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Title: 法螺男爵旅土産
Author: Sasaki, Kuni
Language: Japanese
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Title: 法螺男爵旅土産 (Horadanshaku tabimiyage)
Author: 佐々木邦 (Sasaki Kuni)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8

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Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the
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Eg. 其《そ》

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佐々木 邦譯述

 法螺男爵旅土產

  東京 内外出版協會


法螺《ほら》男爵《だんしやく》旅《たび》土產《みやげ》
    佐々木邦譯

 暴風《ばうふう》と胡瓜《きうり》の樹《き》の話《はなし》

 拙生《せつせい》の髯《ひげ》が丁年《ていねん》到逹《たうたつ》の宣言《せんげん》をする以前《まへ》、もつと碎《くだ》いて申《まを》せば、最早《もはや》子供《こども》でもなく、さりとて未《いま》だ大人《おとな》でもない頃《ころ》、拙生《せつせい》は世界《せかい》觀光《くわんくわう》の渇望《かつばう》を口癖《くちくせ》のやうに洩《も》らしてゐた。ところが待《ま》てば海路《かいろ》の日和《ひより》とやらで、父《ちゝ》はセイロン島《たう》への航海《かうかい》に拙生《せつせい》の隨伴《おとも》を御許可《おゆるし》になつた。セイロン島《たう》には父《ちゝ》の叔父《をぢ》に當《あた》る人《ひと》が、知事《ちじ》として最早《もう》長《なが》い事《こと》居《ゐ》る。
 我等《われら》はホルランド王室《わうしつ》の國書《こくしよ》を奉戴《ほうたい》してアムスターダムに纜《ともづな》を解《と》いた。此《この》航海《かうかい》中《ちゆう》一寸《ちよつと》記載《きさい》の價値《ねうち》あるのは暴風《ばうふう》の起《おこ》つた事《こと》である。それが尋常《じんじやう》一|様《やう》の暴風《ばうふう》でなく、我等《われら》が薪水《しんすゐ》を取込《とりこ》みに碇泊《ていはく》してゐた島《しま》の、高樹《かうじゆ》大木《たいぼく》を根拔《ねこぎ》きにした。啻《たゞ》に根拔《ねこぎ》にしたばかりでない。其中《そのうち》には何噸《なんとん》といふ重量《おもい》のがあつたけれど、其《それ》が風《かぜ》に攫《さら》はれて、果《は》ては宛然《まるで》空中《くうちゆう》に漂《たゞよ》ふ小鳥《ことり》の羽毛《はね》のやうに見《み》えた。少《すくな》くとも海拔《かいばつ》五|哩《まいる》の所《ところ》に逹《たつ》したのであらう。そして暴風《ばうふう》が止《や》むか、止《や》まないに、其木《そのき》が夫《そ》れ〴〵舊《もと》の所《ところ》に垂直《すゐちよく》に落《お》ちて再《ふたゝ》び根《ね》を張《は》るには拙生《せつせい》も一|驚《きやう》を喫《きつ》した。しかし一|番《ばん》大《おほき》い奴《やつ》は空中《くうちゆう》に吹上《ふきあ》げられた時《とき》、其枝《そのえだ》に木訥《ぼくとつ》な百姓《ひやくしやう》の老夫婦《らうふうふ》が乗合《のりあは》せてゐた。乗合《のりあは》せてゐたといふと馬車《ばしや》か何《なん》ぞのやうだが、實《じつ》は胡瓜《きうり》を把《と》つてゐたのである。世界《せかい》も此《この》地方《へん》になると日用《にちよう》の靑物《あをもの》は皆《みな》木《き》に實《な》つてゐる。さて此《この》夫婦《ふうふ》の體量《めかた》が幹《みき》の衡平《かうへい》を失《うしな》はせたから、大木《たいぼく》は平《ひら》たく地上《ちじやう》に落《お》ちて、折《をり》から通合《とほりあは》せた島《しま》の首領《しゆりやう》を即座《そくざ》に壓殺《おしころ》して了《しま》つた。首領《しゆりやう》は大木《たいぼく》が屋根《やね》に落《お》ちて、家《いへ》ぐるみ潰《つぶ》されてはならぬと思《おも》ひ、少時《しばらく》戶外《こぐわい》を徘徊《はいくわい》して、大分《だいぶ》木《き》も降《ふ》り止《や》むだからと、今《いま》し庭園《ていゑん》を通《とほ》つての歸途《かへりみち》に運好《うんよ》く腦天《なうてん》を打《う》たれたのである。此《この》運好《うんよ》くといふ文字《もんじ》は聊《いさゝ》か說明《せつめい》を要《えう》する。といふのは此《この》首領《しゆりやう》といふのは島《しま》一|體《たい》の鼻摘《はなつま》みで、獨身者《ひとりもの》であつたが、其《その》一人《ひとり》の貪慾《どんよく》と壓制《あつせい》の爲《た》めに良民《りやうみん》は殆《ほと》んど食《く》ふや食《く》はずの憂《う》き目《め》を見《み》てゐたのである。
 此《この》惡漢《しれもの》の捥取《もぎと》つた財貨《たから》は空《むな》しく倉《くら》の中《なか》で唸《うな》つてゐるのに、奪《うば》はれた貧乏人《びんばふにん》は飢寒《きかん》に泣《な》くといふ有樣《ありさま》であつた。此《この》暴君《ばうくん》の沒落《ぼつらく》は全《まつた》く偶然《ぐうぜん》であつたが、縱令《たとひ》怪我《あやまち》の功名《こうみやう》にもせよ、兎《と》に角《かく》壓制者《あつせいしや》を退治《たいぢ》してくれたのだからと、人民《じんみん》は感恩《かんおん》の表示《しるし》に胡瓜《きうり》取《とり》夫婦《ふうふ》を戴《いたゞ》いて知事《ちじ》にした。
 我等《われら》は此《この》暴風中《ばうふうちゆう》に被《かうむ》つた破損《はそん》を修繕《しゆぜん》して、新《しん》知事《ちじ》及《および》令夫人《れいふじん》に別《わかれ》を吿《つ》げ、目的地《もくてきち》に向《むか》つて順風《じゆんぷう》に帆《ほ》を揚《あ》げた。
 それから約《やく》六|週間《しうかん》にして我等《われら》はセイロン島《たう》に着《つ》き、其處《そこ》で鄭重《ていちよう》な歡迎《くわんげい》を受《う》けた。次《つぎ》の珍奇《ちんき》な冒險《ばうけん》は多少《たせう》興味《きようみ》を惹《ひ》くであらう。

 獅子《しゝ》と鰐《わに》の話《はなし》

 セイロン島《たう》に滯在《たいざい》する事《こと》二|週間《しうかん》ばかりの後《のち》、或日《あるひ》拙生《せつせい》は知事《ちじ》の弟《おとうと》に連《つ》れられて、鐵砲打《てつぱううち》に出《で》かけた。
 巨大《おほき》な湖《みづうみ》が拙生《せつせい》の注目《ちうもく》を惹《ひ》いた。其《その》岸《きし》近《ちか》く來《く》ると、何《なに》か背後《うしろ》にガサ〳〵する音《おと》が聞《きこ》えたと思《おも》つて、振返《ふりかへ》つて見《み》ると、拙生《せつせい》は殆《ほと》んど石化《せきくわ》して了《しま》つた。蓋《けだ》し此《この》場合《ばあひ》恐《おそ》らくは石化《せきくわ》せぬ人《ひと》はなからうと思《おも》ふ。と申《まを》すは一|疋《ぴき》の獅子《しゝ》が目《め》に付《つ》いたのである。明白《あきらか》に當方《たうはう》を目差《めざ》して、拙生《せつせい》の蚊《か》の脛《すね》のやうな體軀《からだ》を以《もつ》て食慾《しよくよく》を滿《み》たさうとして進《すゝ》むでまゐる。それも當方《たうはう》の承諾《しようだく》を求《もと》めずに遂行《すゐかう》しようといふのだから、恐《おそ》れ入《い》らざるを得《え》ない。此《この》進退維谷《ヂレンムマ》に際《さい》して如何《いか》に處决《しよけつ》す可《べ》きか?拙生《せつせい》は全然《まつたく》考慮《かうりよ》の餘地《よち》がなかつた。拙生《せつせい》の鐵砲《てつぱう》には白鳥彈《はくてうだま》が込《こ》めてあるばかり、其《それ》より大《おほき》い彈丸《たま》は生憎《あいにく》にも何《なん》にも持合《もちあは》せがない。しかし白鳥彈《はくてうだま》で此《この》動物《どうぶつ》を殪《たふ》し得《え》ようとは思《おも》はなかつたが、兎《と》に角《かく》砲聲《おと》で驚《おどろ》かせ、尙《な》ほ多少《たせう》怪我《けが》をさせてやれる位《くらゐ》の見込《みこみ》はあつたから、先方《せんぱう》が然《しか》る可《べ》き距離《きより》に來《く》るのも待《ま》たず、拙生《せつせい》は火葢《ひぶた》を切《き》つて了《しま》つた。砲聲《おと》は却《かへ》つて動物《どうぶつ》の憤怒《いかり》を增《ま》した。彼《かれ》は今《いま》や急《きふ》に步《あし》を早《はや》めた。全速力《ぜんそくりよく》で近寄《ちかよ》つて來《く》るやうに見《み》えた。拙生《せつせい》は逃《に》げようと思《おも》つたが、其《それ》は却《かへ》つて心痛《しんつう》を增《ま》したに過《す》ぎぬ。といふのは振返《ふりかへ》り樣《さま》、拙生《せつせい》は拙生《せつせい》を呑込《のみこ》むために大口《おほぐち》を開《あ》いた鰐《わに》と危《あや》うく鉢合《はちあは》せをする所《ところ》であつた。前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り右手《みぎて》は湖水《こすゐ》である。左手《ひだりて》は絕壁《きりぎし》である。落《お》ちれば下《した》は猛獸《まうじう》の巢窟《さうくつ》だと後《あと》から聞《き》いて承知《しようち》した。短言《たんげん》すれば、獅子《しゝ》は最早《もはや》後脚《あとあし》で立上《たちあが》り、今《いま》にも掴蒐《つかみかゝ》りさうにしてゐるから、最早《もはや》生命《いのち》は無《な》いものと觀念《くわんねん》して、拙生《せつせい》は恐懼《きようく》の餘《あま》り、無意識的《むいしきてき》に其《その》場《ば》に平伏《つツぷ》した。後《あと》から察《さつ》するに、獅子《しゝ》は直《たゞ》ちに飛蒐《とびかゝ》つたに相違《さうゐ》ない。拙生《せつせい》は姑《しばら》くの間《あひだ》言語《げんご》に述《の》べがたき心情《こゝろもち》で刻々《こく〳〵》猛獸《まうじう》の牙《きば》か爪《つめ》が身體《からだ》の何處《どこ》にか當《あた》るだらうと待《ま》つてゐた。數秒《すうべう》の間《あひだ》尙《な》ほ腹這《はらばひ》のまゝ待《ま》つと、熱烈《ねつれつ》且《か》つ異樣《いやう》な叫音《さけび》を聞《き》いた。曾《かつ》て拙生《せつせい》の耳《みゝ》を煩《わづら》はした音響《おんきやう》の中《うち》に、之《これ》に似寄《によ》つたものは一つもない、と其《その》時《とき》は恐《おそ》ろしくて無我《むが》夢中《むちゆう》だつたが、後《あと》から然《さ》う思《おも》つた。しかし事情《じじやう》を見《み》れば、其《それ》も道理《だうり》で、聲《こゑ》の出所《でどころ》が分《わか》れば、諸君《しよくん》も夫《そ》れ然《しか》り豈《あに》夫《そ》れ然《しか》らざらんやと合點《がつてん》の行《ゆ》く事《こと》であらうと存《ぞん》ずる。拙生《せつせい》は尙《な》ほ少々《せう〳〵》聞耳《きゝみゝ》を立《た》てゝ、死《し》ぬか生《い》きるかと頭《あたま》を擡《もちあ》げて、周圍《あたり》を見廻《みまは》すと、獅子《しゝ》は拙生《せつせい》に飛付《とびつ》く方《はう》に氣《き》を取《と》られた餘勢《よせい》で、拙生《せつせい》が倒《たふ》れた刹那《せつな》、既《すで》に申《まを》した通《とほ》り廣《ひろ》く開《あ》いた鰐《わに》の口《くち》に飛込《とびこ》むだのである。前者《ぜんしや》の頭《かしら》は後者《こうしや》の喉《のど》に嵌《はま》り、此《これ》は其《それ》を吐出《はきだ》さう、彼《かれ》は其《それ》を拔取《ぬきと》らうで、轉々《てん〳〵》悶々《もん〳〵》してゐる。之《これ》を見《み》た拙生《せつせい》の歡喜《よろこび》は寔《まこと》に何《なん》に例《たと》へやうもなかつた。運好《うんよ》く拙生《せつせい》は腰《こし》に付《つ》けた獵刀《れふたう》を思出《おもひだ》して、名刀《めいたう》の難有《ありがた》さ、唯《たゞ》一擊《ひとうち》で獅子《しゝ》の頭《くび》を落《おと》した。血《ち》が颯《さつ》と迸《ほとばし》つて、首《くび》のない死骸《しがい》が、足元《あしもと》に蹣跚《ぐたり》と倒《たふ》れた時《とき》の心地《こゝろもち》の惡《わる》さ!次《つぎ》に拙生《せつせい》は獵銃《れふじう》の臺尻《だいじり》で、獅子《しゝ》の頭《あたま》を鰐《わに》の喉《のど》に突込《つきこ》み突込《つきこ》み、到頭《たうとう》窒息《ちつそく》させて鰐《わに》も殺《ころ》して了《しま》つた。彼《かれ》は呑下《のみくだ》す事《こと》も出來《でき》ず、吐《は》き出《だ》す事《こと》も叶《かな》はなかつたのである。
 斯《か》くして拙生《せつせい》が二|强敵《きやうてき》を平《たひら》げると間《ま》もなく、同伴《つれ》の男《をとこ》が拙生《せつせい》を探《さが》しに來《き》た。拙生《せつせい》が彼《かれ》の後《あと》を追《お》はぬに心付《こゝろづ》いて、さては道《みち》を踏違《ふみちが》へたか、それとも何《なに》か變事《まちがひ》が起《おこ》つたかと、早速《さつそく》引返《ひきかへ》して來《き》たとの事《こと》。
 お互《たがひ》に成功《せいこう》を祝《しゆく》した後《のち》、拙生《せつせい》は鰐《わに》の身長《たけ》を量《はか》つて見《み》たら、丁度《きつかり》四十|尺《しやく》あつた。

