万事きまったと自分では思った。之が罪ならば罪でもいいとも思った。しかし自分は友のことを思うと、同情しないわけにはゆかない。自分が女を失うことのつらさを知るにつけて友のつらさがわかる。友からの手紙にはその気持が露骨にかかれている。ここに一つ最近に来た友の手紙がある。その一部をよんで見よう。『僕は淋しい。僕は仕事にかじりついている。無理にも仕事にかじりついている。そして自分の淋しさに打ち克《か》とうと思っている。しかし淋しい。自分は毎日うろつきまわっている。ゆきたい処も、ゆく処もない。郊外の田圃《たんぼ》や、雑木林の中を歩いたり、小川のふちに腰かけてぼんやり水を見たりしている。そしてややもすると泣きたくなる。自分は本当のひとりぼっちだ。君がいてくれたらとよく思う。本当に失恋すべきものではないと思う。子を失う母よりもっとつらいように思う。自然は何の為に人間にこんな淋しさを与えるのだろう。人間はなぜ又この淋しさを耐えなければならないのだろう。自分は鍛えられているのだと思おうと努力する。だがつらすぎる。しかし自分は自棄《やけ》は起したくない。そして益々人生と仕事にしがみつく。美しき彼女よ、自分を憐れめ、微笑の日光を一寸でもいいからあててくれ。僕の生長力は凍《こご》えそうだ。君よ、僕を慰めてくれ。僕は淋しさに耐え兼ねている。無理に勇気を起そうとしている。君よ、どうか僕に勇気を与えてくれ。君からも手紙が暫らくこないのでなお皆から捨てられたような気がする』」
「それなのにそのお前がその友達の恋人をつまり奪うことになるのだな」
「そうだ」
「それではお前は何と友達に返事を出した」
「僕は黙って、石膏《せつこう》のベートオフェンのマスクを送ってやった。そして友のかいた短かい脚本を一つ訳して仏蘭西《フランス》の友の関係している雑誌に出してもらうことにしたことと、その友がそれをよんで感心したことを報告してやった。それがせめてもの罪亡ぼしと思った」
「友はなおお前の友情のあついのに感心するだろう」
「それを思うと、なおすまない気がする。しかしそうするより他《ほか》、仕方がない。友は必ず今度のことで本当に鍛えられるだろう。友は参り切ったり、自棄《やけ》を起したりする人間ではない。人類、神と云いたい所だが、人類は彼を本当に鍛えて偉大なる仕事をさせようと思っているのかも知れない」
「それならお前は女を得て、仕事を失い、友は女を失って仕事を完成すると云うのか」
「そうは云わない。僕は女を得て、益々仕事をする力を得る。彼は女を失って益々真剣になる。両方が、日本及び人類にとって有意味であることを、自分は切にのぞんでいる」
「お前も女を失ったらさぞ真剣になるだろうな。その方がお前の仕事にはよさそうだな」
「そう云うな。俺はもう女を失うわけにはゆかない。お互に愛している。一人では生きられなくなりつつある。恐ろしい勢いで俺は二人でなければ生きられなくなりつつある。二人で生きるものは仕合せだと云う言葉は本当だ」
「それは誰が云ったのだ」
「あの人が云ったのだ」
「あはははは」
「いくら笑っても本当のことは本当のことだ」
「お前は友情のない男だ」
「何とでも云え。俺は運命の与えてくれたものをとる。恐らく、友は最後の苦い杯《さかずき》をのむことを運命から強《し》いられて其処で彼は本当の彼として生きるだろう。自分は女を得て本当の自分として生きるだろう。それは自分達が選択してきめることの出来る道ではなく、強いられて自ずと入る道である。友は得られないものを強く求めた為に何か他のものを得、俺は求めることをこばんだが、求めるものを得るくじ[#「くじ」に傍点]を選んだ。俺はそれを幸福と許りは思わない。更に進軍ラッパがなりひびいたのだと思う。彼は孤独の道に神の言葉をきく。俺のわきには天使が居て、俺をなぐさめ、俺に勇気を与えてくれる。それはすべて自分の力で得たのではない。意識して生み出したものではない。天与のものだ。自分は反《かえ》って今後の『彼』がこわい。しかし自分も負けてはいないつもりだ。天使よ、俺の為に進軍のラッパを吹け。今は人類が、立ちあがらなければならない時だ。自分達精神的に働くものは真剣にならなければならない時だ。自分達、フランス人も、イギリス人も、ドイツ人も、イタリー人も、支那人も、印度人も自分達の仲間にいる。皆若くって真剣だ。そして一つ目的、人類の為につくしたがっている。皆は自分を信じてくれる。天使よ、我を益々我たらしめよ。このよき時に、生れたる我を無意味に死なすな。汝《なんじ》の写真は、それ等の人々の賞讃を得ている。何処にも、馬鹿はいる。巴里にも随分いる。だがそのしたに生きている世界各国から集ってくる若々しい血を直接に感じる時、自分達は同じく兄弟だと思う。日本によき人間のいることを彼等は本当に喜んでくれる。彼等の上に祝福あれ」
 わが愛する天使よ、巴里《パリ》へ武子と一緒に来い。お前の赤ん坊からの写真を全部おくれ。俺は全世界を失ってもお前を失いたくない。だがお前と一緒に全世界を得れば、万歳、万歳だ。