 深雪《みゆき》と高塔《かうたふ》の話《はなし》

 拙生《せつせい》は冬《ふゆ》の最中《さなか》にロシヤの旅《たび》を思立《おもひた》つた。旅人《たびゞと》は口《くち》を揃《そろ》へて、ドイツ北部《ほくぶ》ポーランド、コーアランド、リボニヤ等《など》の道路《だうろ》險惡《けんあく》を言《い》ふが、拙生《せつせい》は嚴寒《げんかん》なれば雪《ゆき》と氷《こほり》で却《かへ》つて道《みち》が容易《らく》だらうと考《かんが》へたのである。拙生《せつせい》は馬《うま》で出掛《でか》けた。これが最《さい》簡便《かんべん》の旅行《りよこう》法《はふ》だと思《おも》つたので。其《その》中《うち》に夜陰《やいん》と暗黑《あんこく》が追着《おひつ》いた。村《むら》は一個《ひとつ》も見《み》えぬ。地《ち》は一|面《めん》に雪《ゆき》が降積《ふりつ》むでゐる。拙生《せつせい》は道《みち》は全《まつた》く不案内《ふあんない》である。
 拙生《せつせい》は草臥《くたび》れて馬《うま》から下《お》りて、雪《ゆき》の上《うへ》に現《あら》はれてゐた尖《とが》つた木《き》の幹《みき》のやうなものに馬《うま》を繋《つな》いだ。護身《ごしん》の爲《た》めにピストルを腕《うで》の下《した》に置《お》いて一|睡《すゐ》を貪《むさぼ》つた。能《よ》く眠《ねむ》つたものと見《み》えて、覺《さ》めた時《とき》には最早《もはや》日《ひ》が昇《のぼ》つてゐた。しかし氣《き》が付《つ》いて見《み》ると、拙生《せつせい》は村《むら》の中央《まんなか》の敎會堂《けうくわいだう》の墓地《ぼち》に寢《ね》てゐる。是《これ》には何《なん》とも言《い》ひやうなく喫驚《びつくり》した。そして尙《な》ほ拙生《せつせい》の馬《うま》が見《み》えぬ。間《ま》もなく何處《どこ》か上《うへ》の方《はう》で、奴《やつ》の嘶《いなゝ》く聲《こゑ》がした。思《おも》はず見上《みあ》げると、更《さら》に仰天《ぎやうてん》した事《こと》には、會堂《くわいだう》の高塔《かうたふ》の上《うへ》の風見《かざみ》に拙生《せつせい》の馬《うま》が手綱《たづな》で繋《つな》いである。事態《じたい》は直《たゞ》ちに闡明《せんめい》した。所謂《いはゆる》大陸《たいりく》氣候《きこう》の激變《げきへん》で、雪《ゆき》が解《と》けるに從《したが》つて、拙生《せつせい》は熟睡《じゆくすゐ》の儘《まゝ》徐々《じり〳〵》と此《この》會堂《くわいだう》の墓地《ぼち》まで下《お》りて來《き》たのである。昨夜《さくや》暗黑《くらやみ》紛《まぎ》れに木《き》の幹《みき》と見《み》て馬《うま》を繋《つな》いだのは實《じつ》は會堂《くわいだう》の高塔《かうたふ》の風見《かざみ》であつた。
 斯《か》う次第《しだい》が分《わか》れば面倒《めんだう》も何《なに》もない。拙生《せつせい》は直樣《すぐさま》ピストルを取出《とりだ》して、狙《ねら》ひ定《さだ》めて引金《ひきがね》を引《ひ》き、美事《みごと》手綱《たづな》を二つに絕《た》ち、恙《つゝが》なく馬《うま》を下《おろ》して時《とき》を移《うつ》さず旅《たび》を續《つゞ》けた。(流石《さすが》の男爵《だんしやく》も此處《こゝ》では大《おほ》手稃《てぬかり》をしてゐる。長《なが》い間《あひだ》馬《うま》を餓《う》えさせたのだから、飼葉《かひば》を命《めい》じた位《くらゐ》の事《こと》は言《い》つて置《お》く筈《はず》だと思《おも》ふ。)

 馬具《ばぐ》に入《はい》つた狼《おほかみ》

 馬《うま》は拙生《せつせい》を乗《の》せて能《よ》く走《はし》る。ロシヤ内地《ないち》に入《はい》つてから拙生《せつせい》は騎馬《きば》旅行《りよかう》は何《ど》うやら冬季《とうき》の流行《りうかう》でないと合點《がてん》した。そこで常例《じやうれい》に從《したが》つて其《その》國《くに》の習慣《しふくわん》を採用《さいよう》し、單《たん》馬橇《ばそり》を求《もと》め、ペテスブルヒを目《め》がけて韋駄天《ゐだてん》驅《が》りに進《すゝ》むだ。イーストランドであつたか、ヂャゲマンランドであつたか、精《くは》しくは思出《おもひだ》せないが、兎《と》に角《かく》寂《さび》しい森《もり》の唯《たゞ》中《なか》だつたと記憶《きおく》する。拙生《せつせい》は恐《おそ》ろしい狼《おほかみ》の嚴冬《げんとう》の餓《うゑ》に驅《か》られて、全速力《ぜんそくりよく》で追《お》つて來《く》るのに氣《き》がついた。と思《おも》ふ間《ま》に狼《おほかみ》は追着《おひつ》いたから、到底《たうてい》遁《のが》れる術《すべ》はない。拙生《せつせい》は唯《たゞ》機械的《きかいてき》に橇《そり》の中《なか》に平伏《へいふく》して、無上《むしやう》に馬《うま》を走《はし》らせた。ところが間《ま》もなく拙生《せつせい》の願《ねが》つた事《こと》で、而《しか》も此際《このさい》到底《とても》出來《でき》ない相談《さうだん》だと諦《あきら》めてゐた一|事《じ》が起《おこ》つた。と申《まを》すは、狼《おほかみ》は拙生《せつせい》には毫《すこし》も目《め》を吳《く》れず、頭《あたま》の上《うへ》を跳越《はねこ》して、狂亂《きやうらん》のやうに馬《うま》の尻《しり》に獅嚙付《しがみつ》き、直《たゞ》ちに憐《あは》れむ可《べ》き動物《どうぶつ》の臀部《でんぶ》を搔毟《かきむし》つて肉《にく》を貪《むさぼ》り始《はじ》めた。拙生《せつせい》は自分《じぶん》丈《だ》けは安全《あんぜん》、最早《もはや》見《み》つかる氣遣《きづかひ》なしと、窃《ひそか》に頭《あたま》を擡《もた》げて樣子《やうす》を覗《うかが》つたが、既《すで》に狼《おほかみ》が馬《うま》の腹部《ふくぶ》まで喰込《くひこ》むでゐるのには何《なん》とも名狀《めいじやう》し難《がた》い恐《おそ》ろしい心持《こゝろもち》がした。頭《あたま》の方《はう》まで喰貫《くひつらぬ》いたのは其《それ》から良《やゝ》少時《しばらく》の事《こと》で、時分《じぶん》は好《よ》しと拙生《せつせい》は鞭《むち》の柄《え》で懸命《けんめい》に狼《おほかみ》を突《つ》いた。此《この》思《おもひ》がけない背面《はいめん》攻擊《こうげき》に狼《おほかみ》は膽《きも》を潰《つぶ》して馬《うま》の死骸《しがい》を筒拔《つゝぬ》け、到頭《たうとう》馬具《ばぐ》の中《なか》に四合《しつくり》篏《はま》つて了《しま》つた。同時《どうじ》に馬《うま》は摚乎《ばたり》と倒《たふ》れる。さあ拙生《せつせい》は必死《ひつし》になつて鞭《むち》を揮《ふる》ひ、打《う》つわ〳〵。竟《つひ》に拙生《せつせい》と狼《おほかみ》は期《き》せずして恙《つゝが》なくベテスブルヒに乗込《のりこ》むだ。や、都人士《とじんし》の驚《おどろ》いたの驚《おどろ》かないのつて!

 野豚《のぶた》と猪《ゐのしゝ》の話《はなし》

 僥倖《げうかう》は屢《しばし》ば人間《にんげん》の錯誤《まちがひ》を正《たゞ》す。之《これ》に就《つ》いては拙生《せつせい》に特別《とくべつ》な實例《じつれい》がある。拙生《せつせい》は森《もり》の奧《おく》で野豚《のぶた》の牝牡《めすをす》を見《み》つけた。牝《めす》は牡《をす》の直《す》ぐ後《あと》に跟《つ》いて走《はし》つて行《ゆ》く。拙生《せつせい》の彈丸《たま》は外《そ》れたけれど、唯《たゞ》前方《まへ》の奴《やつ》が逃去《にげさ》つたばかりで、牝《めす》は地《ち》から生《は》えたやうに、凝《ぢ》つとして立《た》つてゐる。事《こと》の次第《しだい》を調《しら》べて見《み》ると、後《あと》の奴《やつ》は年寄《としより》で盲目《めくら》で、引《ひ》いて步《ある》いて貰《もら》ふ爲《た》めに息子《むすこ》の尻尾《しつぽ》に促《つかま》つてゐたのである。拙生《せつせい》の丸《たま》は二|疋《ひき》の間《あひだ》を通貫《とほりぬ》け、盲豚《めくらぶた》が啣《くは》へてゐた其《その》導《みちび》きの綱《つな》を絕《た》ち切《き》つて了《しま》つた。そして案内者《あんないしや》が一|向《かう》引《ひ》いてくれぬものだから、彼女《かのぢよ》は當然《たうぜん》默《だま》つて立止《たちとま》つてゐた。そこで拙生《せつせい》は千切《ちぎ》れた豚《ぶた》の尻尾《しつぽ》を把《と》り、年寄《としより》の豚《ぶた》を家《うち》まで引《ひ》いて歸《かへ》つた。拙生《せつせい》に於《おい》ても何《なん》の面倒《めんだう》なく、豚《ぶた》の方《はう》でも素《もと》より盲目《めくら》の事《こと》であるから拒《こば》みもせず恐《おそ》れもせず。
 野豚《のぶた》も恐《おそ》ろしいが、尙《な》ほ猛惡《まうあく》で危險《きけん》なのは猪《ゐのしゝ》である。其《その》猪《ゐのしゝ》の一|疋《ぴき》に或日《あるひ》拙生《せつせい》は運惡《うんわる》く森《もり》の中《なか》で行當《ゆきあた》つた。攻守《こうしゆ》共《とも》に武具《えもの》としては寸鐵《すんてつ》をも帶《お》びてゐない。狂《くる》へる動物《どうぶつ》が拙生《せつせい》に橫打擊《よこなぐり》を喫《くら》はせようと狙《ねら》つた刹那《せつな》、拙生《せつせい》は樫《かし》の木《き》の後《うしろ》に姿《すがた》を匿《かく》した。すると先生《せんせい》外《はづ》しを喫《く》つて、餘勢《よせい》直《たゞ》ちに止《とゞま》り難《がた》く、樫《かし》の幹《みき》に牙《きば》を突通《つきとほ》し、打擊《だげき》を繰返《くりかへ》す事《こと》も叶《かな》はず退《しりぞ》く事《こと》もならず、唯《たゞ》地團太《ぢだんだ》を踏《ふ》むでゐた。『占《し》めた〳〵、拙生《せつせい》にも量見《りやうけん》があるぞ!』と拙生《せつせい》は矢庭《やには》に石《いし》を拾《ひろ》つて、何《ど》んな事《こと》があつても逃《に》げられぬやう、拙生《せつせい》が近《ちか》くの村《むら》から戾《もど》る迄《まで》待《ま》つてゐるやうに、敵《てき》の牙《きば》を折釘《をりくぎ》のやうに打曲《うちま》げた。それから拙生《せつせい》は悠然《いうぜん》と村《むら》に歸《かへ》り、繩《なは》と車《くるま》を借《か》りて引返《ひつかへ》し、美事《みごと》先生《せんせい》を生捕《いけどり》にして家《うち》に戾《もど》つた。

 雄鹿《をじか》と櫻《さくら》の木《き》の話《はなし》

 諸君《しよくん》は獵師《れふし》の守《まもり》本尊《ほんぞん》セント・ハバートと森《もり》の中《なか》で彼《かれ》に現《あら》はれたる角《つの》と角《つの》の間《あひだ》に十字架《じふじか》を立《た》てた雄鹿《をじか》の物語《ものがたり》を定《さだ》めて御承知《ごしようち》であらう。それは兎《と》に角《かく》拙生《せつせい》は自《みづか》ら目擊《もくげき》した珍話《ちんわ》を紹介《せうかい》致《いた》さう。或日《あるひ》悉《ことごと》く彈丸《たま》を使盡《つかひつく》した揚句《あげく》に、はからずも拙生《せつせい》の面前《めんぜん》に立派《りつぱ》な雄鹿《をじか》が現《あら》はれた。恰《あたか》も拙生《せつせい》の彈丸《たま》袋《ぶくろ》を取調《とりしら》べて其《その》無一物《むいつぶつ》を承知《しようち》してゐるやうに、安心《あんしん》して拙生《せつせい》を打目戍《うちまも》つてゐる。拙生《せつせい》は直《たゞ》ちに火藥《くわやく》を込《こ》め、泥棒《どろぼう》を捕《つかま》へて繩《なは》を綯《な》ふやうに、急《いそ》いで櫻坊《さくらんばう》を捥《も》ぎ取《と》り、一|掴《つか》みを丸《たま》に代《か》へた。さて狙《ねら》ひ定《さだ》めて打放《うちはな》すと、其《それ》が鹿《しか》の額《ひたひ》、角《つの》と角《つの》との間《あひだ》に命中《めいちう》し、彼《かれ》は度膽《どぎも》を拔《ぬ》かれて蹣跚《よろめ》いたが、其儘《そのまゝ》疾風《しつぷう》のやうに走去《はしりさ》つた。一二|年《ねん》の後《のち》拙生《せつせい》は其《その》森《もり》で狩《かり》をしてゐると、角《つの》と角《つの》の間《あひだ》に十|尺《しやく》以上《いじやう》の櫻《さくら》の木《き》の生《は》えた立派《りつぱ》な雄鹿《をじか》に出會《であ》つた。拙生《せつせい》は忽《たちま》ち先年《せんねん》の冒險《ばうけん》を想起《おもひおこ》し、これなん先《さき》に取逃《とりに》がしたる我《わが》獲物《えもの》なれ、此處《こゝ》で會《あ》つたが百年目《ひやくねんめ》、と唯《たゞ》一|發《ぱつ》で打倒《うちたふ》し、一|擧《きよ》して腰肉《にく》と櫻漿《チエリーソース》に有付《ありつ》いた。木《き》は能《よ》く繁茂《はんも》して、櫻坊《さくらんばう》が鈴實《すゞなり》になつてゐた。そして世《よ》の常《つね》の木《こ》の實《み》よりも遙《はる》かに味《あぢ》が佳《よ》かつた。

 熊《くま》と狼《おほかみ》の話《はなし》

 日《ひ》の光《ひかり》と拙生《せつせい》の火藥《くわやく》が、ポーランドの森《もり》の中《なか》で盡《つ》きて了《しま》つた。拙生《せつせい》は家路《いへぢ》に急《いそ》ぐ途《みち》すがら、恐《おそ》ろしい熊《くま》に跟《つ》けられた。彼《かれ》は疾走《ひたはし》つて、大口《おほぐち》を開《あ》いて、今《いま》にも拙生《せつせい》に躍《をど》り蒐《かゝ》らうとする。ポッケットの中《なか》を隈《くま》なく探《さが》して見《み》たが、素《もと》より火藥《くわやく》も彈丸《たま》もない。唯《たゞ》大切《たいせつ》の火打石《ひうちいし》が二個《ふたつ》あるばかり。進退《しんたい》谷《きはま》つて拙生《せつせい》は其《その》一個《ひとつ》を力委《ちからまか》せに怪物《くわいぶつ》の口《くち》に投込《なげこ》むと、其《それ》が喉《のど》に下《お》りた。苦《くる》しかつたと見《み》えて彼《かれ》は一寸《ちよいと》橫《よこ》を向《む》いたから、此《この》機《き》を利用《りよう》して拙生《せつせい》は第《だい》二の火打石《ひうちいし》を再《ふたゝ》び猛獸《まうじう》の口《くち》に投《とう》じたが、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》き大成功《だいせいこう》であつた。第《だい》二の火打石《ひうちいし》は飛込《とびこ》みさま、第《だい》一の奴《やつ》に胃袋《ゐぶくろ》の中《なか》で命中《めいちう》し、直《たゞ》ちに火《ひ》を發《はつ》して、熊《くま》は即座《そくざ》に破裂《はれつ》して了《しま》つた。斯《か》くて事《こと》もなく難《なん》を免《まぬか》れたが、いや、思出《おもひだ》しても慄然《ぞつと》とする。拙生《せつせい》は再《ふたゝ》び無手《むて》で熊《くま》と戰《たゝか》ふ勇氣《ゆうき》はない。
 何《ど》うも何《なに》かの因緣《いんねん》と見《み》える猛惡《まうあく》凶暴《きようぼう》の動物《けだもの》は恰《あた》かも本能《ほんのう》によつて其《それ》を承知《しようち》してゐるやうに、拙生《せつせい》が武器《えもの》を持《も》たぬ時《とき》に限《かぎ》つて襲《おそ》つて來《く》る。此《この》傳《でん》で或日《あるひ》拙生《せつせい》は見《み》るから獰惡《どうあく》な相《さう》をした狼《おほかみ》に襲《おそ》はれた。餘《あま》り急《きふ》で既《すで》に餘《あま》り近《ちか》く來《き》てゐるから拙生《せつせい》は唯《たゞ》機械的《きかいてき》本能《ほんのう》に從《したが》ひ、拙生《せつせい》の拳《こぶし》を相手《あいて》の裂《さ》けた口《くち》に突込《つきこ》む外《ほか》道《みち》がなかつた。安全《あんぜん》の爲《た》め拙生《せつせい》は無暗《むやみ》と突込《つきこ》むで、竟《つひ》に拙生《せつせい》の腕《うで》が狼《おほかみ》の肩《かた》の邊《あたり》まで入《はい》つた。しかし如何《いか》にして狼《おほかみ》から離《はな》れようか?斯《か》う間《ま》の拔《ぬ》けた姿勢《しせい》をして、何時《いつ》までも狼《おほかみ》と顏《かほ》を見交《みかは》してゐるのは甚《はなは》だ不愉快《ふゆくわい》でならなかつた。さりとて若《も》し腕《うで》を引拔《ひつこぬ》けば彼《かれ》は憤怒《ふんぬ》舊《きう》に倍《ばい》して飛蒐《とびかゝ》つて來《く》るだらう。是《これ》は其《その》凄《すご》い眼《まなこ》に明白《あきらか》に讀《よ》まれる。短言《たんげん》すれば拙生《せつせい》は狼《おほかみ》の尻尾《しつぽ》を捉《とら》へ、靴下《くつした》を脫《ぬ》ぐやうに、力委《ちからまか》せに裏返《うらがへ》しにして、漸《やうや》く猛獸《まうじう》と緣《えん》を切《き》り、地面《ぢめん》に叩《たゝ》き付《つ》けて、其儘《そのまゝ》歸《かへ》つて來《き》た。

 男爵《だんしやく》の駿馬《しゆんめ》の話《はなし》

 所《ところ》はリスアニヤに於《お》ける伯爵《はくしやく》ブルゾボスキイの別莊《べつさう》。拙生《せつせい》は應接間《おうせつま》で貴婦人《きふじん》連《れん》と茶《ちや》を飮《の》むでゐた。紳士《しんし》連《れん》は養馬所《やうばじよ》から來《き》たばかりの良種《りやうしゆ》の若馬《わかうま》を見《み》に下《お》りて行《い》つた。すると突然《とつぜん》あれよ〳〵と喧《けたゝま》しい聲《こゑ》が聞《きこ》えた。拙生《せつせい》は階段《かいだん》を驅下《かけお》りて出《で》て見《み》ると、馬《うま》は荒狂《あれくる》つて、人《ひと》を乗《の》せる所《どころ》か、寄《よ》せつけさうにもない。勇膽《ゆうたん》の騎手《きしゆ》まで血《ち》の氣《け》を失《うしな》つて、手《て》を出《だ》せずにゐる。失望《しつばう》は總《すべ》ての人《ひと》の顏色《がんしよく》に讀《よ》まれた。其時《そのとき》拙生《せつせい》少《すこ》しも騷《さわ》がず、飜然《ひらりと》駻馬《かんば》に跨《またが》つて、先《ま》づ其《その》荒膽《あらぎも》を挫《ひし》ぎ、拙生《せつせい》練逹《れんたつ》の曲乗《きょくのり》を試《こゝろ》みながら、さしもの氣性者《きしやうもの》を溫和《をんわ》從順《じうじゆん》に慣《な》らし込《こ》むだ。尙《な》ほ貴婦人《きふじん》連《れん》に合點《がてん》行《ゆ》かせ、無益《むえき》の恐怖《おそれ》を一|掃《さう》するやうに、拙生《せつせい》は開放《あけはな》つた食堂《しよくだう》の窓《まど》から、一|鞭《むち》加《くは》へて室内《しつない》に乗込《のりこ》み、其中《そのなか》を何遍《なんべん》となく或《あるひ》は並足《なみあし》或《あるひ》は駈足《かけあし》或《あるひ》は高足《たかあし》で乗廻《のりまは》し、最後《さいご》に食卓《しよくたく》の上《うへ》に乗上《のりあが》り、一|間《けん》と二|間《けん》の長方形《ちやうはうけい》の上《うへ》で、今迄《いままで》の曲藝《きよくげい》を更《さら》に小規模《せうきぼ》に繰返《くりか》へさせた。さあ、貴婦人《きふじん》連《れん》がやんやと喝采《かつさい》するのしないのつて!馬《うま》は眞《まこと》に巧者《こうしや》なもので、コップ一つ覆《くつが》へさなかつた。是《これ》が爲《た》めに拙生《せつせい》の聲價《せいか》頓《とみ》に上騰《じやうたう》し、殊《こと》に伯爵《はくしやく》は驚嘆《きやうたん》して、常例《いつも》の鄭重《ていちよう》な態度《たいど》で、此《この》若《わか》い馬《うま》を貴下《きか》に贈呈《ぞうてい》する、何卒《なにとぞ》御笑納《ごせうなふ》あつて、近々《きん〳〵》發足《はつそく》す可きミウニッヒ伯《はく》の率《ひき》ゐるトルコ遠征軍《ゑんせいぐん》に投《とう》じ、願《ねがは》くは撼天《かんてん》動地《どうち》の功名《こうみやう》手柄《てがら》を立《た》て給《たま》へ、と强《た》つての懇情《こんじやう》。そこで拙生《せつせい》は一|隊《たい》の騎兵《きへい》を從《したが》へ、幾度《いくたび》か遠征《ゑんせい》に上《のぼ》り、兵《へい》を操《あやつ》る事《こと》縦橫《じうわう》無礙《むげ》、人《ひと》を殺《ころ》す事《こと》草《くさ》の如《ごと》く、遂《と》げたる勲功《くんこう》は當然《たうぜん》拙生《せつせい》の計算《けいさん》に入《い》る可《べ》きものであるが、勇敢《ゆうかん》なる部下《ぶか》の努力《どりよく》も亦《また》决《けつ》して閑却《かんきやく》すべからざるものと信《しん》ずる。殊《こと》に拙生《せつせい》が先頭《せんとう》に立《た》つて、土耳古《とるこ》軍《ぐん》をオクザコーに追込《おひこ》むだ時《とき》の如《ごと》きは、いやはや顏《かほ》の溫《ほて》るやうな激戰《げきせん》であつた。
 拙生《せつせい》のリスアニアンは駿馬《しゆんめ》の事《こと》であるから、追擊《つゐげき》に際《さい》しては拙生《せつせい》が何時《いつ》も先登《せんとう》である。其日《そのひ》も然《さ》うで、敵《てき》が後門《うしろもん》から逃《に》げるのを見《み》て、拙生《せつせい》は部下《ぶか》を集《あつ》める爲《た》めに、市場《いちば》に止《とゞま》るのを策《さく》の得《え》たものと思《おも》つた。そこで拙生《せつせい》は止《とゞま》つたが、市場《いちば》には騎兵《きへい》の影《かげ》も見《み》えぬ。彼等《かれら》は他《た》の町《まち》を走《はし》つてゐるのであらうか?何《なに》か事變《じへん》が起《おこ》つたのか?兎《と》に角《かく》遠《とほ》くは離《はな》れてゐまい、その中《うち》に拙生《せつせい》の許《もと》に追着《おひつ》くだらう、と思《おも》ひながら、拙生《せつせい》は喘《あへ》ぐリスアニアンを市場《いちば》の泉《いづみ》に水《みづ》のませた。彼《かれ》は法外《はふぐわい》に飮《の》む、泉《いづみ》を飮干《のみほ》さねば止《や》まぬといふ勢《いきほひ》で飮《の》む。しかし最早《もはや》部下《ぶか》の者《もの》が見《み》えさうなものと振返《ふりかへ》つた時《とき》には其《それ》も道理《だうり》だと思《おも》つた。拙生《せつせい》の馬《うま》の胴《どう》から後方《うしろ》―即《すなは》ち尻《しり》と後脚《あとあし》が、恰《あたか》も銳利《えいり》なる刄物《はもの》で切取《きりと》られたやうに紛失《ふんしつ》してゐる。飮《の》むだ水《みづ》は直《す》ぐに後方《うしろ》へ拔《ぬ》ける。是《これ》では何程《いくら》飮《の》むでも身《み》の養《やしな》ひにならぬ。何《ど》うして此樣《こん》な事《こと》になつたかは、彼《かれ》を伴《ともな》つて市《し》の正門《せいもん》に戾《もど》る迄《まで》は全《まつた》く五|里《り》霧中《むちう》であつた。此處《こゝ》で拙生《せつせい》は思當《おもひあた》つた―先《さき》に逃《に》げる敵《てき》を追《お》ひながら無暗《むやみ》と此《この》門《もん》に突入《とつにふ》した時《とき》、敵《てき》は拙生《せつせい》の知《し》らぬ間《ま》に扉《とびら》を下《おろ》したものと見《み》える。其《その》扉《とびら》といふのは、底《そこ》に大釘《おほくぎ》が列《れつ》を爲《な》して植《う》ゑてあつて、萬《まん》一の時《とき》には上《うへ》から下《おろ》して敵《てき》の侵入《しんにふ》を防《ふせ》ぐ仕掛《しかけ》になつてゐる。彼《あ》の際《さい》敵《てき》が拙生《せつせい》を入《い》れまいとして急《きふ》に下《おろ》した刹那《せつな》、馬《うま》の臀部《でんぶ》を切去《きりさ》つたので、現《げん》に門外《もんそと》には拙生《せつせい》の愛馬《あいば》の胴《どう》から下《した》が、ピクリ〳〵してゐた。拙生《せつせい》は早速《さつそく》獸醫《じうい》を呼《よ》むで、未《ま》だ溫《あたゝか》い中《うち》に兩方《りやうはう》を繼合《つぎあは》せて貰《もら》ひ、纔《わづか》に償《つぐな》ひ難《がた》い損失《そんしつ》を免《まぬか》れた。彼《かれ》は手近《てぢか》にあつた桂《かつら》の木《き》の小枝《こえだ》と新芽《しんめ》で繼目《つぎめ》を縫《ぬ》つてくれた。傷《きず》は間《ま》もなく療《なほ》つたが、同時《どうじ》に桂《かつら》の小枝《こえだ》が馬《うま》の身體《からだ》に根《ね》を張《は》り、枝《えだ》を伸《の》ばし、追々《おひ〳〵》葉《は》が繁《しげ》り花《はな》が咲《さ》き、お蔭《かげ》を以《もつ》て拙生《せつせい》は其《その》後《のち》の遠征《ゑんせい》は暑《あつ》さ知《し》らずであつた。

 トルコ豆《まめ》と月《つき》の話《はなし》

 拙生《せつせい》と雖《いへど》も連戰《れんせん》連勝《れんしよう》といふ譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。或時《あるとき》は衆寡《しうくわ》敵《てき》せず生擒《せいきん》の憂目《うきめ》に遭《あ》ひ、殊《こと》に不遇《ふぐう》な事《こと》には奴隷《どれい》に賣《う》られた。尤《もつと》も捕虜《ほりよ》の賣買《ばい〳〵》はトルコの習慣《しふくわん》である。(男爵《だんしやく》は後《のち》に皇帝《サルタン》の寵愛《ちようあい》を被《かうむ》つた)此《この》屈辱《くつじよく》の狀態《じやうたい》に於《おい》て、拙生《せつせい》每日《まいにち》の勞役《らうえき》は、身體《からだ》に骨《ほね》の折《を》れる事《こと》でなく、寧《むし》ろ單調《たんてう》退屈《たいくつ》の仕事《しごと》であつた。其《それ》は每朝《まいあさ》皇帝《サルタン》の蜜蜂《みつばち》を牧場《まきば》に追《お》ひ、一|日《にち》見守《もり》をして、日《ひ》の暮《く》れる迄《まで》に再《ふたゝ》び箱巢《はこす》に追戾《おひもど》す事《こと》であつた。或《ある》夕暮《ゆふぐれ》、拙生《せつせい》は蜜蜂《みつばち》を一|疋《ぴき》見失《みうしな》つたが、氣《き》がつけば二|疋《ひき》の熊《くま》が蜜《みつ》を取《と》る爲《た》めに其蜂《そのはち》を潰《つぶ》さうとしてゐる。拙生《せつせい》は銀《ぎん》の手斧《てをの》の外《ほか》に何《なに》も武器《えもの》を持《も》たなかつた。此《この》銀《ぎん》の手斧《てをの》は皇帝《サルタン》の庭師《にはし》又《また》は農夫《のうふ》の表章《しるし》なので。拙生《せつせい》は熊《くま》を目蒐《めが》けて件《くだん》の手斧《てをの》を投《な》げた。唯《たゞ》追剝《おひはぎ》を追拂《おつぱら》つて、蜂《はち》さへ助《たす》ければ可《い》いといふ思惑《おもはく》だつたので。が、拙生《せつせい》の腕《うで》の運《うん》の惡《わる》い振《ふ》り加減《かげん》で、斧《をの》は飛《と》むで止《とゞま》らず、上《うへ》へ上《うへ》へと昇《のぼ》つて行《い》つて、竟《つひ》には月《つき》に逹《たつ》した。さあ奈何《どう》して取戾《とりもど》したものか?と其處《そこ》で拙生《せつせい》は肝膽《かんたん》を碎《くだ》いた。斯《か》ういふ事《こと》が胸《むね》に浮《うか》むだ――トルコ豆《まね》といふ奴《やつ》は大層《たいそう》生長《のび》が早《はや》いのみならず、驚《おどろ》く可《べ》き高《たか》さに逹《たす》するといふ。拙生《せつせい》は時《とき》を移《うつ》さず一|本《ぽん》のトルコ豆《まめ》を植《う》ゑた。其《それ》が生長《せいちやう》してから拙生《せつせい》は其《その》梢《こずゑ》を三|日月《かづき》の角《つの》に結付《むすびつ》けた。斯《か》う仕掛《しかけ》が出來《でき》た上《うへ》は、殘《のこ》る所《ところ》は月《つき》まで登《のぼ》つて行《ゆ》くばかりである。そして是《これ》も見事《みごと》に成功《せいこう》した。月《つき》の世界《せかい》は何《なに》も彼《か》も銀色《ぎんいろ》で光《ひか》つてゐるから、同《おな》じ色《いろ》の手斧《てをの》を探《さが》すのはナカ〳〵小面倒《こめんだう》の仕事《しごと》であつた。が、しかし拙生《せつせい》は苦心《くしん》の甲斐《かひ》あつて、竟《つひ》に籾殻《もみがら》や藁屑《わらくづ》の積《つ》むである所《ところ》で大切《たいせつ》の手斧《てをの》を見付《みつ》けた。さて今度《こんど》は月《つき》の世界《せかい》から人間《にんげん》の世界《せかい》へ歸《かへ》るのである。けれど驚《おどろ》いたのは、太陽《たいやう》の光《ひかり》が既《すで》に拙生《せつせい》の豆《まめ》を枯《か》らした事《こと》で、最早《もはや》全《まつた》く拙生《せつせい》を下《おろ》す用《よう》に堪《た》へない。そこで拙生《せつせい》は働《はたら》き始《はじ》め、例《れい》の藁屑《わらくづ》を拾《ひろ》つて出來《でき》る丈《だ》け丈夫《ぢやうぶ》な出來《でき》る丈《だ》け長《なが》い繩《なは》を綯《な》つた。之《これ》を月《つき》の角《つの》に結《むす》び付け、追々《おひ〳〵》下《した》の方《はう》へ辷《すべ》り下《お》りる。拙生《せつせい》は左《ひだり》の手《て》で聢《しか》と繩《なは》を捉《つかま》へ、右《みぎ》の手《て》に手斧《てをの》を持《も》ち、繩《なは》の不用《ふよう》になつた部分《ぶぶん》を切《き》つて下《した》に繋《つな》ぐ。即《すなは》ち一|里《り》降《お》りれば、上《うへ》の方《はう》の一|里《り》は切取《きりと》つて足《あし》の下《した》に繋《つな》ぐといふ安排《あんばい》で、どうやらかうやら大分《だいぶ》下《した》の方《はう》まで來《き》たが、いくら同《おな》じ事《こと》を繰返《くりかへ》しても、何《なに》しろ距離《きより》が距離《きより》だから、容易《ようい》に皇帝《サルタン》の畑《はたけ》へ着《つ》かない。もう五六|里《り》といふ所《ところ》で、繩《なは》がフツリと切《き》れ、拙生《せつせい》は目《め》の廻《まは》るやうな速度《はやさ》で地下《ちか》に落《お》ちて氣絕《きぜつ》した。此處《こゝ》で地下《ちか》に落《お》ちたといふ言葉《ことば》を味《あぢは》つて貰《もら》ひたい。普通《ふつう》なら地上《ちじやう》に落《お》ちたと書《か》くのだが、其《それ》では事實《じじつ》を傳《つた》へ兼《か》ねる。といふのは何《なに》がさて、五六|里《り》上《うへ》から落《お》ちたのだから、身體《からだ》の重味《おもみ》と落《お》ちた勢《いきほひ》で、少《すくな》くとも深《ふか》さ九|尋《ひろ》ばかりの穴《あな》が明《あ》いた。その穴《あな》の底《そこ》で拙生《せつせい》は生氣《しやうき》に返《かへ》つたのであるが、如何《どう》して這上《はひのぼ》つて可《い》いか少時《しばらく》は勘辨《かんべん》に落《お》ちなかつた。しかし拙生《せつせい》は苦《くる》し紛《まぎ》れに爪《つめ》を用《もち》ゐて先《ま》づ坂《さか》を作《つく》り、次《つ》いで段々《だん〳〵》を拵《こしら》へ、實《じつ》に千辛《せんしん》萬苦《ばんく》の後《のち》に、漸《やうや》く這上《はひあが》つて再《ふたゝ》び此《この》世《よ》の光《ひかり》に觸《ふ》れた時《とき》は、まあその嬉《うれ》しかつた事《こと》といつたら!(男爵《だんしやく》の爪《つめ》は當時《たうじ》四十|年《ねん》も切《き》らずに置《お》いた末《すゑ》で充分《じうぶん》伸《の》びてゐた。尤《もつと》も斯《か》ういふ事《こと》があらうと豫期《よき》して然《さ》う伸《の》ばした譯《わけ》でもないといふ。)