 十

 あなたのお手紙は本当に驚喜させました。ありがとう、ありがとう。私は之から早速武子さんの処にゆきます。兄に話しましたら、兄も大よろこびで賛成してくれました。兄はあなたを実に愛しております。しかし兄も気の毒よ。武子さんに一寸気があったのよ。しかしもうすっかりそのことは忘れておりますが。野島さんだって、今にきっと私と結婚しないでよかったとお思いになってよ。いい方がいくらでもいらっしゃるのですから、結婚でもなさって、お子さんでもお出来になると。だからあんまり野島さんのことはお気になさらない方がよくってよ。あなた以外の方が私を愛して下さるなんか不自然ですわ。何しろ私はもう夢中にうれしいのです。本当に巴里へゆきますよ。どうしても。親には兄から話してもらうことにしました。母はきっとよろこびますよ。武子さんと御一緒ならこんなにうれしいことはありませんわ。ですけど武子さんに、私はまだ何にも話して御座いませんのよ。ですから少しきまりがわるいのです。ですけど、私はもう度胸がきまりましたわ。世界中の人が笑ったって、そんな呑気者も居ないでしょうが、私はもう平気ですわ。私の写真全部お送りしますわ。可笑しいのも。笑って頂戴。しかし皆さんにはいいのだけ見せて頂戴。私をそんなに賞めて下さるのはあなた許りよ。あんまり本物を見てもがっかりなされない程度で話して頂戴よ。お目にかかれたら私うれしくって泣き出してよ。もうあなたとは少しもはなれなくっていいのね。何処へでもついてゆきますわ。私はなんでも云うことをききますから本当に可愛がって頂戴。私はどんな洋服をきたらいいのでしょう。武子さんにご相談しますわ。之から武子さんの処へゆきますわ。帰って又先をかきますわ。兄が今やって来まして、母に話したら、母もよろこんで承知してくれたそうよ。私どうしてこう仕合せなのでしょう。思い切って手紙をかいてよかったわ。なんでも正直にぶつかるだけはぶつかって見るものね。用心に用心して見て、私は二年間考えましたわ。随分考えましたわ。それでもうまちがいないと思いましたの。偉いでしょ。之からゆきますわ。
 今行って帰って来ました。武子さんはもう知っていらっして、私のくるのを心待ちしていらっしたのよ。同時に出して下さった御手紙が武子さんのお家は市内なので、少し前についたのよ。武子さんはびっくりしたけど、うれしかったと云って下さってよ。本当に武子さんはいい方ね。私ないてしまいましたわ。二人であなたのことをほめて、ほめちぎって話しましたわ。御一緒にルーブルにいってモナ・リザの前に立って、あの笑い顔の真似しっこすることも御約束しましたの。
 芝居や、音楽会にも一緒につれていって頂戴ね。オペラも、あなたと御一緒に何の遠慮もなく歩けると思うと、私は本当に、本当に、本当にうれしいのよ。なんでも御一緒に見たり聞いたり、話したり出来ますのね。尤《もつと》も私は仏蘭西語はちっともわかりませんわ。英語だって何にもわかりませんわ。ですが、あなたが外国の方と外国語で話して、愉快そうにしていらっしゃるのを見ると、私もわかった気になって一緒にトンチンカンな所で笑いますわ。私は本当に考えただけで笑いますわ。
 本当に本当にあなたのような方が、この世にいらっして下さったことはよかったわ。私神様に出来るだけ御礼申しますわ。私も出来るだけ立派な人間になって皆さんの前に立っても恥かしくない人間になりますわ。本当に何処の国の方でもいい方はよろしいわね。あなたをほめる方は皆いい方よ。私はあんまりうれしいので何をかいたかわかりませんわ。いや味な所があっても許して頂戴。もう二ケ月たつと日本をたつのよ。あなたのいらっしゃる処なら、何処だってちかいわ。ありがとうありがとう。