 氷《こほ》つた音樂《おんがく》の話《はなし》

 間《ま》もなくトルコとの和議《わぎ》が成《な》り、拙生《せつせい》は自由《じいう》の身《み》となつてペテスブルヒを後《あと》にした。拙生《せつせい》は立場《たてば》立場《たてば》で馬《うま》を替《か》へ、大急《おほいそ》ぎの旅《たび》をした。狹《せま》い一|本道《ぽんみち》に差《さ》しかゝつたから、他《ほか》の馬車《ばしや》が此《この》細道《ほそみち》で行當《ゆきあた》らぬやうにと、拙生《せつせい》は御者《ぎよしや》に命《めい》じて合圖《あひづ》のラッパを吹《ふ》かせた。彼《かれ》は一生《いつしやう》懸命《けんめい》に吹《ふ》いた。しかし何程《いくら》力《りき》むでも効《かう》は無《な》い。彼《かれ》は奈何《どう》してもラッパを鳴《な》らす事《こと》が出來《でき》なかつた。何故《なぜ》鳴《な》らぬか、理由《わけ》は分《わか》らなかつたが、兎《と》に角《かく》生憎《あいにく》な事《こと》で、少時《しばらく》すると拙生《せつせい》の馬車《ばしや》は向《むか》ふから來《く》る馬車《ばしや》と行當《ゆきあた》つた。お互《たがひ》に進《すゝ》む事《こと》は無論《むろん》ならぬ。さりとて前述《ぜんじゆつ》の通《とほ》りの細道《ほそみち》だから、車《くるま》を向《む》け返《かへ》す事《こと》は叶《かな》はず、隨《したが》つて退《しりぞ》く事《こと》も出來《でき》なかつた。此《この》時《とき》拙生《せつせい》は馬車《ばしや》から下《お》りて、これでも少《すこ》しは力《ちから》があるから、馬車《ばしや》一|式《しき》を飴屋《あめや》のやうに頭《あたま》に乗《の》せ、高《たか》さ九|尺《しやく》ばかりの生垣《いけがき》を飄《ひよい》と飛《と》び越《こ》して、(馬車《ばしや》の重量《おもさ》から言《い》つても、此《この》藝當《げいたう》は少々《せう〳〵》骨《ほね》が折《お》れた。畑《はたけ》に入《い》り、再《ふたゝ》び飛《と》むで道《みち》を塞《ふさ》げた馬車《ばしや》の向《むか》ふへと出《で》た。次《つぎ》に拙生《せつせい》は馬《うま》を取《と》りに行《い》つた。一|疋《ぴき》を頭《あたま》の上《うへ》に乗《の》せ、一|疋《ぴき》を左《ひだり》の腕《うで》に抱《かゝ》へ、前《まへ》と同《おな》じ方法《はうはふ》で馬車《ばしや》まで持《も》つて行《ゆ》き、喰付《くつつ》けて、旅程《りよてい》最終《さいしう》の宿屋《やどや》に急《いそ》いだ。此《こ》の拙生《せつせい》が腋《わき》の下《した》に抱《かゝ》へた方《はう》の馬《うま》は未《ま》だ四|歲《さい》にならぬ氣《き》の荒《あら》い奴《やつ》で、拙生《せつせい》が再《ふたゝ》び生垣《いけがき》を飛越《とびこ》さうとする時《とき》、其《その》急激《きふげき》の動搖《どうえう》を可厭《いや》がつて、蹴《けつ》たり鼻《はな》を鳴《な》らしたりして荒《あば》れるには拙生《せつせい》も持餘《もてあま》した。しかし拙生《せつせい》は其《その》後脚《あとあし》を捉《つかま》へてポッケットの中《なか》へ入《い》れて了《しま》つた。宿屋《やどや》に着《つ》いてから拙生《せつせい》と御者《ぎよしや》は暫時《ざんじ》休息《きうそく》した。彼《かれ》はラッパを臺所《だいどころ》の火《ひ》の側《かたはら》の釘《くぎ》に吊《つ》るし、拙生《せつせい》は其《その》對側《むかふがは》に坐《すわ》つた。
 急《きふ》にテレン〳〵テン〳〵といふ音《おと》が聞《きこ》えた。我等《われら》は周圍《あたり》を見廻《みまは》して、さてこそと先刻《せんこく》御者《ぎよしや》がラッパを鳴《な》らし得《え》なかつた理由《りいう》が讀《よ》めた。彼《かれ》の曲《きよく》はラッパの中《なか》で氷《こほ》つたのだ!其《それ》が今《いま》解《と》けて出《で》て來《き》たのだ!事理《じり》明晰《めいせき》、而《しか》も此《この》御者《ぎよしや》はナカ〳〵の音樂家《ふきて》である。それで奴《やつこ》さんラッパに口《くち》を當《あ》てがひもせずに長《なが》い間《あひだ》一同《みんな》を樂《たのし》ませた。プロシヤ進行曲《マーチ》が出《で》る、『野《の》越《こ》え山《やま》越《こ》え谷《たに》越《こ》えて』が出《で》る、其他《そのほか》種々《いろ〳〵》の曲《きよく》が出《で》て、竟《つひ》に氷釋《ひやうしやく》音樂《おんがく》は終《をはり》を吿《つ》げた。拙生《せつせい》も此處《こゝ》でロシヤ旅行談《りよかうだん》は一|段落《だんらく》とする。

 鯨《くぢら》と軍艦《ぐんかん》の話《はなし》

 拙生《せつせい》は第《だい》一|等《とう》の英國《えいこく》軍艦《ぐんかん》大砲《たいはう》百|門《もん》乗組員《のりくみゐん》四百|人《にん》といふのに乗《の》つて、北《きた》アメリカに向《むか》ひポーツマスを出發《しゆつぱつ》した。セントローレンス川《がは》へ三百リーグといふ所《ところ》に着《つ》くまでは、別《べつ》に話題《おはなし》になるやうな事《こと》も起《おこ》らなかつた。其時《そのとき》に船《ふね》は恐《おそ》ろしい勢《いきほひ》で岩《いは》に突中《つきあた》つた。拙生《せつせい》等《ら》は多分《たぶん》岩《いは》だらうと思《おも》つたが、鉛線《なまり》を下《おろ》して見《み》ても底《そこ》に屆《とゞ》かぬ。三百|尋《ひろ》下《おろ》したが更《さら》に手答《てごたへ》はなかつた。此《この》事件《じけん》を尙《な》ほ重大《ぢうだい》にし、且《か》つ拙生《せつせい》等《ら》の見當《けんたう》のつき兼《か》ねたのは、其《その》震動《しんどう》の烈《はげ》しかつた事《こと》で、船《ふね》は舵《かぢ》を失《うしな》ひ、斜桅《やりだし》を破《やぶ》り、檣《マスト》は悉《ことごと》く頂上《てつぺん》から底《もと》まで折《を》れ、二|本《ほん》は甲板《かんぱん》の上《うへ》に倒《たふ》れた。運惡《うんあし》く大帆索《おほほづな》を卷《ま》きに上《あが》つてゐた水兵《すゐへい》は少《すくな》くとも船《ふね》から三リーグの所《ところ》に跳飛《はねと》ばされたが、壽命《じゆみやう》の强《つよ》い男《をとこ》と見《み》えて、大《おほ》きな鷗《かもめ》の尻尾《しつぽ》に捉《つかま》つて生命《いのち》拾《びろ》ひをした。鷗《かもめ》は何《なに》も彼《か》も心得《こゝろえ》てゐるといつたやうに、件《くだん》の男《をとこ》を連《つ》れて船《ふね》に急《いそ》ぎ、以前《もと》跳飛《はねとば》された所《ところ》に置《お》いて行つた。震動《しんどう》の烈《はげ》しかつた實例《じつれい》を尙《もう》一つ擧《あ》げれば、甲板《デツキ》と甲板《デツキ》の間《あひだ》にゐた水兵《すゐへい》は上《うへ》の床《ゆか》に打付《うちつ》けられた位《くらゐ》、拙生《せつせい》の頭《あたま》の如《ごと》きは垂直《すゐちよく》に胃袋《ゐぶくろ》に押込《おしこ》まれて、舊《もと》の狀態《じやうたい》に歸《かへ》るまでには數《すう》ヶ月《げつ》かゝつた。此《この》理由《えたい》の分《わか》らぬ騷動《さうどう》に拙生《せつせい》等《ら》は且《かつ》は驚《おどろ》き且《かつ》は恐《おそ》れ、呆然《ばうぜん》自失《じしつ》してゐると、大《おほ》きな鯨《くぢら》の尻尾《しつぽ》が現《あら》はれたので、渙然《くわんぜん》として百事《ひやくじ》氷釋《ひやうしやく》した。鯨《くぢら》は水面《すゐめん》十六|尺《しやく》以内《いない》の所《ところ》で日向《ひなた》ぼつこをして眠《ねむ》つてゐたのである。ところを拙生《せつせい》共《ども》の船《ふね》が邪魔《じやま》をしたから腹《はら》を立《た》てたものと見《み》える。拙生《せつせい》共《ども》は通過《とほりす》ぎる途端《とたん》に、舵《かぢ》で其《その》鼻《はな》を引搔《ひつか》いた。そこで彼《かれ》は尾《を》を掉《ふる》つて、船尾《せんび》から後甲板《こうかんばん》一|帶《たい》を打《う》ち、殆《ほと》んど同時《どうじ》に、例《れい》の通《とほ》り下《おろ》してあつた大帆索《おほほづな》の碇《いかり》を把《と》り、口《くち》に啣《くは》へて船《ふね》を引《ひ》いた儘《まゝ》、一|時間《じかん》二十リーグの速力《そくりよく》で、少《すくな》くとも六十リーグ走《はし》つた末《すゑ》、幸《さいは》ひ鎖《くさり》が切《き》れて、拙生《せつせい》共《ども》は一|時《じ》に鯨《くぢら》と鎖《くさり》を失《うしな》つたのである。しかしながら數月《すうげつ》の後《のち》、ヨーロッパへの歸途《かへりみち》、拙生《せつせい》共《ども》は同《おな》じ場所《ばしよ》から數《すう》リーグの所《ところ》で、其《その》鯨《くぢら》の死《し》んで浮《う》いてゐるのを見《み》つけた。身長《たけ》は一|哩《まいる》半《はん》以上《いじやう》、斯《か》うした巨大《おほきい》ものは極《ご》く小部分《せうぶぶん》しか取入《とりい》れる事《こと》が叶《かな》はぬから、拙生《せつせい》等《ら》は短艇《ボート》を下《おろ》し、漸《やうや》くの事《こと》で頭《あたま》を切取《きりと》つたらば、例《れい》の碇《いかり》と鎖《くさり》が四十リーグ許《ばか》り、口中《こうちう》の左側《ひだりがは》、丁度《ちやうど》舌《した》の下《した》で蜷局《とぐろ》を卷《ま》いてゐた。是《これ》には一同《いちどう》大喜悅《おほよろこび》であつた。(多分《たぶん》是《これ》が鯨《くぢら》の死因《しいん》であつたらう。舌《した》の其側《そのがは》は甚《ひど》く腫上《はれあが》つて、焮衝《きんしよう》を起《おこ》してゐた。以上《いじやう》は此《この》航海《かうかい》中《ちう》に起《おこ》つた唯《ゆい》一の土產《みやげ》ばなしである。いや、尙《な》ほ言《い》ひ殘《のこ》した事《こと》が一つある。鯨《くぢら》が船《ふね》を引《ひ》いて走《はし》る途中《とちう》船《ふね》が洩《も》り始《はじ》めて、ポンプが總出《そうで》になつて働《はたら》いても、入《はい》つて來《く》る水《みづ》の方《はう》が多《おほ》かつた。が、仕合《しあは》せな事《こと》には第《だい》一に其《それ》を發見《はつけん》したのは拙生《せつせい》である。直徑《ちよくけい》一|尺《しやく》大《だい》の穴《あな》で、此《この》大《だい》軍艦《ぐんかん》が其《その》勇敢《ゆうかん》なる乗組員《のりくみゐん》諸共《もろとも》、唯《たゞ》拙生《せつせい》の頓智《とんち》によつて沈沒《ちんぼつ》を免《まぬか》れたといつたら、諸君《しよくん》は拙生《せつせい》の得意《とくい》を少《すこ》しは察《さつ》する事《こと》が出來《でき》るであらう。一|言《げん》すれば、拙生《せつせい》は其《その》穴《あな》の上《うへ》に坐《すわ》つたのである。これも拙生《せつせい》の祖先《そせん》が和蘭陀《オランダ》人《じん》から下《くだ》つたといふ事《こと》を御承知《ごしようち》なら、諸君《しよくん》は成《な》ある程《ほど》と感嘆《かんたん》致《いた》すであらう。
 坐《すわ》つてゐた間《あひだ》はナカ〳〵冷《つめた》かつたが、間《ま》もなく大工《だいく》が修繕《しゆぜん》を加《くは》へて、拙生《せつせい》の務《つとめ》を解《と》いて吳《く》れた。
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*譯者《やくしや》曰《いは》く、是《これ》は男爵《だんしやく》が次《つぎ》の名高《なだか》い話《はなし》を引合《ひきあひ》に洒落《しやれ》たのであるが、其話《それ》を知《し》らぬ人《ひと》には聊《いさゝ》か樂屋落《がくやおち》の嫌《きらひ》がある。よつて其話《そのはなし》の筋《すぢ》を左《さ》に、
 和蘭陀《おらんだ》は海《うみ》を敵《てき》とする國《くに》、海《うみ》より低《ひく》い土地《とち》が多《おほ》いから、堤防《ていばう》を築《きづ》いて水《みづ》を堰止《せきと》める。が、浪《なみ》は屢《しばし》ば此《この》堤防《ていばう》を破《やぶ》つて、人畜《じんちく》を殺《ころ》し家屋《かをく》を流《なが》す。或《ある》夕暮《ゆふぐれ》男《をとこ》の子《こ》が堤防《ていばう》に小穴《こあな》の明《あ》いたのに氣《き》がついた。水《みづ》が滴々《ちよぼり〳〵》と洩《も》つてゐる。彼《かれ》は堤防《ていばう》の大切《だいじ》な事《こと》を聞《き》いて承知《しようち》してゐた。直《す》ぐに家《うち》に走《はし》つて父《ちゝ》に吿《つ》げようかと思《おも》つたが、父《ちゝ》が驅付《かけつ》ける迄《まで》には日《ひ》が暮《く》れる、穴《あな》が見《み》つからなくなるかも知《し》れぬ、或《あるひ》は其間《そのあひだ》に穴《あな》が大《おほ》きくなるかも知《し》れぬ、と思返《おもひかへ》して、其子《そのこ》は其處《そこ》に坐《すわ》つて穴《あな》を押《おさ》へた儘《まゝ》、一夜《ひとよ》を明《あ》かした。朝《あさ》になつて人々《ひと〴〵》が其《それ》と心《こゝろ》づき、直《たゞ》ちに修繕《しゆぜん》を加《くは》へ、一|少年《せうねん》のお蔭《かげ》で一|地方《ちはう》が洪水《こうずい》を免《まぬか》れたといふ。
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 大魚《たいぎよ》の話《はなし》

 拙生《せつせい》は或時《あるとき》地中海《ちちうかい》で、奇《ひよん》な事《こと》から一|命《めい》を殞《おと》す所《ところ》であつた。其《それ》は夏《なつ》の日《ひ》の午後《ひるすぎ》で、拙生《せつせい》はマルセーユ附近《ふきん》の心持《こゝろもち》よい海《うみ》で游泳《いうえい》をしてゐた。すると巨大《おほき》な魚《さかな》が大口《おほぐち》を開《あい》て、非常《ひじやう》な速力《そくりよく》で拙生《せつせい》に向《むか》つて來《く》るのを見《み》た。咄嗟《とつさ》の事《こと》で、避《よ》ける間《ま》も如何《どう》する間《ま》もない。拙生《せつせい》は直《たゞ》ちに足《あし》を縮《ちゞ》め手《て》を縮《ちゞ》め首《くび》を縮《ちゞ》め、生《うま》れたての子《こ》のやうに、出來《でき》る丈《だ》け身體《からだ》を小《ちひさ》くして、其儘《そのまゝ》大魚《たいぎよ》の喉《のど》に躍込《をどりこ》み、次《つ》いで胃《ゐ》の腑《ふ》に到着《たうちやく》した。そこで少時《しばらく》は眞暗黑《まつくらやみ》の中《なか》に凝《ぢ》つとしてゐた。暖《あたゝか》くて居心《ゐごゝろ》が好《よ》かつたらうつて?いや、諸君《しよくん》のお察《さつ》しの通《とほ》りだ。しかし拙生《せつせい》は考《かんが》へた――斯《か》う文字《もんじ》通《どほ》りに魚腹《ぎよふく》に葬《はうむ》られて了《しま》つては仕方《しかた》ない、何《ど》うにかして出《で》なければならぬ。それには痛《いた》い目《め》を見《み》せたら、大魚《たいぎよ》も拙生《せつせい》を持餘《もてあま》して竟《つひ》には吐出《はきだ》すであらう。運動《うんどう》する餘地《よち》は充分《じうぶん》あつたから、拙生《せつせい》はデングリカヘシを打《う》つ、トンボガヘリを爲《す》る、高飛《たかとび》幅飛《はゞとび》宙返《ちうがへ》りといふ風《ふう》に一生《いつしやう》懸命《けんめい》で惡戯《いたづら》をした。殊《こと》に英國踊《えいこくをどり》をやりながら足《あし》を早目《はやめ》に踏《ふ》むのが一|番《ばん》利《き》けたと見《み》え、其《それ》を始《はじ》めると間《ま》もなく、彼《かれ》は時々《とき〴〵》拙生《せつせい》を吐出《はきだ》しさうにする。拙生《せつせい》は此處《こゝ》を先途《せんど》と踊跳《をどりは》ねる。竟《つひ》に彼《かれ》は恐《おそ》ろしい聲《こゑ》を立《た》てゝ水中《すゐちう》に直立《ちよくりつ》し、頭《あたま》から肩《かた》へ掛《か》けて身體《からだ》を水面《すゐめん》に露出《あらは》した。其《それ》をイタリヤ商船《しやうせん》の人々《ひと〴〵》が見《み》つけて進《すゝ》み寄《よ》り、數分《すうふん》の後《のち》に、大魚《たいぎよ》は銛《もり》で仕止《しと》められた。魚《さかな》が甲板《かんぱん》の上に引上《ひきあ》げられてから間《ま》もなく、拙生《せつせい》は、一|番《ばん》澤山《たんと》油《あぶら》を取《と》るには何處《どこ》から切《き》つたら可《よ》からうかと、外《そと》で人々《ひと〴〵》の相談《さうだん》してゐる聲《こゑ》を聞付《きゝつ》けた。拙生《せつせい》はイタリヤ語《ご》が解《わか》るから、魚《さかな》を切《き》る拍子《ひやうし》に刄物《はもの》が拙生《せつせい》に當《あた》つては大變《たいへん》と實《じつ》に氣《き》が氣《き》でなかつた。動物《どうぶつ》の胃袋《ゐぶくろ》の廣《ひろ》さは十二三|人《にん》の大男《おほをとこ》を收容《しうよう》するに足《た》る。彼等《かれら》は無論《むろん》端《はし》の方《はう》から切始《きりはじ》めるだらうと思《おも》つて、拙生《せつせい》は胃袋《ゐぶくろ》の眞中《まんなか》に立《た》つてゐたが、拙生《せつせい》の恐怖《おそれ》は間《ま》もなく消失《きえう》せた。彼等《かれら》は下腹《したはら》から切《き》り始《はじ》めた。切口《きりくち》から光線《あかり》が差《さ》すや否《いな》や、拙生《せつせい》は最早《もはや》窒息《ちつそく》しさうだから早《はや》く助《たす》けて吳《く》れと呶鳴《どな》つた。何《なに》しろ魚《さかな》が人間《にんげん》のやうな聲《こゑ》を立《た》てたといふので、彼等《かれら》の驚愕《きやうがく》の性質《せいしつ》及《およ》び程度《ていど》は何程《なにほど》棒大《ぼうだい》に書《か》いても眞相《しんさう》を傳《つた》へる事《こと》が出來《でき》ぬ。そして裸體《はだか》の拙生《せつせい》が直立《ちよくりつ》したなり魚《さかな》の腹部《はら》から步《ある》き出《だ》した時《とき》には、彼等《かれら》の喫驚《きつきやう》は尙《な》ほ一層《ひとしほ》であつた。一|言《げん》すれば拙生《せつせい》は一|部《ぶ》始終《しじう》を唯今《たゞいま》諸君《しよくん》に話《はな》す通《とほ》り彼等《かれら》に話《はな》したのである。彼等《かれら》は呆《あき》れ返《かへ》つて水《みづ》を含《ふく》むだやうに默《だま》つて聽《き》いてゐた。
 食物《しよくもつ》で元氣《げんき》をつけて、拙生《せつせい》は再《ふたゝ》び海《うみ》に飛込《とびこ》むで身體《からだ》を淸《きよ》めた。ぬら〳〵して生《なま》ぐさくて氣持《きもち》の惡《わる》かつた事《こと》!それから岸《きし》に游《およ》ぎ着《つ》いたらば、着物《きもの》は以前《もと》置《お》いた所《ところ》にあつた。時計《とけい》を出《だ》して見《み》ると、拙生《せつせい》は少《すくな》くとも四|時間《じかん》半《はん》魚《さかな》の腹《はら》の中《なか》にゐた勘定《かんぢやう》になる。

 ヂブラルター包圍《はうゐ》の話《はなし》

 先頃《さきごろ》のヂブラルター包圍《はうゐ》の間《あひだ》に拙生《せつせい》はロドニー卿《きやう》引率《いんそつ》の御用船《ごようせん》に乗《の》つて親友《しんいう》エリオット將軍《しやうぐん》に會《あ》ひに行《い》つた。其後《そのご》同《どう》將軍《しやうぐん》はヂブラルターを守《まも》つた功勞《てがら》により、永久《とこしへ》に凋《しぼ》まぬ桂《かつら》の冠《かむり》を得《え》た。拙生《せつせい》は將軍《しやうぐん》に伴《ともな》はれて、守備《しゆび》の情勢《じやうせい》視察《しさつ》並《ならび》に敵軍《てきぐん》の作戰《さくせん》見物《けんぶつ》に出《で》かけた。拙生《せつせい》はロンドンのドルランドで求《もと》めた最上《さいじやう》の望遠鏡《ばうゑんきやう》を携帶《けいたい》してゐた。其《その》力《ちから》を借《か》りて拙生《せつせい》は敵《てき》が拙生《せつせい》等《ら》の立《た》つてゐる所《ところ》を狙《ねら》つて三十六|舊砲《きうはう》を發射《はつしや》しようとしてゐるのを確《たしか》めた。そこで將軍《しやうぐん》に拙生《せつせい》の見《み》た所《ところ》を吿《つ》げると、將軍《しやうぐん》も望遠鏡《ばうゑんきやう》を覗《のぞ》いて、全《まつた》く貴下《きか》の觀察《くわんさつ》通《どほ》りぢやといふ。拙生《せつせい》は將軍《しやうぐん》の許可《きよか》を得《え》て、近傍《きんばう》の砲臺《はうだい》から四十七|臼砲《きうはう》を取寄《とりよ》せるやうに命《めい》じ、長《なが》い間《あひだ》砲術《はうじゆつ》の硏究《けんきう》をしてゐる難有《ありがた》さは、巧《たく》みに据付《すゑつけ》を終《をは》つて狙《ねら》ひを定《さだ》めた。
 拙生《せつせい》は眤《ぢ》つと先方《せんぱう》の樣子《やうす》を覗《うかゞ》つてゐたが、敵《てき》が其《その》臼砲《きうはう》の火門《くわもん》に燐寸《マツチ》を置《お》くと同時《どうじ》に、『打《う》て!』と一|聲《せい》信號《あひづ》を發《はつ》した。
 此方《こつち》の臼砲《きうはう》と先方《むかふ》の臼砲《きうはう》との殆《ほと》んど中途《ちゆうと》ぐらゐの所《ところ》で、雙方《さうはう》の彈丸《たま》は猛烈《まうれつ》な勢《いきほひ》で行當《ゆきあた》つた。結果《けつくわ》は實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》きもので、見《み》る〳〵先方《せんぱう》の砲丸《たま》は恐《おそ》ろしい勢《いきほひ》で退却《あとじさり》を始《はじ》め、發砲《はつぱう》した男《をとこ》の頭《あたま》を跳《は》ね飛《と》ばし、行當《ゆきあた》り次第《しだい》に十|有《いう》餘人《よにん》を殪《たふ》して、對岸《たいがん》アフリカ洲《しう》のバーバリーに逹《たつ》した。バーバリーに屆《とゞ》いた頃《ころ》は、既《すで》に一|列《れつ》に並《なら》むでゐた軍艦《ぐんかん》の檣《マスト》を三|本《ぼん》迄《まで》も貫通《くわんつう》して、大分《だいぶ》力《ちから》が拔《ぬ》けてゐたから、纔《わづ》かに一《いつ》日傭取《ひようとり》の小屋《こや》の屋根《やね》を貫《つらぬ》き、折《をり》から口《くち》を開《あ》いて晝寢《ひるね》をしてゐた其《その》老妻《らうさい》の無《な》け無《な》しの齒《は》を二三|本《ぼん》碎《くだ》いて、竟《つひ》に其《その》喉頭《こうとう》に止《とま》つた。間《ま》もなく亭主《ていしゆ》が歸《かへ》つて來《き》て、丸《たま》を拔取《ぬきと》らうとしたが、迚《とて》も駄目《だめ》なので、㮶杖《こみや》を用《もち》ゐて胃《ゐ》に押落《おしおと》して了《しま》つた。拙生《せつせい》等《ら》の砲彈《はうだん》は實《じつ》に偉大《ゐだい》の功《こう》を奏《さう》した。啻《たゞ》に敵彈《てきだん》を跳返《はねかへ》したのみならず、拙生《せつせい》共《ども》を狙擊《そげき》した臼砲《きうはう》を拂退《はらひの》けて荷倉《にぐら》に落《お》ち込《こ》み、力《ちから》餘《あま》つて船底《ふなぞこ》を貫《つらぬ》いた。船《ふね》は見《み》る間《ま》に浸水《しんすゐ》して、乗組《のりくみ》の西班牙《スペイン》水兵《すゐへい》一千、並《ならび》に多數《たすう》の陸兵《りくへい》と共《とも》に底《そこ》の藻屑《もくづ》となつて了《しま》つた。是《これ》は寔《まこと》に異例《いれい》の功績《こうせき》である。然《しか》りと雖《いへど》も、拙生《せつせい》は一|個《こ》に此《この》勲功《くんこう》を私《わたくし》しない。拙生《せつせい》の判斷《はんだん》が主動《しゆどう》であつたが、僥倖《げうかう》も亦《また》與《あづか》つて力《ちから》がある。後《のち》に聞《き》く所《ところ》によれば、我《わ》が四十九|臼砲《きうはう》を發射《はつしや》した砲手《はうしゆ》は、何《なに》かの考《かんが》へ違《ちが》ひで二|倍《ばい》の火藥《くわやく》を塡《つ》めたといふ。全《まつた》く然《さ》うでゞもなければ、敵彈《てきだん》を彈《はじ》き返《かへ》す等《など》といふ豫想外《よさうぐわい》の成功《せいこう》は决《け》して收《をさ》められるものでない。
 此《この》獨得《どくとく》なる勞役《らうえき》の効果《かうくわ》を嘉《よ》みし、將軍《しやうぐん》は將來《しやうらい》拙生《せつせい》を重《おも》く用《もち》ゐたいといふ事《こと》であつたが、拙生《せつせい》は何《なに》も彼《か》も固辭《こじ》して、其《その》夕《ゆふべ》將校《しやうかう》一|同《どう》と共《とも》に晩餐《ばんさん》の食卓《しよくたく》に就《つ》いた時《とき》、唯《たゞ》鄭重《ていちよう》なる感謝《かんしや》の辭《じ》だけを受《う》けた。