 十一

 わが友よ。
 自分は二人の手紙をここに公にする。そして君の面前にそれをさしつける。事実をそのままさしつける。自分は君の神経をいたわってこの二人の手紙をかきなおして、君に見てもらおうかと思った。しかしそれは反って君を侮辱することになることを知った。自分は君を尊敬している。君は打ちくだかれれば打ちくだかれる程、偉大なる人間として、起き上ってくれることを僕は信じている。そして露骨に事実を示せば、君は反って怒ることによって悲しみに打ち克ってくれると思う。僕は又君につまらぬ同情をしようとは思わない。又自分の君にたいする冷酷な態度を甘く見せようとも思わない。自分はただ事実を云う。
 それに就《つい》て自分は何も云いわけしない。いや云いわけしたいことは既にかいた。ここでは何にも云わない。ただ自分はすまぬ気と、あるものに対する一種の恐怖を感じるだけだ。自分はあるものにあやまりたい。そして許しをこいたい。一方自分は自分を正当だと思い、やむを得ないと思う。そして自分のとった態度を必然のような気もする。だが何かにあやまりたい。自分は君に許しを請おうとは思わない。それはあまりに虫がいい。君はとるようにとってくれればいい。君は君らしくこの事実をとってくれるだろう。自分の方は勿論君を尊敬し君にたいして友情を失いはしない。しかしそれは反って君を侮辱することになることを恐れる。
 事実は以上のようである。かくて僕は杉子さんと結婚することになるだろう。この事実にたいして君は自分達を如何ように裁いてくれても自分達は勿論甘受する。自分は云いたいことが随分あるようだ。しかし僕から慰められたり、鼓舞されたり、尊敬されたりするのは不快に思うであろう。尤も僕達はもう十分に不快を与えすぎたであろう。今になって遠慮するのもおかしなものだ。だから正直に云おう。自分は明日からマルセーユにつく杉子の一行を迎えにゆくわけだ。二人は遠くから、許してくれるならば君の幸福を祈る。そして君が、日本、否世界の誇りになるような人間になってくれることを信じ又祈る。

 十二

 野島はこの小説を読んで、泣いた、感謝した、怒った、わめいた、そしてやっとよみあげた。立ち上って室のなかを歩きまわった。そして自分の机の上の鴨居《かもい》にかけてある大宮から送ってくれたベートオフェンのマスクに気がつくと彼はいきなりそれをつかんで力まかせに引っぱって、釣ってある糸を切ってしまった。そしてそれを庭石の上にたたきつけた。石膏のマスクは粉微塵《こなみじん》にとびちった。彼はいきなり机に向って、大宮に手紙をかいた。
「君よ。君の小説は君の予期通り僕に最後の打撃を与えた。殊に杉子さんの最後の手紙は立派に自分の額に傷を与えてくれた。之は僕にとってよかった。僕はもう処女ではない。獅子だ。傷ついた、孤独な獅子だ。そして吠《ほ》える。君よ、仕事の上で決闘しよう。君の残酷《ざんこく》な荒治療は僕の決心をかためてくれた。今後も僕は時々淋しいかも知れない。しかし死んでも君達には同情してもらいたくない。僕は一人で耐える。そしてその寂しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。君からもらったベートオフェンのマスクは石にたたきつけた。いつか山の上で君達と握手する時があるかも知れない。しかしそれまでは君よ、二人は別々の道を歩こう。君よ、僕のことは心配しないでくれ、傷ついても僕は僕だ。いつかは更に力強く起き上るだろう。之が神から与えられた杯ならばともかく自分はそれをのみほさなければならない」
 野島はそれをかき上げると彼は初めて泣いた。泣いた、そして左の文句を泣きながら日記にかいた。
「自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え」

底本 新潮文庫「友情」(昭和五十六年四月二十日九十四刷)





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