 海馬《たつのおとしご》の話《はなし》

 拙生《せつせい》の有名《いうめい》な石投《いしなげ》は父《ちゝ》から直接《ちよくせつ》に受繼《うけつ》いだものである。是《これ》に就《つ》いて拙生《せつせい》は父《ちゝ》から次《つぎ》の物語《ものがたり》を聞《き》いた事《こと》がある。
 父《ちゝ》は例《れい》の石投《いしなげ》をポッケットに入《い》れてハーウイッチの海岸《かいがん》を散步《さんぽ》してゐた。一|哩《まいる》とは行《ゆ》かぬ中《うち》に彼《かれ》は海馬《たつのおとしご》といふ恐《おそ》ろしい動物《どうぶつ》に襲《おそ》はれた。大口《おほぐち》を開《あ》いて勢《いきほひ》猛《まう》に飛《と》びかゝつたといふ。彼《かれ》は一寸《ちよつと》度膽《どぎも》を拔《ぬ》かれたが、直《たゞ》ちに百ヤード許《ばか》り退《しりぞ》き、石《いし》を二個《ふたつ》拾《ひろ》ふ爲《た》めに屈《かゞ》むだ。素《もと》より海岸《かいがん》の事《こと》だから石《いし》は澤山《たくさん》ある。彼《かれ》は石投《いしなげ》に込《こ》めるより早《はや》く動物《どうぶつ》を目蒐《めが》けて投《な》げ付《つ》けた處《ところ》、狙《ねら》ひ違《たが》はず兩方《りやうはう》の眼《まなこ》に中《あた》り、玉《たま》が飛出《とびで》た拍子《ひやうし》に、石《いし》は其《その》跡《あと》に聢乎《かちり》と嵌《はま》り込《こ》むだ。そこで彼《かれ》は其《その》動物《どうぶつ》に跨《またが》つて海《うみ》に乗込《のりこ》む。海馬《たつのおとしご》は眼《まなこ》を失《うしな》ふと同時《どうじ》に其《その》猛惡《まうあく》の性質《せいしつ》を失《うしな》つて、極《きは》めて從順《じうじゆん》になつたといふ。父《ちゝ》は例《れい》の石投絲《いしなげいと》を手綱《たづな》として動物《どうぶつ》の口《くち》に宛行《あてが》ひ、譯《わけ》もなく海《うみ》を渡《わた》り、三|時間《じかん》とは立《た》たぬ中《うち》に、約《やく》三十リーグの對岸《たいがん》に着《つ》いた。ホルランド、ヘルベツルイスの三盃《みつさかづき》の君《きみ》、此《この》海馬《たつのおとしご》を公衆《こうしう》の縦覽《じうらん》に供《きよう》したいとて强《た》つての懇望《こんまう》。そこで父《ちゝ》は七百ダカット即《すなは》ち三千|圓《ゑん》に値賣《ねうり》をして、翌日《よくじつ》御用船《ごようせん》でハーウイツチに歸《かへ》つて來《き》た。

 鰕《えび》の木《き》の話《はなし》

 拙生《せつせい》は父《ちゝ》が海馬《たつのおとしご》に乗《の》つて英國《えいこく》海峽《かいけふ》を橫切《よこぎ》り、ホルランドへ行《い》つた旅《たび》の中《うち》の極《ご》く重要《だいじ》な部分《ところ》を話《はな》し落《おと》した。間違《まちがひ》のないやうに父《ちゝ》の言葉《ことば》を借《か》りてお話《はなし》しよう。父《ちゝ》は此《この》話《はなし》を幾度《いくたび》となく友人《いうじん》に話《はな》し、其《その》都度《つど》拙生《せつせい》は承《うけたまは》つたから、確《たし》かなものである。で、次《つぎ》に拙生《せつせい》とあるは父《ちゝ》の事《こと》である。
 ヘルベツルイスに到着《たうちやく》した時《とき》、拙生《せつせい》は呼吸《いき》づかひが苦《くる》しく見《み》えたさうだ。如何《どう》した譯《わけ》かと土地《とち》の人々《ひと〴〵》が訊《き》くから、實《じつ》は拙生《せつせい》のハーウイッチから乗《の》つて參《まゐ》つた動物《どうぶつ》は、泳《およ》いで來《き》たのではないと答《こた》へた。彼等《かれら》の特性《とくせい》として、彼等《かれら》は水面《すゐめん》に浮《うか》ぶ事《こと》も泳《およ》ぐ事《こと》も出來《でき》ぬ。彼等《かれら》は岸《きし》から岸《きし》まで海底《かいてい》の砂《すな》の上《うへ》を千萬《せんまん》の魚類《ぎよるゐ》を愕《おどろ》かして、話《はな》しても虛《うそ》のやうな速力《そくりよく》で走《はし》る。其《その》魚類《ぎよるゐ》の大部分《だいぶぶん》は尻尾《しつぽ》の尖端《さき》に頭《あたま》がついてゐるといふ工合《ぐあひ》で、拙生《せつせい》の懇意《こんい》にしてゐた魚《さかな》とは大分《だいぶ》形狀《けいじやう》を異《こと》にしてゐる。拙生《せつせい》は高《たか》さアルプス山脈《さんみやく》と伯仲《はくちう》の間《あひだ》にある岩脈《がんみやく》を通過《とほりこ》した。此《この》海底《かいてい》山脈《さんみやく》の最高所《さいかうしよ》は水面《すゐめん》から百|尋《ひろ》以上《いじやう》との事《こと》である。山腹《さんぷく》到《いた》る處《ところ》、大樹《たいじゆ》喬木《けうぼく》生《お》ひ茂《しげ》り、鰕《えび》蟹《かに》帆立貝《ほたてがひ》を始《はじ》めとして其他《そのほか》ありとあらゆる海產物《かいさんぶつ》が枝《えだ》を絞《しぼ》つて實《な》つてゐる。其中《そのなか》には唯《たゞ》一個《ひとつ》で、車《くるま》は愚《おろ》か牛車《うしぐるま》にも積《つ》み兼《か》ねるやうな大物《おほもの》がある。漁師《れふし》の手《て》に掛《かゝ》つて魚《うを》市場《いちば》へ出《で》るのは極《きは》めて劣等《れつとう》の種類《しゆるゐ》で、正《まさ》に波落《なみおち》といふ可《べ》き代物《しろもの》である。果樹園《くわじゆゑん》の果物《くだもの》の風《かぜ》に吹《ふ》き落《おと》されたものを風落《かざおち》と呼《よ》び、蟲《むし》に喰《く》ひ落《おと》されたものを蟲落《むしおち》と稱《しよう》するが如《ごと》く、此《この》海產林《かいさんりん》に波《なみ》が中《あた》つて枝《えだ》から振《ふる》ひ落《おと》したものを波落《なみおち》といふ。田螺《たにし》類《るゐ》は蔓木《つるぎ》で、蠣《かき》の木《き》の下《した》に生《は》える。恰《あたか》も蔦《つた》が樫《かし》の木《き》に卷付《まきつ》くやうに蠣《かき》の木《き》に絡《から》むで、田螺《たにし》は零餘子《むかご》のやうに實《な》つてゐる。拙生《せつせい》は處々《ところ〴〵》で破船《はせん》の結果《けつくわ》を見《み》た。其中《そのなか》に水面《すゐめん》から三|尋《ひろ》ばかりの岩山《いはやま》に突當《つきあた》つて沈沒《ちんぼつ》した船《ふね》があつた。沈《しづ》む時《とき》船側《ふなばら》が下《した》になつて、其處《そこ》に生《は》えてゐた鰕《えび》の木《き》を根拔《ねこぎ》にしたと見《み》える。其《それ》は春《はる》で未《ま》だ鰕《えび》が靑《あを》い頃《ころ》であつた。激《はげ》しい震動《しんどう》の爲《た》めに、實《み》は枝《えだ》を離《はな》れて、直《す》ぐ下《した》に生《は》えてゐた蟹《かに》の木《き》の枝《えだ》に落《お》ちた。そこで植物《しよくぶつ》の花粉《かふん》のやうに蟹《かに》の實《み》に結合《けつがう》して、蟹《かに》ともつかず鰕《えび》ともつかぬ一|種《しゆ》異樣《いやう》の魚《さかな》になつた。拙生《せつせい》は參考《さんかう》の爲《た》めに一|疋《ぴき》持《も》つて行《ゆ》かうと思《おも》つたが、荷厄介《にやくかい》になる上《うへ》に、拙生《せつせい》の海中《かいちう》ペガサスは頻《しき》りに急《いそ》ぎ、苟《いやし》くも旅《たび》を後《おく》れさせるやうな事《こと》は絕對的《ぜつたいてき》に拒《こば》むやうに見《み》えたから、不本意《ふほんい》ながら斷念《だんねん》した。且《か》つ當時《たうじ》は殆《ほと》んど旅程《りよてい》の中間《ちゆうかん》に逹《たつ》し、深《ふか》さ五百|尋《ひろ》の一|岩山《がんざん》を走《はし》つてゐて、空氣《くうき》の缺乏《けつぼふ》をソロ〳〵苦《くる》しく感《かん》じ始《はじ》めたから、餘計《よけい》な仕事《しごと》に手間《てま》を取《と》る氣《き》も出《で》なかつた。のみならず拙生《せつせい》の立場《たちば》は何《ど》の方面《はうめん》から見《み》ても甚《はなは》だ不愉快《ふゆくわい》であつた。拙生《せつせい》は幾多《いくた》の大魚《たいぎよ》に出會《であ》つた。其《そ》の開《ひら》いた口《くち》によつて察《さつ》するに、彼等《かれら》は拙生《せつせい》を呑《の》む事《こと》が出來《でき》るばかりでなく、確《たし》かに呑込《のみこ》む積《つも》りと見《み》えた。拙生《せつせい》の|ロ《*》ジナンテは盲目《めくら》であるから、拙生《せつせい》は苦《くる》しい中《なか》にも氣《き》をつけて此《この》種《しゆ》の動物《どうぶつ》を警戒《けいかい》せねばならなかつたのである。
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ペ《*》ガサスはベラーオホンの乗《の》つた翼《つばさ》のある駿馬《しゆんめ》、ロジナンテはドンキホーテの愛馬《あいば》である。
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 白熊《しろくま》の話《はなし》

 我等《われら》はキヤプテン、フイリップ(今《いま》はマルグレーヴ卿《きやう》)の北極《ほくきよく》探險《たんけん》旅行《りよかう》を皆《みな》承知《しようち》してゐる。拙生《せつせい》は士官《しくわん》としてゞなく、私友《しいう》としてキヤプテンに同行《どうかう》した。
 北緯《ほくゐ》大《おほい》に迫《せま》つた時《とき》、拙生《せつせい》は先《さき》のヂブラルターの冒險《ぼうけん》の節《せつ》紹介《せうかい》した望遠鏡《ぼうゑんきやう》を以《もつ》て周圍《あたり》の風物《ふうぶつ》を瞻望《せんぼう》してゐた。すると拙生《せつせい》は半《はん》リーグばかりの彼方《あなた》に、船《ふね》の檣《マスト》よりも尙《な》ほ高《たか》い氷山《ひやうざん》の上《うへ》で、白熊《しろくま》と白熊《しろくま》の喧嘩《けんくわ》をしてゐるのを見付《みつ》けた。で、拙生《せつせい》は早速《さつそく》銃《じう》を把《と》つて肩《かた》に引《ひ》つ擔《かつ》ぎ、氷《こほり》の山《やま》を登《のぼ》り始《はじ》めた。頂上《ちやうじやう》に逹《たつ》した時《とき》は表面《へうめん》の凹凸《おうとつ》啻《たゞ》ならず、動物《どうぶつ》に近寄《ちかよ》る事《こと》は困難《こんなん》であつたばかりか、言《い》はん方《かた》なく危險《きけん》であつた。時《とき》には底《そこ》も知《し》れぬ隙目《われめ》が道《みち》を妨《さまた》げる。其樣《そん》な場合《ばあひ》には目《め》を瞑《ねむ》つて飛越《とびこ》す外《ほか》に術《すべ》がなかつた。時《とき》には表面《へうめん》が鏡《かゞみ》のやうに滑《なめら》かで、步《ある》くよりは辷《すべ》る方《はう》が多《おほ》かつた。彈丸《たま》の屆《とゞ》く近《ちか》くに來《き》て見《み》ると、熊《くま》は咬合《かみあひ》でなく、巫山戯《ふざけ》合《あ》つてゐたのである。拙生《せつせい》は少時《しばらく》は其《その》毛皮《けがは》の價値《ねうち》を胸算用《むなさんよう》してゐた。各々《おの〳〵》肥《こ》えた雄牛《をうし》位《ぐらゐ》の大《おほき》さである。不幸《ふかう》にして銃《じう》を差出《さしだ》す刹那《せつな》、拙生《せつせい》は右《みぎ》の足《あし》を踏辷《ふみすべ》らせて、仰向樣《あふむけざま》に顚覆《ひつくりかへ》つた。正氣《しやうき》に返《かへ》つた時《とき》には既《すで》に述《の》べたる此《この》怪物《くわいぶつ》の一|疋《ぴき》が、拙生《せつせい》に覆重《おひかさ》なり、拙生《せつせい》のズボンの帶革《バンド》を捉《つか》み、足《あし》は前《まへ》、頭《かしら》は後《うしろ》といふ風《ふう》に、拙生《せつせい》を鞄吊《カバンさ》げに吊《さ》げて行《ゆ》く所《ところ》であつたから、其《その》驚愕《おどろき》は察《さつ》して貰《もら》ひたい。拙生《せつせい》此《この》時《とき》少《すこ》しも騷《さわ》がず、上着《うはぎ》のポッケットから短刀《たんたう》を把《と》るより早《はや》く、拔《ぬ》く手《て》も見《み》せずに熊《くま》の後足《うしろあし》をちよきつと切《き》ると、指《ゆび》が三|本《ぼん》ばらりと落《お》ちた。彼《かれ》は立所《たちどころ》に拙生《せつせい》を放《はな》して、聞《き》くも恐《おそ》ろしく咆《ほ》え猛《たけ》つた。拙生《せつせい》は直《たゞ》ちに銃《じう》を把《と》つて逃《に》げて行《ゆ》く所《ところ》を打《う》つと、丸《たま》は急所《きうしよ》を誤《あやま》たず、さしもの猛獸《まうじう》も即座《そくざ》に殪《たふ》れた。さて銃《じう》の響《ひゞき》が半《はん》哩《まいる》以内《いない》に眠《ねむ》つてゐた白熊《しろくま》を悉《ことごと》く起《おこ》した。今《いま》や彼等《かれら》は擧《こぞ》つて拙生《せつせい》の許《もと》に集《あつま》つた。眞《まこと》に咄嗟《とつさ》の間《あひだ》である。能《よ》く進退《しんたい》谷《きはま》る男《をとこ》だといふかも知《し》れぬが、拙生《せつせい》は全《まつた》く進退《しんたい》谷《きはま》る所《ところ》であつた。しかし恰《あたか》も善《よ》し、此《この》時《とき》拙生《せつせい》の腦細胞《なうさいぼう》に仕合《しあは》せな奇智《きち》が湧上《わきあが》つた。拙生《せつせい》は常人《ひと》が兎《うさぎ》を剝《は》ぐ時間《じかん》の半分《はんぶん》で、死《し》んだ白熊《しろくま》の皮《かは》を剝《は》ぎ、手早《てばや》く其中《そのうち》に身《み》を匿《かく》し、熊《くま》の頭《あたま》から頭巾《づきん》のやうに敵《てき》を覗《のぞ》いた。拙生《せつせい》の計畫《けいくわく》は自家《じか》防衞《ぼうゑい》の上《うへ》に大成功《だいせいこう》であつた。彼等《かれら》は皆《みな》鼻《はな》をクスン〳〵いはせて拙生《せつせい》を嗅《か》ぎ廻《まは》し、明白《あきらか》に拙生《せつせい》を兄弟分《きやうだいぶん》と心得《こゝろえ》てゐる。拙生《せつせい》は又《また》努《つと》めて猫背《ねこぜ》になつて、事《こと》の露顯《ろけん》を防《ふせ》がうとした。然《しか》しながら拙生《せつせい》は此《この》熊《くま》の大部分《だいぶぶん》は拙生《せつせい》よりも小《ちひさ》いといふ事《こと》に氣《き》がついた。彼等《かれら》は拙生《せつせい》を凝視《ぎようし》し、次《つぎ》に拙生《せつせい》に皮《かは》を剝《は》がれた朋輩《ほうばい》の死骸《しがい》を凝視《ぎようし》してから、我等《われら》は極《きは》めて社交的《しやかうてき》に見《み》えた。拙生《せつせい》は巧《たく》みに彼等《かれら》の動作《どうさ》を熊《くま》眞似《まね》小《こ》眞似《まね》する事《こと》が出來《でき》たから、大《おほい》に羽振《はぶり》が利《き》いたのでもあらうが、唸《うな》る事《こと》哮《ほ》える事《こと》相撲《すまふ》を取《と》る事《こと》にかけては、彼等《かれら》は何《ど》うしても拙生《せつせい》の先輩《せんぱい》であつた。時《とき》に拙生《せつせい》は斯《か》くして彼等《かれら》の間《あひだ》に作《つく》つた信用《しんよう》を如何《いか》にして利用《りよう》すべきかと考《かんが》へ始《はじ》めた。
 脊柱《せきちう》の傷《きず》は直《たゞ》ちに人《ひと》を殺《ころ》すといふ。是《これ》は豫《か》ねて老軍醫《らうぐんい》から聞《き》いた事《こと》である。で、拙生《せつせい》は一つ此《この》說《せつ》を試驗《しけん》して見《み》る氣《き》になつて、再《ふたゝ》び短刀《たんたう》に手《て》を掛《か》け、遊《あそ》び戯《たはむ》れる風《ふり》をしながら、一|番《ばん》大《おほ》きな奴《やつ》の首筋《くびすぢ》をぐさりと刺《さ》した。――尤《もつと》も仕損《しそん》じた日《ひ》には、彼《かれ》は直《たゞ》ちに飛《と》び掛《かゝ》つて、拙生《せつせい》も微塵《みぢん》に裂《さ》くだらうとしか思《おも》へぬから、いや拙生《せつせい》の心痛《しんつう》は實《じつ》に一|通《とほ》りや二|通《とほ》りでなかつた。が彼《かれ》が少《すこ》しも音《おと》を立《た》てずに拙生《せつせい》の足下《あしもと》に殪《たふ》れた時《とき》は實《じつ》に嬉《うれ》しかつた。そこで拙生《せつせい》は味《あぢ》を占《し》めて、同《おな》じ方法《はうはふ》によつて一|疋《ぴき》殘《のこ》らず殺《ころ》す決心《けつしん》をして、些細《ささい》の困難《こんなん》もなく成功《せいこう》した。彼等《かれら》は同輩《どうはい》が拙生《せつせい》の手《て》の觸《さは》る每《ごと》に殪《たふ》れても、一|向《かう》に原因《げんいん》も結果《けつくわ》も疑《うたが》はなかつた。敵《てき》が悉《こと〴〵》く拙生《せつせい》の前《まへ》に殪《たふ》れた時《とき》、拙生《せつせい》は第《だい》二の|サ《*》ムソンになつたやうな心持《こゝろもち》がした。
 其《それ》から後《さき》の事《こと》を簡單《かんたん》に辻褄《つぢつま》つければ、拙生《せつせい》は船《ふね》に戾《もど》つて船員《せんゐん》の三|分《ぶん》の一を借《か》り、手傳《てつだ》つて貰《もら》つて革《かは》を剝《は》ぎ、腿《ハム》を甲板《かんぱん》に搬《はこ》むだ。何分《なにぶん》大人數《おほにんずう》の事《こと》であるから、此《この》仕事《しごと》は三十|分《ぷん》ばかりで片付《かたづ》いた。他《ほか》の部分《ぶぶん》は悉皆《すつかり》海《うみ》に棄《す》てゝ了《しま》つたが、然《しか》る可《べ》き仕舞《しまひ》をつければ腿《ハム》同樣《どうやう》食料《しよくれう》になつた事《こと》拙生《せつせい》の毫《がう》も疑《うたがひ》を容《い》れぬ所《ところ》である。
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サ《*》ムソンは舊約《きうやく》全書《ぜんしよ》の人物《じんぶつ》、剛力《がうりき》の名《な》あり。
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 捕虜《ほりよ》を救《すく》ひたる話《はなし》

 拙生《せつせい》はヂブラルターから歸《かへ》つて、英國《えいこく》に行《ゆ》く爲《た》めにフランスを通《とほ》つた。外國人《ぐわいこくじん》の事《こと》であるから、所謂《いはゆる》旅《たび》の耻《はぢ》は搔《か》き棄《す》てゞ、別段《べつだん》の不都合《ふつがふ》にも出合《であは》なかつた。カレーの港《みなと》で拙生《せつせい》は、戰爭《せんさう》で捕虜《ほりよ》になつた英國《えいこく》水兵《すゐへい》を乗《の》せて到着《たうちやく》したばかりの船《ふね》を見《み》た。拙生《せつせい》は直《たゞ》ちに此《この》勇敢《ゆうかん》なる軍人《ぐんじん》に自由《じいう》を與《あた》へてやりたいといふ義俠心《ぎけふしん》を起《おこ》し、次《つぎ》の如《ごと》くにして美事《みごと》成功《せいこう》した。
 先《ま》づ長《なが》さ四十ヤード幅《はゞ》十四ヤードといふ大《おほ》きな翼《つばさ》を一|對《つゐ》拵《こしら》へて、拙生《せつせい》は萬象《ばんしやう》未《いま》だ夢《ゆめ》から覺《さ》めぬ朝《あさ》ぼらけ、否《いな》、甲板上《かんぱんじやう》の番兵《ばんぺい》までが眠《ねむ》つてゐる頃《ころ》に、大空《おほぞら》高《たか》く舞《ま》ひ上《あが》つた。次《つぎ》に船《ふね》の上《うへ》に舞《ま》ひ下《さが》つて、鉤《かぎ》を使《つか》つて例《れい》の石投《いしなげ》の絲《いと》を三|本《ぼん》檣《マスト》の頂點《ちやうてん》に結付《むすびつ》け、船體《せんたい》を水面《すゐめん》數《すう》ヤードの所《ところ》に引上《ひきあ》げてドーバーを指《さ》して海峽《かいけふ》を舞《ま》ひ始《はじ》め、三十|分《ぷん》にして無事《ぶじ》到着《たうちやく》した。最早《もはや》此上《このうへ》は翼《つばさ》の用《よう》もないから、其《それ》は其儘《そのまゝ》ドーバーの城主《じやうしゆ》に獻上《けんじやう》した。今《いま》まで彼《か》の地《ち》の博物館《はくぶつくわん》に參考品《さんかうひん》として殘《のこ》つてゐる。ドーバーへ行《い》つたら是非《ぜひ》見《み》て來《き》給《たま》へ。
 捕虜《ほりよ》及《およ》び其《それ》を護送《ごさう》してゐた佛國《ふつこく》軍人《ぐんじん》は、ドーバーへ着《つ》いてから二|時間《じかん》に垂《なんな》んとする迄《まで》目《め》を覺《さ》まさなかつた。英人《えいじん》は事情《じじやう》を知《し》るや否《いな》や、直《たゞ》ちに佛人《ふつじん》と地位《ちゐ》を替《か》へ、且《か》つ捕獲《ほかく》された物品《ぶつぴん》を取戾《とりもど》した。彼等《かれら》は寛大《くわんだい》であるから進《すゝ》むで報復的《はうふくてき》に新捕虜《しんほりよ》の所有物《しよいうぶつ》を掠《かす》めるやうな事《こと》はしなかつた。

 獵犬《れうけん》トレイの話《はなし》

 拙生《せつせい》は船長《せんちやう》ハミルトンと共《とも》に東《ひがし》印度《いんど》諸島《しよたう》へ航海中《かうかいちう》、トレイといふ愛犬《あいけん》を連《つ》れてゐた。彼《かれ》は嗅犬《ポインター》で决《けつ》して拙生《せつせい》を欺《あざむ》いた事《こと》がないから、下世話《げせわ》で申《まを》す土《つち》一|升《しよう》金《かね》一|升《しよう》、體重《めかた》丈《だ》けを貴金《きん》で拂《はら》ふからといはれても、手放《てばな》し難《がた》い尤物《いうぶつ》であつた。或日《あるひ》我等《われら》の觀察《くわんさつ》によれば陸地《りくち》から少《すくな》くとも三百リーグの所《ところ》で、トレイは獲物《えもの》を嗅付《かぎつ》けた。拙生《せつせい》は驚愕《きやうがく》の餘《あま》り、殆《ほと》んど一|時間《じかん》といふもの、彼《かれ》の樣子《やうす》を見守《みまも》つて、船長《せんちやう》並《ならび》に乗組《のりくみ》の船員《せんゐん》に拙生《せつせい》の愛犬《あいけん》が獲物《えもの》を嗅付《かぎつ》けた以上《いじやう》は、既《すで》に陸地《りくち》は近《ちか》いのだらうと、事《こと》の次第《しだい》を話《はな》して聞《き》かせた。此《この》話《はなし》は一|同《どう》の大笑《おほわらひ》を買《か》つたが、笑《わら》はれたからといつて、拙生《せつせい》のトレイに對《たい》する信用《しんよう》は秋毫《しうがう》も變《かは》らぬ。押問答《おしもんだふ》の末《すゑ》、拙生《せつせい》は此《この》船《ふね》の船員《せんゐん》全體《ぜんたい》の眼《まなこ》よりもトレイの鼻《はな》に信用《しんよう》を置《お》くと大膽《だいたん》に言放《いひはな》ち、尙《な》ほ進《すゝ》むでは、若《も》し半時間《はんじかん》の中《うち》に獲物《えもの》が見付《みつ》からぬやうなら、拙生《せつせい》は船賃《ふなちん》丈《だ》けの金額《きんがく》、即《すなは》ち百ギニイを進呈《しんてい》すると申出《まをしで》た。船長《せんちやう》は人《ひと》の好《い》い男《をとこ》で、唯《たゞ》笑《わら》ふばかりで本氣《ほんき》にしない。そして船醫《せんい》のクローホート君《くん》に賴《たの》むで拙生《せつせい》の脈《みやく》を見《み》させた。クローホート君《くん》は賴《たの》まれなくても職分《しよくぶん》上《じやう》是非《ぜひ》一|應《おう》診察《しんさつ》せねばならぬといふ意氣込《いきごみ》で、拙生《せつせい》の脈《みやく》を計《はか》つたが、拙生《せつせい》の健康《けんかう》に異狀《いじやう》のない事《こと》を明言《めいげん》した。次《つぎ》の會話《くわいわ》が船長《せんちやう》と船醫《せんい》の間《あひだ》に行《おこな》はれた。低《ひく》い聲《こゑ》で而《しか》も少々《せう〳〵》離《はな》れてゐたが、拙生《せつせい》には聞取《きゝと》る事《こと》が出來《でき》た。
『精神《せいしん》に異狀《いじやう》があるのでせう。私《わし》は本氣《ほんき》で此樣《こん》な賭《かけ》をする氣《き》になれない。』『いゝえ私《わたし》の見立《みたて》では頭《あたま》は健全《たしか》なものです。矢張《やは》り此船《こゝ》の船員《せんゐん》の判斷《はんだん》よりは犬《いぬ》の嗅覺《きうかく》に重《おも》きを置《お》いてゐるのでせう。賭《かけ》を行《や》るといふなら行《や》つた方《はう》が宜《い》いぢやありませんか。先方《せんぱう》が負《ま》けるに定《きま》つてゐます。又《また》負《ま》けるのが當然《たうぜん》です。』『いや先方《せんぱう》が負《ま》けるに定《きま》つてゐるから、私《わたし》は二の足《あし》を踏《ふ》むのです。斯《か》う結果《さき》が目《め》に見《み》えて居《ゐ》ちや賭《かけ》になりませんからな。兎《と》に角《かく》後《あと》で金《かね》を返《かへ》す事《こと》にして一|番《ばん》驚《おどろ》かしてやらう。』
 此樣《こん》な談話《はなし》の中《うち》にも、獵犬《れふけん》は同《おな》じ姿勢《しせい》をしてゐるから、拙生《せつせい》は尙更《なほさら》氣《き》が强《つよ》くなつて、再《ふたゝ》び賭《かけ》を促《うなが》すと、今度《こんど》は先方《せんぱう》も應《おう》じた。『宜《よろ》しい。』『宜《い》いとも。』が雙方《さうはう》の間《あひだ》に交換《かうくわん》されるかされないに、艫《とも》に繫《つな》いだ短艇《ボート》に乗《の》つて釣《つり》をしてゐた水夫共《すゐふども》が、巨大《おほき》な鯊《ふか》を銛《もり》に掛《か》けた。引上《ひきあ》げて油《あぶら》を取《と》る積《つも》りで切開《きりひら》くと、どうも驚《おどろ》く、此《この》動物《どうぶつ》の胃袋《ゐぶくろ》の中《なか》に生《い》きてる鷓鴣《しやこ》が六|對《つがひ》までゐた。
 彼等《かれら》の胃《ゐ》の腑《ふ》の中《なか》に餘程《よほど》長《なが》い間《あひだ》ゐたと見《み》える。一|羽《は》の牝鳥《めんどり》は卵《たまご》を四個《よつ》抱《だ》いてゐた。尙《な》ほ一つの卵《たまご》は鯊《ふか》を開《ひら》いた時《とき》には丁度《ちやうど》孵《かへ》る所《ところ》であつた。雛鳥《ひなどり》は其《それ》から數分《すうふん》前《まへ》に生《うま》れた猫《ねこ》の子《こ》と一|緖《しよ》にして育《そだ》てた。親猫《おやねこ》は自分《じぶん》の四つ足《あし》の子《こ》と同樣《どうやう》に、別《わ》け隔《へだ》てなく此《この》鳥《とり》の子《こ》を可愛《かはゆ》がつたが、其《それ》が舞上《まひあが》つてナカ〳〵歸《かへ》つて來《こ》ない時《とき》には、見《み》る目《め》も氣《き》の毒《どく》のやうに心配《しんぱい》さうであつた。他《ほか》の牝鳥《めんどり》も絕《た》えず一|羽《は》以上《いじやう》は巢《す》について、船長《せんちやう》の食卓《しよくたく》には鷓鴣《しやこ》の絕《た》える事《こと》がなかつた。拙生《せつせい》はトレイのお蔭《かげ》で美事《みごと》百ギニー儲《まう》けたから、其《そ》のお禮《れい》として彼《かれ》には每日《まいにち》骨《ほね》を振舞《ふるま》ひ、時《とき》には鳥《とり》を總身《まるごと》遣《や》る事《こと》にした。

 月《つき》世界《せかい》旅行《りよかう》談《だん》

 拙生《せつせい》が銀《ぎん》の手斧《てをの》を探《さが》して一|度《ど》月《つき》の世界《せかい》へ行《い》つた事《こと》は、既《すで》に諸君《しよくん》御承知《ごしようち》の通《とほ》りである。其後《そのご》拙生《せつせい》はもつと愉快《ゆくわい》な方法《はうはふ》で再《ふたゝ》び同地《どうち》へ旅行《りよかう》し、姑《しばら》く滯在《たいざい》の間《あひだ》に種々《しゆ〴〵》面白《おもしろ》い觀察《くわんさつ》をした。今《いま》次《つぎ》に其《そ》の槪略《がいりやく》を拙生《せつせい》の記憶《きおく》が許《ゆる》すだけ精確《せいかく》にお話《はなし》して見《み》たい。
 拙生《せつせい》は遠《とほ》い親類《しんるゐ》の者《もの》の依賴《たのみ》によつて、探險《たんけん》航海《かうかい》の途《と》に上《のぼ》つた。其《そ》の親類《しんるゐ》といふのは頗《すこぶ》る妙《めう》な空想《かんがへ》を抱《いだ》いてゐた。彼《かれ》の信《しん》ずる所《ところ》によると、ガリバーの大人國《たいにんこく》にあるやうな巨大《おほき》な人間《にんげん》は必《かなら》ず此《この》世界《せかい》にあるといふのであつた。拙生《せつせい》は自分《じぶん》の意見《いけん》では大人國《たいにんこく》は作《つく》り話《ばなし》だと定《き》めてゐたが、彼《かれ》は拙生《せつせい》に財產《ざいさん》を讓《ゆづ》つてくれたから、其《その》恩《おん》報《ほう》じの爲《た》めに、探險《たんけん》を引受《ひきう》けて南海《なんかい》に向《むか》つた。南海《なんかい》に着《つ》いても別《べつ》に珍奇《ちんき》なものは見當《みあた》らなかつたが、空中《くうちう》に跳背戯《うまとび》や、舞踏《ぶたふ》をしてゐる幾群《いくむれ》かの翼《つばさ》ある男女《だんぢよ》に出會《であ》つた。
 キヤプテン、クックがオマイを連《つ》れ出《だ》したといふオタハイテ島《たう》を過《す》ぎてから十八|日《にち》の後《のち》、暴風《ぼうふう》が起《おこ》つて拙生《せつせい》共《ども》の船《ふね》を少《すくな》くとも海拔《かいばつ》四千リーグの所《ところ》に吹上《ふきあ》げた。拙生《せつせい》共《ども》は當分《たうぶん》其《そ》の高《たか》さに碇《いかり》を下《おろ》してゐると、又《また》も大風《おほかぜ》が吹起《ふきおこ》つて帆《ほ》といふ帆《ほ》を悉《こと〴〵》く孕《はら》ませ、我等《われら》は目《め》の廻《まは》るやうな速力《そくりよく》で旅《たび》を續《つゞ》けた。斯《か》くして進《すゝ》む事《こと》六|週間《しうかん》の後《のち》、竟《つひ》に拙生《せつせい》共《ども》は丸《まる》い光《ひか》つてゐる島《しま》のやうな一|陸地《りくち》を發見《はつけん》した。そこで便利《べんり》のいゝ港《みなと》に入《はい》り、次《つ》いで上陸《じやうりく》し、間《ま》もなく人《ひと》の住《す》むでゐる事《こと》を確《たしか》めた。拙生《せつせい》共《ども》の下《した》には都會《とくわい》山脈《さんみやく》森林《しんりん》川海《かはうみ》等《とう》を持《も》つた地球《ちきう》が見《み》えた。多分《たぶん》拙生《せつせい》共《ども》の後《あと》にして來《き》た此《この》世界《せかい》だらうといふ鑑定《かんてい》であつた。此處《こゝ》で拙生《せつせい》共《ども》は頭《あたま》の三個《みつ》ある非常《ひじやう》に大《おほ》きい禿鷹《はげたか》に乗《の》つた人々《ひと〴〵》を見《み》た。此《この》鳥《とり》の巨大《おほき》さは、翼《つばさ》の片《かた》一方《いつぱう》の幅《はゞ》が拙生《せつせい》共《ども》の乗《の》つてゐた六百|噸《とん》の船《ふね》の大《おほ》帆索《ほづな》の長《なが》さの六|倍《ばい》あると申《まを》したら、大體《だいたい》の見當《けんたう》が付《つ》くだらうと思《おも》ふ。我等《われら》が此《この》世界《せかい》で馬《うま》に乗《の》るやうに、月世界《げつせかい》(既《すで》に拙生《せつせい》共《ども》は知《し》らぬ間《ま》に月世界《げつせかい》に入《はい》つてゐたのである。)の住民《ぢうみん》は皆《みな》此《この》鳥《とり》に乗《の》つて步《ある》く。拙生《せつせい》共《ども》の謁見《えつけん》仰《おほ》せ付《つ》かつた帝王《ていわう》は、當時《たうじ》太陽《たいやう》と戰爭《せんさう》最中《さいちう》で、拙生《せつせい》を是非《ぜひ》司令官《しれいくわん》に任用《にんよう》したいとの仰《おほ》せであつたが、拙生《せつせい》は同伴《つれ》もある事《こと》だし、事情《じじやう》に通《つう》じてゐないから、只管《ひたすら》陛下《へいか》の有難《ありがた》い思召《おぼしめし》を御辭退《ごじたい》申上《まをしあ》げた。月《つき》の世界《せかい》では凡百《すべて》の物《もの》が法外《はふぐわい》に巨大《おほき》い。一|例《れい》を申《まを》せば蚤《のみ》が羊《ひつじ》ぐらゐある。いや、羊《ひつじ》よりも少々《せう〳〵》大《おほ》きからうか。兎《と》に角《かく》其樣《そん》な工合《ぐあひ》だから、他《た》は皆《みな》以《もつ》て類推《るゐすゐ》する事《こと》が出來《でき》るであらう。戰爭《せんさう》に當《あた》つて主《おも》なる武噐《ぶき》は大根《だいこん》である。大根《だいこん》を投槍《なげやり》として用《もち》ゐ、あれで負傷《ふしやう》すると即死《そくし》するといふ話《はなし》だ。彼等《かれら》の楯《たて》は蕈類《きのこるゐ》で出來《でき》てゐる。投槍《なげやり》は大根《だいこん》の無《な》い時節《じせつ》には石刀柏《つまばうど》の先端《さき》の方《はう》を代用《だいよう》するさうだ。此處《こゝ》では天狼星《てんらうせい》の住民《ぢうみん》を見《み》る事《こと》が出來《でき》た。彼等《かれら》は商業《しやうげふ》の民《たみ》で彼地《あつち》此方《こつち》と漂泊《へうはく》する。顏《かほ》は犬《いぬ》に似《に》て眼《め》は鼻《はな》の頂上《てつぺん》にあるが、眼瞼《まぶた》といふものがない。しかし眠《ねむ》る時《とき》には舌《した》を伸《の》ばして眼《め》を塞《ふさ》ぐといふ。身長《みのたけ》普通《ふつう》二十|尺《しやく》、月世界《げつせかい》の住民《ぢうみん》に至《いた》つては尙《な》ほずつと大《おほ》きく、三十六|尺《しやく》以下《いか》は矮小《せいつぴく》の部類《ぶるゐ》に入《はい》る。彼等《かれら》は人間《にんげん》とは呼《よ》ばれてゐない。料理《れうり》動物《どうぶつ》といふ名《な》である。即《すなは》ち動物《どうぶつ》ではあるが、普通《ふつう》の動物《どうぶつ》と異《ことな》つて、我等《われら》のやうに火《ひ》を用《もち》ゐて食物《しよくもつ》を料理《れうり》する。而《しか》も彼等《かれら》は食事《しよくじ》の爲《た》めに時間《じかん》を潰《つぶ》さない。料理《れうり》が濟《す》むと左《ひだり》の腹《はら》を開《ひら》いて一|時《じ》に悉皆《すつかり》塡《つ》め込《こ》み、次《つぎ》の月《つき》の食事《しよくじ》の日《ひ》までは其儘《そのまゝ》固《かた》く閉《と》ぢて置《お》く。彼等《かれら》は年《ねん》に十二|回《くわい》、即《すなは》ち月《つき》に一|度《ど》以上《いじやう》は食事《しよくじ》を取《と》らぬ。大食家《たいしよくか》や食道樂《くひだうらく》を除《のぞ》いては、此《この》方法《はうはふ》が簡便《かんべん》で好《よ》からうと思《おも》ふ。
 此《この》料理《れうり》動物《どうぶつ》には一|性《せい》しかない。彼等《かれら》は皆《みな》木《き》から生《うま》れる。料理《れうり》動物《どうぶつ》を生《う》む木《き》は他《た》の木《き》よりも美《うつく》しい。枝《えだ》が眞直《まつすぐ》で葉《は》は肉色《にくいろ》を帶《お》びてゐるから、一|見《けん》して區別《くべつ》が付《つ》く。實《み》は胡桃《くるみ》の類《るゐ》で、長《なが》さ少《すくな》くとも一ヤードの堅牢《けんらう》な殼《から》の中《なか》に入《はい》つてゐる。熟《じゆく》し始《はじ》めると色《いろ》が變《かは》るから知《し》れる。其《それ》を極《きは》めて丁寧《ていねい》に收穫《しうかく》して、適宜《てきゞ》の時間《じかん》貯《たくは》へて置《お》く。此《この》胡桃《くるみ》の種《たね》を生《い》かさうと思《おも》ふ時《とき》には、湯《ゆ》の煑《に》たぎつた大釜《おほがま》の中《なか》へ投《ほう》り込《こ》む。數時間《すうじかん》茹《う》でると、殼《から》が蜆《しゞみ》のやうに口《くち》を開《あ》いて、中《なか》から料理《れうり》動物《どうぶつ》が飛出《とびだ》す。
 造化《ざうくわ》は眞《まこと》に妙巧《めうこう》で、生《うま》れぬ前《まへ》から彼等《かれら》の心性《しんせい》に從《したが》つて其《その》職業《しよくげふ》を定《き》めて置《お》く。即《すなは》ち第《だい》一の殼《から》からは軍人《ぐんじん》が生《うま》れ、第《だい》二の殼《から》からは哲學者《てつがくしや》が生《うま》れ、第《だい》三の殼《から》からは神《かみ》が生《うま》れ、第《だい》四の殼《から》からは辯護士《べんごし》が生《うま》れ、第《だい》五の殼《から》からは百姓《ひやくしやう》、第《だい》六の殼《から》からは田舎漢《ゐなかもの》、第《だい》七の殼《から》からは盜賊《どろぼう》といふ風《ふう》で、彼等《かれら》は生《うま》れると直《す》ぐに、既《すで》に理論《りろん》で承知《しようち》してゐる所《ところ》を實行《じつかう》に依《よ》つて完成《くわんせい》に取《とり》かゝる。
 年《とし》が寄《よ》つても彼等《かれら》は死《し》なぬ。空氣《くうき》に化《くわ》して煙《けむり》のやうに解《と》けて了《しま》ふ。飮料《いんれう》としては何物《なにもの》も用《もち》ゐない。手《て》には唯《たゞ》一|本《ぽん》の指《ゆび》があるばかり、而《しか》も此《この》指《ゆび》を用《もち》ゐて我等《われら》が五|指《し》を動《うご》かすよりも完全《くわんぜん》な仕事《しごと》をする。彼等《かれら》の頭《あたま》は右《みぎ》の腕《うで》の下《した》にある。旅行《りよかう》をしたり荒《あら》い仕事《しごと》をしたりする時《とき》は、頭《あたま》だけ家《うち》へ置《お》いて來《く》るのが通例《つうれい》である。といふのは遠方《ゑんぱう》にゐても隨時《ずゐじ》頭《あたま》と相談《さうだん》する事《こと》が出來《でき》る、是《これ》は家常《かじやう》茶番《ちやばん》の事《こと》である。若《も》し月人《げつじん》中《ちう》高貴《かうき》の者共《ものども》が平民《へいみん》社會《しやくわい》の出來事《できごと》を知《し》りたいと思《おも》ふ時《とき》には、家《うち》に引籠《ひきこも》つてゐて、頭《あたま》だけを派遣《はけん》する。彼等《かれら》の頭《あたま》は人《ひと》の目《め》につかぬやうに、何處《どこ》にでも居《ゐ》る事《こと》が叶《かな》ふから、充分《じうぶん》事情《じじやう》を觀察《くわんさつ》して歸《かへ》つて來《こ》られる。
 此國《このくに》の葡萄玉《ぶだうだま》は宛然《さながら》雹《へう》のやうである。月《つき》の世界《せかい》に大風《おほかぜ》が起《おこ》つて葡萄《ぶだう》の蔓《つる》を震《ふる》ひ、玉《たま》を落《おと》す時《とき》には、拙生《せつせい》は何時《いつ》も大恐悦《だいきやうえつ》、丁度《ちやうど》人間《にんげん》の世界《せかい》に雹《へう》の降《ふ》るやうな光景《くわうけい》である。所《ところ》で拙生《せつせい》は拙生《せつせい》と同意見《どういけん》の諸君《しよくん》にお勸《すゝ》め致《いた》すが、今度《こんど》雹《へう》の降《ふ》つた時《とき》には貯《たくは》へて置《お》いて、月世界《げつせかい》の葡萄酒《ぶだうしゆ》を造《つく》つて見《み》たら宜《よ》からう。尙《な》ほ重要《じうえう》な見聞《けんぶん》を話《はな》し落《おと》した。其《それ》は料理《れうり》動物《どうぶつ》が我等《われら》が袋《ふくろ》を使《つか》ふやうに腹《はら》を利用《りよう》する事《こと》である。何《なん》でも必要《ひつえう》があると腹《はら》の中《なか》に仕舞《しま》ひ込《こ》む。其《それ》といふのも胃袋《ゐぶくろ》同樣《どうやう》に彼等《かれら》の腹部《ふくぶ》は開閉《かいへい》自在《じざい》なのである。而《しか》して彼等《かれら》の間《あひだ》には内臓病《ないざうびやう》といふものがない。又《また》着物《きもの》は一|切《さい》用《もち》ゐない。丸裸《まるはだか》でゐるけれど、見苦《みぐる》しい所《ところ》とては一|箇所《かしよ》もない。
 彼等《かれら》の眼《まなこ》は自由《じいう》自在《じざい》に取外《とりはづ》しが出來《でき》る。之《これ》を手《て》の先《さき》に付《つ》けても頭《あたま》と同樣《どうやう》に物《もの》を見《み》る事《こと》が出來《でき》る。若《も》し何《なに》かの過失《まちがひ》で眼《め》を失《うしな》つたり損《そん》じたりすると、他人《たにん》から借用《しやくよう》も出來《でき》、買入《かひいれ》も出來《でき》、自分《じぶん》の眼《め》と異《ことな》る所《ところ》なく明瞭《はつきり》と物《もの》を見《み》る事《こと》が出來《でき》る。斯《か》ういふ次第《しだい》だから、月《つき》の世界《せかい》では何《ど》の地方《ちはう》へ行《い》つても目《め》商人《しやうにん》が至《いた》つて多《おほ》い。そして又《また》此《この》品物《しなもの》に限《かぎ》つて流行《はやり》がある。或時《あるとき》は黃眼《くわうがん》が流行《はや》り、或時《あるとき》は綠眼《りよくがん》が流行《はや》る。
 以上《いじやう》の見聞《けんぶん》は諸君《しよくん》には耳新《みゝあたら》しい事《こと》と信《しん》ずる。しかしながら、若《も》しマンチヨーゼン奴《め》、好《い》い加減《かげん》なちやらつぽこを言つてゐる等《など》と疑《うたがひ》を起《おこ》す人《ひと》があるならば、拙生《せつせい》は何《なん》とも言《い》はぬ、唯《だゞ》一|度《ど》彼《か》の地《ち》へ旅行《りよかう》して實地《じつち》踏査《たふさ》をするが宜《い》い。百|聞《ぶん》一|見《けん》に若《し》かずで必《かなら》ずや拙生《せつせい》の言葉《ことば》に懸價《かけね》のない事《こと》が分《わか》るであらう。

法螺男爵旅土產終


明治四十二年三月卅一日印刷    法螺男爵旅土產
明治四十二年四月五日發行      定價金貳拾五錢
            著作者  佐々木邦
  不 許       發行者  山縣文夫
                  東京府下北豐島郡巢鴨町
                  大字上駒込十九番地
  複 製       印刷者  藤本兼吉
                  東京市牛込區市ケ谷加賀町
                  一丁目十二番地
            印刷所  株式會社 秀英舎第一工場
                  東京市牛込區市ケ谷加賀町
                   一丁目十二番地
發行所 東京巢鴨郵便區上駒込山縣邸内    内外出版協会
    電話(長距離加入)下谷四百三十八番
              (振替貯金口座東京三百五十五番)

Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

誤植と思われる箇所は以下の通り訂正した。

原文 世《よ》の常《ねの》(p.21)
訂正 世《よ》の常《つね》
原文 投《とん》じ(p.26)
訂正 投《とう》じ
原文 小枝《こえ》と新芽《だめ》(p.29)
訂正 小枝《こえだ》と新芽《しんめ》
原文  惡戯をした(p. 45)
訂正 惡戯をした。

●文字・フォーマット・その他に関する補足

本文の前に「はしがき」が二頁にわたって書かれていたが、字がかすれて判読できず、割愛せざるをえなかった。
原文の爵の字は「嚼」から「口」をのぞいたもの。
また節の字は「卽」に竹冠。
p. 43 「拙生《せつせい》は或時地中海で……」の段落は一字字下げした。





*** End of this Doctrine Publishing Corporation Digital Book "法螺男爵旅土産" ***

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